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diary 2003

July~2004

 

日記

 

日本人は・・・ベルギー人は・・・といったくくり方はしたくないと思っている。

「日本人」と「外国人」の違いより、「あなた」と「私」の違いの方がずっと大きいと感じるから。というわけで、これはヒロコの日記であって、ベルギー日記ではありません。

 

6月30日

 

PCの調子がとても悪くて、ファイルをバック・アップしたうえでインストールをやり直した。毎度のこととはいえ、めんどうくさいことこのうえなし・・・。PCは家族全員共有で使うので、メールをチェックしたり、読みたい記事を読んだりしているうちに、自分の持ち時間(?)もなくなっちゃうし・・・。

ようやくバック・アップしておいたファイルを再びアップし直したので、久しぶりに日記を書いてみよう。

 

世の中はヴァカンス、たとえ自分はヴァカンスに入っていなくとも、ヴァカンス“気分”にはしっかり入り込むので、これから2ヶ月、何事も動かない時期になる。そして、9月になると、ヴァカンス気分を払拭し、それまで動かなかったことを動かし始めようとするけど、まあ、それもぼちぼちという感じで、なんとかリズムが出てくるかなという頃になると、またヴァカンスがやってくるわけで・・・。

 

森岡さんの生命学ホームページの掲示板やおしょうさんの山寺茶室でおなじみの、葉っぱ64さんこと栗山光司さんに教えていただいて、オンライン書店bk1に書評を送り始めたら、書評の鉄人に選ばれてしまったので、読書のページにバナーをはりつけてしまった。本当は、おすすめ書評に選ばれて、ポイントを獲得、本を手に入れようという下心で始めたことなのだけど、いきなり名誉を得てしまって・・・。それにしても、いろんな方の書評、おもしろい。本好きの人ってたくさんいるんだなあと、嬉しくなってしまう。鉄人のリストを見ると150人以上はいそうなのだけど、バナーのシリアル・ナンバーを見ると私は73号。きっとバナーを希望しない方もいらっしゃるのだろう。ところで、なつかしの鉄人28号はどなたでしょうか。

 

 

 

6月7日

 

5月末に友人のご主人が亡くなった。

去年の6月に胆のう癌だとわかり、即手術、経過はいいと聞いていたので驚いた。

本当に驚いた。

残された彼女にしても、まだ夢をみているような感じではないだろうか・・・。

 

一方、日本のニュースは痛ましいものばかり。

 

戦争も続いている。

 

 

昨日は真夏の天気で、一日中庭仕事。

新たな種まきをして、雑草を取り、ジャングル化したところの手入れをした。

茨が伸び放題だったので刈ったけれど、長いものでは5cmはある鋭いとげを見ながら、こんなもので拷問されたらたまらないだろうなあと思った。

でもその茨を刈り取ってみると、その下には野いちごがそろそろ実をつけていて、そばには木いちごも実をつけそうな気配。自然の恵み。

イラクサにちかちかやられながら、童話『白鳥の王子』を思い出したりもした。

私の人生で最初に買ってもらった絵本がこれだった。兄たちにかけられた魔女の魔法をとくために、何も言わずにイラクサを編む王女のお話。

チクチクするのはヒスタミンのせいだそうで、アレルギーを治すホメオパティーに使われるのもそのためなのだ。このあたりでは、イラクサにちかちかやられると、血がきれいになるともいわれる。見た感じは青シソに似ているので、チッチがもっと小さかった時、庭に植えた青シソをイラクサと思い込んだ彼女、手袋をはめて全部引っこ抜いてしまったことがある。

私は食べたことはないけれど、まだ小さい頃はやわらかくて食すると美味だそうだ。成長すると繊維がすごいので食べるのには不向きだけれど、一昔前はその繊維で織物を作ったりもしていたらしい。私は刈り取って水を加えて密封する。腐らせたあとの汁が、害虫駆除と自然肥料として使えるから。

 

お日さまのおかげで、暗い気持ちが慰められた1日だった。

そして今日もいい天気。

 

5月29日

 

パパ・ウルスの目に異常事態発生。

 

5月は祭日が多い。先日も4連休で、パパ・ウルスが友達と天文観測のためにプロヴァンスに出かけた。

家族で出かけるときは、高速道路はよほどのことがないと利用しない。高速でただひたすら、他の車と抜きつ抜かれつ前進するというのが、とても耐えられないからで、ふつうの道路をとって、あちらこちら寄り道しながら前進していくのだ。そういうペースだと、プロヴァンスは2日かけて到着する距離。

でも、同行した友達ふたりは仕事があるのと若いのとで、わずかな時間で移動することを希望、パパ・ウルスは道中の睡眠不足とストレスで、うちに戻ってきたときはへとへとになっていた。

 

たぶん、それが直接の原因だと思う。帰宅翌日から、視覚異常を訴え始めた。左側の目の視野の真ん中にしみがあり、黄色っぽいフィルターを通したように色がついていて、物のかたちがゆがんで見える・・・。で、昨日専門医に診てもらったら、左目の網膜に小さな穴があいて、そこから入り込む浸出液で、網膜に映る像に異常が見られるのだそうだ。

 

その穴の位置によってはレーザーで治療できるらしいし、それに、数ヶ月かかるとはいえ、自然治癒もするらしく、まあ、本人がおびえた最悪の事態は避けられそう。

 

それにしても、もう若くない、無理は禁物と確認。

彼は13年前の夏にインドネシアにでかけて戻ってから、マラリアを発病、死にかけてことがある。今でもそれがまたぶりかえしたら、1日か2日かで死んでしまうことになるのだ。

 

ところで、プロヴァンス、観光施設だらけで、もうそこは見せかけだけのプロヴァンスになってしまったと、今回しみじみ嘆いていた。本物の生活がなくなりつつあるのだ。

 

いつも観光シーズンをはずして家族で出かけていたけれど、子供たちが学校に行き始めると、そういう旅行もだんだん難しくなってしまって、もう長いこと訪ねていない・・・。

 

 

5月10日

 

最近いろいろ考えることがあって、どうしても仏語訳をする気持ちに向かわない・・・。

森岡さん、ごめんなさい。

 

ところで、歩いているヘルマン。

出発から8日後、200kmを越えた地点で投函してくれたハガキが届いたのが1週間ほど前、そして、ドルドーニュ川の流れる近く、ロカマドゥールではネットに触れる機会があったらしく、300kmを越えたよ、とのメールを送ってくれました。

そして今日は、そのロカマドゥールで投函してくれたハガキも届きました。

古くからサンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼の通り道であったロカマドゥール、ここの教会にある12世紀のマリア像は、私が今まで見たマリア像の中で一番美しい。

日本の飛鳥時代の百済観音像みたいです。

 

 

 

4月23日

 

シャルロットとチッチ

 

うちの末っ子チッチ(右側)と、彼女の一番仲良しのシャルロット・ゴンザレス。

このふたり、生年月日まで同じ。

シャルロットのパパはチリ人で、子供のとき両親・兄弟とともに、ピノチェトのクーデターを逃れてベルギーにやってきたのだった。

シャルロットの方が、うちの子よりよっぽど日本人に近い顔をしてるみたい。

 

ベルギーの学校は、大きくわけると、コミューンの学校とカトリック系の自由学校の二種類がある。どちらも無料だけど、学校経営上、コミューンからの財政援助の少ない自由学校は、資金調達のために学園祭を開き、飲み物・食べ物を売ることで収入をはかる。

子供たちが歌ったり踊ったりするのを観ながら、家族はビールやワインを飲みながら食事をするのだ。

この習慣、私にはなんともいえず不快で、最初のころずいぶん抵抗を感じた。

先生たちにしても出し物を考えるのがたいへんらしく、うちの子供の通う学校では、何年かに一度、子供たちに出し物自由の参加をつのって、優勝者を決めるコンクールを行う。

で、今年がその“出し物自由年”だった。先生たちも驚くほどの参加希望者で、行事は午後7時から夜中まで続き、私は正直なところげんなりしてしまった。

とは言え、チッチとシャルロットのふたり組みが優勝。

今流行りのアイドル歌手のモノマネで、くりくり踊る子供たちがほとんどだったところ、このふたりの振り付けはメッセージがこめられていて、それが評価されたのだった。

 

うちの他のふたりの娘たち、

「チッチはよく人前であんなことできるよねえ・・・」

とあきれている。

私もそう思う。

でも、よかったね、おめでとう!

 

 

4月21日

 

今日の早朝、ヘルマンが歩き始めたはず。

今朝パパ・ウルスが居間に、彼の無事を祈ってろうそくをともした。

 

 

4月14日

 

ワヴルモン修道院で聖週間を過ごしてきた。

いつものとおり、静かで暖かくて、本物の骨休み・心の洗濯。

 

実家に戻る感じに似てるけれど、クリスチアンじゃない私には、“少し遠くに住んでいるやさしい義父母のところに遠慮がちに寄せてもらうお嫁さん”という雰囲気に近いかもね。

あまりにも居心地がいいので長居したくなるけど、自分の家じゃないから、えいっと腰をあげないといけない。私を母と慕うネコも待っているし・・・。

 

この“実家”に集う“義兄姉”との出会いも楽しい。いろんな修道院に泊まった経験のある人がたくさんで、みんなワヴルモンが一番と口をそろえる。修道士たちがみなオープン・マインディッドだからだ。

 

もう何回も会うヘルマン。

ルーヴァンに暮らすソシアル・ワーカーで、週末には街角で道化をやる大道芸人でもある。

今回は、半年の休みをとって贅沢するんだととても嬉しそうだった。今月の21日から、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラへ、徒歩の巡礼に出発するのだ。

無事な道中でありますように。

 

今回初めて会ったシスター・コレット、小柄で細くて白髪なのだけど、きらきら光る目を見ると、おてんばさんだとわかっちゃう。

パリの五月革命では街頭をねり歩いた、68年の若者だったのだ。

2年前から、ニジェールの貧しいコミュニティーで暮らしている。

その前には5年間、ジプシーのグループと暮らしていたのだそうだ。そのジプシーたちと共にやってきて、ワヴルモン修道院で数日間、修道士たちの世話になったこともあるという。

彼女の明るい笑顔を見ていると、ああ、こういう風に年をとりたいなあと思う。

 

教会のミサでは、うちの3人娘が、オルガニストのやさしいやさしいフレール・エチエンヌの伴奏で、チェロとヴァイオリンを演奏した。

顔を見ただけで、こっちまでソフトな気持ちになってしまうフレール・エチエンヌ、おこったりカッカしたことなんて1回もないんじゃないか思わせるこんなやさしい人が、もしおこったら怖いだろうなあ、などと馬鹿なことを考えてしまう。

うちの子供たち、天才じゃないから、演奏のできはまあまあというところだったのだけど、後でみんなが彼女たちに心からの感謝を示してくれた。

それで、彼女たちは感謝されたことに深く感動していた。

とてもよかったと思う。ありがたいなあと思う。

 

予定通りに、帰りにアーヘンに寄ってきた。

デューラーが描いた古いカテドラルはそのままの姿だったけれど、484年前に比べると、スペースはほとんど他の建物や自動車や人間で埋め尽くされていた。

 

さあ、骨休みもしたし、また動かないといけない。

畑に蒔いた種たちがいっせいに芽を出していた。

りんごの木もプルーンの木もつぼみをつけている。

チューリップも咲きほころんで、春満開!!

 

 

4月7日

 

明日からまた数日間、アルデンヌのワヴルモン修道院でお世話になる。

私には、これ以上の骨休みはないというくらいの最高のヴァカンスだ。

前この日記にも書いたワヴルモンの修道士、日系二世ペルー人のマヌエル・アカミネさんが、今年の6月からサバティック休暇をとり日本へ行かれるそうだ。

初めて訪ねる日本、ご両親から聞かされた日本とずいぶん違っていることだろう。

なんだかとても心配・・・。

 

今回は修道院からの帰り道に、ドイツのアーヘン(フランス語名はエグスラシャペル=Aix-la-Chpelle)に立ち寄るつもりだ。

スペインの王でもあったカルロス5世が、父方の祖父のマキシミリアンの後を継いで、神聖ローマ帝国の皇帝となったときの戴冠式が、アーヘンのカテドラルで行われている。

(ちなみに、このカルロス5世は、母方の祖父母がスペインのカトリック王フェルジナンドとカトリック女王イザベルなので、スペインの王を継いだのだけど、ゲントで生まれメヘレンで育った人だ。)

私の大好きな画家のデューラーも、その戴冠式には参列しており、当時のカテドラルを描いている。

手元の画集を持っていって、今の様子と比べてみたいと思う。

 

デューラーは、現在のオランダ・ベルギーにあたるネーデルランド、つまり低地帯を、たしか2度訪れているが、そのうちの1回が、マキシミリアンが皇帝として約束した年金の支払いを、マキシミリアン没後もなされように、カルロス5世にお願いするのが目的だったらしい。そのときはゲントの聖バーフ教会に立ち寄り、ファン・アイクによる祭壇画『神秘の子羊』を観ている。

その時に教会内部で描いたというライオンのデッサンが残っているけれど、教会の中でライオンが飼われていたなんて、すごくおもしろいと思う。

デューラーの画集を見ると、ウサギ、木々、雑草なども描いている。彼はいつも、自然をよく観察しなさい、全てがそこにあると言っていたという。そして、馬鹿みたいかもしれないけれど、彼の描いた植物や木々が、私が今、目にし、手に取る木々や植物と全く同じだということに、嬉しくてたまらなくなるのだった。

 

4月3日

 

もう4月に入ってしまった。

仏訳のアップロード、今年はスピードアップを図るはずが、なんだかもの思いにふけりすぎてしまって、何もはかどっていない。

そうこうしているうちに、本格的に春。

畑の方は第一回目の種まきも無事終え、これについては充実感たっぷり。

 

去年の9月から、長女が音楽アカデミーでエレクトロ・アコースティックの授業を受けている。昨夜そのコンサートがあり、家族そろって出かけたのだけど、そのコースの最年長10年生ふたりが、10分くらいの作品をふたつずつ、そして先生が、15分くらいの自身の作品をひとつ披露してくれた。

アカデミーのそばのチャペルの中で、四方八方にスピーカーを配置し、そのスピーカーに囲まれた私たち聴衆は、不思議な音の世界を味わったのだった。

私はこの分野にはまったく無知だったのだけど、すっかり気に入ってしまった。

いろんな音を集めて、変化させたり、組み合わせたりのコンポジション。

まるで彫刻作品か建築作品みたいとも思えるし、演劇か映画みたいでもあるし、文学でもあるみたいだし・・・。

聞きっぱなしじゃあいられなくて、聞き手の注意を否応なしに喚起する。

長女もそのうち、こういうおもしろい作品を仕上げるのかと思うと、すごく楽しみでしょうがない。

 

 

3月12日

 

次女のアクナがピアノをやめたいと言う。少し前のこの日記に、継続は力だと書いたばかりなのだけど・・・。

音楽アカデミーで楽器のコースをとれるのは7歳から。最初に彼女を入学させたとき、バイオリンを習いたいというのが本人の意思だったのだけど、ピアノは基礎になるだろうと、私たち親が、ピアノも強制したかたちになった。

こういう身体でおぼえることは、ある程度の時間をかけないと、いったん中断した後また始めるというのは難しいだろうと思う。そう言って聞かせていたので、本人も今日までがんばってきたのだろうけど。

先生を代えてみようかと提案したけど、先生の問題じゃないと言う。

 

3人娘をみていると、同じ親から生まれていても、当然ながらひとりひとり全く違う。

長女は黙ってひとりでなんでもする。何にも口出ししなくていいのだけど、その分冷たい感じがして、父親をみてると、彼女にどう接したらいいのかと難しく思っているのがよくわかる。

末っ子は明るくて、とても楽しい子だ。要領もいい。自分が欲しいと思ったら、それを意識して手に入れようとする力強さも感じる。

次女は、我が家のジャン=アンリ・ファーブル。

黙っていると、何時間でも猫と遊んだり、庭で鳥を眺めていたり、石を集めたり・・・、

それが彼女の持ち味なのだけど、その持ち味がこの世の中でどのくらい認めてもらえるのか・・・とか、心配し始めるときりがない。

ま、世の中で認めてもらえりゃ幸せということもないから、心配しても仕方ないのだけど。

そういえば、学校から10日間のスキー合宿にスイスに出かけて戻ってきたとき、彼女のオーバーのポケットがやたらずっしり重たくて、何だろうとみてみると、ダチョウの卵くらいの大きさの石が出てきた。あらあらと思って本人に言うと、もっと大きいのがあったけど、それはあきらめたのだそうだ。

というわけで、今年度を終えたら、彼女は好きなバイオリンだけを続けることになると思う。

でも好きなことはちゃんと続けてね、なんでもイヤだとやめちゃうんじゃ、人生あまりにも簡単すぎるしおもしろくないと思うよ、アクナちゃん!!

 

 

2月29日

 

今日で子供たちのカーニバル休暇終わり。2月も終わり。

 

日本では麻原に死刑判決がでたそうだ。日本が、朝から晩までオウム事件の話でもちきりだったとき、たまたま子供たちと帰国した私に、テレビを見ていた父が、

「ひろこ、見ろ、お前みたいな人間たちだぞ。」

と言った。

うちの父は独断と偏見にみちたいやな奴だが、その言葉は正しかったと思う。

でも私は紙一重のところで、ああいうグループには入らなかった。なにかのグループに入って、そのリーダーの言うことを、はいはいと聞くことなど、たとえどんなにその人物を尊敬していようと、正直言って考えられない。

いずれにしろ、誰も、とくに私たちの世代の人なら、何かを考えないではいられない事件だったと思う。

 

ベルギーでは、数年前に子供を誘拐・監禁して、餓死させる事件が起き、国中がパニックにおちいったことがあった。結局まだ詳しいことは何もわからない。

来週裁判が開かれる。裁判の開かれる街には、すでに信じられない数の報道陣がつめかけているらしい。

 

私は車の運転ができない。

日本にいるころ、仕事でもらう給料は旅行につかっていたので、自動車学校に行くお金がなかった。こちらに来て、筆記試験は本で勉強して、一度でパス。そしたら仮免がもらえ、経験者に横で指導してもらいつつ車道をいきなり走ることができる。そうやって練習してから、直接実地試験を受けるというのが一番お金のかからない方法なのだ。

ふつう半年ほどみんなそうやって練習して試験を受ける。パパ・ウルスは短気ですぐかっか怒るのでとても指導者には向いていない。で、娘の友達のお父さんに頼んだ。

夕食後でかけて練習から戻ると、今度は、やきもちですごく機嫌が悪い。

そんなこんなで、わずか一週間、1時間か2時間の練習しかできず、試験に落ちた。

そういうときは、もういいやと思ってそれ以上執着しない。

 

そういうわけで、私は歩く。公共の乗り物が少ないので、とにかく歩く。

うちの子供たちも、私と一緒のときは歩くしかないから歩く。

先日も末っ子と歩いてモンスにでかけた。歩きながらいろんな話をする。

もし、○○が○○になったらどうするか、という想像上の話をよくするのだけど、そのときは、

「もしこうやって歩いているとき、突然ママがじゃがいもになったらどうする?」

と聞いた。そしたら、

「ママンと言って拾ってポケットに入れて歩く。」

と言うので、

「フライド・ポテトにして食べていいよ。」

と言うと、

「いや、食べずにいつもポケットに入れておく。」

と言う。

「いつまでもとっておくと、しわしわになっちゃうよ。」

と言うと、

「もうしわしわだよ。」

と言われてしまった。ひえーっと言うと、冗談だと笑っていたけれど・・・。

 

お天気がいいと、歩くのも楽しい。

 

 

2月25日

 

ネコに起こされて、毎日早起き。今日も5時前に、私の耳もとで「グルル」。

「ちょっと早すぎるでしょ、もうちょっと寝せてよ。」

とかなんとか文句を言いつつも、早起きするとひとりの時間が持てるので、気持ちよくって好きだ。

 

今、外はみぞれ。春が近まると、ジヴレ(givré)と呼ばれるこういう天気になることが多い。

みぞれをみると、

アメユジュトテチテケンジャ

というフレーズを思い出す。

昨日は庭のライラックの木で、キツツキがこつこつやっていた。

ミソサザイもきれいな声でさえずっている。

 

 

2月20日

 

長崎の叔母が昨日亡くなった。

叔母と言っても私と十も違わないので、叔母さんとは呼んだことがなく、いつも「律子さん」と名前で呼んでいた。

うちの母は5人きょうだいの一番上で、二歳ずつ間をおいて弟と妹、そしてうんと年の離れた弟が二人。その下から二番目の弟で、やっぱり叔父さんとは呼ばないで兄ちゃんと呼んでいた叔父さんの奥さんだ。

すい臓がんで、病気がわかってわずか二ヶ月で旅立ってしまった。

 

うちの母の家庭はみんな本当に仲良しで、いつもぎゃはぎゃはと大笑い。何がそんなに楽しいのか、近所の人が不思議に思って覗きにくるくらいだったらしい。で、お嫁に来た人たちも似たような性格の人ばかりで、三人の叔父の奥さんたちは、みんなとても明るくて気持ちのいい人たちばかりだ。そのうちの一人が律子さん。

 

律子さんは、いつも思いつきでひょこひょこどこでも出かける私に、

「私もひろ子ちゃんみたいに、計画なんか立てずに、ぱっと旅にでてみたかあ。」

と言ったりしていた。

そして、その言葉のとおり、みんながびっくりするくらい遠くに、急に旅立ってしまった。

いっぱいやさしくしてもらったのに、ちゃんとお礼もできなくて、私は涙が止まらない。

 

昨夜ヴィッパサナー瞑想の夢をみた。

コの字型に建物が並んでいるところに入り込み、あれっここはどこだろうと、そのうちの一軒の建物を見上げたら、赤い看板にヴィッパサナーと黄色くカタカナで書かれていて、ああ、ここでは瞑想を教えてくれるんだなあと思った。

朝起きたときは、そんな夢を見たことなどすっかり忘れていたのだけど、PCのスイッチを入れてメール・ボックスを開いたら、お通夜と告別式を知らせる叔父と従妹のメールと一緒に、ヴィッパサナー瞑想のメルマガが数ヶ月ぶりに届いていた。それで、夢を思い出した。

 

ヴィパッサナーの目的、それはあらゆる物事に対して平静、完全な無執着であることです。

あらゆることを等距離にみる、等価にみる、執着しないで手放す、

その心をウペッカー(捨)といいます。

ぼーっとして、わけの解らない状態で、平静でいることとは違います。

サティが入って、現実の状態が非常にはっきり把握できた上で、平静なのです。

 

こういう風なことが書いてあった。律子さんからのメッセージかもしれないと、とても不思議な気持ちになった。

 

 

2月7日

 

ヘンに暖かい天気が数日続いたら、庭のチューリップがいっせいに芽を出してしまった。

天気予報によると、今日・明日は雪が降るともいうし、早く芽を出しすぎたチューリップ、凍ってしまうかもしれない。

 

窓から、20メートルくらいに育った楓の木が見える。今は葉っぱを落としているけれど、葉の茎が赤い赤楓で、ヴァイオリンを作る木材とされる木だ。30メートル以上になるらしい。昨日、コーヒーを飲みながら、風に揺れるその木を眺めていたら、一番高いところに、カササギのカップルが巣を作り始めていた。

日本では佐賀だけに棲むカササギ。カチガラスともいわれる。豊臣秀吉が、カチという名前が縁起がいいと取り寄せさせたと聞いた。朝鮮の言葉で、カラスのことをカチというらしい。遠くまで飛ばない鳥なので、広く分布するに至らなかった。このあたりの原産だからいくらでも見かける。

グエーグエーと鳴く声はちっとも美しくないし、もっと小さな鳥たちの巣を襲って卵を食べちゃうので、あまり評判のよくない鳥でもある。

 

確実に春が近づいてくるのがわかる。

 

 

2月3日

 

昨日はカトリックのchandeleur(シャンドロール、ろうそく祝別日)という日で、このあたりやフランスでは、この日にクレープを食べるのが習慣。子供たちが幼稚園や小学校の低学年の頃は、学校で作って食べたりしてたけれど、末っ子も小学校5年生で、そういうことは学校ではしてくれなくなった。で、学校から帰ってきた子供たちと一緒に、クレープを作って食べた。クレープ用の底の浅いフライパンで、えいっとクレープを放り投げて裏返しにする。きゃーきゃー騒いで大笑いしながら、クレープの味はともかく、とても楽しかった。

 

どうしてこの日にクレープを食べるのかは知らない。調べてみないといけないなあと思う。

幼子イエスが寺院に現れた日を記念する日で、ろうそくは光であるイエスを象徴しているらしい。

日本では節分。きっと発想は同じなのだと思う。

人は季節の移り変わりと共に、いろんなお祭りをこさえてきた。

人の思い、喜びや悲しみというのは、文化や習慣が違っていても同じだと思う。

みんな同じで、そして、ひとりひとり違うのだと思う。

 

2月1日

 

毎年2月・3月頃には、子供たちの通う音楽アカデミーの試験とコンサートがある。

先日、ピアノの試験が終わった。公開試験なので、聞きに行くのがいつもとても楽しみ。小さい頃から知っている他の子供たちが、みんなどんどん成長していくのがわかる。

やめていなくなる子供たちもいるし、長女と同じ7年生は、彼女とひとつ年上のアマンディンヌのふたりだけになってしまった。

次女や三女の学年も、毎年人数が少なくなっていく。あまり器用じゃなくとも、続けている子供たちは、試験のたびにちゃんと、より難しい曲が弾けるようになっているのがわかる。

まさしく、継続は力なり。こっちまで嬉しくなる。

音楽アカデミーは政府による学校なので、12歳までは無料だし、その後もほんの少しの授業料を払うだけ。子供を連れての移動が親の負担なのは確かだけれど、私たちのようなあまり裕福でない家庭にとっては、とてもありがたいシステムだと思う。楽器も貸してくれる。

あと、次女と三女のヴァイオリンの試験とコンサート、長女のエレクトロ・アコースティックとチェロの試験が残っている。

 

ずっと続けてくれたら嬉しいと思う。

 

 

1月24日の追加 : 

下に書いているシャンピのサイトがある。サイトのタイトルは、“おれはシャンピじゃない、ルネだ”というもの。さすが、ネットの時代ね・・・。ここにリンクします。

 

1月24日

 

昨日、学校が終わった子供たちを迎えに行くと、会うなり最初の彼女らの言葉が、

「シャンピが死んだんだって。そいで、今朝埋葬されたんだってよ。」

シャンピというのは、モンス地区(モンスの街とその周辺、全部あわせて人口6万人くらい。)ではみんな知っている人物。ぼろぼろの服をきて、ばたばたの自転車に乗り、べろべろに酔っ払って、ぎゃあぎゃあ大声を出しながら、町のあちらこちらをさまよっていた身寄りのない人物で、初めて見るときは誰でもその異様さに恐ろしい思いをするけれど、何も悪さはしないので、誰も咎めたりすることはなく、それどころか、食べ物を分け与えたりして、町の中にすっかりとけこんでいたのだった。

本名はルネ・ドゥコーニングというらしいけれど、なんでも幻覚性のシャンピニオン(きのこ)を食べすぎたのが原因でヘンになったというので、みんなは彼をシャンピと呼んでいた。

シャンピは写真が大好きで大きな興味を示したので、誰かが安物のカメラを彼にプレゼントした。彼はそのカメラで写真を撮り続け、そして、やはりどこかの誰かがそれを現像してあげ、最近その写真の展覧会まで開かれたのだった。ばたばたの自転車も彼のコレクションだったらしく、どこかで見つけては集めていたらしい。展覧会にはその自転車たちも並べられた。

そうやってどこでもゆらゆら自転車で通るので本当に危ないと、もういつもみんなが話していたのだけど、自動車事故にあったのだそうだ。轢いた車を運転していた人がすぐに連絡をして病院に連れて行ったそうだが、一時間もしたところで病院を抜け出したシャンピが、翌朝自宅(これも誰かが与えていた小さなアパート)で、寒さとケガのために死んでしまっていたのを誰かが見つけた。埋葬は有志によって行われた。

で、昨日学校で、子供たちの話題はもっぱらシャンピの死だったわけだ。

誰かが、

「昔はものすごい金持ちだったらしいよ。」

というと、他の誰かが、

「そんなことないよ、シャンピの親はうちのおばあちゃんちの隣にすんでいたんだから。」

と言い、また他の誰かが、

「シャンピの親は浮浪者だったんだ。」

と言う・・・。

そういう会話がいっぱいだったらしい。

思えば、私が子供の頃、私の住んでいた町にもそういう人がいた。ちょっとヘンだけど、悪さをするわけじゃなし、しっかり町の中にとけこんでいて、それがあたりまえという人物。

今の時代にも、こういう伝説的人物が存在できるというのがすごいと思った。

そして、もう自転車でゆらゆらさまようシャンピを見かけることもないのだと、少しさみしい気がする。

 

 

1月22日

 

一年前の冬のヴァカンスは、フランスのブルターニュ、フィニステールで過ごした。で、そのときの写真をようやく現像した。

私たちがヴァカンスに出るときは、いつもジットと呼ばれるヴァカンス用の家を借りる。普通の家だったり、農家の片隅だったりするけれど、とにかく家具や食器を備えた一軒家なので、食事も普通に作れるし、便利で安い。(とはいえ、家事から解放されないので、ちっともラクではない。)

 

フィニステールでもそういうところを利用したのだけど、上の写真はその家の庭を出たところにあった村人共有の古いパン焼き窯と、その上に育った5メートルくらいの木。手元の写真だと、木がしっかと立っているその根元の、レンガや石でこさえた窯がよく写っているのだけど、スキャンしたら暗くてわかりにくくて残念。

こういうものを見ると、じわーっと感動をおぼえる。どうしてだろ。

 

 

1月17日

 

ぱーっとこのサイトの模様替えをしたいと思って、まず表紙からとりかかったけど、なんだかちっともかわり映えがしないので、少しがっかり。

 

今、窓の外に目をやると、朝焼け。今朝はいい天気。

木々のシルエットのむこう、ピンク色ですごく美しい。

この10日間ほど、毎日毎日雨ばかり降って、空がすっきりお掃除してもらったのだった。

冬至を過ぎて、夜明けも少しずつ早くなる。

朝焼けがきれいなときは、石川セリの歌をついつい口ずさむ。♪♪アサヤーケガキエルマエニ・・・♪♪っていう歌。

これもこの日記を読んでいる人がすでに気づいているであろうことだけど、古いでしょ、私の言うこと。どうも20年くらい前の日本がそのまんまみたいなのですよ。

 

1月12日

 

長女がおもしろいと褒めていたので、エリック=エマニュエル・シュミットの “Oscar et la dame rose” を読んだ。この作家は、日本でもう知られているのかもしれない。なにせ日本を離れて17年、日本以外の作家について、どのような紹介がなされているのか、さっぱりわからない。

 

オスカルは10歳の男の子。白血病で入院している。骨髄移植も受け、化学療法も受けたけれど、回復の見込みはない。この男の子の最後の12日間の物語。オスカルがこの12日間に、神様あてに書いた手紙という形式をとっている。

同じ小児科病棟に入院している他の子供たちの描写もユニーク、大やけどで皮膚移植の手術を受けたベーコン、水頭症のアインシュタイン、9歳なのに体重が90キロもあるポップコーン、オスカルと相思相愛の女の子、肺の病気のせいで蒼白いペギー・ブルー。

やさしくて、おかしくて、かわいらしくて、そしてかなしい。

彼が最後の日々を、とても素晴らしいものにすることができるのは、とてもユニークなマミー・ローズのおかげ。小児科病棟の子供たちの話し相手をする婦人たちは、ピンク色の服をきているらしい(ここでroseはピンク色のこと)。オスカルの入院する病院で働くそういった女性たちの中で、一番高齢なのがマミー・ローズ。彼女だけが、オスカル自身の一部であるオスカルの病気を怖がらずに、100%のオスカルと 、素晴らしい友情を築きあげる。

 

わずか12日間の手紙なので、30分もあれば読めてしまう。

とてもいい本だと思う。

 

 

1月4日

 

みなさん。あけましておめでとうございます。

いい年にしたいですね。

 

今日で子供たちの冬休みも終わり、明日から学校が始まる。冬は暗いから、やたら眠たいので、もうちょっと冬休みは長い方が嬉しいのに・・・。

 

昨日パパ・ウルスのズボンの修繕をしていたら、末っ子のチッチがそれを見ていて、「ママがばあばの子供でよかった。」と言う。ばあばというのは私の母のことで、「ばあばが何でもできて、それをみて大きくなったママが何でもできて、ばあばがママにしてあげたように私たちにしてくれるから、私たちもきっとそういうふうにするでしょ。そうやって永遠に続くんだよね。」と言うのだ。

 

この日記を読んでいる人がもうきっと気づいているように、私はたいへんなマザー・コンプレックスらしい。こんなこともしてもらった、あんなこともしてもらったと、しょっちゅう話している。で、うちの娘たちはしっかり“洗脳”されてしまっている。私が何でもできるというのは、娘たちの思い込み。(そういう“印象”を食べさせるのに成功しているのね、きっと。)それに、何でもしないといけない状況にあるので、仕方なくやっているわけで、もしラクできる方法があるなら、いつでもころっとそっちに流れることだろう。

 

ただ、してもらったようにしてあげたいという思いは、まさしく本心。それがちゃんと伝わっているので、新年早々、とても嬉しい気持ちになった。そして、そういう思いというのは、次から次へと永遠につながっていくものだということを、10歳の娘がしっかり理解しているということに、むちゃくちゃ感動してしまった。

 

というわけで、なんだか元気がでてくる正月であります。

 

 

 

 

diary 2003 

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July~2004