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地球逆転・サンプル

 

プロローグ


「夜光雲か……」
 最近、美しく輝く夜光雲が北緯五〇度以南にも広がっているという。
 掃木有平がこのデータを手にしたとき、突然、脳裏に地球が大洪水に襲われる光景が鮮明に浮かんだ。その瞬間、全身に戦慄が走った。
 夜光雲は成層圏よりも高い中間圏(上空五〇〜八五キロメートル)に形成される氷晶雲だ。夕方の薄明時、高層にある氷晶雲が地平に没した太陽光線を斜めから受け、氷晶片(氷粒子)が絹のように淡く光ってさまざまな波模様を描く。夏季、北緯五〇度以北の北欧諸国やアラスカではよく観測されるものだ。
「……『ノアの大洪水』が再来するようなことにならなければいいが……」
「え? ノア? あなた、どうかなさったの?」
 ソファでミステリーを読んでいた真知が振り向いた。
 不意に、ノアの時代の「大洪水」のイメージが湧き上がってきたことに戸惑いを感じながら、彼は妻の澄んだ黒い瞳をじっと見つめた。大きな黒目が透き通る肌の面長な顔を一層引立てている。
 黒い瞳と「ノアの大洪水」が重なった。
 旧約聖書によると、神は大洪水を起し堕落し退廃した人類を滅ぼしたという。そのとき、神はノアに大洪水を予告し、彼とその家族に事前に巨大な箱船を造くらせた。このため、ノアたちだけが大洪水から逃れることができた(創世記)。

「地球温暖化を防止するための国際的な取り決めは結局どうなったんですかね。あの大騒ぎした京都の取り決めは本当のところ効果があったんですか」
 取材にきたA新聞社の真田という小柄な記者はエリート然とした整った目鼻立ちの顔を有平に突きつけ、はじめから詰問調だった。
 一九九七年十二月、京都で開催された国連地球温暖化防止京都会議(略称:温暖化防止京都会議)で地球温暖化を防止するための国際的対策の基本的枠組みともいうべき「京都議定書」が採択された。各国が協力して、地球温暖化の原因となる二酸化炭素などの温室効果ガスの排出量を削減しようとする地球温暖化に関する世界初の国際的試みであった。
 このなかで、二〇一二年までの第一期分の削減率、対象ガス、基準年、吸収源の扱い、排出権取引、クリーン開発メカニズム、共同実施等が取り決められた。日本も二酸化炭素などの温室効果ガスを一九九〇年レベルより六パーセント削減することになった。
 この議定書によって国際的地球温暖化対策が推進すると思われたが、世界最大の二酸化炭素排出国米国がこれから離脱し、実効が上がらないままずるずると過ぎ、毎年世界の二酸化炭素排出量は増え続けた。日本の二酸化炭素の排出量も毎年目標値をオーバーしていた。
 記者の早口の質問を受けたとき、有平の脳裏に一年もまえの「未来の光景」がふたたび鮮明に蘇ってきた。
「このままでは、ふたたび『ノアの大洪水』に見舞われ、やがて寒冷化して氷河期を迎えることになるでしょう」
 真田は一瞬、間の抜けた表情をして有平を見たが、すぐ小馬鹿にしたような目付きにもどった。
「先生、何千年、何万年先のことは別の機会にお願いします。きょうは当面の地球温暖化対策に限定して、ご意見をお伺いしたいのですが……」
「わたしが言っていることはそんな遠い未来の話ではありませんよ。今世紀中、いや、もしかしたら、わたしが生きている間に『ノアの大洪水』が再来することになるにちがいありません」
「…………」
 真田は沈黙したまま、じっと有平を見つめた。なにを考え込んでいるのか、目の焦点が次第にぼけていった。
 数日後、夕刊の学芸欄に、論文ともエッセイともつかない有平の「未来の光景」と題した短文が掲載された。
「叔母から電話があったわ」
 大学の研究室から戻ったばかりの有平に真知が影を宿した目を向けた。
 叔母の清子は真知の父大田洪一郎の妹で、結婚に破れて実家に戻ったきり、気の強い清子は何度もあった再婚話には一切耳をかさず、離れで一人のんきに暮らしていた。両親が相次いで亡くなり、洪一郎が実家を継いでからも離れ暮らしをつづけた。
 突然、洪一郎の妻和子が生まれたばかりの真知を残して逝った。清子は母親の代わりになって真知を育て、彼女が成人になるまでずっと面倒を見た。彼女が有平と結婚してからは、清子はもっぱら兄洪一郎の世話を焼いているらしい。
「うん……」
 いつものように黙ったまま、つぎを促すように、彼は目を上げて透き通る肌をした妻の顔を見た。彼女は大きな目を伏せたまま黙っている。
「なにか、特別の用事でも?」
 こう言いかけて、テーブルのうえの夕刊に気付き、彼は口をつぐんだ。妻は清子から電話で知らされ、彼の書いた短文を読んでいたのだろう。
「……相変わらずよ。いつもの調子だったわ……。ねぇ、『ノアの大洪水』が来るって、本当?」
「そりゃ、『大洪水』なんか来ないほうがいいに決まっている」
「じゃ、来ないかもしれないのね」
「さあ……、そうなればいいが……」
「作り話なの」
「単なる作り話ではない。一種の理論モデルと言っていいものだよ」
「父がスタンドプレイだと言って怒っているらしいから、一度……」
「お父さんは偉い学者かもしれないが、それはひどい誤解だよ」
 真知の父、大田洪一郎はT大工学部の教授で、万年学長候補のボス的存在だった。真知が理学部の助手だった有平と交際していることを知ったとき、彼はただちに止めさせようとした。彼にとって、理学部の教授連中には一風変わった者が多く、いつもわけの分からない理屈をこねる理解し難き存在という思いが強かった。理学部の助手であればその同類項で、屁理屈をこねるにちがいない。
 見た目は大人しそうな背の高い好男子でも、個性が人一倍強く、意固地で一風変わった性格、これは強い自信に裏付けられたものであったが、こんな偏屈な個性をもつ有平は人付き合いもわるく、天才と噂されていたものの変人視されており、理学部内でも評価が必ずしもいいものではなかった。
 彼にはこんな男が娘の聟となるかもしれないと考えるだけで虫酢が走り、たとえ一人娘が選んだ男でも我慢ならなかった。
 だが、真知が父洪一郎の反対を押し切って有平と結婚することが決まると、一人手で育てたわが娘の相手が万年助手で終わることを恐れたのか、彼は陰で理学部の教授連中に愛想を振り撒き、有平の講師昇格を働きかけた。
 そんな小細工をしながらも、彼は有平と顔を合わせても決した自分から口をきこうとしなかった。有平や真知から軽蔑されることを恐れたのか、自分の小細工を知られまいとひたすら気を配った。
「父の誤解かもしれないけど……。でも清子叔母さまが心配して電話してきたのよ……」
 有平には妻の気持ちが痛いように分かる。彼としても、頑固な洪一郎を説得して真知と有平の結婚を認めさせた清子にあまり心配を掛けたくなかった。かといって、いつまでも洪一郎の言いなりになっていることもできなかった。若い彼には気負いがあった。

(続く)

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