大阪府立大学総合科学部人間科学科森岡研究室学生レポート
臓器移植におけるドナー不足解決のための提案

総合科学部自然環境科学科 大前勇輝

倫理学演習Bレポート(2005年度)

INTRODUCTION BACKGROUND PROPOSAL DISCUSSION REFFERENCE

INTRODUCTION

現代医学において、ドナーの提供なくては治療し得ない病がある。現在のところ、血液や臓器そのものを再生医学の方法でつくりだすことはできない。したがって、ドナーの確保は医療の現場において重要な課題の一つであるが、肝心のドナー数は少ない。このドナー不足を解消するにはどうすればよいのか、それをここで考察したい。

私の考えでは、脳死が人の死かどうか問うのは無意味である。それは死の定義というもの自体が自然科学的に決定できるような現象ではないからである。問題は我々が(具体的には法が)脳死者の肉体をどう扱うかということなのであり、自然科学的な議論はここでは扱わない。

BACKGROUND

現在、日本には臓器提供意思表示カードがある。このカードにはドナーとなる本人が(脳死あるいは心臓死後の)臓器提供に同意するか、それともしないのかを選択する欄がある。それぞれの選択肢と共に、提供する臓器、提供者の署名を記入する欄もある。

#このまま印刷して使用できる。
#これを読んだ人がカードの提供するに○を記入して所持すれば、それはそれでひとつの解決策になるかもしれない。	

日本ではドナーの意思が重要視され、臓器提供に同意しなかった人やどちらの意思も明確にしなかった人から、臓器を移植するということはない。家族の同意のみによっても臓器移植を行うことはできない。私はこのような制度は歓迎されるべきものであると思う。脳死や臓器提供という議論の分かれる問題では個人の良心や選択が介在する余地が十分にあり、財産と同じく遺体もまた死後の取扱いに関しては、個人の意志を最優先するべきである。

しかし問題なのは個人の意思が表示されなかった場合である。現状ではカードの携帯率自体が少なく、したがって臓器移植が行われる確率も低い。この問題点を解決するために"カードを持っていない者は提供に同意したものと見なす"という考え方ができるかもしれない。実際にイタリアでは、臓器を移植する条件として本人および親族の反対意思が明確でない場合としている。すなわち生前に明確な意思表示をしなかった者は、臓器提供に同意したものと見なされ、臓器移植が可能なのである。

オランダでもイタリアと同様の登録制度を採用しているが、返答しなかったときの対応はもっと穏やかである。18歳以上の全国民を対象として臓器提供に同意するかどうか問う旨の書類が郵送され、登録しなかった場合は遺族に最終的な決定権が委ねられる。本人が承諾したものの、家族が反対すれば、臓器移植は行われない。

日本においても、前述した本人の意思による臓器提供という制度から、本人の意思がなくとも家族の同意による移植が行えるような仕組みへの転換が提案されている。このように臓器移植法が改正されると、現在の"原則的に意思を表示しない者はNOと見なす"から"意思を表示しない者はグレーゾーン(周りが勝手に決めてよい)"という方向に変更されることになる。もしそうなったら反対の意思を表示しない限り、暗黙のうちに臓器提供に同意したことになってしまうので、NOの意見をもつ人だけがカードを持つようになるだろう。その意味では今とはまったく正反対の制度への移行がなされるかもしれない。

PROPOSAL

いくつかの方向で議論をすることができる。例えばドナー数を増やすためには、臓器提供したくないと思っている人でも、臓器提供がしたくなるような工夫をすることが考えられるかもしれない。しかし、これは大変困難であるように思われる。なぜなら脳死と人の死に対する観念の相違は大きく、その差によって臓器提供をためらう人も少なくないからである。さらに個人の哲学的信念から脳死後の臓器提供を拒否する人からも臓器を提供してもらおうとするのは、個人の思想の自由を侵害しかねない。

脳死に関する一律の基準を押しつけて、より多くの人たちから脳死後の臓器移植を行うようにすればよいという考えにも私は反対である。脳死を一律で人の死とした上で、必ずしも本人の同意なしに移植を行えるようにすることは、個人の良心に反しているように思われてならない。

また、メディアによる宣伝作戦は一時的に効果があるかもしれない。しかしこれには多額の費用が必要とされるだろうし、仮に最初はその費用に見合った効果が得られたとしても、果たしてそれを持続させられるのだろうか?そのような宣伝の効果が人にある程度のインパクトや心理的新鮮さをもたらすには限度があり、宣伝は永続的な効果を得られないのではないかと思う。

提供者が利益を得るような仕組みの成立も考えられる。まず臓器売買につながるような臓器の価格化が挙げられるし、さらに間接的に提供者が利益を得る方法として、血縁者優遇の措置もありえるだろう。前者に関しては先進国で積極的に取り入れられる可能性はないだろうが、後者に関してはさらなる論考が必要だ。なぜならその実施によって提供者の人数は増えても、深刻に臓器を必要としている人が助からなくなるかもしれないからである。

楽観的観測かもしれないが、多くの意思表示していない(見た目は)中立の意見をもつ人たちの中にも実際は臓器提供に賛成する可能性のある人たちがいて、その人たちは何らかの理由で事実上意思表示をしていないという場合があるのではないだろうか。その理由は脳死という状態に対する不安あるいは無知かもしれないし、家族の反対かもしれないし、臓器提供そのものの存在を知らないだけかもしれない。さまざまな理由が考えられるが、潜在的にドナーになりうる(しかし現行法律ではドナーにならない)人たちが多くいるのではないかと思われる。

ここで私が提案するのは、個人の意思を最も尊重しそれによってのみ臓器が提供されるかどうかを決定し、提供者にとって利便を図るのではなくより多くの人たちにこの問題に目を向けることの重要性に気づいてもらうような方法である。これに最も近いのは、オランダで実施されているような登録制度だろう。しかしオランダの実施例で足りなかったのは、意思を決定する機会を多くの人たちにもってもらうことではないだろうか。このために利用できるものの多くは、すでに他国で利用されてきた。保険の加入時や、運転免許証の発行時などである。それ以上にたくさんの人々を巻き込むような方法で、しかも意思表示を明確にできるのはどんな場合だろうか。私が思いつくのは、学校教育の現場である。

臓器提供や脳死に関する話題は、ゆとり教育で取り入れられた総合学習の時間によく取り上げられたトピックだ。多くの中学生・高校生がこの問題について考え、答を出してきた。それならいっそのこと学校のカリキュラムにおいてこの問題について考える時間を提供してはどうだろうか。その上で彼らの意思表示を調査し、その決定を記録・保存しておくか、どこかで一括に管理しておくと便利だろう。住基ネットがあるのだから、不可能なことではないはずだ。

現在の法律上の観点からいうと、臓器提供者の年齢は15歳以上でなければならない。これは一般的に遺書の効力が認められる年齢が15歳からであるという理由による。もしこの基準に従うなら、高校生がこのような教育の対象となるだろう。実際問題として、小学生や中学生に脳死の問題について議論させることは、保護者や教育者の間に抵抗があるという。

このような方法をとることのメリットはいくつかある。まず移植に必要とされる臓器は、提供者が若ければ若いほど需要がある。現在の日本の法律では15歳以下の臓器提供が認められないが、10代の臓器なら、まだ15歳以下の小児にも移植できる可能性がある。

さらに十分に情報が与えられるなら、脳死と植物状態の区別がつかない、などという事態にはならないだろう。今でも多くの一般人はこの問いに答えられない。最悪、脳死後の臓器提供を承諾した家族でさえ知らない場合がある。このような多少込み入った事実は、前もって学習しなければ、容易に理解できるものではないのかもしれない。

さらに現在の高校への進学率は9割台であり、かなり高い確率で回答を入手できるはずだ。オランダでは返答してきたのは半数以下だったというが、返答数自体が上がれば、ドナー数も増えることが期待できるのではないだろうか。

DISCUSSION

迷っている自由はないのだろうか?

登録制にすることのひとつの結果は、意思の表示が原則的に強制されるということだ。そしてそれは次のように批判されることがある:登録制にすることによって国民は迷っている意思を表明することができず、したがって自由の侵害になる、と。しかしこの反論は当てはまらないと私は考える。なぜならこのような制度への変更によって、自由が失われるという結果にはならないからである。意思を表示しない自由が奪われているではないかと思われるかもしれないが、そのような自由はそもそも現時点においても存在していない。存在するのは黙示することによる判断の他者への委託であり、自由ではない。

これは実際に意思を表示しなかった者が脳死状態に陥ったとき、どのような状況に置かれるか具体的に考えてみればわかりやすい。現行法律において意思を表示しなかったことによる直接の結果は、臓器提供が行われないという決定の、脳死者に対する押しつけである。すなわち生前にその人がどのような意見をもっていたかに関わらず、臓器提供に反対したという意思が法律により押しつけられるのである。たとえ法律が暗黙の同意を導入したとしても、これは変わらない。すなわち意思を表示しなかった者が脳死者となったとき、その人の迷っていた意思・自由などというものは存在せず、ただ他人が(法律あるいは家族の意思にしたがって)その臓器の行方を決定するという過程があるだけなのだ。

このように元から自由は存在していないのだから、その侵害などありえないと言える。しかしもしその点が問題になるのなら、他人に委ねる旨の選択肢を追加することも考えられる。生前に意思を表示せず脳死になった人の臓器をどのように処理すべきかを決定するのは結局のところ第三者であるのだから、同等の決定ができるようにしてその選択肢をデフォルトにすることで、自由に関しての問題はなくなるだろう。実際、オランダの選択肢は

  1. 本人が臓器提供に同意する
  2. 臓器提供に同意しない
  3. 配偶者や子供などの家族に臓器提供の決定をゆだねる
  4. 恋人などの特定の第三者に決定をゆだねる

という四項目からなる。

その第三者が存在しない場合はどうするのか?

本人に血縁者がいなかったり、あてにしていた第三者が既に存在していなかったときには、第三者という選択肢は確かに無効となってしまう。またその第三者が決定に応じなかったり、決められなかった場合はどうするのかということも問題である。このことから最終的にはやはり、意思表示をしなかった人が原則として臓器提供可能と見なされるのか、それとも不可能とされるのかを決めておかなくてはならない。

これはある意味で大雑把な見方になってしまうが、多数決というのはありうるだろう。国民の意見の代表を、個人の意思と見なすのである。民主主義的な方法ではあるが、勝手に統計的な意見を個人に当てはめてしまうことになる。現在の日本の状況でいうと、多くの人は臓器移植に賛成の意思を表示してはいないのだから、全く何の意思も表示せずに脳死状態になってしまった人は、臓器提供に賛成していないものと見なすのが最適かもしれない。

このようなシステムが制度として本当に必要だろうか?

登録制度にはそれを維持するだけのコストが必要であり、また多くの人がその問題について反応を求められる。これは非常に大がかりな仕組みであり、また長期にわたって持続させることが可能でなければ意味をなさない。果たして登録制度の必要性はそのリスクを上回るものだろうか。このような疑問が生じるのと同時に、それとは全く正反対の、現行制度へのある批判も考慮に入れなければならない:現在のカードのみによる臓器提供の意思表示は、それだけではあまりにも手軽すぎる、というのである。

確かにカードへの記入とその所持という、登録や他言の必要性が一切ない現在の方式は、個人の意思表示が見逃されてしまいかねないという問題点を抱えている(実際カードへ記入をしても、それを所持し続けている人の数は、割合にしてかなり低いのではないかと思われる)。むしろこうした制度として成立していないことの方が問題ではないだろうか。

管理の仕方に問題は起きないか?

個人情報の管理は、今日の社会において時に深刻な問題となりうる。この観点から登録制度にはより多くの資源が、その情報の保護に必要とされるかもしれない。(とは言っても、実際にこの情報が漏洩したことによる被害というのが私には想像できないのだが。)

また、意思を変更したいときの手続きなどが煩雑かもしれない。今の方式ならカードを書き換えてしまえばそれで済むことだが、登録制になった場合はいちいち申請しなければならないだろう。これがネット上で可能なら申し分ないのだが、そのような仕組みが可能とは私には考えられない。ネットで個人情報を送信したり変更したりできるようにすることは、セキュリティ上の困難を伴うだろう。この種の情報の公開には慎重になるべきだが、それと同時に移植が可能な場合には、医療従事者にそのことがすぐわかるようになっていなければならない。

家族の意見はどこまで考慮されるべきか。

家族の意見がどの程度まで臓器移植に反映されるか、という点については二つの異なった側面がある。ひとつには意思を表示しなかった個人の臓器について、家族が提供に同意することで移植が可能になるかどうか。そして二つ目に、臓器提供に同意した個人の家族が、本人の意思とは異なって移植に反対した場合に、移植を妨げることが可能かどうかである。

ひとつ目についてはすでに議論した通り、デフォルトの(第三者という)選択肢が有効であるならば、家族にその決断が委ねられることもありうる。しかし第二の点についてはまだ考察していない。家族の反対は個人の意思よりも優先されるべきだろうか?私は臓器提供については本人の意思が最も重要であるとこれまで主張してきたし、ここにおいてもまた同様の指摘をすることになるだろう。実際、アメリカでは家族の意思は原則的に個人の提供への意思を覆せない。ただそのようになっているにもかかわらず、やはり医師の判断で移植を中止にすることが多いようである。

罰則がなくては効力がないのでは?

意見を表示しなければ単位を認めない、というのは罰則になるだろうか。しかし、私としては意思を表示すればこういう特典(メリット)があるだとか、意思を表示しなければ罰則(デメリット)があるとかいう"飴と鞭"には極力たよらないで、広くこの問題についての関心が普及することを祈りたいものである。

REFFERENCE

#このレポートの50%は、同じ講義に出席した皆さんの意見と、森岡先生のアドバイスでできています。

戻る