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現代文明学研究:第1号(1998):19-29
孕ませる性と孕む性:避妊責任の実体化の可能性を探る
宮地尚子



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<はじめに:沼崎論文をめぐって>

 沼崎一郎氏は、論考「孕ませる性の自己責任」(1) において、これまで見逃されてきた男性の「孕ませる性」としての暴力性を直視した。そして、中絶問題を障害者問題と安易に結びつけるような、過度に抽象化した中絶論議の問題点を明確に指摘し、また、女性の自己決定権の主張のもつ意味と重要性を歴史的な文脈で捉え直した(2)。本稿では、沼崎のこれらの主張に基本的に賛同したうえで、あえてその限界を指摘し、議論の批判的発展を試みたいと思う(3)。
 とりあえずの疑問点は3つある。
 第一に、沼崎は孕ませる性としての男性の責任のみを強調しているが、避妊に対する女性の責任を問わなくてよいのかという点である。もちろん、これまで女性側の避妊責任ばかり問われてきた歴史にバランスを取り戻す必要はある。しかし、過度に男性の責任を求めることは女性を脱主体化することにつながりかねない。女性側の責任を理論的に空白にするのではなく、男性と女性でどう責任をわけあっていくか、その負担の範囲を考えていくべきではないのか。これは、第二点に直接関わる。
 第二は、孕ませない責任をどう実体化しうるのかということである。個々の男性の自覚を待っていられない現状が、女性には存在する。孕ませた責任さえとらない男性が多い中、「孕ませない責任を自覚しよう」というかけ声だけでは困るのである。どうすれば男性が孕ませない責任を実行するようになるのか。メンズムーブメントの意識覚醒グループをこえて、一般男性の認識をどう変革させるのか。男女をめぐる文化のあり方をどう変えるのか。例えば、新たな法的制度を設定し、強制的に責任をとらせるのか、否か。この点について沼崎氏は方向性を全く示していない。また、孕ませる性の責任を重視し制度に組み入れているような社会が実際にあるのか、あるとしたらどのような社会なのかといったあたりも、文化人類学者である沼崎に示してほしかった気がする。
 第三に、孕ませる性を持つ人間と孕む性を持つ人間との間の性倫理を考えていくには、妊娠だけでなく、不妊、性行為感染症も視野に入れる必要があるのではないかという点である。妊娠と性行為感染症を一緒に論じることは、理論レベルでは、混乱につながるかもしれない。しかし、実際に避妊手段と性病の予防手段は大きく重なっている。そもそも、ピルの解禁が遅れているのも、エイズ感染予防のためのコンドーム推奨が直接要因となっていることは周知の事実である。また、男性は、孕ませる性だけではなく、孕ませなくする性という暴力のあり方ももっている。中絶は、特にそれが安全な方法でなかったり、度重なる場合、女性の不妊症の原因となりうる。性行為感染症も、全てが不妊につながるわけではないが、感染した場合に生殖能力が傷害される確率は男性より女性に高い。相手の生殖可能性を奪うことも十分「暴力」である。「石女」という言葉がまだ死語になっていない社会において、女性の不妊の代償は高い。日本よりもっと不妊の代償の高い国も多くある(4)。孕ませる性ほど頻度は高くないかもしれないが、孕ませなくする性は、より重大な影響を女性に及ぼしうる。

<避妊の半々の責任>

 妊娠を望まない場合、避妊する義務が男性には当然ある。けれど、女性に全然責任がないというわけにはいかない。そのあたりをどう理論化するのか。
 とりあえず男女とも半々の責任がある。そう割り切った上で、それでは半々の責任とはどういうことなのかを考え、決めていく必要があるのではないか。沼崎も「女性にも男性にも同等の避妊責任が問われるべきだ」と書いている(5)。この「同等の避妊責任」の内容をはっきりしておかないと、後で述べる責任の実体化、とくに新たな法的規制なり解釈の変更が困難になる。
 半々の責任とは、妊娠という事態を防ぐための負担を半々が負うということと、妊娠という事態が起こってしまった場合の不利益を半々が負うということだと、とりあえず考えることができるだろう。
 まず、妊娠という事態を防ぐための負担を半々が負う、つまり避妊負担を半々が負うということについて考えていこう。
 避妊は男性がすることも女性がすることも可能である。そして、どちらかがすれば目的は達成される。だから、負担を半々にするとなれば、たとえば、一回ごと、若しくは一定期間ごとに、避妊責任を交替するといったことが考えられる。
 といっても、男性の避妊法と女性の避妊法では負担が異なる。負担とは、避妊にかかる手間、費用、身体への影響、快楽の損失などである。全体の負担を半々にするのであれば、負担の重い避妊法を行う側は責任期間を短くする必要がある。
 もちろん、男女とも個人によって避妊法の負担の感じ方は違うだろう。それぞれが自分の好みの避妊法を選び、その負担を見積もり、パートナーの感じる負担と同等になるようにすればよい。というより実際には、プライベートな場所でプライベートな行為として性行為は行われるわけだから、ゆだねざるを得ない。しかし、半々の負担とはどのようなものかの一定の基準を具体的に示しておく必要はある。男性のコンドームによる快楽喪失負担が、常に女性の被る身体的負担より重視される現状のままでは困るからだ。
 ところで、避妊の負担の程度というのは、避妊法の発達によって大きく左右される。ここで、医学技術の発展におけるジェンダーバイアスの問題をみておく必要がある。
 例えば最近開発中の避妊法に、精子免疫を用いた避妊ワクチンを女性に投与する方法がある(6)。出てくる精子そのものを殺す方がよほど簡単ではないかと思うのだが、女性の身体の方を操作することが当然視されている。沼崎も指摘するとおり、男性の避妊法はあまり開発されていない(7)。
 医学はコントロールしやすい対象をコントロールする。それは、決して生物学的にコントロールしやすい方ではない。社会的にコントロールしやすい方である。沼崎の言うとおり、夢のピルができたところで女性がそれを服用する義務をつくってはならない。夢のコンドームなり、夢の男性用ピルの開発を要求すべきである。
 このほか避妊方法の選択については、避妊効果の確実性についても十分考えておく必要がある。100%確実な避妊法はないといわれている。リスクを平等に背負うことも、避妊責任の重要な一部となるはずだ。このことは、後で述べる避妊に失敗したときの負担を平等に分配することと関係してくる。
 そして、性行為感染症の予防。これを考えると避妊方法の選択は、現在のところコンドームに限られる。感染の可能性が否定できる状況でない限り、男性が避妊負担を負うことが求められよう(8)。

<避妊が失敗したときの女性の負担>

 次に、避妊が失敗したとき、つまり望まない妊娠という事態がおきたときの不利益を半々が負うということについて考えてみよう。妊娠という事態が起こったときの不利益とは、どのようなものだろうか?
 沼崎は、妊娠に伴う「女性の深刻な身体的変化と社会的地位の変化」をあげる。「身体的・精神的負担と物理的・社会的制約」とも言い換えている。そこには、「周囲の者たちの対応と評価」「ライフコースを大きく左右する」「自分の意に反する人生を歩まざるをえない場合も少なくない」といった点も考慮されている。
 しかし、これは十分ではない。少なくとも以下の4点を加える必要がある。
 第一に、妊娠しなくても、妊娠しているかもしれないという不安を女性は味わう。先ほどのリスクの問題でもある。
 第二に、女性のアイデンティティへの影響がある。妊娠したという事実、中絶したとしたら中絶したという事実は、その女性のアイデンティティになにがしかの跡を残す。それを「たいしたことではない」と捉える女性も多いかもしれないが、妊娠したことがあるか、中絶したことがあるかをすっかり忘れてしまう女性はいないはずである。
 第三に、妊娠が女性のプライバシーを曝露するという点である。再生産責任をめぐる男女の「自然な不均等」について鋭い分析を行っている永田は、「妊娠・出産という過程は、女性の性的プライバシー(性交したという事実)を外部に公開することとイコールである。それを秘匿したいと思えば(中略)選択は中絶しかない」という(9)。それにひきかえ、男性は自分が性交したという事実を、動かぬ証拠と共に、他者にも見える形でつきつけられることはまずない。
 第四に、中絶に伴う女性の負担の大きさをもっと見ておく必要がある。
  まず、中絶はかならずしも、性的プライバシーの秘匿につながらない。中絶は自分ではできない。したがって、たとえ医師一人に対してであれ、プライバシーを開示しなければならない。最低一日は、仕事を休むなり家庭を抜け出すなりしなければならない。中絶の同意書にもサインをしなければならない。そして、中絶しても妊娠前の状態には戻らない。身体的跡は残る。経産婦でない限り、産婦人科医が診ればある程度妊娠中絶経験の有無はわかる。カルテに書かれた情報や、同意書の内容が漏れないという100%の保障もない。
 また、中絶は身体的後遺症、特に不妊への可能性もはらむ。プライバシー秘匿のために、公式記録の残らない、また短時間で処置を終えることのできる「ヤミ中絶」を選ぶ場合、その可能性は高くなる(10)。実際に不妊の原因にはならなかったとしても、結婚して子どもができなければ、原因の一つとして疑われるし、自責の念にもかられることになる。
 沼崎は中絶を、男性の孕ませる暴力に対しての権利回復や損害賠償として認めよというが(11)、中絶は権利回復や損害賠償にはならない。妊娠の負担にピリオドを打つことはできても、負担や損害をとりもどすことではない。中絶は確かに緊急避難の側面はもつが、更なる害も女性に与える。人に傷を負わせて、手術代を払ったからといって、損害賠償とは言わないだろう。もし手術で合併症が起こったらそれも損害の範囲に入るはずだ。損害賠償というならば、中絶費用は当然として、そのうえに妊娠と中絶に伴う心身への負担に対する賠償を行なう必要がある。中絶は妊娠とは別に、それ自体が性暴力なのである(12)。

<避妊が失敗したときの男性の負担>

 一方、男性の負担はどうか。避妊が失敗したときの不利益とは?身体的には何もない。精神的には、森岡のいうように、中絶に伴う後悔や悔恨、心に残るトラウマは男性にもあり得る(13)。しかしそれは女性よりも多いわけではない(実際にはずっと少ないのではないか)。あとは、中絶の財政的負担くらいであろうか。これさえも、出さない男性もいるだろう(14)。
 つまり、避妊が失敗したときの負担は、圧倒的に女性に偏っている。そして、男性が肩代わりできる負担はほとんどない。この当たり前のことが、男性が避妊を怠る最大の要因であることは十分認識しておく必要がある。
 上記のように列挙しても、女性の妊娠・中絶の負担なんてたいしたものではないと考える人もいるかもしれないので、ここでは、男性も同様の負担を負うようなシステムを人為的に想定してみよう。
 例えば次のようなことが考えうる。避妊なしの性交をする。その直後に、男性は相手の女性が性病にかかっているという情報を与えられる。感染率は100%ではないし、一応治療法もある。ただ、感染しているかどうかは2週間以上待たなければわからない。感染したら、不快な症状もある。まれにだが、男性不妊という後遺症が残ることもある。治療しても感染の痕跡だけは一生血液検査で残り続ける(梅毒のワッセルマン反応のように)。また、女性が妊娠したら、相手の男性にもインターネット等をとおして胎児の存在のニュースが知らされる。一応、他人には知られないようになっているが、情報が盗まれる恐れもある。2カ月3カ月と時がたつに連れて、徐々に情報の機密性が落ちてくる。そして、6、7か月で情報の機密性は全く失われる。ニュースを止める方法は、女性に損害賠償(もちろん中絶費用だけではない)を十分払い、かつ自分の体の見えにくいところに妊娠経験(+)という印をつける手術を丸一日かけて受けなくてはいけない。ニュースはストップするものの、ニュースの記録は保存され、噂は止めようがない。
 非現実的なシステムではある。それで女性の負担が減るわけでもない。しかし、女性の負担の重さ、妊娠の不安やアイデンティティへの影響、プライバシーへの脅威や身体的影響への恐怖といったものは、こういった思考実験で実感できるかもしれない。

<避妊責任の実体化>

 さて、避妊責任の実体化についてこの辺で考えていこう。男性が孕ませない責任を実行するようにするためには、どうすればいいか。ここでは法制化の方向で考えていきたい。実体化が必ずしも法制化を必要とするわけではないが、社会規範に頼れない場合、もしくは規範自体が問題を含んでいる場合は、法的強制力に頼るしかないように思うからである。セクシュアル・ハラスメントについての大学や企業の対応が、訴訟など法的措置ぬきでは変わらなかったように。
 では、どのような法が求められるのか。
 沼崎の言うように、望まない妊娠が性暴力であるとしたら(15)、他の性暴力に関する法を参考にする手がある。強姦罪や強制猥褻罪などである。強姦と和姦にならって、「強妊娠」と「和妊娠」という言葉をつくることができる。「強制妊娠」と「合意妊娠」の方がなじむかもしれない。要は「強制妊娠罪」という概念を構築すればよいわけである。
 性交には同意した。けれども、避妊方法については同意しなかった。たとえば、女性が「わたしはピルを飲んでいない。今日は危険日である。だから、コンドームをしてほしい」という。男性はいやだといい、ことに及ぶ。女性は妊娠し、男性を「強制妊娠罪」で訴える(16) 。
 ひょっとすると、強制妊娠は強姦に含めてしまうことさえできるかもしれない。本来、和姦とは合意の上での性交であり、そこには性交をするかどうかだけでなく、どのような性交をするか、妊娠を望むかどうか、望まないならどんな対策を講じるか、についても合意することが含まれるはずだからである(17)。となると、強制妊娠と合意妊娠の境界は、強姦か和姦かの境界と重なる。もちろん、強姦をめぐる法の困難さ、つまり性行為があったこと、それが強制であったことの立証の困難さの問題は引き継ぐ。「避妊してくれ」と言ったかどうかとか、男性が避妊を拒否したとき女性が「それなら性交をしない」と言ったかどうか、それでも男性が迫ってきたとき女性がけがをするほど抵抗したかどうかといった、おなじみの論議はここでもあてはまる。しかし、これまでの性暴力をめぐる訴訟以上に難しいわけではない(18) 。
 ただ、違う点がある。それは、強姦と違って妊娠は女性の努力だけでも予防可能だという事実である。相手も責任を果たさなければ問題がおきてしまう場合、相手の責任を追及することは比較的たやすい。しかし、自衛手段がある場合、相手の責任を問うのは難しい。たとえ合意で避妊法を取り決め、その取り決めを相手が守らなかったとしても、相手を訴えるとしたら「それほど妊娠がいやだったのならば、なぜ自己防衛しなかったのだ」ということになる。「オマエの身体だろ、オマエで守れよ」という話にどうしてもなってしまう。自衛手段がないような損害にのみ、ふつう法的手段は用いられる。
 女性は孕む性である。しかしそれは、所与である。自分の身体はできるだけ自分で守りなさい。これは、自由主義の基本とも言えるかもしれない。国家や共同体の介入を最小限にとどめておくことは、確かに重要かもしれない(19)。しかし、それなら「半々の責任」の実現は不可能だ。男女が半々に責任を負う社会にするのであれば、この自由主義的主張は一部修正せざるを得ない。「自然の不均等」をなくすのであれば、「社会的アファーマティブアクション」を求めるしかない。

<女性の避妊責任を免除する方法>

 ところで、強制妊娠と合意妊娠の境界、つまり女性の責任範囲に関して、沼崎は男性に常に避妊義務があるとする(「女性が自らの意志で行える完全に安全で確実な避妊方法がない限り、また仮にあったとしても(中略)女性がそのような避妊を行っているという明白な証明がない限り、男性には孕ませない責任がある」)。女性に求めているのは、せいぜい「対等な関係の中で話し合う義務」である(20)。現状の不均等な関係の中では「コンドーム着けて」とさえ頼まなくてもいいということになる。
 沼崎が避妊責任を、女性には実際には問わない理由は二つに整理できる。一つは、現在の男女関係のあり方の中で、女性に交渉責任を課すべきでないということ(「男女間の不均等な権力関係という文脈においては、女性から男性にコンドームの着用を頼みにくいという構造がある」(21) )、もう一つは女性は妊娠による負担を重くせおうから、そのかわりに男性は避妊の負担をおうべきであるということである。
 第一の理由は、現状では配慮に値するが、女性の主体性を軽視する事にもなりかねないので、私には賛成できない。「避妊してよ、しないならエッチしないよ」くらいは言える女性でなくてはならないのではないかと思うし、それはノースリーブを着て強姦されたときの被害者非難(22) とは違うと思うからだ。
 しかし、第二の理由はかなり説得力がある。すでに見てきたように、避妊負担は分担できても、避妊が失敗したときの負担を男性に負わせるのは困難だ。それならば、失敗したときの負担は女性が負うのだから、避妊の負担くらいは男性が責任をもつことが、全体の負担のバランスをとることになる。この論理は、妊娠期間中は女性が負担したのだから、出産後の育児は男性が中心にすべきという主張と似ている。現実には、妊娠する女性が育児責任も負わされ、妊娠して困る方が避妊しろという論理がまかりとおっているのだが。
 沼崎は男性の倫理意識に訴えているだけであり、法的なレベルで議論しているわけではないが、これを法制化するとどうなるだろう。
 まず、女性が妊娠すると、合意の有無をとわず男性は強制妊娠罪に問われることになる。強姦と和姦の境界をめぐる争いは一切しなくてすむようになる。男性は「女性が妊娠を望んだ」「女性が避妊つきの性交を嫌がった」と言い逃れするかもしれない。けれど、男性は自分が子どもを望まないのであれば、女性の依頼に屈することなく避妊をすればよい。また、双方が妊娠を望むなら、女性にその旨の契約書を書いてもらい、男性が保存しておけばよい。要は、双方が明確に妊娠を望むときを特殊な場合とみなし、通常では男性が避妊とその失敗の責任を負うというふうにするわけである。「生殖のための性」の現実の割合の低さを考えれば、また妊娠を望むカップルの相互信頼度の相対的な高さを考えれば、妊娠を望まないときではなく、望むときに契約するというのは理にかなっているのではないだろうか(23)。性と生殖を分離しようとする欲望をすでに今の社会は認めているのだから、それを明確化するだけの話である。
 そして、望まない妊娠をした女性は中絶しても出産してもよいことにする。中絶や出産による女性の労力や心身の負担、費用については男性が一切責任を負う。また、出産しても女性が特に養育を望まなければ、養育責任は男性が全面的に負う。
 強制妊娠罪には、強制中絶罪か強制出産罪のどちらかが必ず加わると考えることもできるだろう。女性は妊娠したから中絶をしたいのであって、中絶を元々望んでいたわけではないし、中絶は妊娠と別に女性に負担をかけるのだから。また、出産を女性が選ぶとしても、それは代理母になるのを強いられたようなものであり、女性の養育責任とは切り離すべきである。したがって、男性の認知や結婚が責任をとったことにはならない。つまり、強制妊娠罪を侵した男性は、どちらかの罪を重ねるしかない。一方、女性は身体変化を経験するという「自然的義務」がある分、その経験を経た上での最大限の選択が許されるべきである。
 また、男性の孕ませない責任は女性に対してだけでなく、胎児に対しても考えてみる必要がある。強制妊娠罪・強制中絶罪は女性に与えた害に対しての罪である。中絶が胎児への暴力、殺人であるとするなら、堕胎罪も男性が問われるべきものとなる。
 そもそも現在の法律でも、妊娠中絶には男性(「配偶者」)の同意が必要である。また、多くの中絶が経済的事由の名の下で堕胎の違法性を訴却されている。男性の方が経済力がある場合が多いわけだから、法律が文字どおりに適用されるならば(実際は有名無実化しているが)中絶の罪に問われるべきは、多くの場合男性となるはずである。また、中絶をもし全面的に違法化するのであれば、中絶された胎児や新生児はすべて生物学的父親を検索するなりして、男性の中絶禁止法違反ないしは養育責任を追求する必要がある(24)。
 男性に酷すぎるという声が聞こえそうだ。しかし、いやなら避妊をすればいいだけの話である。簡単に自衛手段は手に入るのだから(25) 。

<父子関係の証明>

 ところで、実はもう一つ問題が残っている。それは、女性の妊娠は簡単に証明できるが、どの男性が責任者であるか、つまり誰が胎児の父親かを明確にできないと、この法律は使いようがないということである。しかし、これはそれほど大きな問題ではなくなる可能性が十分ある。
 生まれた子の認知請求で、親子鑑定は既になされている。現在は99%まで確実に判定ができるようになっている。親子鑑定は手間と費用がかかるし、男性の協力(血液の提供)も必要だろう。しかし、需要が増えれば費用は安くなり手間も短縮されるだろう。また、現在でも、血液がなくとも精液から血液型や酵素型は判定しうる(26)。
 医学技術は発展している。精液だけで親子鑑定が確実にできる日もくるだろう。体外受精等の技術の発展を考えれば非現実的ではない。人工子宮などより技術的には簡単なはずだ。要は医療技術をどの方向で発展させるかという社会的意思である。
 とすると、女性は避妊なしの性交を強いられた場合、その精液を密封容器に入れて保存しておけばよい。採取用のキットや保存用の容器などは薬局が販売するようになるだろう。そして妊娠した場合、その精液を医療機関なり請負業者にもっていって、相手を判定してもらえばよいのである。
 そもそも、男性に避妊責任を守らせるには、強制妊娠罪まで設定しなくても、父子関係をはっきりするだけでもかなりの効果があるのかもしれない。強制妊娠罪にしても、実際に法的制裁を求めるより、そういう法を作ることで男性が行動変容すること、抑制力がねらいの中心といえる。
 「自分は性的関係を持っていない」とか「性的関係はあったが、他の男の子どもかもしれない」といって言い逃れを防ぐこと、父子関係をはっきりさせることこそが、男性の避妊への動機を最も高めるのかもしれない。そうなって初めて、男性避妊法の開発も進むのかもしれない。そんな気がする。
 男性にとっては怖い話である。実際、研究会で精液保存の話をしたとき、男性陣がしーんと静まり返ってしまったことがある。管理社会という批判がおきるのは十分予測可能だ。私も思考実験をしながら、どことなく管理社会のこわさを感じていた。
 しかし、そうだろうか。そのこわさの分だけ、これまで女性は自然の拘束条件を利用され、それによって管理されてきたということではないのか?そしてそのこわさに鈍感にさせられてきたということではないのか?ここで想定した社会とは、うまくいかなかったときの負担や、責任を問うときの立証責任が、少し女性から男性に移っただけのものではないのか?
 男性が毎日、排精子抑制剤をのむ日を想像するとSFのように感じてしまう今の私たち。逆は既に現実になっているにもかかわらず。それほど私たちは性差別的な社会に生き、それを当然と思わされているのだ。また、以前はSFとしか思えなかったことが現実に今、医療などの分野でどんどん起こっている。セクハラやデートレイプなど、一昔前なら女性の落ち度とされ、法律で扱うことなど考えられなかったことが、徐々に法的処罰の対象になってもきている。
 そもそも強姦された女性が訴えるなんて考えられなかった時代だってある。いまだにそういう社会もある。したがって、強制妊娠罪の概念もその境界線も、今は突飛なように見えても、そのうち人々の意識になじんでくる可能性は十分ある。「できちゃったのよ。責任とってよ」という程度には、望まない妊娠が「男性の非」であるという認識を、すでに多くの女性はもっている。

<セクシュアリティのコントロール>

 孕む性を負担としてのみ議論してきたが、この前提は問題ではあり得る。孕むことを喜びとする女性もいる。孕む性を武器にすることもある。孕むことのできる性をうらやましく思う男性もいる。孕みたいときと、孕みたくないときで別に考える必要があるのだろう。ここではあくまでも女性が孕みたくないときに孕まされることの害を言おうとしているだけである。
 また、孕む、孕まないを完全にコントロールするという前提に疑義を呈する人もいるかもしれない。避妊を認めない宗教もある。管理、家族計画といった概念は、近代に特殊だという意見もあるかもしれない。しかし、どのような文化であっても、誰と誰が、いつ、どのような場所で性交を行ってよいかというルールはある。性を介して生殖へのコントロールは常に存在している(27)。「自然な妊娠」という概念を恣意的に用いることも、一つの管理法である。「自然な妊娠」は、女性と男性の生物学的差異を巧妙に利用する。また現実には、世界的に人口政策は行われ、避妊方法として女性が不妊手術や中絶を強いられるといった悲惨な状況も多い(28)。
 父子関係をはっきりさせるという選択については、もう少し吟味が必要かもしれない。血縁関係の絶対視につながる危険性があるし、女性にとっての不利な影響もあるだろう(29)。父子関係より母子関係がはっきりしていることは、女性の権力の源泉の一つでもある。父子関係をはっきりさせることが、家父長制をそして母性神話をどのように変化させていくかの予測は、かなり難問である。ここでは、この問いに直接答えないが、以下のようなことだけは言えると思う。
 男性は父子関係をはっきりさせたいという欲望と、はっきりさせずにおきたい欲望を持ち、それぞれの場合で場所を使い分けている。永田は、性の市場化をめぐる分析の中で、結婚と売買春との根本的な違いを、男性の再生産責任の有無におく。結婚(恋愛は準結婚である)とは男性の再生産責任を負わせる制度であり、売買春市場は男性の再生産責任が免除される場であるという指摘である(30)。これは、前者の場では、男性は父子関係をはっきりさせたいという欲望を、後者でははっきりさせずにおきたい欲望を満たすと言い換えることもできるだろう。
 一方、女性はどちらかの場に割り当てられ、両方の欲望を満たすことは許されない。
 前者では、責任を持って子供を孕み生み育てる「母」として、行動範囲の制限(イスラム原理主義国の女性の外出制限から日本で男性が妻の勤めに渋い顔をすることまでいろんなレベルがあるが)をうけ、他の男と交わる機会は避けられる(31)。後者では「娼婦」として、複数の男性を相手としていることを理由に、またその道徳性を理由に、母(正確には「あなたの子の母」)となることを拒否される。一人の女性がその二極を行き来すれば欲望の使い分けは成り立たなくなってしまうから、女性は二極のどちらかに固定され、かつ序列化される。「子種にする男」と「遊ぶ男」を使い分ける女性は少数ながらいるかもしれないが、二種類に男性が固定され、そこに道徳的な序列化がされるわけではない。父子関係が母子関係ほどはっきりできないことは、現時点では男性による女性のセクシュアリティの管理の要因でもあり、手段でもあるのだといえよう。

<最後に:男性性の闇へ>

 ふりかえってみると、半々の責任の意味を考えるというのは、どういう負担を女性が甘んじてきたのかを明確化する作業であったとも言える。そして、どう実体化するかは、どこまで覚悟して男性が孕ませる性の自己責任をいうのかの試金石にもなる。
 なぜ男は避妊しない性交を求めるのか。沼崎は中絶問題・避妊問題の核に、この問いをおく。そして、彼はその回答を、妊娠が女性に及ぼす負担に対する男性の認識の甘さ、にみようとする。
 最後に、この回答の不十分な点を指摘しておきたい。
 既に述べたように、中絶の負担を含め、避妊外性交による女性の負担の認識に甘さが残る点。多くの場合、妊娠しても女性が中絶という選択をとるとみこしているからこそ、男性は避妊なしの性交をおこなうのではないか。とすると、妊娠の負担より中絶の負担を、より男性には「実感」してもらう必要がある。
 また、女性の負担の重さに気づいていても、それが自分の身にふりかからないため、どうでもよいとする男性も多いだろうことに触れていない点。
 そしてもっと重要なのは、妊娠の負担に気づいているからこそ、避妊しない性交を行なう男性もかなりいるのではないかという点である。孕む危険をもたせることで、女性の行動の自己規制を促す。身体につながれざるをえない女性と、身体から自由な男性との格差を楽しみ、生物学的格差を利用して、女性のセクシュアリティをコントロールする。明確にその意図を自覚しているかどうかは別として、そういう男性は決して少なくないはずである。
 女性が負う妊娠や中絶の負担に気づいていないだけであれば、女性と話し合い、想像力を用いることで、男性の行動は変革されるかもしれない。けれど、気づいた上で、その格差を利用している男性の行動をどうすれば変革できるのだろうか。権力バランスの逆転か、同じ負担を人為的に男性に与える社会的システムの構築か、法的な制裁か。
 沼崎も「男性の生殖能力は男性性の重要な要素と信じられていることもあって、男らしさを失いたくない男たちは、パイプカットには消極的であり、コンドームさえ使いたがらない。」と指摘している(32)。その男らしさとは、そもそもなんなのか。
 私たちは「去勢された男」と「人畜無害な男」が同じ意味をさししめす文化に生きている。攻撃性は男性性の重要な一部であり、避妊する性交は男性の攻撃性をそぐとみなされる。性行為によって、男性は女性を「征服・支配」し「所有」する。妊娠は征服の証であり、女性の身体は「植民地」となる。たとえ植民地として所有し続けることはできなくても、中絶という戦争の傷跡を残すことはできる。戦場におけるレイプとは、それがメタファーでなく現実となったものである。加害性は普段は隠されているものの「いざというときのために」男性性の中に常に担保されている。
 性行為をめぐるメタファーは、実は妊娠のメタファーなのだ。性と生殖とを切り放したくないのは、そういうメタファーの中で生きる男性たちである(33)。女の身体に変化を起こさせることができるという力を可能性として維持しておくこと。妊娠した妻の変化に、自分の責任を感じる沼崎のような男性もいれば、自分の力に酔いしれる男性も大勢いるはずである。キャリアウーマンである恋人がなかなか結婚を承諾したがらないという悩みを持つ私の友人は、「妊娠させてしまえばよい」というアドバイスを周りからよく受けるという。
 マキノンやドウオーキンらの「全てのセックスはレイプである」(34)というテーゼ、性を暴力と等記号で結ぶ考え方を、私は誇張だと思ってきた。必ずしも暴力的ではない「普通」の男女関係はあると考えてきた。しかし、確かに避妊もちゃんとしないのが普通のセックスなのだから、性が暴力だというのは事実なのかもしれない。
 私は、男性学に期待している。けれども過剰な期待をもつわけにはいかない。男性学は男性を救うものになるかもしれないが、必ずしも女性を救うとはかぎらない。
 男性学をする男性はいまだ男性の中では少数者に過ぎない。自ら変わっていこうとする少数の男性を女性は暖かく支援(母親のように?)すべきなのかもしれないが、孕ませる性の暴力性を、単に「気づかなかった」ですませてもらっては困る。幾つも譲歩した上で「せめて中絶の自由を」といってきた女性たちの、その譲歩の理由を、あきらめの積み重ねを、いまいちど男性は見直すべきではないだろうか。



<文献及び注>

1) 沼崎一郎: 〈孕ませる性〉の自己責任.  特集ピルから見える世界  インパクション105号, 東京 (1997)
2) 孕ませる性の問題点は誰もが薄々感じていたが、確かにそれを真っ向から論じようという試みはほとんど行われていなかったように思う。それは、女性の眼が曇らされていたというより、あまりにも自明のことだったからかもしれない。しかし、孕ませる性の暴力性について論じてきた女性は結構いるのではないか。文献の掘り起こしが必要なように思う。例えば、大越は「性暴力の結果、女性が妊娠し、出産する可能性がある点においても、性暴力によるジェンダー支配の威力は決定的である」と述べている(大越愛子: フェミニズム入門. 筑摩書房, 東京 .1996)。
3) 本論考は、永田えり子: 道徳派フェミニスト宣言. 勁草書房, 東京 (1997)から大きな知的刺激を受けている。また、法的側面については後藤弘子氏、産婦人科医療については加藤治子氏にアドバイスを頂いた。ここに謝したい。ただし本稿の不十分な点は、すべて筆者の責任である。
4) Desjarlais R, Eisenberg L, Good B, et al.: World Mental Health.  Oxford University Press., New York  (1995) 宮地尚子:現代社会と女性 臨床精神医学講座: 多文化間精神医学 p99-110 東京、中山書店1998
5) 沼崎前掲p88下段
6) 香山浩二:精子免疫の避妊ワクチンへの応用. 森崇英,飯塚理八,谷澤修,藤本征一郎,富永敏朗(編): 産婦人科学書1.生殖医学. 金原出版, 東京 ,1994,p645
7) 沼崎前掲p89上段
8) なぜコンドーム着用の義務が男性に負わされるのでなく、コンドームを男性に着用させる義務が女性に求められるのか。なぜコンドーム着用に、ピルをのめない女性の妊娠に対する不安が利用されるのか。男性に子どもの養育責任を負わせる責任を女性が負わされるという永田の分析(前掲p294)と同様の構図がここにもみられる。
9) 永田前掲p315
10) 性病罹患及び中絶が不妊にどの程度寄与するかの推定は困難である。女性側の不妊の原因としては、骨盤内感染症が重要視され、卵管性不妊等の原因となる。また人工妊娠中絶後の子宮腔内癒着も子宮性不妊の主要因の一つである。一方、男性不妊は不妊全体の40-50%をしめるが、当然その原因に妊娠や中絶はならないし、性行為感染症が関与する割合も少ないようである。 また、母体保護法(元優生保護法)外の中絶件数は、同法によるものの2ー3倍と推定されている。森,飯塚,谷澤ら前掲p455、502、508、810。森崇英 (編): 不妊の診断と治療−最近の動向. 金原出版, 東京 (1992) p128,156,181
11) 沼崎前掲p91-92
12) 中絶の害、特に不妊への可能性を声高に叫ぶことは、女性の中絶の権利を守るために不利な面も多く、フェミニズムの中でも戦略的に避けられてきた部分があるように思う。確かに、不妊については、中絶するしないよりも、安全な中絶手段であるかないかのほうが大きいようである。世界的に見ると中絶によって不妊どころか命を落とす女性も少なくないが、そこでも中絶そのものでなく安全性が問題だと言える(井上輝子, 江原由美子 (編): 女性のデータブック. 有斐閣, 東京,1996、p87)
13) 森岡正博:暴力としての中絶 月刊フォーラム1997年6月号.
14) パートナーとの関係が不安定であることは、望まない妊娠の確率を高めるだけでなく、中絶・出産の経済的負担が女性に一方的にかかることにもつながる。(加藤治子、佐道正彦:医療費未払い事例の実態よりみた経済的ハイリスク妊産婦支援のあり方。厚生省心身障害研究「生涯を通じた女性の健康づくりに関する研究」報告書(印刷中)参照)
15) 沼崎前掲p92では、正確には「膣内射精」を性暴力としている。細かいことだが、いわゆる膣外射精でも妊娠可能性は十分あるので本稿ではこの言葉を用いない。
16) 実際妊娠しなくても、妊娠におびえる日々を過ごさせたということで避妊なしの性交そのものを罪に問うようにしてもいいはずだが、ここでは妊娠という結果責任のみを問うことにしよう。
17) もちろん、現在の法解釈はそうはなっていない。レイプ被害者が「せめてコンドームをつけて」と加害者に懇願したことが、和姦の証明とみなされるのが現状である。
18) 現在の日本では、女性の「ノー」だけでは強姦罪は成立しない。ただし、その境界をめぐっては女性学や心理学の貢献もあって現在大きく変化しつつあり、希望のもてる状況である。
19) 世界女性会議などによって確立されてきた概念、リプロダクティブ・ヘルス・ライツが、女性の性と生殖の自己決定権をいうにとどまり、男性の側の避妊責任を具体的に義務として主張できないのもこのあたりに要因があるのかもしれない。しかし、南の女性の現状を考えると、男性の避妊義務を明確化することの方が、実際的かつ有効ではないかという気がする(大森絹子:ミャンマー国ミチナにおける性産業従事者のエイズと性感清祥に関する知識とリスク行動. 日本公衆衛生雑誌45.3.262-269,1998.  ヤンソン柳沢由美子: リプロダクティブ・ヘルス/ライツーからだと性、わたしを生きる.国土社, 東京.1997参照)。法制化への道は遠いとしても、リプロダクティブヘルスライツに対応する概念、男性が自分のこととして引き受けざるを得ない概念を、早急に確立する必要がある。
20)  沼崎前掲p94-95
21)  沼崎前掲p89
22)  沼崎前掲p95
23)  婚姻は本来、そういう主旨があったのかもしれないが、現在の状況では、婚姻にその契約を求めるのは不適切であろう。
24)  中絶反対論者が男性の責任をどう理論化してきたかは分析の必要があると思われる。また、中絶に関する配偶者の同意についても問題は多い。未婚者の場合はどうなのか。既婚者で相手が配偶者でない場合はどうなのか。中絶同意書のサインをした男性に、生物学的父親を名乗る男性が訴えるということはないのか。身に覚えがない男性が、同意書にサインするのは違法にはならないのか。永田のいうような「男性に責任をとらせる責任」を女性がおわされる状況(永田前掲p294)、ここでは男性にサインをさせる責任、を女性が負わされるのは困るが、中絶をめぐる男性の責任については、もっと議論されるべきであろう。ちなみに、米国では配偶者の同意を求めるのは、憲法違反だということだ。
25)  ピルが禁止されている状況では、女性に適切な避妊法は乏しいという現状もある。IUD、ペッサリー、その他いずれも、避妊の失敗確率、身体への侵襲性、手間等を考えると一長一短がある。ましてや、性行為感染症も視野に入れれば、適切な手段はコンドームにほぼ限られる。世界的に最も頻度の高い避妊法は不妊手術であるが、その場合も男性の手術の方が手技的には簡単である(森,飯塚,谷澤ら前掲p735, 740,754, 758。井上, 江原前掲p69)。そういう意味でも、男性に避妊責任を全面的に求めることには一理ある。
26)  山本郁男編:法医裁判化学. 東京、廣川書店1986.p86。このほか親子鑑定については、同p213、富田功一・上山滋太郎(編)標準法医学・医事法(第3版)、東京、医学書院1989、p44-49。精液の採取・保存・検査については同p219,226-227参照。また、塩野寛:臨床医のための最新法医学マニュアル、東京、新興医学出版社、1995の親子鑑定の項には、ナポレオンの法典「父の詮索を禁ず。」等、「親子に関する諺と寸評」を載せていて興味深い。
27) 和田正平:性と結婚の民族学. 京都,同朋舎出版1988. 高畑由起夫編:性の人類学.京都,世界思想社1994
28) Faye D. Ginsburg, Rayna Rapp (編): Conceiving the New World Order:The Global Politics of Reproduction. University of California Press, Berkeley and Los Angeles(1995)。ヤンソン柳沢前掲。Desjarlais, Eisenberg, Goodら前掲。
29)  例えば、「あんたの子かどうかわからないよ」とか、浮気をしておいて「あんたの子よ」と言って夫に養育責任負わせるなど、恣意的に子供の父親を選ぶメリットをなくすことになる。
30)  永田前掲p289-291
31)  Naoko T. Miyaji, Margaret Lock: Monitoring Motherhood: Sociocultural and historical
Aspects of Maternal and Child Health in Japan. Daedalus123(4)87-112, 1994
32)  沼崎前掲p89
33)  避妊に対して「自然に反している」「女性性が損なわれている」と感じる女性もいるようだ(森,飯塚,谷澤ら前掲p367)。避妊なしで性交をしてしまう女性の心理も分析が必要であろう。
34) MacKinnon, C.A.: Toward a Feminist Theory of the State. Harvard University Press,Cambridge Massachusetts, 1989.



*本論文の短縮版が『インパクション』108号(1998年6月)144−151頁に掲載されました。併せてご覧ください。

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