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diary 2003

diary Jan.Jun.2004

 

 

    今まで私の日記を読んでくださった皆さん、どうもありがとうございました。

    ネットを接続して、そろそろ3年がたとうとしていますが、おかげで本当にいろんな出会いを果たし、いろんな勉強をさせてもらい、いろんなことを考えさせられてきました。とてもありがたいことだと思っています。もちろん、それはこれからも続くことと期待します。

 

    最近はとても読み甲斐のあるブログ等もたくさんで、欲張らないでおこうと自分に言い聞かせないでいると、読むだけで自分の自由になる時間では足りないくらいです。そういう中で、このホームページの意義を考えたとき、この日記の空間の意味はあまりないような気がしています。

 

    生命学ホームページのフランス語版を名のっていながら、今さら何を言っているのか、あたりまえじゃん、と叱られそうですが、私としては仏語のページの充実と、仏語圏における興味深いことの紹介に、もうちょっと自分の力をそそがなければと、大いに反省しています。

 

    たまには皆さんに聞いていただきたいと、日常の出来事を雑文にしてアップするかもしれません。また、どなたか仏語圏の具体的な情報が必要という場合、何かお手伝いができるかもしれません。ぜひおっしゃってください。他の方たちにも興味のありそうな内容であれば、それもアップしていけばおもしろいかもしれません。

 

    そういうわけで、この日記ページは、また気が変わるまでしばらく更新しないことになると思います。

 

 

 

日記

 

日本人は・・・ベルギー人は・・・といったくくり方はしたくないと思っている。

「日本人」と「外国人」の違いより、「あなた」と「私」の違いの方がずっと大きいと感じるから。というわけで、これはヒロコの日記であって、ベルギー日記ではありません。

 

 

1月16日

 

2005年に入り、すでに1年の24分の1が過ぎましたね。

 

この日記を読んでくださっているみなさん、少し遅れましたが、明けましておめでとうございます。

 

今年がみなさんにとって、とても素晴らしいものとなり、未来へとつながるものであることを祈ります。

 

 

    ここ数日のうちに、またPCの再インストールをすることにした。面倒くさいけど、家族全員で使っていると、ごみもたまりやすいし、ネットからヘンなのも勝手に入り込んでくるし、少なくとも数ヶ月に1回くらいは大掃除しないとどうしようもなくなる。

    ああああああ・・・・・・、めんどうくさいいいいいい・・・・・・。

 

    クリスマスの休暇に、家族でブルターニュへ出かけた。

 

    ここんとこ、ブルターニュ、ブルターニュ、ブルターニュ・・・。長女のボーイフレンドがブルターニュにいるというのが、最大の原因。夏に彼の方がこちらにやってきたので、この冬は、彼女が「行かなければならない」というのだ。なんで「ならない」のか、腹も立つけど、彼女にしてみれば「絶対」なものは「絶対」なのであった。かといって、こちらとしては「あっ、そう」と簡単に許可するわけにいかない。「一人でフランス、しかもフィニステールまで電車で出かける」となると、私の心配虫が大騒ぎするし、クマは、これも長女と同じレベルで「絶対だめなものは絶対だめ」なのであった。(この頃長女の<思春期>の難しさを味わいつつ、大きな事実に気づいた。クマは<思春期>のまま年をとっていたのだ!!!)

 

    休みのたびに「どこかへ行こう」とダダをこねるクマである。そこで、本当は休みには何もしたくないなあ・・・と思っている私だけど、家族みんなでブルターニュへ出かけることを提案したのである。我が家の大切なネコ、ショーセットを置いてでかけなければならないゆえに消極的な下ふたりも、仕方ないから賛成ということでの遠出であった。アクナとチッチと私、3人が身を犠牲にして、<思春期真っ只中>のおふたりさんの思いをかなえてあげたということ。

 

    出かけてすぐにツナミが起こった。

 

    私たちが今回借りたアパートは、コート・ダルモールのサン・マロのすぐ近く、エメラルド海岸にあるランシユーという小さな村にあり、ベランダは砂浜に向かっていて、目の前は海。滞在中ずっと12℃か13℃という穏やかな気温で、少し雨が降ったかと思うと、海と空に虹がかかった。あんな津波が襲ってきたら、家族全員波に持っていかれる環境の中、もしそういう事態になったら、いかにいして子供たちを守ってあげることができるか、いろいろ考えてみた。思いつかない。そしたら、アクナとチッチが、

「ママ、こんな波が来たら、もうどうしようもないよ。波におまかせよ。」

と言う。そのとおりね。そして、

「自然の力だからね。ジョージ・ブッシュに殺されるのはいやだけど、こんなときは仕方ないよ。でも波にさらわれるときは、手をつないで離さないでね。」と言うのだ。まったくね、そうしようね。

 

    ツナミの被災者とその家族それぞれに、イノチの物語があったのだと思う。なんとかがんばってください。

 

 

 

12月7日

 

    またほとんど1ヶ月経過。日記じゃなくて月記ね。

 

    数日前に arte(仏・独合同制作のテレビ局で、とても良質の映画、コンサート、ドキュメンタリー等を見せてくれる)で、是枝監督の after life(原題は「ワンダフルライフ」)が放送された。『誰も知らない』が話題になったからだろう。22時40分からの放映、早寝早起きおばさんとしてはとても起きていられる時間帯じゃないので、録画した。そして、日曜日の午後観た。感動。素晴らしい映画だと思う。トールキンの短編『ニグルの木の葉』を思い出したりもした。是枝氏のサイトKORE-EDA.comを覗くと、その姿勢・視点がわかる気がする。注目していきたい人だ。『誰も知らない』は、うちの田舎じゃまだ上映されていないけれど、やってきたら絶対見に行こうと思う。

 

    先週金曜日には、パリで勉強中のKさんに会った。長女のイツァナも一緒にでかけ、浮世絵展を見たあと、シャンゼリゼのファスト・フードのお店に入って飲み物だけ注文、持っていったおにぎりを食べたのである。そのあと、カテドラルを訪ね、ステンド・グラスに魅せられる。短い時間だったけど、とても楽しかった。Kさんとお話できて、長女はとても喜んでいる。今朝も、「また会いたいなあ」とつぶやいていた。子供たちには、親や学校の先生ばかりでない、「人」との出会いが、とても大切なのだと思う。

 

    日曜日の午後は、リール・メトロポル現代美術館に家族ででかけ、メキシコ現代アート展を鑑賞。その美術館は、うちからだとリールの10キロメートル手前にあり、高速を使うと車で45分くらいしかかからない。予想していたよりずっと充実した、非常にみごたえのある展覧会だった。ああ・・・、懐かしいメキシコ。いつか絶対戻りたい。

 

    末っ子のチッチ、誰でもみんなそれなりにナルシシストな面があるとは思うけど、この子はふつうよりやや多めにナルシシストみたいね。今本人のアルバム・ページalbumを作成中、どういうページになるのだろ???

   

 

 

11月11日

 

    死者の日のヴァカンスのあと、それまで朝5時起きと決めていたが、さらに1時間早く4時には起きることにした。そうしないと、ひとりでゆっくりPCに向かえないのだ。一昔前のチャンネル権争いという感じ。ADSL権争い。

ひとりずつPCとケーブル持てりゃ一挙に解決ではあるが、それはあまりにも簡単すぎる解決法、その前にそんなお金もないし・・・。私自身は早寝・早起き作戦で解決なのだけど、友達とのコミュニケーションを目的とする子供たちは、相手のいることだからそうもいかない。父親といえば、自分の都合を人に合わせて変えるような「協調性」はゼロだし。

    困った。

 

    森岡さんの生命学ホームページが縁で、日本にいろんなお友達ができて、とてもよろこんでいるのだけど、その中のピピ姫さん吟遊旅人や葉っぱ64さんはてなダイアリー - 千人印の歩行器、おしょうさん山寺の掲示板で、最近「死者」の話がでてきていて、とても興味深い。ブッシュやコイズミたちと戦う方法は、先手をうって自らが「死者の立ち位置」 からものを言うことだ‐まだ私はよくわかっていないので、こんな要約だとまずいかもしれないけど‐というのだ。これはきっと古くて新しい哲学だろうと思うのだけど、そんなことを考えながら、映画『指輪物語』を思い出した。最後にみんなを救ったのは、そういえば「死者たち」だったじゃん、と思ったのだ。

    うちの長女、今思春期の危機真っ只中で、母親として「自分の子の思春期」初体験の私はびくびくしているけれど、その彼女はものすごい読書家。その彼女がもっとも敬愛する作家がトールキン、『指輪物語』はおそらく10回は読み返しているし、仏訳されたすべての著作を読んでしまったはず。彼女が言うには、「ひとりの人間が世界全体を創造するなんて、すごい。信じられない。」

    確かに、ひとりの人間の人生を創造するだけだってすごいのに、あの『指輪物語』のスケールはすごい。「死者の視線」について考えていて、トールキンは娘のいうとおり、やっぱりすごい作家なのだと、確認したことだった。

 

    そうなのよね、ブッシュ的世界観って、「死への恐怖」いやそこにすら届かない「死の否定」に立っているのよね。

だから、殺される前に殺そうとする。自らの死から全面的に目をそらせるために。

 

 

 

11月4日

 

    1日は諸聖人の日、2日が死者の日。そのお祭りの時期らしい、どんよりした天気だ。1週間のバカンス。

 

 

    日本人バックパッカーでバグダッド入りし人質となっていた香田さんが、首を切られて亡くなった。なんともやりきれない。悲しい。悔しい。

    香田さんは私だ。世界をもっとよく知りたいという思いで、あちこちひょこひょこ歩き回り、家族を心配させていた私だ。

    日本を出てニュージーランドへ向かったのが、自衛隊がイラク入りした頃だという。その後のイラクの情勢をよく知らなかったのに違いない。それに、遠くでニュースだけ見聞きしている人たちと、実際いろんなところを歩いているときとは、体感がまるで違う。「その場」にはふつうに生きている人たちがいっぱいだから、何か特別なことをしているような感覚はまったくなくなるもの。だから、「なんでそんな軽率な」と、私などとても言えない。私だって同じような行動をとるかもしれないもの。

    ご家族の悲しみと無念を思うと、涙が止まらない。今は母親となった私には、お母様の無念も、自分のことのようにわかる。

 

    10月上旬にデリダが亡くなった。74歳。すい臓がんだったのだそうだ。

    私はデリダの著書を1冊も読んだことがない。だから、なんだかんだとわかったようなことを言うことはできない。でも、この数年、デリダのいう「赦し」に、とても興味を感じていた。オリジナルを何か読んでみようと、8月16日の日記でも少しふれたアンドレ・レト書店の主人に相談したら、「初めて読むならこれが難しくなくていいでしょう」と薦めてくれたのが『La dissémination(points)。このポケット版に収録されているのは『La pharmacie de Platon(1968)La double séance(1970)La dissémination(1969)、でも著者による前書きすら読み終えないまま、もう1年以上も放ったらかしになったままだ・・・。情けないと思うけど、私ってこういう風・・・。

   

    デリダのいう「赦し」・・・。

    罪の償いというものが、それと等価値の罰によって、つまり、そういうエコノミーにおいて、はたして本当に可能かと問いかける。

 

    「無条件の、非エコノミー的な、交換を超えた、贖罪や和解の地平さえ超えた赦し」

 

    「純粋で無条件な赦し」

 

    「どんな意味も、合目的性も、どんな理解可能性さえももってはならないという赦し」

 

    すごいと思う。頭がくらくらするくらいの「赦し」だ。

 

    今の世の中の難しさをクリアするには、そういう「赦し」以外にどんな方法があるのか、私にはわからない。でも、どうやったらそういう「赦し」が実現できるのか、それも私にはわからない。

 

 

 

10月25日

 

 

    日がどんどん短くなる。居間の窓から見える楓の木も、葉っぱをほとんど落としてしまった。そしたら、木のてっぺんにカササギが作った巣がむきだしになってしまっている。そういえば春に、カササギのつがいが一生懸命巣作りしていたものね。

 

        森岡さんが作っておられる生命学HP日本語版を訪ねると、来年5月に生命学研究会を開催すること、そして、その参加者を募集する旨のページがあった。

        生命学にはどのような可能性があるのか、 どのような広がりと多様性があるのか、諸学問との関わりはどういうものなのか、生命学ネットワークとはどういうかたちをとるのか・・・・。そういったことについて語り合う研究会になるらしい。

        私も私なりにきちんと考えてみなければならない。

 

10月1日

 

    9月が終わってしまった!!

 

    日記の更新もまったくしないで、あっという間のひと月だった。ヴァカンスの間止まっていたことがぼちぼちスタート、それで9月は、いろんな事務処理に加えて、文化行事にも追われることになる。第2週の週末は、ワロニア地方のjournées du patrimoine、第3週の週末はブリュッセルのjournées du patrimoine(今年のテーマは、モダニズムとアールデコだった)、先週末はブラバンにあるラ・ウルプ城領地内にあるフォロン美術館を訪ねた。何年か前の夏、ラ・ウルプ城の庭でオペラ「リゴレット」が上演され、クマと一緒に観劇したのだけど、そのついでにその美術館を訪ねた。建物に入ってチケットを買うと、壁にある大きな本の表紙がグーンと開く。私たちはその本の中へ入っていくのだ。こういう風に、ただ絵や彫刻を眺めるというのではなく、いたるところにいろんな仕掛けがあって、とても楽しい美術館なのだった。で、これはいつか子供たちと一緒に行こうと思っていて、それがようやく実現した次第。

    予想どおり子供たちは大喜び。こういう美術館を訪ねると、なんだか自分も絵を描きたくなるもので、翌日にはオチビが、「ねえ、ママ、今日は油絵描こうよ。」と言う。私も同じ気分なので、ホイホイと4人で絵を描いて遊んだ。そして、「上手な人の絵を見ると簡単そうだからやりたくなるけど、やってみると難しいものだね・・・。」というのが、いつもながらの4人の感想。

    フォロン(水彩画が多い)は、日本でもおなじみだと思う。ポスターや本の装丁といった仕事を数多くこなしている。

 

    一昨日クマが電気ミシンを買ってくれた。無名メーカーの超特価品とはいえ、ここ数年ミシンが使えず手作業だったので、すいすい仕事がはかどって楽しい。何か他に縫うものないかしら、と探すくらい。

    私の母が、教員の仕事のかたわら洋裁の内職をしていたので、ミシンを動かす音はいつも懐かしい。母が足踏みミシンでシャカシャカ仕事をしている傍で大きくなったから。ミシンの板(なんて呼ぶのか知らないけど、使うときたおす板)の下を、頭もぶつけずちょこちょこ歩いていたことも、少し大きくなって、ある日突然その板でゴツンと頭をぶつけたことも、ちゃんと覚えている。

    ここで使っていたのは、義父の祖母が使っていたという、古い美しいシンガー・ミシン、まさしくアンティークなのだ。ボビンは今のような丸いものでなく細長くて、スペースシャトルみたいなボビン・ケースに入れる。それが、足踏みで動かすと、ひゅんひゅん動くしくみになっていて、初めてみたときはびっくりした。ところがこのミシン、古すぎて換えの針がみつからない。今のミシン針だと短すぎて、下糸を拾ってくれないのだ。それ以外はちゃんと機能するのに、まったく残念。

 

    さて、ひと月半も日記をさぼっていると、書き留めておこうと思ったことがすいすい逃げていく。ちょっとあせるので、今日はなんとかひとつずつ思い出して、少しでも書き残しておく。

 

    8月にこの日記を更新したとき、フランソワーズのことを書こうと思った。でも、こうやって日がたってみると、フランソワーズをみていてしみじみ確認したことはひとつ。「人の命にイミなどない」ということ、それだけ。こんな風に言ったら、これを読んでくださっている方たちには「へっ!?」という感じだろうな。でも、とにかく私にとっては、ものすごく大きな確認事項なのだった。フランソワーズ本人のことをなんだかんだ話しても仕方ないのではしょる。

 

    8月にはヘルマンにも会った。フランスのル・ピュイから、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラまで歩いたヘルマン。マルデズ修道院で待ち合わせて、雨の中、わたしが作った日本食でピクニック。翌日はブリュッセルの街角で道化をやると言っていた。サバティック休暇を終え、今日10月1日からソシアル・ワーカーの仕事に復帰したはずだ。

 

    夏休みが終わる頃、アランとベルナデットの家に招待された。彼らは海外協力プロジェクトに関わっていて、しょっちゅうエクアドルに行き来している。4人の子供たちは全員エクアドル生まれ。彼らから招待されていくと、そこはいつもベルギー領内ミニ・ラテン・アメリカ国という感じで、ラテン・アメリカで暮らしたことのある連中ばかりが集まるので、話す言葉もスペイン語。その日はエクアドルから遊びにやってきたエクアドル人一家が、エクアドル料理を作ってくれるというのだった。集まったのは大体いつものメンバー、オランダのマリファナ品評会で金メダルを獲得したというステファンとシャンタルとその息子(注:マリファナはオランダでは合法、ベルギーでは原則として禁止されている)、仕事でキューバで暮らしキューバ人と結婚、今は離婚して男手ひとつで2人の女の子を育てているエリック、普通はエクアドルで暮らすバスク人エレナとそのボーイフレンドでバスク人のフアン、などなど。今回は、アランたちの長男ジョアンが、フィンランドへ交換留学生として出ていて留守、〈交換〉でその前日にベルギーに到着したばかりの15歳のオーストリア人の女の子カリーナがいた。ドイツ語と英語しかわからず、とまどっている様子・・・。これだけアクのつよい人間が集まってスペイン語でガハガハ大騒ぎする中、この1年彼女はどういう風に成長するのかしら、なんとも心配なことではある・・・。

 

    9月に入って週に1回か2回はなんらかの行事に足を運んでいる。モンスの書類博物館ムンダネウムで催されたカフェ・フィロにも参加した。フランスから科学史学者・哲学者のミシェル・セールが招かれていたので、日頃の5倍くらいの参加者がいた。テクノロジーについて楽観主義者のセール氏、思想のキー・ワードは「エヴェンヌモン」と「ヌーヴォーテ」だなあと感じた。予期せぬ出来事(=エヴェンヌモン)が起き、それに人が反応して新しい方法で解決(=ヌーヴォーテ)を試みる、そしてあたらしい人々(ヌーヴェル・オム)が生まれるというのだ。

    この書類博物館は、20世紀初頭にポール・オトルとアンリ・ラ・フォンテヌというふたりのベルギー人によって集められた、世界中のありとあらゆる“書かれた物”をおさめた博物館。

 

    もっといろんなことが私の中を通っていった気がするけど、今日はこの辺で。

 

    明日はモンス王立劇場でバルセロナをテーマにしたコンサート、昨日チケットを買いに行ったら、その準備の作業をしているところで、ピカソの闘牛をモチーフにしていた。クマとふたりで、チェ・ゲバラが若いときに南米を歩いてフィルムを取った話を映画にしたWalter Sallesの『カルネ・ドゥ・ヴォヤージュ』を観て、それからコンサートという予定。楽しみ楽しみ。

 

 

8月16日

   

    もう夏休みもほとんどおしまい・・・・、早いもんだ。

 

    今月の一日には、前の日記に書いているとおり、フロレッフ修道院の国際音楽フェスティバル、エスペランザに、家族全員に加え、フランスからやってきた男の子ふたり、グエンダルとアントワンの、総勢7人で出かけた。うちの車は9人乗りのミニ・バスなので、こういう機会には本当に便利。

    会場に着いて、パパ・ウルスと私の入場券はこの男の子たちに譲り、私たちは別のところでゆっくりすることに決めた。

「信頼してうちの3人娘を任すから、ちっちはまだ小さいから面倒かけるかもしれないけど頼むね。」と言うと、「はい、大丈夫です。」とはりきったおふたりさん、本当に立派にナイト役を果たしたのであった。これまで、心配で心配で、3人娘の後ろに常に待機していた私、「おおっ、なんという開放感!」と、子供たちのボーイフレンド登場というのは、母親にとっては大きな安心なのだと感激したのである。父親といえば、こういうコンサートでは、自分の関心ばかりで、子供のことは私にお任せだったので、そういう感激はなく、ひたすら複雑な思いを抱えていたのみなのだった。ね、ちゃんと自分の体張って動いたならば、子供たちが親から離れていくときには、寂しいとかいう感慨より喜びの方が大きいのだよ、と、私は心の中でこっそり思った。ふふふ。

    会場では午前11時から4つのコンサート会場で続けていろんなコンサートが行われる。アフリカやアジアやアラブ料理の軽食が取れるスタンドもあるし、いろんなゲームにチャレンジするコーナーや、本屋などのスタンドもある。去年は、ミネラル・ウォーターは地球の資源なのに企業が所有して売るのはおかしいというのがテーマで、ミネラル・ウォーターが無料でいくらでももらえたし、今年のテーマは、第三世界の抱える負債をゼロにしよう、だった。

    会場に到着したのは午後2時頃、彼らの一番お楽しみのコンサートは、午後11時に始まる予定だったので、夜中の12時に入り口で待ち合わせということにして、私たちは別行動。

 

    さて、私たちふたりは、さらに車を走らせ、ルドュというブキニストの村へでかけた。過疎化のすすんだ村を、その村出身の本好き青年が、本屋の村として甦らせたことで知られる。前に立ち寄ったときは、ドイツの黒い森へバカンスにでかけた帰り道で、十分楽しめなかったので、またいつか行きたいと思っていたのだ。前に立ち寄ったのは、児童書を専門にした本屋で、主の女性は、自らも絵本作家として知られた人、短いながらも彼女との会話やら、子供たちのための本探しやらで、なかなかよかった。

    村に着いて、まず彼女にあいさつしようと探したけれど、その書店のあったところはオクスファムになっていた。インフォメーション・センターで村の地図を入手、興味の所在の違うパパ・ウルスと私、午後6時に車に戻るという約束で、それぞれ歩き始めた。そして、私はがっかりしてしまった。一軒ずつ本屋を歩き回ったけれど、ここでしか手に取れないという本はほとんどなく、値段も街の本屋と同じか高いくらい。わざわざこの村まで来るという価値が発見できなかったのだった。最初の心意気が失われているのか、私がちゃんと味わえなかったのか・・・・。

    我が家から3キロメートルの距離にあるモンスの街には、アンドレ・レト書店という、文学・哲学・芸術関係の書籍しか置いていない本屋があり、牛乳瓶の底みたいなすごいメガネをかけていて、何かを読むときにはそれを目にくっつけるようにする主のアンドレ・レトさんは、何を訊ねても全部知っている。ルドュに出かけるより、アンドレ・レト書店に出かけた方がよっぽど楽しいと思った。

 

    6時にルドュを出て、フロレッフへ向かう途中のディナンで夕食を取ることにした。サキソフォンを発明したアドルフ・サックスの町、ムーズ川沿いに岩壁に張り付くようにしている細長い小さな町。ラティーノというレストランで、チュニジア人の父親とスペイン人の母親を持つディナン生まれの主の、なんというか、いろいろまぜこぜの、不思議なおいしい料理を味わったのであった。

 

    そんなこんなで、エスペランザの会場には予定より早く到着。もう終わり近いときは、入場券などなくても入れてもらえる。うちの子供たちの目当てのコンサート、ものすごい人気で、後で聞いたら8500人入ったそうだ。とても探すのは無理なので、必ずここを通るだろうという地点で、コンサート終了を待つことにした。入り口で、門番と立ち話をしていたパパ・ウルスは、コンサートの終わり頃になると自分たち同様、子供を迎えに来たと思われる親たちが、ひとりふたりと増えていったと、後で笑っていた。いやはやまったく、しっかり親やってますね、私たち。

 

    この夏休み、あとひとつ心にしっかり刻まれたことがあった。フランソワ-ズのこと。でも、書ききる時間がない。この次に書こうと思う。

   

 

7月31日

 

    夏休みが半分終わり。ようやく夏らしい天気になって、暑い。

 

   一 昨日、フランスのブルターニュに暮らす長女のボーイフレンドが、彼の親友とふたりで、わたしたちの住む町にやってきた。彼らにすれば、ずっと前からの予定を実行したにすぎないのだけれど、いやはや、パパ・ウルスとわたしにしてみれば、なんともいえない時を過ごした(過ごしている)のであった。

    あたりまえのことなのだ。子供たちは日々成長するし、思春期になると、異性に関心をもつし、恋もする。でも、長女の初体験は、わたしたち親にしても、親としての初体験なのよね。

    それで、パパ熊はパニック、彼らがやってくるとわかったその日から、ピリピリ・・・。わたしには彼らの到来より、そのピリピリの方がよほどストレスで、どかっと疲れてしまうのだけど、得意の開き直りで、なるようになるさ、と腹をくくった時点で落着くのであった。我ながら、得な性格だと思う。

    パパ熊は、18歳になるまで何も許さないと、すごい剣幕だったのだけど、18歳になっていきなり大人になるわけでもなし、やはりなんでも少しずつ学習していくのだろうから。それに、長女の、なんでだめなの、という質問ももっともなのよね、たしかに、何も悪くない。でもね、家族という単位で今暮らしている以上、そこのリズムも尊重してもらわねば、困る。なんでもダメと禁止してもいかんとは思うけど、なんでも好き放題にはさせられないのだよ、イツァナちゃん。

   

    明日はみんなで、去年同様、アルデンヌのフロレッフ修道院を会場に開かれる音楽フェスティバル、エスペランザへでかける。あと数日のストレスだよ、お父さん、がんばってね。

   

   

 

7月17日

 

    ずっと悪天候が続き、今年は夏が来ないのかと、ほとんど絶望していたけれど、昨日の午後、ようやくお日様が顔を見せ、今日は夏らしい暑い日になりそう。嬉しくてしょうがない。

でも7月も半分過ぎてしまったし、庭の畑で去年みたいな豊作を願うのは無理だろうな。仕方ない。

 

    二年前から取りかかって、まだ完全に作り終えていない庭の小屋を仕上げようと思って、一昨日から、子供たちと小屋の内側にペンキを塗り始めた。一面はキャンバスに仕立て、子供たちと大きな絵を描くつもり。子供たちも、家にあるピカソとシャガールとマチスの画集を開き、どんな感じにしようかと、巨匠たちの作品をヒントに考え中。

 

    このシーズンは、いろんな音楽フェスティバルが、あちらこちらで開催されるのがお楽しみで、昨日もクマとふたりで、夕食後、キューバのブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブのオマージュというテーマのコンサートに行ってきた。

    みんな踊るので、座っていては何も見えずおもしろくないから、ステージにかぶりつきだったのだけど、私は上手に踊れないものだから、もう70歳は超えているというのに元気いっぱいに飛び跳ねている、キューバからやってきたテレサ・ガルシア・カルトゥラと時々目が合うと、こらっ、ちゃんと踊りなさい、と叱られそうでひやひや。一方、クマは踊りが上手。バルーに見えてしまうから、なんだか笑えてしまうのだけど、リズムもぴったし、楽しく踊るのである。というのも、彼はバツイチ、前の奥さんはサルサの生まれた(?)カリ出身のコロンビア人、朝起きたらまず踊るという人物だったので、彼女にしっかり鍛えられたのだった。それにしても、上手に楽しく踊る人たちを見ていると、踊れない私は、なんだか人生の一部を無駄遣いしてしまったような気がしてくる。まったく残念無念。

    テレサ以外は若い人たちばかりで、ピアニストの男の子が、とてもかわいらしかった。ピアノ弾きながら踊っているものね。彼らには、踊りは人生の一部どころか人生そのものなのかもしれない。

    そういえば、たしかフランスの左翼歌手ジャック・デュトゥロンだったと思うけど、“キューバのきれいな女の子たちと踊る自分は、まるでソーセージみたい”と情けない思いを歌っていたなあ。私なんか、まるで丸太みたいだったわ。

   

 

 

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