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飢餓疫病列島・サンプル

 

プロローグ

 地球は気候変動の真っ只中にあった。
  地球最大の熱エネルギー分配システムである海洋熱塩大循環が衰えだし、また、太陽活動が停滞して地球へ注ぐ太陽光線が弱まっても、人間活動から吐きだされる大量の二酸化炭素などの温室効果によって、地球温暖化の暴走は止まるところを知らなかった。
  海水温が著しく上昇して海水が膨張して海面が盛り上がり、周辺海域には高温海面が広がっていった。日本列島は高温海水域にすっぽり包み込まれ、地球のホットスポットと化した。
  地球のヒートアイランドとなった日本列島には、毎年のように熱波が襲い、巨大に発達した台風が襲うのだ。
  地球温暖化は地球の生物生態系を締めつけだしていた。生態系がいたるところで綻びだし、森林地帯では立ち枯れや山火事が頻発する。食糧不足、水不足、バクテリアやウイルスなどのさまざまな病原体が人間社会を襲う。飢餓を広がり、食糧や水を巡る争いが世界各地で勃発する。
  地球温暖化は人間社会に対して真綿で首を絞めるようにじわじわと影響をおよぼしはじめた。いたるところでさまざまな問題を生みだされていった。
  気候変動だけではなかった。ついに、大気や海洋の大循環の乱れから地球の自転速度が変調を起こしていたのだ。これによって、地球内部のマントルの動きが変われば、地殻変動が呼び起こされるだろう。マントルの動きの変化は日本列島が位置する中緯度付近の地殻にとくに強く複雑な力をおよぼす。
  日本列島に地殻変動の危険が迫っていた。
  気候変動に翻弄され、気候異変や異常気象に悩まされることに加え、日本列島は地殻変動に直面することになった。

 

第一章

 1

「大学を辞めるって、本当ですか、先生」
  M新聞の佐藤が研究室に入ってくるなり、大声で言いながら、執務机の九鬼に近づいてきた。
  彼は曖昧に返事し、いつもなら、佐藤の大きな声を聞きつけて教授が顔を出すところだと思いながら、応接セットの椅子へ移る。佐藤もいつものようにソファの真ん中に小柄な身体をどんと落とす。
  彼は佐藤の小作りな顔をじっと見た。佐藤と会うのは教授の弔い以来だった。佐藤はまるで珍獣を見るような目をして彼を見ている。
「なにか……」
  なにもする気はなかったが、彼は毎日研究室に出て、一日中机に座っていた。誰にも邪魔されたくなかった。
「気候変動の予測はどうするんですか。それも止めるんですか」
「もちろんだ」
「なぜです? それも突然になんですか……」
  佐藤の顔が迫ってくる。
「…………」
「佐々木先生が亡くなったからですか……」
  佐藤はずけずけと切り込んでくる。
「…………」
  彼は佐藤をじっと見る。佐々木教授は彼の指導教官であり、義兄であり、上司であった。彼はまた佐々木の後継者でもあった。
「やつらは教授の死を最大限に利用しようとしている。それでいいんですか」
「やつら?」
「久遠課長や学界の反対派のやつらですよ」
  佐々木教授はK省の委員会で座長をしていた。久遠課長は若いエリート官僚で、委員会の事務局を担当する課の課長だった。
「久遠課長がどうしたというのですか」
  久遠課長には佐々木教授はたびたび異常気象の襲来を事前に予告し、その都度応急対策を要請していた。教授の生命を奪った超巨大台風に際しても東京を襲う直前に警告を発し、対策の迅速な実施の必要性を指摘していた。だが対策らしい対策は講じられることなく、多くの犠牲者や被災者の発生を招くことになった。
「佐々木教授に全責任をなすり付けようとしている」
  異常気象や気候異変の予測の不十分さや不正確さが指摘されていた。投入されているK省関連の研究費の効果が疑問視され、研究活動の非効率性に批判が集中していたのだ。今回の超巨大台風によって首都圏のゼロメートル地帯一帯が洪水に見舞われ、二〇〇万人にものぼる被災難民が発生したことがさらに拍車をかけているという。
「…………」
「黙っていていいのですか。佐々木教授が亡くなったことをいいことにして、やつらは自分たちの責任を回避している。佐々木先生が機会あるごとに口を酸っぱくして、予測研究の充実や対策の必要性を訴えていたのに、委員たちの反応は鈍かったし、事務局も積極的にサポートしようとしなかった。にもかかわらず、すべてを座長のせいにしようとしているらしい」
  佐藤は盛んにけしかける。
「…………」
  彼は口を閉ざしたまま、佐藤を見つめる。
「先生、いいんですか、このままで。先生は教授と同罪ということになってしまうのですよ」
  彼の脳裏に久遠課長の白いのっぺりとした顔が浮かんだ。彼は超巨大台風襲来の直前に、委員会の打ち合わせに託つけて久遠課長が一人で教授を研究室に訪ねてきたときのことを思い出した。彼が一〇〇万人から二〇〇万人の被災難民が出ると指摘したとき、白いのっぺりとした顔が一瞬赤みを帯びた。
  あれは一体なんだったのだろうか。大熱波が来襲したときになにもしなかったことを思い出したからだろうか。あのときも所管外だといって、久遠課長はなんら動くことはなかったのだ。そのうえ、教授の対策要請を無視してなんら手を打とうとしなかったことを隠そうとさえしたのだった。
  だがいまの彼にはもはやこんな詮索はどうでもよかった。
「佐藤さん、どうして東京沈下のことを記事にしないのですか」
  彼に突然ひとつの考えがひらめいて、話題を変える。
  佐々木教授と一緒に、超巨大台風を追っていたとき、ACARのアンダーソンからプレート微震動のニュースが入った。日本列島に太平洋側から迫っている太平洋プレートとフィリピン海プレートのふたつの岩盤の先端付近で微震動が起きているという。そしてその微震動は日本列島の太平洋岸の地中で生じている緩慢な地滑りによるものだということだった。
「え? ああ、あれですか……」
  佐藤は複雑な笑みを浮かべた。
「専門じゃないので発言を控えていますが、日本にとって極めて重大なことじゃないですか、あれは。新聞記者が取り上げないのはおかしい。なぜですか」
「それは……、ウラが取れないからです」
  なぜか、佐藤は苦しそうに口を歪めている。
「ウラが取れない? それはどういう意味ですか」
  彼は構わず突っ込む。
「まだ東京沈下のデータが取れていないというのですよ、誰に聞いても……」
「日本の地震学者がそう言っているのか……」
  彼は一瞬なにかしら作為を感じた。
  首都圏にはいまだに超巨大台風の爪痕が残っていた。水浸しとなったゼロメートル地帯では決壊した河川の堤防や高潮防御の防潮堤の復旧に手間取り、工事がつづいていた。なぜか一時は復旧できたようにみえても、すぐ地割れが生じ、水が染み出すのだ。今回の復旧工事はまさに「賽の河原の石積み」のようだった。
  工事を請け負う建設業者にはまたとない工事だったかもしれない。永遠に仕事のタネが尽きることが無いのだから。だが住民には薄気味悪いことだった。
「まあ、それにデスクもこのテーマに乗り気でないので……」
「地震研究には巨額の研究資金が国から出ているしな。研究者といえども国の意向には逆らえないか」
「復旧工事で結構地元も潤っているし、景気対策にもなる。あそこは首都の一部だし、水漏れするゼロメートル地帯だからといって、国は簡単に見捨てることができない。とにかく国の方針にいちゃもんをつけるようなことをわが社も避けたいというわけさ」
  佐藤は投げやりに言い、自嘲気味に鼻先でふんと笑う。
「だからといって、エンドレスな復旧工事をつづけることは全くムダなことだ。東京は沈みつづけているのだぞ。住民を目隠しにして何時沈むか分からない泥舟に乗せているようなものだ」
「じゃ、先生が書いてくれますか。気象学者の地震論も面白いかもしれませんよ」
  佐藤は冗談めかしに言い、寂しく笑う。
「そうか。書いたら絶対ボツにするなよ」
  彼は東京沈下地震のことを書いたら、気象学会からも地震学会からも総すっかんを喰らうことになるにちがいないと思った。
「ハイハイ。先生が地震研究をはじめたら、異常気象の予測はどうなるのですか。気候変動研究は大丈夫ですか」
「もちろん、気候変動研究は止めるよ」
「え? なぜです。これまでやってきた研究をなぜ止めるのですか。極端事象の予測はどうするのですか」
  最近、九鬼は気候変動において頻発傾向にある異常気象のうち、とくに大きな被害を出すおそれのある超異常気象ともいうべき極端事象を対象とする精度の高い予測モデルの開発をおこなっていたのだ。
「あれはもう終りにする……」
「…………」
  佐藤は口を開けたままだ。彼は佐藤の大きく見開いた目をじっと見た。
「実は、異常気象発生の予測があればそれに応じて十分な対策がなされ、被害発生が抑制されることになると考えていた。それで、精度の高い予測モデルの研究開発を進めてきたが、考えが甘かったことに気付いたのだ……」
  彼はこの際、佐藤に胸の内を話しておこうと思った。
  人びとはなぜか、極端事象であっても単なる予測では真剣に対処しようとしないのだ。予測は予測に過ぎないと思うのか、それとも予測結果を信用しないのか、とにかく予測された極端事象に対して自発的に回避行動を積極的にとろうとしない。そのせいか、国の将来や国民の生活を考えるべき政治家や行政を担当する官僚の動きも鈍い。いや、彼らはいつのまにか目先の利益にのみに気を取られるだけで、いつ起こるか分からない未来の事象に対しては真剣に対策を講じようとする意思を欠くか、はじめから持っていないのだ。これではいくら精度の高い予測をおこなおうとしてもムダだ。対策が期待できないのなら、ほどほどの予測でも十分なのだ。
  不意に、話している最中、彼の脳裏に佐橋祐子の面影が浮かんだ。
  あのとき、超巨大台風襲来を告げ、口を酸っぱくして危険を訴えたにもかかわらず、彼女は超高層マンション屋上の実験室に籠り、超巨大台風の襲撃に立ち向かっていたのだ。その結果、佐々木教授が生命を落とすことになった。なぜなのか。
  さらに問題がある。
  よしんば、予測結果を真剣に受けとめ、適切な対策を講じられることになったとしても、それはあくまで被害発生を食い止めるものに過ぎない。単なる予測だけでは異常気象を防げないし、気候変動を鎮静化することはできないのだ。
  何十年何百年つづくか分からない気候変動のなかで、異常気象を予測するだけではいかにも消極的過ぎる。これではまるで異常気象から逃げ回っているようなものだ。これでは日本は、そして世界はじり貧に堕ちていくだけではないのか。
  人間はただ、熱波に襲われ、日照りに焼かれ、干害を被り、水を求めて彷徨うことになるのか。ゲリラ豪雨の襲撃に遇い、超巨大台風に襲われ、洪水のなかで溺れてしまうのか。森林が立ち枯れ、山火事が頻発し、火の粉が飛び散り、野や畑を不毛の地の変えてしまうのか。海水温が高まり、極氷床の溶融や高温化による海水の急膨張で海面が上昇し、低地を襲うのか。そして人類はその先はどうなるのか。
  どうしても異常気象の根源を取り除かねばならない。気候変動を落ち着かせ、温和な気候を取り戻さなければならないのだ。
「どうしようというのですか、一体」
  佐藤の目が異様に光っている。
「地球温暖化がはじまったとき、地球は寒冷化に向っていた。寒冷化を心配していたのに、一転して地球は温暖化していった。なぜか。海洋大循環の熱塩大循環が衰えだしているというのに、なぜ温暖化が止まないのか。太陽活動が弱まっているのに、なぜ地球が冷えないのか」
  過去の事例では、熱塩大循環が衰えだしたり、太陽活動が弱まったりしたときに、世界の各地で冷害や気温の異常低下に見舞われたのだ。そして現在、熱塩大循環が衰えだし、太陽活動もなぜか弱まっているらしい。
「それはこれまでの温暖化で海洋に貯えられた熱のせいで、急に気温が下らないだけじゃないんですか。そのうち下り出すかも……」
「残念ながら、その兆候すらない」
「どうして……」
「寒冷化の過程でなぜ温暖化がはじまったのか。それは人間活動による大量の二酸化炭素の排出のせいなんだ。産業革命以来、かってない勢いで大気中の二酸化炭素濃度が増えだした。このほかに、メタンなどの温室効果ガスも急増している。これらの温室効果ガスは現在も増え続けている。このために、熱塩大循環が衰えだしても、また太陽活動が弱まっても温暖化が進行しているのだ。いまは自然の寒冷化よりも人為的な温暖化の勢いのほうが勝っている状態なんだな。人間活動による二酸化炭素などの温室効果ガスの排出量を抑えなければ温暖化は止まらないのだ。地球温暖化に対して自然がブレーキを掛けているのに、逆に、人間がアクセルを踏んで暴走させているようなものだ。人間が地球温暖化を暴走させている状況のもとで、異常気象の極端現象を予測することにどんな意味があると思う? ゼロメートル地帯の復旧工事を『賽の河原の石積み』と言ったが、それとなんら変わるところがないのではないか。とにかく、この際、異常気象予測研究は終りにするということだ」
「ふむ……、それでこれからなにをなさろうというのですか。まさか、地震の研究をはじめようと思っているんじゃないでしょうね」」
  佐藤は鼻を突きだし、クンクンと臭いを嗅ぐしぐさをする。
「バカ言え、オレはなんとかして地球温暖化の暴走を止めたいのだ。このままではわが息子の代まで地球がもたないからな」
  人間は気付かずに、人類の存続を否定しているのだ。でなければ、生存環境である地球環境を自ら悪化させて平気でいるわけはない。彼は自分の首を絞めながら、まだ大丈夫とさらに自ら首を絞めている人を思い浮かべた。地球は人類自らの自作自演の滅亡劇を冷やかに眺めているにちがいないと思いながら、彼は椅子から立ち上がった。

(続く)

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