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作成:森岡正博 
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ヘルペス脳髄膜炎という病気をして

Higuchi

 私は今年の7月で29歳を迎えます。ここ10年間の間に想像もつかない事が起こりま
した。これから書く内容は嘘偽りもない事実です。
 私は1990年3月1日に地元の高校を無事に卒業しました。その日は卒業式だというのに
朝から雨が降っていました。とても3月とは思えないほどの寒さでした。
 1月の下旬から風邪をひいてしまってなかなか直りませんでした。
 でも、4月から大阪にある調理技術専門学校に通学する事になっていたのでバイトを
して少しでも大阪での生活費の為に働いていました。バイトの休みの間は地元の中学
の友人数名と別れを惜しんだりしていました。同級生が私のために送別会を開いて
くれました。そして、その席で私はおかしな行動をとっていたそうです。友人の1人
がケーキを買ってきてくれましたが私はそのケーキを右手で握り潰してしまったり、
最後だからと友人達に大切にしていたアクセサリーやバツクなどをあげていたそうで
すその当時の友人は「大切にしてるのに悪いな。でも、R子の気持だから。」と思い
ながら遠慮せずにもらっていたそうです。
 そして、大阪に向かう前日に私はこたつの上で「ほんとうは大阪に行きたくないけど
行かなくちゃいけない!」と言って大声で泣いていたそうです。うちの両親は「無理
していくことない。学校は関東にも沢山あるんだから」と言ったら私が「大丈夫、大
阪に行くよ。」と言って2階の自分の部屋に行ったそうです。そして翌日の4月1日に
両親と兄の運転で大阪に向かいました。浜名湖インターで京都の友人に電話をかけた
直後に私の様子がおかしくなり始めたそうです。電話ボックスのガラス壁を思いっき
りけ飛ばしたり、大阪の寮に着いたとたん知らない人の部屋にズケズケと入ったりし
て、突然「私は身も心も裸です。」と言っていきなり服を脱ぎだしたり、帰りの高速
道路を走行中にも運転している兄の頭を魔法瓶で思いっきり殴ったりしたそうです。
その直後に私が頭をかかえて「お母さん、頭が痛いよ。頭が割れるようにいたいよ。
」と言ったそうです。
 自宅に到着して翌日の朝、私は何もなかったように元気だった。そして「お父さん、
疲れたでしょコーヒー入れたから飲んでね。外に行って朝刊を取ってくるね。」何分
たっても私は戻ってこなかったそうです。隣に住んでいる幼なじみの男の子が「おば
さん、R子が変だよ。人が寝ている所に勝手に入って来た。」
 うちの両親は今までの私の異常な行動に私が精神病になってしまったと思い市内にあ
る精神病院に私を入院させたそうです。隔離室に入った私は便器の中にシーツや下着
などを突っ込んだりしてたそうです。先生がうちの両親に「親族の中で精神病の方は
いますか?」と聞いたそうです。
 もちろんうちの親戚の中には精神病の人はいませんでした。           
 精神科医が「もしかしたら脳疾患でこの子はおかしくなっているかも知れない。
ある総合病院に知り合いの神経内科医がいます。すぐに転院の手続きをしましょう」
そして私は骨髄液を調べた結果 ヘルペス性脳髄膜炎と診断されたそうです。第一級
相当の病気なのでICUの個室は無料だったそうです。
 脳波計は、とても人間の脳波とは思えない状態で、体温が43度以上も出て体温計の針
が吹っ切れたそうです。全身は水膨れで体の皮が剥がれたそうです。舌は顎まで伸び
体はバタバタと波打ち、まるでエクソシストという映画に出て来るようだったそうで
す。私は呼吸が2度停止したそうです。肺炎併発で2度も気管切開をしました(反回神
経麻痺)点滴は一本数十万を4日間し、これ以上点滴をすると私の体は副作用で肝臓な
どがおかしくなります。と言われ、もうこれ以上私の体に点滴の針が刺さるところが
なくなるまで点滴をし、うちの母が先生に「うちの娘をどうか助けてやって下さいお
願いします。」と言ったら先生が「医療には限界があります。お母さん、神様の奇跡
を信じるしかありません。」と言われたそうです。ただただ神様の奇跡を待つしかな
かったようです。
 私が意識のない時、両隣の集中治療室の患者さんは入れ替わり立ち替わりと亡くなっ
ていったそうです。元気になってから私が聞いた話では他の病室の患者さんたちが
「次はあの若い女の子の番かな。」と噂をしていたそうです。
 ある脳神経科医はうちの母に「この子は、たとえ意識が戻ったとしても一生植物人間
になるでしょう。」と言ったそうです。母は「娘は絶対に目を覚ます。大切にしてい
た長い髪の毛を看護婦さんに切られて、意識不明の私の閉じた瞳から涙がこぼれ落ち
たときR子はきっと長い眠りに着いているだけだなんだ。」と思ったそうです。
 病室の外は5月の台風で草木が揺れていました。そして雨がやんで太陽の日差しとと
もに外にある木に一匹のカッコーが鳴いたそうです。
 それは、もう5月下旬の頃でした。私は約40日間ぶりに意識を取り戻したしたんです。
目を静かに開けると天井が見えました。そして、久しぶりに母の顔が見えました。
泣いていました。うちの母が泣いていたんです。自分自身何が何だかわかりませんで
した。そして。担当医が「R子さん、わかりますか?先生の言葉がわかったなら目を2
回瞑って下さい。」私は瞬きを2回しました。
 周辺から拍手が聞こえてきました。でも私は動けなかった。口の中が鉄分の味がして
いました。私が意識のない時、枕の近くに血にまみれた前歯が3本落ちていました。
母は私の抜け落ちた歯を形見にしようと考えていたそうです。
 その時、私は声だすことができませんでした。話すことが出来なかったのです。自力
で呼吸が出来なかったので気管切開をし人工呼吸器を付けていたからです。
 鼻が苦しい。鼻が痛かった。鼻に入れていた管で鼻の穴の付近が膿んでいた。利き腕
である右腕が動かない。動いたのは点滴を刺していた左腕だけでした。
 お尻も痛い、両足の足の裏が変な感じがしました。靴下みたいなものを履いている。
それは靴下ではなくて包帯でした。長い間同じ姿勢で寝ていた為、床ずれが出来てい
たのです。
 でも、正直言ってあの頃は周囲の友人や叔父さん叔母さんが私を見る度に泣いたり
病室から出て行ったりと本当は私が大声を出して泣きたかったです。
 あっそうそう病室から映る外の光景は不思議でした。映る人、車などが全てスローモ
ーションに見えていました。人の話し声も耳鳴りというかビデオによるスローモーシ
ョンで喋っているように感じました。
 そして、目が覚めてから1週間たったときに私は大阪に自分が行けなかった事、そして
恋人のことを考えました。大阪に行っていると思っている恋人に現状を会って話した
いけどベットにいる私は声も出ない第一、前歯が3本ない。みっともない。
 長い髪の毛はザクザクト切られて男みたい、右手も動けないし37度5分と微熱が下が
らない。絶対に会うことなど無理だとわかったら気が狂いそうになった。
 そんな私をうちの母は何とか励まそうと私を笑わせました。
 女性週刊誌は林真理子結婚。ヤックンと石川秀美も結婚。そして人面魚の特集。
星占いは蟹座のあなたはとってもラッキーです。だって!「何がラツキーだよ。アン
ラッキーじやないのよ。」悔し涙を流しながら笑ったらとても苦しかった。
 気管切開した穴から潮吹きのように痰が飛び出しました。そうこうしているうちに私
の19回目の誕生日がやってきました7月11日に栃木県にあるS病院にリハビリのために
転院しました。
 この病院は温泉治療を目的としているので1日に3回は温泉に入っていました

 老人が全体を占め若い子は交通事故で脊髄を骨折した女の子と私だけでした。
 この病院は山の上の丘に建っているので木々などの緑が沢山ありました。
 でも、私は友人たちが進学や就職などで忙しく生活をし楽しんでいるのに私だけが
1人取り残されたような気がして嫌で嫌でたまらなくていつも泣いていました。
私はリハビリを一生懸命しました。早く大阪に料理の勉強をしに行きたかったから。
 そして、恋人にも早く会いたかった。
 そして、約5ヶ月後に半ば強引に退院をして翌年の4月に大阪の学校に行きました。
でも3ヶ月後、合宿している時マラソン中に呼吸困難になり、病院通い学校も休む
事が多くなりました。試験中に右手が突然痺れて包丁を落とすようになり登校拒否、
そして自主退学・・・・
 大阪から戻って、恋人には「専門学校も行けないようじゃ僕と君は釣り合わない。」
と別れを告げられ、友人とも離れて私は自分の殻に閉じこもってしまいました。
 約3年間、ひきこもりの状態でした。
 ある時、このままじゃいけないと思い、以前入院していた精神病院で調理師の受験資
格を取得するために給食の調理員として働きました。でも、1年間しか続かなかった
のですが、ある出会いによって今の夫と知り合って結婚しました。
 正直言ってあの頃の私は心身共に誰も信じられませんでした。
 同情だったらいらない。私の事なんかと卑屈になっていましたが、主人は私の全てを
受け入れてくれました。
 病気をする前は、自己中心的で刺激的な生き方を求めていました。
 健康である事が当たり前で親や友人や恋人がいつも近くにいて、そんな生活に退屈さ
や物足りなさを感じていました。
 そして、自分の人生を変えてしまうほどの病気をしてしまった。
 病気を受け入れることが出来なくて自分の周りの人、友人を羨ましく妬ましく
思っていました。時には、「あんたなんかに私の病気わかるわけないよ。あんたに私
の気持解るわけないでしょ。」と言っては友人を泣かせたりしていました。
 喉の傷を気にして襟のない服は着ない。自分の病気を隠したりしていました。
 でも、今は喉の傷跡を見る度に入院中の辛かった日々を思い出しては「今のつらさな
どあの時と比べたら幸せ。大声で泣くことも出来るし、なんと言っても主人が側にい
てくれる。」とあの気管切開の傷が自分を勇気づけてくれます。
 ヘルペス脳髄膜炎によって、ほとんどの方が死亡しているか重度の後遺症をもってい
るそうです。私は40日間意識不明でしたが幸いにも後遺症はほとんどと言っていいほ
どありません。
 このウイルスはほとんどの人間の神経系にヘルペスウイルスが潜伏しているそうです
疲労などで体力が低下したり栄養の偏りによって口の周辺にプツプツや口内炎もヘル
ペスの仕業です。
 私の場合は脳に進入してしまったのです。ヘルペスウイルスは糖タンパクを用いて
体の中の細胞に感染します。
 幼児期にヘルペスウイルスに感染すると時として再活性化し免疫低下すると騒ぎ出す
そうです。
 一度、発生したヘルペスは私の体の細胞のどこかにヘルペスが潜んでいて終生、共存
するそうですが、免疫低下しないように健康的な生活をしていきたいです。
 世の中には信じられない事が沢山ありますが奇跡は本当にあります。
 そして、これから医療の現場に携わる人に言いたい事があります。長い間意識がなく
ても患者さんに毎日必ず一言声をかけて下さい。名前を呼ぶだけでも良いと思います
もしかしたら、私みたいに目を覚ます人がいるかも知れないから・・・・・
 本当に長い間眠っているだけかも知れません。
 それから、悲観的になって自殺などする人がいますが生きていれば必ず道が開けると
思います。
 そして、亡くなった藤原好さん、私はあなたの存在をまったく知りませんが、あなた
が私と同じ病気で亡くなった事を知り、ヘルペス脳炎になって亡くなった多くの人た
ちのために私は一生懸命生きていきます。

 人生で無駄な時間はありません。私の病気は心の試練という財産になりました。
 当時の私を支えてくれた両親、友人、病院関係の人々、私を暗闇から救い出してくれ
て有り難うございました。そして10年という歳月が私を癒やしてくれました。
 

///////////////////////////////////////////////平凡な専業主婦///////////////

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