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現代文明学研究:第4号(2001):264-296
自己決定権論争の脱構築
―脳死・臓器移植問題を中心として―
萩原優騎



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序 これまでの経緯と本稿の構成

 脳死・臓器移植の問題に関して、これまでに私は二つの論文を発表した。一つは、「自己決定権と画一的医療 臓器移植法改正問題をめぐって」[萩原2000a]であり、もう一つは、「脳死・臓器移植の論理と倫理 現代医療と自己決定権の裂け目を読む」[萩原2000b]である。その後、これらの要旨に新たな論点を加えたものを、国際基督教大学教養学部卒業論文に収めた。そこでの検討内容や、これらと並行して、森岡正博「生命学」ホームページ掲示板にて2000年より積み重ねてきた議論が、本稿における記述の一部の下敷きとなっている。
 本稿の主題とは、身体に関する自己決定権であり、この問題をめぐって様々な論争が展開されてきたが、これまで見逃されてきたと思われる点も少なくない。それらを露呈させることで、論争そのものを脱構築することが、本稿の課題である。はじめに、「脳死は人の死か」という問いが、本当に適切であるかどうかを吟味する。次に、自己決定権が語られる前提にある、近代的な所有論の問題点を明らかにし、その作業を経て、そうした従来の論理に依拠しない自己決定の在り方を模索する(1)。続いて、脳死・臓器移植が行われる場面での自己決定の問題を、特に臓器移植法との関連で検討する。そして、既存の生命倫理学に基づく画一的な基準の暴力性に抗して、「参照枠としての倫理学」の、生命倫理学の領域における可能性を問う(2)。

第1章 「脳死は人の死か」とは問えない!

  自己決定権に関する議論に入る前に、その前提として、どうしても確認しておかなければならないことがある。これまで脳死と臓器移植の問題をめぐって、「脳死は人の死か」という問いが、あらゆる機会に発せられてきた。脳死を積極的に肯定する人々も、逆に全面的に否定する人々も、そしてそうした意見の対立を論じるメディアや研究者も、ほとんどがこの図式を自明のものとしてきた。ところが、このような問いの立て方自体が間違っている(1)。確かに従来も、「脳死は人の死か」という問いそのものに対しての疑問が提示されてこなかったわけではない。しかし、その大半が不十分なままに終わっている。ここでは、この問題を更に厳密に検討するだけでなく、そういった従来の議論において混同されてきた部分を解きほぐし、脳死問題に関する論争の基盤そのものを脱構築する。
  通常、「脳死は人の死か」という問いで想定されているのは、言うまでもなく、「脳死」なるものが「人の死」に等しいか、というものである。その点に関する第一の批判は、加藤尚武によるものである。「脳死は人の死か」という問いでは、測定方法としての脳死と、実体的定義としての死という、次元の異なるものが比較されていると、加藤は批判する[加藤1999:58]。第二の批判としては、森岡正博によるものを挙げておきたい。脳死や心臓死のように、科学的描写によって代置可能な「科学的事実としての死」、人間の死とは哲学的に何かという「哲学的レベルの死」、そして法的に見た個体死という「法的レベルの死」、以上の三つのレベルから死の問題は成り立っていると、森岡は説明する[森岡1988:191-192]。しかし、これらの問題設定を、そのまま受け入れることはできない。そこで、何を受け入れられないのかということを説明するために、私の見解を先に述べることにしたい。
  まず、脳や心臓の機能停止というのは、一つの生理学的状態である。つまり、身体がそのような状態になったということを記述しているのであり、そこには「死」なるものは一切現れることがない。これを、死の到来に関する「科学的判定基準」と名づける。そして、更に厳密に言えば、科学的判定基準としての、脳や心臓の機能停止を判定するための判定基準が存在する。「脳死であれば、(a)死―(b)脳死状態(死の判定基準)―(c)脳死判定基準(脳死状態の判定基準)、心臓死であれば、(a)'死―(b)'心臓死状態(死の判定基準)―(c)'三徴候(心臓死状態の判定基準)といったように、死は三層の構造をめぐっており、したがって、(a)と(b)、(a)'と(b)'などはそもそも同次元において比較不能なものなのである」[小松1996:72]。例えば、瞳孔散大、脳幹反射の消失、脳波の平坦化、こういった諸現象が確認できる場合に、その状態を、脳の機能停止が成立する「脳死状態」としてきたのであり、このような諸現象と状態との対応関係は、心臓死の場合も同様である。
  次に、患者が「意識を回復しない」、「蘇らない」という周囲の人々による認識は、「死」そのものではない。それらの認識において、人々は患者に「死」が到来したのだと判定するのである。こうした認識を、「哲学的判定基準」と呼ぶことにする。ここまでで既に明らかなように、科学的判定基準と哲学的判定基準という二つの判定基準は、生から死への移行の判定に用いられるものであり、「死」そのものとは異なる。すると、「死」という言葉が意味しているのは、一体何なのだろうか。それは、我々人間の知覚的、言語的経験の範疇になく、上記の判定基準を用いることで、患者にそれが到来したということを、周囲の人々によって判定されるものなのである。このような「死」を、ここでは「概念としての死」と表記する。したがって、科学的判定基準は知覚的な、哲学的判定基準は思考的な認識であるのに対し、概念としての死は、それ自体は規定や認識が不可能であると言える。この質的な差異に注目するならば、「脳死は人の死か」という問いが成り立たないことは明らかであろう。
  この考察に基づいて、加藤と森岡の主張の問題点を見てみたい。加藤は、私の表現では「概念としての死」に相当するものを、「実体的定義としての死」と表現している。「『脳死』という言葉にも、実体的定義と測定方法という二つの意味がある。・・・・・・実体的定義としての『死』とは、『精神と生命の座である脳の機能がよみがえらないこと』である」[加藤1999:58]。これは、[萩原2000a]での見解を、[萩原2000b]にて修正した際に触れていない点なので、ここで論じておきたい。加藤の誤りは、「実体的定義としての死」を、「蘇らないこと」と定義している点である。つまり、「蘇らない」という「哲学的判定基準」と、「概念としての死」を彼は混同している。更には、「実体的定義」としての「脳死」なるものも認めている点で、二重の誤りであると言えよう。脳の機能が蘇らないという表現が意味しているのは、脳の機能停止に等しいのであり、これは科学的判定基準である。医療関係者が通常、脳死の「定義」としている全脳死、脳幹死、器質死といったものも、こういった判定基準を指しているのであって、それらは概念としての死に関する「定義」ではない。そして、脳が精神と生命の座であると考えることは、後述するように、科学的判定基準と哲学的判定基準、この二つの判定基準の間での対応関係を指しているのであり、ここで概念としての死が扱われているのではない。
  森岡は、私の表現では「科学的判定基準」に当たるものに関して、「科学的描写によって代置可能」としていることは正しいが、それを「科学的事実としての死」と呼んでいることに問題がある。前述のように、「科学的事実」においては、「死」なるものは全く現れないので、このような表現は、不要な混乱を招きかねない(2)。森岡の主張における第二の問題点は、「哲学的レベルの死」の定義にある。ここでは、人々によって「人間の死」と考えられ得るものとして、魂の肉体からの離脱、意識の消滅、臓器あるいはその複合体の機能停止、生き生きとした状態の喪失、社会性の喪失といった項目が挙げられている[森岡1988:193-194]。しかし、臓器あるいはその複合体の機能停止は科学的判定基準であり、森岡が挙げているもののうちそれ以外は、全て哲学的判定基準であって、どれも「死」そのものではない。第三に、森岡の言う「法的レベルの死」とは、判定基準によって概念としての死の到来を判定する場合に、そこで用いられる判定基準を合法化するということであり、合法化という行為は、判定基準と概念としての死の対応関係そのものとは無関係である。どのような判定基準を用いても、そしてその行為を合法化しても、そこで判定される概念としての死は変わらないのであり、「死」なるものに複数のレベルを設定することはできない。
 科学的判定基準をめぐる様々な論争においても、問題点の整理が不十分なままに議論がなされてきた。科学的判定基準としての脳死を認めないと主張する立場は、なぜ心臓死という科学的判定基準を認めるのだろうか。心臓死という科学的判定基準に基づいて死の到来が判定されるのは、そうした徴候が現れて以降は、患者が「意識を回復しない」、「蘇らない」という了解が存在するからなのであり、この哲学的判定基準としての了解自体は、脳死を科学的判定基準として採用する場合にも同様である。そして、諸徴候の確認が不十分なままに死体と判定される危険性は、脳死だけでなく心臓死にもある。それゆえ、脳死を科学的判定基準として採用すると、まだ生きているのに誤って死の到来が判定されるというだけでは、脳死反対派の主張は不十分であろう。問題は、現在用いられている脳死状態に関する判定基準が、脳の機能が完全に停止し、その機能が回復することのない点を、本当に正確に判定できているかどうかということなのであり、このことは、判定が遂行される場面での処置の正確さとは別の問題である(3)。「意識を回復しない」という哲学的判定基準は、脳の機能停止という科学的判定基準との対応関係として捉えられるべきものであり、「意識を回復しない点」という科学的判定基準が存在するのではない。
 脳死という科学的判定基準に関しては、美馬達哉の見解を見ておきたい。「医師による判定(診断)を抜きにして『脳死』自体は存在しない。厳密にいって、『脳死』判定以前に存在するのは、『見たところ意識障害のように思える人間』なのであって、『脳死』状態でも医学的な『重度の脳障害』でもない。・・・・・・医療の場という特定の状況のなかで使用されてはじめて『脳死』という用語は意味をもち、『脳死』判定という行為が遂行されることが可能となる」[美馬1998:140]。諸現象の確認をもって「脳死状態」を判定するという行為は、科学的・医学的な知見という文脈に依存することで成立する。例えば、ある患者が脳死状態であると判定された場合に、脳死に関する知識を持たない子供が患者の身内にいたとすると、その子供が見ているのは「脳死状態」の患者ではなく、「意識のない」患者なのであり、特に幼い子供であれば、「いつものようには元気でない」患者の姿なのである。このような認識の多様性を、単に素人の無知として切り捨ててしまってよいのだろうか。脳死や心臓死といったものは、あくまでも死の到来に関する「判定基準」なのであり、「死」そのものではない。上記のような「素人の判断」を無視し、判定基準を「死」と同一視することは、患者の「死」を看取る家族の思いを踏みにじることに等しい。また、判定基準についての理解がなされている場合でも、そこで判定基準として何を選ぶかは、各々の死生観によって異なる。それゆえ、「脳死は人の死であると法的に定義し、その拒否権を認めない」という臓器移植法改正案は、判定基準と概念としての死を混同しているという点と、判定基準として脳死以外の選択をすることを認めないという点で、法的な画一化の暴力の極みなのである。
  それでも科学者や医学者は、脳死は個人の認識とは無関係な、客観的な現象だと主張するかもしれない。しかし、そうした認識から独立した客観性が、本当に存在するのだろうか。例えば、心臓死状態は、その判定に用いられる基準が、呼吸や心臓の鼓動の停止といった、我々が直接的に知覚可能なものであるため、大抵の人々が受け入れやすい。それに対し、脳死状態を判定する基準の一つである脳波の平坦化などに関しては、医療器具によって得られたデータの観察に基づいて、脳波の測定という行為が成立する。すなわち、ここで得られたデータが、脳波に関する理論と結びつくことで、はじめて脳波という科学的・医学的「事実」が「構成」されることになる。これは、科学的事実の理論負荷性という、科学哲学の領域における議論そのものである。我々が通常、「客観的」という言葉を用いるのは、主観的な知覚からは独立した科学的真理が存在すると考えるからであろう。ところが、脳波に関するデータを測定によって得ること自体が、一定の理論を前提としていると共に、そのデータを観察し分析するという行為は、知覚に依拠している(4)。実際には、多くの人々によって共通の認識を得られたもの、つまり「間主観的」であるものが、「客観的」であると見なされているのであり、「脳死状態」が「客観的」であり得るのも、この意味においてであると言えよう。「脳死状態」とは、医療関係者によってなされる、患者の身体に対する観察行為が理論と結びつくことで「構成」される、理論負荷的なものなのである(5)。
  先程引用した美馬の主張を、その不十分な点も補いつつ考察すると、以上のようになる。ただし、そこから美馬が、次の結論を出すことには賛成できない。「『脳死』が意味のネットワークのなかではじめて意味作用をもつとすれば、『死』そのものについても同じことが当てはまるのではないか。『死』もまた、誰かに判定されることによってはじめて『死』となる以上は、形式的にみて、この『脳死』と『死』の間には何の優劣の差もない。ただ違いがあるとすれば、『脳死』とは異なり、『死』はすでに慣習として受け入れられているにすぎないだけだ」[美馬1998:154]。「死」という言葉の意味が、特定の言語を共有する共同体の慣習と不可分に成立していることは確かである。しかし、ここで注意すべきなのは、「脳死」はそれが「死」と同じく文脈依存的なものであったとしても、判定基準でしかないということであろう。つまり、概念としての死が慣習として受け入れられることと、脳死という科学的判定基準が慣習として受け入れられることでは、次元が異なるのであり、それらを比較すること自体が誤りなのである。
 「脳死は人の死か」という問いの問題点について、私がここまでこだわって論じてきたことには、大きな理由がある。それは、この問いにおいて、脳死や心臓死といった科学的判定基準が、概念としての死に等しいものと見なされることへの危機感にほかならない。もし人間の「死」が、脳や心臓といった臓器の機能停止に等しいならば、死後の患者の身体は「物」なのであり、そこから臓器を搾取する自由があるという発想が出てくるかもしれない(6)。ここには、生命や意識といった、哲学的判定基準も除外されている。だから、臓器の提供に関する、本人による事前の意思表明などといったものは、考慮の対象にもならなくなる。そして、患者が死を迎える場面において、死を看取る患者の家族など周囲の人々との関係性が、医療関係者には無視され、いち早く臓器を摘出することが目指されるであろう。「脳死は人の死であると法的に定義し、その拒否権を認めない」という臓器移植法改正案の先にあるのは、まさにこのような事態なのである。
  もちろん、このような改正案に対しては、各々の死生観の個別性を無視しているという批判がある。しかし、脳死が法的に定義され、その拒否権が認められないことが決定されて以降は、そのような抗議は、「素人の独断と無知に基づくわがまま」として黙殺されるだろう。そうした事態への疑問として、本稿の主題である自己決定や、患者と家族など周囲の人々との関係性の重視といった問題意識が、ようやく登場する。逆に言えば、判定基準と概念としての死についての、上述のような考察を抜きに、「脳死は人の死か」という問いを自明のものとして受け入れた上でなされる自己決定に関する議論は、このような暴力性を無視しているという点で、間接的にはそれを肯定してしまっていることになる。そういった議論は、自己決定権をめぐって、どんなに緻密な論理が展開されていても、現実的には効力を持ち得ない。従来の議論の大半は、このことについて、あまりにも無自覚だったのではないだろうか。それらの議論を脱構築することから始まった本稿は、こうして自己決定権論争の脱構築へと向かう。

第2章 近代的所有論の前提とその限界

 ここからは、自己決定をめぐる問題を扱う。その中でも特に重要なのは、自らの身体に関する自己決定が成立するかどうか、ということであるが、この問題は次章で検討する。本章では、その準備として、近代的な所有論において、自明のものとされている事柄の妥当性を問うという作業から始める。私は[萩原2000a]にて、身体に関する自己決定が承認されるのは、「身体の所有」という想定に基づいているのであり、臓器提供と遺産相続を類比的に捉えてはならないと述べた。そして、身体の所有という想定に基づいてなされる医療行為の限界を、どのように定めることができるのかということを、[萩原2000b]にて、不十分ながら論じた。身体の所有という想定の意味が、これまでの私の見解においては明示できていなかったので、それが何を指しているのかということが、本稿では問い直されることになる。
  まず、身体の所有という想定が遺産相続と異なるということは、その想定が近代的な所有論、すなわち、自らの身体を用いた労働によって得られたものは、その人の所有物となる、という意味での所有とは異なることを意味する。その理由として[萩原2000a]で挙げたのは、我々が身体を自由に操作できるわけではなく、自らの意思に反して病気になったり、やがて死を迎えたりする、ということであった。遺産相続の対象になっているのは、近代的な所有論に基づく、上記の意味での所有物なのであり、それとの類比で、臓器移植法における意思表明能力を妥当と見なす年齢の線引きが行われてきたのは、あまりにも安易であったと言えるだろう(1)。
  身体に関する自己決定という問題で言及されることが多いのは、精神と身体の二元論である。この場合、自らの身体を所有の対象にするには、その所有者としての自己が不可欠なのであり、それは精神であると考えられる。「わたしは、次のようなことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体からまったく区別され、しかも身体より認識しやすく、たとえ身体が無かったとしても、完全に今あるままのものであることには変わりはない、と」[デカルト1637=1997:47]。デカルトのこのような主張は、前章でも見たような、脳の機能停止が意識の消滅と対応関係にあるという、現代の医学的な常識から程遠いことは確かであろう。しかし、精神が身体を所有するという、現在でも聞かれる主張は、精神を独立したものとして捉えているという点で、デカルトと共通なのではないだろうか。
  医学的知見は抜きに、デカルトも十分共有できたであろう議論によっても、こうした見解は否定される。第一に、精神と身体が互いに独立した存在であるならば、身体の作動は機械的であることになり、精神が身体に介入する余地はなくなるので、そのような状況で精神に可能なのは、ただ身体の作動を追尾することにとどまるはずである[大森1994:202]。それならば、これらに何らかの接点が見出される場合には、精神が身体を操れることになるかもしれない。そこで、デカルトは松果体について論じるが、松果体も身体の一部である以上、それを両者の統一の根拠と見なすことはできない[村上1998:43]。更に、精神が身体から独立して存在できるとデカルトが見なす時、自己としての精神がその外部である身体を所有すると考えられているならば、この発想自体に問題がある。内部と外部というのは、空間的な存在にしか言えないことなのであり、もし精神を自己として捉えるとすると、ここでは自己の内部、外部という区分そのものが消滅する[鷲田1998:83]。以上のような理由から、精神による身体の所有という企ては失敗に終わるのである。
  身体の所有が「想定」に過ぎないのであれば、そこで行われていることは、「身体の所有」そのものではない。そうであるならば、それを「所有」という言葉で表す必要もなくなる(2)。ただし、身体に関する所有の想定に依拠しないということは、自らの身体に関する自己決定の否定に等しいのではない。これらが等しいものと思えてしまうのは、自らの所有物に関してのみ、自己決定を下す権利が存在すると考える近代的な所有論の枠組みで、この問題を捉えてしまうからである。また、この枠組みにおいて自明なものとされていることとして、次のような点が挙げられる。身体の所有という想定を認めなければ、その人の身体が不当に搾取されてしまう、という見解があるだろう。不当な搾取から自らの身体を守ることは、確かに不可欠である。しかし、他者の身体を搾取してはならないということは、本人に自らの身体を自由に処分する権利としての、所有権を認めることと同じではない[立岩1997:56]。すると、身体に関する自己決定を支えているのは、所有権ではないことになる。この点に関しては後述することになるが、ここではもう一点確認しておきたいことがある。
  近代的な所有論に基づく身体の所有、そしてそれに基づく自己決定権の行使ということに関して、それを他者との共同性という観点から批判しようとする立場があり、その一人が小松美彦である。「生命や死も個々人の身体の内側にあると、私たちは漠然と思いこんでいるのだ。それゆえ、死は身体の中にあるから私たちの所有物のごときものであり、だからその所有者が自由に扱ってよいということになる。このようにして『死の自己決定権』は成立しているように思えるのである」[小松1998c:121]。この論点を批判するために小松が提示するのは、「個人閉塞した死」と「共鳴する死」であり、彼は前者を否定し、後者を肯定する。「個人閉塞した死」とは、「観察する者・看取る者が置き去りにされ、死が個人の身体内で起こる客観的な現象とされ、したがって個人の所有物であるかのように見なすことを可能にする、死の把握の仕方である」[同上:125]。それに対し、「共鳴する死」という言葉が示すのは、「看取る人と死にゆく人、死んだ人と死なれた人相互の間で分かち合われる時間の流れの総体」[同上:122]であるという。そして、小松は次のような結論に至る。「死はそもそも人々の関係の下に成立し、死者にせよ看取った者にせよ特定の個人に属した所有物のごときものではない。それゆえ、所有権も特定の者に限定されているわけではない。そうであるなら、単独の個人が死を自由に決定できるはずはないではないか。以上のように、もとより『死の自己決定権』は原理的に成り立ちえないのだ」[同上:127](3)。
  次に、鷲田清一の見解を見てみたい。「『他者の他者』としてじぶんを体験するなかではじめて、その存在をあたえられるような次元というものが、〈わたし〉にはある。〈わたし〉の固有性は、ここではみずからあたえうるものではなく、他者によって見いだされるものとしてある。『だれか』として他者によって呼びかけられるとき、それに応えるものとして〈わたし〉の特異性があたえられる。他者のはたらきかけの宛て先として、ここに〈わたし〉が生まれるのだ」[鷲田1999:129-130]。こういった共同性によって自己が成立するという点が忘却されることを、鷲田は嘆く。「ここで重要なことは、複数の身体の共存や交感の関係からその〈交通〉という契機をあらかじめ解除したうえで、各主体のそれぞれに各身体の排他的な所有権(property)をあてがうという、二段階の操作である。この操作をつうじて身体はだれかの『私的財産』(private property)となる。『わたし』がこの身体の『所有者』となるのである。肢体や臓器が『わたしの所有物』となるのである。貸借も譲渡も可能な『財』になるのだ」[鷲田1998:185]。まさに身体が「財」と見なされるからこそ、臓器移植法においては、患者の死後の身体に関する自己決定が、遺産相続との類比によって捉えられてしまう。
  以上の小松と鷲田の主張の共通性とは、他者との共同性において自己が存在しているということが、現状への批判の根拠として用いられている点であろう。これらに対する反論として、立岩真也の見解を挙げておきたい。「第一に、少なくともある時には、他者は私の生存の必要条件ではなく、むしろそれを阻む存在でもある。今の私にとっては他者がいなくなることが私を生きさせることがある。第二に、私が作った(から私のものである)という議論を否定して、私は作られた、みんなに作られた(から私一人のものではない)、他人が私を形成してくれたから(その他者を大切にする)という具合に、わざわざ自己に回付する必要、自己を経由させる必要があるだろうか」[立岩1997:107]。立岩による第二の批判は、小松の「共鳴する死」の問題に直結する。「共鳴する死」が全体主義による死の強制などにつながるのではないかという批判が、これまで度々なされてきた。それに対して小松は、「共鳴する死」とは、「人は死んではならない」という願いを大前提に掲げられるものであると反論する[小松1998a:79]。しかし、死の自己決定が存在しないというのは、周囲の人々の、少なくとも善意に基づく思いを常に優先しなければならないという共同体主義であり、それが「常に」優先されるべきでないのならば、どのような場合に優先すべきで、どのような場合に優先しなくてもよいかということを、述べなければならない[立岩2000a:157]。我々が他者との関係性において生きているという事実を主張することは、自らの身体に関する自己決定を否定することに等しくないはずである。
  立岩には、この問題に関する別の角度からの批判もある。それは、還元主義への批判という観点からなされるものであるが、その批判の対象である還元主義について、まず見ておきたい。「非還元主義から還元主義への態度変更は、個性や自立性への執着、孤立の不安と焦燥感からわれわれを解放し、自己の社会的視野、社会的連帯性の回復を可能にする・・・・・・。還元主義に定位するとき、自己の〈同一性〉とは完結したものではなく、〈他者性・差異性〉に貫かれたものであり、同一性と差異性との区別が相対化されることになる。・・・・・・そのとき、自己を多様な外部に向かって開き、〈異質な〉外部を自己の再発見、再生を可能にする〈有意味な〉外部として捉え返す可能性が、かすかではあるが開かれてくると考える」[壽1998:243]。これに対して川本隆史は、そのような可能性が本当に開かれてくるのかという疑問を抱き、還元主義以外の選択肢もあり得ると考えた上で、こうした還元主義は、鷲田の主張にも相通じていると指摘する[川本2000:17]。上記の還元主義の見解では、還元主義こそが我々を異質な外部へと開く手がかりになるという。しかし、現実に我々が他者との関係性において生まれ育つということを認めたからといって、それは還元主義の肯定に等しくない。「本来の世界は還元主義が描くようであるにもかかわらず、実際にはそのようになっていない」という発想は、むしろ、異質な他者に否応なしに取り囲まれている現実を隠蔽することになる[立岩1997:108]。
  問題は、それにとどまらない。還元された場にしか本来的なものはないと言わなければならない理由は存在しないはずであり、そのような場を想定できるということは、そこで想定されているものが、より本来的で望ましいということを意味しているのではない[同上:109]。[萩原2001b]でハイデガーに関連して述べたように、共同性の肯定がイデオロギーとして機能することがある。小松はその点を自覚しているからこそ、「人は死んではならない」と主張するのである。確かに鷲田は、他者との共同性を固定的なものと見なすのではなく、そうした共同性の認識に基づいて、自らの枠組みの自明性を揺さぶろうと試みる。しかし、自らの所有物に関する自己決定という近代的な所有論と、これとは対照的に見える上記のような共同性の主張は、基盤を共通にしている。それは、原因となったものが結果を受け取れる、事物を製作したものがそれを取得できるという発想である[立岩2000a:156]。つまり、共同性の主張においては、身体の原因や製作者が自己ではなく、その自己が他者との共同性において成立しているということが、自らの身体に関する自己決定を否定する理由とされているのであり、その理由は、自らの批判対象である近代的な所有論が、自己決定を肯定する場合に用いている論理そのものなのである。そうした論理に基づかない、身体の自己決定が可能かどうかということが、次章での検討課題となる。

第3章 身体に関する自己決定権は成り立つか

 自らの身体に関して、自己決定権は成立しないという立場においては、脳死判定に基づく臓器移植は、否定的なものとして捉えられることになる。脳死・臓器移植とは殺人にほかならず、まだ心臓が動いている患者からの臓器摘出という殺人行為を正当化したのが臓器移植法であると、小松美彦は主張する[小松1998a:79]。他者との関係性において死が成立していると考える限り、死は自己決定の対象ではないから、脳死や臓器移植についての自己決定権も認められないという論理構成である。小松のこうした主張に対して、彼は自己決定を全面的に否定するから問題であるという批判をよく耳にするが、これは誤解であり、小松の見解はそれほど簡単ではない。確かに小松は、「死の自己決定権」だけでなく、「自己決定権」そのものも自らの批判対象にしていると明言する[小松1998b:44]。ところが、一方で彼は、「自己決定権」と「自己決定」を弁別し、「自己決定」が他者との関係ではじめて成立するということを忘れてはならないという条件付きで、それを認めてもよいと考えている[小松1998a:77](1)。
 一方、立岩真也は、やはり条件を付けた上でだが、「死の自己決定権」を認める。そして、このことを論じる下準備として、我々が他者の身体を搾取することは不当であると考える際に、その前提となっている理由が挙げられる。「その人が作り出し制御するものではなく、その人のもとに在るもの、その人が在ることを、奪うことはしない、奪ってはならないと考えているのではないか。他者が他者として、つまり自分ではない者として生きている時に、その生命、その者のもとにあるものは尊重されなければならない。それは、その者が生命を『持つ』から、生命を意識し制御するからではない」[立岩1997:105]。ここでは、身体の搾取に対する批判の根拠として、身体を所有物と見なす近代的な所有論とは別の枠組みが提示されている。そして、上記の見解は、自らの身体に関する我々の認識でもあるという。「他者とは、自分に対する他人のことだけではなく、自分の精神に、あるいは身体に訪れるものであってもよい。私の身体も私にとって他者でありうる。私が思いのままに操れるものが私にとって大切なものではなく、私が操れないもの、私に在るもの、私に訪れるものの中に、私にとって大切なものがあるのではないか。そしてそれゆえに、それを奪われることに私達は抵抗するのではないか」[同上:109]。この主張においても、その根拠として用いられているのは、近代的な所有論ではない(2)。
 そういった観点から自らの身体に関する自己決定を論じる場合に、小松らの主張が無効になるわけではない。むしろ、立岩は「個人閉塞した死」と「共鳴する死」という小松の指摘を認めた上で、死の到来という場面において、患者その人自身が死ぬという、「代替不可能な死」を掲げる[立岩2000a:152]。つまり、たとえ死の到来が周囲の人々によって判定され、その到来の事実が人々と共鳴するからといって、そこで死ぬのはその人自身なのであるから、「代替不可能な死」は「共鳴する死」と両立するのであり、前者が後者を可能にする条件にさえなっている[同上:152-153]。ただし、立岩は「共鳴する死」全般を認めるのではない。死の到来を判定された患者とその周囲の人々との「共同」は不可能である以上、「共鳴する死」が両者の「共同性」の上に成立するのではないのであって、共鳴は、周囲の人々から患者への思いとしてしかあり得ない [立岩1997:194]。これは、判定基準と概念としての死の区別について論じた際に、私が述べたことと重なる。すなわち、死の到来は判定基準に基づいて、周囲の人々によって判定されるのである。
 このようにして、身体に関する自己決定を論じるための下準備が、ようやく整おうとしている。立岩は、次のような論理によって、自らの身体に関する「自己決定権」を認める。「なぜ自分の死(に対する自己決定権)がその人にあるのか。その人にしかその生はないからであり、死ぬのはその人だからだ。死を迎えることは生のあり方でもあり、その人の生を認めるのであれば、その人の死のあり方もまた認めることになる。他者を尊重するとは、まず他者の存在を、他者の生を尊重することだろう。だが、他者とは私が制御してはならない存在であるなら、同時に、その人の決定を尊重することもまた他者を尊重することの一部である」[立岩2000a:155]。
  我々は、自らの制御の対象とならない存在として他者を承認し、その他者自身もまた、自らの生命を制御不可能である。そして、これこそが、私がこれまでの論文で十分な定義を行ってこなかったものの、「身体の所有の想定」として論じてきたことであろう。既に述べたように、所有の「想定」であるならば、そこでなされていることは、「所有」そのものではない。生と死が代替不可能で、本人が自らの身体において引き受けなければならないものであるという意味で、「所有」という言葉が用いられているのであり、少なくとも、近代的な所有論とは異なる。近代的な所有論が、身体を制御の対象と見なすのに対して、そうした制御が不可能であることこそを、ここでは重視しているのである(3)。では、こうした自己決定は、どのような場面で許容されるのだろうか。
  そこで、安楽死・尊厳死における自己決定を取り上げる。一般的に言われているように、その対象となる患者が意思表明能力を持っている場合には、本人による同意が事前に確認された上で行われなければならない。そして、[萩原2000b]で論じたように、意思表明能力がないということは、その人の生存を否定する理由にはならない。つまり、本人の自己決定が問われる場面で、何らかの決定のために決定能力が要請されるとしても、ある人が人間としての資格を持つかどうかということや、その人を殺してもよいかどうかということに関して、その能力の有無を判断の基準とすることは正当ではなく、本人による決定を尊重することは、決定しないこと、あるいは決定能力を持たないことの否定につながるのではない[立岩1997:135-136]。では、この条件を満たせば、安楽死・尊厳死は直ちに認められるのかというと、そうではない。上記の条件において示されていないのは、自己決定がどのような理由によってなされるのかということであり、この点を考慮に入れなければ、安楽死・尊厳死といった行為が、あまりにも安易に行われることになってしまうだろう。
  安楽死・尊厳死について患者が自己決定を下す場合の理由として、特に積極的な安楽死・尊厳死においては、自らの身体が自由にならないことへの屈辱が挙げられることが多い。消極的な安楽死・尊厳死に関しても同様であり、回復が不可能になった時点での自分を想像すると、そのような状況下で生かされていることに耐えられないから、という理由が述べられる。積極的、消極的、両方に共通しているもう一つの理由は、家族など周囲の人々に迷惑をかけたくないということである。家族など周囲の人々に対して、患者はなぜ、このような負い目を感じるのだろうか。それは、自分のできる範囲において、自分自身で仕事や身の回りのことを行うという規則と価値を採用した方が、他人に迷惑がかからず、生産の増大にもつながって都合がよいと考えられてきたからなのであり、この規則と価値を受け入れた上で安楽死・尊厳死に関する自己決定を行うという点では、上記の二つの理由は共通している[立岩2000a:162]。何かをできることが生きるための手段であるなら、生きるということに対して、その手段、そしてそれを自分は選択できないという意識が優越することはないはずであるが、ここでは手段が生に優越してしまっている[同上:163]。更に、上述のような価値観が自明となることで、それが一つの価値観に過ぎないということ自体が隠蔽されてしまう。
  他人に迷惑をかけて生きることは、どんな場合でも悪いことなのだろうか。できれば迷惑をかけずに生きたいと誰もが思うかもしれないが、そのような考えは、我々が生きる社会の規則や慣習に対する、暗黙の了解として成立しているのであって、それが絶対的なのではない。もちろん、そういった価値観を完全に否定することは、ほぼ不可能であるばかりか、それを放棄するならば、社会の維持は困難になるだろう。しかし、だからといって、自ら行えないということによって、安楽死・尊厳死へと必ずしも至る必要はない。そこへと安易に至ってしまう発想そのものを問い直す必要があるのであり、そのような患者を家族が支えていけないのであれば、社会的な制度によって介護の充実を図ればよい(4)。
  したがって、安楽死・尊厳死へと至る過程において、その原因となっているものを検討し、吟味することから始める必要がある。それは、単に哲学者や倫理学者が、研究者共同体での議論の材料とするだけであってはならない。安楽死・尊厳死に関する自己決定を下す当人が、そこでの決定が適切かどうかを熟慮するための機会が与えられなければならないのである。このような過程を経て、それでも患者自身が自らの決定を正しいと思うのであれば、我々はその意思を尊重すべきであろう。それが尊重されるべきなのは、先程述べたように、他者が制御の対象ではないからである。家族など周囲の人々が患者に対して、できれば死なないでほしいと願う場合、一方では、本人の意思をできる限り尊重したいと考えることが少なくないだろう。その際に、周囲の人々は、上記のような相反する感情に引き裂かれていると言える。この二つの感情は、患者本人の存在を否定できないという、元は同じところから出てきているものなのであり、それゆえに矛盾に陥っているのである[立岩2000b:76]。
  以上のように、死への自己決定へと誘導する原因を除去した上でも、本人が死を望む場合には、その決定を否定する権利が我々にはない。ただし、その原因を本当に除去できているかどうかということは、常に考えられなければならないのであって、問題はそれほど単純ではない。ここまでの議論は、立岩の主張とほぼ重なると言ってよい。しかし、このことから立岩が、「死の自己決定権」を認める点には同意できない。私がここで容認しようとしているのは、「死の自己決定」であり、「自己決定権」ではないのである。立岩の言う「自己決定権」は、次のように定義できる。「自己決定権は、その者が他者としてあること、他者としてあるその者のあり方を承認することの一部である」[立岩1997:199]。しかし、これは「権利」なのだろうか。そこで、立岩が、「権利」をどのように定義するのかということを見てみたい。「誰にも妨げられず文句を言われない行いについて、わざわざ『権利』と言う必要はないのだから、あらゆる権利はそれに対する抵抗を想定して存在する」[立岩2000b:86]。
  しかし、死に関する自己決定においては、決定へと安易に誘導するものを除去することが目指されていたはずである。他者の生を奪ってはならないという場合には、それを「権利」と呼ぶことができるかもしれない。なぜなら、人が生きるということは、自らの生が奪われることへの「抵抗」によって成立しているからである。それに対して、死に関する自己決定の場合には逆であり、小松の言葉を借りれば、「人は死んではならない」という認識に基づいている。「人は死んではならない」が、死への自己決定へと誘導する原因を除去しても、その人が死にたいのであれば、その決定を容認せざるを得ない。立岩の主張は、このような意味で死に関する自己決定を認めるのだから、それを「自己決定権」と呼ぶことは正しくない。これを「権利」として位置づけると、他者を尊重する理由に変更はないとしても、自己決定へと誘導する原因の除去という重要な過程が抜け落ち、他者の決定であるがゆえに、その決定を無条件に肯定するということになってしまうであろう。したがって、死に関する自己決定についての私の見解は、小松とは別の意味で「自己決定権」を否定しつつ、「自己決定」を承認するというものである。そして、その「自己決定」には、小松よりも強く、立岩よりも弱い意味が付与されている(5)。
  上記の検討では、意識や自己決定能力の有無といった条件は、他者を承認する根拠とされていない。他者が、代替不可能な各々の生を享受しているということを、他者を制御の対象とすべきでないことの理由として挙げた。このような他者に対する肯定を、他者の生存の「権利」と呼ぶのであれば、そこで他者に付与される「生存権」は、西欧近代の所有論に基づく、身体の所有権としての生存権とは異なったものとなるはずである。つまり、従来、生存権が語られる場面で自明のものとされてきた伝統的「権利」概念を、無条件に絶対的な根拠とする思考からの離脱を、本稿では試みようとしている。これまで論じてきたように、近代的な所有論に依拠した自己決定権には様々な問題があるのであり、その自明性が疑問視されないままになされてきた、「自己決定権論争」そのものを脱構築しなければならない(6)。そのような問題意識を共有し、議論を積み重ねていくことが、今後の重要課題である。

第4章 脳死・臓器移植への問い

 本章以降では、脳死・臓器移植との関連で自己決定について検討するが、その前提となる、インフォームド・コンセントの問題を考えることから始めたい。「死の自己決定権」を否定する小松美彦は、自己決定権への代案を提示する。「これまで向こうに決定権があったから、今度はこちら側に決定権を奪還することへと一挙に飛んでしまうのではなく、あくまでも強制させないということを主張していけばいい。その場合、権利という言葉に拘泥するのであれば、『国家には産む産まないを強制する権利はない』『男や家族制度には女に強制する権利はない』というように、権利という言葉をいつも否定型の文脈で使っていけばいい」[小松1998a:77-78]。同じことが、インフォームド・コンセントの現状改革に関しても述べられる。「ひとつは、治療方針や方法をこれまで医者が独占しがちであった事態をまず徹底的に批判することだと考える。しかし、だからといって、そこからただちに決定主体を患者やその家族に移行することは、権力の位置の移行にすぎず、新たな問題を生み出すことになるだろう。目指すべきは、医者と患者・家族との権力関係を逆転することではなく、権力関係そのものの解体ではあるまいか。したがって、次に必要なことは、インフォームド・コンセントの徹底であろう。・・・・・・ここで言うのは、自己決定を前提としない、徹底した話し合いそのものという意味でのインフォームド・コンセントであり、そして医療現場でのその貫徹である」[小松1998b:45]。
 このような小松の提言には、いくつかの問題がある。第一に、小松が指摘する「権力の位置の移行」という事態において、医者から患者へ、あるいは国家や男性から女性へと、同じ「力」が移行すると言えるだろうか。例えば、患者の身体から臓器を不当に搾取しようとする医者の「権力」は、近代的な所有論の文脈から語られる自己決定権の立場からも、「他者危害の原則」に反するとして、容認されないものである。一方、患者の自己決定が問われる場合にはどうだろうか。自由主義に基づく生命倫理学においては、他者危害の原則の条件を満足させている限り、基本的には患者の自己決定権が正当なものとされる。ところが、前章で見たように、ここで「他人に迷惑をかけない」という価値観が暗黙の了解として機能してしまっているのであり、それこそが「権力」であろう(1)。そのような「権力」を除去した上で、他者を制御しないことを理由に容認する患者の自己決定は、こうした「権力」とは異なるものである。小松は、そういった差異を見落としているので、患者の「自己決定」を「権力」と見なしてしまうことになる(2)。
 小松への批判として第二に、権利概念を否定型の文脈で用いるということは、本稿での私の見解とは相容れない。既に見たように、小松は「自己決定権」を否定して「自己決定」を容認するが、そこで用いられている「自己決定」という言葉は、自己決定を「権利」として立てないということを意味しているのであり、他者を制御の対象としないということが述べられているわけではない。むしろ、小松の主張は、制御すべきでない他者による、死に関する自己決定を無条件に否定するという意味で、実際には他者を制御することになってしまっている。小松は「死の自己決定権」を認めないので、権利概念を否定型の文脈で用いるならば、そこから導き出される命題は、「我々には死を自己決定する権利はない」となる。確かに前章では、立岩真也への批判として、「死の自己決定権」を否定した。しかし、小松の論理によって「死の自己決定権」が否定される時には、「死の自己決定」も共に否定されてしまうことには、注意すべきだろう(3)。
  第三に、小松の言う「権力」の意味に関する問題がある。小松が解体しようとする「権力」とは、死の到来という場面における「共鳴する死」が隠蔽され、「個人閉塞した死」へと還元されること、そしてそのことと関連して、「人は死んではならない」という原則が忘却され、「死の自己決定権」へと人々を駆動する力が作用することである。「私たちは、自在にその装束を取り替える“死の思想”そのものを、透視せねばならないのである。そして、その『内核』の最深奥には、世界資本主義がおそらくある」[小松2000a下:167]。これに対して川本隆史は、次のように批判する。「“死の思想”(さらには『世界資本主義』)を主たる攻撃目標とするからには、“生の思想”(およびインターナショナルな社会主義?)に彼はコミットしているのだろうか。しかし、まさしくそうした生の領域をある種のポリティクスが貫いているとするなら、批判の根拠をどこにおけばいいのだろうか」[川本2000b:27]。もちろん、「〜は〜主義者だ」というレッテル貼りを私は行いたいのではなく、むしろそのような行為は不毛であると考える。しかし、小松は「世界資本主義」を批判する際に、資本主義と表裏一体の関係にある社会主義に関する検討も、十分に行うべきだろう(4)。「共鳴する死」における共同性の主張を批判した時に、立岩の見解を引用して述べたように、近代的な所有論の主張と、小松の言う共同性の主張は、原因となったものが結果を受け取れると考える点において共通している。
  もちろん、小松は近代の構造にも目を向けている。「個人が他者から独立している以上、個人の人権や自由も他者のそれらから独立しており、それゆえ人権や自由が権力に対置されたとき、たしかに私たちは権力の介入を防ぐことができるが、同時に他者に口出しすることもできないことになる。近代的な人間観に支えられた人権概念は、もとよりこうした構造的な問題を有しているのである。近代がそのスタート時点で抱えていた問題が最もグロテスクなかたちで顕現してきたもの、それが『死の自己決定権』なのである」[小松1998c:149]。ところが、ここで小松が批判している「近代」そのものが、単に「世界資本主義」の専売特許なのではない。このことは、今日の状況にも当てはまる。市場の自由の象徴であるかのように見なされがちなアメリカにおいてさえ、現実には福祉政策が依然として重要な位置を占めており、リベラリズムやリバタリアニズムといった、単一の理論構想から社会が営まれているとは言えない。「世界資本主義」を漠然と批判するのではなく、様々な主義・主張が絡み合い、一体となって進行する複雑な現状を、一つ一つ読み解いていくことこそが不可欠であろう。
 次に、自己決定が、死の到来の判定基準を決定する際に用いられる場合はどうだろうか。「『死の自己決定権』にあっては心臓死と脳死とが同格に扱われているため、私たちは、『共鳴する死』の成立にかかわる両者の根本的な相違を、見えなくさせられてしまっている。すなわち、心臓死は誰もが確認できるものであるため『共鳴する死』が成立しうるのに対して、脳死は専門家にしかわからないため『共鳴する死』が素人には成り立たないということをである」[小松1998c:130]。この主張の問題点の一つは、心臓死と脳死を正反対の性質のように論じていることであろう。判定基準について論じた際に見たように、確かに脳死判定は、心臓死判定と比べて理論負荷的であり、それゆえに、心臓死判定の方が、人々によって受け入れられやすいということはある。しかし、専門的知識を持たない素人であっても、医療関係者によって患者が脳死判定された際にそれを受け入れ、患者に死が到来したことを悲しむならば、「共鳴する死」は実現しているのであり、素人ならば成り立たないとは言えない。
  逆に、脳死判定をされても、周囲の人々がその患者に死が到来したことを認められない時にも、そこでは周囲の人々と患者との関係性として、一種の「共鳴」が起きていると考えられる。立岩が論じるように、死の到来を判定された患者との間での共鳴が、周囲の人々からの思いとしてのみ起こるのであれば、同じことが上記の場合にも言えるだろう。脳死判定をされても、周囲の人々がそれを受け入れられない時、患者が周囲の人々に語りかけることはできないから、そこには患者との「共同性」は存在しない。存在するのは、その患者はまだ死んでいないという、周囲の人々による思いなのであって、科学的判定基準として脳死を採用したからといって、共鳴が起きないとは言えないはずである。むしろ、小松が掲げる「人は死んではならない」という信念が周囲の人々にあるからこそ、患者はまだ死んでいないという思いが共鳴する。
  小松の主張のもう一つの問題点は、「脳死は専門家にしかわからない」という言及である。これを裏返せば、専門家ならば脳死は分かるということになってしまう。すると、専門的知識に基づいて脳死を理解できる専門家の場合は、脳死を死の到来の判定基準として採用しても、「共鳴する死」は実現することになる。「共鳴する死」が成立する心臓死と異なり、心臓が動いているのに臓器を摘出する点で、脳死判定とそれに基づく臓器移植は殺人であると小松は考えるが、専門家にとっては脳死判定の段階で「共鳴する死」が成り立つとすれば、この場合には殺人にならないのだろうか。脳死判定が、「個人閉塞した死」に陥りやすいことは事実であっても、「共鳴する死」のみを根拠として、脳死判定の採用を否定することはできない(5)。
 また、小松のように、患者の心臓がまだ動いている間は生きていると見なすのであれば、脳の機能は停止していても、他の患者の脳を移植することによって、その機能を再生させることが技術的に可能であれば、それを行うことは正しいのだろうか。実際に、小松への批判としてこの問題を提起しているのが、美馬達哉である。「もし、全体性としての人間という立場を極限まで徹底させて、脳が臓器のひとつにすぎないのだと考えれば、『脳死』患者に対しても脳の移植という治療法が考えられる」[美馬1998:155]。そして、この記述の直後で、森岡正博の次の言及に対して、同じ批判がなされる。「かけがえのないものとは、言い換えれば、取り返しのつかないもののことです。いのちも同じです。いのちは決して他のもので置き換えることができません。いのちを失えばもう取り返しがつきません。取り返しのつかないものといえば、生の一瞬一瞬もそうです。生の一瞬一瞬とは、決して他のものでは置き換えることのできない、一回限りの出来事の連続です。生の一瞬一瞬のかけがえのなさは、いのちのかけがえのなさと通じるものをもっています」[森岡2000:157]。
  立岩真也も、同様の指摘を行っている。「例えば、知的能力から発する製品を売却するのはかまわないが、知的能力自体を譲渡することは許容されない(脳移植の禁止)。しかし、このような考え方をとれば、どこかに意志という最終的な審級が残されていればよいのだから、その審級によって選択・決定されることについては問題なしとされることになる。・・・・・・それは、自身の人格の変容をも許容するかもしれない。自身を決定的に変容させるような行為にしても、ある時点での人格を基点とすれば、その自己が決定したことなのだから認められてよいというのだ」[立岩1997:87-88]。もう一箇所、この問題への言及を引用する。「私が私であることを私の脳の働きに求めるなら、脳の特権性が保存されている限り問題はそれほど大きくならないとも言える。実際、脳死者からの臓器移植が認められる時にはこうした論理が働いている。脳に対する操作は『私』の特権性を脅かすために抵抗がある。そして実際、脳の移植は困難でもある。しかし、それが可能になり、その『私』自体が変えられていく可能性が考えられないわけではない。そしてここに私自身を変えてしまおうと思う私は既にいる。その私が私の脳の改変を意図し決定するのであり、それもまた『自己決定』ではある。自己決定の原理を真面目に貫こうとれば、この原理のもとではこのことは許容される」[同上:146-147]。こうして、美馬の論点に共感し、脳中心主義から本当に我々は抜け出すことができるのかを問う必要があると述べ、批判の対象として小松と森岡の名を挙げている[立岩2000a:169]。
  ところが、美馬と立岩によるこれらの批判は、特に森岡に対しては失敗に終わっている。それは、問題設定が誤っているからなのであり、不当な自己決定に対する立岩の批判そのものが間違いなのではない。そのことを論じる手がかりとなるのが、加藤尚武による「人格」の定義である。「人格には、その経歴が含まれるから、人格はコピイ不可能であるといえる。私の脳の記憶をコピイした人格は、私の経歴とは違う経歴をもつことにならざるをえない」[加藤1999:112]。植物状態や無脳症の患者を、我々は通常、人格を持った存在であると考える。その場合、人格とは、記憶や意識そのものとは等しくない、あるいは、少なくともそれらだけから構成されるものではないと考えられている。これらを人格に等しいものと見なせば、植物状態や無脳症の患者は、人格の対象外となってしまう。したがって、人格を論じる根拠とは、その人の生きた経歴によって人格が形成されているということなのであり、記憶や意識があることが、その条件として不可欠であるとは言えない。
  第3章で、安楽死・尊厳死の問題を考える際に引用した記述からも明らかなように、立岩は、自己決定能力の有無が、人間であるかどうかを判断する基準に等しいのではないと述べているのだから、私の見解にも賛成するだろう。ところが、美馬だけでなく立岩も、上記の引用箇所では、人格を記憶に等しいものと見なしており、ここにこそ問題がある。そこで、脳死判定された患者Aを、脳の機能が停止していない患者Bの脳を利用することで救命するという状況を想定してみたい。もちろん、脳死判定以前の状態にあるBの脳が利用されていること自体が問題であるが、美馬と立岩が提起した問題を考えるための仮想実験として、この点は、まずは無視することにする。また、議論を不要に複雑化させないために、臓器移植によって身体の同一性が崩れるかということについては、ここではとりあえず考慮の対象外とする。Aを救命しようとする場合、次のような行為がなされるかもしれない。[1]Aが脳死状態に至る前に、その記憶をコピーして、Bの脳に移す。[2]脳死状態のAの脳を摘出し、代わりにBの脳を移植する。[3]脳死状態のAの脳を摘出し、代わりにBの脳を移植した上で、脳死状態に至る前にあらかじめコピーしてあった、Aの記憶をそこに移す。
 [1]では、Aの記憶のコピーを移した時点で、Bの記憶は失われると考えても、Bが生きた経歴に基づく人格は、依然としてBに存在している。そして、記憶だけでは人格は成立しない以上、そこにはAの人格は存在しないので、Aを救命したことにはならない。次に、[2]ではAの記憶は消え、Aは移植されたBの記憶を持つことになるが、Aの生きた経歴に基づく人格は、そのまま存在する。この場合、Aは救命されており、「人格が変わる」ことは起きていない。美馬や立岩が「人格が変わる」と言う時、そこでは「記憶が変わる」ことが想定されているが、本稿では、先述のように人格を定義しているので、この場合には、「人格が変わる」とは見なせない。[3]では、Aは救命され、記憶も人格もAのままである。ここでは、記憶の不一致という事態は発生していないので、美馬や立岩による想定の対象外ということになる。したがって、Aを救命する場合に、どの方法を選んだとしても、美馬や立岩が想定する事態は起こらない。ここで、森岡の見解をもう一度見てみたい。森岡が、「いのちのかけがえのなさ」を、「生の一瞬一瞬」に通じるものと定義している点に注目するならば、生の一瞬一瞬とは、まさにその人の生きた経歴である。上記のいずれの場合にも、Aの生きた経歴に基づく人格が変化することはあり得ないので、美馬と立岩による森岡への批判は適切ではない。立岩が「脳中心主義」として批判した問題は、人格の同一性に関してではなく、記憶の同一性についてであったということになる(6)。
  脳中心主義の採用によって記憶の同一性が保たれるとしても、その条件下では、あらゆる行為が容認されるというわけではない。例えば、仮想実験[2]と[3]では、脳の機能が停止する前に、Bの身体から脳が摘出されることで、その生命が奪われている。[2]ではAの記憶は失われるが、[3]では失われず、記憶の同一性が成立するため、単に脳中心主義を採用すると、[3]は肯定されることになる。しかし、脳の機能が停止する前にその摘出を行うことを、B自身が自己決定によって承認したとしても、それだけでは問題は片づかない。「当の者の同意があっても、その者があるものを譲渡することが私達にとって無残なことだと映るのは、制御の対象として想定していないものが、制御されるもの、比較されるものの範疇に繰り込まれる場合、そこで他者の他者性が剥奪されてしまう場合ではないか」[立岩1997:133]。この場合、脳移植によって失われるB自身の生命が、Aが生きるための手段と化している。他者の生を支えるものを制御の対象と見なし、その人が生きているにもかかわらず、それを自らが生きる手段として用いることは、他者の存在そのものを否定することになる。
  他者が他者であり、その生の享受を肯定することにおいては、脳中心主義は問題ではない。脳移植がおぞましい行為として受け止められるのは、脳中心主義が主張する記憶の同一性によってだけではなく、まだ生きている他者の脳を、自らが生きるために搾取することを、不当と考えるからである。この点を考慮に入れない限り、前述のように、[3]は肯定されてしまうことになるだろう。また、先程も述べたように、単に記憶や意識を基準に論じるならば、植物状態や無脳症の患者は、これらの条件を満たさないという点で、「人間」と見なされないことになる。それが適切でない以上、脳中心主義は万能ではない。他者の他者性の肯定が、脳中心主義の暴走に歯止めをかけるものとなる。そして、ここで肯定されている他者性こそ、他者が他者として生きてきた生そのものなのであり、それを我々は、「人格」と呼ぶのではないだろうか(7)。
  臓器売買に関しても、同様の観点から捉え直すべきであり、ここでは、本人の生を支えている臓器が、金銭との交換手段として位置づけられているという点が、考慮されなければならない。すなわち、制御の対象ではない身体が、金銭を獲得する手段としての制御の対象という、近代的な所有論の枠組みにおいて認識されているのである。これまでも論じてきたように、他人に危害を加えないからといって、あらゆる自己決定が安易に承認されるべきではない。「『かけがえのない私』とは、私が私のものとして執着する私の支配下にある私のことではなく、他者にとってもまた私自身にとっても他者であるような自己であり、『私の肯定』とは、そうした他者性を消去してしまうことへの否定ということではないか」[立岩1997:424]。また、臓器売買などを単に断罪するだけでは全く不十分なのであり、人々がそうせざるを得ない社会構造の問題にこそ目を向け、その改善を試みることが不可欠である。特定の行為を批判することだけで問題が片づくわけではないのであり、非歴史的な観点から組み立てられた普遍的な倫理を、画一的な基準として語るという行為そのものを問い直さなければならない。
 [萩原2000b]でも見たように、生体間での移植においてなされていることは、臓器売買に近接しているとも言えるが、この場合には、提供に当たって金銭の受け渡しを禁止する限りは、臓器が金銭を得る手段とされているわけではない。しかし、通常の臓器移植とは異なり、提供側も生きているという点で、自らの生を完全には奪われない程度ではあるが、その人の生を成り立たせているはずの身体の一部が、受容側の生を支える手段となっていることは確かであろう。提供側は、自らの身体への負担を承知しながら、あえて摘出を容認しているのであるが、その決定を安易に賞賛し、「美談」として掲げるのではなく、決定へと駆動する要因に注意深くなければならない(8)。
  以上のような議論によって、臓器提供に関する自己決定が容認され得る条件を示したとしても、「臓器移植を受けてまで生きたくない」と思う人は少なくないだろう。そういった価値観を否定するつもりはないが、自己決定に関する本稿での論点を繰り返すならば、臓器移植を受けないことの理由が、他人に迷惑をかけたくないといった理由であるとしたら、その自己決定を考え直す機会が与えられるべきである。また、生きた経歴に基づく人格の同一性という理由を受け入れられないから、臓器移植は禁じるべきだ、という批判も正当ではない。なぜなら、臓器移植を受けて生きようとしているその人は、臓器移植を否定する人にとって制御すべきでない他者だからであり、臓器移植の禁止によって他者の生命を奪う権利を、我々は持つとは言えないからである。もちろん、逆に、あらゆる延命治療を受けてでも助かるべきだ、と強制することもできない。ただし、自己決定を尊重して、延命治療を強制しないということは、安楽死・尊厳死に関する自己決定を安易に認めてしまうこととは異なるのであり、それらが混同されるようなことがあってはならない。
  延命治療について、小松美彦は鶴田博之の見解を参照しつつ、次のように述べる。「そもそも『尊厳のない苦痛に満ちた生』と対をなすのは、『尊厳ある安らかな死(亡)』ではない。『尊厳ある安らかな生』のはずだ。『尊厳のない苦痛に満ちた生』が問題であるならば、私たちが追求しなければならないのは、『尊厳ある安らかな生』である。生の領域内の事柄は、あくまでその中で考え、打開策を講じなければならないのではないか」[小松1998c:131]。苦痛に満ちた生とは、単に痛みだけではなく、日常の事柄を自分の力だけでは行えないことへの屈辱感、あるいは、それによって他人に迷惑をかけるということなども含まれるだろう。こういった状況にあるからといって、安楽死・尊厳死といった選択がなされなければならないという必然性はない。そのように「弱く」あることにおいて生を享受し、それが尊厳ある安らかな生となる可能性が、周囲の人々によって、それが無理ならば、社会的制度によって追求されなければならない。ここまでは、小松の主張する通りであり、その背景には、「人は死んではならない」という問題意識がある。しかし、死の自己決定へと導くものを除去し、「弱く」あることが承認された上で、なお本人が死を望むのであれば、それを否定することはできない。
  医療技術の発達により、延命の可能性は広がりつつある一方で、患者が回復不可能であると見なされる場合に、「無駄な延命治療」なるものが叫ばれる。ところが、それは本当に無駄なのかという問いが、大抵は回避されてしまっている。「回復とは未来の事態である以上、可能性の枠内のことでしかない。回復するかしないかは現時点では確定できない。ならば、私たちは基本的に回復の可能性にかけるべきだろうし、まして医学に関して素人の者が、『回復不能』を即断すべきではなく、回復に向けた医療スタッフの誠意ある努力に委ねるべきだろう。だが、医療スタッフに委ねられないという場合があるのも事実であり、そもそもこの医療不信が大きな契機となって、私たちは安楽死・尊厳死に向かうのである」[同上:133]。回復の可能性を安易に断念すべきではないというのは正しいが、その断念の理由は、必ずしも医療不信ではない。また、延命の実績を作るために、患者の生の尊厳を無視した延命がなされるという、医者への批判の一方で、効率性を重視するあまりに、かえって延命治療がおろそかにされるという批判もある。医療不信は、両方が一体となって形成されているのではないだろうか。そして、延命が安易に断念される危険性のある場面の一つが、脳死判定による臓器移植の問題であり、そこにおいて、臓器移植法がどのように機能しているのかということを、次に検討する。

第5章 「プロクルステスの寝台」からの解放

 通常、臓器移植が脳死判定の成立後に許されると考えるのは、脳の機能停止によって、身体の統合性が失われることをもって、人間は死ぬと見なされてきたからである。臓器移植法成立以前に、脳死臨調最終答申の内容を、小松美彦は批判している。「『最終答申』は脳死状態=死とするための根拠として、『全体として有機的統合を保っている状態を「人の生」とし、こうした統合性が失われた状態をもって死とする』といった生・死の定義を挙げている。今、この定義を認めるならば、臓器移植を受けた患者は、免疫系を失っており、・・・・・・全体として有機的統合性を保っていないのだから、死んでいるという奇妙なことになり、しかもレシピエントをそうした状態に陥れた移植医は殺人を犯したことになる。逆にこのような定義を退けるならば、脳死状態=死とする根拠は、『最終答申』の内部論理においても失われる」[小松1996:114]。臓器移植がなされる場面では、治療目的で免疫の破壊が行われているのであるが、「全体として」統合性を保っているという、脳死臨調最終答申の定義に忠実であるとすると、小松が指摘したようになる。また、脳の機能によって身体の統合性が保たれていると考えると、臓器移植を受ける患者の場合には、脳の機能が停止してしまうわけではないのだから、統合性は保たれていると見なせるが、「全体として」という条件は、やはりここでも崩れている。
 現状における脳死判定は、必ずしも正確ではない。その具体的な内容と基準に関して、複数の説が並存しているということからも、それは明らかであり、一層の厳密化が必要である。また、脳の機能停止によって、身体の統合性が即座に崩壊するとは必ずしも言えないことが、実証されつつある。脳の機能停止が判定されてから、長期間にわたって心臓が動き続けた例も見られるのであり、そうした状態が長く続けば、時間が経過するにつれて、身体の状況はかえって安定してくるという[森岡2001:320]。このような事態が時として起きるのであれば、脳死判定を死の到来の判定基準として用いてもよいという、本人による意思表明の確認が不可欠となる。ところが、臓器移植法の改正をめぐる議論では、脳死判定を一律に導入し、その拒否を認めないようにするという案が提出された。これは、新鮮な臓器を少しでも早く摘出したいという願いにほかならないが、結果として、脳死判定を受け入れられない人々の死生観を無視して、そうした人々の死を意図的かつ不当に早めている。臓器提供者が脳死判定を受け入れられない場合、改正案に基づいて、本人の意思を無視した摘出に至るならば、死の到来の判定を不当に早めることで、制御の対象ではない他者の生が否定される。
  臓器移植を受けて助かりたい患者がどれほど存在するとしても、実際に臓器を提供することになる側の救命が優先されるべきである。患者が脳死判定によって死の到来を判定することを承認したからといって、その患者の救命がおろそかにされてはならない(1)。ところが、できる限り早い時点で臓器を摘出したいという一心から、脳死判定の成立を意図的に早めるという行為が、度々なされてきた。これらの行為こそ、小松の言う「殺人」としての脳死・臓器移植に当たるものであるにもかかわらず、下記のように、プライバシーの侵害を批判されて以来、メディアは、そうした実態を十分に報道しないことが多くなった。プライバシーの侵害につながる情報までも流してはならないということと、医療行為が適切に行われるよう、そのために不可欠な情報を積極的に報道するということとは別である。
 脳死や臓器移植に関する自己決定に関しても、それがなされる背景を吟味する必要がある。自己決定へと駆動するものが不当であれば、それを除去することから始めなければならないが、現状においては、全くその正反対であると言わざるを得ない。メディアによる報道では、臓器の提供が無条件に賞賛されており、その問題点が提示されることは極めて稀である。臓器移植法制定後に行われた数例の臓器移植における、「臓器移植推進キャンペーン」と呼んでも過言ではないほどの報道姿勢は、一種の世論操作そのものであった。その後、臓器移植が珍しくなくなり、話題性を欠いてくるようになると、報道量は格段に減少したが、その背後にあるのは、話題になるものを報じれば儲かるという、安易な姿勢にほかならない。単に利益が得られればよいと考え、報道の結果として生じる事態への責任は負わないのであれば、そうした報道関係者は、「表現の自由」の意味を錯覚していると言わざるを得ない。
  臓器移植法制定後に行われた一連の過剰報道は、プライバシーの侵害ではないかという批判が、読者や視聴者だけでなく、メディアの内部からもなされた。それによって当事者が非常に不快な経験をしたということは事実であり、その点は反省されなければならない。しかし、こうした報道においては、臓器移植という行為が「美談」として語られるばかりで、その結果として見失われたものがあった。それは、脳死判定を受けて臓器を摘出する場面に臨む、固有の歴史を持った生身の人間が存在しているということなのであり、そうしてまさに死を迎えようとしている人々によって、臓器移植という行為が成り立っているということが、隠蔽されてしまうのである[小松2000b:114](2)。
 「私たちは、アジア・太平洋戦争で、『善意』の特攻兵士を数多く送り出してしまった。彼らは、国体や家族を守ろうとして、自ら死を遂げた人々である。そして五十余年後、私たちは今度は医療現場で『善意』の『死の自己決定権』のもとに、新たな志願特攻兵をつくりだそうとしているのだ」[小松1998c:150]。小松による「死の自己決定権」への批判が適切でないことは、既に論じた通りであり、ここでは繰り返さない。しかし、医療の現場に限らず、様々な領域において、自己決定へと駆動するイデオロギーの力によって、数多くの「志願特攻兵」を今日の社会が生み出していることは事実である。それは、政治的なイデオロギーを吟味する力を持たないメディア、そしてそれをそのまま受け取る市民社会、その双方に責任があることは言うまでもない。メディアは、都合のよい時にだけ、「報道の客観性」なるものを逃げ口上として用いるが、彼らは報道内容が正確であることと、そこで扱う問題に対する批判を行わないということを、半ば意図的に混同しているのではないだろうか(3)。
 先程も述べたように、脳死判定や臓器移植についての自己決定においては、その決定の背後にあるものを明らかにすること、そして、決定内容に関しての十分な情報が与えられていることによって、本人が熟慮する機会を与えるという、話し合いの過程が不可欠である。特に子供による決定の場合、それが一層重視されなければならない。ところが、現状においては、このような過程はおろそかにされており、ドナー・カードを記入する際に、子供に限らず大多数の大人の場合も、十分な知識と熟慮に基づいて決定がなされているとは言えない。では、脳死や臓器移植に関する情報の伝達は、いかになされるべきなのだろうか。学校でこの問題に関する教育を行い、ドナー・カードを配布すべきだという意見もあるが、教師の語る内容や教科書などの記述内容が、特定の見解だけを伝達する危険性がある。そればかりか、事前の意思表明に基づいて臓器の摘出が認められる臓器移植法の下では、学校でドナー・カードを配布するという行為自体が、臓器提供者の増加を見込んでのものであるとも言える。
 一方、家庭でそのような教育がなされることも、安易に肯定することはできない。例えば、親が自身の宗教信仰を絶対化し、子供の見解を一定の方向へと導いてしまうことがあり得る。それ以前に、大多数の人々が脳死や臓器移植に関して不十分な知識しか持っていない現状では、親が子供に教育を行う資格があるかどうかも、大いに疑問である。まずは現状を変えていくことから始めなければならないが、そうした認識さえ乏しいのであり、一方で、熟慮する契機を欠いたまま、安易にドナー・カードへの記入が行われている。このことから少なくとも言えるのは、現在のドナー・カードによる意思表明という方式と、それへの記入がなされる環境は、全く不適切であるということだろう。そうであるならば、ドナー・カードが採用されるようになる前に行われていた、臓器提供者の登録制の方が、ましであると言えるかもしれない。この場合、登録の段階で、脳死や臓器移植の問題についての現状認識や、それらに関する知識などのチェック項目を設けること、そこに記述された内容を登録者が十分に理解しているかどうか、専門の担当者が、できれば本人との面接によって確認することなどは、最低限必要である。この制度を採用すれば、脳死判定や臓器提供を認める人々の数は、現在よりもかなり減るだろう。しかし、あまりにも安易な自己決定という現状を改善することの方が、より重要である。
  自己決定をめぐっては、ドナー・カードにばかり議論が集中しがちだが、それだけでなく、その背後にある臓器移植法そのものも、疑問点が少なくない。この法が抱える問題は、これまでも多くの人々によって指摘されてきたが、ここではそれについて、自己決定との関連で取り上げる。臓器移植法の成立以前に、その背景にあった脳死臨調での、脳死判定の採用に関する賛成派と反対派、両方の議論に問題があった。賛成派は、脳死臨調の報告によって、社会的コンセンサスが得られたと認識したが、現実にそうであったとは言えない。国会での議決の対象に関する知識や、決定内容についての理解が人々の間で十分に得られているという状態が、社会的コンセンサスの成立を意味するのであるが、この場合、そのような状況からは程遠かった[加藤1999:65]。一方、反対派は脳死臨調において、脳死判定そのものには反対しても、脳死状態からの臓器移植には反対しなかったのであり、その背景には、自発的な臓器提供という行為に対する賞賛があったのであろうが、そうした判断によって、臓器移植を合法化するという結論には必ずしも至らなかったはずである[加茂1999:235]。脳死臨調における討議では、臓器移植の合法化に関する検討が、極めて不十分であったと言えよう。
 また、そこで問われていた社会的コンセンサスの内容そのものも、議論の余地がある。すなわち、死の到来の判定基準や臓器提供の有無に関する判断を、個人の「自己決定権」を根拠として認めてよいかという議論が、完全に欠落していた。通常想定される「自己決定権」とは、それが臓器移植法において、遺産相続との類比として捉えられていることからも分かるように、近代的な所有論に依拠しているのであり、そのような論理が適切ではないということは、本稿での記述によっても明らかであろう。臓器移植法とは、脳死や臓器移植に関する判断を個人レベルに限定しているように見せつつ、実は個人レベルへの限定そのものを法制化する手段だったのであり、その制度化の必須条件であったはずの社会的コンセンサスを、制度化という行為自体によって、あたかも既に形成されたものであるかのようにしてしまったのである[小松2000a上:137]。更に問題なのは、社会的コンセンサスが得られたからといって、それを合法化することが常に正しいとは言えないという点であろう。
 以上のような合法化の過程においては、臓器提供という行為が無条件に肯定され、先述のような「美談」として語られている。そうした状況の下では、[萩原2000a]でも触れた、意思決定の画一化という暴力性が生じる。換言すれば、脳死判定や臓器移植が法的に正当とされている状況では、それらを選択することで世の中の役に立つべきだという無言の圧力が、患者やその家族にかかる[村上2000:77]。臓器提供者を少しでも増やしたい、脳死判定を採用することで、できるだけ早い時点で新鮮な臓器を摘出したいといった主張がなされる場合には、こうした問題は、おそらく全く考慮されていない。しかし、特に日本のように、集団の「和」なるものを自明なものとして重視する社会においては、その圧力に抗して、患者やその家族が、自分たちの意思を最後まで貫くことは困難である(4)。
  ところが、そういった問題が、判定基準や臓器提供の有無について、自己決定権があるという論理によって、見事に隠蔽されている。臓器移植法改正によって、脳死判定の拒否を不可能とする案は、事態を一層悪化させる。本当は、画一化の暴力を除去することで自己決定の容認がなされるべきなのだが、ここでは逆に、画一化によって自己決定の内容が誘導されることになる。このことを、ギリシャ神話の「プロクルステスの寝台」に例えることができよう。ダマステスは、旅人の身体がベッドからはみ出していれば、その分を切断し、逆に長さが足りない場合には、ベッドの長さに合うように、重りをつけて引き伸ばしたという。臓器移植法及びその改正においてなされることは、これと同様であろう。改正の結果、脳死判定という画一的基準の適用によって、死生観の多様性が「切断」されるのであり、改正以前の状態でも、脳死が法的に定義されていることによって生じる、無言の圧力という「重り」によって、脳死判定や臓器移植へと誘導されるのである(5)。臓器移植法という「プロクルステスの寝台」そのものを破砕し、患者を寝台から解放しなければ、この問題の解決は極めて困難であろう。それゆえ、臓器移植法の廃止の可能性が、もっと議論されてよいはずである。これに対して、臓器移植法を廃止すると、ブラック・マーケットによる臓器の売買が更に進行するのではないか、という批判がある。しかし、臓器移植法を廃止して、脳死判定や臓器移植を法制化されない状況で行うということと、臓器売買の禁止に関する法を新たに定めるということとは両立可能である。
  臓器移植法に関して注意すべき点を、もう一つ挙げておきたい。それは、脳死判定された患者の身体への処置は、「当分の間」、医療給付関係各法の規定に基づいて、健康保険が適用されるという、現行法の内容に関してである。この項目は、臓器移植法案が作成された段階でも含まれていたものであり、その時点で小松美彦は、次のように批判している。「健康保険法に基づくのはあくまでも『当分の間』なのである。『当分の間』が過ぎれば、個人・家族が治療費を全額負担しなければならないのである。しかも、『当分の間』とはむこう百年間か十年間かあるいは一年間か、まったく不明である。脳死状態の者に対する治療費は一日に数十万円かかると言われている。・・・・・・このような多額の治療費を出費できる者は、一部の高額所得者に限られるだろう。・・・・・・将来的にはほとんどの者が脳死状態で治療を断念せざるを得ないように、『臓器移植法案』はできているのである」[小松1996:28]。すなわち、判定基準を脳死か心臓死か自由に選択できるのは、現実的には、健康保険の適用が可能な間だけである。しかも、現状では二つの判定基準を自由に選択できるかのように思えるが、先述のように、脳死が法的に定義されている以上、そこでは無言の圧力が生じるということも見逃してはならない。
 従来の臓器移植法改正案に対して、森岡正博は、その代替案に当たるものを出した。その中で森岡は、臓器移植法を廃止することを、次のように批判している。「これは、現在の臓器移植法を廃止し、脳死は人の死ではないとし、脳死の人からの臓器移植を『殺人』だとして禁止する案である。これに関しては、(i)自分については『脳死』が『人の死』であると考える人の死生観を否定し、(ii)『臓器摘出』して助けたいと考えている人の臓器提供の自由を侵害することになるのではないか、という疑義があり得る」[森岡、杉本2001:5]。まず、「脳死は人の死か」という問題設定が不適切であるのは、本稿で繰り返し論じてきた通りである。次に、臓器移植法を廃止するという主張が、脳死判定された人からの臓器移植を殺人として見なしているとは、必ずしも言えない(6)。
  そして、現在は閲覧不可能だが、この代替案の素案に当たるものの最初期には、「『臓器摘出』して助けたいと考えている人の臓器提供の自由を侵害することになるのではないか」という上に引用した部分は、「『臓器摘出』してもよいと考えている人の権利を侵害することになるのではないか」と書かれていた(7)。この表現は、問題であると考える。第一に、先程論じたような、脳死や臓器移植が法的に定められている状況下での無言の圧力という問題が、ここでは全く無視されている。臓器摘出の「自由」や「権利」を掲げる一方で、臓器を摘出されたくない患者やその家族が、自分たちの意思を貫き通せる環境を奪われるという「権利侵害」が起きないと、確信できる根拠はあるのだろうか。そのような問題に対して、現行法、改正案、そして森岡の代替案では十分な対処もできずに、現状を放置することになるように思える。これこそ、法による画一化の暴力性と呼ぶべきものなのであり、ほぼ全ての立場がこの問題を忘却しているというのが、臓器移植法に関する議論の現状なのである。
  第二に、森岡が言うような、臓器摘出の「権利」は成立するだろうか。自らの身体に関しては、「自己決定権」ではなく、「自己決定」を認めるのが本稿の主張である。もし臓器摘出が「権利」であるならば、それは自らの所有物を自由に処分するという、近代的な所有論に基づく決定であり、そこでは所有者に絶対的な権限が付与されるので、家族の同意という条件は不要になるだろう。しかし、現行法においては、家族の同意が臓器摘出の条件として挙げられている。それならば、そこでは「権利」は生じていないことになるが、一方で現行法が、遺産相続との類比という近代的な所有論に依拠しつつ、自己決定が成立する年齢を定めているということとの間で矛盾が生じる。自己決定の場合には、他者を制御すべきでないという理由から、本人の決定が優先された。しかし、臓器摘出に関して、家族の同意が重視されているのはなぜだろうか。現行法の作成に関わった人々が、下記のような論理に基づいて、家族の同意という条件を設けたかどうかは疑わしいが、我々がその条件を望ましいものとして受け入れるのであれば、そこで前提とされているが、これまで問われてこなかった事柄があることを明らかにすべきだろう。
  それは、患者本人の自己決定が常に優先され、家族はそれを絶対に否定してはならないとは言えない場合も存在するということであり、その例こそが、臓器摘出に関する決定である。まず、臓器摘出に当たっては、本人による事前の意思表明を確認できていることが不可欠であり、本人が死後の臓器摘出を拒んでいる場合、あるいは意思表明が確認できない場合には、家族の同意だけで摘出が許されるようにされてはならない。先述のように、身体は患者本人の所有物ではないのだから、患者の死後に、臓器を自由に処分する権利が家族に移行することはあり得ない。家族にそのような権利がない以上、本人の了承なしに臓器摘出を行うことは許されないのであり、通常の遺体処理がなされなければならないはずである。しかし、臓器摘出を本人が了承している場合に、その意思を極力重視すべきであっても、患者の死後に、家族が臓器の摘出にどうしても同意できない場合には、摘出を行わないという可能性も、考慮されてよいだろう。臓器摘出に関する自己決定が、安楽死・尊厳死や、死の到来の判定基準に関する自己決定と異なるのは、この点なのである。
  既に述べたことを繰り返せば、安楽死・尊厳死や、死の到来の判定基準に関しては、制御の対象ではない他者に、代替不可能な形で到来する死に関する決定であるから、自己決定へと駆動する不当な要因を除去した上での本人の意思決定を、否定することはできないという理由が挙げられる。それに対し、臓器の処分に関しては患者の死後の問題であり、この時点では、臓器が本人の生を支えるものとなっているわけではない。すなわち、他者のかけがえのない生を支えるものを奪うことになるから、本人による承認が得られても、その決定を安易に容認するべきではないといった、生体間での臓器移植の場合に見られるような事態は、ここでは現れない。ただし、死の到来を判定されるまでは、患者本人の身体の一部として、その生を支えてきたものなのだから、死を迎えた途端に、本人による決定が全く無視されるというのも、明らかに正しくないだろう。だからこそ、患者の自己決定をできる限り重視するという姿勢を徹底させる一方で、その患者と共に人生を歩んできた、家族の思いへの配慮もなされるべきなのである。
  この代替案には、別の問題もある。それは、違法性阻却論に関する記述である。「生きている人からの臓器摘出を認めるという法構成を取ってしまうと、生きている『植物状態』の患者や、『無脳児』からも臓器摘出を可能にする道を開いてしまう。さらには、『障害者』『痴呆性老人』『死刑囚』等へと広がっていきかねない」[同上]。違法性阻却論は、脳死判定という医療行為自体は否定しないとしても、これによって死の到来が判定されるとは考えない。それゆえ、生きている人からの臓器摘出を認めるということになる。臓器摘出の条件として、本人による事前の意思表明を重視する森岡が、障害者からの無条件な臓器摘出を不当と見なすのは当然であろう。しかし、彼は脳死判定された患者を、「障害者」と見なしていたはずである。「脳死の人からの臓器移植とは、実は、脳に障害をおった障害者から、心臓や肝臓に障害をおった障害者への、臓器の移し替えであることが分かる。脳死の人からの臓器移植の本質は、障害者の身体の一部を、別の障害者の身体の中へと移し替えることである」[森岡2000:206]。この記述は、1991年に発行された文庫版の『脳死の人』に掲載され、2000年の『増補決定版 脳死の人』発行時にも、特に訂正されているわけではない。すると、この見解と、臓器移植法代替案での主張とは矛盾することになり、両立は不可能である。
  先程の引用箇所にあるように、森岡が臓器移植法の廃止に反対する理由の一つは、廃止の結果として、脳死判定を死の到来の判定基準として用いたい人々の死生観を否定することになる、ということである。そして森岡は、代替案には記載しなかったが、自らが運営する「生命学」ホームページ掲示板において、2001年1月24日に、「臓器移植法撤廃かつ脳死からの臓器移植は殺人であるがゆえに禁止」と発言している。しかし、脳死判定を法的に正当としなくても、それを死の到来の判定基準として用いることは可能なはずである。実際、現行の臓器移植法においては、脳死判定のみが明文化されているのであり、従来の判定基準である心臓死に関しては、日本の法律では、法的には全く定義されていない。そうであるならば、現状において心臓死判定は、死の到来の判定基準として適切であるという医学的知見のみを根拠として、正当なものとされているのであるから、脳死判定によって死の到来を判定することに関しても、法的に定義されていなければ、それを行うことが殺人になるとは言えない。法的に定義されていない判定基準によって死の到来を判定された患者からの臓器摘出は、殺人であると森岡は考える。しかし、脳死に続いて心臓死が発生するという順番を考慮に入れると、奇妙なことになる。森岡の論理に従えば、臓器移植法においては脳死が法的に定義されているがゆえに、心臓死を迎える以前の脳死状態からの臓器摘出は殺人罪とされることがなく、心臓死に至った段階での臓器摘出は殺人罪になってしまうだろう。
  もし臓器移植という行為との関連がなければ、心臓死を待って死の到来を判定されたとしても、それほど不都合を感じる人はいないはずである。臓器移植法が制定されたのは、脳死を死の到来の判定基準として用いたい人の「権利」もしくは「自由」を守るためではなく、臓器移植を脳死状態から行うことを可能にするには、脳死を法的に定義することが望ましいと考えたからであろう。実際、これまで長年にわたって、心臓死判定が受け入れられてきたのは、それが死の到来の判定基準として有効であるという医学的知見が、人々に共有されてきたからであり、心臓死が法的に定義されなければ、自分たちの「権利」や「自由」が侵害されるという声は、もしあったとしても、ごく少数だったはずである。臓器移植法改正案のように、脳死判定を一律に適用して、その拒否を認めないという主張が出てくると、心臓死判定を用いる「権利」や「自由」といった言説が登場するかもしれないが、少なくとも改正案が現れる以前には、そうであったとは言えない。仮に、臓器移植法廃止以降に、臓器移植以外の何らかの理由によって、死の到来の判定基準に関する法的定義が必要になったとしても、脳死を迎えてから心臓死に至るという順番は逆にならないので、そこでは心臓死のみを定義しておけば、問題は片づくはずである。脳死が医学的知見において、死の到来の判定基準として適切であるかということと、それを法的に定義すべきかということとは別であり、法的に定義されていなくても、脳死を死の到来の判定基準として用いてほしい患者が、不当な扱いを受けずに済むようにすることは可能である(8)。
  では、既存の諸説の検討を踏まえた上で、臓器移植法をめぐる問題に、私自身はどのように関わっていくのか、と問われるかもしれない。それは、本稿での記述からも明らかなように、臓器移植法が廃止され得る可能性を示し続けるということである。これは一見、極めて消極的な態度のように見えるかもしれないが、決してそうではないということを、ここで確認しておきたい。改正案への批判を、現行法の支持もしくは代替案の提示という形で行うと、そこでは臓器移植法そのものは肯定されることになってしまうのであり、本稿での見解においては、それは避けなければならないことである。もちろん、現行法の不当な改正は阻止し得るとしても、法そのものが廃止される可能性は、極めて低いということは承知している。そして、現状では、脳死・臓器移植に関する通常の議論の枠組みにおいては、本稿での議論は視野に入らない可能性が高いということも、予測している。
  それにもかかわらず、なお現状に対して否を唱えようとするのであれば、既存の自明性を一つ一つ崩していくことから始めるしかない。現行法存続か改正かといった枠組みを動かすには、このような地道な取り組みこそが不可欠なのであり、本稿での立場から廃止の可能性が叫ばれたり、市民運動が展開されたりしても、現時点では成果は乏しいように思える。その意味では、まだ機は熟していないのであり、本稿での議論は、従来の自明性に裂け目を入れるための、一つのきっかけに過ぎない(9)。ただし、現状を変えていくには、医療の現場で生命倫理が暴力性に陥ることなく、いかに機能するかという点にも、目を向ける必要がある。このような問題意識に基づいて、まずは生命倫理学の研究者共同体の内部における認識から現状を改善していく試みとして、「参照枠としての倫理学」の可能性を、次章にて提示する。

第6章 参照枠としての生命倫理学

  画一的な基準が法的に定められると、そこには先述のような、無言の圧力という暴力性が生じる。そして、この圧力こそ、患者の自己決定を不当に駆動するものである。[萩原2000a、b]でも論じたように、倫理学は、患者が自己決定を安易に下さないよう、決定内容に関して熟慮するための手がかりとしての、すなわち、意思決定の「参照枠」としての役割を果たさなければならない。また、患者の自己決定が常に優先されるべきでない問題に関しても同様であり、画一的な基準によって事態を処理しようとすると、患者と家族との関係性や、そういった関係性が各々の家族によって異なるという個別性は、完全に無視されることになる。この場合、患者本人の意思を極力尊重することを前提としつつ、参照枠を手がかりに家族が議論を重ねた上で、それに同意するかどうかという決定を下すべきだろう。議論の参照枠として倫理学が位置づけられることで、各々の個別的状況を重視するというのは、物事を曖昧にしてしまうことを意味するのではない。むしろ、基準を画一化した場合には見失われるであろう可能性に対して開き、より望ましい決定を下すための条件を整えることが、参照枠としての倫理学の意義なのである。
  こうした認識は、哲学や倫理学に関わる研究者だけでなく、医療関係者にも共有されなければならない。ここで、医者の倫理という問題が出てくるが、それを検討するに当たって、立岩真也の見解を見てみることにする。「医療という領域では特殊な知識が必要とされ、そのぶん専門家の方が有利で、消費者側の情報入手によってはこの有利さを覆すことはできないという指摘がなされることがある。しかしこれはおかしい。どんな物についても、私達は、その製造法、内部の構造等々をほとんど何も知らない。けれどもそれを使うことはできる。だから知識の特殊性、専門性が問題なのではない」[立岩2000b:26]。「医者もサラリーマンだ」という言葉を聞くことがあるが、医療に携わる人々も、現場での労働によって賃金を獲得しているという点では、その通りである。しかし、このことを認めるからといって、医療の現場で守られるべき規範や倫理が、その他の企業との類比で捉えられてよいという結論には至らない。
  医療もその他の企業も、それを利用する側は専門的な知識を有していることが少ないという点では共通だが、両者の決定的な差異として、利用者側が受ける損害の質を指摘できる。医療が扱う対象は、その利用者としての患者の身体であり、その人のかけがえのない生である。それに対し、その他の企業の場合、生産物やサービスによって利用者が損害を被ることはあるが、たとえその損害によって利用者の生命が不当に奪われることがあるとしても、そうした生産行為やサービスが、利用者の身体そのものを対象にしているわけではない。立岩は、制御すべきでないものとして他者の生を重視し、近代的な所有論とは異なる枠組みから、身体や、生と死に関する問題を考察する。そうであれば、近代的な所有論の枠組みとしての、生産者と消費者の関係との類比によって、患者の身体や生と死を対象とする医療を、その他の企業の場合と同様に扱うことは適切なのだろうか。「ぼくは、医療は特殊だからほかの業界と違うんだというのは、ちょっと違うんじゃないかというふうに思っているんです。ところがなにか医療というのはやっぱり特別だという話の中から、患者じゃなければ医者が決めなきゃいけない、決めようという話になってしまう」[同上:81]。患者への医療行為を決定する「権利」が、医者にないというのは正しいのであり、その点には賛同する。しかし、医者にそうした権利がないということと、医療の場面で、他の企業活動との類比によって捉えられてはならない倫理や規範が必要であるということとは両立する。
  医者の在り方に関して、立岩は二つの見解を挙げて比較する。「一つは、医者は技術者になればいい。修理工ですね。人体の修理工に徹すればいいんです。そういう教育しか受けていないわけだし、人間、一人の人がやれることには限りがあるわけだから、分業でやればいいと考える。『私は修理に専念します、後は別の人に委ねます』、と。もう一つの道、『そうでない、医者はなんにでも対応しなきゃならない、対応します』と言うなら、それが現実に可能であることを示すべきです。実際のところを冷静に見れば、前者の方が現実的です。空手形、空虚な使命感、空虚な自信は有益でないどころか有害です」[同上:78-79]。これは、おそらく意見の対立を強調して描いているのであろう。そのしばらく後に、次のような記述がある。「もちろん医者は、サービス業の従事者として、接客業の従事者として、もっとちゃんとした医者になるべきだろうけど、それと同時に、仕事を別の人に渡していく、渡していかなければいけないし、決定も渡していかなければいけない」[同上:84]。
  確かに立岩が指摘するように、立派な医者像というものが一人歩きしてしまい、現実からはかけ離れているという場合もある。そして、医者が何にでも対応すべきであると錯覚されることで、不当なまでにその「権利」が行使されることも少なくない。意図的になされたと思われる極端な対比から、立岩がそうした点を強調していることは分かる。しかし、「接客業の従事者」としての医者が、「もっとちゃんとした医者になるべきだろう」と言う時、少なくとも、まともであることの中身と、それを実現するための手段が示されていないのであれば、それこそ立岩本人が批判する、「空手形」、「空虚な使命感」になるのではないだろうか。これまで日本においてなされてきた、脳死判定や臓器摘出を振り返れば、それらの行為が容認される条件を満たしていたか、特に患者の自己決定や家族の同意が不当に誘導されたものでなかったか、といった点に関しては、臓器移植法制定後になされたものも含めて、数多くの疑問点が挙げられている。自らの業績にばかり目を向けるあまりに、脳死判定や臓器移植に全力を注ぐ一方で、「人は死んではならない」という医療の原則に基づく救命行為をおろそかにする現状を変えられないのであれば、立岩が言うような分業制を、本当に採用せざるを得ないのかもしれない。
  現状の変革は、医者の倫理として掲げられてきたものを、どのように具体的に機能させるかという点にかかっている。これまで問われてこなかったのは、医者が倫理を守るかどうかということ以前に、医療関係者に教えられてきた生命倫理そのものが、本当に適切であったのかということである。既存の生命倫理学の問題は、研究者共同体という閉じた空間でなされた議論を現場にそのまま持ち込み、画一的な基準として機能させようとしてきた点にある。そこでは、医療行為の個別性や、従来とは逆に具体的な場面から学び、理論を吟味していくという姿勢が欠けている。自分たちの議論から得られたものが、あらゆる場面に適用可能であり、それで問題が片づくと錯覚するのは、倫理学者の思い上がりにほかならない。医者に対して、「倫理を守れ」と単に繰り返すだけでなく、倫理学の研究の在り方自体を見つめ直し、自らが謙虚になることから、生命倫理学は再出発すべきなのではないだろうか。先述のように、生命倫理学は、各々の場面での意思決定の参照枠として機能しなければならない。
  しかし、それだけでは不十分であり、生命倫理学が具体的に機能する仕組みを整えることが課題である。特に、患者の自己決定や家族の同意の問題に関して、それは極めて重要であり、一旦なされた決定が適切であるかどうかを第三者が確認し、そうした作業を経てから決定の有効性を承認することが望ましい(1)。そこでは、ケアが不可欠なものとなるのであり、その意味で、「参照枠としての倫理学」と臨床哲学が交差する地点において、哲学・倫理学の営みは、まさに医療の現場で実践されることになる(2)。そして、ケアの現場における個別的なものから学び、意思決定の参照枠そのものを吟味していくことこそが、これからの生命倫理学の営みにおいて、必要なものとなるであろう。
  ただし、患者のためを思ってなされるケアが、患者本人にとっては、かえって心の負担になるということがあり得る。自己決定の内容について、患者が熟慮する機会を与えようとするあまりに、必要以上の介入がなされてしまうということである。ケアの作法については、ある程度定めることができるとしても、どこまでが介入にならないかという境界に関しては、患者一人一人異なるはずであり、普遍的な基準を立てることは不可能であろう。したがって、臨床哲学が重視する個別的な対応こそが、そこでは求められる。この点について川本隆史は、「立ち入らず、立ち去らず」という標語を掲げている。それは、相手の自己決定を尊重するという意味で「立ち入らず」、困難を抱えている他者を見捨てないという意味で「立ち去らず」、ということである[川本2000b:28]。このことを本稿の文脈に沿って記述すると、次のようになる。第一に、自己決定へと不当に駆動するものを除去するという過程において、「立ち去らず」に、その決定がより望ましいものになるよう、支えていく必要がある。第二に、不当な要因を除去した上で、他者の他者性を肯定することによって、「立ち入らず」に、本人の決定を尊重しなければならない。
  前章でも触れたように、臓器移植法による無言の圧力と、生命倫理学の自己決定権についての言説が共犯関係を結ぶことで、身体に関する「自己決定」の意味が歪められ、不当に機能してきたことは否定できない。それにもかかわらず、この共犯関係を暴き出すことは、これまで十分になされてこなかったか、あるいは、そうした主張の大半が、「自己決定権」と共に「自己決定」も否定するという論理構造に陥っていた。自己決定そのものを安易に否定してしまうならば、自己決定権という文脈において議論されてきた、近代的な成果までも見失うことになるだろう。一方で、「自己決定権」という言葉の濫用により、その成果が暴力性へと転化する、「啓蒙の弁証法」が医療の現場で繰り返し発生してきたことも事実である。こういった両面性を考慮に入れた上で、身体に関する自己決定という問題を捉え直すべきだろう。
  ところが、生命倫理学に関する研究の現状は、そのような認識からは程遠い。もしくは、現状のままでは問題であると認識しながら、それを変えていくための第一歩を踏み出せない研究者が少なくないのかもしれない。問題であると感じる事柄に対して批判を行わないということは、結果として、現状の肯定に自らも加担することになる。生命倫理学において議論された画一的な基準が法制化され、それによって発生する無言の圧力が、患者の自己決定権に基づく決定によって具体的な形で発動するというのが、臓器移植法の構造であった。ここでは、生命倫理学は、二重の意味で暴力性を発揮していることになる。だからこそ、生命倫理学の営みを問い直さなければならないのであり、これらの暴力性を少しずつでも解体していくためにも、参照枠としての倫理学の構想が、より一層重要なものとなる(3)。
  現状の問題点を一つ一つ改善していくには、これまで分断されてきたと思われる、理論と実践、学問と現場、具体と抽象をつなぎ、それらの間にネットワーキングを構築することが求められる。それは、学問領域、世代、地域を越えた人々のネットワーキングの中で生成されていく。そして、互いに議論を共有し合い、批判的な討議を重ねる中で、人々のネットワーキングも、絶えず再編成されていくであろう。[萩原2001a]で展開した「ネットワーキング論」は、そういった問題意識に基づいて書かれたものである。そして、問題意識を単に掲げるだけではなく、脳死・臓器移植や自己決定といった文脈において、諸学問のネットワーキングを実践することを、本稿では目指した。ここでの問題提起が、市民社会の様々なネットワーキングにおいて議論され、諸実践の中で生かされていくことを切望する。私は、今後もあらゆる領域において「ネットワーキング論」を展開し、近代を問い、生き抜くための「作法」を実践していく。諸氏のご指導、ご支援を賜れれば幸いである。
 


(1)もちろん、近代的な所有論とは異なるものを掲げるからといって、その主張が近代的な文脈から独立しているということにはならない。近代において自明とされてきた論理ではないという意味で、便宜上そうした表現を用いているのであり、近代を批判する主張と、それを語る者もまた、実際には近代の影響下に置かれているのである(詳細は、[萩原2001b]を参照)。
(2)「参照枠としての倫理学」の構想については、[萩原2001a]にて詳述した。

第1章
(1)そのことを私は、[萩原2000a]で問題提起し、そこでの議論が不十分だったため、[萩原2000b]にて修正を行った。
(2)これは、[萩原2000b]で用いた「科学的判定基準としての死」、「哲学的判定基準としての死」という表現にも言えることであり、「死」という言葉を、判定基準を指す表現の中で使用することは避けるべきであった。
(3)ちなみに、ここで「ポイント・オブ・ノー・リターン」という表現を用いなかったのは、科学的判定基準と哲学的判定基準の混同を避けるためにほかならない。
(4)このように述べても、知覚という主観的要素に歪められていない、客観的世界は存在するのだという意見が聞こえてくるだろう。では、知覚に依拠しなければならない我々は、どのようにして客観的な世界を知ることができるのだろうか。つまり、主観と客観という二つの世界を想定した場合、我々は前者に閉じ込められているため、それが後者にどう対応しているのかを、知り得ないことになる[大森1981:127]。主観に支配された知覚が幻覚であるかどうかという懐疑は、客観的な世界を想定する前提となるが、それは逆に、主観と客観を分けて論じる主張の基盤そのものを破壊することになるだろう。すなわち、手がかりが一切ない世界を想定すること自体への懐疑へと至るのであり、主観的な世界への懐疑は、最終的には主観と客観の二元論への懐疑となる[同上:128]。
(5)こうした観察行為とは、知覚経験の中から理論にとって有意味な項目を選択し、「科学的事実」として再構成する作業なのであり、そのようなスクリーニングを制御しているのが、研究者共同体において共有された「パラダイム」にほかならない[野家1993a:121]。このことを、大森荘蔵の表現を借りて整理してみたい。日常的な知覚に基づいて描写されたものが日常的世界であるのに対し、理論負荷的な観察に基づいて思考的に描写されたものが科学的世界なのであり、両者は、同一の世界を異なる描写方法で「抜き描き」された結果なのである[大森1976:ii]。
  ここから明らかになるのは、医療関係者の一般的な認識に反して、脳が機能することで知覚が生じるわけではないということである。確かに脳の機能が完全に停止してしまえば、意識や知覚も消失するだろう。しかし、脳の状態変化とその因果関係をどんなに微細に記述しても、そこに意識や知覚といったものが現れることはない。科学的判定基準と哲学的判定基準との関係と同様に、脳の状態変化という科学的描写と、知覚という日常的描写の間には、何の因果関係も存在しないのであり、この二つの描写は対応関係にある。ただし、科学的描写は、日常的描写において知覚されたものを土台として、それが理論と結びつくことで成立している。したがって、科学的描写は、日常的描写に「重ね描き」されたものなのである[大森1994:233]。
(6)「『だれ』としての『わたし』の存在が身体のなかの『脳』という部位に還元されて考えられているとき、そして脳の機能停止をそのまま『わたし』の死であるとみなす、そういう思考のなかでは、脳を除いた身体は人称的にニュートラルな空間、つまりは非人称の空間として経験されていると考えることができる」[鷲田1998:85]。

第2章
(1)更には、ここで自明のものとされている、近代的な所有論の論理構成も検討の余地がある。通常は、我々が自らの能力と思われるものを行使することで、労働による成果を得る権利が生まれると考えられている。しかし、このような能力を活用すること、あるいは自らの行為をある程度制御するということは、その身体や能力がどこから来たのかということ、そして、それらが本当にその人のものであるのかということとは別である[立岩1997:44]。すると、所有の根拠を作るはずの労働力は、自らの所有の対象ではない身体によって支えられているという、奇妙な事態が生まれる。その場合、労働によって得られたものは、本当に所有の対象となるのかという疑問が出てくる。しかも、労働の報酬は、なぜ労働を行った本人の所有物にならなければならないのだろうか。その理由として考えられるのは、このようなルールによって社会を運営すれば、人々の不満が比較的少なくなるということであろう。自らの労働に値する報酬を得たいと多くの人々が思うのであり、こういったルールを放棄し、完全に平等な分配を行えば、人々の労働意欲は低下し、その社会は崩壊するだろう。ただし、一方で、病や高齢、身体の不自由といった理由で、働くことができない人々への福祉も肯定されているという点で、労働だけが収入を得るための唯一の手段と見なされているわけでもない。
(2)事実、その通りであり、この表現を用いなくても、そこで問われているものを記述できるということを、次章では明らかにする。
(3)小松の言う「個人閉塞した死」と「共鳴する死」は、前章での私の記述と重なるが、そこで言おうとしたことが完全に重なるわけではない。科学的判定基準としての脳死や心臓死が、概念としての死に等しいものと見なされた時、「個人閉塞した死」が発生し得るが、そこでは「共鳴する死」が消滅してしまうのではない。前章でも述べたように、死の到来を判定された患者の家族には、患者の死が共鳴しているのであって、それが「個人閉塞した死」に回収されてしまうのは、医療関係者が新鮮な臓器を早く得たいとの一心から、死の到来を判定されて以降の患者の身体を、単なる物質として扱う場合である。そして、そういった行為を正当化してしまう可能性が、「脳死は人の死であると法的に定義し、その拒否権を認めない」という臓器移植法改正案に胚胎しているということも、前章で述べた。しかし、「共鳴する死」を認めるからといって、それが死の自己決定を否定する論拠になるとは言えない。

第3章
(1)この条件が小松によって提示される背景には、次のような認識がある。「日常生活の隅々まで見渡して、他者とかかわりなく、純粋に自分だけで決定を下していることなどあるのだろうか。無数の人々や事物が織りなす関係世界にあって、他者との実際のあるいは想像上の相互交流を通して何かが結果したとき、その結果が自分の思いに近かった場合に、私たちはそれを自己決定だと思いこんでいるに過ぎないのである」[小松1998c:146]。ただし、既に触れたこととも重なるが、我々の認識が間主観的な営みであり、自らが生きる共同体の影響を被っているという事実を認めたとしても、事実がそうであるという判断から、自己決定は許されないという結論を直接には導き出せない。それゆえ、小松も「自己決定権」という、自己決定を「個人閉塞した」権利として持ち出すことは否定しても、「自己決定」そのものの否定には至らないのであろう。しかし、自己決定の対象が本人の死に関わる場合には、「人は死んではならない」という原則に従い、その決定は許されないと、小松は考えるだろう。
(2)近代的な所有論に関して検討した際に見たように、労働を行った本人が、その成果を自らの所有物とすることが正当とされるのは、そのように設定することが社会の運営上都合がよいからなのであって、それ以外の理由によるのではない。すると、これとの類比で身体について語られた場合には、我々は自らの身体を所有していないという点で、大きな問題が発生する。それは、制御する者がその対象を所有するという発想では、その者の下にある生命や身体が奪われてはならないという理由を見出せないということである[立岩1997:115]。それゆえ、ここでの立岩の見解のように、むしろ自らの身体を所有の対象としていないということによってこそ、生命や身体に関する搾取の不当性が主張されなければならない。この点からも、身体を所有物と見なし、遺産相続との類比によって自らの身体についての自己決定が主張されてきた、臓器移植法の枠組みの問題が明らかになる。
(3)そうであるならば、「所有」という言葉を使わなくても済むはずであり、「身体の所有の想定」という表現で考えてきたことは継承しつつ、その表現をこれ以降は用いないことにする。
(4)こういった見解に対しては、福祉の行き詰まりという指摘がなされるだろうが、現在の国家予算の配分には疑問点が少なくないのであり、無駄な開発事業や、政治家や官僚による不正な使用など、改善の余地はいくらでもある。そして、そのような改善を行うことは、税金が従来よりも有効に使われるということでもあり、人々による支持も得られやすいであろう。
(5)言うまでもなく、このような「自己決定」において承認される「他者」は、従来、生命倫理学が「自己決定権」を論じる際に用いてきた、「他者危害の原則」で言われる「他者」とは異なる。後者においては、他者に危害を及ぼしたり、迷惑をかけたりしない限りで本人の自己決定権を認めるのに対し、前者では、他者が制御の対象ではないゆえに、むしろ迷惑をかけることを容認するのである。それどころか、本稿で論じてきた「自己決定」は、「他者危害の原則」そのものを批判する。なぜなら、他者危害の原則に従って、「他人に迷惑をかけない」ために死の自己決定を行うということを、そのままでは正当と見なせないからである。[萩原2000b]では、他者危害の原則の観点から、身体の所有という想定に基づく、自らの身体に関する自己決定権としての臓器提供が許され得る範囲を検討した。もちろん、本稿ではそのような立場はとらないのであり、詳細は次章以降で論じる。ただし、従来の生命倫理学に関する議論の枠組みで、臓器提供の自己決定権を捉える限りでは、[萩原2000b]で述べたようになるはずである。
(6)そこでは、何の検討もなしに従来の権利概念を正当とするような、絶対的根拠への還元は拒絶される。むしろ、絶対的根拠への還元という営み自体が、近代的な思考の呪縛によって成立している。この認識において、権利概念の脱構築は、[萩原2001b]で論じた、「起源とテロスの不在」、「無根拠からの出発」としての「トランスモダン」の営みに接続されることになる。「このような『根拠の不在』を目の当たりにして驚き慌て、急ごしらえの『機械仕掛けの神』を誂えて問題の解決を図ることはむしろたやすい。困難であり、必要なことは、深淵にも似た『無根拠性』に耐えつつ、問いを問い、思索の糸を紡ぎ出すことである」[野家1993b:324]。そういった問題意識に基づいて、本稿では自己決定に関する検討がなされてきた。「われわれの認識活動はつねに歴史的生成の動的過程のただ中に属しているのであり、そこを離脱することはできない。われわれは、すでに知識の大海へと漕ぎ出しているのである。大海の上では、アルキメデスの点は何の役にも立たない。しかし、ノイラートの船ならば、われわれはそれに帆を掛けることができる。〈知〉の理論とは、ノイラートの船に掛けられた風を孕んだ帆のことである。それゆえ〈知〉の理論は、いつでも『途上』を出発点とし、『途上』を到達点とする理論でしかありえない」[同上:258]。

第4章
(1)そして、臓器移植法との関連で後程考察するように、この二つの「権力」が結びつくと、法的に定義された画一的な基準が患者に受け入れられる時、自己決定権がそれを正当化する理由として機能し、その背後で患者に働いている無言の圧力が無視されることになる。
(2)ただし、以上のように言えるのは、患者本人の身体に関する決定の場面においてである。中絶などを正当化する根拠として、生命倫理学が「自己決定権」を掲げてきたことは誤りであろう。ここで決定の対象となっているのは、これから生まれてくる他者の生命なのであり、この問題を自己決定権によって処理しようとすれば、他者危害の原則に反する。しかし、中絶される対象による自己決定は成立しないのだから、親が中絶の有無を決めるしかない。出生前診断の結果などを理由に、生まれてくる子供の苦痛が極度に大きくなると考えられる場合に、親が中絶を願うことがある。こういった条件を満たしているならば、中絶が許容され得るという主張の背景にあるのは、親による自己決定権の行使ではない。「苦の多い存在であるよりも苦の少ない存在であってほしい。しかし、あってしまったら、既に、その者はその者だけの生を生きるのだから、比較のしようがない。ただ、この時には、まだいない。私が代替することのない、その者に固有に訪れるだろう苦痛や死がためらわれる理由になる」[立岩1997:409]。つまり、出産の結果、他者として生き始めることになる子供が、自らの人生において代替不可能なものとして引き受けなければならない苦痛が、過度に大きくなるであろうと考えられる時、出産がためらわれる。不当な理由による強制的な妊娠の場合などに中絶が容認されるのも、出産によって、本人のみならず子供も、多大な精神的苦痛を抱えて生きることになると考えられてきたからである。
(3)なぜなら、これまでに引用した小松の見解をまとめると、次のように言えるからである。すなわち、小松が「自己決定」を認めるのは、自己決定の根拠とされる自我が、自らが生きる文脈の影響下にあるという点を理解すること、徹底した話し合いを行うこと、そしてそこでの決定が本人の生命の存続を前提になされること、以上の条件を満たす場合であり、死に関する決定については、「人は死んではならない」という理由によって否定される。
(4)社会主義諸国では、最低限の生存に必要な条件も保障されない劣悪な環境が、社会主義の「権力」によって設定され、人々が不当に搾取されてきた。だからといって、単に資本主義化を進めればよいわけではなく、その過程においても、経済成長を最優先とした独裁政治が展開される危険性が高い。20世紀に出現したアメリカのニューディール、スターリンの計画経済、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本の軍事統制型システムなどに見られるように、資本主義は社会主義的な経済システムに変容し、社会主義は資本主義的な経済システムに変容したという点に、両者の同根性、同質性が現れている [今村1994:46]。そして何よりも、両者の原点であるフランス革命自体が、暴力革命であるという共通性を指摘できよう。例えば、現在の「世界資本主義」の代表とも言える、「自由と平等の国」アメリカは、先住民族の虐殺という暴力行為の上に成立した国家であり、現在でも自国の「正義」なるものを、武力行使という暴力によって実現している。フランス革命以降の200年は、資本主義であろうと社会主義であろうと、経済的合理性、技術的合理性、生産力中心主義という共通の指標で動いてきた[同上:32]。それらの自明性が崩壊するということは、近代的なシステム自体の危機を示している。
(5)ただし、脳死判定という行為が、臓器移植と不可分な形で採用されていることは事実であり、少しでも早く新鮮な臓器を摘出したいからこそ、それが死の到来の判定基準として用いられることになる。
(6)更に問題なのは、美馬と立岩の想定において、脳全体の移植だけが議論の対象になっているということである。加藤は、[加藤1990]の段階では、本章で扱ったような意味で人格を定義していなく、美馬や立岩と同様の解釈をとっているが、そこで論じられている同一性に関する見解を、記憶の同一性についての議論に当てはめて考えることができる。加藤によれば、同一性は、脳という物質的なものの全体に対応するわけではないのだから、同一性が局在して保存される限りにおいて、脳の部分的な移植が許容され得るのではないかという[加藤1990:114]。このような可能性についての検討は、美馬と立岩には見られない。ただし、記憶の同一性の保存という条件は、立岩の言う脳中心主義である。
  記憶の同一性に関する議論との関連で、本章での検討作業においては考慮に入れなかった、身体の同一性の問題についても、ここで触れておきたい。臓器移植においては、拒絶反応を抑える免疫抑制剤を使用しなければならないから、身体の同一性は成り立たないのであり、移植前と移植後では同一人物と言えるのか、という議論がある。それに対して、身体の同一性を否定する一方で、記憶の同一性が臓器移植を認める根拠として論じられると、脳中心主義となる。また、身体の同一性は成立すると考える場合、部分的に臓器が交換されただけであると述べられるが、脳は交換されていないということが前提となっている限り、これも脳中心主義にほかならない。これらとは反対に、身体の同一性を否定して、移植前と後では同一人物ではないと言ってしまえば、それは脳中心主義ではないが、そのように考える人は、まずいないだろう。しかし、上記のどの立場を選んでも、これらは人格の同一性については一言も述べていない。人格が消滅するのは、その人に死が到来した時のみなのである。
(7)ちなみに、脳移植が行われない[1]の問題点は、Aの記憶がコピーされることで、Bの生きた経歴の中で形成されてきた、人格の一部としての記憶の同一性が破壊されるという点にある。逆に、Bが自分の記憶を抹消して、Aの記憶のコピーを入手したいと考える場合にも、問題は生じる。ここでは、Aの生きた経歴に対応する記憶の固有性が失われ、それが制御の対象となっている。これらは、脳中心主義そのものからの批判ではない。他者が生きてきた経歴に対応する記憶の抹消やコピーにおいて、他者の生を制御の対象としていることが問題なのである。
(8)実際、骨髄や肝臓の移植では、提供者の多くが近親であり、臓器提供を待つのが幼い子供である場合には特に、親の申し出が心理的に強制される危険性が高い[加茂1999:40]。親が自分の子供を助けたいと願うとしても、自らの臓器を摘出して子供に与えることは「義務」ではないのであり、そういった行為が強制されてはならない。周囲からの無言の圧力という問題は、通常の臓器移植においても生じている。そこにおいて、臓器移植法が決定的な役割を果たしているということについては、次章で論じる。

第5章
(1)脳低温療法などを採用し、救命に全力を注ぐならば、従来よりも臓器の新鮮さは失われるかもしれない。しかし、救命を優先するのは当然であり、臓器の受容側には、提供側の死を不当に早めてまでも、移植を受ける「権利」はないはずである。むしろ、実際には、臓器移植以外では助からないとは言えない場合も珍しくないのであり、患者にとっても、よりリスクの少ない手段での救命を模索することが望ましい。
(2)同じような世論操作は、様々な場面に見られる。例えば、人々に好まれそうな記事を書くことを至上とするようなメディアの場合、線路に落ちた人を助けようとして死亡した人々に関する報道では、ほぼ毎回のように、それを「美談」として語る。そして、報道に共感した多数の読者からの投書や、インターネット上での書き込みも後を絶たない。しかし、助けようとしたその人も、本当は死なない方がよかったはずである。このことが無視されて「美談」としてのみ語られ、それが一種のイデオロギーとして機能する時、「共鳴する死」は、同じく小松の言葉を借りれば、「死の義務」へと転化する。
(3)「死の義務」へと人々を誘導するイデオロギーの温床である、メディア、政治、企業、そして研究者などの、不当な癒着構造そのものを問題にしない限り、現状が変わるはずはない。それと共に、自らも、こういった問題を生み出す社会の一員であり、現代社会における人々の欲望こそが、たとえ積極的にではないにしても、沈黙を守るという形で現状を肯定しているということを、直視しなければならない。
(4)そういうことをできないから日本人はだめなのであり、個人の主体性の確立が必要だといった一般論を掲げ、批判することは誰にでもできるが、この種の主張ほど無責任なものもない。なぜなら、無言の圧力によって苦しんでいるのは、一般論を語る「知識人」ではなく、病院で自らやその家族の生と死に直面する人々だからである。一般論が語られることで、個別的な場面で苦しむ人々の実態は、かえって隠蔽されてしまう。日本人の性質を改めていくことは重要であるとしても、実際にこのような場面に置かれた人々の葛藤や苦しみを無視して、一般論を語るだけでは無意味なのであり、それどころか、現実に対する批判を行わないという意味で、現状を肯定することにさえ等しい。
(5)同じようなことが、ドイツでは優生学との関連で起きた。1970年代に導入された「優生学的事由」条項によって、障害を持つ子供を産もうとする女性に対して、「法律で認められているのに、なぜ中絶しないのか」という社会的な圧力がかかっていること、「優生学的事由」は、当初は「権利」として提示されたはずなのに、実際には「義務」へと転化してしまっていることが、フェミニズムの立場から批判され、1995年の法改正に伴って、条項は削除された[立岩2000b:145]。こうした歴史があるにもかかわらず、日本においては、臓器移植法によって生じる無言の圧力に対して、専門家を含む大抵の人々が、なぜ無自覚なままでいられるのだろうか。
(6)私が臓器移植法の廃止を主張する時、自己決定を下すに相応しい状況下でなされた意思表明に基づいているならば、脳死判定を死の到来の判定基準として用いることを否定しない。森岡は、この問題に関する議論を整理する意味で、それぞれの立場の代表的な見解を書いているのであろう。しかし、国会提出法案に関する審議で活用されることを目的に用意された代替案である以上、これが実際に議論に用いられた場合に、同じカテゴリーに分類される立場であっても、その見解は多様であるということが、関係者に見落とされる危険性を孕んでいるように思える。
(7)森岡の意図に反して、臓器提供の「権利」なるものを主張するのは、臓器をブラック・マーケットにおいて売買することを正当化し、それによって利益を得ようとする場合であろう。自らの臓器を売らなければ生活できない状況にある人々は、好んでそういった行為に走るわけではないが、金銭を得るためにはやむを得ないので、このような言説を受け入れようとする。そして、そういった弱みにつけこんで、ブラック・マーケットの経営者は利益を上げるのであり、その手段として用いられるのが、臓器摘出の「権利」なるイデオロギーにほかならない。あるいは、臓器移植法改正案で提示されたような、人間は死後の臓器提供を自己決定している存在であるといった詭弁を論じる人々が、臓器摘出の「権利」という言葉を、同じく自らのイデオロギーのために用いるかもしれない。臓器提供の「自由」という表現に関しても、その効果が多少弱められているに過ぎない。森岡が臓器移植法の現状に満足せず、改正案に反対して自ら代替案を掲げたことの意義は大きいが、そこでの言説が及ぼす効果、あるいは、それが不当に利用され得ることに対して、再検討の余地があるのではないだろうか。
(8)ただし、臓器移植法の廃止を主張するからといって、廃止と共に、角膜腎臓法もしくはそれに類するものが復活することは、望ましいとは考えない。そこで生じ得る問題の中でも、本稿との関連で特に重要なのは、角膜腎臓法のように、家族の同意だけを条件に臓器摘出が認められるべきではないということである。したがって、臓器移植法が廃止された状況においては、事前の意思表明という点を引き続き徹底させると共に、先程ドナー・カードについて論じた際に見たように、そこでの意思表明が妥当であるかを確認する制度の、更なる充実を図ることが課題となる。現行法の廃止を主張するということは、現行法の望ましい点までも犠牲にすることとは異なるのであり、そうした視点を欠いた安易な廃止論であれば、患者やその家族に対する暴力性は、かえって悪化するばかりである。ちなみに、私の見解は違法性阻却論ではない。脳死判定という医療行為を、死の到来の判定基準として容認するという点で、そのことは明らかであろう。
(9)言うまでもなく、自明性に裂け目を入れるという行為は、[萩原2001b]で扱った、「トランスモダン」の歴史哲学の問題意識そのものである。本稿での記述は、他人の言説を批判して終わるのではなく、この批判という行為自体に、従来の議論の文脈を脱構築し得る、最大の可能性を見出している。改正案のような詭弁は別として、これまで度々引用してきた、小松、立岩、森岡といった諸氏の言説に対しては、共感する部分が少なくない。むしろ、諸氏の議論から多くを学んできたからこそ、本稿の執筆も可能であったことは確かである。だからこそ、それぞれの主張の可能性を一層引き出しつつ、今後更に、相互の積極的な批判が可能となることを願うばかりであり、そうした思いから、本稿は執筆された。互いの可能性を引き出す積極的な意味での批判とは、その営みを通じて相手の思考を揺さぶると共に、その過程で相手の文脈に沈潜することにおいて、自らも変容する可能性に対して開くという、トランスモダンの実践にほかならない。実際、本稿での記述が、[萩原2000a、b]とは異なった観点から行えたのも、諸氏の見解を吟味する過程において、私自身の自明性が揺さぶられ、それまで見えなかった可能性に対して開かれたからである。

第6章
(1)先程、臓器移植法におけるドナー・カードによる意思表明があまりにも安易であり、制度を改革すべきであると提言したが、その問題とここで論じたことが、共通の認識に基づいていることは言うまでもない。
(2)「参照枠としての倫理学」と臨床哲学との比較・検討は、[萩原2001a]を参照。
(3)先述のように、参照枠としての倫理学は、物事を曖昧にすることとは正反対なのであり、むしろ従来の議論が、画一的な基準を掲げることで完結してきたことに問題がある。自己決定そのものに関しても、同じことが言える。自己決定という概念を肯定的に捉えるにしても、あるいは否定的に捉えるにしても、個人の意思決定の根拠を、自己決定権の有無に還元することで完結してしまう議論が、これまでどれほどなされてきたであろうか。権利の有無を論じるだけでは問題は片付かないという認識を持ち、その先にある問いを考え抜いていくことを、本稿では試みた。
 「自己決定権」として主張されてきたものの成果を認めた上で、その問題点を改めていくためには、自己決定を絶対的なものとして掲げるのではなく、一方で全面的にも否定しないことが望ましい。それは、アドルノの言葉を用いれば、「限定否定的」な思考ということになるだろう。[萩原2001b]で論じた「トランスモダン」の作法こそが、そこでは実践されなければならない。トランスモダンとは、「啓蒙のプロジェクト」と「啓蒙の弁証法」との弁証法である[野家1992:657]。すなわち、近代的な可能性を引き出しつつ、同時にその相対化も試みるという二重の課題を、未完の営みとして位置づける必要がある。そうした作法は、意思決定の参照枠自体を、不断に吟味する過程においても不可欠となる。
 

参考文献

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