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早川聞多・森岡正博編『現代生命論研究』国際日本文化研究センター・日文研叢書9
1996年1月 1−8頁+335−338頁
「生命と現代文明」序説    森岡正博

 いま、この時代に「生命」の問題を考えることは、とてもしんどい。なぜかと言えば、臓器移植にしても、環境問題にしても、新々宗教のあり方にしても、それらがはらむ問題点を突き詰めて考えてゆけば、それは必然的に今日の我々が住んでいる「この文明」総体のあり方の再検討へとつながってゆくからだ。
 つまり、ある専門の枠を決めて、その枠の中に問題を抱え込んで考察するだけでは、もはや問題の構造それ自体が見えてこないような、そんな時代に我々は生きているのである。これは、問題の把握・解明・解決をなりわいとする研究者にとっては、たいへんつらい状況だといえる。専門の枠内に区切り取ることで成立してきたいままでの専門学の方法論が、使えなくなってしまうかもしれないからだ。
 しかしこの状況を逆に考えれば、いまほど研究者が生き生きと活躍できる時代もないことになる。専門学の方法論をふりかざすだけでは把握すらできない重要問題が社会の中にあふれているわけだから、それらと真摯に向かい合い、それらをきっちりと料理できる新たな学問の方法論を、自前で考え出したり、みんなの知恵を結集してその手掛かりを発見することができるのであるから。
 いま「生命」について考えることは、従って、「生命」について領域横断的・脱専門的に考えることを、必然的に要求する。そしてそのためには、多様な学問的・実践的バックグラウンドをもった研究者たちが集結して意見を戦わせ、お互いに学び合う場を作り上げる必要がある。そのような場を、学問的ネットワークのひとつの結節点として作り上げ、そこに参加した人たちがみんなでパワーアップすること。「生命と現代文明」共同研究会がめざしたのは、これであった。
 本書は、その共同研究の学問的成果の一端をまとめたものである。医療・エコロジー・科学技術など、現代文明のあらゆる側面に出現する「生命」の問題の奥深さを、多方面から析出することができたと私は信じている。
 そして、本書を通底する研究パラダイムとして、「生命と現代文明」研究という、あるまとまりをもった思考領域が見えはじめてきたように思う。
 それをひとことで言えば、「現代文明を形作っている思想・慣習・歴史・制度・技術などをつねに念頭におきながら、それらとの関わりにおいて、現代の<生命>をめぐる諸問題を把握し、解明し、解決してゆこう」という研究姿勢である。このような研究姿勢をもって、たとえば、脳死と臓器移植の問題に取り組んだり、末期医療のあり方を考えたり、あるいは第三世界の環境保護のあり方をさぐってゆくのが、「生命と現代文明」研究である。
 そのような研究を遂行するためには、ひとりひとりの研究者が、脱領域的な関心を持ち続け、自分が取り組んでいる問題をつねに多方面から検証していかねばならない。つまり、私のことばで言えば、各個人が「ひとり学際」の使い手として、問題に取り組むことが要請されるのである。
 ここで「ひとり学際」について述べておきたい。「ひとり学際」は、いわゆる「学際的研究」の超克形としてある。以前、「文化位相学」を提唱したときにも述べたことであるが(1)、 多人数の「専門家」が寄り集まってひとつの課題を共有し、各専門分野から貢献するという形の「学際的」方法では、もはや今日の超複合問題群を料理することはできない。なぜかといえば、そこには、いったん断片化したものの「寄せ集め」の方法論はあったとしても、それらを有機的に「統合」する方法論がないからである。だから、多くの学際的研究は、各分野からの断片的情報を、ただ羅列するだけに終わってしまう。
 これに対して、「ひとり学際」は、問題に取り組む各個人の知性の内部に、その「統合作用」を期待するのである。つまり、様々なバックグラウンドをもった人々と出会って交流し、様々な学問分野をひとりで横断して自らに栄養分を与えてゆくそのプロセスにおいて、私というこの人格の内部に、私固有の「問題意識」に対応したある種の「統合作用」が生じて、各領域の情報や知恵が私の知性に受肉するかたちで統合されてゆくのではないかと、私は考えているのである。そのような統合化は、まさに生命として成長し、変容し、つねに自らを展開してゆくところの、私という「生命体」の基本的能力を背景として、達成されると思うのである。私は、そのような作用を、さらに「生命学」という学問の根幹として取り入れようと考えているのであるが、それについてはまたあらためて論じることにしよう。
 従来の学際的方法は、統合の原理を、方程式のようなリジッドな手法として構成しようとしたがために、行き詰まったのではないかと私は感じている。これに対して、「ひとり学際」は、その統合の方法を、いま生命として生きる各研究者個人の内面のプロセスにゆだねようとしているのである。
 もっと具体的に言えば、「ひとり学際」は、自らの問題意識に関連するあらゆる領域の知識や財産や思考方法などを貪欲に学習し、自らの血肉とすることを奨励する。しかし、ここで注意しておいて欲しいのは、「ひとり学際」は百科事典を最初から丸暗記するような、無目的な知の集積を奨励しているのではけっしてない。そうではなくて、自分自身の問題意識を追求するときに、どうしても必要となる異分野の知的財産にかんしては、自分の問題意識との誠実な関わりを維持できる限りにおいて、貪欲に他の領域へと越境してゆけばよいというのである。百科事典丸暗記とは、天地の開きがある。
 一九世紀以来ヨーロッパで制度化され、明治期に日本に輸入されてきた「学問」つまり「専門学」は、みずからの専門の枠組みから外に出ることを、とりあえず禁欲することを教える。今世紀後半になって、その弊害を緩和するために、社会科学や自然科学の一部で、隣接領域のあいだの垣根をはずす試みが積み重ねられ、学際的科学が誕生した。この流れは、さらに推し進められなければならない。自然科学の内部での領域横断や、社会科学の内部での領域横断にとどまらず、人文・社会・自然科学、そしてそれら既存アカデミーの外部での知の実践までをも含めた領域横断的試みが積み重ねられる必要がある。そしてそれらは、それを遂行する各個人の「統合作用」の責任において行なわれる必要がある、と「ひとり学際」は提唱するのである。
 「ひとり学際」は、各個人の問題意識に対応した<無謀な領域横断行為>を、徹底的にサポートする。現在の大学院や研究機関では、学際を謳いながらも、実際に若手の研究者が無謀な領域横断に乗り出そうとすると、「それはサイエンスとは言えない」などという忠告を発して、そういう試みを抑圧することがある。私の提唱している「ひとり学際」は、そのような抑圧は加えない。逆に、それらの無謀な試みを、徹底的にサポートするのである。その結果が、サイエンスを見失ってしまうことにつながっても、かまわない。これは極論であるが、その研究者がいのちをかけることが、実は従来の「サイエンス」ではなかったということがその人にとってはっきりと明らかになったのであれば、それはそれでひとつの成果であったと考えるべきである。

 では、現代における「生命」の問題を「ひとり学際」的に考えてゆくとはどういうことなのかを、<体外受精>を素材として提示してみたい。
 体外受精とは、女性の卵管内で進行する受精のプロセスの一部を、女性の身体の外部で人工的に行なおうとする技術である。たとえば、不妊の女性の卵巣から成熟した卵を取り出してガラス容器に入れ、そこに男性の精子を混ぜて受精させ、その受精卵をふたたび女性の卵管や子宮に戻して、子宮壁に着床するのを待つ。これを「体外受精−胚移植」と言う。いまのところ成功率は10〜20%であるが、すでに不妊治療の目的で臨床応用され、数多くの赤ちゃんが誕生している。
 体外受精という<テクノロジー>は人間に何をもたらすのか。これが私の問題意識である。体外受精を可能にしたテクノロジーが、現状のままでストップしていることはありえない。それを可能にした技術は、人間の生命へとさらに奥深く介入する技術を、次々と生み出してゆくに違いない。
 現在、体外受精という個別技術は、「人手によってサポートされた再生産assisted reproduction」 というより一般的な概念に包摂して考えられるようになっている。そしてその枠の中には、受精卵の質を点検して遺伝病や染色体異常のあるものを選択的に廃棄する「受精卵診断」の技術や、胎児の段階で奇形や障害が見つかった場合に、それを胎内で治療しようとする「胎児治療」なども論理的には繰り込まれてくるはずである。
 このように、体外受精が将来の可能性として内包するものをざっと列挙しただけでも、そこに数多くの問題が含まれていることに気付く。まず、人間の「生命」をどこまで操作対象にしていいのかという、古典的な「生命の不可侵」問題がある。いま世界では受精後14日以内、つまり原始線条が出現して脳神経系の初発物が形成されはじめたときをひとつのメルクマールとみなして、それ以降の人間の生命に介入することを自粛している。しかしこれは、あくまで政治的決定の色彩が強く、どうして14日なのかをめぐっては依然として哲学的な議論が続いている。その決定の背後には、さらに根本的な問題として、「人間」はいつ<人間>となるのかという哲学的・宗教的問題が横たわっている。我々の宗教的伝統にまでさかのぼる「人間観」の問題があるのだ。もし、脳神経系の初発物が出てきたら<人間>なのだとすれば、それはどのような「人間観」にささえられているのか。そしてそれは今日我々すべてが採用すべき「人間観」なのか。その「人間観」は、脳死とどのような関係にあるのか。
 受精卵診断の技術はすでにイギリスでは臨床応用されており、日本でも鹿児島大学で倫理委員会に申請されている。鹿児島大学の倫理委員会は、1995年3月、この問題の社会的な重要性を理由に、臨床応用の決定を先延ばしした。なぜかといえば、この受精卵診断の技術は、人間の生命操作の歴史に、後戻りのきかない一頁を書き込む可能性が高いからである。
 選択的中絶というものがある。胎児に障害や奇形があるかどうかを検査して、それらがあった場合にだけ中絶するというものである。しかしこの方法では、人工妊娠中絶による母体への身体的・精神的後遺症が大きくなる。ところが、もし、受精卵の段階で、それも女性の体外でこのような検査と選別が簡単にできるようになれば、母体への後遺症は最小限に押さえられる。そればかりか、いま開発段階である受精卵のクローニングなどの技術を組み合わせれば、体外で受精卵を多数製造し、それをすべて自動的に検査して、いちばん問題の少ない受精卵だけを母体に戻して発育させることも夢ではなくなる。遺伝子治療の議論では、受精卵の遺伝子治療よりも、むしろこのような選択廃棄の技術の方を進めるべきだという倫理学者の声も出はじめている。(2)
 もしこのような技術が進むとすれば、その結果として、遺伝的・先天的な障害をもつ人間が誕生する確率は低くなるはずである。このような技術が進められ、社会に受容されてゆくとすれば、その背後にはやはり「障害者は少ない方がいい」という我々の価値判断が潜んでいることになるだろう。「障害者は不幸である」という言説は最近は説得力をもたなくなりつつあるようである。しかし、多くの人間は「自分たちの子どもは障害者でない方がいい」と考えていると思われる。このような「親の思い」は、批判されるべき考え方なのだろうか。(3)
 これと連動しているのが、経済的ファクターである。もし先天的な重度の障害者が誕生すれば、その人間に対する福祉費用は膨大なものとなる。社会福祉費用をなるべく切り詰めて効率的に使用したい行政側にとってみれば、先天的な障害者が生まれる前の段階で、公的費用によって受精卵診断などのスクリーニングを行なって、生まれてくる障害者の数をあらかじめ減らしておいた方が「安くつく」のである。
 二一世紀の高齢社会日本では、社会福祉費用の効率的で公正な分配は、大問題である。体外受精の問題は、このような経済問題にまでリンクしている。もちろん、再生産の自由(reproductive freedom)の立場からは、障害児と分かってもそれを産む自由は保障すべきだという声が上がるであろう。しかしながら、行政側には、「たしかに障害児を産むのは両親の自由だが、しかしその子を養育するために余分にかかる費用もまた両親に負担してほしい。好きで産んだのだから」という対応が可能である。つまり、産むのはご自由に。そのかわり福祉費用は出しませんよ、ということがありえる。これは、脳死の議論のときに、「脳死の人をいつまでもケアするのは家族の自由だが、それにかかる費用に保険を適用するかどうかは別問題だ」という意見が実際に出されたのと同型である。
 つまりこの問題は、我々の社会が、人間の健康や生死に関して、どこまでヘビーな社会保障をかけるべきかという、福祉社会の原理論にかかわっているのである。
 ところで、体外受精の技術は、不妊治療の切り札として研究開発が進められてきた。その背後には、どうしても自分たちの遺伝子を受け継いだ子どもが欲しいという親の願いと、その願いをかなえる形で自分の研究を進めたいという科学者の欲望があるわけである。
 ところが、自分たちの子どもがどうしても欲しいという欲望は、かならずしも「両親」の欲望ではないらしいことが知られている。とくに非都市部の場合、両親の祖父母や親戚から「子どもを作らないのはおかしい」「子どもが作れないのは家の恥」という有形無形の圧力をかけられることが多いといわれている。また、不妊が疑われるときに、なによりもまず女性側に原因のある不妊が疑われてしまう(男性側が原因の不妊も当然ある)という事実は、この問題の社会的把握に秘められたジェンダー・バイアスの存在を見事に示している。
 また、我々の中に、血のつながった子どもをもちたいという欲望があるからこそ、養子ではなく、体外受精の方法が選択されるわけである。この意味では、体外受精などの先端生殖技術は、「血縁」イデオロギーを補強するようなきわめて保守的な技術装置として、社会の中で機能しているのである。「先端」テクノロジーと「保守」的慣習との結合が起きているわけだ。
 さらに、体外受精などの生殖技術研究は、主に「女性」の身体を操作することによって成果を上げようとしてきた。つまり、男性の身体を操作するという道を選ぶことよりも、女性の身体の操作の方を、より意図的に選択してきたように見えるのである。この点に鋭く注目するフェミニストたちは、これを医学領域における「女性支配」の典型例とみなして批判をはじめている。つまり、生殖と再生産という、人類社会の基本的装置を操作する際に、そのまなざしが男性の身体にではなく、もっぱら女性の身体に注がれてきたという歴史に注目するのである。日本でも、一九七〇年代初頭のウーマン・リブは、女性を「子産み機械」とみなして管理しようとする国家の策略を糾弾したが、その管理路線は姿を変えて現在も存続し続けているのだとも言える。
 以上概説したように、体外受精の問題は、このような「人間観」「生命観」「技術論」「障害者問題」「経済」「福祉社会」「家族論」「フェミニズム」などの領域と本質的に関わっていることが判明する。
 体外受精の問題は、おもに生殖医学、生命倫理学、女性学の領域で議論されているが、それらのディシプリンの内部の議論だけでは、その問題が抱えている全体像とそのインパクトの真の意味が把握できない。それを把握するためには、どうしても、その問題を現代文明の諸装置との関わりの中で脱領域的に問いなおす「生命と現代文明」的な研究が必要となるのである。
 そしてここで述べたことは、なにも生命倫理のテーマだけではなく、環境問題、南北問題、新宗教の問題、教育の問題など、生命と自然をめぐるあらゆる問題に当てはまるはずである。

 もうひとつの例として、「権利」の問題を取り上げてみよう。
 「権利」は、現代社会を基礎づける根本概念のひとつである。いやしくも人間である以上、全ての人間は基本的人権という名の権利を保障されなければならないという前提で、我々の社会は運営されている。しかし現実には、日本においても、世界においても、様々な基本的人権の侵害が起きており、それらをひとつひとつ解決してゆくことが急務であることは疑いを入れない。
 ただし、話が「生命」に及ぶと、「権利」や「人権」概念の自明性は危うくなってくる。たとえば、人工妊娠中絶をどのように考えればよいかという難問がある。その難問に答える際のひとつの立場が、「中絶は女性の権利」という考え方である。これはフェミニズム・女性運動の陣営から強く打ち出されたものだ。日本では、七〇年代のウーマン・リブがこの主張を行なった。彼女たちは、「産む産まないは女性の権利(自由)」と言っていた。そしてそれは、当時の女性たちの大きな共感を呼んだのである。
 もちろん、彼女たちが「中絶の権利」と言うとき、そこにこめられた意味あいは、中絶というパーソナルな出来事に対して、国家や男たちが女の意向を踏みにじって介入してくるのは許せないというものであった。その背景には、産みの当事者である女性の意向が軽視されることが従来あまりにも多く、多くの女性たちに絶望とやりきれなさを課してきたという歴史がある。そして、彼女たちは、単に中絶の権利主張だけをしたのではなく、中絶をしなくてもよいような社会を積極的に作っていこうという提言もまた同時に行なったのである。
 ただ、彼女たちが「中絶の権利」「産む産まないの権利」ということばを押し出したことは事実であり、それは彼女たち自身にとってもある種の割り切れなさを残すこととなった。つまり、「中絶の権利」とは、そのまま成長すれば我々と同じような一人前の大人になるはずの胎児の存在を、抹殺してしまう権利にほかならない。生命を抹殺する権利を、ほんとうに我々はもってしまっていいのだろうか。さらに言えば、いのちを抹殺することには「痛み」がつきまとう。それが人間のいのちであれば、なおさらである。そういう殺戮の痛みを内包するような行為を、我々は「権利」という名のもとに正当化してしまっていいのだろうか。こういう躊躇が、ほかならぬ女性運動の内部から繰り返しあらわれたのである。
 中絶が良いか悪いかという議論には、ここでは踏み込まないことにする。この点を確認した上で、改めてこの問題構成に注目してみると次のような疑問が出てくる。
 すなわち、現代社会の構成原理のひとつである「権利」というものと、我々自身がそれであるところの「生命」というものは、なにか相互排斥的な関係性をはらんでいるのではないかという疑いが出てくるのである。
 「権利」の中核概念は「所有権」であると言われる。ある人間が、土地や物を自分の領域内に囲い込んで、他人の手に触れさせないという意味での「所有権」が、近代以降の権利概念の底辺にある。だとすれば、「中絶の権利」という言い方に違和感を感じる人がいるときに、そこに存在する違和感とは、「はたして生命は人間の所有権の対象になるのか」「生命は人間の所有権の対象にしていいのか」という感覚なのではないだろうか。ここには、「生命と権利」あるいは「生命と所有」という、近代社会の根本構造の妥当性を問うような根本問題が露出しているのではないだろうか。
 「動物の権利」論争というものがあるが、そこでもまた生命と権利の関係がラディカルに問われることになる。たとえば、動物実験に対する反省が、欧米諸国を中心にして出現している。現代科学は動物実験なしには進展しないのだが、それにしてもいままであまりに動物を粗末に扱いすぎてきたのではないかという反省が出てくる。動物に無用の痛みを与えたり、耐えがたい痛みや苦しみを与えるような実験はするべきではないというのである。
 そのような意見を主張するときに、「動物の権利」という概念が持ち出されてくることがある。たとえば、動物は、耐え難い痛みなしに生存する権利を持っている。だから、実験動物にも「福祉」を充実させなければならないと主張する。現に、生命科学関連の国際学術雑誌は、投稿者の用いた実験動物に、正しい道徳的配慮がなされたかどうかを審査するようになり始めている。
 しかし、動物に権利があると言う者でも、動物には人間と全く同じ権利があるとまでは主張しない。動物には、人間に保障される権利のうちの、ある一部分のみが適用されるのだ。だとすれば、人間がもつべき権利よりも、猿や犬のような動物のもつ権利は縮小されるのであるし、痛みがあるかどうか分からない昆虫やクラゲなどの動物に適用されるべき権利は、さらに縮小されるであろう。そうすると、ここには、人間を頂点とし、植物や微生物を底辺とする全生命の「権利のヒエラルキー」が成立することになる。そもそも権利概念とは、人間である以上みんな基本的には平等でなければならないという近代市民革命の「平等の理念」から導き出されたはずであるが、それがいったん人間の枠を超えて他の生物種にまで拡張されたとたん、それは生命世界の「階級社会」を支えるイデオロギーとなってしまうのである。
 このパラドックスをどう考えればよいのか。これはやはり、我々の住んでいる現代社会の根幹を問いなおすことにつながる重大ポイントである。そしてこの問題は、痛みを感じる段階の人間の胎児は「生存権」をもっているのかどうか、そして痛みを与えずに安楽死させるのならば胎児を中絶してもかまわないのかという中絶のアポリアへと一巡して帰ってくるのである。
 中絶の権利にしても、動物の権利にしても、「権利」という概念装置を使わずに、もっと別種のことばによって言いたいことを汲み取ることはできないのだろうか。我々はまだ、「権利」にかわる概念を発明し得ていないが、それを模索することもまた現代の課題であると思う。「権利」や「人権」という近代の資産をけっして失うことなく、しかもそれではきれいに切り取れない事態については、それにかわる装置を考えてゆくこと。それが知性の課題として浮かび上がっているのである。

 このように、いま「生命」を正面から問うことは、必然的に我々の住んでいる現代社会を新たな眼差しで問いなおすことにつながる。そしてその作業を遂行するためには、どうしても脱領域的な知性の行使が必要となってくるのである。
 我々は、いままで専門学の呪縛に、あまりにも過大に縛られ続けてきた。私はけっして専門学を否定するものではない。しかし専門学のみが「学」あるいは「知」であるという考え方にははっきりと異議を唱えたい。
 我々は、いま、あらたな学の創造と、あらたな知のあり方の創造を求められているのだと思う。「生命」についての脱領域的な研究は、そのような要請に答えるための、もっともストレートでかつ実りの多い道筋であると私は考えている。
 この報告論文集は、私がここで述べたような考え方に、どこかで「つながり」をもってくれた気鋭の研究者たちの、現在形の思索の軌跡である。論者たちはそれぞれ独自の個性と立場をもっており、それらのなかには、お互いに相反するものも数多い。編者と論戦中のものもいる。しかし、彼らはすべてみずからの問題意識に忠実に取り組み、そして必要な場合には大胆に領域横断の試みを遂行してきた者ばかりである。たしかにこの論文集は、多人数で関係領域のトピックスを網羅するという、従来の学際的研究の報告書と似た体裁をとっている。しかしながら、個々の論考の内部では、自分の置かれた制約を自己突破しようという意欲が、様々な濃度で芽を出しはじめている。学際的方法を超えようという試みは、いま始まったばかりである。以下の個々の論考に見られる脱領域的な試行がゆるやかに結び合わされてゆくことで、単なる学際的研究を超えた、あらたな知のスタイルが徐々に立ち上がってゆくはずであると、私は確信している。そしてそれこそが、二一世紀の知的世界に向けて我々のネットワークが発信する、最大のメッセージなのである。

(1)  森岡正博「文化位相とは何か―文化位相学基礎論(1)」『日本研究』第3集、1990年、79-104頁
(2) 森岡正博「生殖系列細胞の遺伝子治療をめぐる倫理問題」『生命・環境・科学技術研究資料集・T』千葉大学、1995年、190-197頁
(3) 立岩真也「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」江原由美子編『フェミニズムの主張』勁草書房、1992年、167-202頁



あとがき                  森岡正博

 本書は、国際日本文化研究センターの三年間の共同研究「生命と現代文明」の報告書である。私はいままで、いろんな研究会の企画運営に携わってきたが、こんなに大変だった研究会は、はじめてだ。
 なにしろ、このテーマに関する現代日本の主要な若手研究者、それもどこかに異端の影を背負った人たちに集まってもらって、言い放題の議論を毎回毎回積み重ねてきたのだから。参加者のバックグランドをざっと見ても、美術史、宗教学、思想史、歴史学、法学、社会学、倫理学、女性学、文学評論、文化人類学、医療人類学、科学史、科学社会学、生物学、医学、保健学、看護学、福祉論、環境学などなど、ほんとうに人文・社会・自然科学をまたにかけた人材がそろっている。
 だから、どんなテーマで議論しても、発表した当人があっと驚くような斬新な視点がいつも誰かから提示されて、共同研究とはこういうものなのだと感嘆させられることがほんとうに多かった。それだけではなく、「自由」で「多元主義的」(柴谷篤弘氏の感想)な雰囲気の中で、人文・社会・自然科学の研究者たちが、時間を忘れて延々議論を続行することを通して、あらたな知の可能性が現在進行形でいまここで切り開かれているという興奮を何度も体験することとなった。
 もちろん、議論のすれ違いもまた多かったわけで、錯綜する議論を強制的に交通整理する役を三年間やってみて、刺激の多い研究会ほど疲れもまた大きいということを身にしみて感じたわけである。だから、私のいまの気持ちは、「あしたのジョー」の最終回、灰になって燃え尽きたという感じである。
 この研究会の成果は、ひとつにはこの報告書として結実した。しかしそれと同時に、三年間の我々の議論は、そこに参加した個々人の内面へと不可逆的な刻印を残して、そこで増殖しはじめているはずである。これから我々ひとりひとりが研究を継続してゆくときに、それはいろんな形の栄養分に姿を変えて、我々自身を支えてゆくことであろう。これこそが、この共同研究のいちばん大切な成果であると私は思っている。
 もちろん、一般の読者が本書を読まれても、そこから様々な視点や刺激を受けることは確実であると私は信じている。とくに、本書の諸論文から立ちのぼってくる独特の「パワー」を感じていただけると幸いである。そのパワーは、研究者として完成する以前の若い時期の知性と色気から立ちのぼってくるのであり、そもそも共同研究とは、一人前に完成する直前のまだ柔らかな知性同士を混ぜ合わせたときに、もっとも豊かに成立するものなのだ。
 最後になったが、この共同研究の代表者であり、国際日本文化研究センターでこの研究会を成立させるのに決定的な役割を果たしてくださった早川聞多助教授に、心からの感謝を送りたい。ありがとうございました。


生命と現代文明・研究経過一覧

1993年度

第1回研究会
 早川聞多「研究会発足にあたって」
 早川聞多「生命と現代文明への問題提起」
 森岡正博「生命の選択と搾取をどう考えればよいか」
 鈴木貞美「大正生命主義とは何か」

第2回研究会[重点科研「文明と環境」と合同で開催]
 原田正純(ゲスト)「水俣病の医学的、社会的研究−水俣病の真の原因は何か」
 石牟礼道子(ゲスト)「文明の母層・その自然−水俣より」
 ロディカ・リヴィア・モネ(日文研客員助教授)「原田、石牟礼両氏へのコメント」
 山折哲雄「<いのち>の宗教学−食べることと食べないこと」

第3回研究会
 永井良和「<有害環境>という思想」
 佐倉統「人工生命は現代のフランケンシュタインか?」
 カール・ベッカー「生と死が出会うところ−臨死体験からQOLまで−」
 森岡正博「1980年代の生命主義−ニューサイエンス・エコロジー・いのち論」
 
第4回研究会
 鬼頭秀一「遺伝子の神話と分子生物学の思想」
 上田紀行「いのちの<かけがえのなさ>について」
 横尾京子「QOLと看護−患者の権利の観点から」
 村瀬学「奇形論−グロテスクの概念をめぐって」

第5回研究会
 戸田清「第三世界のエコロジー思想」
 鎌田東二「生命/自然/霊性/魂」
 武井秀夫「こどものいのち、おんなのいのち−アマゾンという価値基準」
 正木晃「生と死の図像学」

1994年度

第6回研究会
 中村雄二郎「<臨床の知>から<汎リズム論>へ」(ゲスト)
 早川聞多「浮世絵春画論」
 テーマ討議:「セックスと生命」
  問題提起者:鎌田東二、正木晃、井上章一

第7回研究会
 討論会:「生命と看護」
  報告者:井部俊子(ゲスト)片田範子(ゲスト)志自岐康子(ゲスト)
 宮地尚子「死をめぐるポリティクス−医師の告知言説」
 佐伯みか「医師の終末期医療観−46人の医師へのinterviewから」

第8回研究会
 後藤弘子「誰に子どもをもつ「権利」があるか」
 立岩真也「自己決定がなんぼのもんか」
 三石稔憲「哲学と社会の新しい関係−方法としての技術的な見方」
 吉岡斉「科学文明の解体過程について」

第9回研究会
 土屋貴志「人食のどこが悪い」
 池田清彦「生命の形式−時間と恣意性の生物学」
 村瀬ひろみ「仕組まれたセクシャリティの悲劇−AV女優・黒木香の場合」
 森岡正博「癒しとしてのロックンロール−尾崎豊における<生命>と<宗教>ver.2」
             

1995年度

第10回研究会
 柴谷篤弘「<差別>の扱いかた」(ゲスト)
  鈴木利廣「薬害HIVの構造」(ゲスト)

第11回研究会
 特集:フェミニズム
 金井淑子「フェミニズムと身体性」(ゲスト)
 永田えり子「人権論の限界」(ゲスト)

第12回研究会
 要田洋江「共生システムの原理を求めて」
 坂田昌彦「現代版・看取り結社の構築に向けて」
 生命と現代文明・総括討論1:「共生とは何か」
  問題提起者:上田紀行、森岡正博

第13回研究会
 特別シンポジウム:フェミニズムと現代社会
  キャサリン・マッキノン「ポルノグラフィーと平等」
 生命と現代文明・総括討論2
    鬼頭秀一「自然との<共生>再考」
 

第14回研究会
 生命と現代文明・総括討論3



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