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作成:森岡正博 
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論文

 

『現代生命哲学研究』第10号 (2021年3月):39-67
反出生主義とは何か

その定義とカテゴリー
森岡正博

 

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目次
1 はじめに
2 「反出生主義」という言葉の導入
3 反出生主義の定義および思想史
4 反出生主義概念のカテゴリー分類
5 狭義の反出生主義の問題点

 

1 はじめに

「反出生主義」という日本語が最初に現われたのは2011年のことだと考えられる。後に詳述するように、この言葉は英語のanti-natalism(antinatalism)の訳語として導入された。その後、インターネットを中心に使用されるようになり、近年では「人間は子どもを産むべきではない」という意味でこの言葉を用いる人々が増えてきている。現在、世界的に見てanti-natalismの辞書的な定義は存在しない。その事情は日本においても同様である。
本論文では、「反出生主義」という言葉がどのように普及するようになったのかを整理するとともに、その定義とカテゴリーについて筆者からの提言を行なう。そして「出生は普遍的に悪い」とするタイプの反出生主義の問題点を考察する。私は反出生主義者anti-natalistではないが、出生肯定主義者pro-natalistでもない*。私は自身の哲学の中で「誕生肯定birth affirmation」の概念を提唱してきた。と同時に、「反出生主義」という日本語を最初に公刊物で使用したのは私であると思われる。また、私の行なった定義に対する反対意見も見られる。私は反出生主義という言葉の日本における展開の当事者のひとりであり、それゆえ本論文における整理と分析は、厳密な意味では客観性を担保されていない。しかしながら、当事者のひとりから見えてくる知見を公開しておくことに一定の意義はあるだろう。本論文における議論が、後の研究者によって検討修正され、より確かなものになっていくことを期待する。
結論を先取りする形で、反出生主義の定義の試案を示しておく。

【反出生主義の定義】
反出生主義とは、「すべての人間あるいはすべての感覚ある存在は生まれるべきではない」という思想である。

反出生主義は「すべての人間」や「すべての感覚ある存在」について語るものである。たんに「私は生まれないほうが良かった」とか、「私は子どもを産まない」という個人的考えにとどまっているものは、反出生主義とは呼ばない*。私自身、これまでこの点をあいまいにしてこの言葉を使用したケースがある。それについては反省し、今後、反出生主義を上記の意味で厳密に使用することとしたい。

2 「反出生主義」という言葉の導入

「反出生主義」という日本語が最初に現われたのは、2011年であると考えられる。現在のところ、日本語Wikipediaの項目「デイヴィッド・ベネター」(初版では「デビット・ベネイター」*)2011年10月22日初版に、「反出生主義(Antinatalism)」との表記が見られる。この項目は英語Wikipediaの同時期の項目「David Benatar」をもとにしたものと考えられる。インターネットのウェブサイトで反出生主義を扱ったものは2011年以降たくさん見られるが、テキストの更新が頻繁に行なわれるため、いつその言葉が使用されたのかを確定するのは難しい。
Google Trendsでこの言葉が最初にGoogleで検索された年を調べると、2013年3月であることが分かる(図1)。誤差があるので、だいたい2013年頃からまとまった検索が始まったと考えられる*

図1

2013年3月に、私の論文「「生まれてくること」は望ましいのか ― デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』について」が刊行された。この論文は、デイヴィッド・ベネターの著書Better Never to Have Been (2006)を批判的に紹介したものである。この論文で、私は次のように書いた。

この本は、分析哲学の手法を用いて、「生まれてこなければよかった」という命題を緻密に考察するものである。その結果として、ベネターは、すべての人間は生まれてこないほうが良かったという結論を導き、さらには、人類はなるべく早く滅亡したほうがいいと主張するに至るのである。ベネターの立場は、分析哲学においては「反―出生主義anti-natalism」というカテゴリに属しており、彼の考察は英語圏の哲学において最近とみに注目を集めている。(反―出生主義のもっとも有名な主張者は、アルトゥル・ショーペンハウアーである)*

この論文における「反―出生主義anti-natalism」の記載が、この言葉の紙媒体における初出であろう。ここにおいて「反出生主義」は、「すべての人間は生まれてこないほうが良かった」*し、「人類はなるべく早く滅亡したほうがいい」とする主張であると説明されている。後者については、「我々が子どもを産んでいくことは、より悪い人生をこの世に生み出し続けていくことになるから、それは避けなければならない」とし、出産回避による段階的人類絶滅が目指されるとまとめている*

学術の世界においては、「反出生主義」という言葉は、(1)「すべての人間は生まれてこないほうが良かった」、(2)「我々が子どもを産んでいくことは避けなければならないし、人類は滅亡したほうがいい」という二つの意味を持つものとして2013年に導入されたことが確認できる。この論文はベネターの議論を日本語で最初に包括的に紹介したものであるが、研究の進んだ現時点から振り返ってみれば、彼の議論に対する不正確な理解があちこちに見られる*。また「反出生主義」の説明についても、大枠では問題ないものの、良い説明であるとは言いがたい。とりあえずここで確認しておくべきは、「反出生主義」は後に述べる「誕生否定」と「出産否定」の二つを意味するものとしてベネターの哲学とともに日本に導入されたということである。

ところで、私がベネターの議論を最初に学界に紹介したのは、2012年10月27日に立命館大学で開催された日本生命倫理学会第24回年次大会のシンポジウムで「将来世代を産出する義務はあるか?」という発表を行なったときである。ベネターの快苦の非対称性の議論を詳しく紹介して批判を加えたのだが、このときの発表スライドには「反出生主義」という言葉はない。当時、私が「反出生主義」という訳語を選ぶに当たって、日本語Wikipediaの「ベネター」の項目を参照したのか、それとも自身で翻訳して使用したのか、いまとなっては思い出せない。ただし私は2013年に「反−出生主義」という言葉を公刊した後に、「非―出生主義」という言葉も使用していたことが記録から分かる*。おそらく私はまず2013年に「反―出生主義」という言葉を使用し、その後2014年頃に「非―出生主義」に訳語を変更し、そしてふたたび2014年中に「反出生主義」戻したのだと思われる。

実はベネターの議論そのものは、2010年に加藤秀一によって紹介されている。論文「〈生む自由/生まれる自由〉のためのノート」にて、加藤はベネターの非対称性セオリー(誕生害悪論)を引用紹介したあとで、「ベネターが言うように、子供を生むことはつねに悪であり、したがって地球上からすべからく人間が消え失せることこそ最上であるという結論を認めなければならないのかもしれない。けれども、率直に言って、現在の私にはこうした非・人格影響説なるものを十分に理解することができない」と書いている*。これがおそらく日本でベネターの名前が活字になった最初の例だと考えられる。ただし加藤も「反出生主義」という言葉を使用してはいない。

加藤が同書でベネターに着目したのは、加藤が「生まれてくること」について当時すでに本格的な考察を行なっていたからである。2007年の『〈個〉からはじめる生命論』で、加藤は「生まれてこないほうが良かった」という命題を取り上げて議論している。反出生主義を広く取るならば、加藤のこの本が日本で最初に反出生主義の誕生否定の側面を考察したテキストだということになるだろう。加藤はテオグニス、コヘレト、ジョージ秋山の『アシュラ』を紹介したのちに、次のように書く。

「生まれない方がよかった」と陰鬱につぶやくことも、「生まれてきてよかった」と明るく歌うことも、どちらも無意味である。・・・・すでに生まれて存在している人はもはや「生まれなかったこと」をすること――奇妙な言い回しだが、そうとしかいいようがない――はできないのだから、自分が生まれた場合に営まれる生の状況(すなわち現実)と自分が生まれなかった場合の生の状況とを比較して、どちらがよいか悪いかという価値判断を下すことなどできないということである*

加藤のこの本はベネターの原著の一年後の刊行であり、ベネターとは独立に、非常に早い段階で反出生主義の誕生否定の側面に着目していたことが分かる。そして加藤は出生に関して、ベネターとは対立するスタンスを取っている。

ベネターの議論に早くから着目していた研究者に吉沢文武がいる。吉沢は2013年4月の応用哲学会で「生まれてくることの価値に関する非対称性──D・ベネターの議論への対案──」と題する発表を行なった。吉沢はおそらく私より早くベネターに着目している。同じく吉本陵も2014年3月に『現代生命哲学研究』にて「人類の絶滅は道徳に適うか? ― デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」とハンス・ヨーナスの倫理思想」を刊行している。この論文はベネターをヨーナスと比較考察したもので、世界的に見ても先駆的なものだと言える。

ところで、記憶の糸をたどってみれば、私がanti-natalismの日本語訳として、「誕生」ではなく「出生」という単語を選んだひとつのきっかけは、おそらくハンナ・アーレントのnatalityの日本語訳として「出生」が用いられていたからであろうと思われる。2010年に刊行され、当時私が読んでいた森川輝一『〈始まり〉のアーレント―「出生」の思想の誕生』において、森川はnatalityに「出生」という訳語を与え、「「出生」すなわち人々一人ひとりが「世界に生まれてくるborn into the world」こと」と規定している*。アーレントはnatalityの語によって、人間が子どもを産むことというよりも、人間が世界に生まれてくることを意味していたのである。

そもそもanti-natalismのnatalはラテン語のn?t?lis‎から来ており、その原義は誕生に関わることを意味し、誕生日を指すこともある。英語のnatalも同様であり、Oxford Advanced Learner’s Dictionaryによれば「誰かが生まれた場所や時に関連するrelating to the place where or the time when someone was born」という意味を持つ形容詞である。生まれることを中心とした語義である。またnatalityは、一般には「出生率」を意味する名詞である(この点で、アーレントがこの言葉に込めた意味は独自だ)。

したがって、ここから派生したanti-natalismの語義的な意味も、本来は、「生まれることに反対する考え方」という意味になるのがもっとも自然である。ところで、「生まれることに反対する」とは、過去向きに考えるならば「私や私たちが生まれてきたこと」にネガティヴな態度を取ることを意味し得ると同時に、将来向きに考えるならば「私や私たちが産むこと」にネガティヴな態度を取ることを意味し得る。したがって、anti-natalismの意味として「生まれてきたこと」の否定と、「産むこと」の否定の二つが含まれ得るとするのは語義的には理にかなっている。

ところで、anti-natalismという言葉は、ベネターがそれを著書で使用する以前から社会科学の分野において使用されてきた。すなわち、人口増加政策のことがpro-natalismと呼ばれ、その逆の人口抑制政策のことがanti-natalismと呼ばれていたのである。たとえばAlena Heitlingerは1991年の論文「Pronatalism and Women’s Equality Policies」において、pronatalismを「個人、家族、社会の福祉につながるようなすべての誕生birthsを促進する」ようなものとしている*。これに対して、Chaoze Chengは同じく1991年の論文「Communication Techniques in China’s Planned Birth」において、中国の人口抑制政策を指してantinatalismと呼んでいる*。したがってantinatalismという言葉は、社会科学においては国家や社会による人口抑制政策を指していたのである。この時点ではまだ、個々人が主導して子産みを控えて人類を絶滅させていくべきであるという今日の反生殖主義の意味合いはこの語にはないと考えられる。

この言葉を哲学の分野に導入したのが、2006年のベネターの著書『生まれてこないほうが良かった』である。ベネターはこの本で、「生まれてくることは常に害であるcoming into existence is always a harm」ことの妥当性は理論的に説明できると主張する。そして、この命題の「ひとつの含意one implication」として、「我々は子どもを産むべきではないwe should not have children」ことが導かれるとする。ベネターはこの後者の立場を「反出生主義的な立場anti-natalist positions」とか「反出生主義的な見解anti-natalist view」と呼ぶのである。ベネターは自分の反出生主義を、子どもが嫌いだから子どもを持たないとか、子どもがいないほうが親の自由が増大するから子どもを持たないという立場から区別する。そして反出生主義とは、生まれてくる子どもが出生後に経験するであろう苦しみsufferingを避けるために子どもを産まないことなのだ、とベネターは言うのである*。それほど回数は多くないけれども「反出生主義anti-natalism」の言葉も同書には登場する。

ベネターは、「生まれてくることは、生まれてこないことよりも悪い」という誕生害悪論の命題を同書前半で提唱し、そこから導かれるひとつの含意として、同書後半で、「我々は子どもを産むべきではない」という反出生主義(反生殖主義)を主張した。このことによって、それまでマクロで国家政策的な人口抑制論として語られていた「反出生主義」という言葉が、「人間が生まれてくることの悪さ」から導出される子産みの回避という新たな哲学的コンテクストに移し替えられたのである。

ベネターは同書で、「生まれてくることは常に害である」という哲学的主張と、そこから導かれる「我々は子どもを産むべきではない」という規範的主張を同時に行なった。また、同書でもっともオリジナリティの高い部分は前者の「生まれてくることは常に害である」という議論であり、哲学者たちからの反論の大多数がこの点に集中した。また、同書のタイトルは『生まれてこないほうが良かったBetter Never to Have Been』であり、けっして『産まないほうが良い』ではない。そしてベネター自身、同書で「生まれてこないほうが良かった」という内容の古典的なアフォリズムを多数引用している。反出生主義のバイブルと呼ばれる同書には、生まれてくることと産むことをめぐって、このようなねじれがある。(同書第2章の内容については、森岡(2021)で詳述したので参照していただきたい)。

ベネターの本が刊行された一年後の2007年12月13日に作成された英語Wikipediaの項目「antinatalism」の初版記事も見ておきたい。そこではantinatalismは「birthについてネガティヴな価値判断をくだす哲学的立場the philosophical position that asserts a negative value judgement towards birth」と定義されている。この「birth」は、生まれてくることとも、産むこととも取れる*。この記事には反出生主義者として、ショーペンハウアー、ブラザー・セオドア(俳優)、ベネターが挙げられている。ショーペンハウアーの書いた、子どもに存在の苦しみを与えることへの懐疑の文章が引用され、ベネターの誕生害悪論および出産否定論が言及されている。

以上から言えるのは、2006年の時点でベネターはantinatalismを「我々は子どもを産むべきではない」(あるいは「有感生物を生み出すべきではない」)との意味で使用していたということ、そして同時に、彼はその言葉をつねに「生まれてこないほうが良い」という誕生害悪論と結びつけながら理解していたということである。生まれることと産むことの関連性については、次章の思想史の部分で再度議論する。

反出生主義のもう一人の提唱者として、ベルギーの作家テオフィル・ド・ジローがいる。彼もまた2006年に『出産者を断頭する技法―反出生主義者宣言L’Art de guillotiner les procréateurs: Manifeste anti-nataliste』を刊行し、子どもを産み出すことに反対の見解を表明した。フランス語で書かれたこの本は、その全体を子産みの否定の議論に捧げており、ベネターの本に匹敵する反出生主義の重要書であると言える。彼は同書冒頭で「哲学は人間の精神にとって必要なすべての問いを討議してきたが、ひとつだけ例外があった。それは子産みの倫理的妥当性la validité éthique de la Procréationについてである」と書き、生殖の否定をテーマと定めている*。ド・ジローの著書はフランス語で刊行されていたため、英語圏に紹介されるのは後になってからのことである。英語wikipediaのantinatalismの項目にド・ジローの記載が登場するのは、はるか後の2017年8月24日になってのことである。したがってド・ジローの英語圏の議論への影響は2021年時点ではほとんど見られない。

ド・ジローはこの本で、出生は人間の三つの苦しみのひとつであることを説き、出生に賛同する人間たちの心理構造をあばき、子どもは両親を愛せるかと問い、子どもには両親を糾弾する権利があると言い、倫理と出生は両立不可能であるとし、地球人口過剰について考え、親が子どもをもうけるための条件について考え、フェミニズムと反出生主義について議論をしている。生まれてくることへのペシミスティックな視線は、ショーペンハウアーからの影響が大きいように感じられる。ベネターが分析哲学的な論理で迫ったのに対し、ド・ジローは大陸哲学的かつ文学的な手法でテーマに迫っている。
彼は「子ども保護憲章」第1条は次のようにすべきだと書く。

1. 子どもの第一の権利は、生まれてこないことである。
2. 子どもの第二の権利は、もし子どもがそれを必要だと思ったときには、子どもの第一の権利を愚弄することによって子どもの権利を深く損なった者を法廷へと招集できるということである*

このように、子どもは、親が自分を産んだことについて、親を訴えることができるようにすべきだとするのである。またド・ジローは「フェミニズムによる救済」と題された第10章で反出生主義とフェミニズムの関係を語っている。これはベネターに欠如していた視点である。ド・ジローのこの本が日本で議論されることはきわめて少ないが、然るべき吟味を受けるに値するものである。なお、ド・ジローは2021年に『チャイルドフリー・クライスト ― 初期キリスト教における反出生主義』を英語で刊行して言論活動を続けている。

さて一方で、アクティヴィズムに関して言えば、英語圏の反出生主義アクティヴィズムがいつ頃出現したのかはよく分からない。生殖への反対や人類の絶滅を提唱して活動をしていた人々は20世紀末からいた。たとえば「自発的人類絶滅運動VHEMT」は1991年にレス・U・ナイトLes U. Knightによって開始された運動であり、その名のとおり人間が子産みを止めることによって人類の絶滅を目指すものである*。エフィリズムEFILismは、YouTuberのインメンダムInmendhamによって2010年頃から提唱されたもので、生命が自己を再生産するDNAの機構と、有感生物の登場が、この宇宙に継続する苦しみをもたらしたとする。そして人類および有感生物の生殖を終焉させることがその解決になると主張する*。EFILismの最初の4文字はLIFEの逆読みである。2006年のベネターの『生まれてこないほうが良かった』の刊行は、反出生主義アクティヴィズムに大きな理論的影響を与えた。反出生主義の議論が英語圏で行なわれたひとつの場所はインターネットのRedit.comである。ここは巨大な投稿型掲示板の集合体であり、antinatalismのスレッド(r/antinatalism)は2010年に作成されている。ここが反出生主義アクティヴズムのひとつの拠点となった。efilism.comによれば、2011年に、以上のいくつかの流れが大きな波となり、反出生主義コミュニティが誕生したと説明されている*。2016年にAntiprocreationという著者によって小冊子『反出生主義宣言』が刊行された。我々は「産んでいいか」と尋ねられもせず強制的に生み出されたのであり、生殖は人間の尊厳、人権、自由に対する侵害であると主張している*

2017年9月18日に、チェコのオストラヴァ大学哲学部で、反出生主義についての国際会議「反出生主義か非存在か存在か?」が開催された。これはアカデミックな会議であり、後に書籍History of Antinatalismを編集するKate?ina Lochmanováらが発表している。反出生主義をテーマに掲げる最初の国際会議ではないかと思われる。2018年5月30日に、同じくチェコのプラハで国際会議「炎上する反出生主義」が開催され、ベネター、イド・ランダウ、サウル・スミランスキーらが参加した*。その様子を反出生主義アクティヴィストの雑誌『The Antinatalism Magazine』第2号(2018年)が伝えており、アクティヴィズムに影響を与えたことが推測できる。

2020年には「反出生主義インターナショナルAntinatalism International」という団体が設立され、活発な活動を始めた。彼らによれば、反出生主義のもっとも簡潔な表現は、「反出生主義は生殖の批判であるAntinatalism is a critique of procreation」というものである。そして「反出生主義は、一般的に、生命を作り出すことは苦しみを存在させることであるがゆえに道徳的ではなく、生命のもっとも良い帰結は絶滅であると主張するAntinatalism, in general, argues that creating life is unethical because of the existence of suffering and that the best outcome is extinction」とする。彼らは反生殖主義的思想anti-procreative thoughtの4つの流派として、反出生主義、エフィリズム、自発的人類絶滅運動、チャイルドフリー(自発的に子どもを持たないライフスタイル)を例示する*。彼らは『反出生主義ハンドブックAntinatalist Handbook』をサイトで公開し、反出生主義に浴びせられる疑問や、出生主義者による子産みの正当化に対して逐一反論している。英語圏の反出生主義アクティヴィズムは、人類がすべての子産みをやめて絶滅すること、そして可能ならば有感生物の生殖もすべて停止させることに運動目標を絞っていると考えられる。

さて、視点をふたたび日本に戻そう。2011年に反出生主義という言葉が導入されたのち、様々な著者によって論文やブログ記事でこの言葉は使用されていくことになる*。2017年に小島和男・田村宜義によってベネターの『生まれてこないほうが良かった―存在してしまうことの害悪』(すずさわ書店)が翻訳刊行される。この刊行によってベネターの議論が日本の一般読者に広く開かれた。それと時を同じくして、2017年に匿名の(おそらく複数の)執筆者たちによって、反出生主義の啓蒙を目的とするブログ「The Real Argument Blog」が公開された。彼らは反出生主義を明確に「子産みの否定」として定義し、それに「アンチナタリズム」という名称を与えた。これはその後の日本のインターネットやツイッターにおける反出生主義者たちに大きな影響を与えた。日本における反出生主義アクティヴィズムは、このブログの登場によって本格的に可視化されたと考えられる。彼らは主に英語圏に蓄積された反出生主義に関する論文や情報を精力的に翻訳紹介した。またこのブログは、反出生主義の対象を人間だけでなく有感生物にまで広げた。ここには英語圏のエフィリズムなどからの影響が見られる。ヴィーガニズムからの影響も強い。

彼らは「アンチナタリズム入門 〜わかりやすいアンチナタリズムの解説〜アンチナタリズムとは何であり、何でないのか」という記事で、次のようにアンチナタリズムを定義している。

アンチナタリズム(Anti-natalism)とは、子供を作ることを推進するnatalismに反対で、「子供を作るべきではない」と考える立場です。ここでの「べきでない」 というのは通常、道徳的に悪いことだからしてはいけない、ということを意味します*

彼らはこのようにantinatalismを「子供を作るべきではない」という立場として定義する。そして、「生まれてきたこと」に関しては次のように言う。

アンチナタリストは、自分が生まれてきたことを嘆いているわけではありません。中にはそういう人もいるかもしれませんが、アンチナタリズムという思想とは直接に関係はありません。最初に説明したように、アンチナタリズムは「生みだすべきでない」であって、「生まれたくなかった」という個人的な嘆きではないのです*

この文章をどう理解すればいいかは難しいが、彼らがアンチナタリズムを「生まれたくなかった」という「個人的な嘆き」と同一視するのを拒否していることは明瞭である。ただし、「生まれないほうが良い」「生まれてこないほうが良かった」という誕生害悪論の命題がアンチナタリズムあるいは反出生主義と完全に無関係であると彼らが考えているのかどうかについては、はっきりとしない。
いずれにせよ、この宣言は大きな力を持った。みずからを「アンチナタリスト」と呼ぶ反出生主義者たちが現われるようになったのはこのブログの影響である。これ以降、反出生主義は「子供を作るべきではない」という思想であるとする理解がさらに広まった。このことは、ツイッターなどで誰かが「生まれてこないほうが良かった」という言葉を反出生主義の意味で使用したときに、アンチナタリストから「それは反出生主義ではない」とすぐさま反論される様子からも窺われる。

2019年に雑誌『現代思想』11月号が「反出生主義を考える―「生まれてこないほうが良かった」という思想」という特集を組み、書籍初の「反出生主義」の看板を掲げた。この特集号はベネターの著書を素材にして誕生害悪論の哲学的検討を行なうものがメインとなっており、「子どもを産むべきではない」という反生殖主義には大きなスペースは割かれなかった。読書界で話題となり、反出生主義という言葉への認知が進んだ。この特集の副題にある「「生まれてこないほうが良かった」という思想」は、ベネターの本のタイトルから取られたものである。これによって、反出生主義とは誕生否定のことであるという理解が広がった可能性がある。

2020年に、私の本『生まれてこないほうが良かったのか?』が刊行された。この本で私は、反出生主義には「誕生否定」と「出産否定」の二つがあると指摘した。内容的には誕生否定の思想史に大きな比重が割かれた。2021年1月2日の『毎日新聞』ウェブ版に私へのインタビューが掲載され、「反出生主義」という言葉が(書評以外では)はじめて全国紙の見出しに登場した。また2021年1月には無生殖協会が設立された(後述)。
以上が、2021年3月までの日本における「反出生主義」という言葉の導入の概略である。ここまでの検討で分かったように、「反出生主義」という言葉は、「誕生否定」と「出産否定」のあいだを何度も大きく揺らぎながら受容されてきたと言えるだろう。そのことは後述する思想史の検討でいっそう明らかになる。
ここで、補足的に2点を述べておきたい。

まず、私はベネターの反出生主義が日本に導入される以前に、すでに子産みを控えることによる人類の絶滅について論文を刊行している。それは、2009年に発表された共著論文、森岡正博・吉本陵「将来世代を産出する義務はあるか?―生命の哲学の構築に向けて(2)」の第二章である「将来世代を産出する義務はあるか?」(森岡正博執筆)である。2009年の時点で私はベネターの著書の存在を知らなかった(それを初めて知ったのは2010年の加藤秀一の著作によってである)。私はベネターとは独立して、女性が自発的に子産みをやめることによって人類の「穏やかな自己消去」が起きる可能性について思考実験を行ない、それを肯定する議論をしている。反出生主義という言葉は使用していないが、日本における反生殖主義の議論は、少なくとも実質的に2009年にまで遡るということになるだろう。この2009年論文を読むかぎり、森岡のことを、出産をやめることによる人類の絶滅を許容するという意味での反出生主義共感者とみなすこともできそうである。また私は2019年の『現代思想』の対談においても、人類の絶滅について共感的な発言をしている*。森岡を出生主義者であると批判する者は、これらのことを知らないのであろう*。また私は反出生主義の議論とは独立に、「子産み」についての哲学的考察を行なってきた。たとえば拙著『感じない男』(2005年)においては出産を男性セクシュアリティのキー概念として考察し、論文「「産み」の概念についての哲学的考察」(2014年)では「産み」を分析的に検討しており、いずれも独自の考察である。というわけで、私が「子産み」について関心を持ってこなかったという事実はない。

次の点として、日本のインターネットの反出生主義の世界では、意見の対立や喧嘩がよく見られる。(1)反出生主義者と反―反出生主義者のあいだで、相手のことを攻撃的な言葉で非難し合う様子が見られる。反出生主義者が子どもを産んだ人を暴力行使者として非難したり、その逆に、反―反出生主義者が反出生主義者に対して人格を否定するような言葉を投げつけることもある。もっともよく見られる反出生主義者への攻撃は、「なぜ自殺しないのか」である。(2)ヴィーガンの反出生主義者と、そうではない反出生主義者のあいだで対立がある。前者は人間をも含むすべての有感生物の苦しみを減らすべきだと主張するが、後者は人間にのみ反出生主義を適用すべきだと主張する。(3)性交を否定する反出生主義者と性交を肯定する反出生主義者の対立がある。前者は、いくら避妊していたとしても性交による妊娠の可能性はゼロではないから性交すべきではないと主張する。後者は避妊したうえで、もしもの場合に中絶すればいいので性交をしてもかまわないと主張する。(4)反出生主義者とフェミニストのあいだに複雑な対立がある。フェミニストは男性の反出生主義者が女性の身体性を考慮に入れていないと批判する。また、女性の産む権利については、フェミニストはそれを肯定するが反出生主義者はそれを否定する。さらに反出生主義のフェミニストが男性を攻撃的な言葉で非難するのを見て、反出生主義ではないフェミニストがその言葉を批判することもある。クイアの立場からの、産むか産まないかという反出生主義の二分法それ自体への批判もある。(5)安楽死を肯定する反出生主義者と、安楽死と反出生主義の二つを結びつけるべきではないとする反出生主義者や安楽死推進者のあいだで対立がある。優生学や優生思想が反出生主義と結びつくのかどうかについても様々な意見がある。

3 反出生主義の定義および思想史

現時点で、反出生主義の世界的な定義は存在しない。本論文冒頭でも述べたように、私は以下のような暫定的な捉え方を提案する。

【反出生主義の定義】
反出生主義とは、「すべての人間あるいはすべての感覚ある存在は生まれるべきではない」という思想である。

そのうえで、「狭義の反出生主義」と「反出生主義とそうでないもののあいだのボーダーライン」を次のように規定する。

【狭義の反出生主義】
狭義の反出生主義とは、「すべての人間は生まれるべきではなかった」という正しい考え方をすべての人々に広めていこうとする思想であり、「すべての人間は子どもを産むべきではない」という正しい考え方をすべての人々に広めていこうとする思想である。前者の実現によって、人間が生まれてきたことに対するネガティヴな態度をもってすべての人が生きることが達成され、後者の実現によって、人類の子産みが段階的に終了し人類は絶滅する。

【反出生主義とそうでないもののあいだのボーダーライン】
ボーダーライン上には次の二つの両方またはいずれかが含まれる。
(1)「私は生まれないほうが良かった」と考える。他人には適用しない(誕生否定)。
(2)「私は子どもを産まない」と考える。他人には適用しない(チャイルドフリー)。

まず、「すべての人間あるいはすべての感覚ある存在は生まれるべきではない」という考え方は、すべての反出生主義に基本的に内在する考え方である。これをもって反出生主義の定義とするのは問題ないであろう。反出生主義は、基本的には「すべての人間あるいはすべての感覚ある存在は生まれるべきではない」という考え方が普遍的に正しいと主張するものである。単に「私はそう思う」というのは反出生主義にはならない。

反出生主義は、「すべての人間あるいはすべての感覚ある存在は生まれるべきではない」と考えるのだが、生まれるべきではない対象を「人間」だけに絞って、「人間は生まれるべきではない」と考える立場もある。環境倫理学の用語を使って、「感覚ある存在は生まれるべきではない」を生命中心的反出生主義、「人間は生まれるべきではない」を人間中心的反出生主義と呼んで区別してよいのかもしれない。前者は、人間をも含むすべての有感生物が生まれることを食い止めなくてはならないと考える。後者は、人間が生まれることを食い止めれば目的は達成される。前者と後者のあいだには、強い対立関係がある。

そのことを理解したうえで、人間中心的反出生主義に目を向けてみたい。そのなかで、もっとも強い形を取るのは、人間の誕生と出産はすべて悪いから、その正しい考え方をすべての人々に広めていこうとする思想である。これはもっとも普遍主義的でパターナリスティックなものだと言える。この形が、人間中心的反出生主義のひとつの極に存在する。その正反対の位置に、いちばん弱い形のボーダーラインが存在する。これは人間が自分自身の誕生あるいは出産を否定的に捉えるような考え方である。ただしその考え方を他人には適用しない。この二つはそれぞれ「誕生否定」および「チャイルドフリー」と名付けることができる。しかしすでに述べたように、このボーダーライン上にある誕生否定とチャイルドフリーは反出生主義には属さないと考えるべきである。

別の見方をすると、次のようなことが言える。反出生主義とは、「すべての人間あるいはすべての感覚ある存在は生まれるべきではない」という思想であった。これを過去向きに捉えると、「すべての人間あるいはすべての感覚ある存在は生まれるべきではなかった」という考え方になる。これは誕生否定型の反出生主義である。一方、未来向きに捉えると、「すべての人間あるいはすべての感覚ある存在は子どもを産むべきではない」という考え方になる。これは出産否定型の反出生主義であり、別名「反生殖主義」と呼ばれる。そして、思想史的に見れば、これに輪廻否定型の反出生主義が付け加わることとなる。すなわち、反出生主義には(1)誕生否定型、(2)輪廻否定型、(3)出産否定型、の三つがある。

(1)誕生否定型
これは主に古代ギリシアに見られる反出生主義である。紀元前のテオグニス、ソポクレスらは「いちばん良いのは生まれてこないこと、次に良いのは来たところに早く戻ること」という思想を詩や戯曲で語った。これは人間が生まれることの否定である。彼らは人間が生まれることと生まれないことを比較し、生まれないほうがより良いと結論した。彼らはこの考えを現存人にも当てはめ、「私たちは生まれてこないほうが良かった」と詠嘆した。このタイプの否定から、ネガティヴでペシミスティックな生命観・人間観が出てきた。このタイプの反出生主義は、近代以降のショーペンハウアー、シオラン、ベネターらに影響を与えた。ベネターは自らの立場を「プラグマティックなペシミズム」と呼んでいる*。以上は、古代ギリシアだけでなく、現代社会においても広く見られる考え方である。現在でも生き続けているのである。

(2)輪廻否定型
これは主に古代インドに見られる反出生主義である。これは人間が死後に再び生まれることの否定である。古代インド人は、死後に人間の我(アートマン、アッタン)や五蘊は他の有感生物(人間を含む)へと輪廻し、この輪廻は果てしなく続くと考えた*。これは苦しみのある生が果てしなく続くことを意味する。それを避けるために、原始仏教の修行者たちは修行によって涅槃に至ろうとした。人間世界で涅槃の状態に達したとき、人間の輪廻は停止し、その人間はいかなる世界へも再び生まれることはない。これはユニークなタイプの反出生主義だと考えられる。なぜなら、修行者は将来みずからが生まれないことを願って修行をするからである。今日、上座部仏教の修行者はそれを目指している。原始仏教によれば、すべての出生は行なわれないのがもっともよい。なぜならすべての出生は苦の世界への出生だからである。この命題だけに注目すれば原始仏教は反出生主義であると言える。ただし原始仏教では、涅槃に至る可能性のある人間世界への出生は肯定されるとしていると解釈できる。また原始仏教では、すべての人間が輪廻の否定を目指すべきであるとは考えない。したがってこれらに注目すれば反出生主義とは言えない。また、子産みに関しては、修行者自身は子を産まないが、すべての人間は子を産むべきではないとは考えない。この人間世界で涅槃に達しなかった修行者は将来輪廻転生して再び人間世界に生まれてこなければならないから、在家の人たちが子どもを産み続けることはその意味で必要である。これらを考え合わせると、原始仏教を反出生主義と呼んでよいかどうかについてはさらなる検討が必要である*。一方、ウパニシャッドにおける輪廻否定の「神々に至る道」の位置づけは仏教とは異なる。

輪廻否定型の反出生主義をどう位置付けるかは、今後の研究課題である。ショーペンハウアーは輪廻否定型の反出生主義から大きな影響を受けているが、その後の欧州や英語圏の反出生主義はこの形態を正しく視野に入れていないように思われる。

(3)出産否定型
これは人間が子どもを産むことの普遍的否定である。すべての人間は子どもを産まないほうがよいとする。ショーペンハウアーはこの考え方を好意的に受け止めるような書き方をしており、ツァプファは出生率を下げることによって人類絶滅を目指す考え方を提唱している*。すでに述べたように、2006年にベネターとド・ジローによって反出生主義という言葉がこの考え方へと適用された。これまでの反出生主義アクティヴィズムは、反出生主義という言葉を、出産否定型の反出生主義の意味で使用してきた。そのような反出生主義は「反生殖主義anti-procreationism」とも呼ばれてきた。2021年1月に、日本のアクティヴィズムとして「無生殖協会The Association of Anti-Procreationism in Japan」が古野裕一と穂積浅葱によって設立された。彼らは、「苦痛を感じ得るあらゆるものの生成に反対する」としている*。彼らは、すべての人間は子どもを持つべきではないし、すべての人間はヴィーガンになろうと目指すべきであると主張する*。彼らは、人間の手によって有感生物が産み出されることも否定するので、人間だけを対象とした反生殖主義よりも広い視野を持つと言える。ヴィーガニズム一般と親和性があり、また海外の反出生主義アクティヴィズムとも類似性がある。無生殖協会については、本誌本号にてインタビュー記事が掲載されているので参照してほしい。

思想史的に見たとき、少なくとも以上の三つのタイプの反出生主義があると私は考えている。しかしながら、反出生主義とは何かについて、まだ世界的コンセンサスがないことはすでに述べたとおりである。以上の3タイプの分け方も、森岡独自のものである。

反出生主義の思想史の研究は世界的にも開始されたばかりである。2014年に刊行されたケン・コーツの『反—出生主義 ― ブッダからベネターに至る拒否主義哲学』はそのもっとも早いものである。彼は、反出生主義の源流をヒンドゥー教と原始仏教に置き、ショーペンハウアー、ハルトマン、ツァプファ、ベネター、ベケット、サルトルらを概観した。私は2020年に『生まれてこないほうが良かったのか?』を刊行し、古代ギリシア、古代インドから始まり、ショーペンハウアー、21世紀のベネターに至る反出生主義の思想史をコーツとは異なった観点から考察し、「誕生肯定」の概念へとつなげた。同じく2020年にカテリーナ・ロックマノヴァの編集した『反出生主義の歴史 ― 哲学は生殖の問いにいかに立ち向かってきたか』が刊行され、古代ギリシアから中世ヨーロッパを経て現代に至る詳細な西洋の反出生主義の思想史が考察された。

ロックマノヴァらは、反出生主義を「原―反出生主義proto-antinatalism」と「現代の反出生主義modern antinatalism」に分類する。原―反出生主義とは古代ギリシアから19世紀のショーペンハウアーの頃まで顕著であったものである。たとえばソポクレスに見られる「いちばん良いのは生まれてこないこと、次に良いのは来たところに早く戻ること」という出生の嘆きがその例である*。古代ギリシアの原―反出生主義についてロックマノヴァは次のように言う。「古代の反出生主義的思索はやや受動的なものとして特徴づけられると言わなければならない。というのも、それらの嘆きは、具体的な解決策の提案に至ることはないからである」*。すなわち、生まれてきた不幸を嘆いているだけであって、たとえば子どもを産むのをみんなでやめようというような具体的提言には結びついていないというのである。これは正しい評価であろう。

むしろ私が注目したいのは、ロックマノヴァらが古代ギリシアの「誕生否定」を「原―反出生主義」と名付け、反出生主義のプロトタイプとして認めている点である。古代ギリシアからショーペンハウアーまで続く出生の否定の思想もまた広大な反出生主義の一部であるとみなす彼らの視座は、思想史研究から必然的に出てくる帰結であろう。もちろんそれらの思想は、現代の反生殖主義とは異なる様相を持つものであるが、しかしながら出生に対してネガティヴな視線を注ぐという点では、根底において共通するものを持っているのである。

ロックマノヴァは、ソポクレスのようなタイプの反出生主義を「広義の反出生主義antinatalism in the broader sense」と呼び、後のベネターのように子産みを控えることで人類の絶滅を目指すタイプの「狭義の反出生主義antinatalism in the narrow sense」から区別する*。ここにおいても、ロックマノヴァが「誕生否定」を広義の反出生主義に属するものとして捉えている点が注目される。

同書で、カリム・アケルマも、ショーペンハウアーをいわば原―反出生主義の大成者と見ている。たしかにショーペンハウアーの強調点は「人間は生まれてこないほうがいちばん良かった」というところにあり、それに比べれば子産みの否定については好意的ではあるがさほど強くは主張されていない。アケルマは、ショーペンハウアーの影響下にありながらもその形而上学から解き放たれた現代最初の反出生主義者かつ反生殖主義者としてクルニッヒKurnigという人物を発掘している。クルニッヒは1903年に『ネオ・ニヒリズム』という書物を刊行した。アケルマによれば、これは反生殖主義に一冊の本が捧げられた史上最初の例であるという*。19世紀のエドゥアルト・フォン=ハルトマン、20世紀のクルニッヒやツァプファらを通過し、21世紀のベネターに至る流れが現代の反生殖主義としての反出生主義である。そこでは子産みを控えることによって人類の絶滅を目指す思想が直接的に主張されているのである。反生殖主義の登場が20世紀まで遅れる理由のひとつは、効果的な避妊法がそれまで存在しなかったことにあると考えられる。コンドームやピルなどが普及することによってはじめて、反生殖主義を具体的なプログラムとして考案できる環境が整ったのである*

今日の反生殖主義としての反出生主義は、このような2000年以上にわたる反出生主義の思想史の蓄積の上に開花した思想であると言えるだろう。原―反出生主義という名称だけを聞くと、これは過去に存在したものであって、現在はもはや存在していないという印象を持つかもしれないが、それは間違っている。現代においても、ソポクレスのような出生の嘆きは広く存在するし、そこから導かれるところの誕生についての普遍的な否定や人生に対するネガティヴな視線も広く存在する。

以上の考察をもとに、反出生主義の全体を表わす図2を作成した。この図では反出生主義を1階部分と2階部分に分けた。1階部分は古代から現代まで通底して存在する原―反出生主義である。2階部分は、20世紀になって1階部分の上に新たに登場した反生殖主義としての反出生主義である。2階部分が古代ギリシア型の上にだけ乗っているのは、現代の反生殖主義には古代インド型の反出生主義の考え方が見られないからである。その理由としては、現代においても南方仏教を中心に出家という形の反生殖行動が制度化されて生き続けており、そこにおいて人々の中にある反生殖への動機がある程度満たされていることがあげられるかもしれない。その意味では、キリスト教におけるカトリックや修道会の性的禁欲をどう位置づけるかという問いが出てくる。これは今後の課題としたい。
ところで、1階部分と2階部分のすべてを含み、2階部分が誕生する契機ともなったのが19世紀のショーペンハウアーである。ショーペンハウアーは古代ギリシア的な原―反出生主義と古代インド的な原―反出生主義を受け継ぎ、反生殖主義にも好意的な意見を持っていた*。反出生主義の思想史の中でもひときわ特異な人物であると言えるだろう。

 

4 反出生主義概念のカテゴリー分類

ここで、思想史の観点を離れ、反出生主義の概念それ自体を考察したい。
反出生主義の概念にも多様なものが存在する。以下に、私のカテゴリー分類の試案を紹介する。これは反出生主義とそれに隣接する概念をカテゴリー分類したものであり、反出生主義者を分類したものではない。人は、以下の複数のカテゴリーを同時に持つことができるからである。

A:すべての出生は悪い(生まれることは悪い。産むことは悪い)。
*すべての出生は必ず悪い。
【A—1:ベネター型】苦しみがあるのは悪いが、快がないのは別に悪くないという快苦の非対称性に基づく。誕生害悪論とも呼ばれる。
【A—2:苦痛回避型】もし生まれなかったならば、苦しみは感じなかっただろう。もし産まなければ、苦しみを感じる子どもは出現しないだろう。ネガティヴ功利主義型とも呼ばれる。
*すべての出生は全体として悪い。
【A—3:ロシアンルーレット型】もし人類が出産を続けるならば少なくともひとりの子は成長後に不幸になるだろう。たとえ幸福になる子がたくさんいたとしても、その中の少なくともひとりの子は不幸になるわけだから、そのひとりの子を必ずどこかに生み出すという意味で、出生は全体として悪いと考えざるを得ない。
*【A—4:同意不在型】生まれてくる子からの同意が不在である。
*【A—5:多様性許容型】すべての出生は悪い。すべての人は子を作るべきではない。だが、「他人が子産みを肯定する考え方を持ち続けること」は許容されなければならないし、「他人が間違った考え方を持つこと」も許容されねばならない。
B:【B—1:誕生否定型】生まれることは悪い。私たちは生まれないほうが良かった。産むことの善悪については判断することも判断しないこともある。
C:生まれることは必ずしも悪くない。
*【C—1:出産否定型】生まれることは必ずしも悪くない。産むことは必ず悪い。
*【C—2:輪廻否定型】輪廻によって他の世界やこの世界へと再び生まれることは停止されるべきである。次の世界に生まれることは、次回以降の輪廻によって涅槃に至ることを目指すときにのみ肯定的な意味を持つ。
*【C—3:チャイルドフリー】私は子を作らない。しかし私は「すべての人は子を作るべきではない」とは主張しない。
D:【D—1:反―出生奨励主義】誰かに産めと強制するのは必ず悪い。国家、社会、親族、個人、イデオロギーによる出産強制・賛美に反対する。
E:有感生物志向反出生主義。人間だけでなく、苦しみを感じる宇宙人・AIロボットにも適用され得る。
*【E—1:畜産型】すべての畜産は廃止されるべきである(人類が自主的に絶滅する以前に)。
*【E—2:有感生物型】すべての有感生物は絶滅するべきである。
*【E—3:バイオテクノロジー型】すべての有感生物の苦しみはテクノロジーによって除去されるべきである。
F:【F—1:全生物型】すべての生物は絶滅するべきである。エフィリズム。
G:【G—1:非存在型】すべてのものは存在すべきでない。完全なる無が望ましい。否定の最大形。

以上をもちいて、私は次のようなグルーピングを考えている。

*狭義の反出生主義(A-1, A-2, A-3, A-4)
*広義の反出生主義(A-5, B-1, C-1, C-2, E-1, E-2)
*反生殖主義(A-1, A-2, A-3, A-4, A-5, C-1, E-1, E-2)
C-3, D-1, E-3, F-1, G-1は反出生主義ではない

以上のカテゴリー分類は、反出生主義のすべてのパターンを網羅したものではない。個々のカテゴリーには具体的な主張者がいる場合(A—1など)と、必ずしもそうではない場合(A—5など)が含まれている。私の分類以外にも様々な分類が考えられるので、それを行なうときの参考にしていただければうれしい。

私は「誕生否定」の考え方を心の底に持っているが、私自身は反出生主義者ではない。私自身がもっとも近いのはB—1の「誕生否定型」である。だが、誕生否定型の反出生主義は「【私たち】は生まれないほうが良かった」という普遍的な主張するのに対し、私は「【自分は】生まれないほうが良かった」という個人を対象とした考えを持つに留まっている。この一点において、私は反出生主義者ではないということになる。『生まれてこないほうが良かったのか?』やその他の論文で書いたように、私は自分の内面にある誕生否定を克服するために、生まれてきて本当に良かったという意味での「誕生肯定」の概念を提唱している。この「誕生肯定」もまたきわめて個人的なものであり、私はけっしてすべての人は誕生肯定すべきだとは考えていない。誕生肯定の可能性はすべての人に開かれていると予想しているが、しかしその可能性を追求するかどうかは個々人にゆだねられており、誕生肯定したからといって価値の高い人生になるわけではないと私は考える。

また、誕生肯定は必ずしも反生殖主義と対立するものではない。反生殖主義者が、人生をかけて反生殖主義を世に広め、その結果として、自分はこれだけのことをできたのだから生まれてきて本当によかったと「誕生肯定」の境地に至る可能性もある。誕生肯定と反出生主義との関係は、奥深い論点を含むので、さらなる研究が必要である。

5 狭義の反出生主義の問題点

本章では、反出生主義のうち、「狭義の反出生主義」の妥当性を吟味する。

狭義の反出生主義、すなわち【A—1:ベネター型】、【A—2:苦痛回避型】、【A—3:ロシアンルーレット型】、【A—4:同意不在型】の4つは、すべての人間の出生は普遍的に悪いから、すべての子産みは行なうべきではないと主張する。これらの主張は思想としては問題なく成立する。しかしながら、これらの主張は、「みずからの立場のみが正しく、子産みを肯定する考え方は普遍的に誤りである」と断定できるほど強くはない。そのことを以下に考察していきたい。

(1)【A—1:ベネター型】
これは、苦しみがあるのは悪いが、快がないのは別に悪くないという快苦の非対称性に基づいて、出生はつねに悪いと結論する考え方である。生まれてきた子どもに針の一刺しの痛みがあればその子どもの人生は全体として必ず悪いものになる。したがって、生まれてくることは生まれてこないよりも必ず悪く、よってすべての出産は行なうべきではないということが普遍的に言える。この考え方はすでにショーペンハウアーに見られるが、20世紀におけるナーヴソンとフェターによる議論を経て、ベネターの『生まれてこないほうが良かった』によって理論的にまとめられたものである。この議論が正しいかどうかについては、哲学者たちのあいだで議論が続いており、ベネターは自身への数多くの反論に対して再反論を試みている。私の見るところ、デイヴィッド・ブーニンやエリック・マグヌソンらによる反論のいくつかはベネターの弱点を的確に突いていると考えられる*。私自身は『生まれてこないほうが良かったのか?』第7章においてベネターの議論に反論を行なった。また本誌本号に掲載された拙論において別角度からベネターの議論の誤謬の指摘を行なったので参照してほしい*。結論として、ベネター型の反出生主義の擁護は、ベネター自身が主張するほど強いとは考えられない。

(2)【A—2:苦痛回避型】

人が生まれてくれば、必ず苦しみを感じる。人が生まれてこなければ、けっして苦しみを感じることはない。苦しみを感じるのは悪いことであるから、人は生まれてこなければすべてが解決する。このような考え方である。

これについては2つの問題点がある。

問題点1は、「存在があって苦痛があることよりも、存在がなくて苦痛がないことのほうがより良い」という前提に立っているが、その前提が普遍的に正しいとする根拠を示すことができない点である。たとえば、「たとえ苦痛があったとしてもそれを乗り超えて喜びに達した人生は、〈存在しないから苦痛もない〉ことより劣っているわけではない」とする説があったとして、その説を誤りとして退ける根拠を苦痛回避論は提出できない。なぜなら、苦痛回避論は、苦痛が存在するか存在しないかという一点にのみ考察を絞り込み、快や喜びが人生に与えるポジティブな側面を考慮に入れないからである。苦痛回避論の支持者が上記の説に反論するためには、人生に苦痛があるだけでその人生は始まるに値しなくなると返答するか、あるいは、たとえどのような大きな快や喜びがあったとしても苦痛の存在はその快や喜びの価値を全部ダメにすると返答するしかないであろう。しかしながら、前者によっては上記の説は否定されない。なぜなら、苦痛がそもそも存在しないほうが苦痛も喜びも存在するよりも「より良い」と言える根拠はやはり説明されていないからである。言い換えれば、苦痛回避論は「生まれてきたら苦痛があるから、生まれてこないほうがぜったいに良い」と主張するのだが、その主張の裏にはそもそも「生まれてくることの善悪を考察するときに苦痛以外のことは一切考慮に入れなくてよい」という隠れた前提があるにもかかわらず、その前提が正しいことをまったく立証できていないのである。また後者は苦と快の非対称的な比較を行なう議論であるから、ベネター型と同じ難点を持つこととなる。

問題点2は、仮に苦痛回避論が苦痛の大小を取り入れて、小さな苦痛ならば快や喜びによって帳消しにされ得るが、大きな苦痛についてはいくら快や喜びがあったとしてもけっして帳消しにされ得ない、という主張をするようになったとしたら生じる問題点である。まず、小さな苦痛は快や喜びによって帳消しにされ得るとすれば、苦痛回避論は出生を普遍的に悪いと言うことができなくなる。というのも、快や喜びによって帳消しにされ得ない大きな苦痛を経験することなく一生を終える人生はあり得るからである。そのような人生へと生まれてくることを苦痛回避論は否定できなくなる。また、小さな苦痛と大きな苦痛の境界線は人によって異なるだろうから、どれが普遍的に悪い人生なのかは客観的に決まらないことになる。もし、快や喜びによって帳消しにされ得ない大きな苦痛を経験する人生は、少なくとも人類の誰か一人に必ず起きるという主張に変更するとすれば、それは次項のロシアンルーレット型になる。

(3)【A—3:ロシアンルーレット型】

これは、人類が出生を続ければ、人生が不幸なものになってしまう人間が少なくとも一人は生まれることになるであろうから、その一人の不幸な人生を防ぐために、すべての出生は行なわれるべきではないと主張するものである。

これについては2つの問題点がある。

問題点1は、ロシアンルーレット論によっては、次のような立場を退けることができないという点である。すなわち、「たとえ苦しみのせいで人生が不幸なものになってしまいそうな人間がいたとしても、人々が積極的にその人間をサポートして人生を不幸なものから脱出させる仕組みが社会のなかに効果的に備わっているとしたら、すべての出生は行なわれてもかまわない」とする立場を退けることができない。もしロシアンルーレット型の支持者がこれを退けようとするならば、その支持者は可能性による反論、すなわち、そのような理想社会が成立する現実的可能性は極端に低いので、そのような立場を設定することは無意味であるという反論をするしかない。しかしそのような反論は、同趣旨での再反論すなわち「すべての出生を禁止させることができれば苦しみは一切起きないと反出生主義者は言うが、そのような理想が成立する現実的可能性は極端に低いので、そのような立場を設定することは無意味である」という再反論を許してしまい、反論と再反論の強さは拮抗してしまうこととなる。したがってロシアンルーレット論は上記の立場を退けることができない。この議論から副次的に分かるのは、出生を擁護する者は、人生が不幸なものになってしまいそうな人間を不幸な人生への道筋から確実に脱出させる強い義務を負うということである。子産みは、この義務の履行が前提条件になる。したがってロシアンルーレット型の論理は、反出生主義を擁護するものとして機能するのではなく、むしろ出生を擁護する側にきびしい道徳規範を課すものとして機能するのである。出生を擁護する側こそが、ロシアンルーレット型の論理をみずからの基盤に置かなくてはならない。

問題点2は、以下である。ロシアンルーレット型は、生まれてくる人間の利害にのみ焦点を当て、すでにこの世に存在しており子どもを産むことが予想される現存人の利害を無視する議論である。しかし、子産みの是非を問うときに、現存人の利害が無視されてよいという根拠は示されていない。これは多くの反生殖主義に当てはまることだが、とくにロシアンルーレット型については重要になる論点である。「少なくとも一人の子どもは不幸になるだろう」というリスクがあるという理由で、現存人の持つ「子どもを産み育てることの喜びと幸せを自分が味わいたいし、子どもにも生きることの喜びと幸せを味わってほしい、そのためにはできるだけの努力をしたい」という願いは〈すべて〉拒絶されなくてはならないとロシアンルーレット論は主張するわけだが、その根拠が示されていない。不幸になるであろう少なくとも一人の子どもの出生を回避するために、「現存人のすべての子産みの希望」と「将来生まれてくるであろう多数の人間がトータルとして幸せになるすべての可能性」は潰されなくてはならない、とする根拠が示されていない。

「子産みは親のエゴである」という反論が反出生主義者からなされることがあるが、社会の中で我々は他人の福利を下げる可能性のある様々なエゴ(たとえば、私がある賃貸物件に住むことは、そこに住むことではじめて文化的な生活を送れるかもしれなかった未知の人の福利を下げる、あるいは入試で合格することは誰かを蹴落とすことになる等)の一部を現に許容しており、子産みがなぜその許容範囲に入らないのかを説明しなければならない。それに答えようとして、子産みはそれらの社会行為とは異なり、苦痛を感じる存在を無から作り出すことであると言うならば、その反論はふたたび苦痛回避型の問題点へと戻されることになる。また、「反出生主義は子どもの利害を第一に考える優しい思想である」と言われることがあるが、それが優しい思想であるということは「子産みが普遍的に間違っている」ことの証明にはならない。

次の議論も参考になるだろう。まず一般的に言って、社会においてロシアンルーレット論による規制が成立しない場合がある。それは、(1)その規制によって失われる利益が社会全体を揺るがすほど大きい、かつ(2)利益を維持するための他の代替手段が存在しない場合である。例1:「職場のセクハラ」の規制は(1)は大きくない(2)は存在する(コスプレ風俗店利用など)ので、規制は成立し得る。例2:「交通事故の危険性のある自家用車」の規制は[A]都心部では(1)は大きくない(2)は存在するので、規制は成立し得る。[B]田舎では(1)は大きい(2)は存在しないので、規制は成立しない(ただし個別の事故被害が減少するような対策が必要である)。出生の規制については現存人の利害を考慮に入れると(1)は大きい(2)は存在しないので、規制は成立しない。ただしこの議論が無から存在を作り出すケースに十分に適用可能かどうかについては、まだ不明瞭な点が残るので今後の考察が必要である。

以上の意見に対し、そもそも一切人間を産まなければこれらの問題それ自体が生じないのだから産まないのが正解であると答える人は、「たしかに産まなければこれらの問題は生じないというのは正しいが、なぜそのことをもってすべての人間を産んではならないと普遍的に結論できるのか」という当初の問いに直面し、振り出しに戻ってしまう。

と同時に考えておかなければならないのは、もし生まれてくるすべての子どもが確実に不幸になるような場合についてはどうかという点である。たとえば、地球環境が激変して未知の放射線が地球に降り注ぎ、生まれてきたすべての子は残りの人生で耐えがたい苦しみを必ず経験し続けるというケースを考えてみよう(大人はすでに成長し切っているから放射線の影響は受けない)。これはすべての弾倉に実弾が詰まっているロシアンルーレットである。この場合は、苦痛と快・喜びの両者をどのように考慮したとしても、子どもを産むことは控えるべきという答えになるように思われる。反生殖主義の正当性が確認されるのはこの場合およびこれに近い場合に限られる。現在の状況では、人生に満足して生を終える人が多数いる以上、このような環境に人類は置かれていないと言える。ここから分かるのは、出生を擁護しようとする側は、人類が生きていくうえでの自然環境・社会環境をこのようなものにしないために大きな努力を今後も継続しなければならないということである。ちなみに私は出生は普遍的に擁護されるべきとは考えないので、ここでは仮にその立場に立ったと想像して語っているのである。

(4)【A—4:同意不在型】

これは、生まれることへの同意が子ども本人から取れてないのに子どもを存在させるのは間違っているとする反論である。これは以下の問題点に直面する。すなわち、出生以前にはそもそも同意主体が存在しないので、同意を取ることは原理的に不可能である。同意主体が存在するときに同意を得ずにその主体に何かを強制するのは間違いになり得るが、その論理は同意主体が存在しないときには適用できない。したがって、「同意がないから子どもを存在させることは間違っている」とは言えないことが導かれると同時に、「同意がないから子どもを存在させることは間違っていない」とも言えないことが導かれる。要するに同意不在論は子どもを生み出すことについて何の結論も導けないのである。

これに対して、子どもが生まれて成長したあとから、自分の誕生を振り返って、「なぜ自分が同意していなかったのに、自分を産んだのか」という問題提起がなされ得るから、そもそも子どもを産むべきではないという反論が行なわれることがある。しかしこれについては、その問題提起そのものが「出生前に同意主体が存在する」という誤認に基づいていると解釈できるので、そもそも正しい問いになっていないと言える。もし誤認していないのならば、その反論はふたたび前パラグラフの論点に直面する。

もしこの問題提起が「自分を産まなければ苦しまなくてすんだのに、お前が産んだからこうやって苦しんでいるのだ」と親を指さして恨むものであったとしたら、それは非常に一面的である。というのも、その恨みは「なぜお前は若いときに自殺しなかったのか。自殺していれば私は生まれていなかった」とか、「お前はなぜ結婚を選んだのか、結婚していなければ私は生まれていなかった」など、産む行為ではないところにまで拡張できるはずであるし、さらには祖父母に向かって「なぜお前は私の親を産んだのか」と恨むところまで拡張できる。さらには日本に向かって「なぜ戦争に負けたのか。負けなければ私は生まれていなかった」と言うところまで行くことができる。このように恨むべき対象は無限に広がり得るにもかかわらず、目の前の親のある時点の性交渉にのみ焦点を絞って恨むという点できわめてバランスを欠いている。いちばん距離の近い親を名指しする心理はよく理解できるものの、論理全体としては弱いと言わざるを得ない。また、その問題提起が「産まなければ、そもそもこんな苦しみはなかったはずだ」という私怨で止まっている場合、それは「すべての出生は行なわれるべきではない」という反出生主義の思想にまでは到達していないと言える。

以上より、四つの狭義の反出生主義は、それぞれ思想としては成立するが、それらの主張は、「みずからの立場のみが正しく、子産みを肯定する考え方は普遍的に誤りである」と断定できるほど強くはないことが結論される。狭義の反出生主義の問題点、そして反出生主義一般の問題点は他にもあるが、ここではもっとも重要と思われるもののみを考察した。

 

*本論文を執筆するにあたって、筆者からの質問に答えてくださった穂積浅葱氏、反出生主義概念のカテゴリー分類にご意見をくださった羽根井氏に深く感謝いたします。
*本論文は、日本学術振興会科学研究費20K00042、17H00828、20H01175の成果である。
*訂正[2021年4月16日]: 47頁下から12行目「2007年」→「2010年」。56頁下から10行目「ロックマノヴァは」→「ロックマノヴァらは」。

文献一覧

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森岡正博(2021)「デイヴィッド・ベネターの誕生害悪論はどこで間違えたか ―生命の哲学の構築に向けて(12)」『現代生命哲学研究』第10号、1-38頁。
森川輝一(2010)『〈始まり〉のアーレント ― 「出生」の思想の誕生』岩波書店。
吉本陵(2014)「「人類の絶滅は道徳に適うか? ― デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」とハンス・ヨーナスの倫理思想」『現代生命哲学研究』第3号、50-68頁。
吉沢文武(2019)「ベネターの反出生主義をどう受けとめるか」『現代思想』9月号、129-137頁。
古野裕一・穂積浅葱(2021)「無生殖協会の目指すもの ― 本当に“善い”反出生主義に向けて」『現代生命哲学研究』第10号、68-77頁。
Akerma, Karim (2020). “Kurnig and His Neo-Nihilism,” in Kate?ina Lochmanová (ed.) History of Antinatalism: How Philosophy Has Challenged the Question of Procreation. Amazon Services International, pp.125-145.
Antiprocreation (2016). The Antinatalist Manifesto. Amazon Services International.
Benatar, David (2006). Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence. Oxford University Press.
Boonin, David (2012). “Better to Be.” South African Journal of Philosophy 31(1):10-25.
Cheng, Chaoze (1991). Communication Techniques in China’s Planned Birth. Gazette 48:31-54.
de Giraud, Théophile (2006). L’Art de guillotiner les procréateurs: Manifeste anti-nataliste. Le Mort-Qui-Trompe.
de Giraud, Théophile (2021). The Childfree Christ: Antinatalism in early Christianity. Amazon Services International.
Heitlinger, Alena (1991). “Pronatalism and Women’s Equality Policies.” European Journal of Population 7:343-375.
Lochmanová, Kate?ina (2020). “Protohistory of Antinatalism: Antiquity and the Middle Ages,” in Kate?ina Lochmanová (ed.) History of Antinatalism: How Philosophy Has Challenged the Question of Procreation. Amazon Services International, pp.37-52.
Magnusson, Erik (2019). “How to Reject Benatar’s Asymmetry Argument.” Bioethics 2019:1-10.


1 出生肯定主義者あるいは出生主義者の定義もまた論者によって様々である。出生をすべて肯定する者か、出生を少なくとも一部は肯定する者か、出生を行なった人間を肯定する者か、反出生主義者を否定する者か、判然としない。

2 かならずしも「すべての」というところまでは言っていないケースについては、たとえば「反出生主義的な考え方」などの書き方をしていきたい。

3 デビットは「ト」となっている。

4 Google Trendsの検索結果は、検索時期を変えると結果も微妙に変わるので、月単位の正確さはないと考えたほうがいい。

5 森岡正博(2013), p.2.

6 「すべての人間は」となっており、「私は」ではない点に注意してほしい。

7 森岡正博(2013), p.2.

8 森岡正博(2021)でより正確な検討を行なった。

9 私の科学研究費基盤研究(C)「「生命の哲学」における生存肯定の基礎的研究」(2011-2013年)の報告書(2014年5月30日)では「非―出生主義」という言葉が使用されている。雑誌『ちくま』2014年6月号の連続エッセイ「生命の哲学へ!」第4回では「「反―出生主義anti-natalism」」という言葉が使用されている。2014年秋学期に京都大学文学部で行なった講義(非常勤)では「「反−出生主義anti-natalism」(非−出生主義)の哲学」という言葉を使用している。

10 加藤秀一(2010), p.106.

11 加藤秀一(2007), pp.19-20.

12 森川輝一(2010), p.281. したがって、「反出生主義」という日本語の選択は、anti-natalismの訳語として不適当であるとは言えないと考えられる。ただし、ベネターとアーレントの「出生」に対する考え方はまったく異なっていることに注意しておく必要がある。また本論文ではアーレントのnatalityの思想と反出生主義の比較研究は行なわないが、この論点は単なる翻訳の問題を越えて本質的な問いである。

13 Heitlinger (1991), p.344.

14 Cheng (1991), p.34.

15 以上はBenatar (2006), p.8.

16 「birth」には、誕生(生まれること)と出産(産むこと)の両方の意味がある。

17 de Giraud (2006), p.7.

18 de Giraud (2006), p.82. 「子どもの第一の権利を愚弄することによって子どもの権利を深く損なった者」とは親のことである。

19 http://vhemt.org/(2021年2月8日参照)。

20 http://www.efilism.com/(2021年2月8日参照)。

21 http://www.efilism.com/(2021年2月8日参照)。インメンダムは、瞬殺装置によって人間や人類を消し去ることを肯定するように取れる発言も行なっており、Antinatalism内部で論争を起こしている(https://www.youtube.com/watch?v=qEFhn08miqk参照)。瞬殺装置による人類の無化についてはすでに1950年代のネガティヴ功利主義による議論がある。

22 Antiprocreation (2016). Amazon.comのKindle版の発行年は2016年である。それ以前の版の発行年があるかもしれないが、追跡できなかった。

23 ちなみに同年8月に北海道大学で開催された第1回「人生の意味の哲学国際会議」にはベネターとランダウが出席発表している。この分野の人的交流状況も興味深い。

24https://antinatalisminternational.com/what-is-antinatalism/#1601628649736-f2e278a6-0b08(2021年2月8日参照)。チャイルドフリーの運動は1970年代から存在する。

25 たとえばウェブサイト「虹魂」(https://0dt.org/)は早い時期から反出生主義についての記事を書いている。ただしこのサイトが「反出生主義」という言葉をいつから使用し始めたかははっきりとしない。

26 http://therealarg.blogspot.com/2017/12/introduction-to-antinatalism.html(2021年2月8日参照)。

27 http://therealarg.blogspot.com/2017/12/introduction-to-antinatalism.html(2021年2月8日参照)。

28 森岡正博・戸谷洋志(2019), p.19.

29 たとえばAntinatalism Internationalによる2021年2月の私へのYouTubeインタビューのコメント欄において、maker rainなる人物が「Masahiro Morioka is an infamous Pro-natalist here in Japan」(森岡正博はここ日本では悪名高い出生肯定主義者である)との投稿を行なっている。<https://www.youtube.com/watch?v=123mtxZXck0> 2021年2月21日閲覧。人類が絶滅しないことを命令として規定するハンス・ヨーナスのような哲学者こそが出生主義者と呼ばれるべきである。

30 以上は、森岡正博(2020)にて詳述した。

31 輪廻については、今日の40歳以下の日本女性の70%は輪廻を信じているとの2009年の調査結果がある。西久美子(2009), p.72.

32 原始仏教と反出生主義の関係については、森岡正博(2020)、第5章で詳述した。

33 森岡正博(2020)、第2章・第3章参照。

34 https://aapj.jimdofree.com/(2021年2月11日確認)

35 穂積浅葱氏に確認した。

36 Lochmanová (2020), p.40.

37 Lochmanová (2020), p.42.

38 Lochmanová (2020), p.112, p.123.

39 Akerma (2020), p.126.

40 ベネターは、避妊を失敗した人に責任を負わせるのは難しいと述べ、避妊措置を行なったうえでの膣内性交を許容する(Benatar (2006), p.126)。しかし今日の反生殖主義者の中には、避妊の失敗のリスクを重く見て、すべての人間は膣内性交を行なうべきではないと主張する者もいる。反生殖主義の内部で見解の分かれるところである。

41 森岡正博(2020), p.103.

42 Boonin (2012), Magnusson (2019).彼らの批判を考察した鈴木生郎(2019)も参照。

43 森岡正博(2021).