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作成:森岡正博 
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論文

 

『比較思想研究』第40号、2013年4月、44−53頁
ペルソナ論の現代的意義

森岡正博

 

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1 ペルソナ論の原風景

死んだ人は「死者となってそこにいる」という感覚は否定しがたいものとして私の中に存在している。もう肉体も存在しないし、その人だったものは何も残存していないはずなのに、その人は死者となってここに存在する、というこの感覚をどう説明すればいいのだろうか。あの世も、実体としての魂も仮定せずに、これを合理的に説明することは、現代哲学に課せられた重要課題であると私は考える。

それと繋がるものとしてあるのは、脳死臓器移植の議論において発見された、関係性に基づく生命観である。日本の脳死論議において、脳死患者とそれを取り巻く親しい人々とのあいだの関係性によって、脳死の患者のいのちとでも言うべきものが親しい人々によってありありと感受されるという出来事に注目が集まった。そして脳死患者を取り巻く家族たちは、脳死患者と言葉にならない対話すら経験したのである。私は脳死研究のひとつの帰結として、彼らが対話しているときのその相手方のことを「ペルソナ」と呼ぶことにした。ペルソナとは、言葉にならない対話を思わずしてしまうような迫力をもって迫ってくるような何ものかである。ペルソナは、先に述べた「死者」と相通じるようなものを持っている。

ペルソナのリアリティは、次の二つのケースにおいて見事に語られている。

最初は、渡辺良子のケースである。彼女は、自分が脳死状態になったら臓器提供をしたいと考えていた。そんなおり、父親が昏睡状態になる。彼女は書いている。

意識のない父の身体にさわって、そのあたたかさを感じることが、現在、唯一の対話である。それは日常の、言葉【44】や表情などを通じてのコミュニケーションとは異質だ。伝わってくるものに、私の感受性は限りなく広く深まっていく。心を平らかにして、避けられない父との別れを受け入れる準備をしていく。(1)

次は柳田邦男のケースである。次男の洋二郎が脳死状態になり、柳田はベッドサイドで見守るのだが、「言葉はしゃべらなくても、体が会話してくれる。不思議な気持ちだね」とそのときのことを記している。

私と賢一郎がそれぞれに洋二郎にあれこれ言葉をかけると、洋二郎は脳死状態に入っているのに、いままでと同じように体で答えてくれる。それは、まったく不思議な経験だった。おそらく喜びや悲しみを共有してきた家族でなければわからない感覚だろう。科学的に脳死の人はもはや感覚も意識もない死者なのだと説明されても、精神的な命を共有し合ってきた家族にとっては、脳死に陥った愛する者の肉体は、そんな単純なものではないのだということを、私は強烈に感じたのだった。(2)

これらのケースにおいて、書き手は、昏睡状態あるいは脳死状態の家族と「対話」「会話」をしている。このときに、この「対話」「会話」の相手となっているもの、家族の前にありありと現われているものを、私は「ペルソナ」と呼びたいのである。

2 生命倫理学におけるパーソン概念

ところで、この世には十全な生存権を持たない一群の人間たちがいるという発想が生命倫理学の領域で繰り返し語られてきた。それは、受精卵、胎児、重度障害者、植物状態の人間、脳死の人などである。それらの言説の中でもっとも力を持つのは「パーソン論personhood argument」である。すなわち、人間は、自己意識と理性を持つ「パーソン」と、それらを持たない「非パーソン」に分類される。そして、「非パーソン」は十全な生存権を持たないから、いくつかの条件が満たされれば殺されても仕方がないというのである。

マイケル・トゥーリーは、ある人間がパーソンであるための条件を次のように定めた。

あるものをパーソンたらしめるものは何かと言えば、それはそのあるものが持続的なnon-momentary 諸利益の主体であるということである、というのがもっとも妥当な考え方であると我々は議論してきた。もしこの考え方が正しければ、あるものがパーソンであるために満たさなければならない多くの必要条件があることになる。その必要条件としては、現在あるいは過去のどこかの時点で、時間の感覚を持ち、心的状態を経験し続ける主体という概念を持ち、脈絡をもった思考を行なう能力を持つことが含まれる。(3)

ピーター・シンガーによるパーソンの定義は以下である。【45】

自分自身のことを、過去と将来を持ち、他とははっきり区別される存在として自覚できるような、理性的で自己意識を持った存在者。(4)

シンガーによれば、脳死の人はもとより、新生児すらパーソンではなく、もっとも近い親族がそれらの生を望んでいない場合は、それらを殺すことも許され得る。ここから分かるように、パーソン論とは、「自己意識」と「理性」を兼ね備えた人間を「パーソン」という特権的な存在者として措定し、それらを持たないと思われる人間から峻別する考え方のことである。そしてパーソンでない人間は、状況によっては殺されても致し方ないとする。

3 ペルソナの概念と思想史

パーソン論は、「我々は脳死の人と対話することができる」とする森岡のペルソナ論の世界観とまったく相容れない。ペルソナは、自己意識や理性を持たないとされる脳死の人のような人間のうえにも立ち現われる。ペルソナとは、他人の身体のうえに現われたところの、言語を用いない対話をすることのできる何者かのことである。その対話の次元は、長い時間をかけて培われた関係の歴史性を基盤として開かれてくる。

ペルソナそれ自体を、私は見ることもできず、触れることもできず、聞くこともできないにもかかわらず、私は目の前の身体に立ち現われたペルソナを全身で感受し、ペルソナと言葉を用いない対話をすることができる。ペルソナは、目の前の身体の内部にある何ものかではない。ペルソナは、目の前の身体と、それを感受する私のあいだに立ち現われるのである。

ペルソナは、脳死の人や死者の身体のうえにだけ現われるのではない。ペルソナは、私たちのような形で生きている人のうえにも現われる。すなわち、目の前でしゃべっているあなたは、私にとってペルソナとして現われていると同時に、パーソンとしても現われているのである。そしてあなたが脳死状態になったとき、あなたはもはやパーソンとしては現われないが、私と言葉にならない対話をすることができるペルソナとして現われる可能性は残されている。

ペルソナとは、人と人のあいだの関係の歴史性を基盤として、私と他人のあいだに立ち上がってくる何ものかである。ペルソナを立ち上がらせているものは、自己意識や理性ではない。それを立ち上がらせているのは、人と人のあいだの関係性である。私の提唱するペルソナの概念については、森岡正博(2009)にて詳述したので、参照してほしい。

本論文では、私の提起したペルソナ概念が、思想史的に見てけっして突拍子もないものではないことを示していきたいと思う。ひとことで言えば、当初のペルソナ概念には、関係性のなかで立ち上がってくる何かの生命性という意味が組み込まれていた。しかし時代を経るにつれてそれが背景に退いていったのである。西洋思想史におけるペルソナ概念の変遷をまずは概観【46】しておこう。

「ペルソナpersona」概念は、古代ギリシアおよび古代ローマ世界において形作られた。ペルソナ概念は、(1)ギリシア語のプロソーポンπρ?σωπονおよびラテン語のペルソナpersonaという顔・仮面を表わす系列と、(2)ギリシア語のヒュポスタシス?π?στασι?という基体・位格を表わす系列が交錯・融合することによって成立した。

まず、第一の系列について見てみよう。

ギリシア語のプロソーポンは、目や顔を意味するオープスの前にプロという前置詞のついたものであり、物の前面という意味となり、顔の意味になり、それが転じて仮面となった。それがさらに社会における役割の意味を表わすようになった(5)。すなわち、人間の身体の前面の顔、そしてその顔に付ける仮面というのが原義である。プロソーポンは、人間の身体の内部に潜んでいる何ものかではなく、他人の身体を見る者にとって「こちら側」に現われているものを指しているのである。このような「表面性」や「知覚への直接現出性」がプロソーポンの特質であると考えられる。

ラテン語のペルソナもまた、ギリシア劇・ローマ劇において役者が顔に付ける仮面のことを意味していた。ボエティウスは、ペルソナという言葉は「響きわたる」という動詞から作られたと書いている(6)。小倉貞秀によれば、personaはper-sono、すなわち「貫いて響く」「通して音を立てる」という意味になる。というのも、ギリシア劇では役者は仮面を付けるのであるが、ギリシア仮面は日本の能面とは異なって口の部分に大きな穴が空いている。そして舞台上で仮面を付けて発声すると、それが仮面に共鳴して大きな声になり、客席いっぱいに広がって届くのである。これについて解説したゲリウスの『アッティカの夜』の一節を小倉が翻訳しているので、ここに引用しておく。

頭と口が仮面の覆いcooperimentum personaeによってあらゆる点で覆われ、同時にただ声の発声の道が強要され、それゆえ広がって放漫にならず、ただ一つの出口において簡潔な、そして強いられた声を生ぜしめ、さらに明らかにして調べのよい響きを造るのである。かくしてあの口の着装が声を明瞭にさせて響きわたらせるのである。この原因のゆえにペルソナが語られたのである。(7)

ペルソナの語源が「声が響いてくること」であるという説に対しては、語源論的に疑問を呈する声もあるが、しかしボエティウスも引用するなど、西洋古来からのもっともポピュラーな解釈であったことに変わりはない(8)。この「声が響いてくるresono」という意味合いは、非常に重要である。仮面とは、こちら側に向けられた顔面の表面を意味すると同時に、その仮面を通して、こちら側にまで「声」が響きわたり、「声」がはっきりと届けられるということを意味するのである。

次に、第二の系列について見てみよう。

ギリシア語のヒュポスタシスは、複雑な経緯を経て、ラテン【47】語のペルソナへと姿を変えていった。ヒュポスタシスは、下に?π?立つ?στημιという原義から生じており、ラテン語では実体substantiaに当たる言葉である。基体(ヒュポケイメノンυποκε?μενου)が発展してできた言葉でもある。

坂口ふみは、ヒュポスタシスの概念の成立について独自の考察を行なっているので見ておきたい。坂口によれば、ヒュポスタシスの意味に通底しているのは、「流動的なものが固化する」というニュアンスである。そしてその固化に伴って「非存在から存在が現われてくる」という動的変化のイメージがあると言う(9)。すなわち、流れているものがあり、それが固化することによって何かが立ち現われてくるということである。その流れゆき固化するものとしてのヒュポスタシスを学説の中心に据えたのがプロチノスである。プロチノスは、第一原理としての「一者」から第二原理としての「ヌース」が流出し、その「ヌース」からさらに第三原理としての「宇宙霊魂」が流出するという三段階にわたる流出論を展開し、その三つをヒュポスタシスの名で呼んだ。この三つのヒュポスタシスは、上から下への流出によって成立しており、またその流出は動的な過程である。一者から流動的なものが流出し、固化して何かを生み出し、そしてさらに流動するという一連の動きがある。ふたたび坂口の言葉を借りれば、「ヒュポスタシスは、流動きわみない、一者からの存在の流出(πρ?οδο?, emanatio)のうちの束の間の留まり(μον?)としての純粋存在であった」(10)。ここには流動性と個体性の二面がある。

この三つのヒュポスタシスという概念を、キリスト教会が「父」と「子」と「聖霊」の三つを表わす述語として導入するのである。聖書においては、「父」と「子」と「聖霊」の三つが語られる。『ヨハネによる福音書』では、イエス(子)の言葉として、「私の名において父が派遣することになる聖霊、この方があなたがたをすべてについて教え、[この]私があなたがたに話したことをすべて思い起こさせるであろう」と書かれている(11)。この三つは同一のものと考えられるが、しかしその論理構造は不明確であった。これをどのように論理整合的に理解するかが、その後の重大な課題となったのである。

東方教会においては、この三つの関係を、プロチノスの流出論のように考えようとした。すなわち、「父」から「子」が生じ、その「子」を通して「聖霊」が発出するというふうに捉えたのである。それらは三つのヒュポスタシス(位格)とされる。これはそれぞれプロチノスの「一者」「ヌース」「宇宙霊魂」に対応する。この三つのヒュポスタシスの発出は直線的ではあるが、下降ではない点でプロチノスとは異なるとされる(12)。

坂口によれば、カパドキアの教父たちは、これらの「生ける動き」こそを神の本質と考えており、そこでは、「生む父と生まれる子を結びつける第三の項である聖霊」が重要視される(13)。この聖霊は「気息」であり、「生命の原理」であり、ネオプラトニズムにおいては「この可視の宇宙全体を生み、包み、支配【48】し、支え、生命を与える原理として、鮮明な姿を現わしてきた」宇宙霊魂と通じるものである。このような「生ける動き」あるいは「生命を与える宇宙的息吹」が「聖霊」にはあり、キリスト教に移植されたヒュポスタシスの東方教会の理解の本質を貫いている(14)。東方ギリシア語圏においては、このように「明確に捉えられない無形の霊・愛の働きである第三の位格が、もっともすぐれて位格であるものとして重きをなしてくる」(15)。この点が、次に述べる西方教会と異なる点である。

以上の東方教会に対して、西方教会においては、プロチノス的な流出論によるヒュポスタシス理解は採用されない。また、ヒュポスタシスにはペルソナというラテン語が与えられる。アウグスティヌスによれば、本質あるいは実体として一であるものが、同時に、三つのペルソナである(16)。すなわち、「父」は生み出すものであり、「子」は生み出されるものである。そしてこの「父」と「子」のあいだに発出する「愛」が「聖霊」と呼ばれる(17)。三つでありながら、それは同時にただ一つであるというのである。と同時に、アウグスティヌスにおいて三つのペルソナが実体としてではなく関係として捉えられている点にも注目すべきである(18)。

西方教会の神学の集大成であるトマス・アクィナスのペルソナ理解を、稲垣良典とともに見てみよう。稲垣によれば、トマスはペルソナというものを、「自存するものとしての関係relatio ut subsistens」として理解する(19)。すなわち一方においてペルソナは「理性的本性において自存するもの」であり、「理性的実体」であり、全自然におけるもっとも完全なものである(20)。ここに見られるのは、理性を持った自存的な存在をペルソナと見ようとするまなざしである。しかしながらもう一方においてペルソナは「交わり」「関係」のただ中においてみずからを現わす。すなわち、「父」「子」「聖霊」という三つのペルソナの交わりにおいて神は一であるわけだから、ペルソナにおいては「存在することがそのまま交わりである」ことになり、ペルソナは「関係を表示する名前にほかならない」(21)。このように、「自存するものとしての関係」としてのペルソナには、自存と関係のあいだの抜き差しならぬ自己矛盾があるのだが、まさにその緊張関係こそがペルソナの本質であるというのである。

ところで、西方教会においてペルソナ概念は少しずつ変質していく。時代はトマスよりも遡るが、ボエティウスはペルソナを単一で個別的な実体と考え、「理性的な本性をもつ個的な実体naturae rationabilis individua substantia」と定義した(22)。そして、ペルソナについて、「どの本性がペルソナをもつに適しており、どの本性がペルソナという名から切り離されるにふさわしいか」という議論をする(23)。

生命のない物体的なものにおいてもペルソナは語られえないことが明らかです(というのは、石のペルソナがあるとは誰も言わないのですから)。感覚をもたない生物においてもまた、ペルソナは語られません(というのは、木に【49】もペルソナは存在しないのですから)。また知性や理性を欠くもののペルソナも存在しません(というのは、馬や牛やその他の動物のように、口をきかず、理性をもたず、ただ感覚によってのみ生を送るものにはペルソナはないのですから)。しかし、人間や、神や、天使については、ペルソナがあると私たちは言うのです。(24)

ここにおいて、神そのものである三位一体のペルソナとはまったく異なった文脈において人間にペルソナがあるとかないとかを語ることが可能な次元、すなわち現代におけるパーソン論を準備するような次元が実質的に導入されたと見ることができる。ボエティウスはペルソナ論におけるターニングポイントである。(坂口ふみも、ボエティウスの定義によって、「アウグスティヌスが賢明にも注意深く避けた実体」がふたたび導入されることになり、東方教会の動性を失ってしまったと批判している(25)。)

その後、ボナヴェントゥラは、被造物としての人間のペルソナを次のように定義する。「ペルソナとは被造物のうちで尊厳という独自性によって他のものから区別された理性的本性を有するものの主体を意味する」(26)。ここにおいては、人間のペルソナというものが、尊厳を持った理性的本性を有する主体として切り出されている。小倉によれば、この場合の尊厳は人間の卓越性のことを指しており、理性的という言葉は善と悪、真と偽を区別する能力を指している(27)。

中世哲学におけるペルソナ概念の変容の詳細については小倉の研究に譲るとして、これらのペルソナ概念の人間化の果てに、たとえば近代のジョン・ロックの「パーソン」概念があることは押さえておきたい。ロックは『人間知性論』の自己同一性の議論において、次のようにパーソン=ペルソナを定義する。

Personとは思考する知性的存在者であり、それは理性と反省能力reason and reflectionを持ち、異なる時と場所において同一の思考する存在者として自分自身を捉えることができる者である。これらのことは、思考から切り離すことができずまた思考の本質であると私には思われるところの意識consciousnessによってのみなされるのである。(28)

人間の理性と意識と自己同一性によってパーソン=ペルソナ=人格を捉える図式は、ロックによって確立されたと考えられる。ここには神のペルソナも、三位一体も、流動する聖霊も、仮面から響きわたる声も見られない。ここにあるのは、徹底して人間の身体の内面に措定された精神の能力だけである。第2章で紹介した、現代の生命倫理学におけるシンガーのパーソンの定義、

自分自身のことを、過去と将来を持ち、他とははっきり区別される存在として自覚できるような、理性的で自己意識を持った存在者

は、ロックのそれと瓜二つである。

坂口は、このようなペルソナ=ヒュポスタシス概念のやせ細【50】りを次のように批判する。「アウグスティヌス―デカルトという線を辿ってひたすら意識的内省へとその場を移していった近代の人格概念の方が、もとのヒュポスタシスにあった存在の重味を見失っているのではないかと思う」(29)。稲垣もまた、「最高善であり究極目的である神」へと関係づけられることなく語られるようになった近代の人格概念について、その一面性を嘆いている(30)。

以上の概観によって、生命倫理学のパーソン概念が、西洋古代以来のペルソナ概念の延長線上にあるということ、そしてそれは古代中世のペルソナ概念の持っていた豊かな多面性を極度にやせ細らせたものであることが分かる。

4 結論:ペルソナ論の現代的意義

ペルソナ概念の歴史的変遷から見えてくるのは次のことである。(1)ペルソナは「仮面」「位格」という意味から発展し、父・子・聖霊についての三位一体論の中で多様に開花したが、その後、理性・尊厳・自己意識を持つ人間のペルソナへと収斂してやせ細った。(2)その過程において、a)「声が届いてくること、響いてくること」b)「生命を与える宇宙的息吹の動き」c)「存在することがそのまま交わりであり、関係であること」d)「人間のペルソナは神との関係を抜きにして語ることはできないこと」などの意味が脱落していった。(3)現代の生命倫理学においてペルソナはパーソンとなり、生存権を持たない個別の人間をあぶり出して切り捨てるための概念となった。

ここで、脳死の事例を素材として私が提唱してきたペルソナ概念を振り返ってみよう。

森岡のペルソナ概念は、これら歴史的に脱落してきた重要な意味を、現代の文脈にふたたび取り入れようとするものである。すなわち、脳死の人との「対話」「会話」にペルソナを見るとは、脳死の人から届いてくる声、響いてくる声に耳を澄ませてそのリアリティを担保することであり(a)、死んでしまった人間が死者としてふたたび現われるという実感をペルソナとして捉えるとき、それは生命を与える息吹のようなものをそこに感受しようとしているのであり(b)、脳死の人にペルソナが現われる理由を関係の歴史性に見ようとすることはまさに存在が交わりであり関係であることを確認することである(c)。(d)の神との関係については確言することはできないが、生者のみならず死者もまたペルソナとして現われて対話することができるという世界観は、何かの超越者との関係において人間の存在を捉えようとしていることにつながるように思われる。

と同時に、西洋のペルソナ概念と相容れないように見える側面もある。それは、森岡の言うペルソナは、理性や自己意識を持たない存在者、たとえば脳死の人、死者として現われる者、あるいはロボットや人形にまで現われる。これは、キリスト教で思索されたペルソナとはまったく異質なものであろう。しかしながら、仮面から声が届いてくることや、生命を与える聖霊【51】の動きという意味にまで遡れば、それらこそがまさに私の言うペルソナを支えているものであるようにも考えられる。

また、学会発表でのコメンテーターからの質問にあった、「見知らぬ人の死体を我々が簡単には傷つけられないことを考えるに、関係の歴史性には還元できないような、身体それ自体に埋め込まれた歴史性があるのではないか?」という論点もまた、上記の諸点の考察によって答えられるかもしれないと私は思っている。本論文はまだ荒削りの考察であり、原典に遡って検討すべき課題も多いので、今後さらに研究を深めていきたいと考えている。

 

(1) 森岡正博 (2001)、67頁。

(2) 柳田邦男、129頁。

(3) Tooley (1983), pp.419-420.

(4) Singer, pp.110-111.

(5) 坂口ふみ、133〜135頁。

(6) ボエティウス、206〜207頁。

(7) 小倉貞秀、9頁。小倉が「口」と訳しているosは、「顔」のほうが意味が通る。

(8) 坂口ふみ、135頁。

(9) 坂口ふみ、116頁。

(10) 坂口ふみ、138頁。

(11) ヨハネ14:26。『新約聖書』360頁。

(12) 山田晶、129頁。

(13) 坂口ふみ、93頁。

(14) 坂口ふみ、100頁。

(15) 坂口ふみ、122頁。

(16) アウグスティヌス、179頁。

(17) アウグスティヌス、504頁。山田晶、132頁参照。

(18) アウグスティヌス、第5巻第11章以降、181頁以降。

(19) 稲垣良典、147頁。

(20) 稲垣良典、101頁。

(21) 稲垣良典、117、146頁。

(22) ボエティウス、206頁。【52】

(23) ボエティウス、204〜205頁。

(24) ボエティウス、205頁。この文章は、パーソン論におけるシンガーの議論と著しい類似性を見せている。Singer参照。

(25) 坂口ふみ、271頁。

(26) 小倉貞秀、63頁。

(27) 小倉貞秀、66頁。

(28) John Locke, Chapter 27, Section 9.

(29) 坂口ふみ、264頁。

(30) 稲垣良典、57頁。

 

文献一覧

Locke, John, 1689, An Essay Concerning Human Understanding.

Singer, Peter, 1993, Practical Ethics 2nd ed. Cambridge: Cambridge University Press.

Tooley, Michael, 1972, “Abortion and Infanticide,” Philosophy and Public Affairs, 2:37-65.

--------, 1983, Abortion and Infanticide. Oxford: Clarendon Press.

アウグスティヌス『三位一体』『アウグスティヌス著作集28』教文館、二〇〇四年。

稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』創文社、二〇〇九年。

小倉貞秀『ペルソナ概念の歴史的形成』以文社、二〇一〇年。

北垣創「バシレイオスにおけるヒュポスタシス概念の変遷」『聖書と宗教』二〇一一年、29〜38頁。

坂口ふみ『〈個〉の誕生 キリスト教教理をつくった人びと』岩波書店、一九九六年。

ボエティウス「エウテュケスとネストリウス駁論」上智大学中世思想研究所『中世思想原典集成5 後期ラテン教父』平凡社、一九九三年、195〜237頁。

森岡正博『生命学に何ができるか』勁草書房、二〇〇一年。

柳田邦男『犠牲』文藝春秋、一九九五年。

山田晶『アウグスティヌス講話』講談社学術文庫、一九九五年。

『新約聖書』新約聖書翻訳委員会訳、岩波書店、二〇〇四年。