心に残る場所、心に残る人たち

 

私は方向オンチだ。それも、かなり重症の。そのくせ、地図を見ながら、いろいろな所へ足を伸ばしてきた。いつか誰かに聞いたが、方向オンチの人というのは、たとえば道を歩くとき、注意を向ける対象が、道端で日向ぼっこをしている猫だとか、立ち止まって話し込んでいるカップルだとか、二度目に歩くときの目印になりえないものばかりなのだそうだ。そう言われてみると、私もそうだな、その時思った。

旅に出かけると、そこを何百年も何千年も前に、誰か、あるいは何か、生命あるものが触れたと実感できたとき、そして、殺し合い、疫病、飢饉などで、死んでもいいはずなのに生きながらえた生命のつながりとして、自分がここにいると実感できたとき、とても感動する。

そういう思いを、少し言葉にしてみたいと思う。

 

1. ローラ

メキシコで三年暮らし、その間四回住まいを変えた。その中で一番心に残っているの場所は、コヨアカンとよばれる地区だ。私の知っているメキシコ人の多くも、シティーの南側にあるこの地区の、独特の雰囲気を好んだ。メキシコでは、どの町も村も、ソカロと呼ばれる広場を中心としている。コヨアカンにももちろんソカロがあり、アイスクリームをなめながらのんびり散歩するというのが、おきまりの過ごし方なのだった。かなり大きな広場を、喫茶店やレストラン、教会、アイスクリーム屋、そしてシティーの中で五本の指に入るであろう立派な本屋などが囲み、日曜・祭日となると、あちこちにヒッピー風の露天商やにわか芸術家、マンゴーやパパイヤ売りの屋台なども出没する。

この地区には、興味深い博物館もあった。たとえば、トロツキーの家。ロシア革命で重要な役割を果たしたレオン・トロツキーは、立場を異にしたスターリンに敗れ、メキシコに亡命して、この家に暮らし、そして、この家で暗殺された。

トロツキーの家からそう遠くない所に、メキシコの代表的壁画画家ディエゴ・リベラの妻、画家のフリーダ・カーロの家もある。ディエゴとフリーダは共産主義者で、だからこそトロツキーも、この地区に住むことを決めたのだろう。この家には、独特の魔術的な空気がある。コミュニズムというイデオロギーと、本来異なる次元にある土着世界の組み合わせは、とてもユニークだ。

道路に面してまず高い塀があり、その塀の扉を開けて中に入ると、パティオがある。そこを通り抜けてようやく家にたどり着くというのが、おおかたのメキシコ・シティーの住居の造りで、私がしばらく暮らしたコヨアカンの下宿屋も、典型的なシティーの住まいだった。何にも属さず、人生の一休みを気取っていた私は、ただ新聞を読み、本を漁り、映画を観るという日々を送っていた。時には、ブーゲンビリアの花にハチドリが飛んでくる、夢のようなパティオの椅子に腰をかけ、同じ下宿に住む気のいいローラとおしゃべりをするのも、楽しみのひとつだった。私の言うくだらない冗談に、とても嬉しそうに笑ってくれるのだ。

ローラというのは、ドローレスの愛称である。七十歳を少し過ぎた彼女はセニョリータ(未婚)で、歯がほとんどなかったので、それよりずっと老けて見えた。長い白髪をひっつめにして、いつも黒い薄手のセーターを着て、黒いスカートをはいていた。敬虔なクリスチャンで、ある時、私が「地球は自転している」と言うと、目をまんまるにして本気で驚いたほどだ。

下宿の女主人はヒステリーで、おとなしいローラを、時々どなりつけることがあった。辛そうにしている彼女が気の毒で、一度引越しをすすめたことがある。そしたら、彼女は私にこう答えた。

「この年になるとねえ、ヒロコ、誰でもなるべく神様のそばにいたいものなのよ。ここにいると教会がとても近いでしょう。いつでも足を運べるから、私はとても喜んでいるのよ。」

            コヨアカンが私の心に一番深く残っているのは、この地区の独特な雰囲気のためでなく、その時のローラの言葉が、とても美しく忘れがたいからだ。

1988年 コヨアカンのソカロ

 

2. サン・ブラス

            サン・ブラスは、メキシコの西海岸にあるひなびた小さな港町だ。その昔はアカプルコよりもっと重要な港だったということを、高台に残る廃墟となった18世紀の要塞が、どうにか物語っている。この町に住んでいるのは、土地の人間ばかりではない。メキシコには、外国人が多く住みついている町がいくらでもある。強い外貨を持って入り込んでくる人たちは、その土地を潤しもするけれど、同時にその本来のリズムを壊してしまうのも常だ。ところがどういうわけかサン・ブラスでは、いくらアメリカ人たちが住みついても、土地のリズムがしっかり守られている。不思議な町だ。

            パパ・ウルスと訪ねたこの町で、とてもユニークな人々に会った。エリーもそのひとり。漁師の彼は、真っ黒に日焼けして、きらきら光る美しい目をしていた。端から端までゆっくり歩いても10分もあれば十分な小さな町で、ちょっと散歩に出ると必ず、涼しげなシャツにジーンズとサンダルをはき、長い真っ黒な髪に麦わら帽子をかぶったエリーに会った。町の広場を走り回る子供たちを指して、サン・ブラスには未来があると彼は言った。

エリーと限らず、メキシコでメキシコ人と話をすると、自分たちの町と人々を心から愛し、明るくて希望にあふれる、こういう言葉をたびたび耳にした。

            貧しい服装をしていても、たしかに子供たちは元気で明るかった。道端にある水道の蛇口を思いっきりひねって、水を飲んでいる。私たちは、泊まっている宿で飲料用に漉した水を、用心のためにさらに沸騰させてようやく飲むのに・・・、お腹の丈夫さから違うと感心しないではいられない。子供たちばかりでなくこの町の大人たちにも感心したのは、蚊の攻撃に対する冷静さだ。サン・ブラスでは、夏には大変獰猛な蚊の攻撃に、秋にはヒヘネスという、小さいけれどやはり刺されるとたまらない虫の攻撃に、私たち旅の者は気が狂いそうになる。パパ・ウルスなど、片方の足の甲だけで、120ヶ所ほど蚊に刺された。もう片方の足については、数える気にもならないくらいだ。夕暮れ、外に出かける時は、虫除けの薬剤を手足に塗りつけた上に、ばたばたと忙しなく蚊を追い払うことになる。一方土地の人たちは、立ち止まって話しに興じながら、自分の腕にとまった蚊を、指一本で静かにつぶすのだ。すごいな、と思った。

            エリーの家を訪ねると、入り口に大きな檻があり、雌猿が一匹飼ってあった。一歩家に入ると、漁に使う網を置く広い土間があり、壁に大きな肖像画が掛けられていた。エリーの肖像画だ。別れたアメリカ人の奥さんが描いたのだそうだ。彼女にも、エリーの美しく光る目が心に残っているんだろうな、と思った。

            エリーには、それから十年ほど後、おもしろい再会をすることになった。ベルギーの自宅のテレビで、パパ・ウルスと一緒に、スペイン・メキシコ合作のカベサ・デ・バカという映画を観た。いわゆる新大陸発見の後、スペインからアメリカ大陸に渡ったカベサ・デ・バカという人物を主人公にした、一風独特の映画だったが、そこに、黒魔術を行うインディオとしてエリーが出ていたのだ。映画の舞台となっているのも、明らかにサン・ブラスだった。懐かしかった。

            ブルーと呼ばれるアメリカ人がいた。町から海へ向かう一本道の途中、入り口のドアもなければ何もない、ベッドとテーブルと椅子、そして本棚があるだけの、ひとマスの小屋に住んでいた。頭髪もひげも真っ白、目はブルー、五十歳くらいに見えた。どうやって暮らしてるのだろうと思っていたが、一雨降ると幻覚性キノコを探しだしてそれを売り、現金を得ているらしかった。ある時、町に一軒だけの食堂で、ショートカットのきれいな白人女性と、その連れで彼女の娘と思われる20歳くらいの女の子が、ブルーと食事をしているのを見かけ、あれっ、ブルーだ、と思いながら通り過ぎた。後で人に聞いた話だと、女性はフランス人でブルーの昔の恋人、女の子は二人の間の子供なのだそうだ。いろんな人生があるんだなあ、と思った。

        ある夜、町に一軒だけのバーに行った時のことも忘れられない。カウンターで飲み物を注文していると、すぐそばに立っていた男が、私をじろじろ見るのだ。何なんだ、こいつは・・・と思っていると、ついに私に、どこから来たのかと聞いてきた。日本人だが、今はメキシコ・シティーに暮らしていると答えると、彼は泣き始めた。サン・ブラスに住みついているアメリカ人で、亡くなった奥さんが日本人だったのだそうだ。ミチコという優しい女だった、思い出すのが辛い、こんなところで日本人に会うなんて・・・、頼むからそばに来ないでくれ・・・。彼はそう言って、静かに泣き続けた。悪いことをした、と思った。

            他にもいろいろな人を思い出す。宿の主人、でっぷり太ったフェデリコ、そこで働くアンヘリカ、亭主が出て行ったきりもう3ヶ月帰ってこないとぼやいていた、広場のそばに住むマリア・・・。みんなどうしているだろう。いつかまた訪ねてみたい。そして、市場で毎日買って食べた、とてもおいしいバナナパンをまた食べたい。でも、全てが夢の中の出来事だったような気もしている。

 

3.ジョゼフ

            ジョゼフが亡くなったと、最近知った。庭の畑を歩いている時、心臓の発作にみまわれ、そのままそこで亡くなったということだった。一人で暮らしていた彼の死を発見したのは、いったい誰だったのだろう。

            ジョゼフは、私たちが以前住んでいた家の隣人で、私たちが彼のお隣に引っ越したのは、彼が奥さんのネリーを亡くして4年経った頃だった。ずっと石切場で仕事をしていたため耳が遠くて、話すときは大声をださないといけなかった。地元の方言しか話さないので、正直なところ、何を言っているのか私にはよくわからなくて、彼の方言と私の怪しげなフランス語とで行われる、わけのわからないやたら大声でなされる会話は、はたから見たら、きっと滑稽なものだっただろうと思う。小学校もまともに出ていないから、と本人は言っていたけど、正しいフランス語を書くことができず、書類等に書き込む必要があるときは、いつもうちのパパ・ウルスに頼みに来るのだった。でも私には、ジョゼフがたとえ読み書きがまともにできなかったとしても、私の知っている人たちの中で、もっともインテリジェンスを持った人たちのひとりだったと思っている。矛盾のない生き方をしていたから。

            自分のことはなんでも自分でしていたと思う。週に一回一週間分のパンを焼き、野菜を育て、年とった猫のピトゥーと静かに暮らしていた。時々家を訪ねると、いつもコーヒーとビスケットをふるまってくれた。壁には家族の写真と自分の写真が何枚か掛けてあった。第二次大戦のとき、ナチスに連行されベルリンで強制労働に就いた彼の、ふっくらとしたベルリンに行く前の写真と、げっそり痩せた戻ってきてからの写真が並べておいてあったのをおぼえている。ベルリン陥落に居合わせ、その後ベルギーに戻ってきたそうだが、列車を乗り継ぎ、途中アルデンヌで野宿。目を覚ましてみると、持ち物がすっかり持ち去られていたという。「盗んだのはベルギー人だよ、ドイツ人だけが悪人ってことはないね。」と笑って話してくれた。

           

           

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