diary Jan.~Jun.2004
日記
日本人は・・・ベルギー人は・・・といったくくり方はしたくないと思っている。
「日本人」と「外国人」の違いより、「あなた」と「私」の違いの方がずっと大きいと感じるから。というわけで、これはヒロコの日記であって、ベルギー日記ではありません。
12月21日
また明日からクリスマスまで修道院に行って静かに過ごしてくるつもり。クリスマスは、イエス様や狼男、はたまた『ベルサイユのバラ』のオスカルの誕生日であることになっているけれど、私の誕生日であることは間違いのない史実(?)なのである。で、46歳になってしまうらしい。(自分の年も、えーっと・・・と考えないとわからない。これが年をとっていくということか・・・?!)
子供たちが、私へのプレゼントを一生懸命考え中なのが、じわじわっと伝わってくる。気持ちだけでいっぱい嬉しい。
そして、一番欲しいのは静かな時間。
今度訪ねる修道院は、ベルギーのF1が行われるサーキットのあるフランコルションの近くで、一度訪ねたことがあるが、日系ペルー人であるマヌエル・アカミネという修道士がいらっしゃる。ご両親は沖縄からペルーに移民されたとのこと。ベルギーで、日本出身の私と、日系ペルー人マヌエルさんが、スペイン語とフランス語と少しの日本語を混ぜ混ぜで会話するというのもなんとなくおもしろい。とても親切にしてもらった。今回も私たちを楽しみに待っていてくれる。
というわけで、この日記をもって今年は終わりになると思う。
この日記を読んでくださる皆さん、読んでくださってありがとう。
そして、どうかそれぞれに、素晴らしい年末・年始をお迎えくださるようお祈りします。
12月5日
作家の宮内勝典さんのウェブサイト『海亀通信』に、屋久島に住む作家・翻訳家の星川淳さんのメールマガジン経由でたどり着いた。おもしろいので、この数日間、子供たちを学校に送り出したあと、一日のアクションに入る前のちょっと一休み時間に読んでいる。
今朝読んだ中で 、いくつか心に残ったものを記しておきたい。
2000年に書かれたエッセイ〈人生の奇跡〉には、映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を観ての感想が述べられている。宮内さんは言う。私たちは「そんな風に豊かに老いていくことはできそうもない。なぜなら、人生ではなく社会を生きてしまうからだ」と。
人生の奇跡は、人生を生きた人にのみ起こるのだ。
森岡さんの『無痛文明論』に込められたメッセージも、こういう風に要約できるのかもしれないなあと思った。
社会を生きるな、人生を生きよと。
グーテンベルクが活版印刷の技術を発明したゆえのルネッサンスであった、と書かれているエッセイもあった。今は、このネットというテクノロジーが、私たちのルネッサンスを支えている。
昨日ちょっとした仕事で、今はファッションの街として有名なアントワープに行ったが、16世紀頃アントワープは印刷の中心地で、多くの知識人がここに集まったりもした。それで、アントワープには印刷のプランタン博物館がある。
私の住むフランス語圏のワロニアに比べると、アントワープを始めとして、オランダ語圏のフランダース地方はうんと垢抜けている。仕事はモード・ミュージアムにおける特設展示会のフランス語による説明を、訪れた日本人の若者たちに日本語に通訳するというものだった。16・17・18世紀にジェノヴァとアントワープの間で取引された絹、レース、織物、絵画等を、新進ファッション・デザイナー、アンジェロ・フィグス(イタリア人で、アントワープのファッション研究所を主席で卒業したのだそうだ)が、自らのインスピレーションでとてもユニークなエクスポジションに仕上げている。
もうひとつ印象に残ったエッセイは、中学時代の社会科の先生の思い出を語ったもの。宮内さんは鹿児島の港町の出身で、ある時、漁師を父に持つ同級生が、父親の漁に飯炊きとしてかり出される。父親が学校に現れ、うむを言わさずその同級生を連れて行くのだが、私はこのエピソードに、タヴィアーニ兄弟の映画『パードレ・パドローネ』を思い出した。羊飼いの父親が、主人公を学校に迎えにくるところ。むりやり連れて行かれる主人公と、それを見つめる同じクラスの子供たち・・・。
いい映画には、登場人物の生きる人生がしっかり描かれている。
11月29日
今日は映画を観に行ってきた。長女が生まれて以来、映画館まで足を運び観たい映画を観るというのは初めて。しかも、その長女も観たいというので一緒に出かけた。なんというか・・・、感無量。
映画は小さい時から大好きで、彼女が生まれるまでは、二日に一回は観に出かけていたのが、我ながらうそみたいな気がする。
観た映画は『グッドバイ・レーニン』。期待に反せず、とてもよかった。
普通の人たちの生きる哀しみに、笑ったり泣いたり。もしあれがうちの母だったら、うちの兄も同じような努力をしただろうなあ・・・などと、へんな感情移入までしてしまって、涙がいっぱい溢れてきて困ってしまった。
普通のこと、当たり前のことこそ、実はとても大変なことなのだと、最近つくづく思う。
11月26日
もう11月も終わりそう。クリスマスももうすぐ・・・ということは、私は、またひとつ年をとる。
今日は風が強い。葉を落とした庭の木々が、ゆうらゆうらと揺れている。
11月8日
昨日の早朝から今朝まで、病院の小児科病棟で過ごした。長女が、親知らずを抜く簡単な手術を受けなければならなかったためで、私より背も高くなった彼女が小児科病棟というのがなんとなくおかしかった。16歳までは小児科が担当するのだそうだ。
彼女と病室にいると、暖房がききすぎるので開け放したドアの前を、小さな三輪車に乗った2歳くらいの入院中の子供と、それをゴロゴロ押してあげる母親が通っていく。私たちの部屋の前を、何回行ったり来たりしたことか。私もこうやって、うちの娘たちが小さい頃は、はたから見たらご苦労さんとしか思えないことを、よくやったものだ。むだな時間は必要だけど時間のむだはいやだと、いつかこの日記で書いたけれど、こういう自分中心の考え方からいくと、子供にさく時間なんて時間のむだ以外の何ものでもなかったりする。それでも長い目でみると、ちっともむだじゃないのだろう。
私自身の子供時代を思い出す。父が自分勝手な人間だったから、母は、子供の私たちの目から見ても、ずいぶんとひどい目にあっていた。お金もなかった。なにせ水害で何もかも失った上に、父は失業。母が教師として働くかたわら洋裁の内職をして、なんとか暮らすことができていた。一キロのお米を買うのに、10円足りなかったことがあったのを覚えている。それでも特に不足を感じたことはなかった。お菓子やおもちゃなど買う余裕なんてなかったけれど、そんな中で、母が私たちのためにいろんなものを生み出してくれたから。おやつも服もほとんど手作りだったし、夜は障子をつかって影絵のショーなどやってくれた楽しい思い出がいっぱいある。
私たちは日々印象を食べているのだそうだ。たんぱく質とかビタミンだとかみたいに、科学的に物質として明らかにされていないから、そんなものは存在しないみたいだけど。私は栄養たっぷりのとてもおいしい印象を食べて大きくなったと、とても自慢に思っている。
11月2日
昨日が万聖節、近くの墓地まで歩いて、パパ・ウルスの祖父母と三年前に亡くなった父親のお墓に、菊の花をお供えした。そして今日は死者の日。今朝は、町の教会のミサに参加した。
若い頃は反カトリック・反教会で、通っていたイエズス会のコレージュを追い出されそうになったほどだったらしいパパ・ウルス、6年前におばあちゃんが亡くなってから、素行がめっきりおとなしくなった。ミサに行こうと言い出すのだから。
一方、わたしはミサの間中「死」を思う。『無痛文明論』の第七章を読み返しているものだから。
小さい頃、生きた証を残さずに死ぬのがいやだと泣いたのは、その理不尽さに対する悲しさ、悔しさゆえで、死に対する恐怖からではなかったと思う。
想像するだに恐ろしく、考えまいとしていたのは、自分の死ではなく、母の死のことだった。欠陥だらけの家庭を、どうにか支えていたのが母の存在だったから。
「母の死」は体験されうるもので、「私の死」は体験されない。
そして自分が母親となった今は「子供の死」を恐れている。
さらに考える。特に意識しないままに、私は神様や霊やら、そういう世界を信じているのだと思う。
いや、信じているというより、知っていると言った方がまだ近いのかもしれない。
ああ、なんだか支離滅裂。もう少しじっくり日本語にして、読書のページに近いうちにアップしたい。
10月24日
今、すごく腹を立てている。自分でもびっくりするくらい、かっかしている。
昨日、長女が歯医者をたずねる用があったので、彼女の学校のあと一緒にそれをすませたら、帰宅が午後五時半をまわってしまった。夕食の下ごしらえは済ませていたけど、作り上げないといけない。一方、天気予報が最低気温マイナス五度と知らせていたので、野菜が凍りつかないように、暗くなる前に畑にシートもかぶせなければいけなかった。それを、パパ・ウルスに頼んだ。そうして、食事の用意を始めた。
ところが、今朝畑に出ると、かぶせてもらったはずのシートがない。そして、白菜がかちんこちんに凍っているではないか。パパ・ウルスのやつ、やってくれていないのだ!!!!
ムカムカムカッと、むちゃくちゃ腹が立ってきた。なんでやってくれないのだと怒鳴ると、私の頼んだ声が聞こえていなかったと言うではないか。
許せないと思う。そして、白菜がかわいそうでならない。くやしい。
数時間経過。ようやく気持ちが落ち着いてきた。それにしても、なんであんなにかっかときたのか、それを考えているところ。
10月23日
今日は寒い。ものすごく冷たい風が吹いていて、本当に寒い。
本物の冬の到来にはまだ少し間があるけれど、暗い冬は、もうそこまで来ている。
ああ、いやだあああ・・・。逃げ出したいくらい。
ベルギーで暮らし始めた最初の数年は、これほど冬が苦痛ではなかった。まだ慣れていなかったからだと思う。でも、ここ数年、夏至のころにはもう、またこれから日が短くなっていくのだ・・・と、うんざりし始める。
冬の寒さは、まだ我慢できる。辛いのは、冬の暗さ。人間って光が必要なものなのだ、植物と同じ。暗くなると、自分のエネルギー量がガクンと低下する感じがして、抑うつ気分になる。
ルノワールだったか、誰だったか忘れたけれど、冬はペストだと忌み嫌い、けっして冬を描かなかったフランスの画家がいたと思う。よくわかる、その気持ち。
森岡さんの『無痛文明論』を、かみしめながら一生懸命読んでいる。
時々、ピピッと何か頭に浮かんだりするので、それをメモしたり、なかなか前に進めない。
この本のユニークなところは、作者が言わんとしていることに対して、「そうだ、そうだ」という同調などを、全く求めていないところだと思う。
うまく表現できないけど、この本の「私」の叫びに耳を傾けたあとは、今度は静かに自分の中の「私」の声に耳を傾け、黙々と自分の生命を生きていくのみ・・・という感じ。
同調の声などをあげると、その声は、やはり無痛奔流のような怪物の姿を呈して、私たちを呑み込みにかかってくるだろうから。
10月13日
この週末、久しぶりに修道院で過ごした。この13日は母の、14日は義父の命日ということもあって、少し静かに過ごそうというパパ・ウルスの提案。
修道生活の基本は、祈ることと働くこと。
そういえば、私の日常の生活、修道生活に似てるかも・・・。私はクリスチャンじゃないから、祈ることはしないけど、考えることが祈りに匹敵してるみたいだし、朝起きてから夕食の後片付けまで、肉体労働のみ。
そういう意味では、修道院で何泊かさせてもらうことこそ、本物のヴァカンスみたい。修道士たちのお祈りに参加させてもらうことももちろん可能だけど、けっして強制ではない。朝ごはん、昼ごはん、おやつ、夕食をいただいた上に、静かな環境で本を読んだり、美しい庭を散歩したり・・・。ころころに太った野ねずみや、栗ひろいのリスに出会ったりで、とても幸せなきもちになる。それに、修道士たちも、当然ながらキャラクターも様々で、とてもおもしろい。
修道院は、牧場や農場、果樹園などを所有していて、自家製のバターやチーズ、それにビールなども出してくれる。今回泊まった修道院も、ビールの生産でとても有名。(ベルギーでは800種類以上のビールが生産されていて、その中でトラピスト・ビールと呼ばれるものが7種類ある。今回の修道院もそのひとつ。もし興味があったら、スクールモン修道院とトラピスト・ビールをクリックしてみてください。)
9月22日
先日、森岡さんのサイトからリンクして、加藤哲郎氏のネチズン・カレッジを開いてみた。森岡さんが書かれているとおり、ものすごいパワー。それに、とてもおもしろい。毎日はまって読んでいる。
森岡さんが書かれたもので、『脳死の人』の第一章と第五章、それと『ある哲学者の内面構造』を仏訳しようと、ずいぶん前からちょこちょこいじっているものの、なかなかアップするに至らず、家事に追われ、畑仕事に追われ・・・と自分で自分に言い訳している。でも、こういうすごいサイトを見ると、つくづく単なる自分の怠慢にすぎないと反省させられる。(もちろん能力の差は大きいけれど。)
ネチズン・カレッジのメキシコ便りを読んで、とても懐かしい思いがした。フリーダ・カーロの家とトロツキーの家、何回足を運んだことだろう。フリーダ・カーロの家みたいな家に住みたいと、ずーっと思っている。いつか実現できたらいいな・・・。トロツキーの家、暗殺者に怯えた亡命者の暮らしというものが迫ってくる。見張り塔に梯子で登ると、昔は川だったリオ・チュルブスコという大きな自動車道が見下ろせた。安全のために、川を背にした家に暮らしたわけだ。
リオはスペイン語で川の意味。リオという名のつく道はこの他にもたくさんあって、その昔は全部運河だった。街中に運河が流れていたわけで、それはアステカ文明のなごり。エルナン・コルテスたちが初めてアステカ文明の地にたどり着いた時の驚きは、いったいどんなものだっただろう。タイム・マシンでもあれば、私もこの目で当時のメキシコ・シティーを見てみたいものだ。きっと、信じられない美しさだったことだろう。
9月17日
昨日、夕食の用意を終え、みんなでテーブルについて、いつものように義母に「ごはん」と知らせても、ちっとも部屋から出て来ない。2~3分待っても返事もしないので、おかしいと思って部屋に入ってみると、座った姿勢でそのまま枕にうつぶせになっている。ベッドに座ってテレビを見ながら、そのまま意識を失ったらしい。驚いて声をかけても反応がない。急いで彼女のかかりつけの医者に電話したけど、留守番電話。それで、救急車を呼んだりしているうちに、ようやく意識が戻ってきたらしく、少し反応を示し始めた。救急車を呼んだと言うと、「私はなんともない。」と怒り出した。意識を失ったという意識がないのだから、当たり前と言えば当たり前。そうこうしているうちに、救急車が到着。係員の人にも、「ちょっと昼食が消化できないままで、気分がわるいだけ。」と言い張る。「マダム、消化不良で意識を失うことはありません。」と一言のもと、病院に運ばれた。
今朝はもう普通にしていたけれど、検査だなんだと、しばらく入院することになると思う。
9月15日
毎年この時期、ベルギーのフランス語圏(オランダ語圏については知りません。ごめんなさい。)とフランス、ブリュッセルでは、journιes du patrimoine という行事がある。国民財産の日とでも訳せるのかな。
あらゆる博物館、美術館、城をはじめ歴史的建造物など、ありとあらゆる文化施設が、無料で公開される。普段は入れないところでも、この機会にはガイドつきで入れたり、とてもおもしろい。
ブリュッセルとフランスは来週の週末に予定されているが、その他のところでは、一昨日と昨日開催された。
ケチケチの我々親子5人、毎年この催しをフル活用している。とはいえ、ここのところ年のせいかやや疲れの見えるパパ・ウルスと私、私たちの住むモンス地区をいくつか訪ねたのみ。
まずモンスの街の市庁舎の鐘楼(モンスには鐘楼がふたつあり、もうひとつは修復中で登れません、残念だけど。)に登って街を見渡した。ナチ占領当時、彼ら自身も警報として使っていたために、14世紀末に作られた800キロの鐘は持ち去られることもなかったとのこと。(1837年8月にモンスに立ち寄ったヴィクトール・ユーゴーの妻にあてた手紙が、現在修復している方の鐘楼のデッサンとともにここで見れます。手紙の朗読も聴けます。)
モンスの街からクエムというところに向かうと、牧師だった頃のヴィンセント・ヴァン・ゴッホがしばらく暮らした家がある。現在は博物館。湿地帯に建っていたために完全に廃墟と化していたものを、1972年から修復が始まり、1975年の落成式には弟テオの息子、孫、ひ孫も参加している。
このあたりは炭鉱で栄えたところ。炭鉱労働者は、子供に至るまで、劣悪な環境の中で仕事していたわけで、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、彼らの生活ぶりを見て抑うつ気分におちいり、最後までその気分から抜け出せなかったという。
ここで暮らした彼は、いくつかのデッサンをのこしたのみ。そして、牧師から画家へと、彼の人生が転換していくことになる。
9月7日
テニスUSオープンの女子決勝は、またベルギー人のふたり、キムとジュスティーヌの戦いとなった。今新聞をみたら、ジュスティーヌがキムを下し優勝したらしい。ベルギーという国は、それほどスポーツで目立つわけでもないし、小さい国だから、こうやって世界ランキングの一位と二位を占める状況というのは、信じられない快挙だ。
ジュスティーヌは仏語圏のアルデンヌ出身、キムはオランダ語圏のフランダース出身。
小さい頃から遠征をともにしており、とても仲良しらしい。
キムはプロのサッカー選手の家庭に育ち、彼女の妹もテニス選手。
一方ジュスティーヌは、普通の家庭に生まれた。母親が亡くなると、まだ幼かった長女の彼女が、母親のかわりにきょうだいたちの面倒をみることになったそうだ。そのうち父親が、彼女に妻の役割すら求め始め、彼女は叔母のもとに逃れる。今の彼女の夫とは、17歳の時から生活をともにしており、彼女のコーチは、ずっと以前から契約も何もなしで、彼女を育てサポートしているのだという。
この二人の選手がテニス界でともに頭角を現し始めた頃、キムは見るからに垢抜けていて国際選手の風格を備えているのに対し、なんだかジュスティーヌは今ひとつどんくさいなあ・・・、などと思っていた。
最近生い立ちを知り、なるほどと思った。
今時、華やかなプロ・スポーツの世界で、ジュステーィヌのような選手は珍しいのではないだろうか。
私は特にスポーツ大好きというわけではないけれど、このテニス界のふたり、特にジュスティーヌには、がんばってほしいなあと思っている。
9月4日
子供たちの新学期がスタート。
脳みそが爆発しそうなくらいのストレスの時期だ。
私たちの理想にかなう完璧な学校などないし、教師とて人間、気があうとも限らないし、欠点や失敗があるのも当たり前。学校が果たすべきことと、家庭が果たすべきこともそれぞれだし。
と、それにしても、毎年、これだけは譲れないという点がでてくる。
それで学校長に意見を言いに行く。これが私たちだけなのだ。
きっとみんな、仕方ないと思って放っておくか、子供がいやな思いをしないようにと我慢するか、何にも考えないかなのだろう。
たしかに子供たちにも大変なストレス。なんでうちの親は・・・と、毎回あきれていることだろう。
でも、私らにとっても、まあいいやと思って放っておく方がラクにきまっているのよね。
8月30日
あんなに暑い日が続いていたのがうそのように、すっかり涼しくなった。
こうやって、いつもポトンと夏は終わってしまう。
そして、ヴァカンスも終わり。
8月28日
昨日は火星大接近の日。
3週間くらい前、自分の持ち物の片付けをしていたら、メキシコにいた頃いつも一緒に映画を観に行っていた友達、カルロスが、12年前に書き送ってくれた手紙が出てきた。
とても懐かしく思って読み返すと、近況を知らせる長い便りの終わりに、「ハガキ一枚でも、ほんの一言でもいいから便りをするように。連絡を途絶えさせることはしないでね。」と書いてある。ああ、なんてこと・・・。
それで、メキシコの彼の実家の住所に手紙を送った。
そしたら数日前、このサイトの掲示板に彼のメッセージを見つけた。
手紙が彼の実家に届き、今アメリカで暮らしている彼に、彼の妹が電話で読んで伝えたのだそうだ。
言葉で表せないくらい嬉しい。本当に嬉しい。
8月22日
一月程前、姉がデジタル・カメラを購入。時々写真を送ってくれる。
このお盆の家族の写真。
父は母の死がちっともわかってないらしい。そういうのって、泣けてしまう・・・。
兄と父
父と姉
そして、長崎の原爆祈念館に納まった母
8月20日
エリュアールの「Libertι(自由)」という詩が大好きだ。
私も、私の同世代の多くの例にもれず、マンガで育ったようなもの。絵を描くのがけっこう得意だったので、かなり大きくなるまで、本気でマンガ家になりたいとすら思っていた。たくさんのいいマンガに出会ったと思う。
大島弓子は大好きなマンガ家のひとりで、彼女の作品のひとつに、このエリュアールの詩が引用されていた。とても気に入り、書き写して勉強机のそばの壁に、ずいぶん長い間貼り付けていた。
それが今は原文で読めてしまう。初めて原文で読んだときは、本当に感動した。
今も、ベッドに入る前に、たまにその詩集を開く。
森岡さんの生命学ネットワークにかかわるようになって、何でも生命学の視点から眺める癖がついた。そうやって「自由」を読み返すと、エリュアールの生命世界への愛と、孤独の自覚が伝わってくるみたい。
あらためて、いい詩だなあと思う。
8月18日
雨が降るので、洗濯ができない。でも、庭仕事もできないので、PCに向かっている。猛暑のおかげでたくさん咲いていた実になるかぼちゃの花が、一昨日から涼しくなったため、すっかり元気がなくなってきた。枯れないでねと、花にお願いするほか何もできない。日本は冷夏だとのこと。農家は大変だろうなあ。九州で育ったので、小さいときには、宮澤賢治の詩、雨ニモマケズの中の寒さの夏はおろおろ歩きの意味がわからなかった。今はとてもよくわかる。
8月15日
うちの洗濯機、もう数年前に故障して、全自動だったのが全手動になってしまった。放っておくと、いつまでも同じ作業を続けるので、頃合を見計らって手でダイヤルを進めてあげないといけない。それさえしてあげれば、やるべきことはきちんとこなしてくれるし、とても処分する気にはなれない。
洗濯が終わるまでそばにいてあげないといけないものだから、「早く買い換えればいいのに・・・。時間のむだでしょ。」と、よく人に言われる。ところが、私にしてみれば、ちっとも時間のムダではない。でも、ムダな時間ではあるかもしれない。
時間のムダはいやだけど、ムダな時間は、人間誰しも必要だと思う。洗濯が終わるまで、本を読んだり、ボーっと考え事をしたり、思いついたことを書き留めたりして過ごす。
ちなみに、この日記も洗濯の間に書いている。
8月11日
異常に暑い日が続く中、普通なら必要ないので、クーラーどころか扇風機もない生活をしている私たちは、庭で夕涼みをする。夏至を過ぎて二ヶ月近くたち、日が随分短くなってきたのが感じられる。
昨日の夕方、10日間のヨット体験のため長女のイツァナが南仏へ出発した。(というと豪華な印象を与えると思うけど、健保組合主催の旅行、参加費用は、往復交通費、宿泊費、食費全部込みで、びっくりするくらい安い。)その見送りにでかけたので、夕食の後片付けがすっかり遅くなってしまい、夕暮れ時にガチャガチャ食器を洗っていると、庭に出ていた下の娘たちが、「お月さまがすごくきれいよ、ママ、早く来て。」と呼びにきた。あんまりせかすので、ほいほいと一緒に外に出てみると、確かにお月さまが美しい。畑の向こうに二本並んで立っている樫の木の陰に、ピンクがかったオレンジ色の大きなお月さま。そのまま子供たちと庭の椅子に腰をかけ、こうもりが2匹、せわしなく飛びまわる中、お月さまが樫の木のずーっと上まで上って、白っぽい黄色になり、近くに火星が見え始まるまで過ごした。
8月9日
長崎に原爆が落とされた日。
原爆死没者名簿に納められた名前は、今年で13万1885人になったそうだけど、去年から私の母もそのうちの一人。
8月6日
先日、アサヒ・コムのコラムで、スベリヒユのことを知った。畑の雑草で食用になるという。うちの畑にいっぱい生えてるヤツに似てると思い、さっそく植物図鑑で調べてみた。フランス語ではpourpierという。同居している義母に尋ねると、そういえば一昔前はポタージュにしたり、ラタトィーユにして食べたものだと懐かしそう。インターネットで検索して調べると、忘れられた野菜という見出しで詳しく説明されていた。ビタミンCと各種ミネラルが豊富とのこと。かじってみると、茎はすっぱい味がする。煮ても、生でも食べられるし、乾燥させてお茶にしてもいいそうだ。まずはおひたしにして、ゴマ味噌で和えてみた。ご飯のおかずにけっこういける。つぎに、生でサラダにしてみた。ここのところ暑い日が続くので、なかなかさわやか。今朝は乾燥させるためにたくさん集めた。今度はお茶でも試してみよう。
8月3日
今年の夏は、というより春から、このあたりには珍しい良い天候が続いている。時々雨も降るので、旱魃というほどでもなく、うちの畑は豊作だ。ここのところは毎朝、日差しが強くなる前に、サラダ用のかぼちゃの花とレタスを摘み、十分に大きくなったサヤインゲンを集めるというのが日課になっている。オクラの花が次々に咲き始め、とても美しい。
ああでも、そうこうしているうちに、夏のバカンスも半分が過ぎてしまった。家の修理や改良の作業は、まだまだいっぱいたまっているのに、時間ばかりがどんどん流れていく・・・、とほほ・・・。
夏は音楽フェスティバルの季節。その場でキャンプしながら、数日間ジャズやサルサに浸って過ごすのは、とても気持ちいい。今年は泊り込みはしないで出かけましょ、というので、昨日はアルデンヌのフロレフ修道院を会場に開かれている 世界音楽フェスティバルを、一日だけ楽しんできた。キューバのブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブの若手(!)ミュージシャン、57歳のイリアデス・オチョア率いるバンドの音楽に合わせ、修道院の中庭を埋め尽くす数千人の人々は、子供から老人まで踊ってはしゃいで夜中まで大騒ぎ。踊るパパ・ウルスは、アニメの『ジャングル・ブック』のバルーを髣髴とさせたのであった・・・。
キューバといえば、コンパイ・セグンドが亡くなった。その2~3日後にはセリア・クルスも逝ってしまった。こうやって、20世紀を生きた人々がひとりずつ去っていく。さみしい。
diary Jan.~Jun.2004