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作成:森岡正博 
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論文

『疑似法的な倫理からプロセスの倫理へ−「生命倫理」の臨床哲学的変換の試み』大阪大学文学部 2007年3月 75−84頁
米国の生命倫理における保守派とリベラル派との対立
:人間の生命操作に対する批判的見解に関する予備的考察(2)
森岡正博

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 前稿「人間の生命操作に対する批判的見解に関する予備的考察(1):大統領評議会報告書の場合」(1)において、米国のレオン・キャスおよび彼が統括した大統領レポート(2)に見られる批判的見解を紹介して考察した(前稿では訳書に倣ってカスと表記したが、本稿では現地発音に近いキャスと表記することにする)。その後の調査によって、この問題に関する米国での議論の現状の一端を知ることができたので、本稿ではそれを紹介することにしたい。
  人間の生命操作に対する批判的見解が、2003年の米国の大統領レポートで全面展開されて以来、英語圏の生命倫理学の世界では、そのレポートに対する賛否両論が渦巻いてきた。そのプロセスのなかで、大統領レポートに代表されるような宗教的保守派と、それに対立するリベラル派という対立図式が浮上してくるようになる。これはちょうど米国政治における、共和党・対・民主党の対立とパラレルであるから、一見して非常に受けのよい対立図式であると言える。
  2005年末に、ちょうどその図式を受けるようにして、ある会議の開催が発表された。それは、Alden March Bioethics Instituteが主催し、米国生命倫理学および人文科学会(American Society for Bioethics and Humanities)などが共催する「米国生命倫理学および人文科学会サマーカンファレンス:生命倫理と政治:分断された民主主義における生命倫理学の未来The Summer Conference of the American Society for Bioethics and Humanities: Bioethics and Politics: The Future of Bioethics in a Divided Democracy」であり、2006年7月13日〜14日に米国ニューヨーク州オルバニー市にて開催されるということであった。この会議の模様は、後に述べることにする。この会議は、Alden March Bioethics Instituteのディレクターであるグレン・マッギー(Glenn McGee)が発案したものである。彼によれば、現在の米国の生命倫理はきわめて政治化されているという声があると同時に、長年のリベラルバイアスがようやく正されようとしているという声もある。このような状況下で、保守派とリベラル派のあいだのディスカッションを行ない、共通の土俵を探すことがこの会議の目的であると言うのである(会議配付資料より)。
  マッギーが指摘するような保守派とリベラル派の対立図式は、中絶などをめぐって、以前より米国にはあった。その対立が、21世紀に入って、ヒトクローン・ES細胞・人間の遺伝子操作・尊厳死などのテーマへと拡大した。(その激論の一部は、生延長と老化遅延をめぐる論争に見ることができる)。とりわけ、前稿でも指摘したように、レオン・キャスの大統領レポートが保守派の生命倫理の考え方を全面展開し、先端医療技術に冷や水を浴びせたことによって、一気に両派のあいだに緊張が走ったのであった。米国の生命倫理学の主流はこれまでリベラル派によって形成されてきたのだが、大統領レポートの出現によってそれが危うくなる、とリベラル派の生命倫理学者たちは感じたのである。その危機意識を受けて、2006年1・2月合併号の『Hastings Center Report』は、リベラル派のルース・マックリン(Ruth Macklin)と、保守派の若手論客エリック・コーエン(Eric Cohen)に、それぞれの主張を全面展開させ、対立点を明確にしようとしたのであった。『Hastings Center Report』は英語圏の生命倫理学の世界ではもっとも影響力のある学術誌であるが、その立場は中立に近いとみなされている。しかしながら、保守派から見れば、生命倫理学の従来の学術界それ自体がリベラル寄りだということになるのである。したがってこの企画も、リベラル寄りの学術誌が保守派の学者に発言の場を与えたものだ、とみなしたほうがよいのかもしれない。以下、この両論者の論文を検討していきたい。

 ではまず、マックリンの「生命倫理における新保守派:彼らは誰であり、何を求めているのか」を見てみよう(3)。マックリンは、生命倫理に「保守派の運動conservative movements」が起きてきたと言う。いままでの生命倫理学はアカデミックな学者によってなされてきたが、それに対してこの保守派の運動は「政治的な運動political movement」である。彼らが主に活躍するのは、新創刊された『The New Atlantis: A Journal of Technology and Society』という雑誌であり、そこではリベラル派の生命倫理がしきりに批判されている。彼らの政治的な動きは、米国の政治において共和党のもっとも保守的なグループが現在政権を握っていることと無関係ではない(4)。
  そのように指摘したうえで、マックリンは、保守派の論者たちが、自分たち以外のものを「リベラル派の生命倫理」としてひとくくりにすることを問題視する。そしてそもそも「リベラル派の生命倫理」というようなカテゴリが本当に成立するのかどうかを検討していくのである。
  マックリンによれば、保守派の生命倫理学者たちは、みずからの立場を非常に明確に打ち出す。すなわち、「保守派は、バイオテクノロジーと、すべての種類の(彼らが名付けるところの)「人工的な」介入におけるバイオテクノロジーの使用に反対する。すなわち、人工生殖、人工的生延長、人工知能、人工生命、要するにわれわれを「人工的に改善」しようとするものすべてに反対するのである」(5)。しかしながら、マックリンによれば、保守派たちは、人工的な技術介入に対して保守派と同じようなスタンスを取っているリベラル派がいることを見落としている。たとえば、フィンレージの会(FINRRAGE: Feminist International Network of Resistance to Reproductive and Genetic Engineering)は、一貫して、生殖補助技術、避妊におけるホルモンの使用、中絶薬RU486、免疫学的避妊法に対して反対してきた(6)。マックリンは言及していないが、『人間の終焉』を書いた、ビル・マッキベンのようなエコロジストもまた、リベラル派ではあるが生命への人工的な介入には反対している。つまり、政治的な意味における「リベラル派」の学者や運動家たちが、こぞって人工生殖に賛成しているわけではないのである。ここから言えるのは、保守派が目の敵としている「リベラル派の生命倫理」というものは、どこかにひとかたまりになって存在しているわけではないということである。リベラル派の生命倫理学者や運動家のなかには、人工生殖を推進する者もあれば、それに反対する者もいるわけであって、その内実はきわめて多様であるとしか言いようがない。どこにも、ザ・リベラル生命倫理という一枚岩のものはないのである。
  それと比較したときに、保守派の生命倫理は、わりとはっきりとした輪郭をもっているとマックリンは指摘する。それは彼らの支持母体がどこにあるかを見てみればよい。彼らの多くは、American Enterprise Institute、American Heritage Foundation、Ethics and Public Policy Centerなどの「政治的保守のシンクタンクpolitically conservative think tanks」のメンバーなのである。そして彼らは保守派の大元締めであるレオン・キャスを中心とする緊密なネットワークを形成していると言うのである(7)。これまでのリベラル派の生命倫理学者たちは、生命倫理学に学術的貢献をしてきたし、公共政策に関与してきた。その多様な姿と比べてみると、保守派の生命倫理には、あるひとつのミッションがあるように見える。それは、ユヴァル・レヴィン(Yuval Levin)の言葉を借りれば、「魂を抜かれた人間たちpeople without soulsに満ちた文化、畏敬の念を喪失した文化へと堕落することを、食い止めること」である(8)。そのようなミッションを共有した保守派の生命倫理というものは、たしかにこれまでのリベラルで学術的な生命倫理とはまったく異なった運動であると、マックリンは考えているようである。
  マックリンは、保守派の生命倫理の特徴をいくつか指摘する。それは、「実証的な証拠とよく推論された議論のかわりに、メタファーとスローガンを使用することであり、あからさまに攻撃的なアナロジーを使用することであり、術語をわざとミスリーディングな形で使用することであり、批判相手の文献からの引用やそこへの言及がほとんどまったく見られないことである」(9)。マックリンは、彼らが使う「詩的でメタフォリックな言語使用」を具体的に批判するので、それを見てみよう。
マックリンに言わせれば、その最たる例は、「贈り物としての子どもchildren as a gift」という言い方である。保守派の書き手たちは好んでこの表現を使う。仮に神学者によって使われたのであれば、この言葉は、文字通り「子どもは神からの贈り物」という意味だと考えられよう。ところが、そのような但し書きがついていないとしたら、その言葉の意味はきわめてメタフォリックなものになってしまうのである。たとえばレオン・キャスは、遺伝子選択とエンハンスメントの会議で講演をしたときに、両親が子どもの遺伝的特性を選択できるようにするのは間違っていると、論証なしに、繰り返し述べた。なぜそれほどまでに反対するのかと問われて、キャスは、「子どもは贈り物」だからだと答えた。これについて、マックリンは次のように述べている。

 キャスの答えは、もし彼が贈り物の贈与者(神)についてきちんと言及していたならば、均質で宗教的な聴衆たちからは理解され、受け入れられていたのかもしれない。(しかしそもそも「贈り主のいない贈り物giverless gift」について語るなんて無意味ではないのか?)。しかしながら、世俗的な会議での質問に対する答えとしては、もっとそれについて詳しく説明しないかぎり、キャスの答えは会話をストップさせるものでしかないし、対話の刺激剤とはならないのである。(10)

 キャスは、このほかにも、「嫌悪感という知恵the wisdom of repugnance」「自然さ」「尊厳」「人間らしさ」などの用語を駆使して、生命に介入する技術を批判する。しかしそれらの言葉をきちんと定義したり分析したりしようとはしないのである。マックリンによれば、「それは、メインストリームの生命倫理学に見られる執筆スタイルとは、まったく異なったものなのである」(11)。保守派たちは生命倫理学者などではまったくないのだと言いたくなる、とマックリンは書く。「彼らは別の何者かなのである。おそらく彼らは、論理的な主張によって読者を納得させるのではなく、ドラマティックなインパクトとレトリカルな説得によって事をなそうとする社会批評家なのであろう」(12)。そして彼らは、リベラル派の生命倫理学が注意を払ってきたところの、ヘルスケアへのアクセスの正義の問題や、ヘルスケアにおける貧富の格差の問題や、南北問題に見られるような地球規模の正義の問題にたいして、まったく無関心を貫いているのだとマックリンは断定する。
  マックリンの議論に対する疑問点については後ほど考察することにして、次に、彼によって保守派と名指しされたエリック・コーエンの論文を見ていくことにしたい。

 エリック・コーエンの論文、「保守派の生命倫理と知恵の追求」(13)は、メインストリームの生命倫理に向かって、保守派の生命倫理の重要性を主張したものである。
  コーエンは言う。リベラル派の人々は、保守派の人間の尊厳論は完全に聖書に依拠したものであるから、信仰のない者には受け入れられないと考えているようである。たしかに保守派の人々は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教であることが多い。しかしながら、保守派の思想は、実は「どのような神への、どのような信仰any particular faith in any particular God」をも要求しないのである(14)。コーエンはこのように述べて、保守派の思想には、広く社会に受け入れられる素地があるということを、論文で示していこうとするのである。
  コーエンによれば、保守派の人間観は次の5つから成っている。(1)人間は倫理的動物である。(2)受精から自然死まで人間は同等の価値をもつ。(3)死すべき運命mortalityには意味がある。(4)結婚、家族、生殖の重視。(5)人間的な経験と人間の繁栄の重視。これらの人間観は、保守派の域を超えて、リベラルであろうが、中立的な人々であろうが、よい人生とよい社会を目指している人々に、広く受け入れられてほしいとコーエンは述べる(15)。
  コーエンはこれらの人間観について順番に解説をしていくのであるが、その中から注目すべきポイントを拾い出してみよう。まず、受精から自然死まで人間は同等の価値をもつのであるから、中絶や安楽死は疑わしいものとなる。また、人間は死すべき運命をもっているからこそ、いまを有意義に生きることができる。保守派の生命倫理は、不死の追求と自殺とを否定する。また、死すべき人間は世代交代によって大事なものを受け渡していくのだから、それを支える結婚、家族、生殖は非常に重要である。
  そのうえでコーエンは次のように言う。

 親になるとは、子どもを無条件に受け入れることであるから、・・・(中略)・・・われわれ保守派は、胎児に遺伝的な障害があるという理由で中絶を行なうことを、否定する。・・・(中略)・・・選択的中絶は一種の優生学であり、親であることの本質と人間の平等の理想に背くものである。たとえそれが、なにがしか共感的な理由によってなされたものであるとか、不適格者を排除することによって(社会的な)平等を追求するという名目でなされたものであるとしても、である。(16)

 コーエンの保守派の生命倫理は、選択的中絶に反対するのである。これは、おそらく日本の障害者運動にとってはきわめて注目すべき発言であろう。というのも、日本では、1970年代と80年代の優生保護法改正運動に見られたように、自民党に代表される保守派は、選択的中絶を推進して障害児を生まれにくくしようとしてきたからである。それに対抗して、選択的中絶に反対してきたのは、障害者、フェミニスト、左翼系運動家・文化人たちであった。たしかに、これまでの米国のメインストリームの生命倫理学では、選択的中絶を擁護する論調が目立っていた。それへの反抗は、米国では保守派(と障害者:後述)によってなされようとしているように見える。リベラル派が障害胎児や植物状態の患者を切り捨てようとしているのは許せないと、コーエンは論文末尾でも繰り返し述べている。
  また、彼の次のような発言も、個人的には注視しておきたい。コーエンは言う。医療によって苦しみが取り除かれることは、よいことである。しかしながら、「いやなことがまったくおきない人生a trouble-free life」がバイオテクノロジーの道徳的な目標になってはならない。いやなことがおきない人生というのは、つまるところ、人間性の現われであるところの不正義への憎悪や、心からの後悔や、喪失の苦難といったものを、まったく欠いたものとなるのである。それは保守派の生命倫理が望むものではないのだ、というわけである(17)。この主張は、私の「無痛文明論」の主張と重なるものである(『無痛文明論』参照(18))。無痛文明論のような主張が、保守派から現われてきているという点は、考えさせられる。
  コーエンは、Ethics and Public Policy Centerにおいて、「保守派生命倫理行動指針」の作成に関与する。その指針では、以下のようなことが提言されている。連邦政府はヒト胚を研究のためだけに作成することを禁じるべきである。連邦政府はヒトクローンニングや、中絶胎児から摘出された卵を用いて子どもを作ることなどを禁じるべきである。連邦政府は、人間と動物の垣根を破るような実験を禁じるべきである。連邦政府は、人間の臓器売買の禁止を維持すべきである。各州は、幇助型自殺や安楽死や死期を早める行為を禁じる立法をすべきである(19)。このように、保守派の生命倫理学者たちは、自覚的に政府に働きかけて、具体的な立法や政策を実現させようとしている。レオン・キャスが、ブッシュ大統領の指名を受けて、生命倫理評議会を立ち上げたのも、この流れで理解すべきであろう。
  コーエンは、リベラル派と保守派の大きな違いのひとつは、「平等」をどう考えるかであると言う。コーエンによれば、リベラル派は「平等」を、そうであってほしいという「願望aspiration」として語るが、保守派は「平等」を、そうでなければならないという「戒律commandment」として語るのである(20)。戒律としての平等は、われわれに、すべての人間を少なくとも最低限のレベルの尊敬をもって扱うことを義務付ける。そして、自分の状態を改善させることが期待できる人を引き上げることによって平等を目指そうとするようなやり方は、けっして取らないのである(21)。コーエンのこのような語り方は、もっとも恵まれない境遇の人々をまずサポートしようとした、かつての左翼思想を彷彿とさせるものである。
  しかしそのような政策を採用したとしたら、地味な社会福祉方面への支出が増えて、米国の先端医療が世界のトップを維持することはできなくなってしまうかもしれない。しかしコーエンは、それでもよいのではないかと言う。「もしアメリカが医療上の新発見を何ひとつできないようになったとしても、それでもわれわれは道徳的な国家であり続けることはできるのである。もしわれわれが、現存する治療法をすべての人々に行きわたらせるためにNIHの予算を使ったとしたら、われわれはいまよりもさらに正義にかなう国家となれるかもしれないのである」(p.52)。これは、左翼の言説とどこが違うのであろうか。「道徳」とか「国家」という言葉遣いをいまの左翼は好まないであろうが、言おうとしている内容は、左翼の主張と酷似している。
  このように、コーエンが主張する保守派の生命倫理では、ユダヤ教・キリスト教に基盤を置く伝統的な道徳観と、胎児や瀕死の人間や障害者や恵まれない人間を切り捨てないような正義にかなう社会改革をしようとする意志とが、混ざり合って存在している。

このように見てみると、マックリンが想定していた保守派像と、コーエンの主張する保守の思想は、ずいぶんズレていることがわかる。たとえば、マックリンは、保守派は正義の問題を避けて通っていると指摘するが、コーエンの論文を読むかぎり、保守派においても正義の問題は大きな課題となっていることがわかる。保守派のほうから見れば、障害胎児を選択的に中絶してしまうことを、正義の観点から批判しないリベラル派のほうが、正義の問題から逃げているということになるだろう。
  しかし同時に、マックリンが指摘するように、保守派の議論は、肝心なところで聖書やキリスト教道徳にすがってしまう傾向がある。たとえば、人間の始まりを受精の瞬間に同定するという発想を強固に守る点や、両親と子どもの揃った家族を理想のものとする点などである。この社会には、生命を大切にする多様な生命観があり得るということや、片親や同性愛カップルであっても子どもをすこやかに育て上げることは可能だろうということについての、開かれたマインドが感じられないのである。
  ここで、マックリンがキャスを批判したときの、「子どもは贈り物」について、少しだけ検討しておきたい。マックリンは、「子どもは贈り物」というような言い方は、キリスト教を信じている人たちのあいだでは有意味だろうが、そうでない世俗的な人々には伝わらないと主張する。そして、もし「神」を持ち出さずに「子どもは贈り物」と言おうとすると、子どもは「贈り主のいない贈り物」ということになるが、それは意味をもたない概念なのではないかと述べる。
  マックリンは、大きな勘違いをしていると私は思う。まず、宗教を信じていない私もまた、「子どもは贈り物」という感覚を、ありありと了解できるのである。そして私は、その感覚を、まさに「贈り主のいない贈り物」として感受しているのである。子どもが生まれるというのは、それまで存在しなかったいのちが、この世に存在し始めるという、非常に不思議なできごとである。それは私とパートナーのあいだの性交をきっかけとしたのであろうが、それは単にきっかけとなっただけであり、そのきっかけを通じて、何かが私たちのあいだに贈り届けられたという感覚を私は持つのである。ではそれは誰が贈ってきたのかといえば、私が神を信じない以上、それは謎にとどまる。誰が贈ってきたのかはわからない、従って贈り主はいないにもかかわらず、私たちに贈られてきた贈り物、これこそが子どもであると私は感受するのである。
  マックリンの勘違いは、彼が、「贈り物には贈り主がいるはずだ」と前提しているところにある。あるものが、私をも含めた宇宙全体から私に向けて贈られてくるということはあり得る。その場合、その贈り主というものは同定され得ない。強いて言うならば、私をも含めた宇宙全体が贈り主ということになるであろうが、その言い方こそがあまり意味をもたない言い方ではないだろうか。もしそれを「神」と言うべきだということなら、それは少なくとも正統的なキリスト教で理解される神とはまったく別種の神であろう。すなわちこの問題は、宗教哲学の核心部分に触れるような大問題であると同時に、世俗に生きる人々もまた実感として捉えることのできる事柄なのである。生命倫理学、あるいは現代の生命の哲学は、まさにこの問題をこそ正面から解明していかなければならない。
  コーエンの保守派の生命倫理に関しては、その主張内容そのものというよりも、彼らが実際に正義を実現する方向で行動しているのかどうかという点が、きびしく問われるべきである。コーエンらは保守派の政治シンクタンクで仕事をしており、ワシントンの政権に大きな影響力をもっている。そして彼らは、ジョージ・W・ブッシュ大統領政権の支持母体のひとつでもある。ブッシュ大統領をはじめとする共和党は、1980年代のレーガン政権以降、米国内に大きな格差を作り上げ、国際的にもグローバリゼーションを展開して、途上国と先進国のあいだに、埋めがたい溝を作り上げたのではなかったか。この点については、前回の論文で触れたのでここでは繰り返さないが、保守派の生命倫理は、格差是正の方向で正義を実現すると口では言っているが、実際の行動がそのようなものを本当にサポートしているのかどうか、きびしく査定されなくてはならない。
  さて、冒頭で述べた2006年の会議「分断された民主主義における生命倫理学の未来」に参加したときのことを最後に述べておきたい。その会議では、以上に紹介したような、保守派の生命倫理・対・リベラル派の生命倫理、という枠組みでセッションが進められた。しかし、実際に発表を聞き、参加者たちの発言を聞いていると、この図式それ自体がいささか危ういのではないかとも思うようになった。たとえば、米国の生命倫理では、保守派すなわちキリスト教右派が大きな存在感をもっているが、しかし米国のキリスト教にはもうひとつの流れとしてキリスト教左派がある。キリスト教左派は、リベラルの政治勢力と親和性があり、中絶や同性愛に対しても右派ほどはきびしく捉えない傾向にある。その会議で私は、自分は中絶賛成で同性愛賛成だが、生命を選択する技術の開発やエンハンスメントには反対であるという発表をした。すると発表のあとで、キリスト教の牧師という方が声をかけてきて、自分はキリスト教だがあなたと同じ考えだと言ってくれた。キリスト教は右派だけではないという証拠である。
  もうひとつの驚きだったのが、会議の当日に発生した、障害者団体の抗議行動である。彼らは会議開始直前に会場に入場して、突然みんなで「われわれ抜きでわれわれにとって大事なことを決めるな!Nothing about us without us!」と叫び始めたのである。彼らの目から見たら、生命操作や、障害胎児の中絶などの当事者は自分たちであるのに、その当事者を排除して政策決定を進めようとしているというふうに映ったのであろう。彼らの抗議行動に譲歩した主催者は、障害者団体の代表にスピーチを許可した。代表のステファン・ドレイクStephen Drake はアメリカ社会で自分たちが置かれた悲惨な状況を切々と語り、この状況を変えていくことがいま必要なのだと訴えた。この会議に招かれなかった障害者たちこそが、実は陰の主役であったとも言える。この意味でも、保守派・対・リベラル派、という主催者側の図式には疑いの眼差しを向ける必要がある。
  彼ら障害者団体はNot Dead Yetというグループである。彼らの配布したリーフレットを読むと、彼ら自身が上記の図式に納得していないことがよくわかる。彼らは、重度障害者を医療から切り捨てようとする一部のリベラル派を批判すると同時に、保守派もまた障害者へのサポートを妨害しようとしたと批判する。テリ・シャイボ事件のときには、リベラル派も保守派も、ともに障害者たちを蚊帳の外に置いて社会的議論をしようとした、と彼らは憤るのである。彼らの目から見れば、リベラル派も保守派も、ともに米国社会の上層部に位置するエリートたちに見えるのであろう。介助なしでは明日の生活もままならない重度の障害者とはまったく別種の生活を送っている人々が、当事者の障害者たちを排除したままで、生命の選別についての政策決定にかかわる議論を行なっていると見えるのであろう。
  会議後に、私は彼らとメールで接触をもったが、彼らのかかえる孤独感と焦燥感はかなりのものであったことを、ここに付け加えておきたい。保守派のコーエンは論文の中で、障害者も健常者も同じ人間として平等であり、自分たちは障害胎児の選択的中絶や末期患者の尊厳死に反対すると主張していた。もしそれが本当であるならば、彼らは、会議でプロテストした障害者たちと本腰を据えた対話をこれから行なっていかなくてはならないだろう。今後の状況をも含めて、米国の様子を注視していきたい。そのうえで、日本の現状との比較も行ないたいと考えている。

(1)『疑似法的な倫理からプロセスの倫理へ−「生命倫理」の臨床哲学的変換の試み』大阪大学文学部2006年3月、63〜75頁
(2) Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness. Harper Collins, 2003.
(3) Ruth Machlin, The New Conservatives in Bioethics: Who are they and What do they Seek?, Hastings Center Report, vol.36, no.1, (2006), pp.34-43.
(4) p.34.
(5) p.35.
(6) p.35.
(7) p.36.
(8) p.37.
(9) p.38.
(10) p.38.
(11) p.39.
(12) p.42.
(13) Eric Cohen, "Conservative Bioethics and the Search for Wisdom," Hastings Center Report, vol.36, no.1, (2006), pp.44-56.
(14) p.46.
(15) p.47.
(16) p.50.
(17) p.52.
(18) 森岡正博『無痛文明論』トランスビュー、2003年
(19) p.53.
(20) p.53.
(21) p.54.

*関連性の深い次の論文も参照のこと:

森岡正博「生延長(life extension)の哲学と生命倫理学:主要文献の論点整理および検討」(2007年)