大阪府立大学人間社会学部人間科学科森岡研究室学生レポート (2007年度)
閉塞のリアリティ
:『変身』と『芽むしり仔撃ち』をめぐって
谷口大介
はじめに
時の洗礼や民族の違いといったものを超えて、今もなお読みつがれている作品は多々ある。そういった作品は、いずれも少なからず、‘人間の本質’に迫っている作品であると思う。単にエンターティンに走るだけでなく、現実ではなくとも強いリアリティ・切迫感を感じさせてくれる作品。私がそう感じ、そして惹かれる作品の中から、フランツ・カフカ『変身』と大江健三郎『芽むしり仔撃ち』を取り上げ、どういったところに惹かれているのか、ということを考察していってみようと思う。
1.二つの作品の持つ閉塞感
取り上げた二つの作品に共通して、私が持っているイメージとして、暗い閉塞的なイメージが挙げられる。そういったイメージはどこから来るのか、ということについて、まず考えてみる。
1-1 差別と排除
まず『変身』であるが、この物語は主人公が朝目覚めると、なぜか巨大な毒虫に変身していて、変身した主人公をめぐり人々が奔走していく、というような話である。
著書の題名や最初のくだりの「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した(1)」というところから、一見この物語は、主人公の“変身”の物語かと受け止められるかもしれない。しかし、2章でも触れるが、実は主人公の内心は、人間であった時とほとんど同様である。“変身”したのは、実は周りの人間たち、主として家族である。まずグレーゴルに対する家族の変化を、部ごとに見ていってみる。
1部:グレーゴルが毒虫に変身したことを知る前までは、「体のぐあいがわるいのでございますよ、支配人さん、ほんとに。そうででもございませんければ、汽車に乗りおくれるような子じゃございません(2)」というように、グレーゴルを気遣う家族の様子がうかがえる。
2部:ところが、毒虫に変身したことが判明した直後には、父親が「ステッキと新聞紙を振りふりしてグレーゴルをもとの部屋に追いもどそうとしはじめた(3)」。さらに日がたつと、「どのポケットにもいっぱいにつめこんだ林檎を、さしあたってはぴたりとねらいをつけずにやたらに投げつけだしたのだ(4)」というように、父親に攻撃をされ、重症を負うことになる。
3部:その攻撃からさらに日がたったときの妹の発言に、「だっていったいどうしてこれがグレーゴルだというの。もしこれがグレーゴルだったら、人間がこんなけだものといっしょには住んでいられないというくらいのことはとっくにわかったはずだわ(5)」というものがある。物語が終盤に差し掛かる頃には、もはやグレーゴルが、人間ではなく、‘これ’といったように、ただの事物としてでしか扱われなくなってしまっている。さらに、グレーゴルが死んだ際に父は「さて、これで神さまに感謝できるというものだ(6)」という台詞まで語っている。
上記の部ごとの家族の対応の変化の間に、他にどのような変化があったのか。
1部の時点では、商売の失敗でつくった借金を、グレーゴルが返すためにセールスマンとして駆け回っていた。しかし、2部においては、実はその稼ぎが、こまめに貯蓄されていたことが判明し、3部では、妹は売り子に、母は家事・内職をはじめ、父は銀行の守衛となっている。
本来は、グレーゴルが仕事を出来なくなった時点で、家族は破滅する方向に向いていたはずが、そうはならず、貯金や家族が仕事を始めたことにより、ある程度の生活が出来るようになった。変身前は、養っていた側であったグレーゴルが、養われる側に移ることになる。さらにグレーゴルは、毒虫という外見を持っている。3部において、貸家を始める家族にとって、家に巨大な毒虫がいる、という事実はマイナスにしか働かない。ただ養われるだけでなく、仕事の妨害をもグレーゴルはやってしまうことになる。
つまり、グレーゴルが家族に受け入れられる大きな要因となっていたのは、仕事ができる、という事実にあったと思われる。そのために、グレーゴルの存在がなくとも生活していけることが判明してくると、グレーゴルが元の姿に戻るという希望を諦め、彼を差別そして排除していく、という図式が出来上がる。
この『変身』という物語は極端な例であるかもしれないが、仕事が出来れば受け入れられるが出来なくなれば排除、という図式は、現代でも当てはまるのではないだろうか。仕事ができるという‘条件’を満たしていなければ受け入れられない。求めているのは本人自身ではなく、仕事ができる、という‘条件’。その‘条件’を満たさなければ、待ち受けているのは、例え家族であれども、差別であり排除である。こういった図式により、私がこの作品に対して、暗くて閉塞的なイメージを持つのではないだろうか。
次に『芽むしり仔撃ち』を考察してみる。この物語は、戦時中に、基本的に犯罪を起こしたか、将来起こす可能性のある子供たちが集団疎開を行わされ、その途中に疫病の流行により、その村に監禁状態にされる、というような話である。
まず、この子供たちの存在であるが、上記のように、犯罪に関係のある存在である。この時点で、その時代の日本国の法の秩序から逸脱している。『変身』のように、徐々に逸脱していくのではなく、最初から逸脱している。
さらに、時代状況が戦時中という状況である。戦争状況の中では、国対国ということで、相手国に対抗するため、国内では人々が一致していかなければならない。しかし、やはりそれに賛同できない人々や、その調和を乱すものはあらわれてくる。そういった人々を押さえ込むために、例えば第二次世界大戦中には、治安維持法が強化されたりする。単純に国対国の関係ではなく、内部においても、敵対味方という関係が強烈にあらわれくる。この物語の子供たちも同様で、序盤は犯罪を起こす可能性があるものとして、中盤に差し掛かると疫病を流行させるものとしても、他の人々たちによって、敵・よそもの・邪魔ものとして扱われている。疎開の教官の序盤での台詞に、その事実をつきつけている部分がある。「こんな奥の村へ入って来たら、どこへ逃げても町へ着くまでに百姓につかまってしまう。あいつらときたら、お前たちを疫病みたいに嫌っている。殺しかねない。お前たちは刑務所にいるより脱走しにくいんだ(7)」
物語の舞台が、‘山奥の僻村’ということも重要である。ただ単に、子供たちを排除するだけならば、無人島などが舞台でも良い。
無人島ならば、そこから逃げ出せる可能性は、限りなく低い。‘山奥の僻村’ならば、そこから逃げ出せる可能性は、まだ存在するように思える。しかし「僕らは出発以後、性こりもなく脱走の試みをくりかえしては、村々、森、川、畑の隅ずみで悪意に燃えさかる村人にとらえられ半死半生の状態で連れ戻された(8)」ともあるように、実際にはその可能性はないに等しい。
それでは、無人島と‘山奥の僻村’とでは何が違うのか。それは、逃げ出せない原因をつくっている要素である。
無人島の場合は、単純に海という自然のため、逃げ出すことが出来ない。
それに対し‘山奥の僻村’の場合の要因は、村の人々、もっと言えば、村という共同体である。自然ではなく、人間の集まりによって、差別・排除を行われることによって、よりこの物語の基調を暗くしている。
この物語において子供たちは、疎開をさせられ、疫病がはやると村に監禁、その心配がなくなると、再びその村の主はもとの村人たち、というように、大人に振り回され続けている。その中で、わずかに村人に受け入れられる部分が存在する。村人帰還後の、村長の「俺たちは教官にお前らの悪事を通告しないことにしてやる。そのかわりお前らにもいうことがある。お前らは村についてから、ごくふつうの生活をしたことにする。村には疫病は流行しなかった。村の人間は避難しなかった。そういうことにする(9)」という言葉を了解するという‘条件’を満たしてはじめて、人間的に扱われることになる。そしてただ一人、そういった状況に《僕》だけが抗おうとし、その抗い方が分からぬまま、袋小路に落ち込んだ状態で、この物語は終わりを迎える。
以上でみてきたように、両方の作品に共通する要素として、‘条件’を満たさなければ、受け入れられない、ということが挙げられる。家族にとって、有益な存在であるかどうか、村人たちにとって、従順で扱いやすい存在であるか。そうでなければ、受け入れられず、排除・差別されていく。そういったところに暗い閉塞感を感じ、また強くリアリティを感じ、私が惹かれているのだと思われる。
1-2不条理な状況
閉塞感を生み出している原因として、他にその状況自体が挙げられると思う。
『変身』において、主人公グレーゴルの変身の前触れは全くなかった。何の説明もなく、毒虫への変身が起こっている。グレーゴルの人物像を見ても、いたって普通の真面目な青年であり、毒虫に変身してしまうような、やましい人間性は見当たらない。
『芽むしり仔撃ち』においては、1-1でも挙げたように、まず戦争という状況がある。「人殺しの時代だった。永い洪水のように戦争が集団的な狂気を、人間の情念の襞ひだ、身体のあらゆる隅ずみ、森、街路、空に氾濫させていた(10)」というように、戦争により暴力が当たり前という状況が分かる。
さらに、疎開先での疫病の流行が挙げられる。
戦争、疫病の流行とも、子供たちが望んだものではない。全く自分たちの外部から押し付けられた状況である。
不条理文学として有名なカミュの作品に『ペスト』というものがある。これは、『芽むしり仔撃ち』同様、疫病の流行により、町が閉鎖され、その町の中に閉じこめられてしまった人々の動きを描く物語である。その町の中で人々は、なんとか疫病を退治しようと奔走するのだが、結局流行が収まったのは、時間の経過によって疫病が死に絶えたからであった。つまりそれは、陥った人々にはどうすることも出来ない状況であることを意味している。
『芽むしり仔撃ち』においても同様で、戦争状況・疫病の流行共に、自分たちでの対処は不可能な領域である。
自身の力ではどうにも変化させることができない状況も、二つの作品に閉塞感を与えている。
2.主人公の状況に対する対応の違い
2-1それぞれの主人公の状況への対応
二つの作品において、私が最も重要視する違いは、それぞれの主人公の置かれた、不条理な状況に対する対応である。
まず『変身』であるが、こちらはかなり異様に感じる。
朝起きて、自らが毒虫に変っているという状況。常識的に考えれば、まず驚き、自分がどうしたら元に戻れるかをずっと考えてしまうか、ずっと現実逃避をしてしまいそうである。無論、平常心を保ちながら、その状況に対応できるとは到底思えない。
ところが、主人公のグレーゴルは、多少は驚いたものの、その後に出てくるのは、「さあ、いまはもう起きなければならない、汽車が出るのは五時なのだから(11)」といったように、自らの仕事に対する心配ばかりである。それも、毒虫になったという事実に打ちひしがれた様子もなく、淡々と普段のことのように、最悪何時の汽車に乗れば間に合うのかだとか、支配人に対しての遅刻の言い訳を考えたりしている。
それは終盤、グレーゴルが息を引き取る場面においても変化しない。自身が死ぬという事実に対するおびえはない。「自分が消えてなくならなければならないということにたいする彼自身の意見は、妹の似たような意見よりもひょっとするともっともっと強いものだったのだ(12)」という部分にも見られるように、自分を見捨てた家族に対する恨みもなく、逆にその意見を肯定しているほどである。
それに対し、『芽むしり仔撃ち』の主人公の反応は、明らかに異なる。
初期の、「南たちのおそらくは最後の脱走の試みが挫折してしまったこと、それが僕らの重く不快で腹立たしい共通の気分の根になっていた(13)」という場面からもわかるように、主人公である《僕》は、物語序盤から、脱走という現状況からの逃避を期待していたことがうかがえる。しかし、この時点では他の子供たちに比べ、それほど積極的に現状況からの逃避を行っていたわけではない。
現状況からの逃避が顕著になるのは、弟が行方不明になり、村人が復帰した以降である。
村人たちが疫病により、子供たちを見捨てたという事実を、過去の物語としようとするのに対し、《僕》は「俺たちはだまされないぞ、お前のいうことにだまされて、はめこまれたりはしないぞ、お前こそ俺たちを甘く見るな(14)」というように、その状況にまるめこまれるという現状況への反抗を見せる。結局他の子供たちは、村人たちの暴力に屈するが、《僕》だけは一人反抗を続ける。
反抗を続けた末、《僕》は村長に村を出ていって遠くへ逃げていくことを命じられる。つまり、現状況からの逃避をすることができたことになる。しかし、その時点の「僕はとじこめられていたどんづまりから、外へ追放されようとしていた。しかし外側でもあいかわらず閉じこめられているだろう。脱出してしまうことは決して出来ない(15)」という部分からも分かるように、《僕》は結局は現状況から逃避できていない、ということを理解している。事実、物語も、村人に襲われ森に逃げ込む、というシーンで終わりを告げている。
2-2対応の違いの考察
この二つの作品において、主人公にこれほどの対応の異なりがうかがえる理由として、主人公たちの状況への心持ちの異なりが挙げられる。
『変身』において私は、主人公グレーゴルは、毒虫に変身することを嫌悪するのではなく、実は望んでいたのではないか、と考えている。そのために、陥っている状況を打破しようとするのではなく、受け入れることが出来ているのであると思う。そう考える理由については、以下に述べる。
1章でもふれたように、グレーゴルはセールスマンとして駆けまわっていた。その仕事についてグレーゴルは、「やれやれおれはなんという辛気くさい商売を選んでしまったんだろう。年がら年じゅう、旅、旅だ。店勤めだっていろいろ面倒なことはあるのだが、外交販売につきまとう苦労はまた格別なのだ(16)」といったように、自身の仕事に対する不満をぶちまけている。それでもグレーゴルが仕事をやめない理由として、「両親というものがあればこそこうやって我慢もしているんだが、親でもいなかったなら、もうとっくのむかしに辞表を出しているところなんだ(17)」というように、親のつくった借金が挙げられる。
グレーゴル自身、仕事はやめたいが、家族のためにそれはできないという袋小路に陥っている。しかし、実は彼が毒虫に変身したことにより、この袋小路は解決されたのである。グレーゴルは仕事をしなくてすむようになり、それまでグレーゴルに依存して、特に働いていなかった家族は、妹は売り子に、母は家事・内職をはじめ、父は銀行の守衛となり、借金を返しながら生活が出来るようになった。それどころか物語の終盤では、「三人の職業はどれもこれも〔中略〕話しあってみればまったく恵まれたものであったし、ことに将来ははなはだ有望であったからだ(18)」「ザムザ嬢が真っ先に立ちあがって若々しい手足をぐっと伸ばした。その様子は、ザムザ夫妻の目には、彼らの新しい夢とよき意図の確証のように映った(19)」というように、家族のそれからの生活が前途洋々であることが示されている。
自身が仕事をやめ、家族が良い生活をできるということをグレーゴルは望んでいたわけであり、それがグレーゴル自身が毒虫に変身することによって果たされることになった。そういった事情も考慮に入れて、グレーゴルの現状況の受容的態度を考察すると、彼自身が望んだことだから、その状況を受け入れることが出来た、というように考えられるのではないだろうか。
そして逆に『芽むしり仔撃ち』では、その状況を望まず、妥協してそれを受け入れることができない主人公《僕》の姿がうかがえる。
2-1で述べたように、《僕》は村人たちに対して、徹底的な反抗を示している。その状況を打破することはできなくとも、他の子供たちと同様に、村人たちの命令を聞いて妥協していれば、さらなる暴力は振るわれることもなく、確実に楽であったはずである。それでも《僕》は現状況を打破しようとして、殺される危険性が高くなっても反抗を続ける。
《僕》がそういった行動を取った背景として、弟の失踪がある。《僕》の弟は、村人が復帰してくる直前に、彼の犬が疫病にかかっていると他の子供たちに疑われ、その犬を殺されてしまい、そのショックから失踪してしまう。《僕》はその犬が殺される時に、弟を助けることが出来ず、以降その十字架を背負うことになる。「最初に感化院へ送られたときも〔中略〕そして再び感化院に収容された時も、弟は僕を見棄てなかったのに、いま彼は僕を見棄てていた(20)」という部分からは、それまでどんなことがあっても《僕》を受け入れてくれていた弟が、ついに《僕》を見棄てたことを理解していることがうかがえる。
村人たちにただ一人最後まで抵抗した理由はここにある。1章でもあつかった範囲であるが、村長の「俺たちは教官にお前らの悪事を通告しないことにしてやる。そのかわりお前らにもいうことがある。お前らは村についてから、ごくふつうの生活をしたことにする。村には疫病は流行しなかった。村の人間は避難しなかった。そういうことにする(9)」という台詞は、‘なにも起こらなかったことにしろ’ということを強要している。しかし、《僕》には弟の失踪という事実をなかったことにすることはできない。他の子供たちにとっては、それほどこだわる部分ではないのだが、《僕》にとっては異なる。その事実を守るために、《僕》はなんとしても村人たちに屈服するわけにはいかないのである。たとえ、さらなる暴力が渦巻いていようとも、村人たちに丸め込まれるわけにはいかず、現状況から逃避しなければならないのである。
現状況を受け入れるか否かということは、上記の視点からはそれを望むか望まないかという点から理解できる。興味深いのは、それぞれの主人公が最終的にたどり着いた状況の異なりである。
『変身』のグレーゴルは死んだものの、彼が最も望んだ家族の幸せは果たされている。一見家族にも見棄てられ、救いようのない物語のように感じるが、グレーゴルの望みという視点から考えたら、彼自身は救われたことになっているのではないだろうか。
一方、『芽むしり仔撃ち』の《僕》は、最終場面では村人から逃げている最中で、殺されてはいない。しかし、「僕には兇暴な村の人間たちから逃れ夜の森を走って自分に加えられる危害をさけるために、始めに何をすればよいかわからなかった。僕は自分に再び駈けはじめる力が残っているかどうかさえわからなかった。僕は疲れきり怒り狂って涙を流している、そして寒さと飢えにふるえている子供にすぎなかった(21)」という最終の主人公の思いからも、自分が何も出来ない‘子供’であるということを自覚していることがうかがえる。現状況に反抗しても、結局は自身で道を閉ざしてしまい、救いのない結末にしてしまっている。
この二つの作品の結末を見ると、不条理な出来事には反抗すべきであるという自身の常識的視点を持ちつつも、不条理でも反抗せずに受け入れていたほうが、結局は楽になるのではないか、ということも考えさせられ、逆にそこに確かなリアリティを感じてくる。
3.二つの作品の可能性
これまでは、作品自体を読解していき、共通点や相違点を比較してきた。この章では、もしどこかで主人公たちの行動なり状況が変っていたとしたら、物語はどのように変化したのか、もしくは変化しなかったのか、ということについて考えていく。
『変身』において、物語の一つの特徴として、変身したものが‘巨大な毒虫’であったということが挙げられる。ただ単に人間でなくなるのであれば、犬でも猫でも何でもいいわけである。もし、グレーゴルが犬に変身してしまったという状況を考えてみる。もしそうであったならば、家族の変身は、毒虫の時よりずっとやんわりしたものになったのではなかろうか。グレーゴルの稼ぎを期待できなくなるため、家族が働くことになったのは変わりがないだろうが、グレーゴルが林檎を投げられて重症を負うこともなかっただろうし、家族が下宿屋を始めたときに、下宿人の前に現れて、商売を邪魔してしまうこともなかったであろう。犬がグレーゴルであることに家族が気付くのか、という疑問が出てくるが、家族の生活は毒虫時と同等以上、グレーゴルの扱いはずっとよくなる、と考えられる。
しかし、犬でも猫でもなく、カフカは‘巨大な毒虫’を選んだ。‘巨大な毒虫’に変身されては、家族としてはどうしようもない。毒虫というだけで、醜くマイナスなイメージがあるのに、巨大になられると、その姿を他の人間に見られては家族にとって都合が悪くなるのは容易に想像がつく。つまり、‘巨大な毒虫’とは、圧倒的な否定表現である。そして、2章で述べたように、その変身がグレーゴル自身が望んだことであったとするならば、彼は自身に対して、圧倒的な否定感情を持っていたことになる。グレーゴルがそこまで自身に対して否定感情を持っていた要因として、1章で挙げたように、仕事をしてこそ受け入れられる自己存在への懐疑が挙げられるのではないだろうか。
グレーゴルが‘巨大な毒虫’への変身を望んだとすれば、この物語に状況の変化の可能性はないことになる。グレーゴルが‘巨大な毒虫’に変身せずに、なおかつ家族も救われるためには、『変身』の物語が始まる前段階の変化が必要になってくる。つまり、グレーゴルに依存した生活でなく、家族がグレーゴルの変身後に行ったようにある程度の仕事をしていれば、グレーゴルの変身は起こらなかったのではないか。「年がら年じゅう、旅、旅だ(16)」とグレーゴルが言うことから判断すると、人間時のグレーゴルと家族が共にいる時間は非常に少なかったと考えられる。つまり、家族がグレーゴルを判断する要素のほぼ全てが仕事であったと思われる。その状況を家族が少しでも仕事をして変えていけていれば、グレーゴルが自身は仕事をしなければ受け入れられない、という自己否定感情を生み出すこともなかっただろうし、それによっての‘巨大な毒虫’への変身はなかったのではないか。いずれにしても、この物語が始まってしまったなら、そこに状況の変化の可能性はないのではないか、と私は思う。しかし、可能性がないことが読者である私を完全にオブザーバーとして位置づけ、少ない描写でグレーゴルの閉塞感が伝わるようになっていると思う。
『芽むしり仔撃ち』におけるターニングポイントとして、弟の犬が疫病と疑われた時に《僕》が弟を助けることができなかった場面が挙げられる。
2章で挙げたように、《僕》が村長に屈服できずにさらなる茨の道へ足を踏み入れてしまった大きな理由として、弟の失踪が挙げられる。そしてこの弟の失踪は、弟が自身の犬を他の子供たちから助けてくれなかった兄である《僕》を見限ったことが原因であると、《僕》は考えている。
それでは、もし弟が失踪しなかったとしたら、《僕》の結末に救いは出てきたのだろうか。
まず、弟が失踪しないための条件として、《僕》が弟の犬を守る必要がある。ただ、その犬が噛んだ女の子が疫病で衰弱していることもあり、他の子供たちを抑えることはかなり難しいと考えられる。おそらく《僕》が守ったところで、犬は殺されてしまうだろう。下手をすれば、《僕》や弟まで殺されてしまう危険性も出てくる。しかし、犬が殺されてしまったとしても、《僕》が弟を助けたという事実が重要となってくる。兄と弟という関係から、一見弟が兄に依存していると思われるが、本編の「最初に感化院へ送られたときも〔中略〕そして再び感化院に収容された時も、弟は僕を見棄てなかったのに、いま彼は僕を見棄てていた(20)」という部分からも分かるように、実は《僕》も弟に依存していたのである。その状態で弟を助けたということは、二人の関係は、本編のように回復不可能なまで破綻せずに、維持されたままとなる。
そして、《僕》が命の危険を冒しても、他の子供たちと乖離し、村人たちに反抗した理由は、‘なにも起こらなかったことにしろ’とする村人に対し、《僕》には弟の失踪という事実をなくしてしまうことが出来なかったからである。しかし、弟を助け信頼関係を維持することが出来たならば、弟は失踪することなく、《僕》も他の子供たち同様、村人からの暴力を受けてまでのこだわりを持たないことになる。つまり、《僕》も村人たちに屈服して、現状況に丸め込まれることになる、と考えられる。
本編終盤での《僕》の行動を見ると、他の子供たちに比べ、かなり突出している。しかし、もし《僕》が弟を助けたと仮定すると、《僕》の突出はなくなってしまうと思われる。そうだとすると、当然のことながら、現状況からの逃避には、かなりのエネルギーと覚悟が必要になり、それがなければ果たされないことになる。《僕》が救われるとまではいかないが、少なくともその他の子供たち同様にそれまで通り生きていく可能性は生み出せそうであるが、果たしてそのときに私が『芽むしり仔撃ち』に対して魅力を感じるかは疑問が残る。
4.終わりに
以上のように、全体的に‘状況’に焦点を当てて、二つの作品を考察してきた。私が両作品に惹かれているリアリティを、しっかりと言葉にできたかということには疑問が残るが、はじめにで述べたように、両作品はかなり‘人間の本質’に迫っている作品であると思う。
『変身』は、初めて読んだころから今になって読み直してみても、その異様さ、そしてなおかつ持っているリアリティに強烈に惹かれる。その雰囲気で、グレーゴルの閉塞感が身にしみて感じられてくる。
『芽むしり仔撃ち』は逃げ出せない自身への状況の徹底した閉塞感が特徴の一つである。反抗しようがしまいが、結局は逃げられない。
事例は異なるにしても、現実の世界でもこれら閉塞感は当てはまることが多いのではなかろうか。現実を痛烈に突きつけているのではないだろうか。だからこそ今となっても、これらの作品は読みつがれてきているのだと思う。今後も両作品に限らず、他の作品に関しても、できるだけ掘り下げながら、読んで考察していけるようにしたい。
註
(1)フランツ・カフカ著 高橋義孝訳(1952)〔以下‘カ’と略〕5頁参照
(2)カ18頁参照
(3)カ32頁参照
(4)カ65頁参照
(5)カ87頁参照
(6)カ91頁参照
(7)大江健三郎(1958)〔以下‘大’と略〕12頁参照
(8)大16頁参照
(9)大199頁参照
(10)大13頁参照
(11)カ8頁参照
(12)カ89頁参照
(13)大17頁参照
(14)大201頁参照
(15)大208頁参照
(16)カ6頁参照
(17)カ7頁参照
(18)カ96頁参照
(19)カ97頁参照
(20)大171頁参照
(21)大209頁参照
参考文献
フランツ・カフカ著 高橋義孝訳(1952)『変身』新潮社
大江健三郎(1958)『芽むしり仔撃ち』新潮社
アルベール・カミュ著 宮崎嶺雄訳(1969)『ペスト』新潮社
池内紀(2004)『となりのカフカ』光文社
高橋行徳(2003)『開いた形式としてのカフカ文学―『判決』と『変身』を中心に』鳥影社
小森陽一(1997)「『芽むしり仔撃ち』―差別と排除の言説システム」、『國文学 2月臨時増刊号 いま大江健三郎の小説を読む』学燈社、31―37頁
桑原丈和(1997)『大江健三郎論』三一書房
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