大阪府立大学人間社会学部人間科学科森岡研究室学生レポート (2009年度)

刑法第39条における精神障害者等の犯罪に関する責任能力、処罰、及び処遇についての考察

責任が取れない、とされる人間は、いかにして責任を取れるのか

樽井希実

 

 

はじめに

近代社会では、数々の自由が保障されつつも、すべての自由に対して「責任」が付与されている。公園で自由に走り回って遊んでいて転んで怪我をしてしまっても、遊んでいた人自身の責任である。自由にお金を使っていて自己破産してしまっても、自分の責任である。これらのように、他の選択肢がありながらも、自らが自由に選び取った選択肢がもたらす結果に対して負うものが責任、と一般には認知されているのではないだろうか。

そこで、様々な責任がある中でも、ここでは法的責任ということについて取り上げたい。凶悪事件などが起きた場合、犯人に対して問われる、いわゆる責任能力についてである。なかでも、日本の現行刑法第39条には「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」と明示されている。精神障害があり、犯行当時にいわゆる責任能力がない場合、明らかにその人物が犯罪をしていても無罪となって刑事裁判にはかけられなくなり、あるいは、刑罰が減軽されるのである。但し、教育は受けさせられる。従来の精神保健福祉法に基づく措置入院制度、更には2003年に制定された心神喪失者等医療観察法に基づく治療といった策が取られているため、精神障害の凶悪犯罪者が無罪となれば、そのまますぐに社会に帰ってくることはない。ただ、裁かれないだけである。また、精神障害者が罪を犯しやすい、という誤った認識も払拭するようにここで紹介しておくと、精神などの障害者内での犯罪発生率と、健常者内での犯罪発生率を比較すると、明らかに健常者内での犯罪発生率の方が高いのである。刑法第39条に該当するために、多くの精神障害者などの事件がマスコミで声高に取り扱われるからではないだろうか。

この現状を含め、刑法第39条は被害者やその遺族に、また加害者本人含めその関係者たちに、何をもたらしているのだろうか。そして、触法してしまった彼らは、いかにしてその責任が取れるのか。精神鑑定、刑法第39条、精神障害者などに関して検証していきながら、考察していきたい。

 

1.刑法第39条の社会的認知

まず、刑法第39条が社会に対し、どのように認知されているのか、『39−刑法第39条』(森田芳光監督、1999)という映画を通じて紹介したい。簡単に内容を紹介すると、精神鑑定医である主人公は、自らが助手をする教授の精神鑑定に立ち会う。被告は過去に精神鑑定によって無罪となった少年に、妹を殺害されていた。被告はその復讐のため、戸籍を偽り、成人となったその少年を殺めた、という設定。また被告は精神鑑定の本を読み漁って、自らの責任能力を無いものにしようと解離性同一性障害(いわゆる多重人格)の迫真の演技を続けたが、それもむなしく、真実が明らかになってしまう、という内容である。この映画で注目すべきは、ベテラン教授の精神鑑定においては「典型的な精神障害」と話されており、いわゆる精神障害犯罪者だと断定していた点である。非常にその病状や症状はあいまいで、専門家でも判断しづらく、真実が見えにくくなっていることを示している。映画の最後に、すべてが明らかになった後で、被告は「私が刃物を突き付けたかったのは、被害者じゃない、刑法第39条だ」と述べている。被害者感情からすれば、被告が精神障害者であろうとなかろうと、それは関係ないのである。犯罪をしたというのが明らかなのに、それに対して刑事罰が与えられない、という法の非情さを訴えているのである。

さらに詳しく見ていくこととする。この映画で描かれていたように、精神鑑定は当事者間(被告と鑑定医)のみの間でやりとりされるため、結局法廷に持ち込まれるのは、数字や絵といったデータだけであり、検察、弁護人、裁判官は、司法鑑定で何が行われているのか、何が被告人の心を動かし、被告人をパニックに陥れる要因やきっかけとなるのか、生で見ているわけではない。すなわち、精神鑑定は綿密なデータに基づいた考察がなされるが、結局のところ、鑑定医の主観にすぎない、という精神医学の、ひいては医学の問題性が如実に展開されていたのである。映画のように、知識さえあれば詐病の振りをすることができ、結果的に精神障害者として罪から免れる事が出来るというのは、明らかな法の逃げ道ではないだろうか。閉鎖的な状況での鑑定結果が、結局は主観だとすると、そこに司法鑑定の意義はあるのか。そういった問題点を提示している。

また、鑑定医は医者であるものの患者として被告を救おうとはしておらず、それは罪からの排除に等しい、とも指摘している。39条のもとに無罪とすることは、被告人の人権を守るのではなく、その人権を奪うことになっているのではないか、と吐露する場面もあった。被告を罪から排除するために自分たちは被疑者の精神鑑定を行うのか、罪から排除されるべき精神障害者という患者を守るために精神鑑定を行うのか、鑑定医の心情も大きく揺れていることを示唆している。つまり、捉えようによっては、精神鑑定が犯罪者の逃げ道になっていることは確かである。また、このとき罪に値する罰を受ける事は、人権というのか。ならば、罪から除外される精神障害者の、刑法に対する人権はどこに存在するのだろうか。そういった疑念が残る映画であり、これは現代社会における刑法第39条という問題に対しての疑念でもあると言えると私は感じてならない。

 

2.精神鑑定によって、人間の何がわかるのか

では先ほどから言及している「精神鑑定」とはニュースや新聞でよく聞き、目にするものだが、実際にはどのようなものなのか、簡単に説明したい。概要としては「検察、裁判官などの命令によって被告人の精神状態について精神医学的な診断を下すこと」であり、その鑑定方法は本人の生涯や歴史を調べたり、本人や家族、当人をよく知る人物などから話を聞いたりして行う。

この精神鑑定には二種類あり、簡易鑑定と司法精神鑑定がある。簡易鑑定とは、検察に送致され取り調べを受けている中で検察官から専門家に依頼されるものである。専門家は、一度だけ被疑者と面接し結論を出す。この簡易鑑定は起訴前鑑定とも言われ、日本の精神鑑定で最も多いとされている。一方、司法精神鑑定は、重大な事件などに応じて裁判所の命令で行われる。これは簡易鑑定に対して非常に本格的なものなので、数か月から場合によっては数年を費やす場合がある。

また、被告人の精神状態については専門家の手で鑑定書の鑑定主文に記載される。ここで「心神喪失」状態や「心神耗弱」状態などと明記されるのである。刑法第39条に記載されている「心神喪失」状態とは、精神の障害によって善悪の判断ができない状態とされ、「心神耗弱」状態とは、精神の障害によって判断能力や制御能力が著しく低下した状態を指す。

鑑定書の内容がどうであれ、これを採用するかどうかは裁判官の判断によって決定される。とはいえ、鑑定書に「心神喪失」と記されていれば、採用するとした時点で無罪にしなければならず、「心神耗弱」と記されていれば、刑を減軽しなければならない。懸念されることは、先述の映画の件でも述べたように、専門家の判断で鑑定がなされるので、専門家によって同じ被疑者を鑑定しても結果が異なったりする場合がある。更に簡易鑑定などとなれば、ただ一回の鑑定なので、その正確性は非常にあやふやになってしまう、との指摘も多い。

 

3.現行法の規定

ここで、現行刑法に記載されている内容について紹介する。先程も述べたように、刑法第39条には「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」と明記されている。更に、責任能力についての言及も、刑法と民法のそれぞれにある。刑法には「刑法上の責任を負う能力のことで、ものの善悪を弁別し、それに従って行動する能力のこと。この能力のない者に対しては、その行為を非難できず、刑罰を科す意味に欠ける。」と記されており、民法には「不法行為に関する責任を負う能力で、その行為の責任を追及するに足るべき知能を備えていることが要求される。この能力を持たない者に対しては、不法行為責任が認められず、損害賠償を請求することができない。」と記されている。つまり、刑法と民法のいずれにしても、弁別知識と行為とは切り離されておらず、知識の備えがない場合にはその行為は罰の対象とはならないことが読み取れる。これは行為のみの享受者である被害者の視点が納得のいくものにはなっていない。但し民法においては、責任無能力者(1)の監督者が監督の義務を怠ったとして、その怠惰についても責任を負うことが、刑法714条で規定されているが、享受者に対して責任の所在を納得のいく明らかなものにしたとは言い難い。

では、なぜこのような現行刑法が誕生したのか、その歴史的背景を簡単に説明したい。

 

4.刑法の歴史的展開

まず、日本では明治13年に旧刑法が制定された。フランスのボアソナードを指導者として迎え、フランス刑法典とフランス刑法理論を積極的に導入し、罪刑法定主義(2)と責任主義を織り込んだ、近代的・自由主義的な内容であった。ここでは、「知覚精神ノ喪失」とは「是非ヲ弁別セサル」者のこととされ、その判断基準は心理学的であり、精神障害を理由とする限定責任能力の規定は存在しなかった。しかし、施行される明治15年には、すでに改正が唱えられ始めた。その背景にあるのは、戦争や急速な近代化による犯罪の増加である。旧刑法は啓蒙主義的で犯罪の増加に対応できるものではなかった。更に、急に近代的な刑法は社会に馴染まないと考えられたからである。そこで、ボアソナード自身も司法省も改正案を提出して参酌し、明治40年に新刑法、すなわち現行刑法が制定され、明治41年に施行された。この時は、ドイツ刑法理論とドイツの立法形式を吸収した。

では、現行刑法の参考とされたドイツの刑法について詳しく見ていく。ちなみに、ドイツでも先述の日本と同じような批判を受けて刑法の改正が行われた。そこで社会防衛主義の主観主義刑法を作成したのだ。初めに、16世紀あたりから狂人(3)に対する処罰が議論されており、当時の多くは不処罰を唱えていた。その理由には、狂人は自分の狂気によって既に罰せられている、自由に行為をなす能力のない者には犯罪も刑罰もない、などがあった。更に後になると、犯罪への感性的動機が強く且つ知能の程度が低い故に刑罰目的をあげるため却って重く罰するべきだ、といった厳罰派の意見も見られるようになった。こうした流れがあったものの、1851年に制定されたプロイセン刑法典では、限定責任能力が不採用だったため、改正の案が唱えられた。そうして1871年に帝国刑法典が編纂された。この時の過程だが、「行為者の自由な意思決定が、行為時に排除されていた場合、行為は重罪または軽罪とみなされえない」という心理学的な判断から、「行為者が行為実行の時、自由な意思決定が排除されるところの、意識喪失または精神活動の病的障害の状態にあった場合、可罰的行為は存在しない」という生物学的な判断基準へと変化した。日本の現行刑法も、この責任能力重視の影響を大きく受けており、「心神喪失者」とは、「精神障害ニ因ル行為」とするとされ、判断基準は生物学的であったといえる。

また、日本ではこの現行刑法になるとき、心神耗弱者に対して、必要的刑罰軽減か、裁量的刑罰軽減かの論争は行われなかったという。責任能力の程度についての理解が進み、「責任の軽減」という考え方が広まった結果、当然のように必要的刑罰軽減に定まったといえるのだ。もともと日本では精神病者自体が悲惨な状況に置かれてきた。それゆえに「監置」して「隔離」しようという体制のもと、刑法において、わざわざ監置処分は必要ない、との考えから、刑法上は責任主義に徹した、といえる。責任重視により、心神耗弱者は必要的刑罰軽減が妥当であると考えられた。とすると、裁量的に刑罰が軽減するのなら、そこでも見解は個々人の主観によってでしか判断出来ないのではないか。しかし、必要的刑罰軽減ならば、詐病による狙われた減刑を増やすことにもつながると私は懸念する。

 

5.責任とは一体何か

それでは責任とは一体何だろうか。このような状態の今果たして、善悪の判断ができないから行為の責任は取らなくてもよい、ということは許されて良いのだろうか。ここで、果たして責任とは何か、ということについて展開してみたい。

責任とは、社会における通説では、自由に伴って発生する負担のこととされ、倫理学的には、過去の行いである事態が生じそれにより誰かが被害を被った時、その被害に対して行為者が償いの義務を負うことと解されている。また、意図したとおりの行為ができるという意味で、自由意思ともいわれることがある。つまり、自由な意思に基づいた行動には必ず伴うものであると言える。更に責任にはいくつかの種類があり、刑事責任のほかに、民事責任、訴訟上の法的責任、政治的責任、社会的な結果責任、社会的な自己責任、などがある。ここでは、刑事責任と、社会的な結果責任についてもう少し詳しく述べる。

刑事責任とは、犯罪をした者が刑罰を受けなければならない法的な地位のこととされ、違法な行為をした事について、行為者を非難できることであり、他行為可能性(4)がありながら、あえて違法行為をした事を法的に非難することである。故意と過失の二種が責任の類型としては存在するが、是非善悪を弁別しそれに従って行動することができる、という責任能力がなければ、故意でも過失でも違法行為は成立しないとされている。

次に、社会的な結果責任とは、ある行為が、それが違法行為や不法行為などと関係なく、もたらした結果に対する責任のこととされ、そうすると原則としてすべての行為に結果責任が発生すると言える。法的な責任においては、行為に対しては過失に対しての過失責任主義が原則としてあるので、結果責任はしばしば道義的責任にとどまることも多い。とはいえ、不法行為で損害が生じた場合、加害者がその行為について故意や過失が無かったことを立証しないと損害賠償の責任を負う、というように法的に規定される場合もある。すなわち、精神鑑定で故意も過失もない、と判断される場合には不法行為は成立しないのだ。しかし、道義的には結果について追及される、と捉える事が出来る。

 

6.39条削除論

これらを踏まえた上で、刑法第39条についての諸意見のうち、佐藤直樹氏が述べる、削除論を紹介したいと思う。彼曰く、刑法第39条は人道主義や人間愛に基づいた免責や減刑でなく、責任能力とは精神障害者を人間から排除している、と指摘している。それゆえに、刑法第39条は削除されるべきであり、削除こそが精神障害者を人間として留める唯一の方法だ、と述べている。

それでは詳しく述べよう。刑法第39条とは狂気で犯罪をした人間には刑事責任を負わせない、という内容である。しかし、これは同じ刑法の原則としてある、責任非難、と矛盾しているのではないか、と指摘している。

歴史から見てみる。刑法が確立する1819世紀に於いて、責任能力の判断基準は「善悪を判断できる理性や自由意思を持つこと」とされていた。つまり、期待される人間像とは「自由意思−理性的人間像」だ、ということが刑法で製造されたといえる。それより前には、先述にもあるように、ローマ法に「不幸な運命が狂人を弁護する。狂人は自分の病気で既に罰せられている」との記述があり、まだ人間は自分たちを理性的な動物だと捉えていなかったのである。すなわち、「完全に自由な意思による判断に基づいて全面的に自分の責任において、犯罪をするかしないかを選択する、理性的人間」が起こした罪が、責任非難の対象となる、と言えるのだ。とはいえ、実際は理性的に善悪を判断したうえで犯罪行為を選び取って犯罪をする人間は稀である、と指摘する。そして、是非善悪を弁別し、それに従って行為する能力の、可知論VS不可知論という論争が起こる。

ここで、精神障害者の辿ってきた処遇についても歴史的に見てみる。精神障害者は中世では寛容に受け入れられていた。それは救済、という慈悲が善と考えられていたためである。しかし、資本主義が台頭し、「怠惰=悪」という思想構造の変化が起き、精神障害者は働かないため悪人であるとして、収容され社会からの排除を受けた。これを俗に「大いなる閉じ込め」という。また、犯罪者に対しては懲役刑も始まった。この考えは、犯罪という商品を抽象的な人間労働である監獄労働と交換するという共同幻想、すなわち、犯罪と刑罰の等価交換に基づいている。しかし、監獄労働に於いても労働力がないとされた精神障害者は他の犯罪者たちと区別されて収容されるようになった。このように区別されることで、由緒正しき精神障害者が誕生したと言える。彼らは病院に収容され、刑罰である労働からも認められなかったのだ。これは刑罰からの排除であり、懲役刑の原則とされた等価交換を行えるような理性的な主体にはなりえない、とされたのだ。このような歴史を踏まえると、刑法における責任能力とは犯罪と刑罰の等価交換が可能な能力があるかどうか、すなわち刑罰適応能力であるといえる。こうして、精神障害者は「自由意思−理性的人間」という「人間」の枠から社会と刑罰によって排除された。そうすると、刑法第39条は人間愛や人道主義に基づく免責や減刑と言えるのだろうか、と指摘している。

ここで佐藤氏は、精神鑑定は責任能力判断に用いるのではなく、情状を考慮するために用いるべきであり、黙秘権ならぬ、鑑定拒否権を提示することが必要である、と主張している。

 

7.心神喪失者等医療観察法(心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察などに関する法律)

ここまで見てきたような論点を踏まえた法律が2003年に制定され、2005715日に施行されている。心神喪失者等医療観察法(正式名:心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察などに関する法律)である。この法律に関して紹介する。

その前に、この法律ができる前から、精神障害犯罪者に関する法律としてあった、精神保健福祉法について言及したい。これは都道府県知事または政令指定都市市長の権限によって運用されている制度であり、精神障害などと診断された犯罪者に対して、「二人の精神保健指定医の診断の結果精神障害者であり、入院させなければ精神障害のために自傷他害の恐れのある」とされると、障害者は強制的に入院させることが可能、という制度の内容に基づき、その犯罪者に対して措置入院を命ずる事が出来るようになっているのだ。

では、心神喪失者等医療観察法に話を戻す。立法の経緯はこの精神保健福祉法の措置入院制度では、症状が消えれば退院できるので、症状が出てはすぐ消える、などという状態に対応できない、と指摘されていたためである。そのために、この法律の目的は、対象行為を行った際の精神障害を改善することで同様の行為を行うことなく社会復帰を可能にするよう促進すること、としている。法律を受ける対象者は不起訴・無罪・減刑となった心神喪失者および、心神耗弱者で、その手続きは検察が地裁に申し立てて専門家の意見を尊重し、裁判所が医療を受ける必要があるかどうか判断を下すこととなっている。

そして、その処遇だが、弁護人が医療対象者の付添い人として規定されている。入院が必要とされる場合、入院によらない治療が必要とされる場合、医療自体不要とされる場合、などあるが、入院が必要とされた場合には、指定入院医療機関や保護観察所に送られ、そこに配置された社会復帰調査官や精神保健福祉士らが中心となって医療観察を行っている。また、これに関する医療費はすべて、国の責任のもとに手厚く提供されるのだ。そのまま医療が終了する場合も、6か月ごとに入院継続の申請をすることも可能である。そして、退院の際には、専門家の判断に基づいて退院命令も裁判所が下す。退院後も入院によらない医療、と言われる、専門家による「処遇の実施計画」に基づいた地域での精神保健観察が行われる。この地域医療の処遇は、裁判所による退院命令より原則3年で終了とされているが、本人などの申し出で短くすることも、あと2年延長することも、裁判所に申し立てることが可能である。この2年延長というのは、最長期間で、次々に繰り返すことは不可能である。これは、裁判所の最初の審判の時点で入院によらない医療が必要とされた場合と同じである。そして、医療が終了するか、法律での満期終了という扱いを受け、国の指示の元の教育を離れ、自らの負担で医療を受けることとなる。これは医療少年院と同じと考えて良いようだ。

しかし、問題点も指摘されている。この法律は事件後の対策であり、事件が起こる前の予防策ではない、求められているのは予防策の方である、という指摘は、被害者感情を救えていないことを示している。また、精神障害者にしか言及がなく、人格障害者に関しては治療の可能性がない、とされて、この法の対象外とされているのだ。つまり、精神障害犯罪者に関してはこの新しい法律が適用されるが、人格障害犯罪者に対しては従来通り、精神保健福祉法に基づく措置入院が取られているのだ。

 

8.人格障害とは何か

では、この人格障害とは一体どのようなものか、補足しておきたい。人格障害とは現代では広く「パーソナリティ障害」と言われ、「精神医学において極端な考えや行いにより、社会への適応を著しく脅かす人格的な状態のこと」と規定されている。その概念は「病的な個性」、「自我の形成不全」などとされ、その特徴は様々である。

簡単に大きく分けて4つの特徴があると言える。一つ目は、精神疾患の一つに含まれる病気だが他の精神疾患と比べて慢性的である点。二つ目は、自我の形成期における家庭内環境などの外的要因が生まれ持った気質と相俟って一般には思春期以降に表面化する点。三つ目は、文化・社会環境に依存するものなので同じ状況にあっても人格障害とは判断されない場合もある点。これは、精神鑑定の件でも述べたように、病気と病気でない場合に線引きが非常にあいまいである、という医療の問題点でもある。最後に四つ目の特徴は、個々人の持っている「性格的な特徴」が尖鋭化し社会生活をうまく営めない、あるいは自他に危険を及ぼすほどになる点である。

また、この症状に対する指摘も多い。その中には、人格障害は一種の性格であると言えることから、治療と呼んでもいいのか、という指摘。更に、そもそも人格に対して「科学」という名の下に障害と健常を論じるのはいかがなものか、という指摘も多い。つまり、心神喪失者等医療観察法の中で、人格障害者は病気ではなく性格なので治療して治るようなものではない、と考えられていると言える。

人格障害犯罪者の処遇について、もう少し言及しておく。彼らも被疑者段階で求められれば、精神障害者と同じように精神鑑定が行われ責任能力の有無が判定される。そしてその結果に基づき、刑法第39条に即して、無罪や減刑という処分を受ける。但し実例においては、人格障害者の場合には完全責任能力と認められている場合が多いという。この背景には、人格障害は性格である為、病気というよりも異質な性格と考えられ、完全責任能力とされるという通説がある。これは法務省の規定した心神喪失者等医療観察法の、人格障害犯罪者に対する認識と一致する。対して、人格障害犯罪者が完全責任能力ではない、とされた判決後の処遇は、障害者として症状の重さによって専門的医療が施されることになっている。つまり、先述の精神保健福祉法の措置入院制度に準じているのである。

 

9.教育されること

これまで制度や歴史について述べてきたが、では一体その障害者たちはどのような処遇を受けているのか、その教育内容に入りたいと思う。とはいえ、非常に医療の専門的な文献が多く、また人物によりけりの教育内容であったりするため、大まかな概要を述べるにとどめる。

まずは教育の目的であるが、少年・精神障害者・人格障害者など、すべてにおいて、矯正教育の目的は問題となる行為の除去である。手法としては、個別指導、グループワーク、職業指導、保健指導、レクレーション活動などの分野において各々の治療がなされる。社会治療とは、犯罪者を今日考えられるあらゆる可能な方法を用いて出来る限り社会化させ、その者の社会復帰を積極的に促し再犯の防止を目的とするもの、という概念に基づき、治療対象者が社会集団生活の場面で他人と関わり合いながら問題性や欠陥を自覚し徐々に自力で生活できるような技術の習得を目指し、それを援助することが大きな目標であり目的であるのだ。刑法第65条に規定されている、この社会治療の対象者の中には、重度人格障害者、精神障害犯罪者が含まれている。つまり、この規定に基づいて、彼らの社会治療は教育という概念で行われているのだ。

 

10.自分の主張

これまでを受けて、結局は、責任原則の「責任がなければ犯罪も刑罰もない」という体系と、「どのような制裁を科せば、再犯を回避し社会を防衛できるか」という社会防衛の体系が、相補的でないことに問題があるのだ。その意味で一歩進んだ制度である、精神障害者に対する心神喪失者等医療観察法のような法律が、人格障害者にも必要だ。そのためには、人格障害者の治療や処遇が確立される必要があり、人格障害の医学的かつ道徳的な研究の進歩が求められる。これは人格障害者の人権にも関わる問題である。

さて、この結論を基に、私が提案するのは、責任能力のない犯罪者に対して、刑事裁判を行わないのではなく、裁判を行いながら並行して治療と教育を行う、ということである。念のため、すでに誰かが述べているかもしれないが、今回私が調べた限りでは、同じことを述べる人物はいなかったので、ここでは私の提案と表現する。ここで私のいう治療とは、専門的治療のことで、症状の緩和・消滅や病気の治癒などをさす。また、教育とは矯正教育のことで、責任を理解させ自覚させる、という意味を持つ。たとえ精神障害者であろうとも、社会から必要とみなされた場合その治療と教育は受けるに値するのだ。いや、受けなくてはならない。これは責任主義における責任を生み出す生産的行動だと言える。生活母体である社会からこの教育の必要性を認められた場合、教育を受ける必要性が生じるといえる。そして病気が治癒するか、あるいはある程度の目標状態まで改善し、教育の結果、自らの中に責任を存在させることが出来れば、自らが社会に対して何を起こしたか、を理解し、改めて刑事裁判で裁かれるべきではないだろうか。そうして、自らの責任を理解した上で刑罰を受けるのだ。この考えは、刑法にある一事不再理(5)ではないか、という指摘もあるかもしれない。しかし、最初の裁判では治療と教育の必要性を判定しただけであり、本当の裁きは行われていないと考える。よって、責任を自覚した上での裁判が刑事罰を与える裁判であると区別する。また、責任を自覚した上で裁きを受ける、というのは刑法の原則である責任主義の要請に一致するのだ。

次に、受刑は再教育システムと位置づけることができる。規範を破り社会の秩序を乱したとして、社会からはみ出てしまった者として、もう一度社会秩序に組み入ることができるように再教育する場である、と言える。すなわち、社会秩序を乱さずにそれに組み入るための教育であると考える。よって精神障害者は医療現場で教育を受けた後、社会秩序に対して、もう一度はみ出さずに組みこまれるように刑罰を受けるべきなのだ。医学的な教育だけでは、社会からはみ出し秩序を乱す、という明らかな要素を持ったまま現存の社会構造に帰っていくこととなる。それでは精神障害者が犯した罪の真実の行き場がない。被害者及びその遺族などからすると、加害者が精神障害者であることは問題ではないのだ。それよりも、加害者には少しでも自分のしたことの重大さに気付いて貰い、それを悔やみ反省しながら少しでも多くの刑罰を受けてほしい、と望むだろう。医療現場での教育を、加害者を社会的に救済する立場から行い、次に被害者を、社会制度的に救済する立場から刑罰を与えることが必要であるといえる。

しかし、精神障害者の症状は様々であり、教育しても治らない・改善しないという場合も多いだろう。それでもどこかで教育を打ち切らなければならない。再教育の場が与えられなくなってしまうからだ。なので、医療現場で教育を受ける必要がある、と裁判所から命令があった場合、その判断を下す基準となった精神鑑定を行った専門家の意見を参考にしながら、基準教育期間なるものを決定し、その期限を過ぎても治らない・改善しない場合は、再び専門家の判断を仰いで、そのまま強制的に再教育システムに組み込むか、教育期間を延長できるようにすれば良い。強制的に再教育システムに組み込むのは、精神障害者の人権を無視しているといわれるかもしれないが、教育の期間を与えたのだから、一概に無視とは言えないだろう。寧ろ、治らない・改善しないものを、治る・改善するまでずっと教育し続けていては、刑罰を少しでも受けてほしいという被害者側の訴えを無視していることにはならないだろうか。

もちろん加害者の立場である精神障害者には、様々なケースがあると思うが、様々な事件を扱っている裁判官なら、ケースバイケースで対応できるはずである。精神障害者でもなく、故意も過失もない人間が悪しき状態を招いてしまった場合も同じである。精神障害者のように故意も過失も無いが、精神障害者とは異なって責任能力がある、という違いがある場合に、事実だけを見れば、差はないはずである。どれだけその時に故意も過失もなかろうとも、悪しき状態が起こってしまったことは事実なのである。事実である以上誰かが何らかの責任を負わなくてはならない。これは、自由が保障されている現代において宿命だと考える。このような場合も裁判官はケースバイケースで対応するはずである。

これらのように、責任主義体系と社会防衛体系が相補的でない現状で、今あるシステムを用いた最良の方法は、医学的な教育と社会的再教育の二つを重ねることではないだろうか、と提案する。

今一度、人間は他人と接するにあたり、それぞれの行為によって引き起こされる事実を認識し、その行為に対する責任をどのように取るのか、こういった根本的な問題を考え直す必要があるに違いない。

 

 

(1) 責任無能力者とは、責任無能力状態にある人物のことで、責任能力が存在しない状態をいい、これに対して、限定責任能力者とは、責任能力が著しく減退している状態の人物をいう。

(2) 何が罪でどのような罰を与えるかは法が定めるということ。

(3) 当時にはまだ精神障害者という概念はなく、こう呼ばれていた。

(4) 他の適切な行為を行うことも出来たという可能性。

(5) 一度裁判を終えれば同じことを再び裁くことはできない、という決まり。

 

参考文献、HP

浅田和茂1983『刑事責任能力の研究 上巻 限定責任能力を中心として』成文堂

浅田和茂1999『刑事責任能力の研究 下巻』成文堂

市橋秀夫2006『パーソナリティ障害(人格障害)のことがよくわかる本』講談社

加藤久雄2002『人格障害者と社会治療』成文堂

小浜逸郎2005『「責任」は誰にあるのか』PHP研究所

佐藤直樹2006『刑法39条はもういらない』青弓社

佐藤直樹200439条はきれいさっぱり削除されるべきだ」、『刑法39条は削除せよ!是か非か』洋泉社、27-47

中谷陽二2005『司法精神医学と犯罪病理』金剛出版

日本弁護士連合会刑事法制委員会2005『Q&A心神喪失者等医療観察法』三省堂

野村稔1998『刑法総論:補訂版』成文堂

福島章2008『犯罪心理学(雑学3分間ビジュアル図解シリーズ)』PHP研究所

福島章2008『パーソナリティ障害』日本評論社

法務省HP(http://www.moj.go.jp/HOGO/hogo11-01.html)

町野朔2004『精神医療と心神喪失者等医療観察法』有斐閣

矢幡洋2008『無差別殺人と妄想性パーソナリティ障害−現代日本の病理に迫る』彩流社