大阪府立大学人間社会学部人間科学科森岡研究室学生レポート (2007年度)

 

神戸連続児童殺傷事件にみる家庭(大人)と子供の成長過程

山中丹美


 

 

序論

 

 どこにでもある、どの子供にも当てはまる状況で、さまざまな心の傷や、文明の利器、刺激物や情報に絡み取られていくとき、まわりの大人がしてやれることはないのか。子供はどうやって、いつ大人になれるのだろうか。欲望と理性が折り合わなくなりそうな時、周りに気づかれようと無意識のサインがあるように思うのだが、大人はどう接してやればよいかを考えたい。

 

本論

 

 19972月から5月にかけて起こった神戸連続児童殺傷事件といわれる犯罪は、被害者の遺体の一部が中学校の正門に置かれていたことでセンセーショナルに報道され、犯行声明文による挑発でことさら犯人の推理を呼び、犯人が中学2年生であったことによる人々へのショックで記憶に残っていると思う。犯人がなぜそのような犯罪へと自分をエスカレートさせてしまったのか、その一線を越えるまでに何らかのブレーキがかけられる余地がなかったのだろうか。

 事件経過に至るまでの少年の非行事件を見ながら、いくつかのエピソードごとに少年がどのように感じ、どのように変化し、それらに対する周りの対応を考察していこうと思う。

 

⒈  事件経過

 

   @1997.2 路上で小学校6年生の女児二人をショックハンマーで殴る

   A1997.3山下彩花さん金槌で殴られ、後日死亡。山下さんの犯行10分後、

    小学校3年生女児が刃物で刺され、重症。

   B1997.5.24土師淳君絞殺。後日切断して、27早朝、中学校の正門に置く。

   C1997.6.4 神戸新聞社に犯行声明

   D1997.6.28 少年A 逮捕

 

⒉  少年Aの生育環境と非行経過

 

 両親の間に長男として一部上場の重工業メーカーに電気配線の技師として勤める父と専業主婦の母の間に1982年7月7日に生まれる。1年後に次男、三年後には三男が誕生。小学校の入学と同時に母親の実母の家に同居を始める。「怖がり」で「臆病」と母親が評する少年を、両親は甘やかさず、厳しく育てた。幼稚園の年長の頃3回ほど自家中毒(注1)にかかる。

 小学校2年生になって少林寺拳法の道場に通い始める。小学校3年生ころサスケという犬を飼う。公園で拾った子猫を、内緒で育てていた。いくつかのエピソードごとに少年がどのように感じ、どのように変化し、それらに対する周りの扱いはどうであったかを見ていこうと思う。

 

 

    飼い犬「サスケ」作文

 「お母さんは、やさしいときはあまりないけど、しゅくだいをわすれたり、ゆうことをきかなかったりすると、あたまから二本のつのがはえてきて、ふとんたたきをもって、目をひからせて空がくらくなって、かみなりがびびーっとおちる。そしてひっさつわざの『百たたき』がでます。お母さんはえんま大王でも手がだせない。まかいの大ま王です。」この後は教師が削除しているが、「ぼくもお母さんがいなかったらな。いやだけどやっぱりぼくのお母さんみたいなのがサスケのお母さんだったらわからないけど。」と続く。忘れ物が多くて注意されると「お母さんには絶対いわんといて。」と必死に懇願した。

 

    「軽いノイローゼ」と診断される

三年生になって間もないころ、父親にしかられた少年が激しく泣き、意味のわからないことを口走ったので、病院を受診したところ、「軽いノイローゼ」と診断され、お母さんの叱り過ぎを指摘された。

 

    祖母の死

 5年生4月に祖母が肺がんで死亡。祖母の死後、ナメクジや蛙を解剖し始める。奇怪な友人「エグリちゃん」という身長30〜40CMの小さな女の子を、想像の世界に作り出した。容姿は醜く、空腹を感じれば自分の腕を食べるが、それはすぐに再生される。

 また空想界に「ガルボス」という動物を作り、凶暴性を操る存在だが、姿形を持たないというイマジナリー・プレイメイト(2)を作り出し、対話していたようだ。

 

    公園で遊んでいるとき近づいてきた猫を蹴り上げる

  友人45人でパンダ公園で遊んでいる時に、子猫が近づいてきて、少年は突然その子猫を蹴り上げ、びっくりした友人に、「じゃまやったから。」と表情を変えずに言ったという。

 それ以前に、裏の菜園を荒らす猫を威かすために母親はBB弾のピストルを買っている。

「私方の家族は皆、猫が嫌いです。理由は以前我が家で飼っていたサスケという犬の餌を野良猫が横取りして食べたり、裏庭にはいってきて糞をして行くことから、家の近所に住みついている野良猫が嫌いなのです。以前、女房が裏庭にやってくる野良猫を威すために、BB弾を発射するピストルを買ってきていました。」(「『少年A』この子を生んで・・・」P23)猫の殺し方が残虐を極めていたことは、単に「死」への興味だけでなく、以前から家族が猫を憎んでいた事と、現実界への不満の表われのようにも見える。家族や周りの大人のすることを子どもは学ぶものだからである。

 

    6年生になって猫が解剖の対象に加わる

 祖母の死と同時期にナメクジ、カエルの解剖を始める。(神戸家裁 処分決定要旨の指摘)

 

    ナイフ万引き

 生活用品店で900円くらいの鞘付きのナイフ。タンク山に登って自分達だけの「道」や「基地」を作って遊んだ。親に見つかって取りあげられると、また万引。

 

    エアガン

 少年たちグループはエアガンで6年生女児を狙って撃った。

 

    赤い粘土にカッターナイフを刺した作品

 少年が工作クラブで作った「ぼくと私、未来の家」テーマの作品は、赤い色を塗った紙粘土のかたまりに、何本ものカッターナイフの刃を突き刺したものだった。それは「人間の脳」で、「友達をいじめたやつを威嚇する為」に作ったという。

 このほか、赤や青のひもが巻きついた立体の作品を、少年は「血液の流れだ」と説明し、白い箱に、川の字にカッターナイフを貼り付けたものや、黒い直方体の箱に、カッターナイフの刃を垂直に立てた作品もあった。一方、このころ学校は学級崩壊の兆候を見せ始めていた。

 

    「阪神大震災」の作文

 震災では少年のおじの家が倒壊。家族や親戚の被災を心配したという作文の中で、当時の村山首相がスイスの救助隊に対する対応が遅かった事に怒り、「ぼくは、家族が全員死んで、避難所に村山さんがお見舞いに来たら、たとえ死刑になることが分っていても、何をしたかわからないとおもいます。」と、性格的な《徹底性》をうかがわせている。

 

    猫に投石して猫が死んでしまう

 ゴミをあさりに来た猫に石をぶつけたら、排水溝に倒れ、息絶え絶えになった。見かけた近所の主婦が猫を動物病院に連れて行ったが、死んでしまった。その猫を引き取ってきて、埋めに行こうとしたら、少年も「僕も行きたい。」といい、自宅から線香を持ち出してついて来て、「こうなったのは、僕のせいでしょうか。」と言っていた。(『暗い森』P97

「あの日から、死んだ猫のことが頭から離れなくなった。猫を殺す事が楽しいとおもうようになった。」と友達にうちあけ、「猫を殺して楽しんだりする僕に対して、酒鬼薔薇聖斗という名前をつけた。僕自身を嫌だと思う気持ちを紛らわすための理屈をつけようと思った」と逮捕後に供述している。

 

    バモイドオキ神

 「唯一信頼できる、姿は見えない、脳内宇宙にずっといる」(『暗い森』P98 )存在が夢に現れ、バモイドオキ神となづけた。

 

    淳くんをいじめる

 卒業間近の2月、今回殺害された淳君を小突く騒ぎがあって、そのこの家に謝りに言った時、「うちの子が先にちょっかいを出したんでしょう。」と慰められ、「僕の話を信じてくれてよかった。」といって、「このままだと、何をするかわからない。暴走するかもしれない」と  担任に漏らしている。自分を止めてもらいたいSOSは発信されている。

    

    スプレー缶で火遊び

 中学入学後、47日友達と火遊び(スプレーに火をつけて、火炎放射器遊び)をしているのを小学生にとがめられ、石を投げてきたので、ナイフで脅す。それを先生に告げ口され、注意を受ける。その逃げる際に、小学生の自転車のタイヤをナイフで切り裂き、パンクさせる。

 

    女子生徒の運動靴を燃やす

 6月 卓球部の同級生をラケットで小突く。足をひっかけられたからといい、女子生徒の体育館シューズを燃やし、カバンをトイレに隠す。「女子生徒がみんなの悪口を言ったり、母親が太っていると言われて腹が立ったから。」(『暗い森』P102)双方の親子を引き合わせた際、少年は「先生に止めてもらわんかったら、まだずっと続いたいたかもしれへん。先生に止められてよかった」ともらす。ここでもSOS発信があった。

 

    温度計を万引き

 7月11日いつもの3人の仲間とリビングコープで万引き。少年は温度計を万引きした。親は問い詰めたが、黙っていた・・・・・逮捕後、猫に飲ませていたと供述。

 

    脳小児科にカウンセリングを受けに行く

 母親は「多少短気な面があらわれているのかなと深く考えてこなかった」がその執拗さと燃やす行為の異常さに児童相談所のカウンセリングを受けるようすすめられて訪問。そんなに心配ないといわれたが、「中学に入ってから問題を立て続けに起こし、しかも異様なしつこさが気がかり」(「『少年A』この子を生んで・・・」P181)と母も感じ、「脳に腫瘍などができると、情緒が不安定になり、常軌を逸した行動をとる場合もあると聞いたことがあったので」脳の器質的障害を心配して専門医を紹介してもらって受診している。「注意欠陥・多動性障害(注3)の疑い」と診断された。(823日)自立性を尊重して、過度の干渉をやめ、褒めて育てるようにとアドヴァイスを受けた。

 

    台所床下から猫の死骸と斧

 中学2年生5月、台所の床下から猫の死骸を発見。弟たちとともにそれを見て「気持ち悪い」といっていたので、本人がやったなどと夢にも思わなかったと両親は証言している。以前に斧も発見したが、少年に尋ねると、友達から借りたと言うので友達に確認したら、知らないといわれた。それにもかかわらず、少年の話を鵜呑みにし、そのまま斧を自治会に寄付している。

 

    女子生徒をいじめる

 同級生の友人4人で同じクラスの女子生徒を「バイ菌」とよんでいじめ、もうすぐ行くことになっていた宿泊訓練先の高原で「崖から突き落としてやる」と脅していた。

 

    教師に対する不信感

 「先生はぼくをおかしいと思ってるんや」と泣きながら帰ってきたという。「Aはちょっとおかしい子やから、一緒に遊ばないように」と友達が先生に言われたことを聞いたらしい。自分が「一方的にぼくが悪い、先入観で見られていた」と逮捕後の取調べで少年は振り返る。

 

    進路

 将来の希望についての進路調査では、「火葬場の番人」になりたい」、「煙草の自動販売機を買って並べ、煙草を売る」と話し、「将来の希望など何もない」と母親に漏らしていた。

 「しんどいしんどい」・「学校の建物がいやや、空気がいやや。」と言っていた。両親は「高校に行くのはちょっと無理だろうと思っていました。高校に行かないなら、新聞配達か自衛隊に入ったらどうかと話した」こともあったという。

 

    ホラービデオを一人で万引き

 警報のブザーがならない方法を友達から教えてもらったから、試したかった。それと万引きのスリルが面白いと言った少年Aに万引きは泥棒であることを「夫と一緒に懇々と言ってきかせた」(「『少年A』この子を生んで・・・」P198   )つもりだったが、万引きは続いた。

 

    同じ中学の女子上級生をつけまわす

 25日同じ中学で私立高校の受験の報告に来た女子生徒を付回している。階段で足を踏まれたからと少年は供述しているが、同じ学校の制服を着た男子生徒に付けられている事を感じた女子生徒は市営住宅の3階の自宅に逃げ帰り、窓から覗くと、向かいの棟できょろきょろしている少年を目撃している。二日後の7日、夕方にも洗面所で着替えをしていると、ドアノブの音がして、誰かの気配を感じた。

 兄が帰宅したのか、泥棒かもしれないと思って大声で「わー」っと叫ぶとドアがばたんと閉まり、彼女は急いで施錠した。ドアをガチャガチャさせる音がして、覗きレンズから見ると二日前の少年が見つめていた。そして三日後の210日放課後、友達と別れて階段を登ろうとした時に3階の踊り場にいる少年を見つけ、あわてて友達を呼び戻し、逃げる少年を追いかけて問い詰めた。少年は偽名を使ったが、学校指定の靴のかかとに書かれている名前を確認し、引き返して中学の先生に報告した彼女たちはアルバムでも顔を確認している。少年は夕方五時ごろに学校に母親と共に呼び出されている。

 

    竜が台通り魔事件

 210日通り魔事件=少年が同じ中学の女子生徒を付回すのを問い詰められた直後、小学生の女児二人にショックハンマーで殴りかかっている。お酒を飲んでよくおぼえていないが、気がついたら竜が台に立っていて、犯行は自分かもしれないと打ち明けられた同級生は、少年Aが自分の部屋の天井をくりぬき、そこに酒や煙草、ナイフなどを隠していたことも知っていた。 

「『僕はたまたま道で会った二人の女の子を殴りました。それまで何の理由もなく暴力を振るった事はなかったのに。』『その瞬間、僕の心の中にあった理性とか良心とかいったものの大半を、そこに落としてしまった。僕自身、越えられるはずがないと思っていた一線を、気がついたら越えていた。』(中略)『わずかに残っていた良心や理性が僕の欲望に飲み込まれるのは、時間の問題だったのです。』」(『暗い森』p31逮捕後の供述から)彼の死に対する興味と欲望は、性的なものともあいまって、「いたずら」から「犯罪」へと滑り込んでしまった。

 

    喫煙

 中学3年生4月24日友達とタバコを吸っていたことを注意されたが、友達は認めたが、少年は認めなかった。その友達に対して裏切られたと逆恨みを心配した教師は、少年Aの弟の運動会の会場まで少年の両親を探して訪ねてきた。両親が問い詰めても、友人の目撃証言が証拠になるのかと、友達が嘘をついていると言い通している。

 

    違うクラスの友達を、手に腕時計を巻きつけて殴る

 金魚を水槽からつかみ出し、バケツに放り込む。513日放課後、小学校の頃から親しくしている別のクラスの男子生徒を「俺のことを言いふらしている」と腕時計を手に巻きつけて殴り、竜馬ナイフを突きつけて「今度言いふらしたらなにするかわからへんぞ。」と威している。その男子生徒は殺されるかと怯えた。警察にも被害届けを提出しようとしたが、警察沙汰にしない方がいいのではと言われて、提出しないまま翌日転校した。

 14日登校してきた少年に、教師が「『なぜ人を殴るんや。謝る気はないのか。』ときいたら、『あいつが 苦しんだ時間よりも、僕が苦しんだ時間のほうが長い』」(『暗い森』P49 )から、許せないといい、謝らなかったという。

 暴行後学校を休んでいたとき、「『僕が死んだらないてくれるか』『もちろんやないの。あんたが死んだら、お母さんも生きておれへんわよ。』と答えると、安心したように『ありがとう』と小さくつぶやいた」(『「少年A」14歳の肖像』P212)友達には後日「(そんな)できるわけないのに」と言っていたのだが。(『暗い森』P118一歩間違えば殺してしまうかもしれないじゃないかといわれたとき、「人の命はそんなに大切なんですか。ありやゴキブリの命と同じやないですか。」と答え、彼の『すべてのものには優劣はなく、善悪もなく、尊重すべきものは何もない』という等価思想を披露している。「少年は小動物を虐待して興奮したり、『人を殺したい』という妄想に駆られたりする自分自身に嫌悪感を抱いていたうえ、将来の希望のない人生は無価値だと思い込んでいた。家裁送致後、「世の中のものはすべて作り物だから、人を殺してもかまわない。ぼくも作り物。運がよかったのは、『争いたい』という意志を持って生まれてきたことだ」と語り、「自分以外の人間は野菜と同じで切っても潰してもいい。誰も悲しむことはない」というエクソファトシズムという造語で呼ぶ考えを持っていた。〈『暗い森』P116

 

    カウンセリング

 516日から児童相談所に通う。52765911(両親だけ)、1624(相談所の先生が家庭訪問)通ってしばらくした日、「ぼく、絵習おかな。絵の学校に行ってもええかな」ともらした。「ええんやない、先生に聞いて絵の専門学校探してみるわ。」といった会話があった。相談所では落雷に引き裂かれた木を描いた。

 

    ダリの「燃えるキリン」や、ピカソ、スメタナなどに興味を持つ(「『少年A』この子を・・・」P215〜)

 『ピカソの伝記』/スメタナ「故郷」/ヒトラー『わが闘争』/映画『ネバーエンディングストーリー』/漫画『行け!稲中卓球部』『ヤングマガジン』『少年ジャンプ』『笑ウせぇるすまん』『珍遊記』『北斗の剣』などの漫画/ユーミンの曲『砂の惑星』「・・・・・ただ なきじゃくるように 生まれたままの子供のように・・・・・」/ジム・キャリーの『マスク』、ロバート・デ・ニーロ『ケープ フィアー』ブルース・ウイルス『ダイハード』『13日の金曜日』『エクソシスト』『オーメン』などの映画

 

    挑戦状

 「さあ、ゲームの始まりです」から始まる淳君の遺体の口に挟まれていた挑戦状。

「人の死が見たくて見たくてしょうがない」「SHOOLL  KILL」などのスペル間違いもあり、どう見ても幼稚な印象を受ける。主語は「ぼく」であることから、このときは自分としての犯行が自覚されているのではないだろうか。犯行声明になると、それが第三者のような表現に変わっていく。

 

    神戸新聞社への「犯行声明文」

 「やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむこともできたのである。僕がわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続ける僕を、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造りだした義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐もわすれてはいないだが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない。(中略)殺しをしている時だけは日頃の憎悪から開放され、安らぎを得ることができる。人の痛みのみが、僕の痛みを和らげることができるのである。」

 

    犯行メモ

9.3.16

「愛する『バモイドオキ神』様へ

今日人間の壊れやすさを確かめるための『聖なる実験』をしました。

その記念としてこの日記をつけることを決めたのです。」

 

H9.3.17

人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外 

とがんじょうだということを知りました。

 

H9.3.23

・・・・捕まる気配はありません。(中略)これというのも、すべてバモイドオキ神様のおか

げです。これからもどうかぼくをお守りください。

 

H9.5.8

そろそろ聖名をいただくための聖なる儀式『アングリ』を行う決意をしなくてはなりません

・・・第一段階として学校を休むことを決めました。いきなり休んでは怪しまれるので、

自分なりに筋書きを考えました。

 

    懲役13

 1、いつの世も・・・、同じ事の繰り返しである。
止めようのないものはとめられぬし、殺せようもないものは殺せない。
時にはそれが、自分の中に住んでいることもある・・・「魔物」である。
仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い防臭漂う心の孤独の中・・・死  霊のごとく立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい、“何”がみえているのであろか。俺には、おおよそ予測することすらままならない。「理解」に苦しまざるをえなのである

 2、魔物は、僕の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて踊りをさせているかのように僕を操る。
それには、かって自分だったモノの鬼神のごとき「絶対零度の狂気」を感じさせるのである。
とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない。
こうして俺は追いつめられてゆく。「自分の中」に・・・ しかし、敗北するわけではない。
行き詰まりの打開は方策ではなく、心の改革が根本である。

                                                           

    淳君殺害、校門に置く

 5月24日 「犯行後、家に帰るとお母さんはテレビを見ながら大笑いしていた。僕はそのときものすごい衝撃を受けた。(中略)僕の母親はやっぱしブタ野郎だ、あいつは人間やない、母親じゃないと思った。」「お母さんから愛情をかけられたという憶えはなかった」という。そして汚れてしまった自分を清めるため、切断してポリ袋に入れた淳君の血を口に含んだと供述している。校門に頭部を置いた時、「僕は学校の正門前に首が生えているというような『ちょっと不思議な映像だな』と思って見ていたのです。(中略)しばらくはこの不思議な映像はぼくが作ったのだという満足感に浸りました。」(検事調書)

 

 

⒊  大人の介入についての考察

 

 「透明」と「あたたかさ」をキーワードにして考えたい。祖母の死に対するショックとともに、「死」とは何かと考えたとき、その絶対的存在感と動かしがたい圧倒性に畏怖と興味と絶望があったように思う。

 その後、(4年生1993冬)ナメクジやカエルの解剖へと展開するのは、多かれ少なかれ幼児期には見られるもので、成長と共にそれらのいのちの尊さや、かわいそうだという思いやりが育ち、相手の立場を想像できるようになって止めるものである。その幼児性を内包し、そのままを認められない少年自身は、身体が第二次性徴期を迎え、不幸にも性欲と幼児的残虐性が結びついた様に思う。幼児期の残虐性は「可愛がる」行為と一体化されていて、興味があり、かわいがり、弄繰り回すうちに壊してしまうことはよくある。愛を求める心は、その寂しさを他の対象への衝動へ転嫁し紛らわしている。母(愛)を待ちわびる子の本性は素直であるだけだ。

 

 金 魚   北原白秋  『赤い鳥』1919(大正8)年

                               

母さん、母さん、                

どこへ行た。       紅い金魚と遊びましょう。
母さん、帰らぬ、
さびしいな。       金魚を一匹突き殺す。
まだまだ、帰らぬ、
くやしいな。       金魚を二匹絞め殺す。
なぜなぜ、帰らぬ、
ひもじいな。       金魚を三匹捻じ殺す。
涙がこぼれる、
日は暮れる。       紅い金魚も死ぬ、死ぬ。
母さん怖いよ、
眼が光る、        ピカピカ、金魚の眼が光る。

 森崎和江『大人の童話・死の話』(弘文堂P10)によれば、白秋の「金魚」は西条八十の『あまりに残虐だ』との批判に白秋は反論したという。「子供が金魚を締め殺したのは、母に対する愛の表れだ。その衝動は悪でも醜(しゅう)でもなく、人間の本性だ。子供の持つ残虐なものは、成長力の一面であって、美であり、詩である、と。」子供の成長過程には母からの自立という孤独な作業がある。しかし、それは家庭の温かなまなざしのもとで、セーフティーネットがある中での孤独であって、存在を認められていない中でのがけっぷちの孤立ではない。失敗は許され、導かれ、矯正されることができるのであらねばならない。がけっぷちなら、子供の間違いや失敗は犯罪と自殺にイコールであるからだ。この見守ることの「あたたかさ」が重要なのである。

 「僕自身、家族のことは別に何ともおもっていないものの、僕にとっておばあちゃんだけは大事な存在でした。僕からお祖母ちゃんを奪い取ったものは死というものであり、僕にとって、死とは一体何なのかという疑問が湧いてきたのです。」(文芸春秋98年3月号 検事調書)たったひとつの懐かしい思い出は「おばあちゃんの背中で眼をつむって、全身で温かさを感じていたこと」・・・少年の感じた温かみは祖母からだけで、親のもたらすものは「体温のない愛」と、本人はなぜ感じてしまったのだろうか。少年の家庭は子供を愛していなかったわけでもなければ特に変わった育て方をしたともみえないが、子供に対する「処置」ではない何かが必要だったのかもしれない。

 五歳のころに「足が痛い」というので整形外科に連れて行って診てもらったら、三男の小児喘息で長男・次男をあまりかまってあげられないことからのものであろうといわれた。デリケートな子供であったのだろう。「繊細でいながら大胆な性格」、「おっちょこちょいなところも私に似ている」と母も言う。少年の繊細さではなく、たくましく積極的であることを理想とし、育てることとのギャップが親の愛をあたたかいものとして感じられなくなった壁となったのかもしれない。

 子どもはその子のあるがままで認められないと自分に対する自尊感情(注4)がつぶれて

しまうことがある。少年Aの場合、やさしいところをもっと強くすることと、忘れ物などを平気な面をきっちりさせようと、「約束を守る、時間を守る、年下の子をいじめたらだめ、目上の人にはキチンとあいさつ」については口やかましく注意したという。しかしそのぐらいのことは、どの家庭でも 躾として教え込もうとするだろう。それによる日常的虐待があったわけでもない。特に親は長男・長女には理想を持って接することが多い。ただその子の本性にかけ離れた親の理想の型にはめ込むと、子供に負担がかかる場合もある。

 「あたたかさ」と対極的な、自分に対する否定=「透明感」を彼に植え付けたであろう事件が起きる。運動靴事件の後で教師の一人が少年の仲間に「彼とは付き合うな。」(『暗い森』P102)と言った事を彼が聞き及び、泣きながら帰ってきた。「先生は僕をおかしいと思っている」これに対して学校側に抗議したが、「教師が謝ったら、これから生徒を叱れなくなる」といって、謝罪しなかった。大人でも教師でも間違うことはある。少年が納得できる話し合いがもたれていればと残念である。ここで沼に足を取られた少年の頭まで水面下に沈むさまが浮かぶ。これは少年にとっては「透明宣言」であり、「存在否定」であったろう。このとき、少年は淳君の首を学校の正門に飾るという行為で自分を消去しようとした「学校」への恨みを持ち始めたように思う。友達を暴行後、もう卒業まで来なくていいと教師に言われ、本人も行きたくないといったので、学校に行かないという判断を親も容認した。

 そこで一番大切な「そのとき」があったのではないだろうか。学校に行くことをやめた彼に親が課した約束は“午後3時まではなるべく外に出ない”こと。(「『少年A』この子を生んで・・・」P80)これは存在の透明感の追認になってしまっていないだろうか。周りにいる大人は、(親や家族や教師など)はここで彼と同じステージで向き合い、縺れを解く努力ができたのではないかと思う。それまでの数々の非行の際に、学校に行きたくなかったら、いかなくてもいいんじゃないかと言われても自分の意思でいくといっていた少年Aが、今回行きたくないというのは、犯行メモによって、学校を休むことも計画の一部になっていたからだと思われるが、この変化に気がついてやれなかったかと悔やまれる。犯行直後にも友達に自分の犯行をほのめかしているあたりは、人とのつながりをまったく切ってしまっている訳ではなかった。

 

 犯行声明の中には、「わざわざ」が2度繰り返され、敢えてしていることで少年にとってはありのままの自分を認められ、認識してもらいたいという欲求が強くあった事が読み取れる。「中学校の先生は、僕の理由などはきかずに一方的に僕が悪いと決めつけました。先生は僕のことを先入観で見ているのだという気持ちになりました。」と逮捕後の取調べで語っている。 

 幼少期に厳しく自分の要求をコントロールするようにしつけられたためか、それに対して正面きって反抗もできなかったようである。

 結局、自分の存在を消されたと感じた事で、少年は自分が透明になって、どんどん内側に作り出したもう一人の自分との対話にのめり込んでいったようにみえる。もう一人の自分との対話は自立には欠かせないものであり、成長に不可欠なものである、ただし安心の中での。

 「僕は淳君を殺してしまった、とにかくやってしまった。そこで(自分の)すべてを投入して引き上げた。(殺人を犯して)帰ってきて玄関の戸を開けたら、お母さんがテレビ見ながら大笑いしていた。僕はその時ものすごい衝撃を受けた。もちろん親には全く分らないように、100%自信を持っていたんですけれども、それにしても僕がやった事はお母さんはどこかで分るかもしれない。お母さんにえらいことをしてしまったとわかってほしかったんや、でも全くわからなかった。そこで僕はすごい衝撃受けて、僕の母親はやっぱしブタ野郎だ、あいつは人間やない、母親じゃないとおもった。あの時すごいショックを受けた。」「おかあさんから愛情をかけられたという憶えはなかった」と供述。自分の方に正面向いていないと感じたのか?

 

 ・・・・・親とはなんと哀しいのだろう。お腹を痛めて産み、毎日の世話をし、子ども自身がどう感じたにせよ、愛情を注ぎ、その子のためを思って奔走し、病気のときはオロオロし、泣かされて帰ったときは自分のことよりも悔しがり、喜ぶ顔を見てはわれを忘れてうれしがる。そんな哀れな生き物が、少し鈍感だったときに、子どもが少し理解を超えてしまったときに、すべての責任をかぶり、あらゆる非難を浴び、まるごとわが子を引き受けねばならない。

 子どもが必要とするときだけ100%の注意を傾けて聞いてやり、あれこれ気を回すとただただうっとおしがられる。そんなことをしてまでも子どもを愛せるのはなぜだろう。それはただ自分たちの子どもであるというだけ。振り回されて、引きずり回されても、「かわいいな」と思わせてくれた一瞬が親をつなぎとめる。親も自分の人生に一生懸命前のめりになって歩く現代、立ち止まって振り返って小さな歩みの自分の子どもと歩調をあわせてみる余裕が少なくなった。経済的・物質的な供給はされていても、子供に大人の労力が注がれていることを実感できずに育っているのではないだろうか。それだけならば昔はもっと生きること、食べることに懸命で子育てなどは放っておくうちに終わっていたのであろう。それは兄弟も多く、親戚、異世代が同居し、近所や村社会の目が行き届き、自分のことだけを考えて邁進する大人ばかりではなかった頃。今では誰も信じられないような書き込みがネットや携帯に配信され、陰湿極まるイジメ、信じられない犯罪、どこまでも貪欲な消費刺激、極限へ極限へと進む文明、待てない要求、一瞬たりとも立ち止まれば沈んでしまうようなぬかるみがあちらこちらに用意されている。

 「理性と情念とのあいだの人間の内戦で(中略)人間はつねに分裂し、自分自身に反対している。」(『パンセ』パスカル 412 P281)というように、人間の中で二律背反し、内面の自分と向き合い、折り合いをつけて自分のアイデンティティーを確立していく事が大人になることである。自分の心の青い果実をやわらかく熟成するためには、そのようなハードな現実とも向き合って受け入れていく過程があらわれる。「『流動的な心』の活動が開かれて、かつてないほどに広大な自由が与えられ、外の現実世界をつくっているさまざまな限界づけを越えた心の活動が可能になってくるのと引き換えに、というか、その裏面として幻想性や妄想が絶え間なく発生しているのです。」(「芸術性人類学」中沢新一P12

 少年Aの「バモイドオキ神」は、彼の中での≪トリックスター≫:「害であり、悪であり、壊すものであり、作り出すものであり、変化自在で神出鬼没、全くとらえどころのないもの」 (「コンプレックス」河合隼雄P 118)であるように、自我の中に組み込んで死と再生を迎えるべきものであった。影を消してしまうことはその本体も消えてしまうことに他ならない。    

しかし、少年は自分のそのような部分を醜さとして許せなかったし、それを持つ自分自身をそのまま認めるには自分をあるがまま認められないでいた傷が深かったのではないだろうか。

 少年Aはその再生作業を行うには未だ幼すぎて分裂し、周りの大人はもっともっと彼を見つめてあげなければならなかった。精神鑑定ではなく、心を注ぎ、身を削って付き合ってやらなければならなかったのではないだろうか。結果的に本人の生まれ出ずる苦しみに寄り添ってあげられなかったのかもしれない。

 

赤ちゃんポストは何を救う?

 

 生まれることも死ぬ事も運命であるのに比べて、子どもを持つことは、選択権をあたえられた人間の「生」である。人間は文明とともに何でも自分の思い通りに動かす工夫をし、自然をコントロール下に置く努力をして発展してきた。デカルトは科学の発展によって、人間を「自然の支配者」たらしめると言った。しかし人間の赤ちゃんは、保育器では感情を育てられない。

 さまざまな少年犯罪や、虐待事件の裏には情緒的な未発達が見られ、それは赤ちゃんの時に与えられる愛情とコミュニケーションによって左右されるようである。

 今年熊本県の慈恵病院に設置された赤ちゃんポストは確かに失われる赤ちゃんの命を救わなければならないという緊急不可避的な側面はあるかもしれないが、それによって人間が失うものは大きいのではないだろうか。

 ゴミステーションに置かれた生ゴミの袋の中の死体の赤ちゃん、トイレの便器に産み落とされ死亡した、女子高校生の生んだ赤ちゃん、そのようなニュースを耳にするたび、生まれてきた命を救ってあげられないものかとだれもが思うだろう。人間は最初から「大人」でもなく、子どもを持ったからといって、すぐに「親」であるわけでもない。育てていく過程においてだんだんと親になっていくのである。簡単に捨てる道を与えるのではなく、周りの大人が見守り、手を差し伸べてあげることで、人は大人に(親に)なっていくことを知らなければならない。勉強が嫌いだというこどもに、学ぶチャンスを簡単に捨てさせたら、その子はその先知る喜びを得る可能性はあるだろうか? 本を読んで感動する喜びは?なぜ義務教育を受けさせ、ある程度までの読み書きを強制的に教えるのか?それはその子どもにとって、将来楽しいことを得る為のベースになるからではないだろうか。

 「あたえると言う事は、そのヒトが裕福だということだ。たくさんもっているヒトが裕福なのではなく、たくさんあたえるヒトが豊かなのだ。(中略)自分自身を、自分の一番大切なものを、与えるのだ。これはべつに、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。自分の喜び、興味、理解、ユーモア、悲しみなど自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。このように自分の生命感を高める。もらうために与えるのではない。与えること自体がこの上ない喜びなのだ。」(「愛するということ」エーリッヒ・フロム P45) 

 このもっとも直接的な表れが自分の子どもに与えるということではないだろうか。人間は最初から「大人」でもなく、子どもを持ったからといって、すぐに「親」であるわけでもない。育てていく過程においてだんだんと親になっていくのである。「子育ては『伝承』の作業なのです。」(「親子再生 虐待を乗り越えるために」佐伯 裕子 P68すべてが「等価交換」の原理が当てはめられていく世界の中で、家族や家庭は交換の原理が必要でない空間であり、関係である。太陽と水が大地に植物を育むように人は男性と女性の愛によって家庭に子をもたらし、子育てを通して愛を学ぶのではないだろうか。自分の存在を無条件に受け入れられ、無償の愛で暖められる家庭という空間で育つことによって、だんだん自分の色をつけていく作業が大人になることである。

 

 

⒋  結論

 

 人間は弱い動物である。本能のままに生きているだけなら、自然の摂理として終える事ができる事柄においても、ほんの少しの理性を持ってしまったがために、感性は分裂してしまう。家庭はfamilyというより、 homeと概念を置けば、それは血縁同居団体というだけ

でなく、心が癒される人間関係を持つ宇宙の役割が求められる。赤ちゃんを育てる家庭は、自分のもはや記憶にない生後からの人生を客観的に見つめなおせるlaboであり、誤解を恐れないで言うなら、失敗のない実験がありえないのと同じように、完全な行程はないのかもしれない。

 世の中に犯罪がゼロになることはないだろうし、自殺も事故も無くなりはしないだろう。しかし一人ではできないことを愛し合う家族の中で、何人かの知恵を集め、相談し、助け合うことで、人類は種を存続しようと努力する。

 それにしても家庭においても人間の「業」のなせるものと言うには、ひどすぎる事件が多い。

 だれもが酷すぎると思ってはいても、いざ自分の欲望を阻むものにたいしては、攻撃をも辞さない。そんな欲望にまさる愛を育てる場が家庭である。等価でない交換を喜んでできる関係が家族である。人が生まれて成長していくときに、いくつもの道があり、その時々に出会う人や、物はそれぞれである。それらに何を感じ、何を受け止め、どう成長していくかが個性である。いつの間にか大人になり、自分の子供を持つとき、未熟な自分が未熟な子供を教え導くことに自信はない。けれども、少し前に経験したことを「心配しないでいい」と教えてやらなければ、未熟な子供は自分や周りを傷つけてしまう。どうしたら暗い森で迷わず、光のほうに歩んでいけるのか、ともに考え、一歩前を悩みながら歩いているだけである。できることは自分の欲望にとらわれず、愛を与えることだけである。ただ、そうやっていることが自分も少しずつ成長させてもらっていることに、振り返ったときの足跡だけが気づかせてくれる。

 

 

 

 

1  自家中毒=精神的な影響による吐き気など肉体的影響が出る状態。

2  イマジナリープレイメイト=空想の中で構築した自分の遊び相手。おもちゃ。虚像。

3    注意欠陥・多動性障害=英語: AD/HD: Attention Deficit / Hyperactivity Disorder)は多動性,不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害のひとつ。ADHDを持つ子供は飽き易くすぐに新奇な刺激を求める傾向にある。 ADHDを持つ子供は、重要なこととそうでないことの区別をすることは出来、一時的には正常に機能できる。しかし識別する力が健常の子供よりも早く尽きてしまい、無視するべき刺激にすぐ反応してしまい、新しいものや面白そうなものに見境なく飛びついてしまう時がある。楽しいことをしている時でもミスが多い熱中しつつも衝動的でミスをすることが多く、友人と泣いたり喧嘩したりする傾向がある。そのためひとりで遊ぶことを好む傾向にある。

注4        自尊感情=自己の存在や在り様を尊重する(大切に思う)感情のこと。英語でselfesteemという訳語が使われることが多い。いわゆるプライドや傲慢、自惚れ、驕りとは異なるものである。アドラーが提唱。

 

 

 

参考文献

 

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伊藤 芳朗『「少年A」の告白』                                      小学館  1999.7.10

ウイリアム・マーチ『悪い種子』                                    早川書房    1956.9

エーリッヒ・フロム 『愛するということ』           紀伊国屋書店 1991.3.25

河合隼雄 『父親の力 母親の力 「イエ」を出て「家」に帰る』   講談社+α2004.11.20

川崎二三彦『児童虐待 −現場からの提言−』                       岩波書店   2006.8.1

金子龍太郎『傷ついた生命を育む』                                  誠信書房  2004.12.1

北原歌子 『きずな 人間形成とその生涯発達』                      川島書店  2001.4.25

草薙厚子 『子どもが壊れる家』                                    文芸春秋 2005.10.20

草薙厚子 『少年A矯正2500日全記録』                           文芸春秋  2006.4.10

河野荘子 『人をあやめる青少年の心』                            北大路書房  2005.9.20

斉藤学  『依存と虐待』                                       日本評論社 2002.2.20

佐伯裕子(島沢優子)『親子再生』                             小学館  2006.2.20

佐藤 学 『学び その死と再生』                                太郎次郎社 1995.10.10

少年Aの犯行声明文・日記・作文・調書

少年Aの父母 『「少年A」この子を生んで・・・』                  文芸春秋  1999.4.10

芹沢俊介/高岡健 『殺し殺されることの彼方』                      雲母書房 2004.10.10

高山文彦 『少年A 14歳の肖像』                                    新潮社  1998.12.5

高山文彦 『地獄の季節 』                                           新潮社  1998.2.25

玉井邦夫 『〈子どもの虐待〉を考える』                      講談社現代新書 2001.9.20

ダンテ  『神曲  〜地獄編〜』             集英社文庫ヘリテージシリーズ

寺山修司 『幸福論』                                            角川文庫  2006.7.26

中沢新一 『芸術性人類学』                                           講談社選書メチエ

西山明  『アダルト・チルドレン』                         三五館 1995.12.22

河 信基 『酒鬼薔薇聖斗の告白 少年Aの軌跡悪魔に憑かれたとき』  元就出版  1998.5.28

畠中宗一 『自立と甘えの社会学』                   世界思想社  2002.2.20

藤川洋子 『少年犯罪の真相 家裁調査官の視点から』              ちくま新書  2005.5.10

橋本和明 『虐待と非行臨床』                       創元社  2004.8.10

ハリー・スタック・サリバン『分裂病は人間的過程である』                     みすず書房

パスカル 『パンセ』                                          中央公論新社  2001.9.10

文芸春秋98年3月号 検事調書

毎日新聞社 児童虐待取材班『殺さないで 児童虐待という犯罪』  中央法規出版     2002.9

森崎和江『大人の童話・死の話』                                      弘文堂  1989.1.10

 

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