生命学ホームページ 
ホーム > 著書 > 脳死の人 > このページ
作成:森岡正博 
掲示板プロフィール著書エッセイ・論文
English Pages | kinokopress.com

脳死の人

 

森岡正博『脳死の人』法藏館、初版1989年、決定版2000年

第5章 私の死と他者の死 (117〜126頁 傍点・文字飾りは省略 後ほど公開される縦書きのPDF版では完全なレイアウトが見られます)

 

「人」の死は医学的、法的側面だけに限られない

 脳死は人間の死か。脳死の人は生きている人間なのか、それとも死んでいる人間なのか。この問題について多くの人が発言をしてきました。
  しかしこの議論は、実際のところ、人間の死の医学的な側面と、法的な側面だけに絞られています。そしてこの二つの側面についてのコンセンサスを得ることが、この議論の最終的な目標のように思われています。
  私は、このような問題の立て方そのものに疑問を感じます。それは次の理由からです。
  (1) コンセンサスを獲得しやすいように、問題が初めから、医学的な側面と法的な側
    面だけに絞られています。
  (2) そうすることによって、人間の死の他の側面が、意図的に無視される結果となっ
    ています。他の側面とは、たとえば人間の死の宗教的な側面、哲学的な側面、社会
    学的な側面、人類学的な側面、そして生活上の感覚の側面などです。
  (3) 医学的な側面と法的な側面を検討すれば、「脳死は人間の死か」について、大事
    な点は検討し終えたことになるという暗黙の雰囲気を作り出しています。
  人間の死のさまざまな側面の関わり合いについては、述べたいことがたくさんあります。ここではまず、「人間の死」を扱い始めると、いくら医学的な側面だけに話を限定したとしても、結局はその枠からはみ出してしまうということをお見せしましょう(その他の点、たとえば科学的な定義と哲学的な定義の混同などについては『生命学への招待』第八章「脳死をめぐる言説構造と倫理」で述べましたので、参照してください)。
  脳死が人間の医学的な死であると述べている人たちの考え方を整理すると、いくつかのパターンに分類されます。
  (1) 脳死になると人間はもう二度と回復することはないので、脳死は人間の死である。脳死とは不帰の点(ポイント・オブ・ノー・リターン)を越えたことを意味する。人間の身体は非常に精密なシステムとして働いているが、脳の中の脳幹と呼ばれる場所が壊れると人間の身体のシステムはばらばらになり、もう二度ともとへは戻らなくなる。〔脳幹死=人間の死〕
  (2) 脳が働かなくなると、人間の内的な意識(感覚・感情・痛み・思考などすべて)は消滅する。内的な意識がなくなった人は死んでいる。脳のすべての働きが壊れると、これらの意識もなくなると思われる。〔全脳死=人間の死〕
  (3) 脳が働かなくなると、人間の第一の特徴である思考力がなくなる。同時に、その人をその人たらしめていたさまざまな性格や性質も失われ、また自分の意思で自分をコントロールすることもできなくなる。このような状態は死と同じである。脳の中の大脳が働かなくなったときにこのような状態になる。〔大脳死=人間の死〕
  イギリスの医学的な脳死の規約は(1)の脳幹死=人間の死、の考え方でなされています。日本の場合は(2)の全脳死=人間の死、の考え方のように思われます。欧米の学者の中には(3)の大脳死=人間の死、の考え方も根強く見られます。
  これら三つの考え方の相違点は、一見医学的な立場の違いのように見えますが、よく見るとそうではなくて、じつはその背後にひそむ「哲学」の違いだということが分かります。
  たとえば(1)の考え方は、システムの全体性(統合性)が壊れてもうもとに返らなくなったことが確定した時点で、そのシステムは死んだことにしようという発想です。これは難しいことばで言えば、システム論的な発想です。この発想の裏には、「人間の生と死」は人間の身体の生理学的なシステムの状態によって決めることができるという哲学があります。すなわち、人間の身体の生理学的なシステムの状態について医学は記述し、語ります。そしてその背後にある哲学が、そのシステムの状態と人間の生死を重ね合わせるのです。
  (2)の考え方は、(1)とは異なった二つの哲学をもっています。一つは、脳全体の働きが止まったとき、内的な意識は消滅するという哲学です。医学は、この点については何も語ることはできません。医学が語ることのできるのは、外から観察された外的な意識レベルだけです。内的な意識の消滅という点に注目してすぐれた脳死論を書いた立花隆も、なぜ脳全体の働きが止まったとき内的な意識が消滅するといえるのかについては、説明らしい説明を行なっていません。これは、立花隆自身もこの哲学を暗黙の前提にしているからだと思います。もう一つの哲学は、内的な意識が消滅することが人間の死であるというものです。これなどは完全に生と死の哲学の領域に入るものです。医学は当然これについて何も語ることができません。
  (3)の考え方は、思考力がなくなり自分の意思で自分をコントロールできなくなったとき人間は死ぬというものです。この考え方の背後には、人間の生を特徴づけているのは自由意思と思考力であるという哲学があります。それがなくなったら屍も同然というわけです。
  このように、人間の死の医学的な側面に関する立場の違いのいくつかは、じつはそれらの立場の背後にある哲学の違いであることがわかります。すなわち、人間の死について医学の枠内だけで議論を進めることは、そもそもできないような構造になっているのです。いくら医学的な側面だけに限定するようなかたちで議論を進めても、そこにはさまざまな哲学が裏口からこっそり入り込んでしまうのです。
  人間の死を論じるときに、いくら特別の枠を設けても、議論は必然的にその枠の外へとはみ出してしまいます。それは、「人間の死」というものが本当の意味で包括的であり、決して一つの側面からだけでは語りつくせないことを示しています。したがって、何かのコンセンサスを得ることが最終目的であるのなら、議論をむりやり人間の死の医学的な側面と法的な側面にだけ限っておく必要が出てきます。もし人間の死の哲学的な側面や宗教的な側面にまで足を踏み込んでしまったら、二度とコンセンサスは得られないからです。
  このような下心のある議論に参加するのは、たいへんむなしいものです。そこでは、そもそも「人間の死」とは何かという点が深く問われないままに議論が進められるからです。この章では、私は少し極端な意見を述べてみたいと思います。それは、脳死が人間の死かどうかという問いは、法的な場面以外ではそもそも意味をもたないという考え方です。
  これを分かりやすく説明してみましょう。

「私」と「親しい他者」と「見知らぬ他者」の死

 木原記念財団の研究員をしていたときに、脳死について、記述式の簡単なアンケートを試みたことがあります。その回答の中に、「私の場合は脳死でよいが、家族の場合は心臓が止まるまで死と認めたくない」という主旨のものが、けっこう目につきました。これと同じような意見はほかの書物にも見られます。
「反対ではないのですが、私の脳死に反対する非常に感覚的な気持ちのほうを説明させていただくと、私自身が死ぬときに脳死を判定してもらうのはけっこうです。ただ、家族についてということになると、迷います。」(高坂正堯。『続々 脳死と心臓死の間で』二九六ページ)
「脳死の状態はもう人間ではないと、自分のときには要求しようと思います。この自分のときには、というのが大切です。自分の論理と他人の論理とははっきり違います。それを認めていただかなければなりません。」(曾野綾子。同前二九九〜三〇〇ページ)
  私の場合と他者の場合とでは、事態が異なってくる。これが重要な点です。脳死が人間の死であるかどうかなどという大雑把な問いかけは、本当は意味をもたないはずです。私たちは、「脳死は私の死であるかどうか」という問いと、「脳死は他者の死であるかどうか」という問いを、それぞれ別個に問いかけるべきなのです。そのように問いかけられてはじめて、私たちはこの二つの問いの微妙な違いに気づき、それぞれに対してより正確に答えることができます。アンケート調査などを行なう際にも、この二つをしっかり区別しなければならないと思います。
  私の死と、他者の死は、別物です。この二つをはっきり区別せずに、「人間の死」というあいまいなことばを使って脳死の議論を続けてきたおかげで、多くの混乱が生じました。ここで、この二つをはっきりと区別したうえで私の考え方を述べてみたいと思います。
  まず私の死の場合。「脳死が私の死かどうか」のポイントになるのは、私の意識の存在です。私の意識が消滅したとき私は死ぬ、と考える人は多いと思います。したがって、脳死の判定が確実になされたときに、私の(内的な)意識が消滅するという哲学を信じることができる人は、「脳死が私の死である」という立場を取ることが多いでしょう。
  次に、「脳死が他者の死であるかどうか」のポイントになるのは、他者の内的な意識の存在ではありません。他者の内的な意識の存在を直接確認するのは不可能です。私は他者の内的な意識の存在を、他者の身体の様子や、脳の断層撮影の映像や、さまざまな反射の具合いから憶測しているだけです。他者の死の場合にポイントになるのは、むしろ、他者が私にどのようにあらわれているかという点です。脳死になった他者と、それを見つめる私との、人と人との関わり方がポイントになるのです。
  となると、脳死になった他者と私との人間関係がとくに重要になってきます。脳死になった他者が私の家族であった場合と、見知らぬ人であった場合とでは、その他者の私に対するあらわれ方も異なります。したがって、他者を、「親しい他者」と「見知らぬ他者」とに分けて考える必要がでてきます。
  「脳死が親しい他者の死かどうか」のポイントとなるのは、私と他者の間に積み重ねられてきた人間関係の歴史です。たとえばずっと生活を共にしてきた家族が脳死の人になったとき、私はその家族を、いままでともにしてきた人生の歴史や、さまざまな想い出と切り離して眺めることはできません。逆に言えば、脳死となった家族は、私に対して、いままでの人生の歴史や想い出とともにあらわれてくるのです。この意味で、親しい他者の場合、人生の歴史や想い出は脳死の人という存在の一部なんです。それらは決して脳死の人にまつわる付属品ではありません。
  脳死となった親しい他者が死んだとみなされるかどうかは、その他者の死を私が受容できるかどうかにかかっています。親しい他者の死とは、本来、医学的・科学的に決まるものではなく、私の死の受容によって決まるものなのです。極端な言い方をすれば、私がその死を受容したとき親しい他者は死を迎え、私がその死を受容しないかぎり親しい他者は死を迎えないのです。
  脳死になった親しい他者の死の受容の、決め手になるのは、ひとつには他者の身体の様子、もうひとつは私と他者の間の人生の歴史や想い出です。いくら死を否定したくなくても、他者の身体が傷だらけで、土色になって、もう冷たくなっていれば、私は親しい他者の死を受容せざるをえないでしょう。しかし脳死の場合は、身体の様子だけからはただちに死を受容できないことも多いと思います。脳死の人の身体がきれいで温かいとき、その他者は私に対して、人生の歴史や想い出とともにあらわれます。そして脳死状態が続くかぎり、その他者は歴史や想い出とともにそこに存在しつづけます。
  脳死状態にある親しい他者の死とは、私がその他者の死を受容することです。そして脳死状態にある他者の死の受容とは、他者の一部である人生の歴史や想い出に私が別れを告げることです。別れを告げるとは、私と他者の生活の中で、新たな歴史や想い出がいままでのように積み上げられてゆくということが永遠に終わったのだと、自分自身で納得することです。その納得が成立したときに親しい他者は死ぬのです。
  この考え方は、決して理性を拒否したロマンチシズムではありません。そうではなくて、これはれっきとした哲学であり、理性的思考だと思います。ただその理性の使い方が、自然科学的な理性の使い方とは若干異なっているだけのことです。
  では、「脳死が見知らぬ他者の死かどうか」のポイントは何でしょうか。それは他者の身体が私にどのようにあらわれるかという点にあります。見知らぬ他者とは、たとえば私がICUの見学に行ったときに、ベッドに横たわっている脳死の人のことです。あるいは医師や看護婦にとっては、突然ICUの中へかつぎ込まれてきて脳死の人になった患者のことです。あるいは、脳死のシンポジウムで、皆が議論しているときに話題になる脳死の人のことです。このケースで鍵になるのは、自然科学的な態度をとる人にとっては、他者の身体がどのような医学的徴候を示すかという点であり、生活の感覚を重んじる人にとっては、他者の身体が私たち普通の人間の身体の様子にいかに近いものとして感じられるかという点でしょう。これらの判断をするときに重要となるのは、科学的・医学的な知識と経験に裏づけられた一種の「常識」です。現在の時点では、脳死の人に関する「常識」はまだ形成されていませんが、将来は、多くの人がこの「常識」に準拠して、脳死となった見知らぬ他者の死の判断をするようになるでしょう。

当事者にとっての死の意味

 以上述べたように、脳死が人間の死であるかどうかと問うかわりに、私たちは次の三つの問いを投げかけなければなりません。
  (1)脳死が私の死であるかどうか。
  (2)脳死が親しい他者の死であるかどうか。
  (3)脳死が見知らぬ他者の死であるかどうか。
  そしてこれらの三つの問いが、そもそもまったく性質の異なった問いだということを、私たちはもっと自覚する必要があります。
  この三つの問いは、それぞれ脳死についての、一人称の問い、二人称の問い、三人称の問いと名づけてもよいでしょう。また別の見方をすれば、(1)と(2)は脳死についての「当事者の問い」、(3)は「傍観者の問い」と考えることもできます。
  この、当事者の問いと傍観者の問いの区別は、生命倫理を考えるときに必ず出てくる問題です。たとえば人工妊娠中絶の是非にしても、単なる傍観者として生命の尊厳を説いていた人が、突然当事者になると、あっさり中絶を選んでしまったりするものです。脳死でも同じことです。脳死は科学的には死であるから人間の死とみなすと言っていた人が、実際に脳死状態のわが子に直面すると、何を考えるか分かったものではありません。当事者の立場からの問いは、傍観者の立場からの問いと同じくらい貴いのです。
  日本の脳死論議は、一部の医師の主導でなされてきました。そこでは、(3)の傍観者の問いこそが脳死の本当の問いであるという暗黙の雰囲気があったように思います。その理由は、感情を入れない第三者的な立場からの対象化によってはじめて、脳死の科学的な(サイエンティフィックな)把握ができると考えられているからです。医師主導の議論で、彼らが念頭においているのは、私が脳死になる場合でもなく、私の家族が脳死になる場合でもありません。念頭にあるのは、ICUに運ばれてきた見知らぬ他者が脳死になる場合なのです。
  日本の脳死論議は、科学的であろうとするあまり、一貫して傍観者の問いが主流を占めてきたといえるでしょう。
  しかし、脳死が私の死であるか、あるいは他者の死であるかという場面で求められているのは、科学的な(サイエンティフィックな)思考ではありません。求められているのはむしろ哲学的な、宗教的な、そして生活に密着した思考です。そしてそれは究極的にはコンセンサスの不可能な、個個人の世界観の信条にゆだねられるべきものであると私は思います。

 

入力:だむす