大阪府立大学総合科学部人間科学科森岡研究室学生レポート
少女漫画とジェンダー
松好美代子
0、はじめに
少女漫画の大きなテーマの1つに、性というものがある。なぜ少女漫画において性がテーマとなったのだろうか。また、性をテーマにするというのはどのような意味のある試みだったのだろうか。私はこのレポートを通してジェンダーという観点から少女漫画を捉えてみようと思う。
1、 少女漫画の歴史
少女漫画として初めてストーリー漫画となったのは1953年から連載が始まった、手塚治虫の『リボンの騎士』である。『リボンの騎士』以前の少女雑誌にはユーモア中心の、短くてオチがあるといった漫画ばかりが載っていたのだ。『リボンの騎士』のような漫画は少女漫画の世界には無かったのだ。手塚治虫は『リボンの騎士』を通して、少女の愛情や喜びや悲しみといった気持ちを描き始め、これが少女漫画における革命となったのだ。現代の少女漫画の源泉となっているのは『リボンの騎士』であるといえよう。
このように少女漫画のストーリー漫画は男性の漫画家によって始まったのだ。そしてこれはしばらく続くことになる。それは手塚治虫を目指して漫画家になりつつあった少年漫画家たちが、少女雑誌からの注文を受けて少女漫画を描くことになったからである。このため1950年代後半には少女誌の少女漫画は少年漫画家たちによって占められていった。当時、少年漫画では現実ばなれした夢を物語に持ち込むことをタブーとしていたというのも、このことと関係はあるだろう。少女漫画には、ストーリー性やイデオロギーが不在であった。夢を売るものであれば、どんなタイプの物語であっても少女漫画は受け入れたのである。また、少女漫画ではストーリーと直接関わりをもたないファッション画や装飾画を、自由に画面に描きこむことができた。これらの理由から、少女漫画家になることを夢見る男性もいた。
そして、男性漫画家たちによって生み出された少女漫画に影響を受けた少女たちが、やがて女性の少女漫画家として登場してくることとなる。それは1960年代後半から1970年代の出来事である。
1970年代に活躍するのは24年組といわれる漫画家たちである。それまでになかったSFファンタジーや少年同性愛といったジャンルを、少女漫画の中に組み込んだのである。これは少女漫画革新と呼ばれる出来事であった。タブーを破ることで更に面白くなり、少女だけではなく、大人になった女性から、さらには男性の間にもファンが広がるほどの少女漫画ブームの状況を作り出したのである。
他に70年代の特徴として挙げられるのは、「内面」を表現の対象とすることで急激な進化を遂げたということである。少女漫画は絵画表現ではなく言語表現として発達していったのである。フキダシの外側に言葉を配置し、それを登場人物の「内面」として記述する手段としたのだ。この時代に内面表現を必要としたのには、手記ブームと関連がある。「私」語りの女性領域が大衆化していたという背景があった。
1980年代になると、少年漫画を描く女性漫画家が登場するようになる。この頃になると、少女漫画で特徴的であった装飾的な表現は大幅に簡略化されるようになる。
また80年代末には、70年代に発達した「内面」の表現が少女漫画誌において忌避されるようになる。24年組的な「内面」を語る漫画家は男性誌に亡命することになる。
そして現在、少女漫画読者層の広がりと、作家のキャリアが長くなったことでレディースコミックが分化するようになる。また、女性読者の少年漫画への流出や、女性漫画家が少年雑誌に連載をもつなどし、少女漫画は衰退傾向にある。
2、 少女漫画の原点、『リボンの騎士』
2-1 女の心、男の心
生まれる前の赤ちゃんに神様が、男の心(強い たくましい心)か、女の心(やさしい 美しい心)のいずれかを飲ませることで、性別が決まるという設定。主人公であるサファイヤは、天使のいたずらによって両方の心を飲まされてしまうこととなる。誕生したのはお姫様であったが、ひょんな行き違いから王子様であると国中に広がってしまい、王子として育てられることになる。物語が展開してゆく中で、女の心を失ったり、男の心を失ったりする。
『リボンの騎士』(少女クラブ版)を読み、心と性について考察をする。
まずは、サファイヤの状態を分類する。
a,両方の心を持っているが、女である
b,両方の心を持っているが、男である
c,両方の心をもっている、リボンの騎士
d,男の心で、男である
e,女の心で、女である
f,女の心で、男である
g,女の心で、リボンの騎士
この分類では“リボンの騎士”という状態を中性的な状態として捉えることとする。なぜなら、言葉遣いや剣さばきは男であると考えられるが、リボンを付けているという点で、単に男とするには矛盾しているからである。(リボン=女らしさ、とするのは私の偏見ではなく、手塚治虫による女の子の描き方の特徴である)また、この状態こそがこの物語における最大の魅力であり、象徴であると考えるからだ。
a-cの両方の心を持っているときについてまず考察する。“女である”としたのは、朝の1時間だけ女の服を着ているとき、隣国の王子に変装して会うとき、母親の前、動物の前、という場面である。“男である”としたのは、剣の修行をしているときや、王子としての振る舞いをしているときである。“リボンの騎士”というのは、その名の通りリボンの騎士として登場するときである。(gに関しても同じ)両方の心を持っているとはいえ、サファイヤは心の底では女になりたがっている。王子として振舞っている時間の方が長いと考えられるが、漫画の中では「女になりたい」「本当は女なのに」という心の葛藤が多く描かれているため、やはり女なのだという印象を与える。
次にdについてであるが、このときの特徴は葛藤が無いということである。身体は女でも、心が男だけになってしまえば葛藤が無くなったのだ。着ていたドレスを破り、帽子につけていたリボンも捨ててしまう。身の回りの女らしいもの全てを排除してゆくのだ。では女の心だけになっても葛藤はなくなるのだろうか。
e-gについてである。女だけの心になっても葛藤は描かれていた。それは、自分が王子として軍を動かさなければならないという立場にあったからである。身体も心もすっかり女になったということを悟られないように、男言葉を使い、馬に乗り出陣する。このときを“男である”とした。一方、恋の相手である隣国の王子の前では、女として振舞っていることから、このときを“女である”とした。物語は、女の心で女として結婚を果たすというハッピーエンドで締めくくられる。
ここで私が注目したいのは、身体としての性はあまり重要視されていないということだ。たしかにサファイヤが「女になりたい」と願っていたことを考えれば、身体としての性は大きな影響を及ぼしているとも考えられるが、“葛藤”という観点で見てみると違ってくる。身体としての性は葛藤を与えていないのだ。男の心になってしまえば、身体が女であるにもかかわらず何の葛藤も生まれなかったのだ。ということは、両方の心を持っていたときの葛藤は、女の身体によってではなく女の心によって引き起こされていたのだということだ。また、女の心だけのときの葛藤は、自分の立場と女の心というギャップによって生じたのだと考えられる。
dの「男の心で男である」状態に関してもう少し掘り下げて考えてみようと思う。なぜ男の心だけの時には「女である」状態と「リボンの騎士である」状態が無いのだろうか。この理由をいくつか推測してみた。
まず前提としてあるのは、この物語の中では生物学的性はあまり重視されておらず、心が性別を決定するというような描き方がされているということである。その前提に立って、男の心の時について考えてみる。
一つめは、社会の比喩であるという考えである。男の心だけのときには葛藤がなく、女らしいものを排除してゆく、ということを述べたがこれはまさに男性優位社会を投影したものではないだろうか。
二つめは、男は女装することへの抵抗感が強いということである。ここで藤本由香里氏の『私の居場所はどこにあるの?〜少女マンガが映す心のかたち〜』の中にある男性誌に関する記述を参考に、男性にとっての女装を簡単にまとめる。
男性誌の中では、男が女装するという話が非常に暗く描かれる。これは男性が「男である」ことに必死であるからだ。男という役割から逃げ出したいという思いもある一方で、女性性に自らが手を出してしまうことは決定的なダメージになると考えているからである。男性は自分の中の女性願望、女装願望を認めたくないのだ。なぜなら、女になるということは強制的に受動の姿勢をとらされることであり、つまり屈辱や敗北であるからだ。男であることから逃げ出して女性性に走ってしまうことで、どっちつかずになってしまう怖れがあるのだ。男性にとって、「男であること」は居心地が悪かったとしても、現行の体制そのものが無くなるのは不安なのだ。
以上が引用である。たしかに、男の心だけになったサファイヤは、隣国の王子に女扱いを受けて激怒するという場面がある。その場面でサファイヤは自分の着ていたドレスを破ってしまう。「女に成り下がるものか」と言わんばかりである。このことから、女装することに対する抵抗感が読み取れる。
三つ目は、ストーリー上男が女になるということに矛盾があるということだ。これは二つめの理由と関連してくるが、男が女性願望を持つ背景には「男であることを強制されている」ということがある。男が男らしさから逃げ出す手段として女装するのである。しかし、『リボンの騎士』ではサファイヤを葛藤させる原因は女の心にある。女の心なのに、男らしくしなければならないという葛藤は描かれているが、男が男らしさを強制されているということなどは一切描かれていない。だから男の心だけのときには、「女である」状態や「リボンの騎士である」状態が必要なかったのだと考えられる。
2-2 服装と性
先ほど、リボンの騎士としてのサファイヤを中性的な存在として定義したが、その理由は服装にある。騎士の格好なのだが、帽子には大きなリボンが付いている。つまり「騎士=男」と「リボン=女」の融合体であると考えられるのだ。
物語の中で、服装を着替えることで性別も着替えていると捉えられる場面が多く見られる。ドレスを着て花飾りを作っていたのが、王子の格好になると作っていた花飾りを踏みちらしてゆく。あと注目すべきなのは、恋の相手である隣国の王子に、“亜麻色の髪の乙女”の変装をして会うということである。これは単なる変装ではなく、女による女装なのだと考えられる。なぜなら、“亜麻色の髪の乙女”のときのサファイヤは性別を女に切り替えているからである。
2-3 手塚治虫について 〜少女の描き方〜
ここでは少女の描き方(少女漫画の描き方)がどのようにして確立してきたのかということを探るために手塚治虫について言及しようと思う。
少女漫画を描き始めるにあたって、手塚治虫は宝塚少女歌劇から多くのヒントを得た。『リボンの騎士』の主人公の設定(男装の麗人)も宝塚から得たアイディアであった。また、ストーリーの発想だけでなく、描き方にも影響を受けているのである。
手塚治虫は「漫画のスターも宝塚スターのように目を大きく描き、瞳を輝かせることが必要なのではないか」と考えたのだ。
また手塚治虫は先輩画家たちの描く美人画にも影響を受けている。中原淳一らが描いた美少女はみんな目が大きくて、黒目が愛らしくて、まつげが長かったのだ。抒情画の先輩たちが描く少女の目が大きいのは、美しさの強調であった。このことと、漫画における“誇張する”という手法が見事に合致し、目を普通より大きく描き、瞳に輝きとしての星を描いたのだ。この描き方が現在の少女漫画にも強い影響を及ぼしているのである。
また先ほど述べた宝塚についてもう少し言及する。男と女が別々の世界を形成することが許される日本の文化風土を背景として、宝塚は発展した。宝塚の世界は少女の内なる世界を作り出す。少女の内なる世界とは、基本的に性差の無い世界のことである。
少女漫画は性差の無い世界で性別越境を繰り返し試みるという、独特の発展の仕方を見せることになるのだが、これは最初に手塚治虫が宝塚からヒントを得たということが大きく影響しているだろう。
3、ゆらぐジェンダー
3−1 成長忌避と少女漫画
日本という社会において性というものは、「なにかいけないもの」といったものになりがちであった。特に女性は貞操を強いられてきたために、性に対して否定的な感情を持っているといえる。少女にとって、性とはまず欲望ではなく“怖れ”なのだ。この“怖れ” が欲望へと繋がる回路は、「はしたない」などという社会的抑圧によって断たれていた。少女にとって、少女の身体から女性の身体になることの落差は大きいのである。これが成熟への怖れへと繋がっている。
少女漫画において“男装”がテーマとなる作品がいくつかあるが、その中には成長忌避としての“男装”というものがある。(萩尾望都『雪の子』など)男装とは性的な存在であることの否定である。逆に男装を解くということは、“女になる”ということである。『リボンの騎士』を始め、好きな男の前でだけ男装を解く、という筋書きになっているのだ。これは女にとって“女”が問題になるのは男に愛されるときだけであるということである。それ以外のときは、どちらにも成り得る存在として意識されて描かれている。
3−2 少女漫画における少年愛の意味
少女が自分の中にある女性性を嫌悪していたということが、少女漫画における少年愛の発展に大きく影響している。
少女漫画が少年愛を取り扱うことによって、それまでタブーだった性の領域に入ることを可能にした。ここでは、少女漫画で初めて少年愛での性交渉を描いた竹宮恵子の『風と木の詩』を題材として扱う。
『風と木の詩』の主題は、圧倒的な力としての性的欲求である。主題がこのようなものであったため、発表までに7年待たなければならなかったという。7年待ったとはいえ、このような漫画が少女漫画の領域に入ることができたのは、少年愛だったからだろう。このことを説明する上で必要な設定概要をまず紹介する。
主人公のジルベールは実の父親であるオ―ギュに、凄まじいやり方で飼いならされて、性愛無しでは生きていけない存在に仕立て上げられる。しかも常に相手の攻撃的欲望を喚起させるような存在となっている。また、オーギュ自身も若き日に義兄の慰み物として扱われていたという経験を持っているという設定である。
この設定から分かるように、この物語では能動的な性欲が主体とはなっていないのである。現実世界で「受動の苦しみ」と「欲望を喚起させる存在」の両方を持ち合わせている存在というのは、つまり女性である。だからこそ主人公は男なのだ。もしも主人公が女だったとすれば、生々しすぎて読者側に痛みが伴ってしまう。ところが、「受動の苦しみ」や「欲望を喚起させる存在」ということを男の身体に仮託することで、読者に痛みを伴わせずに描くことが出来たのである。このことによって、少女達は性を自分の身体から切り離して操作することができるようになったのである。
また、ジルベールは“エロス”と“悪”の象徴として描かれているが、これも少年だからこそ可能だったのである。野生的に性愛を求め、学校の規律を乱す存在として描かれているのだが、これがもし少女だったら読者は受け付けなかっただろう。なぜなら読者である少女自身の中に、女性嫌悪の思想が流れているからである。ジルベールの行動は「同性でないから許せる」のである。
また、少年愛を扱うことの意味は性のことだけではない。異性愛の安直さを廃し、究極の愛や純粋な関係性を取り出すための装置として受け入れられたのである。初期の少年愛ものは、拒絶される愛という前提で始まる。そうすることによって、「緊張」と「葛藤」を持続させたのだ。
3−3 少年愛を女性が描くということ
ここでは女性が少年愛を描くということに関して考えてみようと思う。
少年愛をテーマとした少女漫画には、「男なのに女として扱われる」主人公が描かれることが多い。『風と木の詩』の中で、ジルベールはまさにそのような扱いを受けており、しかも描き方が否定的である。常に性的な存在として見られ、物のような扱いを受ける。「こっちがどういう気でいたって――むこうがそうさせる」という台詞が出てくるのも印象的である。「こっち」とはつまり自分のことで、「むこう」とは周り、社会のことである。
少年愛という形の中に、女として扱われる苦しみを折り混ぜることが出来たのは、作者が女性だったからではないだろうか。「女であること」のシャワーを浴びせられ続けてきたからこそ、「女として扱われる」少年を描いたのではないだろうか。つまり、『リボンの騎士』と少年愛ものの漫画は表と裏の関係になるのだと考えられる。
女性作家が少年愛を手がけることによって、何が可能になったのだろうか。
『風と木の詩』の中でジルベールは「男なのに女のように扱われる少年」として描かれている。これは女が社会から浴びせられる期待を、男に全部浴びせてみたらどうなるのか、という実験的試みとも取れる。このような試みは、作者が“女らしさ”のシャワーを浴びてきた女性だったからこそ行われたのだろう。
作者が女性であることに関連して、ここで描かれている少年達は現実の男性ではないということがある。描かれているのは少女の心をもつ少年の身体なのである。だから少年愛を描いているのにもかかわらず、リアルな男というものが描かれない。暴力的な場面も描かれているが非常に抽象的である。傷は描くが、けっして顔がひどく歪んでしまったりはしないのだ。女性が少年愛という男の世界を描くことで、少女が好むような架空の“男たちの世界”を覗き見ることができるようになったと考えられる。
『リボンの騎士』では男の女装は描かれなかったが、少女漫画の担い手が女性に移行することで、女装する美少年なども描かれるようになった。これは意図的にジェンダーを混乱させようという試みであった。こうして少女漫画において様々なバリエーションの性が描かれるようになっていったのだ。
2章で男が性別を越えることの困難について言及したが、一方で女性は性別を越えることへの抵抗感が少ないと考えられる。それは女性が社会的に劣位にあったからであると考えることができる。しかし、ここで重要なことがある。まず藤本由香里氏の『私の居場所はどこにあるの?〜少女マンガが映す心のかたち〜』(159ページ)からの引用を示す。
<少女マンガの場合、性別越境の結果としての男の姿が、男性性を強調されてでてくるということはけっしてなかった。それはただ、とりあえず女でないもの=男の姿として表現されているにすぎなかった。>
ここから男性に成り代わって立場を逆転させたいという願望というよりも、とにかく嫌悪する女性性から逃れたいという願望が強かったのだと考えられる。女性性から逃れた先に待っているのは美しい少年の身体である。リアルな男の身体になりたいというわけではなく、単に女として成熟していない身体が欲しいのである。女性でもなく、リアルな男性でもない、架空の美しい少年に心を仮託させることが可能な装置を準備されていたからこそ、少女達はジェンダーを揺らがせる少女漫画を抵抗なく受け入れることができたのである。
4、描き方〜ジェンダーにとらわれない世界としての少女漫画〜
1〜3章を通じて、いかに少女漫画の中で性というものがテーマとなり、ジェンダーをゆらがせる装置となったかについて述べてきた。そういったことを踏まえた上で、描き方についての考察をする。
少女漫画では性をテーマとするもの、あるいは性を強く意識したものが多くある。これは原点である『リボンの騎士』からの流れであるが、ここで注目すべきなのは性を強く意識しているのに相反して、男女の描き分けは曖昧であるということだ。曖昧とはどういうことかと言うと、「男性女性の身体の特徴を暗号化して強調することをしない」ということである。具体的に言うと男性からは筋肉を排除し、女性からは丸みを排除する傾向がある。例えば、先ほど題材に使った竹宮恵子の『風と木の詩』に出てくる少年たちは皆手足が長く華奢である。髪型と服装さえ女らしくすれば女に見えてしまうであろう描き方である。筋肉や丸みといった特徴を全く排除しているというわけでは無いが、実際よりは省略されており、また少年漫画と比べれば全く描き方は違っている。少年漫画では少女漫画とは逆に男性の筋肉を強調し、女性の丸みを強調した描き方をしている。少女漫画において、性的な身体の特徴が省略されるのには3章で述べた女性嫌悪(性的なものへの嫌悪)が影響していると考えられるだろう。
先ほど少女漫画では性を強く意識すると述べたが、それは現実的な性差を意識するということではなく、逆に現実的な性差への反発という形で性がテーマとなっているのだと考えられる。「女は女らしく、男は男らしく」という既存のあり方への反発として、ジェンダーを混乱させ、多様化させたのである。
既存のあり方への反発といったが、両性からのいいとこ取りという見方もできる。絵の話からは少し離れるが、美しさと強さを兼ね備えたキャラクターが描かれることが多い。例えば『リボンの騎士』のサファイヤはその代表である。美しさは一般に女性の良さであり、強さは男の良さである。男のキャラクターでも同様に美しさと強さを兼ね備えていることは多い。
『リボンの騎士』の中で生物学的性が重視されていなかったという流れが、少女漫画の世界では残り、描き方にも影響しているのだと考えられる。性に大きく関わっているのは心なのだから、身体は二次性徴が起る前の状態で構わないし、極端に言えば美しければ何でもいいのである。こうして少女漫画の世界は、固定されたジェンダーから解き放たれた世界として成立したのである。
5、まとめ
なぜ少女漫画において性がテーマとなったのか、また性をテーマにするというのはどのような意味のある試みだったのだろうか、ということについて1〜4章を通して論じてきた。ここでは1〜4章のまとめを行う。
まず、性がなぜテーマとなったのかということである。これにはやはり、少女漫画の歴史が『リボンの騎士』で始まったということが深く関わっていると考えられる。『リボンの騎士』でテーマとなったジェンダーの混乱という流れが、ずっと残っているということだ。
しかし問題なのは、初めの流れがずっと残り続けている理由である。テーマとしてあり続けたのは作者、読者ともに性への関心を持ち続けていたからではないだろうか。まずは、固定されたジェンダーのあり方への疑問を持つことが必要である。それが『リボンの騎士』で行われたことだったのではないだろうか。既存のジェンダーのあり方に疑問を持ち、「もし、こうだったなら」という空想を漫画という形で表現したのでは無いだろうか。そして既存の性のあり方への疑問が、わざと性を混乱させるという試みに繋がってくる。『リボンの騎士』で行われたことを元に、様々なバリエーションを提供するようになる。そうした混乱させる装置を読者は受け入れ、性のあらゆる形について関心を持つようになる。性を混乱させる装置を、なぜ読者が受け入れることが出来るのかと言うと、それは女性の社会的劣位と女性嫌悪が関連している。(読者というのはここでは主に女性を指す。)社会的劣位に置かれている性であり、怖れを伴う性であるから、性別を越えるということへの抵抗感もなく、寧ろ関心を向けることができたのだと考えられる。
ところで社会的劣位と言うと、女性が男性よりも優位に立ちたいという願望を持っているようであるが、本当にそうなのだろうか。優位に立つことが問題なのではなく、あらゆる束縛から解放されることが重要だったのではないだろうか。当り前とされる既存のあり方を破っていくことが重要だったのだ。だからこそ少女漫画の中で、束縛から解放されているのは女ばかりではないのだ。女装する男や、少年愛などがその例である。
また、女性嫌悪に関して論じてきたが、単純に嫌悪という感情しかないわけではないということについて述べておく。『リボンの騎士』でもそうであったように、好きな男性の前では女性でありたいのだ。自分で選ぶことが出来ない状況で、周りの全てから女性として扱われることや、性的な存在として見られることが嫌なのである。女性嫌悪という感情が少女漫画の発展の仕方に大きく影響していることは確かであるが、男性に愛される存在としての女性性というものも大きく影響している。少女漫画にはハッピーエンドが多いというのがその証拠である。
少女漫画が性をテーマとすることで何が可能になったのだろうか。怖れていた性を楽しむことが出来るようになった、というのが大きな実績であろう。少年愛という形で性を提供することで、痛みや怖れを取り除くことに成功し、少女たちは性を楽しむための第一歩を踏み出したのである。
また少女漫画はジェンダーの様々なあり方の提案者でもある。性をテーマとすることで、既存のあり方とは違った様々なバリエーションを架空の世界に作り出し、読者の関心や意識に影響を与えた。
このように、あらゆる現実的な束縛からの解放として少女漫画は発展してきたと言える。今回のレポート通じて、かつてのような束縛からは解放されている現代において、少女漫画が今後どのような発展をしていくのか、ということへの興味が湧いた。少女漫画が衰退傾向にあるのも、社会の変化が影響していると考えられる。現代社会において少女漫画が再び熱を取り戻すためには、かつてのような開拓精神が必要なのではないだろうか。
参考資料
石子順 『手塚治虫part3―少女漫画の世界』 童心社 2002
大塚英志 『「おたく」の精神史−一九八〇年代論』 講談社 2004
竹宮恵子 『風と木の詩』1〜17巻 小学館
手塚治虫 『リボンの騎士―少女クラブ版―』1〜2巻 講談社
中島梓 『美少年学入門』 新書館 1984
藤本由香里 『私の居場所はどこにあるの?少女マンガが映す心のかたち』
学陽書房 1998
横森理香 『恋愛は少女マンガで教わった』 集英社 1999
少女マンガにおける少年愛の意味http://www.matt-thorn.com/shoujo_manga/fujimoto.html
<少女マンガ>の成立 http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/syoujoseiritu.html
|戻る|
*無断転載を禁ず