本ページは「生命学HP」1999年10月12日付のスナップショットです


 

『薬理と治療』24−3 1996年3月 11−15頁

治験システムと医療界の体質改善       森岡正博

1 情報公開に見るパターナリズム

 薬害HIV訴訟と原告団の救済が山場を迎えている。薬害HIV事件というのは、報道されている様々な資料から判断すれば、血友病の患者たちに対する特定の医師・製薬会社・行政の誤った意思決定によってもたらされた、第一級の薬害であるようにみえる。
 その実態は、現在開かれている裁判の中で徐々に明らかにされていくと思われるので、ここでは詳しくは語らない。裁判と並行して、まだ若い原告たちが次々と死んでいくという悲惨な状況を我々は見せつけられているわけで、原告・被告双方にとって、とてもつらい裁判になることだけはまちがいない。
 これから治験についての議論をすこしだけしてみたいのだが、治験をこれから日本で根付かせていくためには、実は、この薬害HIV訴訟がどうなるか、そして日本の医療界がこの事件をどういうふうに反省し、みずからを構造改革するのかを、我々一般人の前にクリアーにしてみせなければならないと私は思う。
 治験にかかわる専門家の方々は、このことを、どのくらいの切実さを持って受け止めておられるのだろうか。治験のメリットを一般国民に知らせるときに、まず薬害HIV事件の反省からはいるというスタンスが、どうしても必要だということを、どのくらい深刻に受け止めておられるのだろうか。
 振り返ってみていただきたい。
 日本で、脳死臓器移植がどうしていまだに(1996年現在)きちんと再開されていないのか。そのいちばん大きな理由は、1968年の札幌医大の和田教授の心臓移植の問題を、医療界がうやむやにしたままいままでやってきたからである。あのときに、和田移植の問題点をクリアーにしてきっちりと自己点検をしなかったがために、80年代に入って脳死臓器移植を再開しようとしたときに、ジャーナリストや市民団体などから思わぬ強硬な反撃にあってしまい、いまのいままで、脳死の人からの臓器移植はストップしたままである。
 この教訓を、治験にかかわる方々に、ぜひ深刻に受け止めていただきたいと思う。薬害HIV事件を、第2の和田移植としないように。そのために一番必要なのは、可能な限りの情報公開と、医療界の体質改善である。でも、これが一番難しいことなのだ。
 先日、厚生大臣が替わって、その新大臣が厚生省にHIV関係の資料調査を命じたところ、それまでは「そのような資料は存在いたしません」と答弁していた資料が、ほんの2・3日で、厚生省の薬務局審査課の書庫からあっさりと出てきた。このほかにも、エイズ結核感染症課のロッカーなどからも当時の資料が発見されたという(朝日新聞1996年2月10日朝刊)。この資料の<発見>で、薬害HIV裁判は、大きく進展することはまちがいない。しかし、まあ、厚生省が「存在しない」としてきた資料が、新厚生大臣の一声で、厚生省の書庫からこんなに簡単に出てきたというのは、どういうことなのだろう。
 環境問題にかかわっている私の知人が、自分の経験から言っていたのだが、情報公開を求めて運動している人々にとっての「情報公開」というのは、双方にとってプラスになるものもマイナスになるものも全部ひっくるめて公開してほしいということなのだが、行政官僚にとっての「情報公開」とは、みずからの施策にとってプラスになる情報だけを公開するということらしい。だから、情報公開をめぐって、いつもトラブルが起きている。
 官僚にとっての情報公開とは、ア・プリオリに、<選択的>情報公開である。自分たちが、公開した方がいいと判断した情報に限って、公開するという思想があるようにみえる。公開を見合わせた方がいいと考えた情報は、「公開しない」(食糧費)か、あるいは「そのようなものは存在いたしません」ということになる。
 では、なぜ、自分たちが公開すべしと判断したものに限って、情報公開をするのか。その答えは簡単である。それは、自分たちが判断して決めることが、結局は、国民にとって一番良い結果につながるのだと、彼らが信じているからである。この情報を公開すると、こうこう、こういうふうに悪影響が出て、それがこういうふうに連鎖反応を起こして、そして最終的には国民が不利益をこうむる。だから、それについては情報公開はできない。これが彼らの思考経路だ。その背後にあるのは、自分たちが日本国や国民のことを一番良く知っているし、自分たちにまかせておけば一番いい結果をみんなに約束できると、彼らが信じているからである。
 自分たちは、国民を騙そうと思って情報を隠すのではなく、逆に、国民のことをこんなにも思って、国民にとって一番いいことをしてあげようと考えるから、情報を隠すのだ。これを、英語では「パターナリズム」、日本語では「思いやり」と言う。国民のことを思いやるがゆえに、この件に関しては、いくら要求があっても情報公開はいたしません。そういうことだ。この思考パターンに加えて、官僚制に特徴的な「責任回避」「自己保身」が加わることで、情報隠しが完成する。

2 患者−医師関係と患者の権利

 いま、日本の官僚の姿を例にとって、情報公開を阻む「思いやり」システムの説明をした。同じような構造は、日本の現代医療の中にも根強く残っている。あまりにも根強いので、医療現場にいる医師たちは、そういう構造の存在さえ気づかないほどだ。しかし、まさにこの点こそが、今回の薬害HIV事件で問われたことだったし、「インフォームド・コンセント」や「患者の権利」を訴える人たちが真に問題にしていることなのである。
 先日、ある国際学会に出席した。その中のセッションで、医療に関する各国の意識調査の結果が報告された。
 世界のいくつかの国々で、医療に対する一般市民の意識を調べたのだが、「医師への不信」という項目については日本がダントツに高くて、他の国々を引き離していたのだった。これには、会場からもため息が漏れた。日本の脳死臓器移植の調査をしたことのある私にとっては、やっぱり、そうだよなという結果であった。80年代に脳死臓器移植に反対していた人たちは、先にも述べたように、医師と医療への不信を大きな反対理由にしていたからだ。反対運動をしていない普通の人たちでも、雑談をすると、大きい病院ではなにをされるか分かったもんじゃない、というようなことを言う人が少なからずいた。
 ところが、その報告についての質疑応答のときに、ある医師が会場で手をあげて次のようなことを言った。「私はいままで何十年も現場で臨床をしているが、いままで一度も、患者さんから不信を抱かれたことはない。私のような医師はけっして例外ではないと思う。だから、あなたの調査の結果は間違っているのではないか。」
 この発言には、さすがの私も驚いた。
 自分自身の実感だけをもとにして、広範囲の社会学的調査を間違っていると言う、その感覚についていけなかった。しかし、彼の発言でほんとうに問題なのは、次の点だ。
 つまり、彼は、自分が患者さんから不信の念を訴えられたことがないという事実をもって、自分は患者さんから信頼されていると考えている。この、幼稚なまでに素朴な思考こそが、最大の問題なのだ。
 考えてごらんなさい。主治医の判断や方針に疑問や違和感があったとしても、いったいどのくらいの日本人の患者が、主治医に向かって「私はあなたの判断が間違っているかもしれないと思う」などと言えようか。普通の日本人なら、少々疑問があったとしても、それは胸にそっとしまっておく。そんなことを聞いて、主治医を怒らせたり、機嫌を損ねたりすれば、結局、そのつけは自分に回ってくると判断するからだ。そして、主治医には言えない愚痴を、看護婦や、同じ病室の人間や、家族などにもらすのである。
 いまだに多くの病院では、患者は、自分の主治医に、言いたいことを全部言えるような雰囲気にはない。そういう意味での上下関係が、医療現場には温存されている。この構造は、上下関係の上の方に位置している医師からは、とても見えにくい。ちょうど、管理職からはヒラ社員の不満が見えにくいのと同じように、医師からは患者や家族の不満が見えにくい。患者は、とくに入院しているときには、医師に向かっては「いい顔」をすることが多い。医師のほうも、患者からいつもいい顔をされていると、いつのまにか、それが当然と思うようになるのではないか。
 こうやって、医師に不信感をもちながらも面と向かってはそれをあらわにしない患者たちと、自分は患者にいつも信頼されているのだと勘違いする医師のカップルが誕生する。
 そして、先に紹介したような、自分はすべての患者たちに信頼されていると、人前で公言するような医師が登場してくるのである。
 同じ構造は、医師と看護婦のあいだにもある。私は看護婦さんたちと話をする機会があるが、彼女たちと親しくなると、同じ病院内の医師に対するすごい批判をビシビシ言うようになることがある。そんなこと、本人に向かって言うのかと尋ねると、まさか、と答える。婦長レベルになると、遠回しに医師を諭すという芸ができるようになるらしいのだが、ヒラの看護婦には無理である。そういう看護婦からの批判の声、それも治療方針の根本にかかわるような声が、医師たちにどのくらい届いているのだろうか。
 「インフォームド・コンセント」や「患者の権利」運動がめざしているものは、医療現場において、医療スタッフと患者が、できる限り対等な人間関係を作っていけるような、そういう場作りをすることである。そのためには、患者がほしい情報は患者が医師に「正当に」要求でき、患者が決めるべきことは患者本人が決められるように、それを「権利」として認めていこうということなのだ。たしかにそれによって、従来は医師の既得権益とみなされていたものの一部が、患者の手に渡ることになる。しかし、それを、医療現場の近代化と民主化だというふうに考えていこうということなのだ。医師だって、いずれは「患者」となって病院で死んでゆくわけで、そのときには、その利益の享受者になる。

3 治験システムのなかでの「思いやり」

 大分医科大学の中野重行教授が、「治験に参加する被験者のメリット―今後真剣に追求すべきこと―」(1)という論文を発表している。その中で中野は、治験の被験者となる患者へのメリットがあまりにも少なすぎる現状を改革するために、「思いやりプラン」という治験システムを提唱している。その詳細は、上記論文を参照していただきたいが、部外者の私から見ても論旨の明快な、説得力に富む論説である。
 「思いやりプラン」提唱の背景には、治験の被験者となる患者が最近ますます少なくなり、かつ、厳密なインフォームド・コンセントを担当医が心がければ心がけるほど、患者の同意がえられにくくなるという現状がある。そして、この傾向が進めば、薬の臨床試験が円滑に進まなくなり、かつ治験の空洞化現象が生じるかもしれないと言うのである。
 それを打開して、治験への参加の必要性を訴えるためのやり方として、治験は将来世代への「思いやりである」という説得を国民に対して行なうということである。そして、それを支える様々なハードウェアを整備する。
  中野の論文について、まず指摘しておきたいのは、「思いやり」ということばがはたして適当なのかということである。いまの日本の医療現場で「思いやり」ということばを使ってしまうと、それは良くも悪くも<医師からの患者への思いやり>というふうに受け取られてしまいがちである。そしてそれは、私がいままで繰り返し述べてきた、医療現場の上下関係・パターナリズムを支持する考え方とみなされる危険性がある。
 これは、明らかな誤解である。中野の言う「思いやり」とは、市民から市民、同世代から次世代、患者から患者への愛の連鎖のことであり、けっして医師からの患者への思いやりではない。中野と私が同席したシンポジウムでも、中野の提言をそのように誤解する参加者(医師)がいた。これは、けっこう大きい問題だと私はおもうのだが。
 これに関連して、第二の問題点がある。
 中野は言う。「少なくとも現行の治験のシステムは、わが国の風土には適していないのでは  ないか、と考えざるを得ない」(1)
  だから、わが国の風土にあった治験システムが必要だという話になっていくわけだが、私はここでひとつ抜け落ちている大事なポイントがあると思う。それは治験システムを現在の「わが国の風土」にあわせるだけではだめなのであって、むしろ先に繰り返し述べたような、医師と患者が上下関係になっていて医師への不信が高い、まさに「わが国の風土」それ自体を変えていく必要があるということである。
 「わが国の風土」というものが、ア・プリオリに存在するという考え方は、比較文化論の陥りやすい典型的な罠である。「わが国の文化風土」というものは、数十年以上のタイムスパンを取れば、変わり得る。
 そして、「思いやりプラン」を提唱するときに、「わが国の風土」に言及するのであれば、<医師と患者が上下関係にあり、医師への不信が際だって高い>というわが国の風土に触れないわけにはいかないだろう。
 中野の論文は論旨明快で説得力に富むが、最大の難点は、この<医師と患者が上下関係にあり、医師への不信が際だって高い>というわが国の風土に言及していない点である。
 これはとても大事なポイントだ。
 もし中野の提唱する「思いやりプラン」が、これから広く国民のあいだに浸透していくことがあるとすれば、それは医師からの「思いやりプラン」の啓蒙によってではなく、むしろ、医師自身がいまの医療現場の上下関係と医師への不信を根本的に変えてゆこうとする、その営みを通じてのみであると私は考えている。
 だから、中野の論文が、医療関係者のサークルを超えて、ひろく一般市民にまで届くことためには、この論文の冒頭部分に、いまの医療現場の「上下関係」と「医師不信」と「閉ざされた情報環境」に対する真摯な反省と、それを変えていく決意表明がどうしても必要なのではないかと私は思うのである。
 そして、さらにいえば、今回の薬害HIV事件に関する真摯なコメントをしたうえで、そのような薬害や情報隠しを二度と繰り返さないためにも「きちんとした合意の上に立ったオープンな治験システム」の整備が必要であり、そのためにも国民のみなさんと一緒になって新しい治験システムを考えていきたいと訴えるべきである。そうすれば、その声はひろく一般市民のあいだにまで浸透していくかもしれない。
 もちろん、薬害HIV事件と、治験とは、直接の関係性はないのかもしれない。しかしながら、それらは、製薬会社・監督官庁・医療界が相互に維持してきた独特の構造を共有しているものであり、その意味ではかならずしも対岸の火事ではない。(加熱製剤の治験に関与していた医師は、非加熱製剤の危険性について知りうる立場にあったはずだ。)少なくとも、医療問題に関心を持っている外部の人間はそのようにみている。そのことへのさらなる配慮が、治験システムの将来を考える上で、最も大切なことなのである。

文献

(1)中野重行:薬理と治療 23(5):1085-1093, 1995
 

生命学ライブラリへホームへ戻る