本ページは「生命学HP」1999年10月12日付のスナップショットです


 

読売新聞・大阪版・夕刊 「潮音 風声」 1996年11月15日−28日連載



11月15日 患者は権勢症候群か

 東京のホテルに泊まっていると、深夜に友人からファックスが送られてきた。何だろうと思ってさっそく見てみたら、これがなんともいえず興味を引く記事のコピーだった。
 その友人は、いま、医療のなかにどうすれば女性の当事者の意見を反映させることができるのかを模索しているひとだ。私もまた、医療現場で、患者の声がもっと風通し良く通るようになってほしいと思いながら研究を続けている。
 で、その記事というのは、昨年の九月二五日に発行された『吹田市医師会報』という雑誌の「巻頭言」である。会長の方のエッセイが載っているのだが、そこには、こんなふうに書いてある。
 ――最近わがままな飼犬が飼主や人を襲い噛む事件が多くなっている。それは、その犬が「権勢症候群」に罹っていて、「支配者は自分である」と誤った理解をしているからだ。こういう犬は、基礎から訓練をしなおすと主人を正しく理解するといわれている。ペットを飼うときには「主・従」の関係は明確にするべきである。
 ――ところで、現在の「患者と医師」との関係は、昔とは大きく異なっている。市民グループは、患者参加型の医療を築く運動を展開している。彼らは「横並びの人間関係を作り、「賢い患者になりましょう」と主張している。また、開業医と大病院のあいだに矛盾を作り出した厚生行政もおかしい。
 ――であるから、このような「権勢症候群」にむしばまれている、患者・マスコミ・厚生省を地域医療の中心にある医師が今後どのように指導するのかよく考えるべきである。

  ひさびさに頭の下がる文章であった。



11月18日 書評委員の仕事

 今年の春から、某大手新聞で書評委員というのをやっている。まあ、若手の感性を反映させる書き手として、登用されたのにちがいない。
 もともと、本を読むのは大好きだし、気にいった本を書評するのも苦にならないほうだから、よろこんでお引き受けした。
 というわけで、半年間、本の選定と書評をやってきたわけだが、実際にその作業に従事してみて、いろんなことが分かってきた。
 まず、毎月二〇〇点近い新刊書が候補作として書評委員の前に提示されるのだが、その中から自分が書評できるのは、たったの一点か二点。月に一〇冊は面白そうなものを手もとに持って帰るから、委員に選ばれた本が実際に書評になる確率は、十分の一しかない。
 それらの本は、たいがい面白くて勉強になるものばかりだ。甲乙つけがたい。だから、書評に載るかどうかというのは、基本的には<運>だとしか言いようがない。
 で、その<運>を左右するものはと言えば、それはたとえば、前に自分が取り上げた本との兼ね合いだったりする。たとえば、私はフェミニズムの本を積極的に紹介するようにしているが、でも、三回連続でフェミニズムというわけにもいかない。あるいは、固い本を取り上げたあとは、やわらかいものを書評したくなるというのも人情だろう。
 とは言っても、確実に言えることがある。内容に熱い魂のこもっている本は、やっぱり、いい書評になるということだ。著者の熱い思いがこちらにまで伝わってきて、その熱情に押し切られるように文章が湧いてくる。こんなときが、いちばん幸せだ。



11月19日 新刊書の山

 某新聞の書評委員になった体験談をもうひとつ。
 うわさには聞いていたが、書評委員になってから、とにかくやたらに新刊書が送られてくる。
 もちろん、私は本好きだから、本をもらうのは基本的にはうれしい。もらった本は、かならず目次に目をとおして、まず、ぱらぱらっと流し読みする。そんなときは、ほんとうに楽しい。
 だが、このくらい大量に本が送られてくると、さすがに困った事態になる。というのも、いままでだと、私の知人から送られてきた本は、すぐに令状を書いて、できれば感想も書き添えるようにしていた。ところが、こうひんぱんに本が来るようになると、令状すら書く余裕がなくなる。
 親しい知人から本を送ってもらった場合でも、手紙を書くのをつい忘れてしまう。だから、きっと、森岡は書評委員になって態度が横柄になったとか、思われているにちがいない(そうじゃないんだけど)。
 私の自宅住所を探り当てて、本を大量に送ってくるのは、大出版社のことが多い。日本一の規模の某出版社とか、哲学書で一山当てた某出版社などは、毎月、新刊書を小包で送ってくる。
 もちろん、私は本好きだから、本をたくさんいただくのは感謝している。でも、しみじみ感じてしまうのは、出版社の資金力の差が、こういう営業努力の差になってあらわれているんだなあということ。
 ベストセラーを作り出す出版社というのは、一介の書評委員に対してまで、かゆいところに手の届くようにサービスしてくる。これに屈したら終わりだなと思いつつも、ついつい中身まで読んでしまう私なのである。



11月20日 優生保護法のしたこと

 今年の九月に、NHK教育テレビの「検証:優生保護法改正」という番組に出演した。
 あまり知られてないと思うけど、遺伝的な病気をもった人などから「不良な子孫」が生まれるのを防止するために、不妊手術や中絶をしてよいとする、前時代的な優生保護法という法律が、今年の九月まで生き残っていた。
 それが、やっと、「不良な子孫」にかんする部分を削除するという形で改正されたのだ。改正後は「母体保護法」という名称になり、人工妊娠中絶と不妊手術を扱う法律となった。
 NHKの番組は、その改正の経緯と、不妊手術(優生手術)という名のもとに、実際にいままでどのようなことが行なわれてきたのかをたんねんに取材したものだった。
 遺伝性の病気ではないハンセン病の患者に対しても不妊手術が行なわれ、重度の身体障害者の女性に対しては、生理の介助がたいへんだという理由で卵巣の機能を止める手術が行なわれている。
 そのビデオのなかで、手術を受けさせられた障害者の女性が、ことばを絞り出すようにして話す。「たいへんだからという理由で手術を勧められて、受けることにした。でも、いちばん最後の日はすごくさみしかった」。
 介助がたいへんだから手術を勧める人々や社会に対して、怒りを覚えるとか、糾弾したい、というのではなく、ただ「さみしかった」と述べる彼女のことばは、どうしようもなく私のこころに突き刺さってくる。
 そのような寂しさの堆積というものを、社会にうまく適応している私たちは、どうすれば受け止めることができるのだろうか。



11月21日 母体保護法をめぐって

 今年の九月に優生保護法から「優生部分」が削除されて、母体保護法に改正された。
 この法律の主な役目は、人工妊娠中絶を、ある条件のもとで保障することにある。具体的に言えば、妊娠二十二週未満であれば、この法律のなかの「身体的又は経済的理由」という項目を当てはめて中絶できる。
 この改正がきわめて不充分だとして、いま、様々な団体が、さらなる改正をめざして活発な運動をくりひろげている。
 まず女性団体は、この法律の「母体保護法」という名称自体がおかしいと主張する。母親になることを保護する法律のなかで中絶を規定するのではなく、中絶をも含めた生殖の権利を保障する新たな独立法が必要だと語る人々もいる。
 彼女たちは、女性の自己決定権に基づいて、女性の性と生殖と身体にかんする法的な規定をすることが必要だと考えている。
 日本母性保護産婦人科医会は、胎児に傷害がある場合はその傷害を理由にして中絶できるようにするという、いわゆる「胎児条項」を、この法律に付け加えるべきだとしている。経済的理由というまやかしの理屈で中絶するのではなく、胎児に障害がある場合は、はっきりとそれを口に出して中絶できるようにすべきだと言うのだ。
 これに対しては、障害者団体や一部の女性団体から批判が出されている。「胎児条項」というのは、要するに障害者は要らないという優生思想を公認するものであり、認めるわけにはいかないと言う。
 それに加えて、そもそも中絶は許せないという保守派もアピールを強めている。この難問、いったい、どうやって解けばいいのだろうか。



11月22日 雑居ビルのころ

 いまの職場に移ってきてから、八年目になる。国際日本文化研究センターというのは、日本文化を学際的に研究する国立の研究所だが、それが開設されたのが九年前だから、私は初期からいままでほとんどすべてを見てきたことになる。
 ある組織がまったくのゼロからスタートして、徐々に形をなしてゆき、知名度も上がって社会的に認知されるそのプロセスを、組織の内部からじっくりと観察することができた。
 設立当初は、まだ自前の建物もなく、研究員と事務職の人間が、雑居ビルの三つのフロアーに分かれて、寿司詰めの状態で暮らしていた。われわれにも個室というものはなく、大部屋にみんなの机と本棚が一列にずらっと並んでいるという、壮絶な環境であった。
 だから、お互いのプライバシーなんてものはまったくなく、後ろを振り返れば、そこにはいきなり山折哲雄さんや、井上章一さんが座っていた。
 みんなの話し声が筒抜けという状態だから、ひとりで閉じこもって仕事をするということはできず、結局いつもその場に居合わせた人たちとディスカッションすることになった。とくに、分野の異なった若い助教授たちとの会話はとても刺激的で、昼飯をはさんで延々と議論を続けることもしばしばだった。
 そんな具合だから、私は自分自身の仕事というものが、最初の二年間は、まったくできなかった。
 しかしながら、いまから振り返ればはっきりと分かるのだが、雑居状態で議論ばかりしていたその時期が、私にとって最高に実り多い季節だったのだ。その時期に、私は真の学際研究とは何かを、身体全体で体得したのである。



11月25日 ひとり学際

 日文研が雑居ビルにあって、われわれが自分の個室をもっておらず、いつも議論ばかりしていた最初の二〜三年のあいだが、私にとっては最高の季節であった。
 いまから振り返ってみれば、その時期に、私は「ひとり学際」といういまのスタイルを確立することができたのだ。
 いままでの学際型共同研究というのは、それぞれが自分の専門をもったうえで、その専門学の立場から、共同研究に貢献するのであった。これは京都大学の人文科学研究所などで開発された学際的方法だ。
 ところが、日文研に集まってきた若い助教授たちは、そのような学際的方法に違和感をもっていた。そういういわば紳士的な「分業的」学際なのではなくて、もっと他の分野のなかにも土足で上がり込んで、専門の壁をぶちこわしながら、ほんとうの意味での学際を実現するにはどうすればいいのかを、われわれはずっと議論したのだった。
 そういう試みを、われわれは領域横断的学問と呼んだが、そのために必要なのは、ひとりひとりが自分の足でいろいろな専門領域を実際に横断することである。そのための手法「X」を開発するべく、研究会を重ねたりした。
 われわれのうちの幾人かは、「文化位相」という新概念を案出して、それを学際にかわる新たな方法にまでもっていこうとした。私自身は、それに加えて「ひとり学際」というスタンスを思いついた。
 しかし、それが日文研の独自のプログラムになることはなかった。様々な事情から、その試みは消滅させられ、われわれは旧来の形の「学際研究」へと戻って行かざるを得なかったのである。



11月26日 寿命は10年

 日文研に来たばかりのとき、その設立に貢献した先輩助教授に「研究所の生命ってのは、どのくらい続くものでしょうね」と、あけすけに聞いたことがある。彼はちょっと考えてから、「まあ、十年かな」と答えた。それはけっこう衝撃的なことばだったので、いまでもありありと覚えている。
 なんという醒めた考えの人なんだろうと当時は思っていた。しかし、設立当初から八年間滞在してみると、彼のペシミズムというものが、よく理解できるようになってきた。
 私の知っている八年のあいだに、日文研の社会的位置は劇的に変化した。最初は、まったく無名の研究所だった。
 でも、逆に言えば、われわれはまったく自由であった。われわれを縛る歴史や遺産はゼロだった。この何もない研究所に、これからわれわれの力で、何か新しいものを作り上げていけるんだという軽い興奮を、みんなが共有していた。そういう無からの出発の爽快感があった。
 そのうちに立派な建物ができて、われわれは個室に移った。大きな額の予算が年々投入されて、設備が整い、人員も増えた。日文研の知名度も上がり、ユニークな研究所としてメディアに特集を組まれるようになった。
 日文研はここ数年で社会に認知され、有名になった。しかし、それに逆比例するようにして、あの初期の混沌たる熱気と情熱は徐々に失われてしまったと私は感じている。
 日文研は有名になることによって、「守るもの」ができた。私はそれがいちばん悲しい。「守るもの」など何ひとつなかったときの、あの情熱のほとばしりを、私はいまやどこに見出せばよいのだろうか。



11月27日 任期制が担うもの

 大学教員の任期制がどうやら実現する方向で動きはじめたようだ。私自身は、複雑な思いはあるものの、この方向には賛成である。
 大学の世界は、もっと競争にさらされるべきだと思う。一〇年間も同じノートを読み上げている教授や、研究成果をほとんど公表しない教員などは、生存競争によって淘汰された方がいいとさえ思っている。
 この任期制が狙っているひとつのターゲットは、いつまでも居座っている大学助手を追放することである。助手というのは、大学の世界では最底辺の役職で、教授の下働きをしたり、教室の部屋の管理をまかされたりすることが多い。だから、大学院を出たばかりの若い研究者を教授が指名して、自分の手足として使うケースが目立つ。
 そうやって適当に働いてくれたあと、どこかへ講師として転職していってくれることを強制するのである。ちょうど、企業の事務職の女性が結婚退職を半強制されるのと同じことが、大学助手には起きるのである。
 ところが、助手のなかには反抗する者がいて、いつまでたっても居残っている。国立大学の場合は、法律によって解雇はできないから、問題となっていた。
 今回の任期制導入のひとつの目的は、法改正によって、そのような居残り助手を合法的に解雇できるようにすることである。その証拠に、「特に若手の助手」に適用することが謳われているようである。
 ところで、この私の役職名も助手である。助手という教育職国家公務員が、どのくらい悲惨なものかはここでは言わない。しかし、助手だけに任期を適用するという不公平だけは、絶対に避けるべきだと声を大にして言いたいのだ。



11月28日 あいまいな日本文化と私

 私は、いまの職場に移る前に、東京の国立大学で助手を経験している。だから、助手人生九年目ということになる。
 東京にいたころは、教室の鍵の管理からはじまって、図書の貸出の管理、電話の応対、教授のためのコピー取り、手紙の配達、物品の購入のための業者とのやりとり、会合のための部屋取りと懇親会の設定、それに非常勤講師の先生へのお茶出しなど、ひととおりやったものだ。
 そういう肉体労働のあいまに、自分の時間を見つけて研究をする。教室の教授からは、「きみの任期は二年だから」と言われており、教員募集の公募書類はかかさずチェックしていた。その当時は、まだ若かったこともあって、法的な裏付けもないのに任期を宣言されることの矛盾を深くは考えなかった。
 そのことを考えるようになったのは、いまの職場に移ってからである。私は公募で採用されたのだが、採用されたあとで、「任期は○○年」というインフォーマルな告知を受けた。そのときには、さすがに「?」と思った。というのも、文部省の公式見解では、国立機関の日本人助手で合法的な任期採用をされているものはひとりも存在しないということだったからである。
 私個人は、教員に任期があっても別にかまわないと思っている。しかしそのときには、採用以前の段階で、法的に有効な書類を交わさなければならない。それをしなかったのだったら、「任期」というものは、そもそも存在していないのである。
 このあたりをあいまいにして、真綿で首を締めるようにして圧力をかけてくる日本文化こそが、我々の戦わなければならないところの真の敵なのである。


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