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現代文明学研究:第2号(1999):77-87
出生前診断・選択的中絶をめぐるダブルスタンダードと胎児情報へのアクセス権
市民団体の主張から
玉井真理子



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1、はじめに

 生殖医療技術は、ひとつには「産むため」に(不妊治療)、もうひとつは「産まないため」に(避妊・中絶)ある。そしてさらには、「選んで産む/産まないため」に(出生前診断)ある。「選んで産む/産まないため」の技術が存在する状況の中で、人為的な介入をせずに生まれてきたら障害児(者)と呼ばれることになるであろう存在は、どう扱われるのか。「選ばれることはない」とも言えるし、「選んで中絶される」とも言える。
 生まれる前に、胎児をある特定の属性によって選択し、中絶の対象にする。障害児と言われる子ども――もちろんすべてではなく、特定の、しかもごく一部の障害ではあるが――の出生を回避したいという親の希望は、この選択的中絶によってかなえられる。可能な限り確実に選択して中絶するため――もしかしたら障害児かもしれないという怖れだけで障害児でもない子を中絶したりすることが起きないようにするため――には、その前段階として出生前診断がどうしても必要なのである。
 出生前診断には、妊娠中の健康管理や分娩方法の選択、あるいは胎児治療の可能性を探るために行われるという側面もあるが、その倫理的問題は、おおむね選択的中絶との関係性に集約される。この場合の選択的人工妊娠中絶(selective abortion、以下「選択的中絶」とする)とは、胎児異常を理由にした中絶(abortion for fetal abnormality)である。さすがに最近は、それを、「治療的中絶」とは言わないようだし(注1)、羊水検査が普及しはじめた時代に比べると、手放しで「福音」だと賞賛する論調も少ない(注2)。最近の記述は、ごく一部(注3)を除けばおしなべて慎重である。しかし、選択的中絶との不可分の関係にあるという点では、なんら変わるところはない。

2、ダブルスタンダード

 さて、「生まれる前の問題と生まれてからの問題は別」という、一見もっともな主張がある。
 日本のマスコミは、1970年代の「不幸な子の生まれない運動」で 社会問題としての出生前診断と出会った。そして、20年を経て1990年代に出した結論は、出生前診断の普及と障害者施策の拡充は拮抗しないというダブルスタンダードである。
 健康な子を持ちたいという個人感情は否定できないし、そうした感情は今生きている障害者を生きにくくさせるものではない。だから、障害者の出生を個人的に回避しようとする選択(出生予防?)の一方に、障害者施策の充実という社会全体の選択があれば、それでよいのだ。障害者施策の充実を社会全体として選択していれば、と言うよりそれを積極的に放棄しさえしなければ、障害者の出生を個人的に回避しようとする選択(出生予防?)はなんら問題ではない。
 そのようなダブルスタンダードでよいのだ、むしろそれを積極的に支持すべきだ、というものである。そして、欧米ではこのダブルスタンダードの論理でもって出生前診断の問題は解決済みである、という論調がこれまでは主流であった。
 影響力が大きかったと思われるのは、NHKの「プライム10:あなたは生命を選べますか?ここまできた胎児診断?(1992年1月17日放映)」であろう。この番組の中で、アメリカの女性法学者ローリ・アンドリュー氏は、「胎児診断が障害者差別につながるという議論はこの国はあまりありません」と語っている。アンドリュー氏は、その後頻繁に引用されるという点では国内外で高く評価されることになる1994年出版の「Assessing Genetic Risks: Implications for Health and Social Policy(Institute of Medicine、USA、1994)」の編者である。また、当該領域での先駆的著作の一つである「Medical Genetics: Legal Frontier(Oxford Press、USA、1987)」著者でもある彼女の発言にはそれなりの説得力がある。また、この番組を担当したディレクターは、その後の論文「胎児診断を市民はどう見ているか(隈本1995)」のなかで次のように述べている。

 似たような内容のものとしては、米本(1995)による以下のような指摘もある。米本氏は、医療をめぐる倫理的な問題を考える学際的領域としてのバイオエシックス(生命倫理学)をわが国に紹介したという点で大きな功績がある。ジャーナリストである隈本氏とともに影響力は無視できない。  しかし、こうした指摘が必ずしも欧米の状況の描写として妥当でないことは、たとえば、「遺伝問題を理由とした中絶の容認」を「障害者の権利運動にとって最も厄介な問題」として警戒している世界障害者研究所のデボラ・カプランが、「女性と出生前検査―安心という名の幻想―」のなかで次のように述べていることからもわかる。  これは主に北米の状況であるが、フランスに関しても、「生殖医療の中の子ども達」のなかで、著者のジャン?フランソワ・マティ氏は、次のように述べている。  また、1997年のアメリカ障害学会第十回年次大会では、出生前診断と選択的中絶に関するセッションを設け、同学会としてははじめて出生前診断を本格的に取り上げて議論した。ここには、生命倫理学のシンクタンクであるヘイスティングス・センター(米国ニューヨーク)の「遺伝的障害の出生前診断」研究プロジェクトのメンバーも招かれたという。「遺伝的障害の出生前診断」「多様性?差別?遺伝的検査を制限できるか?」「私はなぜ羊水検査を受けた/受けなかったのか、その意味は?」「障害児との生活が家族に及ぼす影響とは何 か?」をテーマにしたこれらのセッションの模様を、土屋(1997)は、次のように報告している。   以上見てきたように、欧米はダブルスタンダードでケリがついているというのは、誤解である。そのような都合の良い論理は存在するし、そしてさらに、それで強引にカタをつけようとしている人たちもいるとは思われるが、日本の出生前診断と選択的中絶の近未来を考えるのに役に立つ論理とはとうてい思えない。

3、市民団体からの発信

 ここでは、出生前診断と選択的中絶をめぐって積極的に発言をしてきた国内の市民団体の主張をいくつか見てみる。
 優生保護法と刑法堕胎罪の廃止を求めて、「女(わたし)のからだから・82優生保護法改悪阻止連絡会(のちに「SOSHIREN・女(わたし)のからだから」に改名)」と「DPI(障害者インターナショナル)女性障害者ネットワーク」が1995年に連名で提出した意見書には次のようにある。

 翌1996年、結果的には母体保護法となった優生保護法の改正が取りざたされているときに、「DPI(障害者インターナショナル)女性障害者ネットワーク」の主要メンバーでもあり町田市議でもある樋口恵子氏が、朝日新聞論壇に寄せた「過去の教訓を生かし、優生保護法、堕胎罪の撤廃を(1996年2月10日)」のなかにも同じ記述がある。上記の内抜粋と内容的には重なっているが、以下の部分のみわずかに違っている。  さらに1997年には、改正後の母体保護法へのいわゆる胎児条項導入(胎児の疾患を理由とした中絶を認める条項を現行母体保護法に導入すること)に関して、いくつかの動きが起きた。まず、日本母性保護産婦人科医会が「導入支持」を表明したと報道されたが、のちに会報のなかで、同会法制検討委員会のなかには導入を支持する声は強いとしながらも、全体の合意には至っていないことを明らかにしている(注9)。この直後、今度は日本人類遺伝学会が「重い遺伝性疾患の胎児を中絶できる条項の導入を核とする母体保護法の見直しを国に求める方針を固めた」(読売新聞1997年3月30日付)と報道されたが、実際の優生保護法改正に関する日本人類遺伝学会理事会声明では、母体保護法となった旧優生保護法に関して改正の際の付帯決議に基づき引き続き議論を求めるという内容にとどまっていた。
 これらの動きを受けて、女性団体として「SOSHIREN・女(わたし)のからだから」、女性障害者団体として「DPI女性障害者ネットワーク」、障害者団体として「日本脳性マヒ者協会・全国青い芝の会」が、それぞれ胎児条項反対の意見を表明した。それぞれの団体の意見書のなかに見られる出生前診断に対する主張を拾ってみる。  また、「DPI(障害者インターナショナル)女性障害者ネットワーク」は、厚生省が1997年に出生前診断の事態調査のための研究班を発足させたことを受け、「出生前診断実態調査研究班設置に関する要望書」を提出しているが、そのなかで次のように述べている。  先にも紹介した同ネットワークの樋口恵子氏は、胎児診断には「反対」であり、「胎児診断なんてナンセンス。障害を持つことで制約を受けるような社会の方が、貧しいんです」とし、個人の選択に任せていて胎児診断が普及すれば「受けたいという人だけじゃなく、全員が受けなければいけないということになる」危険にも言及しつつ、次のように述べている。  一方、SOSHIREN・女(わたし)のからだからは、「女の運動が言ってきた自己決定権の中身」に関して、次のようにまとめている。  これに対し「日本脳性マヒ者協会・全国青い芝の会」は、厚生科学審議会先端医療技術評価部会のヒアリング(生殖医療に関する障害者団体からの意見聴取、1998年3月17日)に際しての「生殖医療に関する見解」に添付された意見書「生殖医療、特に出生前診断技術に対する私たちの考え方」において、次のように述べている。 そして、実際のヒアリング場面では、次のように述べている。 さらにその直後に提出した意見書の中では、以下のように述べている。  以上、資料として十分とは言えないかもしれないが、出生前診断に関しての、障害者団体、女性団体、女性障害者団体の主張の一致点および不一致点をまとめてみる。

一致点:

1)現行母体保護法への胎児条項の導入には反対する。
2)障害児を産み育てる選択をサポートする体制づくりを求める。

一致しているとは思えない点:

1)胎児条項がなくても疾患を有する胎児の中絶は可能であるが、そのような選択的中絶を女性の自己決定の範囲として容認するのかどうか。すなわち、胎児の疾患を知っても産み育てたいと思う女性がいたら社会的に支援されるべきであるが、一方、産み育てたいとは思わない女性がいたら、現段階においてその選択を容認するのかどうか。
2)選択的中絶をするかしないかという判断の材料にしかならないような胎児の身体及び健康(疾患)に関する情報に、積極的にアクセスする権利が女性にあるのかどうか。

 現行母体保護法への胎児条項導入に反対でも、障害児を産み育てる選択をサポートする体制づくりを求めるとしても、胎児の疾患を理由に中絶を選択すること(選択的中絶)や、それを考慮した上で胎児情報にアクセスすること(出生前診断)を少なくとも禁止できない、という立場はあり得る。これは、現行母体保護法に胎児条項を導入せず、同時に障害児を産み育てる選択をサポートする体制づくりする一方で、出生前診断・選択的中絶は積極的に推進されるべきだ、という主張と同じではない。推進されるべきではないが、禁止はしないという立場である。この点において、三者(障害者団体、女性団体、女性障害者団体)は意見の一致を見てはいないと思われる。

 「日本脳性マヒ者協会・全国青い芝の会」をはじめとする一部の障害者団体は、「障害者の出生の糸口を根絶する考えや行動を断固糾弾」しているのであり、「遺伝子診断、体外受精など、不妊治療にまつわる生殖技術」を「より悪質な障害者出生予防の考え方を内在」しているものとして「白紙撤回」を求めている。選択的人工妊娠中絶とそのために行われる出生前診断そのものに反対なのである。彼らにとって出生前診断は、障害を有する胎児を確実に選択して中絶し、障害をもたない胎児を間違って中絶しないようにするために必要な診断であり、障害者排除の象徴である。
 ただし、選択的中絶に全面的に反対なら、無脳症のように致死的とはされているが妊娠の継続が母体の健康はともかく、必ずしも生命を脅かすとまでは言えない場合にも反対なのかどうかは不明である。また、「何まで否定するが如く」評されたことを心外であるとしている彼らが、「おおむね否定」ではあるが必ずしも「否定」はしないと考えている部分がどこなのか、彼らが納得する形での「健全者至上主義」の「総括」を行い「一段と推進」するのではなく現状維持程度であればよいのかも不明である。
 一方、SOSHIRENをはじめとする女性団体は必ずしもそうでない。
 厚生科学審議会先端医療技術評価部会のヒアリング(生殖医療に関する女性団体からの意見聴取、1998年3月18日)で「血清マーカテストの技術は、本当に使用を一時ストップするべき検査ではないかと思います。(SOSHIRENニュース、No155、p.7」とまでは述べているが、それ以外のたとえば羊水検査などについては言及していない。これは、必ずしもハイリスクとは言えない不特定多数の妊婦を対象としているなど、これまでの検査法方法にはみられなかった母体血清マーカーテストの特殊性を考慮しての発言であると思われるが、従来の方法については「容認する」とも「禁止せよ」とも言ってはいない。
 同団体のニュースに「女の運動が言ってきた自己決定権の中身」をまとめたものとして、女性の自己決定権は「子供をもつかもたないかを、女性本人が決める」ことであり、「性別や障害の有無で選別することを含んでいない」という踏み込んだ記述があるが、これ以外に同様の趣旨の主張を筆者は寡聞にして目にしたことはない。
 この記述にしても、胎児条項反対の意見書のなかの「私たちが求めるのは、子供をもつか否かの選択を保障するものであって、子供を性別や障害の有る無しで選ぶものではありません」という記述と合わせて考えれば、女性団体は「子供を性別や障害の有る無しで選ぶ」ことを積極的に権利として保障せよ、権利であるから侵害されれば損害賠償請求の対象にする、ということを主張しているのではないのだという解釈はできるが、先の「含まない」という表現が、女性が「子供を性別や障害の有る無しで選ぶ」ことを認めないことを意味しているのかどうかは、前後の分脈からも不明である。ここで言いうるのは、女性団体が求めているのは「子供をもつか否かの選択」であり、「子供を性別や障害の有る無しで選ぶ」ことまでは少なくとも積極的には求めない、求めるもののなかにそれを積極的に含めることはしない、ということである。積極的に排除するかどうかについては、言及されていないのである。
 さらに言うなら、「性別」と「障害」を同列に並べている点についても、その背景は明確ではない。現在性別という胎児情報へのアクセスは制限されている。日本産婦人科学会の規定でも、重い伴性劣性遺伝性疾患の可能性がある場合以外、胎児の性別を妊婦に告げてはならないことになっている。胎児を「性別」だけで選ぶことは、現在でも認められていないのである。同じように何らかの制限をするのであれば、障害の有無という胎児情報に出生前診断という方法を用いてアクセスすることはできなくなるし、偶然わかってしまった場合でも告げてはならないことになる。
 一方女性障害者団体は、「出生前診断で障害のリスクを聞かされ」た女性が中絶を選択しても「そのような選択を責める」ことはできないとしている。どちらかというと女性団体に近い主張である。女性でもあり障害者でもある彼らは、選択的中絶をめぐって対立していた女性と障害者が「妊娠を継続するか否かを決定するのは女性の基本的人権のひとつであるという共通認識」に至っていることを紹介しているが、「妊娠を継続するか否か」の判断材料として障害の有無という要素が入り込んだとき、その決定も「女性の基本的人権のひとつ」とするのだろうか。彼らの言う「共通認識」の中にその答えはない。
 「障害児を産むことを、女性も周囲も社会も肯定できる状況をつくりあげること」が重要であることは、そのことに対してどの程度真剣になるかは別として?「どの程度真剣であるか」が、実は最も差し迫った問題なのだが?、女性団体ならずとも、そして障害者団体ならずとも、理念としては誰も反対はしないであろう。
 問題は、今この瞬間に「障害児を産むこと」を肯定できない女性に対して、「周囲」や「社会」はどういうスタンスをとるべきなのか、ということである。障害児を産み育てる選択をサポートする体制を充実させてさえいけば、現段階での出生前診断は個人の選択として認めて良い(禁止しなくても良い)のだろうか。あるいは、理論的には50%の確率で致死的な疾患が遺伝することが判明しているような場合に、子どもを持つことを諦めたり、もしかしたらという不安だけで中絶をしてしまうカップルがいることなどを考えれば、禁止してはいけないのだろうか。

4、胎児情報へのアクセス権

 女性団体も女性障害者団体も、出生前診断・選択的中絶を積極的に支持してはしない。むしろ出生前診断・選択的中絶それ自体に関しては、反対である。しかし、少なくとも禁止はできないとするなら、それは、障害者福祉の充実と障害者の出生予防やそのための出生前診断の普及は拮抗しないという、社会政策としてのあからさまなダブルスタンダード論ではないにしても、結局ダブルスタンダード論にからめとられていく危険を十分はらんでいる。確かに、社会政策としてのあからさまなダブルスタンダード論支持ではないが、個人レベルではある意味ではダブルスタンダード容認なのではないかと思うからである。
 これまでの敵は、幸か不幸か、経済条項削除と胎児条項導入がセットになっていたり、社会政策としての出生予防とそのための出生前診断の普及だった。当面の敵と闘うためには、当面の一致点を確認するということで良かったのかもしれない。現在は胎児条項などなくても、出生前診断を推進する政策などなくても、個人の自己決定の範囲で選択的中絶を前提とした出生前診断は拡がっていく可能性は十分にある。障害イコール不幸ではないという言説が仮に浸透したとしても、少しでも楽な子育てをする可能性はわずかでも――実際ほんのわずかしか高くはならないのだが――高い方がいい、ということは個人的な動機には十分になり得る。
 女性団体も女性障害者団体も、「自己決定に基づく出生前診断の普及」を目指すものでもなければ、容認するものでもない。むしろ、女性の「自己決定」を十分に保障することで、子どもに障害があっても育てられるなら出生前診断を受ける必要はない、偶然子どもに障害があることがわかったが産んで育ててみようか、と思う女性を増やしていきたい、障害の有無で子どもを選ぶ女性を減らしていきたい、という主張である。
 さらに言うなら、女性団体も女性障害者団体も、出生前診断・選択的中絶の普及を目指すものでもなければ容認するものでもないという以上に、それ自体に関して反対である。反対ではあるが禁止はしない、禁止はしないがそれ自体には反対であるというスタンスは、「自己決定」の名の下に出生前診断・選択的中絶を選ぶ女性が減っていき、誰もそれを選ばなくなるということを目指すという点で、整合性を保っていると考えられる。
 しかし、今の状況の中で「自己決定」にまかせていたら、情報提供やカウンセリングを受けて、子どもに障害があっても産んで育ててみようか、子どもに障害があっても育てられるなら出生前診断など受ける必要ない、と思う女性が増えていくスピードより、情報提供やカウンセリングを受けて出生前診断を受けることを選択する女性が増えるスピードの方が早い。事実、マジョリティにはなり得ていないかもしれないが、障害者団体、女性団体、女性障害者団体がそれぞれに出生前診断・選択的中絶に疑問を投げかけ続けている70年代から、出生前診断を受ける女性は着実に増え続けている。
 増えていけば、受ける人もいる、受けている人も結構いる、多くの人が受けている、半分以上は受けている、大部分の人が受けている、みんな受けている.....という具合に、多くの人が受けるという事実それ自体が動機になる。多くの人が受けるものなら少なくとも悪いものではなさそうだ、とりあえず受けておこうと、ことの善し悪しを判断する前に受ける方に引きずられ、受ける人が増えるスピードは加速する。しかも受けた多くの女性は、「異常なし」の結果を聞いて「安心」する。それがどんなに幻想であっても、考えるきっかけを与えられず、みんな受けているのだから悪いものでもなかろうという程度で受け、結果的には「安心」が得られれば、考えるきっかけは最後までどこにもない。「安心」を得るための検査として、また受ける人が増えるスピードは加速する。
 すでに、妊婦の血液から胎児細胞を分離してDNAを調べる、という手法まで開発されている。羊水検査はお腹に針を刺すという心理的抵抗感が歯止めになり、母体血清マーカーテストには確実にわかるわけではないという弱点があった。こうした抵抗感や不確実性といった方法それ自体の弱点を克服したのが、母胎血中胎児細胞分離法である。早く確実に簡単に胎児情報にアクセスする技術は、これからも次々と開発されていくだろう。 
 出生前診断には、診断と治療の乖離、現在と未来の乖離、決定する主体と決定を引き受ける主体の乖離という3つの乖離状況が含まれている。単純に「自分のことは自分で決める」というだけの意味での「自己決定」では語れない。

【注】

1)福本英子「生命操作医療の構図と生命の唯一性」(山口研一郎編、操られる生と死―生命の誕生から終焉まで―、小学館、p.262、1998)のなかでは、「治療的中絶」という言葉を最近よく聞くと述べられているが、この記述に関しては出典が曖昧であり、筆者の印象はむしろ逆である。文献検索の結果でもM. Di Qiusto, et als. Psychological aspect of therapeutic abortion after early prenatal diagnosis. Clin. Exp. Obst. Gyn. XVIII no.3 169-173, 1991が1件ヒットしたのみであった。
2)福岡和子「先天異常の出生前検査」(周産期医学、vol6、no3、47-55、1976)
では、出生前診断は「福音」であるとされている。
3)たとえば、山中研二ほか「愛媛県におけるトリプルマーカー導入後のダウン症出生前診断状況シュミレーション」(愛媛県産婦人科医会会報、vol.24、pp.10-17、1996)には、タイトル中にあるトリプルマーカーすなわち母体血清マーカーテストを、ダウン症児の検出数を増やすことができるスクリーニング検査として、「すばらしい検査には間違いありません」と述べられている
4)隈本邦彦、出生前診断を市民はどうみているか、医学のあゆみ、遺伝子診断と倫理=連載4、Vol.171、No.4、 pp.47-52、1994
5)米本昌平、バイオエシックス入門、講談社現代新書、障害者差別論、pp.207-208、1995
6)デボラ・カプラン、障害を持つ人々への影響―出生前スクリーニングと診断―、女性と出生前検査―安心という名の幻想―、カレン・ローゼンバーグ/エリザベス・トンプソン編、日本アクセルシュプリンガー出版、QOLのジレンマ、p.88、1996
7)ジャン?フランソワ・マティ、人工生殖のなかの子どもたち―生命倫理と生殖技術―、築地書館、第3章:出生前診断、pp.109-111、1995
8)土屋貴志、会議・アメリカ障害学会第十回年次大会、ノーマライゼーション:障害者の福祉、財団法人日本障害者リハビリテーション協会、Vol.17、No.9(通巻No.194)、pp.74-77
9)日母医報平成9年3月号(p.7)には、「母体保護法のこれからの問題点の中で最大の懸案事項は、『胎児条項の設置』である。法制検討委員会では、障害児を妊娠し、この胎児がその時代の医療水準で『不治又は致死的と認められる著しい疾患に罹っている可能性が高いもの』に限って先進諸国と同様に胎児条項を認めようとする意見が強い。胎児条項の設置は、不治または致死的と診断された胎児の母親の精神的・身体的苦痛を考えてのもので、胎児診断による中絶は、母親の基本的人権あるいは母親の幸福追求権を尊重したものであり、障害児の出生を防止したり、障害者の人権を否定しているものではない.(文責・常務理事 新家薫)」と述べられている。これは、毎日新聞の同年2月25日付記事で、同会が母体保護法への胎児条項導入に関してすでに日母案をまとめたと報道されたことに対する抗議文の形になっており、現在法制検討委員会で審議中であることを強調してはいるものの、同会が胎児条項の導入に積極的であることは確かであろう。優生保護法から母体保護法への改正の際にも同会常務理事の新家薫氏は、「会員の間では、ほとんどの先進国で認められている胎児適応を求める声が強い」とし、現行法だと胎児に障害があるという理由では中絶はできないが、風疹(ふうしん)をめぐる民事裁判では胎児適応の実施を前提にしたような判決が出ていることなどを、理由としてあげている(朝日新聞1996年4月2日)。
10)ここで言及されているのは朝日新聞1997年5月19日「出生前診断の実態調査 倫理を重視、指針策定も 厚生省が研究班」であると思われるが、そこでは、次のように述べられている。
 「胎児の細胞や遺伝子などから障害の有無を調べる出生前診断について、厚生省は研究班を設置し、国として初の実態調査に乗り出す方針を決めた。ダウン症の子供の産まれる確率を予測する検査が広がりつつあることや、体外受精の受精卵で重い遺伝病を診断することが検討されているなど、急速に変化する医療現場の実情を分析し、国としてガイドラインづくりが必要かどうかを探る。生み分けにつながる出生前診断は障害者差別という批判も強く、同省は厚相の諮問機関の厚生科学審議会でも生命倫理面から講義していく。
 設置するのは「出生前診断の実態に関する研究班」。松田一郎熊本大医学部教授(小児科)を班長に、産婦人科医、生命倫理の研究者ら六人で構成する予定。近く初会合を開き、今年度内に報告書をまとめる。
 出生前診断は、奇形や頭がい内出血などを画像で調べる超音波診断、妊婦の羊水や絨毛(じゅうもう)と呼ばれる組織から胎児の細胞の染色体数や遺伝子異常を調べる検査などがある。
 最近、母体の血清中のたんぱく質を調べてダウン症の子供が生まれる確率を出す検査が急速に広まっている。腹部に長い針を刺して行う羊水検査などと違い、採決だけですみ、母体への負担が少ないからだ。
 しかし、問題点も少なくない。日本家族計画協会の大倉興司・遺伝相談センター所長によると、検査の精度自体が七〇%ほどなので、算定されたダウン症の確率の評価が難しい。
 筋ジストロフィーや骨形成不全症など、遺伝子解析の進歩で診断できる遺伝病が増えている。多くは治療法が見つかっておらず、胎児は中絶されている。
 産み分けにつながる先端医療の導入に対し、患者・市民団体から「障害者の生きる権利を奪うもの」という批判が高まっている。
 出生前診断は日本産科婦人科学会などの自主的な規制にゆだねられ、厚生省は積極的な関与はしてこなかった。今後は「十分なコンセンサスが得られているとは言えない」(厚生省母子保健課)現状を踏まえ、実態調査を進める考えだ。
 出生前診断について、海外の対応はさまざまだ。フランスは生命倫理法で厳しく規制。特別に重い病気を検査することに限定し、実施には保健省の認可が要る。障害者の排除につながらないよう別の法律でも歯止めをかけている。米英は法的規則をせず、インフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)と患者自身の意志決定に重きを置く。」
 もし青い芝の会が、フランスのあり方を参考することを求めているなら、出生前診断を「特別に重い病気を検査することに限定」することをよしとしているのだろうか。もしそうであるなら、胎児の障害を理由とした中絶規定を法的に明文化すること(いわゆる胎児条項の導入)強く反対している同会の主張と、明らかに矛盾する。

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