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現代文明学研究:第3号(2000):120-138
学習学試論
濱西栄司



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1 はじめに

 <1>ある方向への理解の深まり

 ある人が、他人に、自分のもっている情報や知識、技術、様々な思いなどを、言葉や動作、絵、その他のさまざまな表現によって、提示するときがある。そのことを「教育」、「啓蒙」、「自己表現」、「アドバイス」、「営業行為」などと呼ぶときもあるし、呼ばないときもある。いずれにしろ、当の人たちの中には、
 <どのようにすれば相手にそれらをより良く提示することができるのか>
ということについて悩む人もいる。そのような人々は、
(1)相手との接し方
(2)相手への提示の仕方
などについてよく考えようとしたりする。
 それらの努力によって得られた成果を、ほかの人にもわかるような形で、文章化し、公開しようとする人もでてくる。あるいは、とくに<どのようにすれば相手にそれらをより良く提示することが出来るのか>という問題に興味があるわけではないが、その周辺の問題に興味をもつ人もでてくる。そして、それらの人々の間で、議論がおこる。その結果、自分達がもっている知識・情報・技術・様々な思いについての理解、そして相手についての理解、あるいは提示方法についての理解などが深められていく場合がある。提示の仕方に変化が生まれる場合もある。問題が発見され、その改善策が提案されることもある。意見の衝突もあるが、議論は、粘り強く続けられている。

 そのなかには学問的・専門的な研究や議論なども含まれる。例えば、「教育学」という学問のなかには、
 <どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>
という問題や、その周辺の問題などに最終的には結びついていく部分もある。例えば、(1)学習者との接し方(2)学習者への提示の仕方、などについての議論が「教育学」においてはなされている。
 また、「社会学」や「心理学」などの学問におけるコミュニケーション一般に関する理論の一部や、「医学」や「看護学」、「臨床心理学」、「精神分析」、「社会福祉理論」などにおける「クライアント」(患者・被介護者)とのコミュニケーションのとり方・説得の仕方などに関係する部分、さらには経営理論などにおける、「クライアント」(顧客)とのコミュニケーションについての理論の一部なども、<どのようにすれば他人[患者、クライアント]に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示できるか>ということや、その周辺の問題と深く関係しているだろう。

 <2>逆方向への理解の深まり

 逆に、ある人が、他人から、知識や情報、技術、様々な思いなどを、言葉や動作、絵、その他の様々な表現によって、提示<される>ときもある。そして、そのなかには(先ほどと同様に)、
<どのようにすれば相手から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>
ということについて悩むような人もいる。そのような人々は(また先ほどと同様に)、
(1)相手との接し方
(2)提示されることの受け取り方
などについて良く考えようとしたりする。
 しかしながら、先ほどと違って、努力によって得られた成果を、ほかの人々にもわかるような形で、例えば文章化して、公開しようとする人はほとんど出てきていないように思う(1)。議論もほとんどなく、それぞれの理解も深まらず、改善もなされない。意見の衝突はほとんどなく、共通の目標も顕在化しないまま、いまに至っているようにみえる。
 だがそのような方向からの議論が存在し、盛りあがっていくようなことがあってもよい。そのためには、まずいろいろな意見・提案・議論を掘り起こすこと、そして筆者自らも何らかの提案をしていくことが必要になるだろう。議論の「叩き台」が必要なのである。

2 現状 

 焦点を定めることにする。
 本論文においては、人間一般から、情報・知識・技術・様々な思いをうけとるときや、クライアント(患者・被介護者・顧客など)の立場にたって、医者・介護者・ビジネスを行なう側からの説明を受け取るときなどには焦点をあてない(2)。そうではなく、「教育者のもつ情報や知識、技術、様々な思いを、教育者から受け取るとき」に焦点をあてる。つまり、人間一般より範疇は狭いが、「医者」・「介護者」・「ビジネスを行なう側」などと並び立つカテゴリーとしての「教育者」が、「相手」であるときである。
 教育者から、知識や情報、技術、様々な思いなどを、言葉や動作、絵、その他の様々な表現によって提示されるときがある人たちのなかの一部分は、
 <どのようにすれば相手から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>
ということについて悩んだり、そのテーマに関心をもつようになるだろう。そして、
(1)教育者との接し方
(2)教育者から提示されるものごと(教育内容)の受け取り方
などについて(他にもあるだろう)、良く考えようとしたりする。
 しかし、前節でも述べたように、そのような努力によって得られた成果を、ほかの人々にもわかるような形で文章化し、公開しようとする人はほとんど出てきていないように思う。だが逆方向の意見・提案・議論は盛んになされているわけである。なぜ現状においては、その方向性に偏りがあるのだろうか。その原因を推測してみる。

 一方向からの意見・提案・議論が過剰になって全体を埋めてしまうと、それで全てが論じられているような「錯覚」が起こる。他の方向からの意見・提案・議論がありうるということを想像できなくなる。また例え、もともとは別方向から発せられた意見・提案・議論であっても、いつのまにか従来の方向からのものに勘違いされてしまう。自分で勘違いしてしまったり、周囲にそうさせられたりする。
 現状において、<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論は盛んだ。たとえば、「教育学」という学問のなかには、生涯教育・社会教育・企業内教育、学校教育・大学教育・特殊教育、家庭教育、教科教育、教育哲学・教育人間学、教育社会学・教育心理学、教育史・教育思想史・比較教育、教育行政などの専門分野がある。あらゆる学校段階・生涯教育施設、さらに家庭や地域、企業などにおける「学習者との接し方」や「教育内容の提示の仕方」などについての意見・提案・議論が、時には社会学や心理学の知見をふまえつつ、教育学のなかでなされている。
 アカデミズムの世界に限らず、TVや雑誌のなかでも、「子どもとどう接するか」「部下にどう提示するか」「生徒とどう接するか」という話題は頻繁に繰り返されるものの一つだ。「誰にでも教育を受けた経験はあるのだから、だれしも教育について語ることができる」というように言われており、世間話のレベルも含めて、様々な場で意見・提案・議論は交換されているようだ。
 そのような現状において、もはや<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関係する意見・提案・議論は、すべて一度は掘り起こされてしまった感がある。あとはそれぞれの領域でそれらを深めていく作業、あるいは領域を横断するような作業だけが残されているように思えてしまう(もちろん、それらの作業の方が困難で重要なものなのだろう)。
 だが、<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論が、あたかも<教育者と学習者の間に成立する知識その他の提示−受け取り関係といったようなものにまつわる全ての領域>をカバーしているかのように「錯覚」されるなら、それは問題だと思う。
 なぜなら、(1)もしもその「錯覚」が共有されているのであれば、人は<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマと方向性が異なる別のテーマの存在を考えることの意味を自ら、「隠蔽」してしまうかもしれないからだ。
 また、(2)<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>ということに悩んでも関心を持っても、その努力や経験をいつのまにか<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論に「変換」してしまうかもしれないからだ。
 さらに、(3)「隠蔽」や「変換」によって、<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論が減少すれば、ますます「錯覚」は真実味を増し、より広範に共有されていくはずだからだ。
 現状がもしもこのような状況であるとすれば、この問題を解決しつつ新たな方向性の意見・提案・議論を掘り起こすことは、次節で述べる通り、実はなかなか困難なのである。
 
3 質の低い意見・提案・議論の役割

 本論文では、<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論を掘り起こし紹介する。だが、前節に述べたように、「錯覚」が「隠蔽」と「変換」を生み出し、その結果、「錯覚」がより広範に受け入れられていくというサイクルがあるのだとすれば、その紹介は非常に慎重にならざるを得ない。
 なぜなら、まず第一に、<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論を紹介しても、そのことの意義が「隠蔽」される可能性があるからだ。第二に、<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論にいつのまにか「変換」されてしまう可能性もあるからだ。
 従って、<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論を、上記のような「錯覚」の存在を明らかにしつつ、意義の「隠蔽」や方向性の「変換」からそれらを守りつつ紹介するということが、困難だが必要になる。紹介の具体的方法について述べる前に、それぞれの特別な意味を持たせて使用している3つの用語について、もう一度、振りかえっておく。

・「錯覚」とは、<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関する広範な意見・提案・議論が、あたかも<教育者と学習者の間に成立する知識その他の提示?受け取り関係といったようなものにまつわる全ての領域>に関する意見・提案・議論のすべてをカバーしているかのように思われてしまうことである。
・「隠蔽」とは、「錯覚」によって、他の方向からの意見・提案・議論がありうるということを想像できなくなることである。
・「変換」とは、「錯覚」によって、もともとは別方向から発せられた意見・提案・議論であっても、いつのまにか従来の方向からのものに歪曲してしまうことである。

 では次に、<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論を、「錯覚」「隠蔽」「変換」から守りつつ紹介するときの具体的方法について説明する。
 本論文においては、様々な紹介方法がありうる中であえて特殊な方法をとろうと思う。すなわち、
 <質の低い意見・提案・議論をあえて掘り起こし提示することにより、根本的な方向性を際立たせる>
という方法である。この方法はあまり馴染みのないものであるから、説明が必要であろう。

 根本的な方向性を際立たせるには、(1)<同じ方向の意見・提案・議論のなかでその方向性をより露出させるという方法>と、(2)<逆の方向性をとくに露出しているものに、正面から対抗するという方法>が考えられる。
 (1)によって、別の方向性の意見・提案・議論の存在をアピールしておけば、新たな方向からの意見・提案・議論はないと思いこんでいたことが「錯覚」であったということが明らかになるはずである。そして、(2)によって、方向性の違いを明示しておけば、一方の意見・提案・議論に「隠蔽」され「変換」されることが少なくなるはずだ。
  だが、なぜ質の低い意見・提案・議論を紹介することが、(1)根本的な方向性を露出させることになるのか。また、(2)逆方向のものと正面から対抗することになるのか。

 まず質の低い意見・提案・議論がなぜその方向性を露出するのか、ということについて説明しよう。
 たとえば、既存の<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論には、さまざまな質的レベルのものがある。専門的な研究の成果としてのものもあれば、世間話において唐突に発せられるようなものもある。質の高い専門的な研究は全体の一部分ではないだろうか。量の点から見れば、質の低い意見・提案・議論が大半を占めているだろう。たとえば、「教育学」などにおける専門的な研究の成果に直接ふれている人はごく少数であろう。実際、筆者は、「教育学」という学問の存在自体を数年前まで知らなかったし、今でも周囲の人から「教育学というのはどういうもの?」と尋ねられることがしばしばある。
 人々は「教育学」という学問を知らなくても、意見・提案・議論を繰り返している。およそ理論的ではないような意見・提案・議論であっても、人々の間で交換されていっている。質の低いもの、理論的でない意見・提案・議論は容易になすことができる。そのような意見・提案・議論は、時には混乱を呼ぶこともある。だが、そのほうが全体は盛りあがる。質が低く理論的でないからこそ、それに対する「批判」という関わり方が容易になるということなのかもしれない。例え混乱が起こったとしても、それらは人々の関心・興味を弾きつけるきっかけになっているのである。混乱を巻き起こしつつも全体の流れを強力に引っ張っていくのは、質が低く、理論的でもない突発的な意見・提案・議論なのである。それは、全体のパワーの源であり、シンプルゆえに全体の枠組みや方向性を体現している。それは気軽で卑近な内容であり、現場の生の声を反映している場合が多い。逆に質の高いものは、確かに質の低い意見・提案・議論を整理する役目を果たす場合もあるかもしれないが、同時に抽象度が高くなってしまうときがある。中立度も高くなり、方向性が曖昧になったりする。もしそうであれば、方向性を逆に強烈に意識している者にとって、おいそれとは近寄り難いものとなっているだろう。質の低い意見・提案・議論のほうが、質の高いものよりも、その根本的な方向性を露骨に表しうると考えるのはそのような理由からである。
 これは、<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論においてのことである。そして、同様のことは、まったく逆の方向性をもつ<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論においても言えるだろう。本論文においては、<質の低い意見・提案・議論をあえて掘り起こし提示することにより、根本的な方向性を際立たせさせる>という紹介方法をとる。その理由は、質の低いもののほうがその方向性を露骨に表現でき、そうやって方向性を際立たせることが、結果的に「錯覚」「隠蔽」「変換」を排除することにつながるからである。このことが第一の理由である。

 次に、なぜ質の低い意見・提案・議論は逆方向のものと正面から対抗するのか、ということについて説明しよう。
 上記のように、<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論全体が、その中の大部分を占める質の低いレベルの意見・提案・議論によって既に引っ張られているという状況自体にも、特殊な紹介方法をとるもう一つの理由があるのである。
 筆者は、「錯覚」を共有している人々が多いのだとすれば、その人々のまわりには、根本的な方向性が露出している意見・提案・議論が、しかも限定された方向からのものがあふれているからなのかもしれない、と考えている。「錯覚」「隠蔽」「変換」について考えるときにもっとも重要なことは、質の高いレベルの意見・提案・議論ではなく低いレベルのそれだと考えている。いくら質の高い意見・提案・議論を紹介しても、逆方向の特に質の低い意見・提案・議論がすでに質の低いものによって「錯覚」が人々の間に生み出されている以上は、相対的に低い効果しか持ち得ない。
 すでに現状の大勢は、<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論が占めているのである。現状がそうであるのだから、別方向の意見・提案・議論を相手とまったく同じレベルに立って紹介していくようにしならない。それをしないとすれば、「隠蔽」「変換」されてしまう可能性がある。逆にそれが出来れば、「隠蔽」「変換」しにくい「異物」として認知され、大きな流れの中でも、目立つことができるはずだ。すでに一方向からの意見・提案・議論が占めてしまっているレベルのなかに、逆方向からの質の低い意見・提案・議論を「異物」として「散乱」させるのである。そのことによって、「異物」を組織化する前段階の、全体の枠組みの曖昧なイメージを発生させるのである。「異物」の広がりや方向性を出来る限り明らかにしてしまうことが重要だ。
 結果的に、<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論全体を混乱させてしまってもそれはそれでよい。「隠蔽」「変換」を免れることが最も大切なのだ。

 質の低いものは<根本的な方向性を露出させている>ので「錯覚」の存在を明らかにでき、また質の低いものは<既存の質の低いものと同レベルで対抗する>ので「隠蔽」「変換」を免れうる。既に述べたこの二つの理由から、本論文においては、<質の低い意見・提案・議論をあえて掘り起こし提示することにより、根本的な方向性を際立たせさせる>という紹介方法をあえてとることにしたのである。

 紹介する内容は、もちろん、<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論であり、具体的には、(1)教育者との接し方(2)教育内容の受け取り方、という二つのテーマに関するものを紹介する。
 それらは、あくまでも簡単な意見や提案、議論の類であって、理論足り得ていないものばかりである。だが、そのような断片的な意見、独善的な提案、浅薄な議論の集積から始める理由はすでに述べた。重要なのはそれらの内容の質であるというよりも、まずは根本的な方向性であり、既存のものとの方向性の差異であるからだ。質の低い意見・提案・議論には、次の三つの形式が存在し得ると思われる。
(1)断片的意見
(2)独善的提案
(3)浅薄な議論
 そして一つのテーマごとに少なくとも三つの形式が可能である。したがって、理論上は、少なくとも以下のような六つが可能であるはずだ。
(1)テーマ:教育者との接し方 形式:断片的意見
(2)テーマ:教育者との接し方 形式:独善的提案
(3)テーマ:教育者との接し方 形式:浅薄な議論
(4)テーマ:教育内容の受け取り方 形式:断片的意見
(5)テーマ:教育内容の受け取り方 形式:独善的提案
(6)テーマ:教育内容の受け取り方 形式:浅薄な議論
 もちろん、二つのテーマ、三つの形式以外の意見・提案・議論も存在する。それらはあくまでも暫定的なものにすぎない。それでは、次節より六つの事例、すなわち、(1)誤った教育者との接し方(2)大学教員の社会化と発達をサポートする接し方(3)実験的な接し方(4)大学の講義の受け方(5)社会調査実習の受け方(6)ホリスティックな教育の受け方、を順次紹介して行こう。

4 事例(1)テーマ:教育者との接し方 形式:断片的意見

≪誤った教育者との接し方≫
 教師や親、先輩がなにか間違いをおかした(と思える)とき、どうすればよいか。そのとき、彼らとの接し方において、どのような選択肢が存在するのか。このことを考えていく。
 たとえば、ある中学2年生(大阪府の全日制中学)は、5たす3を7と書くような教師の間違いをみつけたときにどうするかと問われて、
「間違っていたら、とにかくそれを指摘する!」
と答えた。また、ある現場教師は、先輩教師が間違った指導を行なっているように思えたときにどうするかと問われて、
「先輩教師に対して、あなたの指導は『違うんじゃないの?』と言ったことはありません。ただ議論になって、涙ながらに『納得できません』とか言ったことはあります。」
と答えた(インターネット上の「掲示板」(3)への書きこみ)。間違ってい(るように思え)ても、一度、その状況やテーマ、について考えてから追求する、ということなのかもしれない。また、その中学2年生に、親が間違いをしたときの接し方についても聞いた。具体的には、親が食事を用意してくれたが、ある料理の味付けがとてもおかしい(と思った)ときに、その親とどう接するか、ということである。その中学2年生は、
「言っても良い範囲と悪い範囲があります。それで、親が傷付くかどうかを自分で考えるんですよ。親がつくったもので、その味がおかしいときには、おかしいっていいますね。親なら、言っても良い範囲ではないですか。先生への追求とちがって、よく考えてから、いいます。」
と言う。良く考えてから追求する場合もあるということなのかもしれない。

 また、ある大学生A(大阪の四年制大学)は、「中学のころは、正義感あふれる少年だったから、学級代表を6期中5期担当し、『生徒会やってくれない?』と教師からたのまれたぐらい」だと言う。Aは、中学の美術の授業(はんこをほる授業)で、その評価がまったく恣意的におこなわれていることに違和感を覚え、美術の教員と話しをした経験があった。「教師の誤りは追求する」という選択を、中学の頃のAは採っていた。「正しいことは正しい。誤りは誤りだと考えていた」からだ、と言う(インタビューへの回答)。
 Aは、大学においてはそのような選択をおこなっていない、と言う。つまり、教師が誤っている(ようにみえる)ときでも、別になにも言わない。そのような選択をするようになったのは、高校時代からだと言う。「どうでもよくなった」と言う。中学から高校にうつり、高校一年二年と、担任は体育教師であった。Aは、「彼(担任教師のこと:濱西注)は馬鹿でね」と言う。たとえば、このような事例がある。Aは、高校一年の体育祭の打ち上げではしゃいで、靭帯にケガをしてしまい、ギブスをしなくてはいけなくなった。学期末に成績表が返されるとき、Aはクラスの一番後ろだった。そこで、Aは、歩きにくいので、「前へいくとじゃまになるんで、手渡ししてきてください」、と言った。だが、担任教師は「とりにこい」と言う。Aは、苦労して、前まで取りに行ったと言う。「教師から生徒の手へ直接」というのが、その教員の思いだったにちがいない、とAは振り返って言う。また、次のような事例もある。体育館で学年ごとに集会することになっていたが、体育館は二階にあり、クラスごとの誘導が必要であった。召集と誘導はその担任教師の役目だった。Aによると、「クラスの出て行く順番が合理的じゃなかった」と言う。「ちょっと考えれば、スムーズにいく方法わかるのに。我々へのいやがらせか。思いもつかなかったのか。考えもしなかったのか。単なる馬鹿だったのか。」と振り返る。Aは、口出しする気にもなれなかったと言う。その教員についてはそのようなことが良くあったと言う。
 大学教員が「わけわからんことを言う」ときもある、とAは言う。たとえば、「心理学」の実験で、学生は三グループにわけられた。「それぞれのグループの実験結果を比較するのだろう」、と思っていたが、三グループとも同じことを同時におこなっている。「なんで、三グループにわけたのか。条件に差異をもたさず、単に実験してるだけ」。かれは、実験の概要をすでに知っていたが、どう考えても、無駄なグループ分けであったという。だが、心の中で、「えっなんでそうなん」と思っただけで、教員の誤りを追及することはしなかったと言う。

 中学では、教師が誤っている(ようにおもえる)場合に、「追及する」という選択をおこなっていたAは、高校・大学においては、「追求しない」という選択に変更した。接し方が変更されるということは珍しいことではないのかもしれない。たとえば、最初の方で例に挙げた教師は、自分が生徒であったころを振り返り、次のように語る。
「私が小・中学校の頃、それほどの自信とエネルギーはなかったので、注意しませんでした。けど高校入ったくらいから、ちょっと元気になり、むやみやたら反抗するようになりました。で、大学に入ったら、はっきり教師に指導法の問題点を申し上げることができました。その頃は指導を客観化して、問題点をはっきり言えるだけのスタンスをもっていました。」つまり、「小・中学校」では「だまっておく」。「高校」からは「とにかく追求する」。そして、大学では「冷静に追求する」、というように変化していったようである。そして、現状は、「先輩教師に対して、あなたの指導は「違うんじゃないの?」と言ったことはありません。」ということであった。そこから、仮に、
(1)だまっておく(2)とにかく、追求する(3)冷静に(最も追求すべき部分を明確にしてから)追求する、
という三つの接し方をあげてみると、(1)「だまっておく」から始まった、先ほどの教師の接し方の変遷は、(2)「とにかく、追求」、(3)「冷静に、追求」を経て、ふたたび(1)「だまっておく」にもどってきた、と解釈可能なのかもしれない。
 同様に、大学生Aの変遷は、中学の頃の(2)「とにかく、追求」から、高校から現在にかけての(1)「だまっておく」への変化、として捉えることもできるかもしれない。事実、先ほどの教師は、
「(1)から(2)をとおって(3)、そんで(1)というのは、あたってますよ。ただ、今もそのプロセス行ったり来たりではありますけどね。」
というように、そのことを認めている。
 また変遷ではないが、先ほどの中学2年生は、親との接し方と、教師との接し方の間に差異がある。彼は、学校の教師に対しては、(2)「とにかく、追求」であるが、親に対しては、言って良い範囲を冷静に考えてから言うのであり、(3)「冷静に、追求する」という選択を行なっていると言えるかもしれない。

5 事例(2)テーマ:教育者との接し方 形式:独善的提案

 ≪大学教員の社会化と発達をサポートする接し方≫
 誤ったことをつい言ってしまったり、行なってしまったりする大学教員や、例えば「教室で前の方に座ること」を強要するというように過剰なパターナリズムを平気で身に纏ってしまう大学教員が、まだまだいる。彼らの<社会性のなさ>と<発達の偏り>は、ここ最近、ますます激しくなってきている、そういう感覚をうけるのは私だけだろうか。
 北は宮城から南は沖縄まで、私(=濱西)はいろいろな大学を訪れてきたが、そのような状況は至るところでみられるものであった。彼等は、もしかしたら、そのことに自覚がないのかもしれない。あるいは、「他の人はともかく、自分にはその自覚がある」と誤って思いこんでしまっている教員もいるかもしれない。もちろん、後者の方がまだ症状は軽いのだろうが。
 大学生は、大学教員の<社会化>と<発達>を、どうすればサポートできるだろうか。大学教員の<社会性のなさ>と、<発達の偏り>の原因のいくつかは、大学生にもあると思われる。というのも、大学生は大学教員と接する時間がとても長い。おそらく、彼らの家族のつぎに長いのではないか。大学生が、大学教員の<社会性>や<発達>を損なっている部分はきっとあると思われる。成人の学習と発達を援助する技術と理論であるアンドラゴジーAndragogyでは、成人学習者の特徴が五つあるとされている。『生涯教育の構想と展開』(元木健、第一法規)を参考に、その五つを以下にあげてみる。
(1)成熟するにつれて、自己概念は依存的パーソナリティから自己管理的なパーソナリティへ移行する
(2)経験が蓄積され、それが学習のための資源の増大を意味する
(3)学習へのレディネスは、社会的役割に関する発達課題に基づくようになる
(4)時間的展望において、知識は将来使うのではなく、すぐに使う応用の即時性が求められる
(5)学習への方向付けは、教科中心から問題中心へと移行する
 たとえば、誤ったことを言ったり行なったりする大学教員をみて、大学生がただ「間違ってる」と言うことはとても簡単であろう。だが、それでは、彼らの<社会化>や<発達>を援助することにはなりにくいかもしれない。かくいう私も、大学に入って一年目は、大学教員が誤れば、すかさずそれを批判していた。だが、いまは、良く考えて、大学教員のためになるような、批判をおこなうようにしている。私自身の責任を理解したからだ。大学教員の<社会化>と<発達>のサポートは、大学教員がおこなう研究に、間接的によい効果をもたらすだろう。
 学問研究全体が、現在、多くの専門的課題、総合的・学際的課題をかかえている。そして、それらの問題にまず立ち向かうべきなのは、大学生ではなく現役の研究者=大学教員たちであるはずだ。
 だからといって、大学生はなにもしなくていいのではないだろう。むしろ、身近にいる大学生には、総合的・学際的課題やほかの課題を、大学教員がうまくクリアーできるように、かれらの<社会性>と<発達>をうまくサポートする社会的な責任さえある、と私は思う。途方もなくおおきい責任が。
 「結局それは、大学教員に対するパターナリズムではないか」といわれるかもしれない。だが、最低限、必要なものであれば、パターナリズムはあってもいい、と私は思う。それほど大学教員の現実は酷いものなのだ。まさに「大学崩壊」という言葉がぴったりくる。塾の生徒に聞く限り、小学校や中学校、高校でもそのような意味での「崩壊」がきているらしい。「教育者」全体が<社会性のなさ>と<発達の偏り>にまみれているのかもしれない。
 これから議論は必要だ。教育者に<社会性>なし<発達>なし、という私の主張については、是非それに対する反論が出てきて欲しいと思っている。「大学教員に社会性はあるぞ」という主張をどこかの大学生がしてくれたら、とても面白い。どちらにしろ、議論はまだ始まったばかりだから。

6 事例(3)テーマ:教育者との接し方 形式:浅薄な議論

 ≪実験的な接し方≫
 小学校・中学校・高校と、私(=濱西)は「教師」と呼ばれる一群の人々を対象にして、実験を行ない、彼ら一人一人を、私なりに理解するということを繰り返してきた。
 私には、テストでいつも平均点以下の点数しかとれない苦手な教科があった。それゆえに、私は<生徒が平均点以下の点数しか取れないでいるときに、この教師がどのような対応をしてくるか>ということについては、十分理解することができていたと思う。
 しかし、偏った理解にならないように、優秀な点をとった時に教師がどのような反応をするのか、ということについても調べる必要があるかもしれない。そこで、今度は、テスト前に猛勉強して<優秀な点数をとったときに、教師がどのような反応をするか>を観察するようにした。わざと宿題を忘れたり、わざと宿題範囲を越えてより多くのことをこなしてきたりして、教師がどう反応するかを見るということした。今も大学で教員を実験している、と言うと批判を受けるかもしれないが、例えば、難解な論文をレポートとして提出して、それを担当教員がどのように評価するかについて注視したりするということである。教師を実験し、観察し、それによって教師を理解することには、大きく分けて二つの意義があるように思う。

 第一の意義は、純粋に、<目の前で自分に対して教育を行なってくれている教師一人一人について、理解を深めることができる>という意義である。例えば、「この教師は、私が、通常では考えられないような高い点数をテストでとった時に、喜んでくれた人間である」、「この教師は、逆に私がカンニングをしたのではないか、と少なくとも今回は疑った人間である」、「この先生は、宿題を忘れると悲しそうな顔をするが、私の場合は、一、二度なら許してくれる人である」、「この先生は、少なくとも今日は、消しゴムをぶつけるのはいじめだと認識しないが、牛乳をかけるといじめだと判断する人間である」「この教員は難解なレポートでも、少なくとも今回は、的確に理解し高く評価してくれた人間である」・・・というような理解を得ることが出来るのである。もうすこし具体的にいうと、まず、教師を、「教育内容」の理解の態度によって実験する。つまり、がんばってテストでよい点をとったり、あえて、わるい点をとったりすることによって、教師を実験する。そして、そのときの教師の反応をよく観察する。そうすれば、「教師」について理解することができるだろう。
 なぜ、このような個々の教師についての理解が必要であるかというと、簡単なことで、同じ行為であっても、教師一人一人、その捉え方が違い、また同じ教材・教育内容であっても、教師一人一人、その説明の仕方が、大きく異なるということが良くあるからである。実際、国語の文章などについては、様々な解釈が存在するのである。教師の提示の仕方によって、教育内容はちがった面をみせる。したがって、より正確に教育内容について学ぼうとすれば、その提示のしかたがどのようなものなのか、を知っておく必要があるとおもわれる。だが、それを知ろうとおもうと、さらに、提示する教師はどういう人なのか、ということへの理解も必要になってくるとおもわれる。本の内容を理解しようとする時に、その本の著者についての情報があれば、理解しやすくなるのと同じことなのかもしれない。
 それが達成できていないと、彼ら=教師が様々な差異を伴いつつも解釈し説明するものごとの総体的な意味がどうも上手くつかめない、良く分からない、という状況に陥ってしまう可能性が高いからである。そうなると、教師との間にギクシャクした関係が出来あがったり、無用ないざこざが発生したりする。また、教師が行なう説明を、致命的なほどに誤解してしまうことも出てくるかもしれない。せっかく良かれと思って行なわれている教育が、逆にこちらの害になるというわけである。このような不幸を回避するためには、やはり、目の前の教師達を個別に実験し、理解していくことが欠かせないように思う。
 そして、フリースクールにしろ、オールタナティヴスクールにしろ、塾にしろ、一般的な学校と同じく、教師もしくは教師的な人間が、必ず存在する。そして、やはり一人一人の教師には差異がある。だから、例え通常の学校ではなくても、教師との間で無用ないざこざが起こったりする可能性は否定できない。そう考えると、いずれの場においても、教師を実験し理解するという営みには十分に意義があると思われる。

 第二の意義は、教師の予想・期待を良い意味で超えたことが出来るようになる、ということである。そんなことは簡単だと思う人もいるかもしれないが、実はそうではないようだ。例えば、普段、勉強していない私が、いきなり目に見えて勉強し出すと、それを見た教師から「あまり無理するな、マイペースで行ったほうが長続きするぞ」「あわてずまず基本からじっくり勉強した方が良い」などという拍子抜けするような言葉をかけられたりする場合がある。何回かそういう体験をすると、身構えてしまって、なかなか冒険出来なくなる。
 教師から許しが出るまでは、マイペースで、そしてなるべく基本ばかりを勉強するようになる場合もあるだろう。ペースが遅すぎてはだめだが、かといってオーバーペースもだめだ、というように、教師が自分に期待している(と勝手に思っているだけかもしれず、別に確証はないのだが)マイペースを守ることに必死になる場合がある。例えば、普段あまり宿題をやってきていない場合は、いつもの教師の対応に慣れて、その状況をいつまでも保とうとするかもしれない。益々悪くなることはないが、良くなることもない。「定常状態」が続くわけである。「不良はいつでも不良」というような先入観は、こうして出来あがるのかもしれない。
 だが、教師を実験し、「教師がこちらに期待していることはどのようなものか」を調べようとする意思をもつと、この「定常状態」から、飛び出ていくことが出来るかもしれない。例えば、いじめっこは、教師を理解するために、いじめられっこを助ける実験を試してみる。そうすることで「いじめられっこを助けると、この教師は誉めてくれる」ということを学ぶ。また、宿題をしてこないことの多かった人は、教師を実験して、宿題をやってきたときに、「宿題をちゃんとやってくると誉めてくれる」ということを学ぶ。「私語をしないと、面白い話をしてくれる教師だ」ということを学んだ人は、わざと「私語をしない」ようにしたのである。
 もちろん、普通は逸脱とみなされる諸行為、例えば、宿題やレポートを忘れたり、友達に消しゴムを投げたり、牛乳をかけたりなどの行為をして、教師を実験する人も同時に出てくるかもしれない。だが、そのような人は、例え動機が「教師を実験するために」というものであろうと、そうではない場合と同様に、適切に処罰されるだろう。
 オールタナティヴスクールやフリースクール、塾などにおいても、教師から我々にかけられる、ある種の期待は存在するだろう。例えば、様々なフリースクールの理念は、少なくとも管理主義的な教育を否定する点においては、共通しているだろう(そのような諸理念の比較検討を詳述することはしない)。フリースクールの教師達も管理主義的な教育をフリースクールに導入するということはしないだろう。だが、フリースクールにおいて育てられた人が、自由意思によって管理主義的な教育をスクール側に求めるということもあっても良いのかもしれない。フリースクールにおける「フリースクール」の絶対化、つまりフリースクール批判を絶対に許さない状況が出来あがることを、フリースクールの教師達は望んではいないのではないか。
 だが、教師がフリースクール批判を自ら語るようなことはまずないのだから、結果として、教師を実験し理解しようとはしない人は、教師達の思いがどのようなものであれ、その<フリースクールを根本的に批判する>という選択肢を、選択肢としてさえ認知しないまま過ごして行ってしまうだろう。だが、教師を実験し、理解しようとする人は、フリースクール内おけるフリースクール批判という賢明な、しかし通常ならばかなり想起し難いであろう行為を、選択するかもしれないのである。そして、いずれ後で否定されるにせよ、とりあえずはそのような決定的な行為までもが、選択可能になっている状態こそ、「選択の自由」が保障されている状態といえるのかもしれない。
 
7 事例(4)テーマ:教育内容の受け取り方 形式:断片的意見

 ≪大学の講義の受け方≫
 「大学の講義の受け方みたいなものについてなにかご意見ございません? 」という質問に対して、ある大学生A(埼玉の大学二回生文学部)は電子メールで次のように答えてくれた。
「そうですねえ…今のところ中国文学に関するところは皆、概論や基礎知識ばかりなんです。ですから、これらに関してはすでに知っていることも教わります。しかし、知っていることと知らないことが意外な接点を持っていたりするので、聞き流すわけには行きません。ですからまあ、気が抜けないのは確かです。
 語学に関しては、中国語もドイツ語も今までに触れたことのない語学ですので、やはり真面目に受けています。しかし、中国語の方が今後の研究等において絶対不可欠のものなので、真剣さは圧倒的にこっちの授業の方が勝っています。まあ、単にこっちの方が好きだから、というのも理由の一つに挙がりますが…。で、ほかの科目。学芸員に必要な授業とか、単位合わせに取ったものとかは…知っての通り、ほとんど真剣に受けていません。一応授業を上手に進められる先生の時はきちんと話を聞き、ノートも取っていますし、そこそこ面白いと感じています。が…それ以外はもう全然話を聞いていない状態です。まあ、ほかの授業のノート整理をしたり、落書きをしたり。…うう、先生すみません…なあんてことは全く考えておりません。
 まあ、真剣にならざるを得ないところは真剣に、それ以外では十分にたるませて、という感じでしょうか。…こう書くとなんだかありきたりなことを言っているようですが、…どうでしょうか。今のところ基本的な部分で教授の意見に異を唱えることはありません。単に「わからないから」というのもそうなんですが、かないっこない、というのも理由の内ですね…。」
という。別の大学生B(大阪の大学一年生社会福祉学部)に直接、インタビューしたところ、大学の講義の受け方については「ほとんどわからないまま進んでいっている」と言う。予習は専門科目のゼミ発表のときだけ行ない、復習は「中国語」だけをするというのが現状だということだ。

 また、この二人の大学生に「大学の講義中に、教員に、手を挙げて疑問・質問を言うようにしていますか?」と質問をした。すると、その大学生Aは、
「いやあ、「言いたいなあ」と思っても言ったためしはないですね。小心者と言うか、根性無しと言うか…。何が嫌って、まず第一に「挙手した時の皆の反応」です。つぎに「質問に対する皆の冷ややかな反応」、そして「『すみませんねえ、こんなつまらない事質問して…』と恐縮して卑屈になってしまう自分の姿」、「『質問魔』という、その後の皆の見る目」などが嫌ですね。要するに、他人の見る目、反応、そしてそれに対する自分の姿勢が嫌なんですね。普段はそうでもないんですが、なぜか教室だとこれがものすごく気になります。まあ、コンプレックスなんでしょうかね。けっこう器の小さい人間なんです。いや、皆がそんな見方ばかりしているはずがない、とも思います。が…それでも体が拒否するんですね。そういう、「もしかしたら」という思いが働いて。それでも、大学という新しい環境では、人目を気にせずに手を挙げられれば良いと思います。こわがっちゃいけないなぁ、と。」
と答える。同じく大学生Bは、「中国語」の講義の時間だけ質問をすると言う。というのも他の講義は、とても質問できる雰囲気ではなく、逆に「中国語」の講義は、全体がザワザワしており、また発音の仕方などは、推測不可能なものもあり聞くしかない、ということだ。

 また、大学生Aに「大学の講義をサボった」ということを聞いて、Aにその理由を尋ねたところ、
「そうですね。非常に突発的なものでした。ドイツ語の授業が終わりに近づいていたときに、「次の時間サボりたいなぁ…」からすぐに「サボろう」に。サボってドイツ語のノートを作りたかったんですね。(結局作らなかったけれど)ためらいもありました。何しろはじめての「サボり」だし、同じ授業に出る、ある友人に返さなければならない物があったからです。でもサボりました。それほどその授業(教育学関係)はつまらなかったからです。いや、つまらない以上に、自分とって無意味以外の何物でもない授業ですから。しかも四時限目(五時終了)にある、というのも大きな要因です。他の日でこの時間まであるのは水曜日だけです。しかし二?四時の三時限しかありません。火曜日の授業は一?四限まできっちり詰まっているんですね。昨日は心身ともに相当疲れていたので、もうイヤになっていたんです。あの時点で教授のだらだらした話を聞くのは耐えられなかったのです。高校生の後半は、たまにサボることがありました。ノートを取る必要のない倫理や、もうすでに「捨てて」いた数学の授業を、どっちも先生が怒らなかったので、たまにぽーんと投げて図書館の先生と話をしたりしていました。そうするとずいぶん楽になったものです。次の授業に出る意欲も湧いてきました。でも昨日はちっとも楽しくなかったです。なんだかなあ、やれやれ。」
という思いを吐露してくれた。同様に大学生Bは、イヤな授業はサボるという。出席を採らない授業などはまずほとんどサボる(初回しかでていない講義もあるという)。友達と一緒にサボったときは、話をしたりして時間をつぶすという。
 以上、「大学の講義の受け方」、「質問の仕方」、「講義のサボり方」などのテーマに関わる意見を紹介した。

8 事例(5)テーマ:教育内容の受け取り方 形式:独善的提案

 ≪社会調査実習の受け方≫
 ある教育者は、教育内容(情報や知識、技術、様々な思い)を、口頭や文章で明示的に提示してきているように思われる。そのようなとき、学習者の中には、「こちらの利益をおもってのことだろうから」と思い、それらの教育内容の多くをそのまま信じるひともいるだろう。もちろん、中にはそう簡単に信じないひといるだろう。ほとんどすべてを疑う人もいるとおもわれる。もう一段深く考えると、「信じている」ふりをしたり、「疑っている」ふりをしたりする、そういうこともあるだろう。
 また、教育すべき情報や知識、技術などを具体的には明示しない教育者もいるだろう。その場合でも、教育者がこちらにどういうことを期待しているのか、ということは推測可能である。期待の内容は、教育者が学習者に対してとる態度などによって、学習者の側にやわらかに伝達されてくる。伝達者が教育者である以上は、その期待は教育される内容の一つになるかもしれない。その「期待」(教育内容の一種)をどのように受け取れば良いのか、ということについて考える。

 「社会調査実習」 を例に挙げて、まず大学教員の「期待」の具体的な内容の事例を示す。そしてその「期待」に沿うための方法も提示する。「社会調査実習」とは、「社会学」の講義(大阪府立大学総合科学部人間科学科)の一環として行なわれる、アンケートやインタビューを用いて学生に村落調査をおこなわせる授業である。『社会学教室の歩み』という大学教員編集の冊子を参照すると、「社会調査実習」は、夏休みを利用し、4泊5日の日程で村落調査をおこなうのが通例となっている。その『社会学教室の歩み』には、「それ(社会調査実習のこと:濱西注)は参加した学生たちの実証研究の訓練に寄与したばかりでなく、かれらの行動力や現実を直視する批判精神を育てるのにも意義があった」と書かれている。さらに、「学生は取り組みたい研究テーマを、自分の個性にあったスタイルで取り組んだ」とされる。
 ここに、社会学教室の(現在の)教員の価値観がうまく投影されている。教員が、学生に期待していることは、
(1)よりよい実証研究ができるようになることと、
(2)行動力をつけること、
(3)現実を直視する批判精神をもつようにすること、
である。教員は、学生に教育すべき内容を正面から説こうとすることは少なかった。個人の自主性にまかせるところが多かったからである。しかし、教員は、上記のような期待を学生にかけている。
 もちろん、学生は、このような期待をまったく無視することも出来る。だが、もしも期待にできるだけ添おうとするならば、上記の三つの内容ができるようになっていなくてはいけない。あるいは、それらのことができるフリをしなくてはいけない。もう少し具体的に言おう。
(1)については、例えば、すでに先行研究として発表されている論文を参照して、その再検証を行おうとすれば、それでクリアー出来るかもしれない。
(2)については、例えば、調査前には、積極的に教員の部屋を訪れたり、調査地においては、なるべく広範囲にわたってインタビューやアンケートをおこなうこと(時には、教員の運転する車を利用して)などである。
(3)については、直視すべき「現実」に、社会調査実習という授業自体も含まれるのだということをまず考えたほうが良いかもしれない。その上で、批判精神というときの、「批判」は批評criticismであるということももちろん考えたほうが良い。批評とは、たとえば、文学作品を対象とする場合には、その作品の弁護、ジャンルによる分類と定義、意味解釈、構造と文体の分析、価値評価と妥当性の判断、評価と判断のための一般原則の確定などを行なうことなのであって、非論理的に感情的に文句を言うことではないのである。そう考えると、自分が批判精神を持っているということを、もっとも効果的にアピールするのは、<社会調査実習自体の価値・意義を、分析し、問いなおすこと>の必要性を、教員に提案することだと推測できる。
 筆者は、実際、上記の三つの方法を実施し、教員から高い評価を得ることが出来ている。もちろん、その期待にあえて沿わない人もいるだろう。いろいろな「受け取り方」がありうる。

9 事例(6)テーマ:教育内容の受け取り方 形式:浅薄な議論

 ≪ホリスティックな教育の受け方≫
 私は、1999・2000年に、「ホリスティック教育」に関して開かれた研究会に出席した。はじめて会に参加したときに、思ったことは、「ホリスティック教育についての説明をきくことは、教えるときには役にたつ。だが、どれほど聞いても学ぶとき・教えられるときには役にたたない」ということであった。
 ちょうど筆者は、大学教員や親、先輩、上司などとどう接すれば良いか、彼らのいろいろな言葉をどう受け取れば良いか分からず悩んでいたところであった。ホリスティック教育論の研究会に参加した動機は、もしかしたらその場で、なにか参考になる意見・提案・議論が聞けるかもしれないと思ったことにある。「ホリスティック教育論は、その幅広い包括性を謳い文句にしている節がある」と筆者が勝手に思っていたのである。だが、「ホリスティック教育論」は役にたたない。実際に参加してみてわかったことは、「ホリスティック教育論」は、私が悩んでいたことに何ら直接的に役にたつものではなかったのである。それは方向性が根本的に限定された理論であった。
 重要なことは、ホリスティック教育論それ自体に矛盾や欺瞞がある、ということではないことである。それが教育するときに、知っておくとあるいは実践すると、役にたちうる教育論であることは恐らく間違いない。だが、ひとたび学習するときの自分自身を意識してみると、ホリスティック教育論は根本的に役にたたないのである。内容の問題ではなく、根本的な方向性の問題なのである。

 そして、二回目の参加のときも、わたしはほとんど同じことを思ったのである。それでも、前回と違って、学ぶとき・教えられるときにも役立つかもしれない内容の説明が二つあった。
(1)「ホリスティック」という思想そのものについての説明は役にたつと思われる。というのも、<ホリスティックな学びかた>、<ホリスティックな教育の受けかた>というものも存在しうるだろうからだ。
(2)また、「ホリスティック教育」において前提とされている「学習者像」、そしてホリスティック教育がめざす学習者像、学習者の「理想像」が説明されたことも、今後、役にたつときがあると思われる。なぜなら、「ホリスティック教育」という教育を受けるときが存在しうるだろうからだ。「学習者像」、「理想像」を知っておくと、教育を受けやすくなるだろう。
 だが、(2)については「ホリスティック教育」が行なわれなければ、ほとんど無意味である。また(1)は「ホリスティック」思想そのものに関する話しであるから、「ホリスティック教育」そのものが、学習者に直接役にたつものであるとは言い難いのである。

10 まとめ 

 本論文では、
 <どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>
というテーマに関する意見・提案・議論を二つのテーマと三つの形式に分けて、合計六つ提示した。もう一度、具体的な内容とともに整理しておく。

(1)テーマ:教育者との接し方 形式:断片的意見・・・≪誤った教育者との接し方≫
(2)テーマ:教育者との接し方 形式:独善的提案・・・≪大学教員の社会化と発達をサポートする接し方≫
(3)テーマ:教育者との接し方 形式:浅薄な議論・・・≪実験的な接し方≫
(4)テーマ:教育内容の受け取り方 形式:断片的意見・・・≪大学講義の受け方≫
(5)テーマ:教育内容の受け取り方 形式:独善的提案・・・≪社会調査実習の受け方≫
(6)テーマ:教育内容の受け取り方 形式:浅薄な議論・・・≪ホリスティックな教育の受け方≫

 繰り返しになるが、これらの意見・提案・議論の内容の是非を直接問うことが本論文の目的ではない。もちろん、それら一つ一つの内容の検証は必要だ。また本論文においては未紹介の、他の意見・提案・議論の内容の紹介と検証なども、これから行なわれてしかるべきだと思う。それは筆者のこれからの課題であるし、われわれの課題でもある。これから<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論が盛りあがっていくための「議論の叩き台」を提供したこと、それが本論文の意義だと筆者は考えている。

 そして、それらの意見・提案・議論を専門的に分析し、点と点を連結させ、さらに展開させていくという役目をその内に含むのは、恐らく「教育学」という学問ではない。教育学が、専門的な教育論であるとすれば、そもそも教育論と根本的な方向性を異にする意見・提案・議論を、その内に含むことはできないだろう(4)。
 たとえ、どれほど<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論を分析し、吟味したとしても、根本的な議論の方向性が異なるがゆえに、それは<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマについて考えるときには、直接的には、役にたたないままである。
 仮に、<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマについての意見・提案・議論全体を、広義の「教育論」(<教育を行うとき(5)に直接役にたつ意見・提案・議論全体>を指して用いている)に含め、それとは根本的に方向性を違える<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論をそのうちに含むものとして<学習論>という言葉を使用することも良いかもしれない(6)。
 そうすると、広義の「教育論」を専門的におこなうのが「教育学」である、という整理が可能であるのと同様に、<学習論>を専門的におこなうものとしての新たな学問、すなわち「学習学」が構想可能であることがみえてくるからである。

 すでに<どのようにすれば学習者に知識・情報・技術・様々な思いをより良く提示することが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論と、<どのようにすれば教育者から知識・情報・技術・様々な思いをより良く受け取ることが出来るのか>というテーマに関する意見・提案・議論について考えてきたが、その議論を拡大することができるかもしれない。つまり、前者を含む「教育論」と、後者を含む<学習論>についても同じことが言えるかもしれないのである。
 もしも言えるとすれば、
(1)現在、頻繁になされているのは、様々な質のレベルはあれど、「教育論」であって<学習論>ではないということ
(2)その原因として、あるいは結果として、「教育論」が頻繁になされることによる「錯覚」、つまり人々の間ですでに教育や学習にまつわるほとんど全ての事柄が論じられているように思いこんでしまうことがおこっているかもしれないということ
(3)<学習論>の存在可能性が「隠蔽」されてしまっているかもしれないということ。さらに<学習論>がいつのまにか「教育論」に「変換」されてしまっているかもしれないということが同様におこっているかもしれないということ
(4)そして、現状を作り出しているのがそのような「錯覚」「隠蔽」「変換」のサイクルであるとすれば、その現状を変革しうるのは質の低い<学習論>の「散乱」であるということ
 これらのことが言えるはずである。そして、それらの質の低い<学習論>と、質の高い<学習論>を両方含むものとして、「学習学」を構想することも可能なのである(7)。

 それぞれが<学習するとき・教育を受けるとき>の立場から様々に意見交換・情報交換をしながら一緒に考えていく、このようなネットワークを筆者はいま構築しているところである。筆者個人の活動としては、いまのところ4つある。まず、
(1)学校教師や、生徒、大学生、親、他の社会人に、<学習論>についてインタビューすること(8)
(2)教育学における、さまざまな研究成果をうまく「反転」させて、学習学に導入すること(9)
(3)<学習論>を交換しあえる場を、インターネット上の掲示板や研究会のかたちで設けること(10)
(4)学習論に関するインタビューや意見交換の結果をまとめ、学習学の機関紙としてかたちにしていくことなどである。
 

*これらの成果は、随時、筆者の個人ホームページに掲載している。ぜひ参照していただきたい。アドレスは次のようである。 http://www1.odn.ne.jp/~cbt25360/
 

【注】

(1)患者団体や消費者団体が一方的におこなう啓蒙活動は存在する。曰く「医者とはこうつきあえ」「おしかけてくる営業マンにはこう応対せよ」など。
(2)たとえば、「看護士[医者、介護士]とどのように接すれば良いのか」、「彼らの言うことをどのように受け取ればよいのか」という議論は非常に重要であるから、別の機会にきちんと紹介するつもりである。それは「看護[医療、介護]はどうあるべきか」という看護[医療、介護]倫理についての議論とは根本的に方向が異なる。言うなれば「患者倫理」というものを内に含むものである。
 別のレベルの議論として、「様々な制度・主義・運動とどのように接すれば良いか」というテーマに関する議論も存在しうる。もちろん、様々な制度を運営したり、主義・運動を行なったりする側に立って行なう議論ではなく、制度があてはめられる側、主義・運動が広められる側に立って行なう議論である。
 「議論」の客観的な形態には以下の三つがあるように思う。すなわち、(1)枠組みに自分自身を含めない議論(2)枠組みに自分自身を含める議論(3)自分自身を軸に転回させ続ける議論である。そしてそれぞれの形態によって、「議論」は根底的に方向付けられているように思う。すなわち、(1)自分自身の思惑は無視する(2)自分自身がされていやなことはしないで、自主的にそれをどう制限するか(3)されている側に身を置いてそういう(良い/悪い、好きな/嫌な、という区別はおいて)ことをしてくることにどう対応するか、というようにである。「議論」は、すこし前まで、(1)の形態・方向性においてなされるのが一般的であったかもしれない。最近になって、(2)の形態・方向性の「議論」もなされるようになってきているようだ。だが、(3)の形態・方向性の「議論」は、まだそれほどなされていないように思う。言うまでもなく本論文で紹介する意見・提案・議論は、(3)の形態・方向性であろうとするものである。
(3)「掲示板」のアドレスはhttp://www63.tcup.com/6325/eijiviolin.htmlである。ただし、本論文で紹介した「掲示板」への書きこみは別のページに保存してある。そのページのアドレスはつぎのようである。http://www1.odn.ne.jp/~cbt25360/kakorogugakusyuugakunetto.htm
(4)筆者は、「自己言及的な教育‐教師学習・行為・ルール」(『現代文明学研究』第2号(1999):107-120)を書いた時点においては、それが「教育学」の範疇においてもある程度、可能であると考えていた。だが、「教師学習」(本論文の五節においても、それを「教育者との接し方」の側面を強調した形で紹介している)を取り上げても、それを結局は「教師学習教育」として理論化せざるを得なかった。その時点で、「教師学習」という学習のあり方は、教育される「対象」になってしまっている。学習についての意見・提案・議論であるのに、教育論に吸収してしまうのである。そこでは、「学習するとき」・「教育を受けるとき」に役にたつ筈のさまざまな意見・提案・議論が、「教育<する>とき」に、役立つものにいつのまにか変換されてしまうのである。教育学のなかに、「学習学教育」ができてしまう可能性はある。だが、そのとき、学習学のなかでは、その「学習学教育」への対応の仕方を考えていく議論がおこっていくであろう。 
(5)試作段階で「自分が行う行為そのものが自分の行為である保障はどこにあるのか?学習という行為自体も果たして存在するのか?」というようなご意見を頂いた。だが、「学習するとき」というのは、<ある人が学習している・教育を受けていると思うとき>のことである。徹頭徹尾、その人自身の解釈によることである。であるから、「学習状況が、学習という行為が、存在するか否か」という判断が客観的には不可能であるか否か、ということは直接、関係がない。「教育するとき」と「学習するとき」という区別は、どれほど恣意的な区別であれ、個人個人の心の中では厳密に成り立つのであり、そのことを大前提としている。
(6)<学習論>と言っても、いわゆる「学習論」や「学習理論」ではまったくない。一般に「学習論」「学習理論」と呼ばれているものは、「学習」を対象として議論している。だが、本論文で言うところの<学習論>とは、「学習」を対象として議論するものではない。むしろ、そこでは「学習」は、意見の所有者や議論の主体にとっては、自分がおこなう行為であり、「対象化」の行為そのもの、あるいはそのための「道具」である。
(7)「学習学」の必要性についての筆者の個人的見解も述べる。念の為に言っておくが、「学習学」に他のスタンスから関わっていく人もいるはずだ。筆者の見解が、そのまま「学習学」の前提・土台ではない。そのことは何度も念を押しておきたい。
 筆者は「学習学」を構想するにあたって、「教育」と「学習」について、以下のような捉え方をした。すなわち、「教育は、根本的に<暴力>であり、学習も<暴力>である」というものである。
<1>まず、前半部分について触れる。教育は根本的に<暴力>である。
 「教育」は、学習者や教育内容へのある種の「観察・実験」を欠いては成り立たない。そして、その「観察・実験」が、<暴力>なのである。というのも、自分の情報や知識、技術、様々な思いなどを、相手に伝達できているか否かを判断することはできないのに、伝達できるかもしれないと考えて、おこなわれる「観察・実験」だからである。
 その<暴力>性は根本的なレベルにおけるものであり、それを防ぐことはできない。教育・あるいは教育的な営みは不可避に存在する。そして、その教育が根本的に<暴力>なのである。
 そして様々な教育論は、その<暴力>を隠蔽したり、容認したり、制限したりする機能を果たしている。しかしながら、隠蔽や容認の機能は言うまでもないとして、教育の<暴力>性を制限する教育論、制限するように訴える教育論がたとえ存在したとしても、教育(的なものも含む)全般を禁止するという意見はまったくといって良いほどない。それは不可能だからだ。
 たとえば、教育が教育者から学習者に対してなされるものである以上、<教育者は学習者とどう接するか・どう接すれば良いか>というテーマは、「接する」という言葉を広くとれば、教育論における中心テーマの一つであろう。もちろん、そのテーマについての議論は従来幅広くなされてきたし、今でもなされているにちがいない。だが、<教育者が学習者と接する>ことそれ自体を禁止することを主張するような教育論はまったくないに違いない。
 そのようにほとんど絶対といっても良いような偏りを内包しつつ、なされていく教育論自体が、教育の<暴力>性を、根源的なレベルで支えている。
 もちろん、<教育者が学習者と接する>ことはなくならないし、そのことに関する議論がなくなることもない。なくす必要もない。「なくす議論」でもなく、「改善する議論」でもない、それでいて教育(論)の<暴力>性に何らかの対処を行いうる、そのような議論は存在しうるのであろうか。
<2>ここで、後半部分に目をやる。学習も、根本的に<暴力>である。
 「学習」は、教育者や学習内容へのある種の「観察・実験」を欠いては成り立たない。そして、そのような「観察・実験」も、<暴力>なのである。この「学習」の<暴力>性は根本的なレベルにおけるものであり、それを防ぐことは出来ない。だが、ほとんど当然のことながら、「そのような学習全般を禁止せよ」、という議論は聞いたことがない。学習・あるいは学習的な営みも、やはり<暴力>性を担ったまま不可避に存在している。
 たとえば、本論文においては、<学習者は教育者とどう接するか・どう接すれば良いか>というテーマについて、いくつかの意見と事例を紹介した。
 更には、「教育者が誤った時に、学習者はその教育者とどう接するか・接すれば良いか」という具体的状況を設定した。このようなテーマと状況の設定は、ほとんど<暴力>的である。<接すること>をなくすことはできない。ただ、「接し方」の記述と改善だけが残されている。そのような設定でおこなわれる意見交換・議論は、<暴力>的である。
 では、なぜ本論文においては、そのような<暴力>的な議論をおこなったのか。それは、<暴力>を「中和」するためにである。学習(論)の<暴力>と、教育(論)の<暴力>とを「衝突」させ、もって、両者の<暴力>を「中和」するのである。
 「中和」は、「相互批判」とは違う。
 「学習学」は、「教育学」に対抗する。だが「学習学」は、教育学を批判するものではない。そのような批判は、結局のところ、教育学の発展に利するのみだからである。
 「学習学」は、教育学を批判せず、それをそのままにしておく。そのままにしておいて、隠れたところで、密かにあらたな学問を打ちたてるのである。それが「学習学」である。
 「学習学」は教育学と関わりがなくとも発展していく。やがて「学習学」の勢力が、教育学にとって無視できないものとなれば、そのとき、教育学と「学習学」は新たな局面を迎えるに違いない。そのとき、改めて教育の根本的な<暴力>性は明らかになるに違いない。そして教育・教育論・教育学は、根本的に動揺していくであろう。いずれ、このような個人的見解を整理し、理論として展開するつもりである。
(8)学習論インタビューの1つは、すでにネット上で公開している。そのアドレスは以下のようである。http://www1.odn.ne.jp/~cbt25360/interviewgakusyuugaku.htm
(9)たとえば、教育論のテキストの文章を、「学習者」→「我々」、「学習」→「我々の活動」、「教育者」→「彼ら」、「教育」「教授」「教え」→「彼らの活動」というように変換するという試みも行なっている。
(10)学習論を自由におこなえる掲示板「学習学ネットワークの掲示板」を筆者の個人HPに設けている。アドレスは、以下のようである。http://www63.tcup.com/6325/eijiviolin.html
 

【参考文献】

元木健・諸岡和房編著 『生涯教育の構想と展開』1984 第一法規出版
澤田善太郎・宮脇幸生編著 『社会学教室の歩み』1996 大阪府立大学社会学教室
濱西栄司 「自己言及的な教育‐教師学習・行為・ルール」『現代文明学研究』第2号 1999 
  現代文明学研究編集委員会
 

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