本ページは「生命学HP」1999年10月12日付のスナップショットです


 

移植前夜、循環器病センターでの講演 (未発表)

 

森岡正博

 

 まず、今日ここに私をお招きくださいましたみなさまに感謝いたします。私は1980年代の半ばから90年代初頭にかけまして、脳死臓器移植について発言をしてまいりました。自分でそういうふうに言った覚えはないのですが、いわゆる「慎重派」と位置づけられております。現在もおそらくそのように見られているのではないかと思うのですが、そのような私をこのような記念式典にお招きくださり、そればかりではなく意見まで述べる機会を与えられました。循環器病センターの度量に敬意を抱く次第でございます。

 私は特になにかの専門家というわけではありません。脳死臓器移植問題や、医療問題一般について発言する機会が多かったのですが、私は医療の専門家ではありません。立場としては、「素人」というのがいちばん近いのではないかと思っています。医療に関して言えば、たぶん「患者」というのがいちばん近いのではないでしょうか。私はけっこう身体が弱くて、去年までは、年に数回は倒れていました。重病ではないのですが、働きすぎるとすぐに倒れてしまうのですね。倒れて、そのまま一週間くらい寝込んだままになって、絶食などもいたします。循環器ではなく、胃腸の病気だと思います。ですから、なにか専門があるとすれば、病気にかかるというのが私の専門かもしれません。ですから、今日は、生命倫理や脳死臓器移植問題に一〇年ほど関わってきた者としてというよりも、むしろよく病気になって病院にかかることの多い人間の視点からしゃべっていきたいと思います。臓器移植法が一〇月に施行されて、この循環器病センターもこれから心臓移植を行なってゆかれることと思います。私はいまからいささか厳しいことを申してまいります。今日は、移植にたずさわってこられた偉い先生方が多数お集まりで、こんな式典の場でこのような話をするのは失礼に当たるであろうことは承知しているのですが、私の心のなかでひっかかっているものを、率直にしゃべっていきたいのです。

 いまの私の心境はと申しますと、脳死からの臓器移植を再開するに当たっては、「きちんとやっていただきたい」、その一言につきます。私は脳死臓器移植を妨害することはいままで行なってきませんでした。しかし同時に、脳死臓器移植は人類を救うすばらしい医療で何の問題もないと言い切ることもできない。ですから、それぞれの方が、非常に長かったいままでの議論の成果から多くのことを学んで、そのうえでみんなが納得する形で移植を再開してほしいとほんとうに思います。循環器病センターのみなさまが、今後どのような形で移植を再開されていくのか、そしてどのような手続きをふんでゆくのか、そのあたりを外側からきっちりと見させていただきたいと思いますし、何か言うべきことがありましたら、これからも発言を続けていきたいと思っています。

 私は慎重派に位置づけられてきました。では、慎重派とはどういう立場なのかと言いますと、臓器移植がもたらすよい面を見ていくと同時に、それが引き起こすかもしれない危険な面もまたきちんと見ていこうという立場のことです。いつも、ものごとの両面を慎重に見ていくわけですね。だから「慎重派」なのです。そもそも、臓器移植はいいことづくめで一〇〇%よいことばかりだと言う人はそれほど多くありません。逆に、臓器移植にはまったくいいことはなくて、百害あって一利なしだと言いきる人もまたそれほど多くないでしょう。多くの人々は、この両極端の中間にいるのですね。これは、臓器移植だけではなく、今日の医療全般に言えることだと思うのですが、医療は我々に快適さや長い寿命などをもたらしてきたわけですが、同時に、たくさんの人々に薬害や医療過誤などによって苦しい思いをさせてきたという歴史も厳然としてあるわけです。医療はつねに、光の面と影の面をもっている。ですから、医療の光の面と影の面をしっかりと見極めた上で、なるべく多くの人が納得し、これでよかったんだと思えるように医療を進めてゆくことが大事なのです。そして、医療の世界の内側にいる専門家だけではなく、医療の外側にいて医療に関心を持って見ている人々をも含めて、幅広い対話を繰り返しながら医療の進路を見定めてゆくことが、二一世紀に向けてどうしても必要だと私は思うのです。

 脳死からの臓器移植には、二つの面があります。ひとつは、移植によってしか助からない人々、あるいは移植をしたほうが格段に健康になるような人々の役に立つという面です。これは、移植医療がもたらしたすばらしい成果ですし、心臓移植を受けて登山までできるようになったケースなどは、誰もそれを否定することはできないでしょう。しかしながら、それをもって手放しで移植に賛成することはどうしてもできない。移植は、影の面をたくさんもっております。直観的に言っていちばん大きいのは、脳死からの移植が、他人の死を前提とする医療だという点です。さらに言えば、それは他人の死を「待ち望む」医療でもあるということです。アメリカの移植センターの近くのホテルで待機している患者さんは、夜中に救急車の音が聞こえたときに、ひょっとしたら自分の番かもしれないと思ってしまうことがある。移植とは、そういう本質を持っているのです。このような二つの面があるということを、きっちりと見据えてゆくことがどうしても必要です。

 脳死臓器移植の議論というのは、八〇年代半ばから始まりましたが、最初のうちは賛成派と反対派に分かれて、それはもう不毛な議論を繰り返しておりました。賛成派の人たちは移植の光の面しか言わない。反対派の人たちは影の面しか言わない。とても不毛でした。でも、そういう二項対立の時代は、ベルリンの壁崩壊によって終わったはずです。移植を再開してゆくみなさまも、もうこういう二項対立の議論からは脱出して、つねに物事の両面を見たうえで対話を続けていくようにしていただきたい。

 さらに言いますと、みなさまひとりひとりが、移植の光の面と影の面をきっちりと認識し、様々な人々の意見を率直に聞いて、正すべきところは正してゆくという姿勢でこれからやっていくのだということが、もし国民に伝われば、いま問題の「医療不信」といういうものは徐々に解消されてゆくと私は思っています。実は、これが今日の話の結論なのです。またあとで、この点に戻ってきましょう。 実は、医療の外側にいますと、たとえば臓器移植を推進されようとしている方々が、みずからの医療をどんなふうに見ているのかということが、非常に伝わってきにくいのです。なぜかと言いますと、我々は臓器移植などについての情報を、テレビや、本や、講演会などで知るわけですが、しかしそこには、みなさんの「建前のことば」ばかりがならんでいるという印象を強く受けるからなのです。曰く、「臓器移植は人類愛に基づいた医療である」「臓器移植は二一世紀をリードする医療である」「多くの人々の命が助かる夢の医療である」等々。もちろん、それらのことは分かるのだけれども、推進している人たちがそれしか言わないという姿を外側から見ていると、一般の人たちは、ほんとうにそれだけなのだろうか、なにか裏にはあるのではないのかと勘ぐってしまいます。

 ちょうど、国会答弁みたいなんですよ。うわべだけのことばがならんでいる。このひとたち、ほんとうは何を考えているのだろうという疑問がわいてくる。みなさんがほんとうに考えていることが、まったくこちらには伝わってこないのです。これは、情報公開という大事なテーマにつながってきますので、もう少し考えてみます。

 たとえば、ここにおられるお医者さん、看護婦さん、それぞれみなさんひとりひとりが、難しいケースに直面して悩みを抱えておられたり、人間的な葛藤を抱えていたり、それぞれの持ち場で模索されたりしていると思うんですよ。患者さんとも、いろんな人間くさい交流があるはずなんですね。ですが、病院の外にいる我々には、なかなかそのあたりのことが伝わってこない。「患者さんを救うために日々邁進している」とか言われても、実際のリアリティが伝わってこない。

 医療においても情報公開が大切だと言われています。ガン告知をきちんと行なったり、治療に関する情報を患者に提供することはとても大事なことです。インフォームド・コンセントも情報公開なしには成立しません。しかし、それだけではなくて、もっと別の意味の情報公開もやっていくべきじゃないかということです。たとえば、現場で医療にたずさわっている方々は、いったいほんとうは何を考えながら仕事をしているのか。どんな悩みをもっているのか。人間には表も裏もあるわけで、建前の裏にはどんな本音が隠されているのか。自分たちの医療技術をほんとうに信頼しているのか。そういうことを、何かの形でもっと一般の人々に見せていっていいと思うのですよ。もちろん、本音を出したり、悩みを出すということは、できればやりたくないことでしょう。でも、本音や悩みを表に出していくことで、「ああ、お医者さんもまた、自分たちと同じひとりの人間なんだ」ということに、人々が気づくかもしれない。「我々と同じ悩みを抱えながら医療をやっているんだ」「そういう本音と建て前のぶつかり合いのなかから出てきた治療方針だったんだ」、そういうことをはじめて気づくかもしれない。それが、とても大事なことだと思うのです。

 そういう意味での情報公開をやりながら、同時に、一般の人々がいったいどういう点で現代医療に違和感をいだいているのかを、お医者さんの側からも探っていってほしい。お互いに情報公開しながら、双方向に分かりあってゆくことが、やはりいちばん大事なのです。

 患者さんたちは、お医者さんを前にすると、ほんとうに自分の言いたいことが言えなくなります。思わずことばを飲み込んでしまう。感情を押し殺したり、偽ったりしてしまう。なぜかというと、そこにどうしようもない権力関係があるからです。病気を持った側の人間は、ぜったいに弱いですよ。でも、患者さんたちの、そういう声なき声のようなものは、ほとんど医師には伝わりません。私も医師たちと、生命倫理などの関係で長くつきあってきておりますが、こういう患者さんの気持ちが分かっていない医師というのが、たくさんおります。唖然とすることすらあります。たとえば、私は大学教師をしていて、他人を批判することは朝飯前の人間なのですが、そんな私でさえ、自分が病気になって医師の前に行ったときに、その医師の治療内容に疑問を直接投げかけることができませんでした。それが、患者にとってどのくらいのプレッシャーになるのか、おわかりですか?そのあたりのことに、想像力をもっと働かせて、自分たちの問題として考えていくことからしか、医療不信は解消されません。

 先進国のなかで、日本は脳死からの臓器移植の再開が遅れました。その理由については、様々に論じられてきました。初期の段階でよく言われたのは、日本文化は独特であるから、脳死は認められないし、臓器移植もなされないのだということでした。日本文化は独自の生命観や遺体観をもっているので、脳死臓器移植が進まないのだと言われました。その後、それを裏付けるために、生命観や倫理観についての国際的な比較調査が始まっているのですが、意外なことに、生命観などについての有意な差異はまだ見つかっておりません。もちろん、まだアンケート調査の段階ですから、最終的な結論が出たわけではありませんが、どうもそのような差ははっきりとは出てこない。

 私の直観で言いますと、日本で脳死からの移植が遅れたのは、日本独特の生命観のせいではないんじゃないか。そう思うのです。もちろんこの仮説は検証も反証もされていません。まさに、仮説の段階です。たとえば、梅原猛さんは、日本には独特の生命観があるので、日本人は脳死を認めないし、臓器移植にも抵抗があるのだと言ってきました。彼はその根拠を、仏典だとか、日本思想の過去の文献にもとめているわけです。でも、これは、学問的方法としてはかなり危ない。昔の書物に書かれていることを、いまの我々も共有している保証はまったくないからです。

 では、現時点での調査ではどうかというと、日本では80年代から脳死臓器移植に関するアンケート調査が繰り返し行なわれています。それを見てみると、日本では、脳死を人の死だと思う人がいちばん多いわけです。これはもう、はっきりとしております。何回調査しても、脳死を人の死だと思う人がいちばん多い。もし、アンケート調査というものが信頼に足るものだとすれば、日本人は独特な生命観があるので脳死には反対するという考え方は、一連の調査によって反証されてしまうのです。つまり、日本人にいちばん多いのは、脳死を人の死だと思う人たちであるわけで、日本人の多くはすでに立派に脳死を受容しているということです。

 このようなわけで、私は、日本文化のせいで移植が遅れたという意見は間違っているのではないかと思うのです。では、移植が遅れたほんとうの理由は何なのでしょうか。

 私の考えでは、その理由は、一般市民とメディアのなかに根強くある「医師への不信感」だと思います。そのせいで、移植がここまで遅れたのだと思うのです。たとえば、先ほど例に出した国際調査でも、「医師への不信感」の項目では、日本人は他の国々に比べて、とても高い数値が出ます。もちろん、他の国にも医師への不信感というのはあるのですが、日本の場合は、それらに比べてもかなり高い。これは、重要な点です。つまり、文化や生命観の差はあまり出ないのに、医師への不信感の差は優位な差が出てしまう。この調査結果は、生命倫理の問題にかかわってきた私の感触とも合致します。というのも、一般の人々にインタビューしておりますと、「医師への不信感」というのが、ほんとうによく表明されるからです。

 脳死や臓器移植にかんする「医師への不信感」ということで言えば、だいたい次のような二つの感情があるのではないかと、私は考えています。

 まず最初の点ですが、脳死の判定は集中治療室という密室の中で、もっぱら医師によって行なわれます。そのときに、「密室の中で医師に死の判定をまかせたりすると何をされるか分からない」という感情が起きてくるのですね。もちろん、こんなことは、アンケート調査をやったって出てきません。でも、そういう建前の場所ではなくて、たとえばふつうの人たちとお酒を飲んでいたりして、話が脳死判定のことになったりすると、たちまちこのような意見が彼らから出てくるのです。私はつい最近まで、助手だとか大学院生のようなステイタスの低い位置にいましたから、酒の席のような気のゆるむ場所では、けっこうそういうことばを聞きました。だから、こういう感情が、人々のこころの底にわだかまっているのは、まちがいありません。

 この感情を、最近逆なでしてしまったのが、薬害エイズの問題だったと思います。薬害エイズ事件のときの、医師たちの姿や、隠蔽工作の様子をテレビなどで目の当たりにしたとき、我々は「やっぱりそうだ。みんなでぐるになって隠していたんじゃないか」と思いました。血友病治療に関わっていた医師だけの問題としてではなくて、日本の医療全体が多かれ少なかれ抱えている問題として、我々は認識してしまった。そして、「医師は、我々の知らないところで何をするのか分からない」という感情を補強したと思うのです。

 二番目の点ですが、これもまた医師への不信感の根底にあるものです。これは、ここにおられるみなさんにとってはカチンとくることかもしれませんが、ご容赦ください。それは、「医師というのは、新しい技術を試したくてうずうずしているにちがいない」という感情です。もちろん、一般の方が、研究や臨床の現場のことを知っているわけではありません。でも、彼らは、いろんな情報源から、そのような話を仕入れています。たとえば、自分の身内が病院に入院したときにこんなことをされてしまったとか、あそこではあんなことを患者にためしているとか、そういう情報が人づてに巡ってきます。そして、そういう話を聞いたときに、「ウソだろう」という思いよりも先に、「そういうことはあるかもしれない」という思いが出てくるのです。

 たとえば、私の知人が東京のある大学病院に入院したときに、本人へのインフォームド・コンセントなしに、意に反する人体実験的な手術をされてしまったことがありました。もちろん現場では微妙な医学的判断があったのだとは思いますが、少なくとも本人は、意に反した実験をされてしまったという理解をしていましたし、その大学病院はそういう噂が前からあったところでもありました。そのような話は、私の記憶にもずっと残っております。それが、ある種の感情を醸成してゆくわけです。

 庶民のなかには、「医師というのは、新しい技術を試したくてうずうずしているにちがいない」という感情が、事実としてあります。もちろん、そういうのは誤解だし、素人の偏見だと声高に語っていくのもひとつの方法かもしれません。でも、もっと大事なのは、なぜ彼らがそういう感情をこころの底に持ち続けてしまっているのかを冷静に考えてゆくことではないでしょか。たとえ、彼らの感情を不当なものだとみなさんが思ったとしても、でも彼らがそういう感情を持っているということ自体は事実であるわけです。ですから、彼らがもっているだろうそのような感情を、どうすれば解きほぐしてゆけるのかを、みなさんが主体的に考えてゆくこと、それがもっとも大切なことです。そしてそれこそが、医師への不信を解消するいちばんの近道です。そして、臓器移植再開への道筋のなかで、みなさんがそのあたりのことを真剣に考え、日々の実践のなかで医師への不信感を解消するように努力すること、そこにしかもう希望は残されていないと私は思うのです。これから高齢社会を迎えるなかで、日本の医療が国民からの信頼を受けながら進んでいけるのかどうか。そういう正念場にさしかかっています。循環器病センターでの心臓移植再開のプロセスが、日本の医療の今後を占う正念場であるという自覚をしていただきたいのです。

 医師への不信感について語ってまいりました。お聞きになったみなさまは、そんな根拠のないこと、事実に反することを言ってもらっては困ると思っておられるかもしれません。しかしながら、かなり多くの日本人が、このような不信感をもっていることそれ自体は、事実なのであります。あるいは、こう思われる方もおられるでしょう。「そういう誤った情報をみんなが信じているのは、マスコミに踊らされているからだ。だから、これからは、医師はそんなひどいことなんかしていないという事実を、正しく市民に啓蒙していく必要がある」。

 しかしながら、そういう戦略は、もはやこの成熟した情報社会である日本においては通用しないでしょう。市民は、そういう言い方で「啓蒙」されるほど真っ直ぐなこころはもっておりません。「君たちの考え方は間違っているから、我々が啓蒙してあげよう」という言い方が、実はいちばん反感を買うというような段階の成熟社会に、いまの日本は到達しています。これはぜひみなさんの肝に銘じていただきたいのですが、若い世代は、情報はつねに操作され作られているという実感をふつうにもっています。私の世代以下の人間は、もう物心ついたときからテレビがあります。テレビで流される情報が、いかに作られたものでしかないか、やらせがどのくらいあるのか、そういうことを知り抜いています。国会答弁でいくら議員が頭を下げて説明したとしても、それが建前だけでしかないということは前提です。学校に行ったとしても、学校の校長がしゃべることなどは、建前だけでしかない、本音は全然別のところにあるということを、すでに知り抜いている。いじめで自殺者がでたときに、「うちの学校にはいじめはなかった」と記者会見する校長の姿というのを、いやというほど見ているわけです。

 そういう人たちに向かって、「医師はいつも患者のことだけを考えて、人類愛で医療をしている」などという建前や、単なる理念だけを繰り返しても、彼らのこころにはまったく届きません。彼らは、そのようなことばを、テレビの国会答弁と二重写しにして聞くことでしょう。そういう意味で、日本がすでに成熟した情報社会に入っているということを、肝に銘じておかなくてはならない。建前を繰り返しただけでは、もう信頼回復はできないというところにまで追い込まれているのだという自覚が、どうしても必要なのです。

 97年11月13日に関西の読売テレビのニューススクランブルで、臓器移植についての特集を一週間続けてやりました。その初日に私もスタジオ出演して意見を述べましたが、そのときに、68年の和田移植の和田寿郎元札幌大学教授のインタビュー映像がありました。これは、読売系列の北海道のテレビ局が97年夏に取材したもののようですが、なかなかすごかったですよ。和田さんは、そのビデオのなかで、「こんないい手術はしたことがない。役に立ってよかったし、両方に喜んでもらってよかった」「わしは死ということを決めて、みんなも同意した。ぜんぶクリアーです」と断言していました。みなさんご存じのように、和田移植は、脳死判定への疑問や、移植患者の適応など、様々な疑惑が出されて大きな社会問題となり、そこをうやむやにしたままで放置したので、その後の移植がずっとストップしたままになったという大事件でした。もし、もし和田移植に対してクリアーな対処を医学界がしていたら、臓器移植がこれほどまでに遅れることはなかっただろうと言われているわけです。そのくらい大きなトラウマを、和田移植は日本の医療の歴史に残してきたわけです。その当事者が、脳死臓器移植が再開されるであろうという97年という年に、このようなことを平然とテレビの前で言うとはどういうことか。

 和田教授は、その後も胸部外科学会の大物でしたし、国際的にも活躍していましたね。みなさんのいわばボスに当たる人ですよ。でも、私も、そしてテレビを見ていた多くの人も、医療の学界にはなんの利害関係もないのです。私は、ここでいくら和田先生のことを批判しても、痛くもかゆくもないのですよ。同じように、テレビを見ている人たちも、和田先生について何を言っても、何を感じても、痛くもかゆくもありません。そういう部外者の一般人があの映像を見たときに何を感じるかというと、「あの人は、いまだに自己正当化ばっかりしている」と思うわけですよ。自分のやったことは、正しく、すばらしく、何の問題もなかったと、そればかりを繰り返している。夜のニュース番組でしたから、視聴率は高かったと思いますが、視聴者はそういう印象をもったでしょう。テレビというのは怖いメディアで、あの映像を見ると、和田さんが本気でそういうことを言っているのが、手に取るように分かります。いまだに、自分が正しかったと、そればかりを言っている。その言い方も、とても傲慢です。

 テレビで見ていると、ああ、この人、本気でこういうことを言ってるんだと分かってしまう。このあたりのことが、とても大きいわけです。これを見た視聴者の多くは、また医師への不信感をつのらせたかもしれません。「やっぱり、医者というのは・・・・・・」と思ったかもしれません。こういうことろで、医師への不信感というのは、たえず再生産されてゆくのです。一般の人々のなかにある医師への不信感がなかなか解消されないのは、こういうところで日々新たに不信感が再生産されているからなのですよ。

 たとえば、そのテレビで、私は和田先生のお話はおかしいと言い、そして医師にはもっと謙虚になってほしいと言いました。その番組は生放送だったわけですが、終わった直後に電話がかかってきて、ディレクターが受けました。その方は、大阪在住の医師だと名乗ったうえで、「ようするにあんたのところの局は、移植反対なのか」と問いつめたそうです。思うんですが、どうしてそういう言い方しかできないんでしょうか。たしかにいろんな問題があるかもしれないが、でも、移植によってこのようなメリットがあるではないか、そこをきちんと検討してほしいというような言い方だったら、喜んでお聞きするわけです。そういう建設的な問いかけならば、大歓迎なのです。でも、そうではなくて、「私は医師だが、ようするにあんたのところは移植反対なのか」と言ってくるという、そのなかに傲慢さを感じます。庶民というのは、そういう傲慢さにはとても敏感です。すごく敏感です。もちろん、そういう傲慢さを感じたとしても、その場ではなにも反論しませんよ。だって、反論したって、押さえつけられるだけだから、力のある人に向かってはその場では何も言いません。だから、そういう傲慢さを身につけた人たちは、傲慢な言い方をすれば一般人は黙るというふうに思っているんでしょうね。こういうのを日本語では恫喝と言いますが。でも、言われた方は、どういう感じをもちますか。その傲慢さのなかに、そして傲慢さで押し切られたことに対して、大きな不信感をもつでしょうし、以前からある不信感をさらに増幅させてしまうことでしょう。ここでもまた不信感は再生産されてゆくのです。

 朝日新聞の97年9月9日の論壇欄に、臓器移植についての論文が掲載されていました。東京女子医大の小柳仁先生、自治医科大学の窪田達也先生、そしてここにおられますけれども、元循環器病センター総長の川島康生先生のお三方です。このなかの、小柳先生の論文は、私たちの生命倫理の研究会で金沢大学法学部の青野透先生が紹介されたのですが、たいへん受けました。みなさまに、こういうことはフィードバックされていないと思いますので、ご紹介しますが、まず小柳先生はこのように書かれています。

 「臓器移植は知識、技術に加え医療レベル全体の高さが要求され、当該施設そのものの機能、清潔度とモラルが必要となる。長い間現場を持たず、しかし、理想に燃えて研さんに努めてきた日本の移植外科医は、欧米先進国の外科医以上に知的鍛錬と学習を繰り返し、また、透徹した倫理観を有しており、私共の世代が本邦の脳死臓器移植の実施者となることには必然性と妥当性があると確信している。」

 この記事のどこが受けたかと言いますと、「透徹した倫理観を有しており」というところです。翌週の朝日新聞に、次のような記事が載りました。「名大医学部教授を逮捕 200万円分収賄容疑」この方は、村瀬さんという教授で、収賄容疑をほぼ認めている。記事には、続けて次のように書いてある。「村瀬教授は、東海地方の臓器移植の中心人物で、92年から移植グループを作り、心臓移植の準備をしている」。これは、ほんとにブラックユーモアですね。小柳先生が言われた「透徹した倫理観」というのは、いったいどこへいったのでしょうか。とてもしらじらしい気分になります。

 それから半月後の9月29日朝日新聞には、どういう記事があったかというと、「売買腎移植 東大講師に謝礼 あっせん業者から230万円」ということなのですね。東大医学部の講師が、バングラデシュでの売買腎に関与したのです。こういう事件が続発するという事実を考えあわせてみると、小柳先生が断言していた、日本の移植医は「透徹した倫理観」を有しているというのは、いったいどういうことだったんだろうという疑問が出てこざるを得ないわけです。さらに言えば、こういうことがあるにもかかわらず、日本の移植医は透徹した倫理観を有していると臆面もなく書くことができるという、その精神構造を知りたくなるのです。庶民を甘く見すぎているのではないかとさえ、思ったりするのです。

 千里救命救急センターで脳死患者が出て、心臓が止まってから摘出して九州大学で移植したことがありました。当初は、残された家族からインフォームド・コンセントを得たと記者会見をしていたわけですけれども、その後の取材でわかったことは、少なくとも脳死になった患者さんの母親は、臓器や角膜を取られてこんな姿になって帰ってくるなんて思ってもいなかったということです。そして自分が電話で「なんなりとして」とあいまいな返事をしたことを悔やんでいたのです。つまり、医師たちはインフォームド・コンセントがきちんと取れたと言っているにもかかわらず、同意を与えたはずの母親はそのあとで移植のことを激しく後悔しているわけです。このようなディスコミュニケーションが直後に起きるということは、そこにきちんとしたインフォームド・コンセントなど成立していなかったことを物語っています。

 以上のようなことを考えあわせてみると、いまの日本の移植のシステムや、担当する医師たちの姿勢そのものに、大きな問題があると言わざるをえないのです。「問題はすべて解決された。いまや機は熟した。あとはやるだけだ」というのはウソであるとしか、私には考えようがありません。

 だから、「技術的にもモラルの面でももう万全である」というようなウソを一般市民に対して言うのではなくて、「たしかにしかじかの問題があるのだが、それはこういうふうにして今後解決してゆくつもりである、そのためにこういう努力を行なっている」ということを、きっちりと情報公開してゆくことこそが大事なのです。「我々は完全だ」といくら繰り返しても、それは庶民のこころには届きません。逆に、医療不信は増大するばかりだと私は思います。

 もちろん、庶民はみんなどこかで悪いことをしているし、悪をいっぱいかかえているわけですよ。モラルに反することも、法に触れることもたくさんしているわけです。そういうものをかかえながらも、社会のルールのなかでなんとかやっていこうとしている。だから、移植を進めようとするお医者さんが個々に悪いことをしたり、モラルに反するようなことをする人間であったりしたとしても、そのこと自体を庶民は糾弾しません。

 庶民がカチンとくるのは、そして不信感をつのらせるのは、モラルに反することをしておきながら「我々はモラルには反していないのだ」と強弁する、その自己欺瞞を見たときなのですよ。悪いことをしたときには「悪いことをした」ときっちりと言うこと、問題点があるときには「問題点がある」ときっちりと述べること。どうして、そういう当たり前のことができないんですか。そこを認めたうえで、その問題点が人々のいのちの危険へと広がっていかないためにこのような手を打ってあるとか、こういうシステムを組み込んであるとか、ここを改善するために日々努力しているとか、そういうことを説明していけばいいのです。こういう形の情報公開を地道に続けてゆく、そしてみんなに分かってもらう、もうそれしか道は残されていないのですよ。

 もうロッキード事件の時代から、「私はなにもやっておりません、私は何も知りませんでした」というのを繰り返し我々は聞いてきているわけです。それを聞いて、「ああそうか、何もやっていなかったんだ。かわいそうだな」と思う人は、もうほとんどいないわけです。同じように、「移植医は透徹した倫理観を有し」と言われたって、ああそうか、すばらしい先生ばかりなんだとは、もう思わないわけです。

 自分たちのもっている弱さとか、悪いところとか、失敗するかもしれないところとかを、相手にさらしてゆくこと、それが必要だと思うのですよ。自分たちも弱い面をもっているのだ、自分たちも間違いをするかもしれないのだということを他人にさらすことによってしか、「信頼関係」は生まれません。医師のみなさん、ここは大事な点ですよ。「私は完璧だ。私は聖人君子だ」といくら言ったとしても、その人はけっして信頼されません。そうではないのですよ。

 そうではなくて、自分たちは完全ではない、悪もいっぱいもっている、間違いもする。その点で私とあなたは同じである。だけれども、私はそのことをあなたに包み隠さずに言う。そして、専門家として間違いを犯しそうになったときには、こういうふうにしてそれを回避するように考えているのだ。こういうことが相手に実感をもって伝わったときに、はじめて、信頼感というのは生まれてくるのです。あるいは不信感というものが徐々に消えてゆくのです。

 こういうふうに素人に向かって言うのは、医師にとってはきついことかもしれません。自分が間違っているかもしれないとか、自分が失敗するかもしれないというのは、受験競争で医学部にまで勝ち抜いてきて、まわりから「先生、先生」とあがめられ、そうやっていつも何かの頂点に座っていたいみなさんにとっては、とても屈辱的なことかもしれません。でも、医師がまずそこから降りてくることなしには、この不信感というものはけっしてなくならないと思うのです。

 さて、具体的な臓器移植の生命倫理問題に話を進めますと、問題が起きるのは移植手術を受ける場面というよりも、脳死の人から臓器を摘出する場面においてです。具体的には、臓器摘出のときに、本人の意思がきちんと確認されているか、そして家族へのインフォームド・コンセントがきちんと取れているのかというのが、まずいちばん大きい。そして、脳死判定と臓器摘出の現場において、家族による脳死の人の看取りと死の受容がきちんとサポートされているのか。言い換えれば、移植を急ぐあまり、家族の思いが無視されたり、別れの時間というものが軽視されたりしないか。この問題が次に大きい。

 ここにいらっしゃるみなさまは、移植手術の担当なのですから、臓器摘出側のことは他人事なのかもしれません。だけれども、移植というのは、脳蘇生、脳死判定、臓器摘出、臓器搬送、移植手術という一連のつながりあった出来事なのですから、システム全体がうまく機能しないとだめなわけです。物理的な手続きだけが機能するだけではなくて、関係者の人権や、当事者たちのこころのケアまで含めて機能しないといけません。救急と移植では、医療の縦割りのなかでは部局が違うから口を出さないでおこうというのではなくて、救急の現場や、集中治療室で起きていることもまた自分たちとつながっているのだという自覚を持って、言うべきことは言い、提言すべきことは提言していただきたいと思います。

 臓器摘出の現場で、具体的に問題になってくるのは、脳死になった本人の事前の意思がはっきりと分からない場合に、その家族はなかなか移植に同意されないという点です。たとえば、アメリカでも、家族がNOという場合が多いのです。NHKで放映された「臓器移植法案・いま何が問われているのか」(1994年)によれば、アメリカでも脳死になった人の家族の約2/3は移植に反対するらしい。日本でも、脳死になった家族の治療続行をのぞむ人がきわめて多い。ということは、家族にとってみれば、脳死の人というのは死んだモノではない。洋の東西を問わず、多くの家族たちは脳死になった自分の肉親のことを死んだ物体だとは思っていない。家族はそういうリアリティを生きているわけです。

 ですから、まず、家族の多くがそういうリアリティを生きているということを、医療従事者は尊重すべきだと思うのです。もちろん、世の中には様々なリアリティをもっている方がおられます。脳死になったら物体だというリアリティで生きている方もおられますし、そう思ってない方もおられます。大学の授業で、脳死についてのディスカッションをしてみると、脳死になった他人は物体だというリアリティを持っている学生もいるし、まだ生きているとしか思えないという学生もいます。そして、ゼミのテーマとして考えているときと、実際に自分の肉親が脳死状態になったときでは、また全然感じ方は違うはずです。

 実際に家族が脳死になってみると、死んだとは思えなかったと言う学生もいます。家族を脳死で亡くされた方だけをサンプルにしてアンケート調査をすると、どういうことになるのでしょうか。とても興味があります。

 とくに、自分の子どもさんを脳死を経て亡くされた方々にお話を伺ってみますと、脳死になった自分の子どもは死んでいるとはとても思えなかったと言われます。そのようなリアリティをもつ人たちがいるということを前提として考え、もしそのような人たちが、脳死の人の温かい身体を看取って過ごしたいと希望するなら、移植よりも前にそのような希望をかなえ、保障してゆく、そういう雰囲気と体制が組まれていることが、臓器摘出の前提条件だと思います。

 もし、すべての臓器摘出の現場でそういう雰囲気と体制ができあがったとするならば、死を十分看取って納得したから臓器をお役に立ててくださいという方も出てくるでしょう。このあたりのことをきちんとしてから、はじめて、移植への道はスタートするべきです。

 こういうことを『脳死の人』出版のときから言い続けてきましたが、「そんなことを言っていたら移植用の臓器の数が減るじゃないか」と反論されてしまうのです。ですが、そのような看取りの場の確保のためにほんとうに移植用の臓器の数が減るのならば、それはそれで仕方がないことであると私は思っております。少々臓器の数が減ったとしても、まずは少ない事例から、みんなが納得する形できちんと行なっていくこと。そこからしか道は開けません。千里救命救急センターみたいなのはだめですよ、絶対。これから心臓・肝臓移植が再開されていくわけですけれども、限定した施設できっちりと情報公開してみんなが納得する形で慎重にやってゆく。そして、臓器を提供した家族の方々も、ほんとうによかったと思えるような、そういう成功事例を少しずつ積み上げてゆく。そういうよい事例が積み上がっていくうちに、「ああ、じゃあ私もドナーカードに署名してもいいかな」と思う人が増えてくる。あるいは家族の方も、「私は違う生命観をもっているけれど、本人は移植に賛成だったので、イエスと言いましょう」というふうに徐々になってくるのではないでしょうか。

 「臓器不足だ、どうすれば臓器が集まる、そうだドナーカードをばらまいて啓蒙しなきゃ」というような発想をするのではなく、再開される数少ない事例を、どこの施設であってもみんなが納得する形で成功させて、もしミスがあれば情報公開したうえできっちりと反省して、そうやって慎重にみんなの意見を聞きながらやっていくうちに、臓器移植に対する国民の理解というものが徐々に得られてゆくはずです。そして、そのことをとおして、医師への不信もまた徐々に解消されるようになる。

 医師のなかには、「われわれはちゃんとやっているのに、メディアが細かいことばかり書き立てるものだから医師への不信感が広がってゆく」とおっしゃる方もおられますが、それは物事の一面でしかない。和田移植、薬害エイズをはじめとする大不祥事の連続があるわけです。それを反省して、二度と繰り返さないようにするにはどうすればいいのかを、まず、医療界として、自分自身で苦しみもがきながら考え抜いてほしい。そして、そのような医療不信を解消するためにも、これからの脳死移植のプロセスを、納得ゆくものにしてほしい。そう思います。

 我々も完全ではないのだから、みんなの意見はきちんと聞くし、改めるべきところは改める、情報公開をして国民に謙虚に問いかけてゆく。そういうことを通して医療不信を解消していってほしいです。

 我々は、移植医療にだけ不信感をいだいているのではありません。医療一般に対して不信感をいだいているのです。だから、薬害エイズのことなどを対岸の火事だと考えているとすれば、それは認識が甘いと思います。臓器移植というものを通して、医療全体がどういう方向に進まないといけないのかをつねに考えていただきたい。

 今年成立した臓器移植法を、移植禁止法だと言う方々がおられます。川島康生先生もさきほどの朝日新聞の論文のなかで「臓器移植禁止法ではないかと酷評されながらも・・・・・・」と書いておられます。ですが、こういう言い方こそが、いちばん非建設的な言い方なのですよ。やめていただきたいです。少ないかもしれない事例から、みんなが納得する形で開いていこうとしているわけですから、「臓器移植禁止法」という表現は、前向きな人々の神経を逆なでするだけです。誠実さとか、謙虚さがまったく感じられないことばですね。

 もうひとつ、「臓器不足」ということばがあります。このことばもひっかかります。臓器不足というのは、食糧不足だとか、部品不足というような言い方ですよね。つまり、臓器を単なる「資源」として見ていることばなのです。でも、多くの家族の思いとしては、部品や資源としての臓器の摘出に同意するということではないわけでしょう。そこにまだいのちが部分的に宿っているかもしれない、そういう身体の一部をさしあげるという思いのはずです。このあたりのことを考えていただきたいのです。

 いろいろきびしいことや、無礼なことも申しましたが、私の話の中心的なメッセージをみなさまはきっとご理解になったことと思います。これを機会に、医療の現場を見つめ直し、そして医療が外部からいつも観察されているということを自覚しながら、医療不信を解消する方向へと改革を進めていっていただきたいと思うのです。

 

(1997年11月8日 国立循環器病センター創立二〇周年記念講演)

 
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