私は、1957年12月25日、長崎県諫早市で生まれました。

その少し前に子宮外妊娠で手術をした母は、事故で私を妊娠した際、出産までの経過で自らの健康に支障をきたすことを恐れ、堕胎を決心しました。まだ小さかった私の姉と兄を、母親のいない子にしたくなかったからだそうです。

ところが、その年の7月25日、日頃から水の豊かな諫早は、たいへんな水害に見舞われ、堕胎手術を行うどころの事態ではなくなりました。600人もの犠牲者をだしたこの災害で、私の家族もまた、家も何もかもを失ったのでした。

母がおそれていたとおり、2月に生まれるはずの私は、予定よりずっと早く、母の子宮を破裂させました。そして、母の処置に全力を尽くす医療スタッフの傍らで、仮死状態のまま放って置かれながら、自力で息をふきかえしたのだといいます。多くの犠牲をだした災害が、私の命を、この世界にもたらしたわけです。

おろされるかもしれなかったっていうのにひねくれなかったの、とよく人から聞かれます。いろいろな欠陥のある家庭ではありましたが、家族の愛情に包まれて育ちましたから、ひねくれるどころか、自分はなんと強い運のもとに生まれたのだろうと、また、自分の命には何らかの意味があるのかもしれないと、そう思いながら大きくなりました。健康そのものと評されるくらい、身体も丈夫です。

一方、そうやって生き残った自分が、そのうち死んで、跡形もなく忘れ去られるときが来るということに、耐え難いものを感じていました。そして、せめて生きた証に歴史に残りたいと泣いては、母に笑われていました。この世は、自分を主人公とした読み物であり、誰かがそれを今読んでいるのかもしれない・・・、などとも考えていました。そういう子供でした。

生命とは不思議なものです。誰でも、生まれてきたからには、間違いなく死を迎えます。この生と死こそ、多くの宗教や哲学にたずさわる者たちが求め続けてきた、真理そのものなのだと思います。

去年、母が亡くなりました。ちっちゃくて、明るくて、力いっぱい私たちを育ててくれた母、存在していてあたりまえだった母でした。彼女は歴史に名を残したわけでもないし、まして、私を主人公にした物語の脇役でもありませんでした。私は、生きることと死ぬことを、やはり考え続けねばなりません。

だから、森岡正博さんの生命学プロジェクトに、自分のできる方法で関わっていくことは、私にとって、とても大切なことです。私は、森岡さんの思想に大きな共感を覚えますが、それは、その思想の原動力が、命にたいするやさしさにあると思うからです。森岡さんは、実践の伴わない思想は本当の思想ではないと言います。私もそう思います。実践の伴わないやさしさは、単なるセンチメンタリズムにすぎないでしょう。

このホームページを、私なりの思想の、実践の一部にできたなら・・・、と思います。

フランス語訳については、私ひとりでは難しいので、うちのパパ・ウルス、つまり熊さんが手伝ってくれています。ちなみに、彼の誕生日は、諫早大水害の日、7月25日なのでした。

 

 

                         2002年12月14日  

                                                    正法地 弘子

 

≪日本語の読み物≫

     パパ・ウルスによる、1999年夏の皆既日食に関する記録はKOKOです。

 

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