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現代文明学研究:第9号(2008):500-519
殺めるなかれ、盗むなかれ、貪るなかれ
:大戦間期ポーランドの平和構想
仲津由希子


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はじめに

 ポーランド史といわゆる世界史のあいだでは、時々、叙述枠の大きなずれが生じる。1920年代に盛んになった軍縮・平和運動は、そのひとつの典型例である。1927年9月、国際連盟で「戦争禁止宣言」が採択された。日本では、これを国際連盟による侵略戦争禁止決議、ないしはこれに類した呼び方で呼ぶ。そして大抵は、軍縮・平和運動の萌芽として世界史上に位置づける[1]。これに対して、ポーランドは、これを一般に「(1927年9月の)ポーランドの提言Polskie propozycje z września 1927 r.」と呼ぶ。そして、9月初めのポーランドの提言を起点として、その後の一連の交渉を経て、いかに戦争全面禁止という本来の提言の意図が損なわれたか、最終決議がいかに矮小化された内容だったかを描きだす。

 といっても、ポーランドでも平和運動への貢献という研究視点が出てきたのは割と最近である[2]。古くは、隣国ドイツ・ソ連からの脅威を減らすために平和運動を利用したという説明の方が主流だった。また今でもこの解釈が根強く残っている[3]。本稿は、こうした研究状況に対し、1920年代すでに実定法的国際秩序観がほぼ確立していた国際社会にあって、自然法的な国際秩序観を残存させた人びとによるひとつの提案が、1930年前後のポーランドの軍縮・平和運動だったのではないか、という別の視点からの仮説を提示するものである。いいかえれば、一連の交渉過程の対立構造を法文化間の対立として解釈していくことを提案する。そのための作業として、およそ法社会学的見地からみた際、当時のポーランドは、実定法への国際法の移行が進まず、自然法的国際秩序観を残存させていた可能性があることを指摘する。さらにその国際秩序観を理解する手がかりとして、1920年に執筆されたKazimierz Tymieniecki(1887-1968)の「Paweł Włodkowicの見解における国際関係上の道徳」を検討する[4]。最後にWłodkowic 思想を手がかりに、自然法的国際秩序構想としての1930年前後ポーランド軍縮・平和運動という像を読み解き、その構想が、欧米の実定法的国際秩序観と相克した様子をみていく。Paweł Włodkowic(1370?-1436)とは、中世ポーランドにおいて、ドイツ騎士団の十字軍活動の不当性を唱えた学者であり、1920-30年代ポーランドの外交政策とは一見、無関係にみえる。しかしながら、Tymienieckiは、中世同様に「西」からの脅威に晒される地政学的位置にある1920年代ポーランドにとって、Włodkowicが展開した思想は、アクチュアルに大きな実践的・政治的意義があるからこそ、大きな戦略的意義があると認めていたのであった。以下では、このWłodkowicの思想の要諦からまず詳細にみていこう。

 本稿は、この考察を通じて、間接的には、ポーランドの挫折を知らない国際平和運動史、ポーランドの挑戦をもっぱら現実主義的に評価する米国流国際政治学、ポーランドに対する大国の横暴を論う小国史観、といった従来の国際関係史の研究視角や問題領域の挟間で看過され続けたもののために、今日、日本ではやや不十分なグローバル化像が流布しているのではないか、という問いについて考えようとするものである。

【1】中世ポーランドの国際関係秩序概念
――Paweł Włodkowicによる十字軍的秩序の否定――

 中世ヨーロッパ社会の国際秩序についておおまかに説明するなら、それは、第1には、教皇を頂点とするカトリック教会を中心に集結し、東方正教会ならびにイスラム諸国と対立する秩序であった。第2には、諸国の国王や諸侯に対して、いずれが正当な権威を有するのかを、教皇権力と神聖ローマ帝国皇帝権力とが相争った秩序だった。第3に、それと同時に国王や諸侯も(本来は聖職者の会合である)公会議に出席して、教皇・皇帝両権力と対抗した秩序だった。第4に、高度な行政組織や自前の軍隊をも保持するハンザ同盟などが誕生し、都市が国王や諸侯など世俗の権力と対抗関係にあった頃の秩序だった。このような乱世に、各地で対立教皇が擁立された、いわゆる教会大分裂の事態を収拾するために開催されたのが、コンスタンツ公会議(1414-1418)であり、そこでポーランドの国益を代弁した演説によって、のちに聖人に列せられたのがPaweł Włodkowicであった(ラテン語名Paulus Vladimiri)。

 Włodkowicは、プラハ大学、パドヴァ大学(イタリア)で学び、法学や神学、William of Ockham(1288-1348頃)のスコラ哲学などを修めた学者である。帰国後、ポーランド最古のヤギェウォ大学(クラクフ)に迎えられ、最終的には学長にもなった。注目に値するのは、当時、同大学を中心にポーランドでは、国家や法、主体、人権、国際裁判所などについて幅広く議論されていたことだろう。これらを総称して法学系のクラクフ学派と呼ぶこともある。そのなかで、本稿に関わるのは、キリスト教徒社会の一員であるポーランドにとって公正な戦争とは何かについて考究した、クラクフ学派戦争法学である。

 当時のポーランドで公正な戦争に関する議論が盛んにならざるをえなかったのには、それなりの歴史的背景がある。ポーランドの史学者が明らかにしているように、ポーランドは十字軍にある程度、関与していた[5]。自分たちこそ「キリスト教の防波堤」だという意識をもち、異教徒とも対峙していた。かれらの世界観に矛盾を来させたのは、同様の聖戦意識を抱いたドイツ騎士団の東征という事態との遭遇であった。つまり、十字軍とは、基本的には、中世西ヨーロッパのキリスト教諸国が、イスラム教諸国からの聖地エルサレム奪還を目的として派遣した遠征軍である(1096年~13世紀後半)。だが、実際には、聖地と直接的関係のないレコンキスタや東欧、バルト海沿岸諸国への侵略、アルビジョアのキリスト教異端に対する迫害も十字軍の名のもとに行われた。ドイツ騎士団も、本来は12世紀後半のパレスチナで聖地巡礼者の保護を目的として設立された、ドイツ人の聖母マリア騎士修道会であった。だが、13世紀前半に対異教徒対策として、より東方にある諸国の国王に招聘されたことがきっかけで、当該地域への入植を開始する。ドイツ騎士団はマルボルクを拠点として西のハンザ同盟と経済的に結びつき、次第に経済力を強化するようになった。かれらの専制を嫌った在地勢力やユダヤ人、かれらと結びついたポーランド国家との経済的対立という構図が、次第に明らかになっていった。1410年、ポーランドは最終的にリトアニアと連係して、グリュンヴァルド(タンネンベルグ)で、ドイツ騎士団を撃破する(一般的にはこれをもってポーランド=リトアニア連合王国誕生とする)。だが、ドイツ騎士団は、もともと教皇と皇帝両方の権威によって支えられた聖戦の担い手である。それゆえ、自分たちの闘いは世俗国家同士の政治的争いとはいえない。しかし我々ポーランドも建国以来、カトリック教会の権威に服している。この闘いの際に、ドイツ騎士団を退けることを最大の目的として、異教徒国であったリトアニアと連合を組んだのだ(リトアニア大公はカトリックに改宗し、ポーランド王位を継承[6])。それゆえ、この闘いは異教徒間の衝突ともいえない。こうした矛盾の経験が、ポーランドで、戦争倫理に関する探究の需要を生みだした。このようなポーランドの地政学的条件ゆえに育まれた英知、これこそが、Włodkowicによってコンスタンツ公会議で披瀝された、カトリックの権威を否定せずに、ドイツ騎士団の正当性だけを否定する、新たな国際法構想だった。

 世界でほぼ唯一、Włodkowicについてモノグラフを著したStanisław F. Bełch(1904-2000)によれば、それは、近代国際法の父とされるHugo Grotius(1583-1645)ら西欧の思想家よりも100年以上前の人間が展開した、かれらのそれよりも遥かに完璧な国際法(prawo narodów – Ius Gentium, law of nations, droit des gens, Volkerrecht)であった[7]。しかし先述のTymienieckiは、Włodkowic思想をいきなり普遍的な国際法思想史の文脈において考察していない。これまでにみてきたような対独・対帝国秩序との闘争を契機として、あくまでポーランドの国益を擁護しようとして登場した思想だったという視点から検討している。この立場は、『北の十字軍』や『「正しい戦争」という思想』でウラディミリ(Włodkowicのこと)を紹介した山内進氏の研究視角にも通底するものがあるだろう[8]。序文で述べたように、TymienieckiがWłodkowicに着目した理由は、1920年代でもポーランドは地理的に同じ場所にあるので、中世の思想であっても学べることが多い、とする実践的な関心にあった。ただそうした関心を優先するあまり、かれがWłodkowic思想を表面的にしか理解しなかったということは、おそらくない。なぜならTymienieckiは、中世ポーランドの社会経済史、ドイツ法制史、ドイツ法のポーランドへの影響史などを専門としつつ、それと同時に教会法や中世キリスト教法にも浩瀚な知識を有していた研究者であったからである。1920年の時点では30代前半にすぎないので、晩年と同レベルの研鑽は期待すべくもないだろう。だが1915-19年にはワルシャワ大学ですでに教授職にあり、その後、自ら創設に尽力したポズナン大学で、独自の歴史学派も立ちあげた。それゆえ、以下にみていくWłodkowic思想は、この時期から第一線で活躍していたかれの深い中世理解に基づいて整理された内容だったと考えてよいのではないだろうか。以下、Tymienieckiの整理に沿って、Włodkowic思想の骨子をみていこう。

 さてTymienieckiは、論文の冒頭で、つぎのように中世社会の特徴をまとめている。この社会は、世俗国家と教会との関係がめまぐるしく変動したものの、全体としては、統一キリスト教政治社会参加者としての責務がきわめて重要視された世界だった。ここでいう責務とは公国ならびに諸国民に対して課されるものである。かれらに求められたのは「友愛の教えに沿って」行動し、「何よりもまず全体の利益、ならびに個人の関係を義務づける道徳原則に基づいて」ふるまうことだった。この世界にあっては、各世俗国家も宗教的個人の存在を支える基盤として普遍的存在意義が認められていた[9]。諸国と教会から構成されるこの国際社会は、より高次の存在としての皇帝と教皇、とりわけ教皇の管理下におかれるものとされていた。Tymienieckiによれば、こうしたことが「自明視」されることにより「調和的な運営」が行われていた統一的な世界というのが、中世社会の基本構造だった。そして、この調和的な世界を乱し、「倫理原則」が適用できない事態を惹起したものこそ、神聖ローマ帝国の成立(962)と「十字軍」にほかならない[10]。Tymienieckiはこう理解する。

 ここでTymienieckiが、狭義には神聖ローマ帝国と十字軍とをドイツ国家とほぼ同一視していることに注意が必要だろう。Tymienieckiは東方・北方十字軍(ドイツ騎士団)という限定的な呼称こそ、この論文で用いていない。だが、十字軍の聖戦なるものの実際は、「特定の国民国家の普遍主義」に過ぎない、つまりドイツ人の利害を反映したものに過ぎなかった、という文章を幾度となく登場させている。したがってTymieniecki論文は基本的にドイツを仮想敵にして執筆されているといえる。しかし重要なのは、ドイツ軍と厳密に特定せず、十字軍という一般的な呼称の利用に留めているため、カトリック共同体全体に対しても問題を提起する論考になっている点である。というのは、ドイツ国家の「侵略」を止めさせるために、Włodkowicが必要としたのは、ドイツ国家を論駁することだけではない。ドイツの普遍主義を「誤って」キリスト教共同体全体のそれと同一視するカトリック共同体に対する説得も必要だった。ドイツ騎士団の武力による入植を正当化したのはほかでもない、異教徒たちを打ち倒すことが神の意に適い、罪を贖う救済行為だと考えたカトリック共同体の論理だったからである。当事者にとっては政治権力や商業権といった世俗の権力の争いに過ぎないものを、カトリックの言説空間「十字軍的秩序」は、聖戦という全く異なる論理によって一方だけ正当化してしまう。このようにある個物が語った「普遍」を正当化してしまう周囲の言説空間、これこそがふたりの問題関心の中核にあるものだった。

 このような中世世界像に基づいてTymienieckiはこう始める。Włodkowicが挑んだのは、「擬制の統一キリスト教共和国の範囲外にある国家や国民に対して、道徳の原則は守られなければならないか、すなわち異教徒、ないしは無信仰の人間、ユダヤ教徒に対して道徳の原則が守られなければならないか」という問いに対し、肯首できる立論でもって公会議に列席する聖職者や諸侯を説得することであったのだと[11]。Włodkowicは、外交官ではなくあくまで「学者なので当時の学説に従って」、自国内にユダヤ教徒や異教徒を多く抱えていたポーランドの国益を擁護した。当然のことながら、これに対陣したのも当時の学説に基づく反対意見であった。論陣を張ったのはダンツィヒ(グダンスク)出身の神学者Jan Falkenberg(Ioannes Falkenberg 1385-1435)[12]である。両者は当時の「政治的現実」に対して、「同時代のヨーロッパのドクトリンの範囲で」、「自分の道徳的価値に条件づけられた解決方法」を競いあった[13]。Tymienieckiは、Falkenbergの論理と対比しながら、Włodkowicの思想を特徴づけていく。

 十字軍と十字軍的秩序観両方に一度に挑んだために、Włodkowicの立論も少なくとも二階層以上の議論が同居したそれになっていた。Tymienieckiの理解では、Włodkowicは最初に「帝国からのポーランドの独立」を主張した。Włodkowicは「ひとつの権力、ひとつの君主国」という帝国の理想そのものは否定していない人間であった。しかし君主国が「公共善に害」をなし、「国家間の連合」も考えにくく、「共和国が存在できない」というヨーロッパ中世の政治的現実を鑑みたなら、この理想に拘泥すべきではない。ポーランドはしっかりと自己をもって、これに対峙していかねばならない。Włodkowicはこう考えたとTymienieckiは推測する。この引用は表現が抽象的で、具体的想定内容が第三者に伝わりにくいといわざるをえないだろう。「特定の国家の完全な主権を認めてしまうので」、「帝国の普遍主義に反対」することがWłodkowicの意図だったという解釈が後に続くため、ここもドイツすなわち神聖ローマ帝国と十字軍による覇権の否定が主題になっているとは推測できる[14]。それでもTymienieckiがポーランド人にとって自明な部分の記述を割愛する傾向があるために、かれが理解するWłodkowic像がやや判りにくいものになっている点は否めないだろう。

 いずれにしてもWłodkowicは、上述のような帝国的秩序の正当性の否定によって、その正当性に依拠した正戦としての十字軍の正当性をまずは否定した。そのうえで十字軍とはいかなる性格の戦争かを吟味し、これを征服戦争と位置づけた。さらにそのうえでこの征服戦争が「公正な戦争」という論理から外れたものだと主張した。かれによれば、「防衛を目的として、また祖国を守ることを目的としてなされるのであれば、戦争は適当である。闘う必然性は、戦争によって平和が得られるときに現れる。嫌悪・嫉妬・強欲から戦争を起こしてならない。戦争は手続きではない。征服のために闘うのは悪である」。なぜなら「民族naród間の関係においては、人間の関係と同様に、道徳の命令が義務づけられる」からである。Tymienieckiは指摘していないが、この論理展開からは、Włodkowicが個人と民族・国家とを類似的に捉えている様子が窺えるだろう。人間には、自分なり身近な存在が傷つけられようとしているときだけは、断固としてそれに抵抗し、闘うことが道徳的に適当と認められている。これと同様のものとして、国家間の戦争をイメージしていたと推測されよう[15]。

 さて、ここでの問題は、ドイツ騎士団を私欲のために侵略してきた集団と定義づける自己本位性に、Tymieniecki(ないしはWłodkowic)がやや無自覚だと感じられる点である。先にみたように、かれらにとって、調和的な世界を乱す騒擾の輩はドイツ騎士団たちである。だが帝国的秩序の正当性を拒否した段階で、少なくとも論理上は、かれらがいうところの調和的世界の正当性も一旦は保留され、純粋に防衛戦争のみが公正な戦争の議論の俎上に上っていたはずである。この段階で、他国から攻撃されたときのみ武器をとることを認めるとする防衛戦争について、より具体的要件を定めていかないかぎり、当時の歴史的対立状況から判断しても、ドイツ騎士団とポーランドのあいだで、正当性のとりあいになってしまうだろう。しかし、この袋小路を知ってか知らずか、Tymienieckiは早々につぎの議論に移ってしまう。これでは、防衛戦争の大義が自分たちにあることを前提に議論を構築していると批判されてもおかしくない。ただし、この無自覚さは下記にみるように、かれらの関心がより高次の(絶対的)原則の確立にむかっていたからだ、とも考えられる。かれらの主眼は、「キリスト教徒と異教徒を区別なく適用」できる原則が存在するという指摘により、十字軍の正当性を根本的に否定することにおかれていた。

 その原則とは自然法prawo naturalneである。Tymieniecki論考では、この語について特に定義がない。自然法は時代によって定義が異なるため、判断に困るが、ここでは、おおよそ人間の自然の本性あるいは理性が守らせる、時間や空間を越えて存在する規範と了解して、話を進めよう。Włodkowicは「異教徒も、宗教こそ異なるが自然法に従っている」と指摘した。そして自然法に従う者に対しては、十戒、すなわち「殺すなかれ、盗むなかれ」の根本原則が適用されなければならないのだと主張した。具体的には「異教徒を力で改宗させたり、戦争でかれらを殺したり、打ちのめすことは許されない」と述べるのである。これは「異教徒に対しては寛容の原則」を適用すべしという当時の教皇の立場とも異なる発想だったとTymienieckiは示唆する[16]。おそらくWłodkowicの発想には、この教皇の見解に残存するキリスト教社会中心主義が存在していないと感じられるためであろう。またこういった部分が、先述のBełchをして、同思想が近代国際法思想だったと評価させる所以ともなったのだと思われる。

 この自然法原則を打ちたてたWłodkowicは、続いて、今度はそれと皇帝の権威との優劣を論じていく。これは、ドイツ騎士団が皇帝の勅書を得て、当時の戦争の然るべき法的手続きも踏んでいたためであった。要するに、ある法律行為の法的有効性の問題を議論したのである。Włodkowicは「法と道徳という西欧キリスト教と文化の原則」に照らせば、ドイツの行動は正当化できないと主張した。「皇帝の文書がたとえ真正のもの」であったとしても「殺すなかれ、盗むなかれ」の根本原則に抵触するのなら無効だとしている[17]。ここに明らかなように、Włodkowicの法思想は、自然法を、キリスト教社会を超越した普遍的論理ととらえると同時に、ヨーロッパ・キリスト教文化の一部ともみなす曖昧な二重性を露呈している。

 とはいえ、この曖昧さについては、Tymienieckiはまったく議論していない。かれの主張の中心は、このようなWłodkowic理論が中世の「一般的な普遍理論」とは相いれないものだったとする点にある[18]。この主張については、一般論としても大いに異論がありえようし、またドイツと十字軍こそが中世社会からの逸脱だったとするTymienieckiの冒頭説明からいってもややおかしいところではある。だが、本稿はWłodkowic理論などの正しい解釈を問題にするわけではないので、Tymienieckiが中世の典型的理論と位置づけるFalkenberg理論の紹介へとそのまま論を進めることにしよう。Tymienieckiの記述に従うと、Falkenbergの主張はつぎのようにまとめることができる。第1に「皇帝の支配権は、ローマ人が多民族に対する支配権を神から得たことに由来する」。それゆえ、「皇帝の意志はキリスト教徒の国家関係を規定」し、「ドイツ国家の利害は普遍的使命に一致」している。第2に「キリスト教徒は異教徒を征服できる」。なぜなら「ローマ帝国を認めない無神論者には、この地上に対する権利がなく」、「皇帝にかれらの土地を奪う権利がある」からである。第3に教皇は「神の法」を適用する存在なのだから、異教徒に対して「罰を与える権利がある」[19]。皇帝は罰を与える権利こそもたないものの、「平和に生きる異教徒に対して改宗を求める権利はもつ」。なぜなら異教徒は神が認めた「皇帝の優位を認めていない」からである。最後に、皇帝は基本的に無信仰者を「好意」でもって遇するのが適当である。だが、その「好意が功を奏しなかった場合」には、かれらに宣戦し「土地を奪う」権利をもつ。こうしてFalkenbergは「支配とは皇帝の制度」であるとして、現行制度もドイツ騎士団も神の意思の表れだとする。そしてWłodkowic=ポーランドこそ「全ヨーロッパの脅威」だと突っぱねたのである[20]。

 こうしたFalkenbergからの反論に対して、Włodkowicはどのように再立論を試みたのだろうか。Tymienieckiは、Włodkowicの立論が第一陳述よりも洗練されたことを指摘したうえで、つぎのように整理しなおしている。第1にWłodkowicは、教皇の「異教徒を罰する理論上の権利」を認めた。ただし「人びとが自然法に違反した出来事においてのみ、その権利は適用されると明確に制限を付」した。とはいえ、世俗の権利しか有していない皇帝は、この罰する権利をそもそももっていないと区別する。それゆえ、Włodkowicのなかで、自然法の擁護者としての教皇の権威の超越性を承認すると同時に、皇帝の超越的権威を否認するという法理論上のヒエラルキー化が進んだのだと推測される。さらに「無信仰者に対して潜在的な権威のみはもっている」教皇に、罰する権利は認めるものの、第2に「物質的な権利」、すなわち土地の争奪は教皇の権力に含まれないと主張した。Włodkowicの理論は、形式的体系化が進み、キリスト教のイデオロギー的部分が減退した分、上述のFalkenbergにみられる実体的で具体的な秩序感覚に比べて、十字軍との関係性が判りにくくなっている。だがおおよそは、土地に対する権利と皇帝の超越的権威とを二重に否定することにより、十字軍と十字軍的秩序両方に反駁を試みたというのが、その内容だったのであろう。

 このWłodkowic思想が、どこまで先進的で普遍的なのかについては、様々な議論がありえよう。たとえばTymienieckiは、Włodkowicとの比較対象例として提示したFalkenbergの議論を「帝国主義的な見方」とまとめている[21]。Tymienieckiが論文を執筆したのは、1880年代以降の列強による植民地獲得競争が、「白人の責務」や「文明開化の使命」の名のもとに正当化されると同時に、批判されるようにもなった時代であった。それゆえ、Tymienieckiは、反帝国主義者としてこの論文を執筆した側面もあったと推測される。だが言及が一箇所だけなので断言しにくいものの、この帝国主義は、あくまで軍事力や文化力による他国や他民族の強制的支配という意味しか含意していない。それはTymieniecki論ずるWłodkowicも同様であった。というのも、たとえば先述の土地剥奪権に関する主張は、「信仰というものは、異教徒に対して、平和的に、そして敬意をもって遇しながら、教育の力を借りてのみ、広めることができる」という考え方と結びついていた[22]。「信仰は自由意志により遂げられるものでなければならならい」。「罰」のような「強制や力によって引きだされる自由意志」も「不適当である」。なぜなら「そのような自由意志による決定こそ、人を過ちに導く」からだ[23]。つまり土地の争奪は、異教徒の反省を促すための強制の道具程度の意味づけになっており、近代的な生存権や一方的な経済的搾取批判といったものとは異なる文脈で議論されていると考えられる。またそもそも自然法の擁護者という役割を教皇に与えたことは、ヨーロッパ優位の国際関係を再実体化する可能性を開くとも考えられ、検討の余地があるところだろう。ただし、冒頭で述べたように、本稿の目的は、1920年代ポーランド平和外交の一断面を、Włodkowic-Tymieniecki的世界像のもとに読みなおすことにある。それゆえ、ここではWłodkowicの国際関係思想の是非は問わず、さしあたって、Tymienieckiが紹介するかれの最終弁論の骨子だけを順に確認して、次節へとつなげたい。

・「福音とは愛である」

・「キリストの子羊理念はすべての人間にあてはまる」

・「自然法に従って生きる不信仰の人びとは、神の祝福の法と矛盾しないのだから、教会に対する敵・無法者とみなしてはならない」

・「剣によって強制することを皇帝の権利と認めることは、神の法によって禁止された暴政」であり、十字軍は「不適切な方法で拡大したセクトである」

・十字軍は「近親の者の愛を踏みにじった者」にほかならず、「殺すなかれ、盗むなかれ」というキリスト教の根本精神を犯している

・「異端者が真理を犯したとするなら、十字軍は愛を犯した」

 そしてWłodkowicの考えるところ、十字軍のみならず、そもそも「皇帝の秩序」なるものは、一般的に言ってその名のもとに「正しい戦争を生みだすこと」がかつてなかった「秩序」であり、「秩序」の名に値しない。かれの考えでは、あるべき「秩序」とは「教皇の権威にも皇帝の権威にも依存できない」何かなのであった[24]。

【2】大戦間期ポーランドの国際法水準
―― 自然法的国際法秩序観――

 Tymienieckiが、普遍的な平和思想としてWłodkowic思想を唐突に賞揚したわけではなかったことは先に指摘した。第一次大戦後の独立ポーランドにおいて、この思想を紹介する意義を、かれは何よりもまず、地政学的なそれに求めていた。かれ自身の言葉を借りていうなら、同思想は、ポーランド国家に降りかかった運命を打破するために考究を重ねた過程で生まれたものである。それゆえ、西欧帝国主義に対する地政学的な環境が根本的に変わっていない今日のポーランドを生きるポーランド人にとっても、その英知は大いに学ぶ価値があるのだった[25]。それと同時にTymienieckiは、独立後のポーランドが展開していたJózef Piłsudski(1867-1935)の東方政策やソヴィエト・ロシアとの戦争に対する批判の意図も、自分の論文に込めていた。帝国主義に対抗して膨張主義の道を歩む人びとに対して警鐘を鳴らし、「今日のポーランド人が行っている東方……〔中略〕……軍事活動よりもより平和的な省察をなし」たWłodkowicが、どんな事態に異議を唱えたかを知れと傾聴を促したのである。Tymienieckiが読みといたWłodkowicとは「あらゆる局面で」「征服政策」と闘った人物だった。ここにおいて、個々の人間関係において要求されるような法と道徳を「国際関係」„międzypaństwowy”においても要求せよ、という自然法的な国際関係思想の意義が初めて主張される[26]。つまり「Paweł Włodkowicの見解における国際関係上の道徳」という一見、普遍的主題にみえる表題は、こうしたきわめて時事的な関心、実践的な目的をもって検討されていた。ポーランドの国益を守るために真に必要なのは、すべての征服政策の可能性に反対することだと主張するために、この論文は書かれたのである。

 さて、ここで考えてみたいのは、1920年代のポーランドの状況を法社会学的に検討してみたとき、国際関係を自然法に依拠して統一的に把握するこの発想が、Tymienieckiだけに特異で独自のものではなかったのではないかという点である。

 第1に、英仏独などの西欧諸国と比べると、ポーランドでは「国際法学」が伝統的に不振だった。国際社会とは何か、国際協力・国際紛争とは何か、国際関係のメカニズムとは、といったその概要の要諦は、西欧ではまずGrotiusが1625年に整理した。その後、Samuel von Pufendorf(1632-94)、Christian Wolff(1679-1754)、Friedrich Carl von Savigny(1779-1861)らへと継承されて、自然法に基づく国際法の体系化――神、教会、道徳からの国際法の独立――が徐々に進められていった。一旦は近代自然法的国際法として体系化が果たされるものの、その後、西欧列強間では、19世紀を通じて実定法的な考え方が主流になっていった。この移行の理由についてはいくつか考えられよう。ここではさしあたって、第1に、英仏において、社会契約論が整備され、自由で平等な個人=近代的主体を基盤とする法的関係像が普及したこと、第2に、19世紀半ばのドイツにおいて、法の超越的基礎づけの一切を拒否し、実定法一元論の立場をとる法実証主義への移行が進んだこと、第3に、西欧列強は、19世紀後半にアジア諸国など、キリスト教文明を共有しない諸国と接触するようになり、これら諸国と外交関係を結ぶために、キリスト教という道徳的基礎からさらに離れた、より抽象度の高い国際法原則の整備を進めることになったこと、を指摘しておきたい。こうしたいくつかの条件が重なって成立した、今日の「標準的な」実定法的国際法に関する本格的考究は、ポーランドの場合、第二次大戦後のLudwik Ehrlich(1889-1968)やStanisław Edward Nahlik(1911-1991)まで待たねばならなかった[27]。

 第2に、だからといって、ポーランドで国際法学者がそれまでまったくいなかった、もしくは国際法に無関心だったというわけではない。ただ19世紀を通じて西欧列強が経験した実定法的国際法秩序への移行がポーランドでは果たされず、当地では自然法思想に基づく法感覚が19世紀を通じて根強く残った。ポーランドにおける実定法的国際法研究の発展が阻害された理由としては、やはりこの時期を他国の支配下で過ごしたことが指摘できるだろう。ポーランドは、近代的な意味で国際法の主体となって、折衝の現場に立つ機会がほとんどなかった。そのため、実務経験からくる需要が不足していた。またかれらにしてみれば、三国分割による自国喪失を合法化してしまいかねない法実証主義は、到底、支持しかねるものだっただろう。三国分割の不当性を追究できる自然法の法理を固持することが、心情レベルで不可欠だったと推測される。その結果なのか、ポーランドの大学や高等教育機関の授業では、自然法の方が盛んに教授され続けることになった。またポーランドを分割した三国のうちドイツとオーストリアでは、1811年オーストリア一般民法典などの近代的自然法法典が完成した後、少なくとも法制度上の革新はあまりなされていなかった。その法制度下の生活に馴れ親しみ、国際舞台を踏まず、実定法への移行を心理的に拒否し、また実定法を学ぶ機会も少なかった、といったいくつかの条件が複合的に影響して、ポーランドでは、自然法的な国際秩序観が残り続けたということなのではないか、と推測する[28]。

 第3に、ポーランド人がしばしば指摘するように、「国際法」という用語は、西欧諸語とポーランド語のあいだで異同がある。Jeremy Bentham(1780)が最初に用いたとされる国際法international lawという単語は、ポーランドでは一世紀遅れて1873年に漸く紹介された[29]。重要なのは、その際の訳語がprawo międzynarodowe(“民族”間法)であって、prawo międzypaństwowe(国家間法)ではなかった点である。なぜ重要かというと、ポーランド語の場合、naródはエスニシティを含む概念であり、エスニシティとは無関係に市民だけを意味するobywatelという別の単語とは、指示内容がはっきりと弁別されているのである。それゆえ、naródという単語を耳にしたポーランド人は、両方の意味を含む英仏語のnationという単語を耳にした英仏人とは異なる内容を想像する可能性がある[30]。そのためなのか、このprawo międzynarodoweという訳語のもとに最初に進められたポーランドの立法プロジェクトの中身は、蓋を開けてみれば、いわゆる国際私法に該当するものであった。1921年4月9日、ポーランド共和国法典編集委員会は「ポーランドの『国際法プロジェクト』ならびにポーランドの『州間法プロジェクト』」をスタートさせている。同プロジェクトは、1926年8月2日に無事に条文採択に至った。しかし、「国際法ならびに州間法に関する1926年のポーランドの法令」で具体的に規定された内容は、国際結婚や子供の身分、離婚など、今日では国際私法の領域の事項だったのである[31]。同プロジェクトに参加したヤギウェオ大学教授Fryderyk Zoll(1865-1948)は、1945年の著作では、同条約の内容が国際私法に相当していたとの認識を示している。また今日のポーランドでは、国際法はprawo międzynarodowe、もしくは国際公法prawo międzynarodowe publiczne、国際私法はprawo międzynarodowe prywatneと訳し分けるのが一般的になった。さらにようやく1997年4月2日ポーランド共和国憲法においてであったが、国際法の規範が国内法の規範に優先される旨、明記された(第89条・第91条)。それゆえ、国際法と国内法との関係や公法-私法区分について、ポーランドでも段階を追って法(概念)整備が進んでいったとは考えられる。しかし、西欧の国際法と同一の内容を指示する言葉の確定も、さらにその確定した単語の意味の普及も、少なくとも1920年代には間にあわなかった可能性が高いのではないだろうか。

 以上は歴史学的手法による実証には程遠く、いずれも傍証的なものにすぎない。だが、歴史的・社会学的理由や言語上の理由によって、1920年代の、少なからぬポーランド人が、欧米で主流だった実定法的国際法とは異なる秩序感覚を保持していたとは推測されるのではないだろうか。大戦間期国政参加者についても、その世代構成を考えてみたときには、自然法的国際法の講義を受けた高等教育修了層が少なくなかった可能性が高い。むしろ、以下で扱うPiłsudski派リベラリストの外交政策は、この自然法的秩序観をどこかで残存させていたとみる方が、理解できる部分が多いのではないかというのが筆者の考えである。Piłsudski派リベラリストとは、1926年5月政変後に誕生したPiłsudski権威主義政権に参加した知識人グループをさす。初期の歴代内閣の大臣職や官公庁高官の地位にあって、実務関係を一手に引きうけていた。外務大臣はAugust Zaleski(1883-1972)である。かれが1926-1932年の在期中に国際連盟を中心に手がけたふたつの安全保障構想について、Tymieniecki-Włodkowic的世界像を念頭におきながら、読みなおしを図っていくのが、次節以降のひとつめの課題となる。これらの構想が、Włodkowic思想から直接的影響を受けていたかどうかの判断は、現時点では史料的にも留保せざるをえない。しかし、ポーランドが提示した戦争禁止宣言と道徳的軍縮というふたつの軍縮構想には、あらゆる局面で征服戦争と闘い、国際関係を個人から捉えなおし、道徳的にその関係を律しようという発想が窺える。この論理的呼応関係をみていくと同時に、それを通じて、従前の外交折衝過程の研究で抜けおちてきた問題を指摘するのが、次節以降のもうひとつの課題である。

【3】「戦争禁止宣言」

 まず初めに一連の外交舞台の表に現れたものをざっと概観してみよう。序文で触れた1927年9月24日の国際連盟総会による「戦争禁止宣言」が採択されるまでには、3つの草案が作成されていた。そして、その交渉は、そもそも1927年9月初めのポーランドの提案から始まったものだった。9月2日、国際連盟ポーランド代表Franciszek Sokalの発言がそれである。かれは、Alexander Cadogan〔英国大使〕ならびにCecil Hurst〔英国外務省法律補佐官〕に対し、ポーランドが、不戦にかかわる一般協定案、すなわち戦争の全面禁止条約を国際連盟総会に提出する予定であることを伝えたのだった。これに対して、英国側はその場で反対の意を表明した。英国の支持がなければ実現は不可能だと判断したSokalは、9月7日に代替案を作成し、これを英国にみせた。これが【草案1】である。それは、①国際紛争の解決手段という性格をもつ戦争に全面的に頼ることは禁止される、②国家間の紛争は、その種類いかんによらず、平和的な手段によってのみ解決されうるという二項目からなっていた[32]。これに対しても、英国ならびにドイツの方から、仲裁を全面的に強制する案だとする反対が、再度、表明された。ただし、代わりに9日に、英仏独とポーランドの法律家・国際連盟代表者で集まり、会合の席を設けることが約束された。

 会合における討議の結果、【草案2】が作成された。その内容は①侵略戦争の全面禁止、②国家間に生じうる、あらゆる種類の紛争解決にすべての平和的手段が適用されねばならない。総会は、この両原則の適用を国際連盟加盟国の義務と宣言する、というものであった。Sokalはこの【草案2】をポーランド政府にかけあうことになる。

 ポーランド政府はSokalの打診内容を基本的に了承しつつ、不可侵の意味あいを強めるために、第2項についてつぎの修正を求めた。すなわち「②この原則を適用するのと同時に、国家間でいかなるものが生じるにせよ、すべての種類の紛争の解決には、平和的手段がすべて用いられなければならないという原則から生じるであろう不可侵条約の中身を、国際連盟加盟国に呼びかけることを、国際連盟加盟国の義務と宣言する」という記述を追加せよ、という指示である【草案3】。これに対し、Austin Chamberlain 〔英国外務省事務次官〕はWilliam Max Muller〔在ワルシャワ英国大使〕を通して、強い不支持の意を明らかにした。【草案3】は、ポーランドが国際連盟規約とロカルノ条約で得た保障も反故にするものだ、として、ポーランドに提案を取り下げるよう、強く求めたのである。これを受けてポーランド外務省事務次官Roman Knollは妥協し、【草案2】に戻すことをSokalに連絡した。結果、この【草案2】が、9月24日に国際連盟第8回総会に提出され、祝典的な雰囲気のなか、投票なしで採択されることになった[33]。そして9月27日、総会は、事務総長に対し、全加盟国への通達を勧告した。こうして戦争の全面禁止を唱えたポーランドの提言は、「いついかなるときも国際紛争の解決手段として侵略戦争がとられてはならない」として、侵略戦争のみを「国際犯罪」として認知させる宣言に落ちついたのである[34]。

 この一連の交渉経過は、国際関係の基本的理論枠組みのひとつである、理想主義と現実主義の対立として捉えられるだろうか。この解釈にはやや無理があるだろう。というのも、翌1928年8月27日には、【草案3】と内容的に変わらないKellog=Briand協定が提出され、早々に合意が実現している[35]。つまりある種の理想主義は、部分的であったとしても当時の列強を支配していた。そう考えられるからである。

 少なくともポーランド側の史料をみると、ポーランドの提案が辿った経過は、むしろ当時の国際法の慣習上の、ある種の矛盾によって理解できるのではないかと推測される。というのは、Kellog=Briand協定をめぐる交渉過程について、Zaleskiがつぎのようなコメントを残していたからである。「ポーランドの前年の提案」をアメリカ政府がイニシアチブをとって実現しようとしてくれている。「8ヶ月前は、ポーランドの案にはるか離れて保留の立場をとっていた、いくつかの国家が、今日は、この問題についての姿勢を改めている」。このことについて我がポーランドは、「満足」と「喜び」を感じる。米国の不戦条約案には全世界が熱狂している。ほとんど同様の内容をもった8ヶ月前の提案は、ジュネーヴで逆に冷たい雰囲気で受けとめられたというのに、と[36]。Zaleskiはさらに回想録でも、Sokalが最初に戦争全面禁止条約を提示したときの列強の反応を、こう書き留めていた。「Briandは自分のところにSokalを呼びだし、この請願書を取り下げるよう求めた。というのもかれがいったように『ポーランドのような弱小国が提出するには、これは重要すぎる』からである。かれの意見では、強国のみがそれを許されるのだ」[37]。ここからみえてくるのは、ポーランドが冷笑を買った理由が、非現実性よりも身分不相応さの方にあったということではないだろうか。要するに国家間に歴然と存在する交渉力の差が、ここでの問題だったと考えられるのではないだろうか。

 前節で述べたように、今日の実定法的国際法は、それまでの法学思考や同時代の国際環境要因との関わりのなかで、少しずつ体系化されてきた。第1には、市民階級が身分制旧社会に対抗するために生みだした社会契約論的な擬制の法秩序観(自由で平等な個人=主体が、社会秩序の維持のために対等に契約を結ぶ)が入りこんだ。第2には、自然法による基礎づけを排したドイツの法実証主義が入りこみ、市民革命後の社会をうまく機能させるための論理的整除が法であるという認識が広まっていった。第3には、非キリスト教文明圏との外交関係の確立のために、国際法はむしろより抽象度の高い法整備を要求することになった。このような複数の要因が働いて成立してきた国際法は、少なくとも手続き上は公正な手続きを経て成立し、政治的に中立であることを前提としていた。また国際法の学説も、主権平等という観念上ないしは形式上の平等の名のもとで論理的整合性を競うようになった。しかし現実の国際社会には、かつて市民階級が闘った身分制旧社会に匹敵するほどの国家間の権力行使能力・交渉力の差が残存している。実定法的国際法が扱いきれない、こうした国際関係上の実質的な地位の差が、ポーランド案の実現を阻んだ側面があったとまずは考えられるのではないだろうか。

 しかし、それでは、一部の東欧史研究のように、大国の犠牲になった小国のそれとして、ポーランドの経験を理解することが、より適切なのだろうか[38]。それでも捉えきれない部分が残るというのが筆者の考えである。というのも、Chamberlainは1927年9月の決議について、「こんな決議は、国際連盟規約とロカルノ条約が与える以上のことをなんら引きださない」のにという不満を漏らしていた[39]。これをみるとポーランドの提案は、小国の戯れ言として軽視されたというというだけではない。そもそもポーランドが提案を通じて何を問題にしたのかがChamberlainに理解されなかった。この可能性が残されているのではないだろうか。この点をより明確にするために、次節でポーランドのもうひとつの軍縮構想をみていきたいと思う。

【4】道徳的軍縮[40]

 ふたつめのポーランドの安全保障構想である「道徳的軍縮」は、国際安全保障を強化するとともに「物質的軍縮」計画の実現のための条件を整えようとするものだった。いいかえると、民族間の衝突回避のための諸条件を法典化しようというのが、この運動の目標だった。こういった発想自体は、1920年代より「物質的軍縮」概念を補完するものとして提唱され、いわゆる「国際知識人協力」活動のひとつにもとりあげられていた。一国の外交政策史上で具体的に議論の俎上に載せた最初の国が、ポーランドだったかどうかは判らない。いずれにしてもポーランドが同案を大々的にとりあげたのは、1930年12月の軍縮会議前予備委員会第6セッションにおいてであった。ポーランドはまず1931年9月17日、国際知識人協力委員会代表だった英国人Gilbert Murrayに支持を求めた。その後、常に知識人の協力を得ながら、間接的に国際連盟に働きかけていった。1931年9月23日、Murrayに送った覚書を若干、訂正したうえで、国際連盟事務局長に宛てて提出する。幸い、国際連盟軍縮委員会の理解が得られ、小委員会が設けられることになった。「道徳的軍縮」はここで「国際関係から憎悪と暴力の精神を除くために、また国際的合意を遵守し、さらに平和に貢献するようなこれらのかたちの協力を拡めるために、すべての国家が自発的におこす活動」という理念的定義を獲得する[41]。この定義に応えるべく、小委員会が試みたのは、戦争プロパガンダに対する規制と刑罰の導入だった。討論を経て、①青年平和教育に対する政府の影響力を拡大すること、②国際協定にふさわしい内容を公準化すること、③平和の享受に相反するような新聞、ラジオ、劇場、映画の過剰使用を警戒すること、④ジャーナリストを規律する国際裁判所(法廷)を設置すること、という4つの具体案がまとまった。提出された活動計画は、全般的軍縮委員会と国際知識人協力委員会によって審議にかけられ、1932年2月13日、道徳的軍縮委員会の発足が決まった。だが前節で扱った「戦争禁止宣言」と異なり、道徳的軍縮運動は、国際連盟全体では否定的な評価しか得られなかった。そのため、委員会が発足したにもかかわらず、具体的な国際協力には至れなかった。

 しかし道徳的軍縮運動そのものは、Jan Dąbski(1880-1931)、Oskar Halecki(1891-1973)、Tytus Komarnicki(1896-1967)、Wacław Makowski(1880-1942)、Zygmunt Nagórski(1884-1973)、Stanisław Stroński(1882-1955)、Marian Szumlakowski(1893-1961)、August Zaleskiなど、当時のポーランドの学者、政治家、評論家のあいだで幅広い支持を集め、かれらによって継続的に喧伝されていた運動だった。そのため、国際連盟での討議が打ちきられた後も、ポーランド本国では運動の継続が図られていた。たとえば、1932年3月14日に道徳的軍縮ポーランド委員会が任命され、①青年世代への感化の方法と目的、②知識人サークルの協力問題、③「道徳的軍縮」をめざすすべての活動、について話しあう場が設けられている。

 また同運動に関連して、ポーランドでは、1924年以来、初等・中等教科書の改訂が進められていた。外相・公共啓蒙相ならびにポーランド知識人協力委員会・歴史愛好者協会・教育協会の代表によって構成される専門委員会も発足する。興味深いことに、同委員会は、諸外国で使用されている歴史教科書も含めて検討を進めていた。また調査対象に地理の教科書を加えることも後日、決定された。かれらが実際に検分したのは、1936年までで実に247の教科書にのぼる。その内訳は、ドイツ-145冊、リトアニア-27冊、チェコスロヴァキア-36冊、フランス-11冊、ルーマニア-16冊となっていた。かれらは、最終的に1938年、331項目からなる提言を完成させ、各国の教科書委員会に対して、修正ないしは教科書の回収といった処置を求めている[42]。

 こういったかれらの行動の理由については、ポーランド人研究者によるつぎの説明がうまくまとめてくれているだろう。「ポーランド政府は、民族の利益だけでなく国際社会の利益も一緒に、個人の自由と結びつけられるようにすることによって、各国の刑法典を完璧にすることを提案した。これは、国民の間で戦争や憎悪をかき立てるようなプロパガンダに対して、規制と刑罰を導入することを意味していた。マスメディアによって国際関係における友好的な雰囲気が損なわれてしまう作用に対抗する手段は、ジャーナリストに対して各国の側から反論したり、かれらを規律する国際法廷を設置したりする権利〔を承認すること――筆者〕だとみなされた。提言はまた、若者のあいだにみられる外国出身者嫌悪傾向を抑止する必要性についても考慮していた。国際連盟の目的と活動について、全教育課程において斟酌されるべきこと[43]、法学部に適切な講座を設けること、学校の教科書の改訂がこれに寄与するはずであった。覚書はまた各国に、映画、劇場、ラジオなどでこのような精神が表明されることを監視する権限をもった組織をつくることを提言していた」[44]。

 この説明にみられるように、かれらの活動はある一定の統一的志向性のもとに展開されていた。ここで、第1節で扱ったWłodkowic思想や、第2節で触れた1920年代ポーランドの国際法をとりまく情況をふり返ってみよう。すると、第3節で触れた戦争禁止宣言も、この道徳的軍縮運動も無関係でないと推測できるのではないだろうか。繰りかえしになるが、筆者のこの推測はやや法社会学的なもので、歴史学的実証に基づくものではない。少なくとも論理的呼応関係をみるかぎりでは、これらはいずれもTymienieckiが析出したWłodkowic思想から派生しうる平和構想の各部分をなしているだろうということである。あらゆる局面で征服戦争に反対する。個人レベルの人間関係と国際関係とをアナロジックにみたてて、双方ともに道徳的に律せよと主張する。こうしたTymieniecki-Włodkowic的世界観を基点にしながら、近代的な生活環境にあわせた吟味を重ね、社会政策的に体系化を試みた、それが1930年前後のポーランドが展開した軍縮構想ではなかったか、ということである。

 当時のポーランドには、自然法的国際法秩序感覚が残存していた。その世界観は、≪人を殺してはならない、貪ってはならない、人から盗んではならない≫のと同じように≪国を殺してはならない、貪ってはならない、盗んではならない≫という哲学によって支えられていた。人が生きる条件である国を奪うことは、その人間の自立と自由をも奪う。ポーランド人は1795年に祖国を失い、その後、約120年ものあいだ、他国支配下にあった。この歴史的実体験を通じて、ポーランド人は、Włodkowicが萌芽的に示した発想を、さらに確固とした規範意識として感得していった。そして大戦間期、ポーランド人はこの規範意識を法源としてふたつの軍縮運動を誕生させた。人と国家の略奪を許さないためには、いかなる具体的抑止政策が必要か。度々、正戦を経験したポーランド人は、人間の認識能力や利他精神が有限であることに自覚的であった。戦争の大義や倫理について、どんなに熟考を重ねたところで、正戦は、誰かにとっては必ずや倫理的に正当化されえないものとなりえる。それゆえ、論理・理由の如何を問わず、とにかく戦争というものを全面的に禁止せよと主張した。

 かれらの戦争禁止宣言は、単純な絶対平和主義と異なり、戦争の根を根底から断つという重要な役割が託された道徳的軍縮構想によって補完されていた。ポーランドの人びとは、おそらくは自分たちの独立運動が国際政治を動かしたという、歴史的経験からくる独特の感覚も働いて、個々の人間関係と国際関係とを近距離で認識する秩序感覚をもっていた。個々人の安全保障に国際関係が影響するという感覚は、翻って一般の人びとの不適切な感情が、直接的・間接的に国際平和の脅威になる、という洞察にもつながる。それゆえに、かれらは教科書を改訂し、イエロージャーナリズムを禁止することにより、人びとのあいだで敵愾心や蔑視感情などが生じる根を根幹から断とうとした。このように両運動は、いずれもかれらがイメージする自然法的な国際秩序に生じうる危機を、未然に回避するための具体的施策としての国際法制定運動であった。こう考えられるのではないだろうか。社会秩序をある程度維持するために成員の行動を制限する、あるいは方向づける規範と制度こそが「法」だとするなら、かれらのこの試みはまた統一的な一法体系をなしていたと評価できるだろう[45]。

 この自然法的国際秩序観は、その説明がなければ、Chamberlainのように実定法秩序や法文化に慣れ、それに従って論理を組みたてる者には理解しにくかったと推測される。また理解されたところで、当時、一定の完成をみた実定法環境とどう折りあいをつけえたかという問題も考えられよう。だが、筆者が本節で指摘したいのは、従来の国際関係史において、こうした当事者の感覚を掬いあげるような議論があまりなされていないのではないか、という点である。序文で述べたように、第3節、第4節で扱った両平和運動に関する先行研究は、ポーランド政府がドイツとソ連の脅威に対抗するという大目的のために補助的に利用した運動として、同運動を解釈するものが多い。もちろん、そういった現実的計算を働かせた部分もあっただろう。だがこの解釈では、なぜポーランド人がふたつの平和運動の「立法」化をめざしたか、すなわち「国際法」法典化を試みたかについて十分な回答を与えられていないのではないだろうか。ポーランドが、国際連盟での挫折後も地道に「道徳的軍縮」運動を進め、教科書検定を継続した理由が説明できないのではないだろうか。かれらが検討対象としたのが、ポーランドと国境などの係争問題を抱えた国々の教科書であったことを考えると、ポーランドの運動はある意味、現実主義的である。だが、この現実主義は、対独ソ対策という意味での現実主義とはすでにやや異なるだろう。また何よりも当時のポーランドには、道徳的軍縮運動の方をより現実的、実践的とみなす気運があった。Zaleskiの同運動を評価したあるポーランド人は、「真の平和政策」、「確固とした実際的行動」、「全般的な平和の基礎づけ」といった形容によって高く評価しているのである[46]。こうした当事者の感覚を然るべく踏まえて、かれらの行動を理解していくことが必要だとはいえないだろうか。

 先行研究の研究視角には、国際法や国際関係のやや「偏った」イメージが影響してきたのではないか、と筆者は考える。国際法秩序というと一般には、先述のように、対等な国際関係観に基づく欧米型のそれがイメージされる。これに続くのが、不平等条約の存在によって早くから国際関係における国力の優劣を意識し、列強が小国を収奪する道具としての国際法のイメージを認識せざるをえなかった日本型のパターンであろう。繰りかえしになるが、日本が出会った頃の近代国際法は、契約法的な考え方と実定法理論に基づく意志国際法へとすでに移行していた。契約法とは要するに、私人=平等で自由な存在という擬制に基づいて整理された法体系である。その私人の意思が契約法の有効性を保証し、契約した以上は意思ありとみなされて当事者に権利と義務が生じる。こうした論理システムである。国際法でも同様に、締結は当該国家自身の意思に基づくものとする論理的整理がなされた。「悪法も法」であり、締結した以上は遵守の必要があるという法理が機能するようになった。それゆえにこそ、不平等条約も「有効」でありえた。日本の場合には、この国際法感覚故にこそ、国力の増強によって対抗していこうという帝国主義の信奉者になっていった部分がある。これも確かに歴史上、そして今なお存在する国際法秩序観念のひとつであろう。

 だが、本稿で扱ったポーランドの自然法的国際秩序観は、このいずれとも異なる独自の哲学的背景を有した、第3のそれではないだろうか。それゆえ、第1、第2の国際法秩序のイメージだけでアプローチしていると、当時のポーランドの外交政策のうち解釈できる範囲が狭まってしまう。結果として、当事者のあいだにあった真の対立の構図を捉えきれなくなる。このように思われるのである。

結びにかえて

 本稿では、大戦間期ポーランドの平和運動に関するこれまでの「現実主義的」解釈に対して、Tymienieckiの論考を手がかりに別の史料読解の可能性を提示した。それは、自然法や道徳概念に基づく中世ポーランド国際法思想との論理的呼応関係において、同平和運動を読みとく作業だった。それと同時に、本稿は、Włodkowicが示し、Zaleskiらが実践的に体系化したと考えられるポーランドの国際秩序戦略が、大戦間期の国際舞台でまったく別の課題に遭遇してきたことをみてきた。すなわち、同政策が優れているか否かではなく、国際社会上の地位や交渉力の欠如という別次元の要因により、その実現が阻まれたこと、そもそも近代の実定法的な国際法秩序に従う人びとには、その政策が理論的にも感覚的にも理解しにくく、お座なりに扱われた可能性があることの方を指摘してきた。この(仮説的)事実は、ポーランドにとってみれば、自分たちが掲げた理想を保障するために必要な戦略に関する考察も必要だったことを意味しよう。逆に実定法秩序に生きる大国に対しては、交渉力の差などがある現下の国際関係は、封建的格差社会にやや近い段階にあるのだ、という認識を新たにすべきだと指摘することになるのだろう。実定法社会とは、封建的格差社会から近代市民社会への移行が進み、その移行に大きく貢献した近代自然法が歴史的使命を終え、それが駆逐されることによって成立した法社会であって、現在の国際社会とはかなり異質である。

 この点の認識なく実定法を維持したままに、異なる法秩序観をもつ「異文化」圏をヨーロッパ法体系に組みこもうとする傾向があるからこそ、古いタイプの法多元主義や討議民主主義には、根本的な疑義が提示されたのだと思う。前者に関していえば、本文で述べたように、今日、ポーランドの国際法学は実定法的なそれを採用している。つまり同地域において、自然法から実定法へという法思想の根本的変化が生じた。これはある特定の地域の法思想を機能的・不動の「文化」として固定的に捉える旧来の法多元主義とは対立する事例であろう。またポーランドは実定法的国際法という別の法文化を知識として理解し、政治的にはその規定をまずは遵守して、弾力的に対応してきていた。現実の国際舞台においてこのように多元的な処世術をとってきた非大国からすれば、対話と理解という討議民主主義の理念も、自分たちの経験に対してあまりに鈍感だということになろう。

 ただ第4節末で述べたように、筆者自身はこうした問題よりも、常にグローカルに生きてきた人びとの多元性を汲みあげきれなかった学問に問題はないのだろうか、と感じる。たとえば本稿では、従来の外交史解釈に対して、自然法-実定法秩序観という法文化対立に触れ、ポーランドの自然法的世界観を扱えていないのではないか、と指摘した。しかしながら、実定法を西欧自生のものとし、自然法的世界とやや二分法的に描く叙述は、やや正確さに欠け、もっと慎重な検討が必要だと感じている。というのも、先述のFryderyk Zollをベルリン大学で指導したRudolf Stammler(1856-1938)は、19-20世紀転換期のヨーロッパにあって、実定法の限界を指摘し、自然法への回帰を唱え、当時、かなりの影響力をもっていた。Carl Schumittは、19世紀後半から20世紀前半にかけて、アフリカやアメリカでは地元産の国際法の提唱があったのに対して、アジアだけが独自のものを打ちたてず、そのままヨーロッパの国際法体系に組みこまれていった、しかも「ヨーロッパ中心的な国際法は、このことによって、無差別に普遍的な国際法へと変化した」と指摘している[47]。これらの「事実」の検証が重要だと思うのは、本稿の議論の精度の向上との関係においてだけではない。仮にこれが本当だとすると、今日の実定法的社会の完成を促したのは、西欧を内在化することにより公共圏を確立した、日本を含む東アジアだということになるからである[48]。少なくとも19-20世紀転換期までは確定していなかった実定法的西欧・近代を普遍化し、地理的ヨーロッパ以外の地域にも従属を促したのは、東アジアになるからである。こうした歴史に踏みこまない国際関係史研究の蓄積のうえに、今日のグローバル化に東アジア<が>何をもたらしたか、という自己検証をついぞ成立させることなく、現在、西欧発のグローバル化に対して地域性の回復に熱心なのが、今の日本の姿なのか、という問題に思い至るからである。たとえば現在、途上国研究を中心に、どんな地域でも複数の価値や意味体系に依拠した法体系が並列して存在し、競合的に機能しているとする研究が盛んになってきている。こうした研究は往々にして、その地域の歴史的固有性や主体性の回復を謳う[49]。だが、我々も含めて、かれらが前提とし、克服をめざす、圧倒的に優位な西欧発の近代波及史像は、はたしてどこまで“歴史的に正確”なのか。こういう疑問につきあたるからである。

 ポーランドが歴史教科書の改訂に執着したのは、かれらに関する記述が西欧の百科事典にないために、西欧の一般の人びとのなかで、そもそもポーランド人自体が存在しないことになっていたという分割時代の経験ゆえではなかったか、と思う。「言葉」にしなければ、最初から「なかった」ことになってしまう。「言葉」にしたなら、人びとの現状認識や問題意識、将来を展望する方法に働きかけられる。だからこそ、かれらは「言葉」の力を信じ、その表現に拘った。それゆえにこそ、現代の諸問題の認識の仕方を整理するうえで、どのような過程を経て現在があるのか、を伝える歴史叙述は、常に重要な意味をもつのだと考える。

[1] 西川吉光[2004]『国際平和協力論』晃洋書房、29頁など。なお「戦争禁止宣言」とはやや厳密さに欠ける表現だが、1927年9月採択に日本語の定訳がないこともあり、暫定的にこれを用いる。これは、日本での呼び方、ポーランドでの呼び方、いずれを採用しても、中立的でなくなるからでもある。

[2] Henryk Korczyk[1993]Traktat ogólny o wyrzeczeniu się wojny (Pakt Brianda-Kelloga), Geneza, zawarcie, recepcja, działanie〔戦争放棄に関する全般条約(ケロッグ=ブリアン協定)――起源、交渉、受理、適用――〕, Warszawa: Wyd. Fundacji „Historia pro Futuro”.

[3] Jerzy Krasuski[1975]Stosunki polsko-niemieckie 1919-1932〔ポーランド-ドイツ関係1919-1932年〕, Poznań: Instytut Zachodni等。当該期のポーランド外交史の一般的な評価の仕方としてはM.K. Kamiński i M.J. Zacharias[1998]Polityka zagraniczna Rzeczypospolitej Polskiej 1918-1939〔ポーランド共和国外交政策1918-1939〕, Warszawa: LTW, s.91-128.など。

[4] Kazimierz Tymieniecki [1920]„Moralność w stosunkach między państwami w poglądach Pawła Włodkowica,” Przegląd Historyczny 2: 1-27.同論文は、TymienieckiがWłodkowicの原著(ラテン語)を検討し、執筆したものである。筆者はこの原著は未見であり、引用はすべてTymienieckiによるポーランド語訳の孫引きであり、史料のあつかいとして不適切であることを予めお詫びしたい。本稿はさしあたって大戦間期のポーランドの国際秩序像を理解する目的で、同史料を補助的に用いるが、最終的には、TymienieckiがWłodkowicの言葉を翻訳する際に生じえたであろう意味の変化等もより厳密に検討されるべきであろう。今後の課題としたい。

[5] Michał Mendys[1927]„Udział Władysława II w krucjacie 1147〔ヴワディスワフ2世の十字軍への参加1147年〕,” Rocznik Zakładu Naukowego im. Ossolińskich 1: 399-434.; Mikołaj Gładysz[1998]„Udział Polski w V krucjacie lewantyńskiej (1217-1221) 〔第5回レヴァント十字軍へのポーランドの参加(1217-1221)〕,” w: Błażej Śliwiński red., Szlachta, starostowie, zaciężni〔シュラフタ、代官、傭兵〕, Koszalin: Wydaw. Miscellanea, s.63-82.; Bronisław Włodarski[1924]„O udziale Polski w wyprawie krzyżowej Andrzeja II w 1217 roku〔1217年アンドラーシュ2世の十字軍へのポーランドの参加について〕,” Kwartalnik Historyczny 38(1/2): 29-36.

[6] 初代国王Władysław Jagiełłoは、1377年リトアニア大公を継承、1386年、カトリックの洗礼を受け、Jadwigaと婚姻、ポーランド=リトアニア連合王国を成立させ、1434年まで在位した。

[7] Stanisław F. Bełch[1964]The Contribution of Poland to the Development of the Doctrine of International Law (P. Vladimiri, decretorum doctor, 1409-1432), London: Veritas.; Id.[1965]Paulus Vladimiri and His Doctrine Concerning International Law and Politics, I-II, The Hague: Morton.

[8] 山内進[1997]『北の十字軍――「ヨーロッパ」の北方拡大――』講談社選書メチエ112、講談社、「第6章 コンスタンツの論争」。; 山内進[2006]『「正しい戦争」という思想』勁草書房、「第1章 異教徒に権利はあるか──中世ヨーロッパの正戦論──」。

[9] Tymieniecki[1920], s.2.

[10] Tymieniecki[1920], s.3.

[11] Tymieniecki[1920], s.4.

[12] ウィーン、プラハ、マグデブルグで学び、宗教裁判官の資格を有した。先のWłodkowic のTractatus de potestate papae et imperatoris respectu infideliumに対する返答史料はLiber de doctrina potestatis papae et imperatorisと呼ばれるもの。なおここでは教会法史の詳述をしないが、両者の対立構図は、神はキリスト教徒だけでなく、すべての人びとのために世界を造ったとするInnocenty IV(?-1254)と聖戦を肯定したHenrici de Segusio(Hostiensis 1200-1271)との対立構図と重なるものとなっている。Innocenty IVについては、尾崎秀夫氏による先駆的研究を参照のこと。尾崎秀夫[1994]「教皇インノケンティウス4世の対異教徒理論」『神戸海星女子学院大学・短期大学研究紀要』33: 347-363.

[13] Tymieniecki[1920], s.5

[14] Tymieniecki[1920], s.6.

[15] Tymieniecki[1920], s.6-7.個人・家族と国家とのアナロジーは、つぎの文章からも窺えるだろう。すなわち「戦争の指導者についていうと、かれは自分の側が原因のものだけでなく、戦争のなかでおきたすべての殺人に責任がある。自国の兵士によるものだけでなく、自国の兵士になされた殺人についても責任がある」。国家というのはある種の運命共同体である。それゆえ、自らの行動の結果、自分の近親者に何らかの被害が及んだ場合には、それに責任があるとするのである。Tymieniecki[1920], s.7.なおこの防衛を達成するために「ときにキリスト教徒が異教徒の助けを借りることもある」とも述べている。これはグリュンヴァルドの闘いを念頭においてのことであろうが、キリスト教に基づく学説としては確かに異質だろう。Tymieniecki[1920], s.9, 10.

[16] Tymieniecki[1920], s.8, 9, 8.

[17] Tymieniecki[1920], s.11.

[18] Tymieniecki[1920], s.6.

[19] Tymieniecki[1920], s.15, 16, 18.

[20] Tymieniecki[1920], s.19, 22.

[21] Tymieniecki[1920], s.19.

[22] Tymieniecki[1920], s.24.

[23] Tymieniecki[1920], s.17.

[24] Tymieniecki[1920], s. 25, 26, 27.

[25] 「政治的概念は、すでに大規模な文化的発展を遂げた成熟した諸社会において発展する。この発展段階にある社会は、それをとりかこむ偶発的事故を能動的に生き延びるだけでなく、それらに配慮して、確固たる立場をとるものである」。そして「政治学の考究は、各時代の社会生活において思いうかぶ、所与の集団の内外の諸関係からふってわいてくる問題と関連しながら発達する」。それゆえ、ある政治学の考究の成果は、一義的には、その学徒が属する国家や社会にとって有意義なものと考える。

[26] Tymieniecki[1920], s.27.

[27] ポーランドの優れた国際法学者は、ようやく第二次大戦後に登場する。代表的学者としてRemigiusz Bierzanek(1912-1993), Henryk de Fiumel(1925-1986), Ludwik Gelberg, Wojciech Góralczyk, Stanisław Hubert, Marian Iwanejkoなど。大学やポーランド国際法問題研究所、法科学研究所などで集団的に研究が進められた。

[28] 少なくとも三国分割前のポーランドでは、ヨーロッパ各国の国際法水準と歩みをほぼ同じくしていたと推測される。たとえば国家間の条約に関しては、在独仏蘭公使を務めたKs. Maciej Dogielによる各国の国際法法規集などによって翻訳紹介があり、その知識が共有できていた(Traktaty między mocarstwami europejskimi od roku 1648 zaszłeほか1758-1764)。それゆえ、実定法への移行の道が閉ざされたのは、三国分割時代の社会的条件によるところが大きいのではないかと考える。

[29] An Introduction to the Principles of Morals and Legislation『道徳と法の諸原理序説』。実際の出版は1789年である。確認できるポーランドの初訳例は、ヤギェウォ大学国際法史学者Franciszek Kasparek[1873] Usiłowania najnowsze około reformy prawa międzynarodowego〔国際法改正をめぐる最近年の試み〕である。筆者未見のため、このmiędzynarodowyがBenthamからの訳出かは確認できない。ただしこれはprawa narodów、すなわちlaw of nations領域で教授資格を得た論文で、Grotiusに依拠しながら論じていたことを付記しておきたい。Kasparek(1844-1903)は国際法・国際私法、行政法等の学術分野で用語とその定義を定めたとされ、ポーランドで国際法の父と呼ばれる人物である。拙稿の叙述をより丹念に実証していくには、かれの訳語確定作業やその後継者の継承過程を具体的にみる必要があるだろう。今後の課題としたい。

[30] nationをめぐる概念的差異は欧米諸語間にもある。それゆえ、ポーランド語の独自性を強調しすぎるとまた理解を損なう危険があるだろう。

[31] 当時のポーランドの法典編纂過程等については、鈴木輝二[2001-2004]「欧州周辺部における西欧法文化の展開(一)~(三)完」『東海法学』26(2001): 69-114、29(2003): 7-64、31(2004): 19-120.で、詳細に事実確認ができる。こちらはドイツ・オーストリア・ロシア三分割国の各法からの影響を平等に扱った記述となっている。なお実定法的国際法については、外務省条約課に勤務したJulian Makowski(1875-1959)が、諸外国の各種条約法のポーランド語訳を通じて、1915年以降、段階的に紹介するようになった。ただ断片的な翻訳の出現をもって、実定法的国際法体系全体がポーランドに移行したとか、ましてその秩序観が政府高官間ですぐに標準化したといった風に記述するのは性急にすぎるだろう。Wenceslas J. Wagner ed.[1970]Polish Law throughout the Ages, Stanford: Hoover Institution Press, pp. 447-449. なお1926年の同プロジェクトについては、Fryderyk Zoll[1945]Międzynarodowe i międzydzielnicowe prawo prywatne w zarysie〔国際・州間私法概説〕, Kraków: Nakład Księgarnia Florian Trzeciecki, s.71-81に条約が全文掲載されている。Zollはこの時点では、標題にあるようにprawo prywatneと断るようになっている。

[32] 以下、【草案1~3】の文面は、Ambasador Berlin, 789-k.136, 1927. 9.9: 789-k.147, 1927 9.24, Nr. 1827/T: Poseł Berlin do MSZ, Archiwum Akt Nowych所蔵より抜粋。また一連の議事経過については、Korczyk[1993], s.14-20.; Piotr S. Wandycz[1980]August Zaleski, Minister Spraw Zagranicznych RP 1926-1932 w świetle traktatu wersalskiego〔ヴェルサイユ条約にみるアウグスト・ザレスキ、1926-1932年ポーランド共和国外相〕, Paryż: s.n., s.49, 50.; Marek Baumgart[1985]Wielka Brytania a odrodzona Polska (1918-1939) 〔英国と再生ポーランド1918-1939年〕, Szczecin: WSP w Szczecinie, s.257-258.; Id.[1990]Wielka Brytania a odrodzona Polska 1918-1933〔英国と再生ポーランド1918-1933年〕, Szczecin: Wydaw. Naukowe Uniw. Szczecińskiego, s.146-153.; M. Nowak-Kiełbikowa [1989]Polska-Wielka Brytania w dobie zabiegów o zbiorowe bezpieczeństwo w Europie 1923-1937〔欧州集団安全保障に関する手続きにおけるポーランドと英国1923-1937年〕, Warszawa: Państwowe Wydaw. Naukoweなどに基づく。いずれも英仏独ポの外交文書のほか、新聞史料なども利用した実証研究である。

[33] League of Nations[1927]Official Journal, Special Supplement 54, pp.155-156.

[34] 木原正樹氏によると、第一次世界大戦後に戦争違法化に向けた気運が生まれた。その頃から多くの国家で、侵略を「国際違法行為」ではなく「国際犯罪」と呼ぶ慣習が生まれたのだという。木原正樹[2000]「『国家の国際犯罪』としての侵略――法典化の歴史的および理論的検討――」『立命館法学』5(273): 2294- 2368.なおKorczyk[1993], s.17, 19.ならびにJ.W.Wheeler-Bennett[1932]Disarmament and Security since Locarno 1925-1931: Being the Political and Technical Background of the General Disarmament Conference, 1932, London: Allen & Unwin, pp.242-243.の見解に従うと、3つの案の違いは、それぞれつぎのようになる。まず(1)【草案2】は【草案1】と比べたときにA.【2】は侵略戦争にのみ適用範囲がおよぶB.国際紛争の解決にすべての平和的手段を執ることを強調している。したがって平和的手段のみを用いて全紛争の解決を唄っているわけではないので、平和的手段以外の手段で解決する可能性のある紛争があることを許してしまう。これに対して(2)【草案3】は【草案2】と比べたとき、不可侵の理念をより厳密に表現しており、法的義務こそ明記しないものの、各国が不可侵を放棄しにくくなるよう文言に工夫がある。それゆえ、ヨーロッパの平和をより強化しうるものとなっている。逆をいえば、【草案2】に基づく9.27決議は、不可侵の精神以上の道徳的価値を何ら示せず、加盟国に対して法的強制力の薄いものに終わってしまったといえるのである。

[35] Jerzy Sutor[1979]Pokojowe załatwianie sporów międzynarodowych〔国際問題の平和的解決〕, Wrocław: Ossolineum, s.33-34.

[36] それぞれ下院外交問題委員会席上での発言Zaleski[1928]Exposé p. ministra SZ Augusta Zaleskiego, wygłoszone na posiedzeniu Komisji Sejmowej do Spraw Zagranicznych w dniu 18 maja 1928〔1928年5月18日外交問題下院委員会における外務大臣アウグスト・ザレスキ氏の陳述〕, Warszawa: Drukarnia Krajowa, s.5-6.と在ワルシャワ英国公使William Erskineへの談話see Wandycz[1980], s.14-17.

[37] Zaleski, Ni w pięć ni w dziewięć, s.3. Hoover Institution Archives, August Zaleski Papers, 1919-1981, B.14-F.2. See also Wandycz[1980], s.50.; Wandycz[1999]Z Piłsudskim i Sikorskim, August Zaleski, minister spraw zagranicznych w latach 1926-1932 i 1939-1941〔ピウスツキ・シコルスキとともに――アウグスト・ザレスキ、1926-1932、1939-1941年外相――〕, Warszawa: Wydaw. Sejmowe, s.64-65.

[38] 松川克彦[1991]「1920年代――ポーランド外交の基礎の形成――」『季刊国際政治』96: 35-50.など。

[39] Nowak-Kiełbikowa[1989], s.170.

[40] Jacek Ślusarczyk[1995]Idea pokoju w europejskiej i polskiej myśli politycznej do 1939 roku〔1939年までのヨーロッパとポーランドの政治思想における平和の理念〕, Warszawa: PAN-ISP, s.107.

[41] W. Dobrzycki[1996]Historia stosunków międzynarodowych czasach nowożytnych 1815-1945〔近代国際関係史1815-1945年〕, Warszawa: Scholar, s.350-351.

[42] Joanna Starzyk[1998=2002]„II Ewolucja uczestnictwa polski w organizacjach międzynarodowych〔第2章 国際機構へのポーランドの参加の拡大〕,” w: S. Parzymies i I. Pipiuk-Ryńska red., Polska w organizacjach międzynarodowych〔国際諸機構におけるポーランド〕, wyd.2, Warszawa: Scholar, s. 31-32.などを参照のこと。

[43] ここでいわれているのは、おそらく国際連盟は「民族の心理」に対して「教育効果」を期待できるという、Zaleskiの考え方と通底するものだろう。August Zaleski[1929]„Mowa wygłoszona 27 listopada 1927 na Inauguracji cykly wykładów o Lidze Narodów zorganizowanych przez Polskie Towarzystwo Przyjaciół Ligi Narodów w Warszawie〔ワルシャワ国際連盟の友協会主催の国際連盟に関する連続講義開講式での1927年11月27日演説〕,” Przemowy i deklaracje, t. I, Warszawa: Głowna Drukarnia Wojskowa, s.76.

[44] Grażyna Michałowska[2002]„Polska w organizacji Narodów Zjednoczonych do spraw oświaty, nauki i kultury,”〔国際連合組織におけるポーランド――啓蒙・学術・文化問題に関連して――〕 w: Parzymies et al.[2002], s.189. なお、こうしたポーランド政府の国際社会観は、国際関係論上の英国学派にもやや重なるだろう。国内類推Domestic Analogyは、その端的な例であろう。国家中心主義的で経済力差などは考慮しない、ややヨーロッパ中心主義的秩序観をもつなど、いくつか共通点がみられる。See Hidemi Suganami[1989] The Domestic Analogy and World Order Proposals, Cambridge: Cambridge Univ. Press.〔臼杵英一訳[1994]『国際社会論――国内類推と世界秩序構想――』信山社〕ただ本稿は、あくまでポーランド側の史料から仮説的に議論枠組みを構築したという性格のもので、とくに英国学派の理論枠組みを意識していない。むしろなぜ両者の秩序観に近似性があるのか、の背景の確認を今後の課題としたいと思う。

[45] 未来の危機を予防する社会政策的な発想として外交政策を理解すると、当時のポーランドの行動にはかなりの程度の法則性がみえてくるように思われる。たとえば国家主義と揶揄される国家主権フェティシズムについては、家族という領域を尊重するのと一緒の感覚であったと考えられうる。そしてたとえば児童虐待やDVのような問題を抱えこみ、家族のなかがうまくいっていないからといって、簡単に警察の介入を許していたら、その家族の成員の人間としての成長がみこめるだろうか、という問題の設定の仕方をとっていた。第一次集団のなかで身近な人間とひとりひとり向かいあい、自分で問題を解決する力、耐えぬく力、共感を得ていく力を涵養していかないかぎり、安易に外部に頼り、外部の論理でもって、自分の身近な存在を悪者に仕立てあげ、永久に憎み続けることにもなってしまいかねない。それゆえに、彼らは、ポーランドの内部に居住する少数民族の自治に反対した(道徳的軍縮の一環として少数民族の自治要求や共産主義運動に断固たる姿勢をとる、と主張した史料として、たとえばMSZ department polityczno-ekonomyczny, Wydział organizacji międzynarowodych, referat ligi narodów 1695, „Konferencja rozbrojeniona, Rozbrojenie moralne.” Projekt konferencji, notatki 1931, 4782 b.rozbr 635/31, Ref. Wł.Kulski, Archiwum Akt Nowych所蔵を参照のこと)。

ポーランドは、パリ講和会議において1919年6月28日、少数民族条約を締結した。右条約は新興諸国家が少数民族を圧迫しないことを求めたもので、これへの調印が、列強による独立承認の条件であった。これは新興諸国のみが一方的に調印を要求されるという点で不平等条約であった。ポーランド政府はこれに対して、一端は調印に応じたものの、その後、その破棄のために動く、という行動をとっている。興味深いことに、Zaleskiは、その理由として、他国と健全な関係を保持する能力という意味では少数民族条約は妥当だが、国家主権という意味では国際連盟の介入が多すぎるのだという趣旨のことを述べている。このZaleskiの発想は、家族類推を用いることにより、初めて理解できてくるのではないだろうか。こうした独立国家の条件として健全な関係構築能力を求めるという考え方は『国家の権利及び義務に関するモンテビデオ条約』(1933 年12 月26 日に第7回米州諸国会議で採択、一年後に発効)で文書化された。その第一条に、国際法人格としての国家は、次の要件を要する (a)永久的住民 (b)明確な領域 (c) 政府 (d) 他国と関係を取り結ぶ能力と規定されている。

当時のZaleskiらの論理というのは、さらにかみ砕いた表現を使うなら、「隣の妻・子供を愛せなくなるから、自分の妻・子供を愛さない、という発想はおかしい。隣の妻・子供は、そこの旦那に大切にしてもらえばいい。私は自分の妻・子供をきちんと大切にしよう。そうしたなら愛情の輪からぬけ落ちる人間はいなくなるはずだ」といった感覚に基づくナショナルなコスモポリタニズムだったということができる。こうした発想に基づく国際秩序構想が、夢想的か現実的かについて、筆者は判断を下さないが、疑問を感じる人が少なくないとは思う。

[46] W.Polak[1930]„Recenzje,” Ruch Prawniczy, Ekonomiczy i Sociologiczny 10(3): 506-507. この史料はZaleski[1929]の書評である。Polakの経歴は不明だが、この書評は、当時、ポーランドでもっとも権威のあった社会科学系雑誌のひとつに掲載されたものである。

[47] シュミット〔新田邦夫訳〕[1976]『大地のノモス――ヨーロッパ公法という国際法における――』下、福村出版、320-321頁。

[48] 與那覇潤[2007]「イギリス人日本公使館の『琉球処分』――東アジア英語言語圏における翻訳と公共性――」『歴史評論』4(684): 74-91.

[49] 安田信之[2000]『東南アジア法』日本評論社。