大阪府立大学総合科学部人間科学科森岡研究室学生レポート
現代男性の困難―モテるということとマターナリズム
尾儀祐介


はじめに

  昨今、ジェンダー、セクシュアリティに関する議論は非常に活発である。しかし、その多くは、女性からの視点でなされている。社会及び男性によって、女性性が抑圧され、歪められているから、社会を変えていこうというものが主流となっている。確かに、それは重要なことである。だが、実際には我々男性も、社会に求められている男性性によって、苦しい立場に追いやられていることがあるのではないだろうか。
  私自身、そのようなことをどのような点で感じてきただろうか。小さい頃から、「男は泣いてはいけない」という感覚を持ち続けている。また、恋人などの異性と遊べば、交際費は男がおごる、あるいは女性よりも多く払うべきであるといった感覚も持っている。
  以上のような感覚は、何か特別な出来事、事件と呼べるような体験があって身についたものではない。しかし、私の中にこういった感覚は間違いなく存在している。このような感覚は一体どこからやってくるのであろうか。
  私はこの論文で、男性の視点からジェンダーを見つめようと思う。まず、現在我々がおかれている社会の中で、男性にはどういったことが求められているのかということを考える。それがどのような要因からでてくるものなのか、そして我々男性に、どのような困難をもたらすのかについて考えていきたいと思う。

1.男性に求められるもの

  今日において、男性に求められるものとは一体どのようなことであろうか。まず、その一つの要素として、男らしさについて考えてみる。
  若いときには、スポーツや勉強で頑張っており、快活で面白く、同性の中でも異性の中でも人気者である。大人になると、ある程度の社会的地位と収入を持ち、野心的で勇気と判断力と決断力に富んでいて、妻子に家族サービスするが、しかし家庭に縛られない男と言ったところであろうか。筋肉とか汗、ケンカなどといった言葉が男らしさを象徴することもある。戦争・闘争が好きであることが男の条件だった時代もあっただろう。高度経済成長の時代には、男は企業戦士となり、外でしっかり稼ぐことが重要視されたであろう。またその会社での接待、付き合いなどで、当然酒の席に遭遇し、酒好きであること、付き合いがいいことなどで男の価値が決まるという場合もあった。
  しかし、上で述べたような男らしさは崩壊しつつある。1970年ごろから日本でもウーマンリブが活動し始め、そしてフェミニズムへと発達していく中で、こういった男らしさの幻想・神話こそが社会を歪めているということを指摘してきた。
  そうして女性の社会進出が進むにつれ、男は外、女は内の亭主関白ではなく、男女が家事を分担することが求められるようになってきている。こういったことから、旧来の日本の男の象徴である、ワーカホリックな企業戦士としての男性像は崩壊に向かっている。
  女性の社会進出が進むにつれ、男女の所得の不均衡、社会的地位の格差は徐々に縮みつつある(あくまで依然と比べてではあるが)。しかし、男性に求められる要素の一つとして、経済力があり、社会的地位があるということは、今日でも重要な位置を占めているように思う。その理想形の一つが、最近取り沙汰される、IT長者と呼ばれる人たちではないだろうか。彼らをメディアが大々的に扱うことによって、一代でも巨万の富を築くことは簡単ではないが、不可能ではないということが、世間的により強く認知されるようになった。また、毎日のようにテレビではセレブということが登場し、人々の羨望を集めている。また、昨今よく言われる「勝ち組」「負け組み」という言葉も、経済的な意味での勝敗を意味する場合がほとんどである。このように、IT長者とセレブという言葉は、今なお経済力と社会的地位というものが大きな力を持っていることを象徴しているのではないだろうか。
  また、一方では多くの男性向けファッション誌が刊行されるようになった。その中でも、『「ちょい不良」おやじ』という言葉の流行の持つ意味は大きい。お洒落や流行といったものは、もはや若者だけでなく、ある程度年齢を重ねた男性にも求められるようになったのである。
  若い世代から、IT長者のように、経済力を兼ね備え、その上で『「ちょい不良」おやじ』になる。今の男性には、経済力、社会的地位とともに、スタイリッシュさを併せ持ち、なおかつ、女性をパートナーとして持つ場合には、家事などの分担も重要となるのである。

2.モテなければならない男

  上であげたようなことは、なぜ男たちに求められるのであろうか。私は女性にモテなければならないからではないかと思う。ではなぜモテなければならないのであろうか。
  現在、男性と女性の格差が小さくなってきていることは誰もが認めるところである。そしてその差が縮まったことによって、女性は男に選ばれるだけの存在から、能動的に男を選ぶ存在へと変化してきたのではないだろうか。
  かつて男性は、選ぶ性であった。そのために社会に対していかに自分が男らしい男であるかを証明しなければならなかった。そのための道具あるいはシンボルとしてケンカや酒が用いられた。
  しかし、今日では、女性は社会進出し、男と肩を並べるまでに至った。そのために男は選ばれる性でもあるようになった。そのために今度は、自分を磨き、女性に選ばれなければならない。すなわちモテなければならない存在になったのである。
  もちろん、昔から女性の目は存在していただろうし、男は選ばれていたのは間違いない。ただ、その女性の目が、女性の社会進出によって、社会の中の目となり、社会的に顕在化したのである。つまり、男性が働いているときや公の場にいるとき、かつては気にしなくて良かったものが、今では、女性の評価というものが社会的意味を持つようになったのである。
  もう一つの側面として、男性像の喪失がモテることの価値を高めたのではないかと推察される。
 企業戦士型の男性モデルはすでに限界が見えている。それは私たちの若い世代には明白なことである。私の世代の人はたいてい企業戦士型の男を父親に持っている。それを家庭の内側から見たとき、彼ら企業戦士は仕事で疲れきり、そして接待の酒で、ゴルフで疲れきった姿なのである。そして、家族への交流は減り、妻などから冷ややかな目を向けられている。その姿を見たとき、「こうはなりたくない」と私たちは感じるのである。
 とは言っても、父親以外には、身近な大人の男性はそんなにいない。だから我々は将来像のモデルを失ってしまっているのである。そのときにモテる男というのは、テレビなどのメディアで多く紹介されており、わかりやすく、魅力的なモデルなのである。

3.母親と恋人―マターナリズムの問題

  この章では、モテることの問題をマターナリズムという視点から考えてみたいと思う。その際、森岡正博著『生命学を開く』(2005年 トランスビュー)の「3.共感的管理からの脱出」を参考にする。
  マターナリズムとは、母性による管理である。森岡によれば、母性の管理とは誘導的である。「あなたのことは私が決める」というスタイルをとるが、そのときに「あなたは、あなたが本当にしたいことをしていればいいのよ。何をしたいの?」と問いかける。「あなたが決めたことは私が支えてあげるから」というかたちをとるが、実は答えは最初から決まっている。
  なぜ答えがわかっているかというと、その問いを発するまでの過程で、母親の望む形の答えが返ってくるように、ずっと子供を洗脳し続けてきているからである。洗脳し続けたあげくに、最後に「あなたは本当はどうしたいの」と聞く。言葉の上では、「あなたの自己決定に委ねる」というかたちをとっているが、答えはあらかじめ決まっているのである。
  言われた側は、そこで形式的な自己決定を問われたところで、答えはそれまでのプロセスで決まっている。もしそこで、母親の意にそぐわない答えを言えば、母親はどうするか、たぶんすぐ泣くであろうことも、いろいろとわかっている。
  母性管理は誘導するプロセスがあって、一つの答えしか出せないように巧妙に束縛した後で、選択肢を出してくる。非常に誘導的な管理といえる。
  母性管理のもう一つの特徴は自己犠牲的であることである。先に出たように、「あなたが決めたことは私が支えてあげるから」という言い方をし、「犠牲になる」という言葉を使わなくても、暗にほのめかす。自己犠牲であることを、言葉の裏で非常に強く言う。
  言われた側はどういう気がするか。自分が下した決断によって、そのために母親を犠牲にしなければならない。はっきりと負い目を負ってしまう。つまり自己犠牲的な管理をするとは、相手に負い目を負わせるようなかたちで管理をすることで、そうすることで相手を縛っていくのである。
  これは「同情的共感」であり、目の前の子供にぴったり寄り添うかたちで、発話が行われる。「私はあなたの気持ちがわかる。あなたが苦しいのがわかる、悩んでいるのがわかる。だから私も苦しいし、私も悩む。」となる。
  もう一つの特徴は、「うちの子は」というものである。世間一般の子供はとか、子供はどうあるべきかとは二の次で、うちの子がどうなのかという点に集中する。「うちの子がかわいそうじゃないか」「うちの子はどうしたいのか」というようなことが、非常に強く前面に出てくる。その結果、子供の自立とか冒険心を奪うことになる。
  もし、家庭の中で母性管理をされて、いやだと感じ、家を出ると、母性の管理から自立できると思われる。しかしその先に待っているのは、自立できたはずなのに、実は全然自立できていないということが、あからさまになってくる。
  母性の管理のもとで長く過ごした人は、特に男子の場合、成人したり恋人ができて家を離れたとしても、それによって本当に母性管理の世界から抜け出せるかといえば、実は全くそうではない。なぜなら、母性の支配、影響力は、我々の内面を縛っているからだ。
  経済的な面で管理されているだけならば、自立して自分で稼ぐようになれば、それで親の管理は終わる。住まいもそうで、自分の住まいを持てば、開放される。
  しかし、そうして開放されていった後に、最後まで残るのが内面の支配だ。十何年間、ずっと支配され、管理され、内面を縛られ、それによって自分のパーソナリティが形成されていく。それは、母性管理の鋳型に沿って形成されているので、実際に母親のもとを去った後も、自分のパーソナリティはそのままである。つまり、母親のもとを去ったのち、我々は自分との戦いをしなくてはならなくなる。内なる母性管理との闘いを、何年も続けていかなくてはならないのだ。
  以上のように、森岡はマターナリズムを解説している。母性管理は我々の内面を縛るものである。この管理は我々にどのような影響をもたらすのか。
  母性管理下におかれた子供は、いったいどのような内面を持ち、どういう人格になるのか。心の深いところに母親に対する感情がずっと残り続ける。
  その感情の一つが、「お母さん、泣かないで」というものだと森岡は言う。なぜこうなるかというと、母親が泣くことによって、自分を管理したからであり、反抗しようとすると母親が泣く。泣くと反抗できないからであると。
  もう一つの感情に「お母さん、怒らないで」がある。母親は小さい子供に対して起こることで対処する。怒ると、子供は母親より力も弱いし、言葉ではどうすることもできないから、硬直してしまう。そうして支配され続けると、「お母さん、怒らないで」という感情が心の基盤にできる。
  こうして、自分のことを思ってくれたり、愛情をかけてくれる人に対して、ビクビクしてしまうことになる。「怒らせるのじゃないか」といつもビクビクしているから、相手が「怒るかもしれない」と予感した瞬間、萎縮して何もいえなくなるのである。
  あるいは、「本当にこれを言わなければ」と思っていても、「怒られるかもしれない」と思った瞬間に嘘を言う、という回路ができてしまう。本当のことを言うと、相手が怒るかもしれないと思った瞬間に、「お母さん、起こらないで」がフラッシュバックして、怒らせてはいけないから嘘を言っておこう、あるいは嘘でごまかそうという反応になる。こういう反応に対して、「なぜそんなことで嘘をつくの」と聞かれても、その答えは、「自分がその人に愛されているから」としか言いようがないのである。
  上記の森岡の論のような人間、特に男は多いのではないだろうか。実際私も、そういった環境で育ってきたし、「お母さん、泣かないで」「お母さん怒らないで」という感覚を持っている。
  いわゆる企業戦士型の父を持つ人は、父親の不在と母親の権威の中で育ってきたのではないだろうか。こういった人は、特殊な人ではなく、むしろありふれた人間であろう。
  そうして育ち、大人になった男性が、女性の目を気にし、モテることに執着するのは当然ではなかろうか。森岡の論に沿って、モテるということを考えてみる。
  こういった男性は、簡単に母性管理から抜け出せないことは先に述べた。その状態で、女性と接した場合に何が起こるのか。
  まず、愛情の関係が両者の間に築かれたとしよう。そのとき男はありのままの姿で相手を愛したいと思うであろう。
  しかし、そのときに「お母さん、泣かないで」という感情が、沸き起こるのである。男は愛し、愛してくれる女性を悲しませることはできないのである。相手の期待を裏切ったときに、相手が泣き、怒る姿をすでに見たことがあるからである。それは、かつての母親の姿として、自分の心にしっかりと焼き付いているのである。
  悲しませることのできない男は何になろうとするのか。それこそがモテるおとこである。幸いにも、モテる男のモデルはテレビやファッション雑誌などのメディアがそれは教えてくれる。「彼女はこう思っていますよ、だからこうすればいいのです」と親切に解説してくれる。
  実際にパートナーから求められるか否かに関わらず、とにかく悲しませることだけは男にはできないので、モテる男になろうとする。それが、自分のありのままの姿とかけ離れていて、感情を押し殺さなければならないとしても、である。幸か不幸か、子供のころから母性管理下におかれ、母親を怒らせないために、自分を偽ることや、感情を抑制することに、彼らは慣れている。そのため、モテる男になることは特別に苦痛なことでもないのかもしれないし、あるいは当然のことのように思えるのである。
  しかし、モテるということの証明はどこにもないのである。ただ、愛してくれる人悲しませることはできないために、どこまでもひたすらに、メディアで紹介される、あるいは自分が思うモテる男性像に執着するのである。無理であると、一方では諦めつつも、やめることはできないのである。そしてひたすら「モテる」ということを追いかけていくのである。
  以上のように、私は、マターナリズムがモテるという問題に、密接に関係していると考える。
  母性管理がありふれているために、自分の現状に気づかず、無間地獄のようにモテる男を追及していく。そして、自分を振り返ったときに、本来の自分とのギャップに疲弊してしまう。こういった男性は少なくないのではないかと思う。これを男性の困難といえば、フェミニストの論者に怒られてしまうだろうか。

おわりに

  以上に見てきたように、男性に求められるもの、求められているような感覚に陥ってしまっているものは大きく変化している。かつて、男社会の中で求められたものは、いま、崩壊しつつあるように見える。しかし、企業社会の中では依然としてあるであろう。そしてそれは多分に女性差別的な部分を含んであるだろうし、変えていく必要がある。
  そして新たに見えてきたモテるという問題をどう捕らえていくべきか。モテるという言い方をしなくても男性の対女性問題は厳然とある。ロリコンや幼児暴行など、はっきりとしたものある。しかし、私が今、自分の問題として感じているのはマターナリズムとモテるという問題である。
  女性の社会進出が進み、メディアでも女性の意見が大きく取り上げられる時代になりなった。そのために、女性の目が今日の社会で顕在化してきた。そして、男性は見る(選ぶ)性から見られる(選ばれる)性という新たな属性も受け持つことになった。
  見られる性としての男性のモデルがはっきりしない今、男性はモテる男という見えない理想像と悪戦苦闘しているように思う。そこにはマターナリズムという問題を含んでいつのではないだろうか。
  この現状をどう捉えるべきか。私は、女性が一気に平等へと駆け上がり、その勢いで、少し女性が男性を追い越した状況なのではないかと考えている。
  女性は抑圧され、不平等な扱いを受けていたし、それを克服するにはやりすぎるくらいの勢いが必要であったのであろう。そして、その変化の勢いに男性がついていけず、一気に顕在化した女性の目に戸惑っているように思う。
  さらに、そこにマターナリズムというパーソナリティの問題が深く関係していると私は感じている。少なくとも、私という男はマターナリズムの問題があるのではないかと気づき始めたところである。
  この問題を克服していくためには、まず自己の内面と真摯に向き合う必要がある。それは時間も労力もかかるであろうが、一人の人間として確立し、歩んでいくためには必要であろう。
  こうして、それぞれが自己の問題を克服することができれば、真に男女が、あるいは人間という存在そのものが対等に付き合うことができるようになるのではないかと思う。

<参考文献>

森岡正博 『生命学をひらく』 トランスビュー 2005年
豊田正義 『オトコが「男らしさ」を捨てるとき』 飛鳥新社 1997年
伊藤公雄 『<男らしさ>のゆくえ』 新曜社 1993年
井上輝子・上野千鶴子・江原由美子編『男性学 日本のフェミニズム別冊』岩波書店1995年

 

戻る

*無断転載を禁ず