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作成:森岡正博 
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脳死の人

 

森岡正博『脳死の人』法藏館、初版1989年、決定版2000年

第6章 現代医療の部分主義について (127〜148頁 傍点・文字飾りは省略 後ほど公開される縦書きのPDF版では完全なレイアウトが見られます)

 

現代医療の部分主義とは

  脳死問題は、現代医療のもつある特徴をくっきりと浮かび上がらせます。それは現代医療の部分主義です。
  現代医学は、人間の医学的な死を、脳の働きの停止によって定義しようとします。脳が死んだときに、人間全体も死んだことになるという発想です。これは人間全体の生死を決めるときに、その一部分である脳の働きだけに注目しようという「部分主義」のあらわれです。たしかに脳という臓器は、心臓や腎臓などとは異なった、特別の重みをもつ臓器であることに間違いはありません。ただ、それにしても、人間全体の生死を決めるのに、人間の一部分でしかない脳だけに注目して定義をするというのは、やはりその背後に「部分主義」の思想を感じないわけにはいきません。
  従来行なわれてきた三徴候死、すなわち心臓の停止と、呼吸の停止と、瞳孔の散大の三つのしるしを確認して死を決定するやり方も、ある意味では部分主義の思想に基づいているといえます。ただ、三つの部分を総合して判断する点と、それらが死の定義ではなく死の「徴候」とみなされている点で、脳死の場合よりも部分主義が弱いと考えられます。
  ICUの中の治療にも、この部分主義は顔を出しています。たとえば昏睡状態でICUに運び込まれた患者にほどこされるのは、呼吸を保つための人工呼吸器や、代謝・循環を保つための栄養補給・輸血、脳の働きを保つための髄液排出など、人体のそれぞれの部分を治すための治療法を寄せ集めたものです。これら人体の各部分を治す治療がすべて成功したとき、人体の全体は回復するわけです。ICUの治療法とは、まず人間の身体をいくつかの部分に分けて考え、それぞれの部分を別個に治療しながら、かつ部分同士の相互関係に気を配り、人間の身体全体を治してゆこうとするものです。これは要するに、まず全体をいくつかの部分に分割し、次にその各部分を治すことによって、全体を治そうという発想です。
  この発想は、なにもICUの中だけではなく、広く現代医療一般に見られます。たとえば大病院へ行ってみてください。受付のところで症状の説明をすると、機械的に、内科、外科、神経科など人体の部分別の診療科へと振り分けられます。ここでは、病気とはなによりもまず「部分の病気」であり、部分の病気を治せば問題は解決するという思想が徹底しているように見えます。では、もしどの部分に障害があるのかはっきりしない場合はどうなるでしょうか。そのとき患者は、内科から循環器科へ、そして神経科へ、そしてまた内科へとたらい回しされることもあります。「まず部分を治す」という思想が根強いからこそ、こういうたらい回しの現象が起きるのでしょう。その証拠に、原因が特定できない神経痛や、生活環境が原因で生じているらしい成人病など、部分を治療することによってはあまり治療効果が上がらない病気については、現代医療はそれほどの効果をあげていないように思われます。このような事実を見るにつけ、私は、現代医療とは人体の部分を治療することで人間の身体全体を治療するという治療方法のみが異様に発達した医療ではないかと考えたくなります。
  現代医療の部分主義は、治療方法にだけあらわれているわけではありません。大病院の中では、臓器の部分別にさまざまな診療科が分かれており、それぞれの部門にはそれぞれの部分のみを専門とする医師が勤務しています。そしてこれらの医師は、自分の専門の部分の治療にだけ専念し、ほかの部分については口出しをせずに他の部門の医師にまかせます。部分主義の現代医療の内部では、治療法の部分化に対応して、治療スタッフの側もまた部分化しているのです。
  また、中島みちのレポート「あなたは脳死に直面できるか」(『文藝春秋』一九八七年六月号)によりますと、ある病院で脳死身体からの腎臓移植をしたときに、移植医は臓器を冷却して摘出する通常の方法をとらず、健康な人から臓器を摘出するのと同じ方法で摘出したため、移植医が臓器を持って帰ったあとも脳死身体の心臓は動き続け、あわてた脳外科医は腎臓のない患者に昇圧剤の点滴をするという無意味な治療をしてしまい、家族の訴えでその治療を打ち切るというケースがありました。これは、移植医は移植のための臓器摘出のことだけを考え、脳外科医は脳死身体の管理のことだけを考えていて、お互いの意思の疎通がうまくいっていなかった証拠です。このようなことが起きたのは、やはり現代医療のシステムそのものが部分化して、移植という部分と、脳外科という部分の間に、情報が流れにくくなっているからだを思います。これは医療システムの部分化と呼んでよいでしょう。

部分主義では見えないもの

 このように、部分主義は現代医療のあらゆるところに見られます。 
  現代医療の部分主義は、良い面と悪い面を兼ね備えています。良い面とは専門的な治療が可能になった点です。ある特定の人体の部分の専門家を養成することで、医療技術は向上し、医学知識も増えて、多くの病気のよりよい治療が可能になります。また難しい病気には、専門家がチームを組むことによって、より高度な治療をほどこすことができます。
  これに対して、部分主義の悪い面は、分断された部分同士の関連性や関わり合いが、見えにくくなることです。
  ものごとはすべて、それを取り巻く他のものごとと、何かの関連性や関わり合いをもっています。たとえば人間は、人間を取り巻く人間関係という関連性から離れて生きてゆくことはできません。同時に人間は、人間を取り巻く自然環境との関わり合いなしには、決して生きてゆくことはできません。人間の身体の中の臓器にしても、それは他の臓器や、身体全体のバランスとの関連性の中でのみ、働き続けることができるのです。ところが部分主義に徹すれば徹するほど、この関連性が見えにくくなってきます。
  たとえば私は第1章で、「脳の中身が分かれば脳死は分かる」という世界観に疑問を投げかけました。それは、この世界観が、まさに部分主義の世界観だからです。脳の中身という部分のことが分かれば、脳死というものの全体が分かったことになるという発想は、典型的な部分主義です。ところで、脳死という本来は純粋に臨床医学的な概念であるはずのものが、今日どうしてここまで大きな社会問題になったのでしょうか。それは、脳死の人と、それを取り巻くさまざまな人々との間の関わり方をめぐって、家族による看取りや、治療停止や、臓器移植などの重大な問題が生じてきたからです。社会問題にまで至った「脳死」の本質は、脳の中身にあるのではなく、脳死になった人とそれを取り巻く人々との関連性や関わり合いにあるのです。ところが、部分主義に立つかぎり、この「脳死」の本質は全然見えてきません。その立場から見えてくるのは脳の中身の医学的な様子のみです。
  脳死の人と家族の関連性、たとえば脳死の人を見たり触わったりすることが家族にどれだけ大きい心理的影響を与えるか、あるいは家族の死の受容にとって脳死の人の看護状態がどれだけの影響を与えるのかなどの、人と人との関連性を、医療従事者が充分把握し実践しているのであれば、なにも私が本書で脳死の人の看護についてことさらものを言わなくてもよいわけです。しかし、大病院の現場ではとりわけ部分主義が浸透していて、これらの関連性の重要性に多くの医療従事者は気づいていないように思われます。
  また、患者の権利を求める運動なども、じつは現代医療の部分主義と関係があります。医師と患者の関係は、その名のとおり人と人との関わり合いです。ところが、部分主義の思想のおかげで、患者の身体の部分しか見ない医師が出てきました。その結果、医師は患者をひとりの人間としては見ずに、自動車の修理をするように患者を取り扱ったり、自分の研究の実験材料としてしか患者を見なくなったりするケースが出てきました。これはまさに、医師が部分主義に徹するあまり、医師と患者の関係を対等な人間関係として認識できなくなったことを意味しています。この点を反省し、患者をひとりの権利を持つ人間として扱うよう求める運動が、患者の権利運動だと思います。
  現代医療は部分主義へと傾斜してきたおかげで、医療現場におけるさまざまな関連性や関わり合いのもつ重要性を、徐々に見失ってきたのではないでしょうか。そして今日、生命倫理が改めて問われているのも、現代医療がこれらの関連性を見失ってきたことと対応しているのではないでしょうか。倫理問題とは、人と人とがどのように関わり合ってゆけばよいかという問題でした。部分主義では、肝心の、この「関わり合いの姿」がまったく見えてきません。現代医療の主流である部分主義の視野からは見えにくくなってくる、このさまざまな関連性や関わり合いに再び光を当て、問題点の所在を明るみに出してゆくことこそ、「生命倫理」が第一に目指すところなのです。
  男女産み分けや体外受精など、現代医療の最先端の成果は、例外なく倫理問題を引き起こすようになっています。その原因の一つは、精子や受精卵などの部分の研究によって得られた知識を実際に人間で応用するとき、そこに必然的にからんでくるはずの社会的な関連性を、医師たちがほとんど考慮せずに実施に踏み切ってしまう点にあります。たとえば、一九八八年五月に、新潟大学医学部は受精卵の冷凍保存を日本で初めて実施することを発表しました。しかしその直後からマスコミの取材攻撃にあい、その報道は全国的に大きな社会的反響を呼び、地元の新聞では賛成反対入り乱れた長い討論が続けられています。その様子を見ていますと、どうも実施に踏み切った医師たちは、これほど大きな社会的な話題になるとは予想していなかったようです。事実、一時間半の倫理委員会では技術的な問題を中心に討議が行なわれたにすぎず、その後、地元の新聞などで取り上げられることになるいくつかの倫理問題については、議論された形跡がありません(少なくとも報道されていません)。そのようなおざなりの倫理委員会を開いただけで実施に踏み切ることができるのは、自分たちの開発した技術が社会に及ぼす影響、すなわち先端技術のもつ社会的な関連性が、ほとんど視野に入っていないからだと思います。現代医療の先端は、すでに人間や社会などのさまざまな関連性に大きな影響を与えるものになっているにもかかわらず、部分主義の医師たちからはこの点がよく見えないために、先端医療技術の応用に際して生命倫理の問題が生じるのです。

「専門家」の知識は「部分の知識」

 脳死と臓器移植を推進する人々は、一般大衆の啓蒙が必要だとよく言います。この啓蒙観も、じつは現代医療の部分主義と関わっています。たとえば日本医師会の報告文には次のような一節があります。
  医師会としての環境づくりができた段階で、一般国民への理解などの啓蒙活動が続いてこよう。これらによりコンセンサスが得られるようになって後に、「臓器移植」の必要性の啓蒙がはじめて容易になるものと思われる。(『日本医師会雑誌 死の判定─脳死』一九八五・一二、一九四三ページ)
  ここに見られるのは、医師から一般国民への啓蒙によって、脳死や臓器移植が普及するという図式です。次のパリスのことばには、この図式がもっとはっきりと出ています。
  (脳幹死の普及について)ここで大事なことはまず医師たちを教育することです。その次に教師を教育し直す。そういうことを通して今度は一般の大衆を教育する。こういう段階が必要かと思います。(『週刊医学界新聞』一九八五、一六六五号、五ページ)
  ここにあらわれているのは、医師の一部→医師たち→教師→一般大衆という道筋で、上から下へと順々に続いてゆく啓蒙のヒエラルキー(上下の段階構造)です。このヒエラルキーを逆に下から上へと眺めてゆくと、上にゆくにつれて、専門度が高くなってゆくことに気づきます。つまり、このヒエラルキーは、脳死と臓器移植についてのいちばんの専門家から、なにも知らない素人の方へ向かって、専門的な知識が与えられ施されてゆく筋道を表わしたものといえるでしょう。
  このような形の啓蒙によって、専門家から素人へと伝えられるものはいったい何でしょうか。それは、「部分についての知識」です。部分主義の現代医療が積み重ねてきた、「部分についての知識」が、啓蒙によって一般市民へと流されてゆくのです。
  そもそも、専門家とは、部分についての専門家です。そしてこの「専門家」という概念自体、じつは部分主義が産み出したものです。というのも、専門とは、全体を知ることではなく、全体の中のほんの一部分だけについてくわしく知ることだからです。そしてその道のプロは、部分についてだけくわしく知っていればよいというのが、部分主義の精神だからです。
  部分の専門家が得た知識は、その部分の専門家ではない人々に啓蒙することができます。この意味で、脳死や臓器移植の啓蒙ということが言われるのだと思います。
  しかし、ここで間違ってはならない点があります。医師たちが一般市民に啓蒙できるのは、医療の中の部分の知識だけです。たとえば、脳死になった人の脳の中身はこのようになっているという知識、脳死になると平均して何日間は心臓が動き続けるという知識、脳死になれば人間はもう二度と回復しないという知識、腎臓移植の成功率は何%であるという知識、腎臓移植によるレシピエントの生存率は何%であるという知識などです。
  ところがこれに対して、脳死とは私の死であるとか、脳死とは他者の死であるとか、脳死の人から臓器を取り出してよいなどのことがらは、決して医師たちが一般市民に啓蒙できるたぐいのことがらではありません。なぜかといえば、それらは部分の知識ではないからです。それらは、私あるいは他者あるいは人間という存在の全体に直接関わる判断だからです。存在の全体にかかわる判断は、医学の領域を超えています。それは何をもって人の存在の死とみなすかという哲学の問いや、死ぬと人はどこへ行くのかという宗教の問いをもふくんでいます。したがって、脳死が私の死であるかどうか、あるいは脳死が他者の死であるかどうか、あるいは脳死が人間の死であるかどうかについて、医学の立場からの「啓蒙」は理論上ありえません。
  もし、脳死が人間の死であるという事実を一般市民に啓蒙しなければならない、などと公言している専門家がいるとすれば、それはたいへんな思い上がりをしていることになります。
  一般に、部分に分割できないものを扱うはめになった医療の分野では、啓蒙ということがあまり意味をなさなくなってきます。たとえば末期がん患者のケアやホスピスの現場で、医師が患者当人に、その死に方について「啓蒙」すべきものを、はたしてもっているでしょうか。このような場面では、部分に分割できない患者自身の死、別のことばでいえば患者の「いのち」そのものが医療の対象となっているわけです。ここでは、部分主義は影をひそめざるをえませんし、啓蒙という考え方もなにかしっくりきません。
  さらに次のように言ってもよいでしょう。部分主義の現代医療が、部分に分割できない「いのち」そのものと触れ合う地点で、生命倫理の問いは生じるのだと。脳死という人体の一臓器の働きの停止が、人間の死という「いのち」に問題に触れ合ったときに、「脳死」という生命倫理の問題が生じました。受精卵凍結という細胞の冷凍技術が、人間の生命の誕生という「いのち」の問題に触れ合ったときに、生命倫理の問題が生じました。現代医療の枠組みの中だけで見ると、取るに足らないような小さなことでも、それが「いのち」の問題に触れ合うやいなや、それは生命倫理の問題を発生させ、大きな社会問題へと発展します。
  では、この、部分に分割できない「いのち」の問題とは、そもそもいったい何でしょうか。私はまだこの問いに答えることができません。それは今後の研究課題です。しかし次のことだけは言えます。私たちのすべてが、「いのち」とは何であるかを、生活のうえで直観的にすでに把握しているということです。そして「いのち」の問題について専門家はいないということです。「いのち」の問題についてはすべての人が素人です。ここで言う「素人」とは、知識をほとんどもっていないことを意味するのではなく、何かについての部分主義の専門家ではないということを意味しています。医師も、生物学者も、宗教家も、哲学者も、「いのち」の問題については素人です。ということは、「いのち」の問題を正面から問うことになる生命倫理についても、専門家はいないことになります。生命倫理の問いに関わるすべての人は、素人の立場で発言し、議論し、提言するべきだと思います。いま重要なのは、いかに素人に徹しきるかということです。部分主義の専門家から、「いのち」を見る素人へ。現代において素人であることは、専門家であることよりも貴重なのです。

おまかせ患者とは

 さてここで、現代医療における医師と患者の関係についてもう一度考えてみましょう。第3章で、日本の医療現場では医師と患者の関係が対等なものになっていないがゆえに、医師への根強い不信があると述べました。アメリカでは一九六〇〜七〇年代にかけて、患者の権利運動の盛り上がりと社会構造の変化によって、医師と患者の関係が対等なものに近づきました。そこで承認されたのは、医師も患者もお互いに独立した一個の個人であり、患者は自分のことを自分で決める自由と権利をもち、このような対等な個人同士が一種の契約を結ぶことで医療行為は行なわれる。そして医療とはサービス業であり、患者はその顧客であるという考え方です。この、いかにも近代ヨーロッパ - アメリカ的な発想によって、アメリカの医療は、患者中心の医療へと脱皮したのです。
  いまだ医師中心の医療にとどまっている日本の医療現場に、これと同様の発想を取り入れることで、日本の医療の体質に風穴があくことを期待している人は多くいます。私も、あるていどは風穴があくと考えます。しかしそれは、やはり「あるていど」にとどまるでしょう。なぜかといえば、医療以外の日本社会の姿を見てみても、お互いに独立した個人同士の契約関係によって人間関係が運営されることはきわめてまれなことだからです。例外はビジネスの世界でしょうが、しかしそこでも根回しや、派閥やら、年功序列や、あ・うんの呼吸などがしっかりと根づいています。そうした日本社会の中で、医療の現場だけに限って、個人主義的な人間関係が成立するとは考えられません。
  日本の医療現場では、いま少しずつ、患者中心の医療への試みがなされはじめています。その試みは、まずインフォームド・コンセント(情報提供後の同意)を徹底させ、患者の自己決定権を認めるところから始まっているようです。この試みが浸透してゆけば、日本の医療の体質も除々に変わってくるでしょう。しかし、この試みをなすにあたって、医療現場で困っているのは、「おまかせ患者」をどう考えればよいかということです。
  おまかせ患者とは、医師が患者に情報提供をして患者の同意を求めようとしたときや、いくつかの選択肢を患者に示して患者の意見を聞こうとしたときに、「先生におまかせします」と答える患者のことです。医師としては、「おまかせします」と言われても、それを患者の同意とみなしてよいものかどうか迷うわけです。おまかせ患者は数多く出現します。先にあげたアメリカ的なものの考え方だと、おまかせ患者とは、自分で自分のことも決定できない未成熟の個人とみなされるかもしれません。
  おまかせ患者とは本当に、自律した個人へと成長していない人々のことなのでしょうか。 私は次の二つのことを連想します。おまかせとは、自分自身のことについての決定権を、すすんで他者にゆだねることです。もちろんこれを、自律した個人が自由意思によって自己決定権を放棄するというふうにも解釈できます。しかしそれはあくまで近代ヨーロッパ - アメリカ的な枠内での好意的な解釈にすぎません。私は、「おまかせ」とは日本の文化が育ててきた人間関係の土壌のひとつなのではないかと考えています。自分のことを、進んで他者やあるいは自然などにゆだねるという精神構造は、日本の文化が長い間かけて蓄積してきた精神性であり宗教性であるように思います。この点は他の機会にまた改めて検討するつもりです。
  もうひとつは、「おまかせ」は、じつは医療そのものの性質に深く結びついているのではないかという点です。医療は多かれ少なかれ、患者が自分の身体といのちを進んで医師の手にゆだねることで成り立ちます。医療行為は、その本質の部分で、患者から医師への「おまかせ」によって成立しているのです。これは重要な点です。表面にあらわれたアメリカ的な考え方にのみ目を奪われていると、ここを見落としてしまう危険性があります。しかし誤解しないようにつけ加えておきますと、「おまかせ」するということと、医師が自分の好き勝手に「おまかせ」された患者の身体といのちを取り扱ってよいということとは、まったくの別物です。患者は自分の身体といのちを医師におまかせすることと引き換えに、医師の医療行為についてきびしい制限を課すべきなのです。これがインフォームド・コンセントであり、患者の権利の主張であると思います。また、自分の大切なものをおまかせでするためには、それをゆだねる側とゆだねられる側の間に、信頼関係が成り立っていなければなりません。医師と患者の間の信頼関係がとくに強調されるのは、このような理由があるからです。

「この世を超えるもの」を前にしての関わり方

 医師と患者の関係を、自律した個人同士の契約関係としてとらえるのは、きわめて近代ヨーロッパ - アメリカ的な思考であるという点は、すでに幾人かの人によって指摘されてきました。
  私は、これからの日本での医師と患者の関係をとらえてゆくためのポイントを三つほど提案したいと思います。
  一つは、すでに述べたような、職業人としての医師と、顧客としての患者という関係です。現代においては、医療もひとつの職業として成り立っているのですから、職業人に課せられる最低限の業務と役割を医師が自覚し、患者は医療サービスを受ける顧客としての身分を保証されなければなりません。当然、ひとりの市民としての患者の権利は、前提条件として保証されるべきです。米本昌平が主張する医療行為の品質管理も、この考え方から出てくるものと思われます。
  二つめは、患者が医師にすすんで自分の身体といのちをゆだねるという関係です。「おまかせ」が成立する背景です。医療はこの関係なしには成立しません。この関係の中では、医師と患者は決して対等ではありません。患者の生殺与奪の権を医師が一方的に握っているという点で、これは完全な医師上位の関係です。見方を変えれば、医療とは、現代社会にあって、対等な個人同士の人間関係が、必然的に崩れざるをえない世界なのです。医師による医療行為が存在するかぎりこの関係は存在し続けます。
  しかし、だからこそ、優位に立つ医師の行為を規制し、監視するルールとシステムがどうしても必要となってくるのです。それが、インフォームド・コンセントであり、患者の権利の尊重であり、カルテの公開であり、倫理委員会なのです。そしてその前提として、医師と患者の信頼関係が確立されている必要があります。信頼のおけない人に、自分の大切なものをあずける人はいません。医療は、社会になくてはならないものです。医師は患者や一般市民からの信頼を得ることのできるよう、努力してもらわなければ困るのです。
  三番めは、医療の性質そのものに関わっています。医療には、病気を予防し健康を促進する面と、病気になった人を治し、死にそうな人を助けるという面があります。現代医療は、前者よりも後者の方に比重のかかった医療です。
  多くの人は病気になってから死にます。この意味で病気とは、その後に続くかもしれない死を予感させるものです。医療によって病気を治すことは、人を死への坂道から引き戻すことです。医療とはいわばこのような間接的な形で(通常の病気の治療においても)死に関わる行為とみなすことができます。
  ところで死とは、この世から私や他者が消滅することです。私たちは医療を受けるたびに、この世からの消滅である死の影に、右に述べたような意味で間接的に触れていることになります。医療において私たちは医師と向かい合い、医師に自分の身体をゆだねます。私たちは医師を通して死の影に触れるのです。
  医師と患者の関係は、このような視点からとらえることもできます。すなわち医師と患者の関係とは、この世からの消滅である死をコントロールできる特権的な人と、そこに身をゆだねる普通の人という関係でもあるのです。
  この関係は、ある種の宗教的な関係にも似ています。たとえば、この世からは超越した神に特権的に触れることのできる聖職者と、そうでない普通の信者との関係に。どこが共通しているかというと、一方の人はこの世を超えるもの(死、神)になんらかのかたちで触れたりコントロールできたりするのに対し、もう一方の人はそれができず、ただ身をゆだねるだけであるという点です。
  このような、この世を超えるもの(超越)への関わりという視点から、医師と患者の関係をとらえ直すことによって、医師と患者の間に漂うある特殊な雰囲気のようなものをうまくとらえることができるのではないかと考えます。ある特殊な雰囲気とは、たとえば患者が大切な選択のときに「おまかせします」と言ってしまうその雰囲気のことです。「おまかせします」と言うとき、患者は医師その人に自分をゆだねているというよりも、医師の背後に見えるこの世を超えるものに対して自分をゆだねているのではないでしょうか。もしそのような側面があるのだとしたら、それは明らかに一種の宗教性をもって語り出されたことばです。それはどのような宗教性でしょうか。
  以上三点が、これからの医師と患者の関係を考える上でのポイントになるのではないかと思います。
  宗教性の話が出たのでつけ加えておきます。脳死とは人と人との関わり方のことでした。これは脳死というものを、この世の人間関係として把握する考え方です。本書の前半はこの考え方一本で押してきました。しかし、じつはそれだけでは不十分です。脳死は私の死や他者の死に深く関わります。この点で、脳死はこの世を超えるもの、すなわち超越に関わっているのです。この点を加味すれば、脳死とは「超越の場面における人と人との関わり方」であることになります。脳死を考えるとき、一つにはこの世の中の人間関係、もう一つにはこの世を超えるものとの関わり、この二つの要素を決して欠かすことはできません。本書では前者の説明に重点をおきましたが、本来この二つは等しい重みを持って語られるべきものだと思います。

医師 -「看護者」- 患者の関係

 ここで、医師と患者の関係についての大胆な予測をしておきましょう。
  現在の生命倫理では、医師と患者の関係は重要なテーマです。しかし私は、治療する医師と治療を受ける患者の関係は、今後、生命倫理のテーマとしては徐々に色褪せてゆくと考えています。なぜかといえば、現代の工学的医療が将来ますます発展する結果、治療の場面での医師の役割がだんだん変化してゆくからです。医師は自分の目で患者を診断することが少なくなります。それは精密な医療機器がやってくれるし、またその方が確実な診断ができるようになります。現在でもその徴候はあります。超音波撮影装置や、X線による断層撮影装置、それにICUの中にある種々のモニターなどは、人間の目では見えないことを確実に教えてくれます。もちろん触診や皮膚の色つやを見る器械はありませんが、いずれなんらかのかたちで器械に置き換わってゆくことが予想されます。また、手術なども専門ロボットとの共同作業になる可能性があります。また、人工知能によるエキスパート・システム(専門家の肩代わりをするコンピュータ)の発達で、病気の診断から薬の処方まで自動化される日も遠くはないと思われます。そうなると医師の役割は、治療システム全体の管理と統轄、そして病院の経営、あるいは患者へのカウンセリングや情報提供などに絞られてきます。ちょうど、オートメーション化が非常に進んだ工場における、現場の工場長の役割のようなものです。
  このような治療システムでは、患者は、医師という他者に出会う機会がますます少なくなります。たまたま医師に出会っても、患者は医師を、自動化された治療システムと自分との単なる「仲介者」としてしか見なくなるかもしれません。患者の意識のうえでは、お医者さまが自分を治してくれるのではなく、診断から投薬・手術・入院管理まですべてを把握した「治療システム」が自分を治してくれるのだと思うようになるでしょう。現在でも、私などは、不快な態度の医師からもらった薬で病気が治ったときは、明らかに「あの医師が治したのではなく、教科書の知識と薬が病気を治したのだ」とつぶやいています。このような意識が、ますます一般化して広がってゆくと思われます。
  このような、医療システムと医師の役割の変化にともなって、生命倫理からは、治療における「医師と患者の関係」というテーマはしだいに消滅し、そのかわりに次の二つのテーマが浮上してくるでしょう。
  ひとつは、「患者と治療システムの関係」の問題です。これは、ひとりの患者と、機械化され、自動化され、情報化された巨大な治療システムとの間の関係はどのようにあるべきかという問題です(その意味でこれは一種のマン=システム・インターフェイスの問題でもあります)。ここで重要なのは、患者という人間と向かい合っているのは、もうひとりの人間ではなく、巨大なシステムだという点です。そしてこのシステムは、病院の中だけで自己完結しているわけではなく、情報ネットワークや経済的なネットワークを通じて、社会と政治と経済に深く結びついているという点です。そこには、システムの安全性の問題、希少資源の配分の問題、治療の優先順位の問題、健康政策の問題などが、現在よりもさらになまなましいかたちで現われてくることが予想されます。また、患者は人間と向かい合うのではなく、治療システムと向かい合うのですから、患者がシステムに不安感をもったり、システムに向かい合う心理的な緊張が治療に影響を与えたりする独特の問題(インターフェイスの問題)が生じるでしょう。
  もうひとつは、「患者と看護者の関係」の問題です。肉体的な治療がどんどん自動化されてゆき、当座の治癒率も上昇してゆくと、医療に期待されるものも変わってきます。まず、医療全体の中に占める病気の種類とその数(疾病構造)が変化します。将来の医療のかなりの部分は、退院後のリハビリテーション、障害をもつ人の援助、老人の介護、死に直面した人の看護などが占めるようになると思われます。また超高齢社会がおとずれ、この点でも医療の質はガラリと変わります。そして将来の生命倫理は、間違いなく「超高齢社会の生命倫理」を核に議論されるようになると考えられます。そのときのポイントは「看護」です。
  言い換えれば、医療は二極分解を始めるのです。一つの極は、いわゆる身体と心の病気を治療して健康な状態に戻し、社会へ復帰させる医療です。これは治療中心の医療といえます。そしてこの治療中心の医療は、機械化され自動化された治療システムがおもに受け持つことになるでしょう。もう一つの極は、さきほど述べたような、患者の人生の援助を受け持つ医療です。これは看護・援助中心の医療といえます。看護中心の医療を自動化することはできません。もちろん、看護者の看護を援助するロボットなどは徐々に開発されてゆくでしょう。たとえば老人の排泄を自動的に助けるロボットや、障害をもつ人の機能を補完する機械などです。しかし、それらの機械群に支えられながらも、看護の中心はやはり人間が受け持つことになると思います。
  医療がどんどん機械化され、自動化されてゆきます。それに比例して人間のすることが減ってゆきます。しかし自動化がすすむにつれ、自動化によっては解決しない事態が逆に増えてゆきます。その部分については、人間が補わなくてはなりません。こうやって、医療における機械や治療システムと、人間の役割分担がしだいにはっきりと分かれてくるでしょう。いままでは人間が、患者の治療も看護も行なっていました。しかし将来は、治療はおもに自動化された治療システムが行ない、看護は主に人間が行なうという傾向が強くなると思われます。これはつまり、医療に従事する人間のおもな仕事が、治療から看護へと大きく変わることを意味しています。
  これを患者の側から見てみましょう。患者が医療現場でおもに接触するのは、治療の際の治療システムと、看護や援助の際の看護者の二種類です。前者の接触では、患者と治療システムの関係が問われることになります。そして後者の接触では、患者と看護者の関係が問われるようになるでしょう。すなわち、現在真剣に模索されている老人介護のあり方や、ホスピスのあり方などの問題が、さらにいっそう拡大されたかたちで、問われることになります。これは、見方を変えれば、病院の生命倫理が扱うテーマからの「医師」の退場を意味しています。医師が退場した代わりに、自動化された「治療システム」と、「看護者」が、病院の生命倫理の前面に登場してくるのです。
  ここで、後者についてもう少しくわしく考えてみましょう。病院の中の生命倫理は、いままで医師と患者の関係を中心にして組み立てられてきました。つまり治療する医師の役割と義務、そして治療を受ける患者の立場と権利などの関わりを中心に、議論がなされてきました。しかしこれからは、この図式だけでものを考えていては片手落ちになりかねません。どうしてもここに看護者との関わりを入れて考えなくてはならないのです。とすると、「医師 - 患者の関係」ではなく、少なくとも「医師 - 看護者 - 患者の関係」が、これからの病院の生命倫理を考える上での基本的な図式になる必要があります(本書では簡便のためとくに触れませんでしたが、本来はここにさらに、検査技師や実習生、ボランティア、清掃係の人などが同じ重みをもって入ってくるはずです)。
  さらに、もっと将来の生命倫理の展開を考えますと、むしろ「看護者 - 患者の関係」の方が、医師との関係よりも重要になってくると予想されます。学問のうえでいえば、いままでは医学と倫理学の間に生命倫理学が形作られてきました。しかしこれからは、徐々に、看護学と倫理学の間へと、生命倫理学の重心は移ってくるでしょう。思えば、一九六〇年代から八〇年代にかけてアメリカを中心に生命倫理学(バイオエシックス)が形成されたとき、その議論の中心になった人々は、哲学・倫理学者と医師と法律家と宗教家に限られていました。そしてそのテーマも、「医療をめぐる倫理問題」に集中していたように思います。今後、一九九〇年代から二一世紀へむかっての生命倫理の議論の中で、「看護」という概念、そして「看護者」というあり方が、ひとつのポイントになるでしょう。この「看護」に注目することで、生命倫理は、アメリカを中心に形成された第一期の生命倫理学(バイオエシックス)の枠を脱皮し、第二期へと突入してゆくことでしょう。そして先にも述べたように、第二期の生命倫理は、超高齢社会における老人の看護をひとつのモデル(理念型)として議論され、展開されてゆくでしょう。
  第二期の生命倫理は、あえて名づければ「看護生命倫理」とでもいうような性格をもつようになるかもしれません。私自身はそれを、私の「生命学」に引きつけ考えてゆくつもりです。「看護」の考え方は、何も病院の中での職業看護者による看護だけにとどまらず、病院の外、医療の外、すなわち生命が存在するすべての所で見出されるかもしれないからです。  

 

入力:だむす