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列島首都沈没・サンプル

プロローグのプロローグ(地球温暖化の果てに)

 地球温暖化の果てに、日本列島は高温海水に取り囲まれて「熱水列島」となった。やがて列島全体がヒートアイランド化し、日本列島が地球のヒートアイランドとなってしまった。
  ヒートアイランド日本列島には、熱波、干害、大雨、超巨大台風、巨大竜巻など、毎年超異常気象が襲い、日本列島は「焦熱列島」、そして「狂風雨震列島」と化していった。
  だが日本列島を襲った気候大変動は異常気象や気候異変だけではなかった。地球上の熱分配が狂いだし、ついに、大気の大循環が乱れ、海洋の大循環(熱塩循環)も衰退しだした。地球上の熱配分の基本システムである大気や海洋の大循環の乱れがついに地球の自転に影響をおよぼし、地球内部のマントルの流動を変動させていく。
  地球温暖化が地球システム全体を大きく揺るがしはじめたのだ。地球の地殻構造が影響を受け、日本列島周辺の地殻構造をも揺るぎ出した。
  日本列島の下には太平洋プレートやフィリピン海プレートなどいくつものプレートが潜り込み、日本列島付近の地殻構造は複雑に入り組んでいるが、首都圏のある関東平野が乗っている地殻構造はとくに複雑だった。
  首都圏一帯の関東平野で緩慢な沈下現象が発生しする。
  首都圏のゼロメートル地帯が水没し、一帯で物流が滞り、そこに住む二〇〇万人が飢えに襲われ、疫病が蔓延する。避難民が各地に散り、これとともに、飢餓や疫病が広がり、日本列島が「飢餓疫病列島」となった。
  このような日本列島の状況は、地球温暖化の果てに世界各国が遅かれ早かれ直面するものあり、日本はまさに世界の未来の縮図だった。

プロローグ(続地球温暖化の果てに)

 地球温暖化の果てに、日本列島は「熱水列島」「焦熱列島」「狂風雨震列島」「飢餓疫病列島」と化し、住民を翻弄しつづけた。だがこれで終りではなかった。
  地球温暖化が終局を迎えるまでの道のりはさらに長く、このような気候異変は何年何十年何百年もつづき、食糧不足や感染症の危険にも襲われつづけた末に、ようやく地球温暖化が緩和して、次第に寒冷化への道を辿りはじめることになる。だがその過程は決して平穏なものではない。

 日本列島は、地球温暖化の果てに、新たな局面を迎えつつあった。
  地球表面はいくつかのプレート(地殻の岩盤)で覆われているが、日本列島の前(東側)に横たわる海溝付近ではいくつものプレートが寄りあい複雑な地殻構造を形成している。ことに関東平野が乗っている地殻の地中構造はとくに複雑だった。
  得体の知れない微震動が頻発し、首都圏一帯に沈下地震のはじまり、年数センチメートルの速度で進む(東京沈下)。河川堤防や防潮堤に亀裂がはしり、やがて決壊し、首都圏のゼロメートル地帯は水没してしまった。
  二〇〇万人におよぶ被災者はゼロメートル地帯から水没を免れた隣接地域に移り、新設された避難テント村に収容され、テント生活を余儀なくされた。
  地盤沈下によって水道や電気などのライフラインの損壊、交通機関の運休、道路の損壊などさまざまな障害が発生した。物流は途絶えがちで、食料品やトイレットペーパーなどの日用品が極力不足し、飢えが忍びよう一方、テント村の衛生状態が悪化し、各種の疫病が蔓延しだす。
  テント村を抜け出し、地方へ移住を試みる被災者が続出するが、受け入れ市町村とのトラブルから移住が進まず、国は北海道へ避難民の集団移住を図る。だが避難民の集団移住は成功せず、飢えを広め、疫病を蔓延させるだけだった。
  水没を免れた首都圏一帯には前途に不安を抱きながらも未だ四〇〇〇万人に近い住民が残っていた。だが国は集団移住の惨憺たる結果に戸惑い、住民の移住には積極的な対策を講ずることなく、自主的な移住を促す策に出ていた。
  幸い、東京沈下は緩慢に進み、大沈下を起すことなく五年が経過した。その間、約半数の住民が首都圏を離れ、地方へ移住していったものの、未だ二〇〇〇万人の住民が留まっていた。
  首都圏に大沈下のときが刻々と迫っていた。いよいよ残っている人びとにも決断すべき時が迫っていた。

第一章

 1

「いままでどうしておられたのですか」
  佐藤由紀夫は九鬼陽一郎であることを確認すると、一気に詰問調になった。
「佐藤くんか。お元気……」
  のんびりした九鬼の声が返ってきた。
「何度電話しても繋がらなくて……。一体、なにをしていたんですか」
  彼は「元気なんかじゃないよ」とこころのなかで呟きながら、ようやく繋がった九鬼を離すまいと構える。受話器を左手に持ち変えると、机の上にメモ帳を開いた。九鬼にどうしても聞いておきたいことがあるのだ。
  九鬼陽一郎が大学の研究室から不意に姿を消したのは、五年前のことだった。毎日のように研究室に入り浸り、小柄な身体をソファの中央に乗せ、大声を出して言い合っていた彼にも一言もなかった。
  しばらくして、九鬼から絵はがきがM新聞社宛に届き、彼は九鬼が米国の研究機関であるACARへ移ったことを知った。彼はまえに九鬼がその年の三月一杯で大学を辞めると聞いていた。だが、そのまえに研究活動を放擲して日本を飛びだすとは思ってもみなかった。
  彼はロッキー山脈を背景に立つACARの絵はがきを見ながら、「気候変動予測研究は止めると言っていたではないか」と何度も呟いた。ACARへ行ったとは知らずに、彼は研究室へ何度も足を運び、九鬼の行方を訊ねていただけに、なぜか裏切られてような気分に襲われ、その痛手からなかなか立ち直れずにいた。
  だが考えてみると、愛妻を奪われ、恩師であり義兄でもある佐々木教授を失い、そしてまた新らたなパートナーの佐橋祐子にも逝かれてしまい、日本に留まることは九鬼にとって辛いことにちがいなかった。それにしても幼いアキラを残して、なぜ沈下する東京から急に飛び立つ気になったのか。
「地球全体モデルに挑戦していたのだよ」
「予測研究は止めるんじゃなかったんですか……」
  佐藤は自分でもなぜこんなことを言い出したのか分からなかった。「沈下する首都圏の四〇〇〇万人を救うための実践活動をするんじゃなかったのか」と糺したかった。
「業だね。研究を止めるわけにいかないのだよ」
「業? 予測研究をすることが先生にとって宿命だとでもいうのですか……」
  佐藤には九鬼がなぜそう考えるようになったのか分からなかった。まさか愛する人を矢継ぎ早に奪われたので気が変わり、仇討ちをしようとしているのだろうか。それとも自分の使命だったのだとあらためて気付いたとでもいうのだろうか。
  だがそんな詮索はいまはどうでもよかった。いまは一刻も早く新しいモデルの開発状況とそのモデルによる東京沈下の予測結果を知りたかった。彼には五年経ってもいまだに沈下区域に残っている二〇〇〇万人を超える住民たちの存在が気になって仕方がなかった。
「…………」
  九鬼はなぜか黙ったままだ。
「それでうまくいっているのですか、そちらでの研究は……」
  彼はせっつく。
「ああ……」
  九鬼の声は相変らずのんびりしている。
「あれから五年が過ぎているのに、思ったほど東京の沈降が進んでいない。そのモデルでの予測では今後どうなるのですかね」
「本格的な予測計算はまだだが……」
「そんなのんきなことを……、今後どうなるか、いますぐ教えてください。こちらにとっては死活問題なんですよ」
「うん、分かっている」
「ゼロメートル地帯は水没したままだけど、ゼロメートル地帯以外のまだ水没していないところでも低層ビルや一般住宅には傾いたり、壁に亀裂が走っているのは見られるようになってきている。まだ、倒壊といった酷い被害が出ていないけれど……。まあ、一見したところ、あまり変わりがないようにも見えるが、道路のアスファルトには亀裂や波打ちなどもできている。もしかしたら、このまま収束するのではないかという気配さえ感じることもあるけど、その可能性があるのかどうか。とにかく、これからどんなふうな展開が予測されるか是非知っておきたいのですよ……」
「沈降が思ったほど進んでいないとすると、まだ避難せずにそのまま留まっている住民がかなりいるのでしょうね、首都圏には……」
「そのとおりですよ。先生が懸念していた通りです」
「それは大変なことになる。なんでも、米軍はすでに全基地の移転を完了したそうだが……」
  米軍は東京沈下をいち早く感知し、沈下地域にある米軍基地の事前移転を準備していたのだ。
「これまでここを離れた住民数は多く見積もっても住民全体の半分程度じゃないのかな。もっと多いかどうか、正確なところは分からない。政府はデータを出したがらないんだよ。国際的な評判や風評を気にしているらしい。まだ多くの人びとが沈み行く大地にへばりついている状態ですね」
  一時、水道が断水したり、停電がつづいて、生活条件が著しく悪化したが、政府や東京都などの各自治体が取りあえず応急措置を講じる方針にでたことが功を奏したのか、いまのところ、それ以上拡大することもなく、ライフラインの悪化は収まっていた。
  それに自然エネルギーの利用が進んでおり、太陽発電や風力発電などの分散型発電が大いに役立った。また水不足には井戸が掘られた。なぜか東京沈下がはじまってから、どこを掘っても水が出るのだ。
  とにかく、東京沈下速度が緩慢なことが幸いしたのだ。ゼロメートル地帯の被災者避難の失敗体験から、政府は避難の強行を極力避け、東京都など沈下地元自治体は地方の自治体と連携し、避難民受け入れの県や市町村に対して補助金を提供するなどして避難推進を図った。これで住民たちも時間をかけて避難先を選び、自主的に避難することができたのだった。
  また、不足していた食料品の搬入も、以前と比べようもないが、まがりなりにもそこそこに回復していたのだ。
「新聞やテレビでは傾きだしている高層ビルや倒壊した超高層マンションの映像が放映されているけど、政府や東京都はもっと積極的にやるべきじゃないのか。半数としても、まだ二〇〇〇万人の住民が残っているんだろう。一体なにをやっているの……」 
  九鬼の声に苛立ちが感じられた。
「いや、行政サイドは新都市建設や移住先の確保など対策をはじめているけどね。でも沈下速度が緩慢なことをいいことにして、ひたすら時間稼ぎをしているといった感じだ。ゼロメートル地帯の避難民をテント村に収容しようとしてひどい目にあっているので、自主的に避難してくれることを奨励している。といっても、自宅にへばり付いて離れようとしない住民に対してまで積極的に奨励しているとは思えない。むしろ、自宅待機も止むを得ないといった感じなんだ。もし、このまま東京沈下が収束することになれば、政府も住民も万万歳といったところだろう」
  ゼロメートル地帯の二〇〇万人の避難で大混乱を招いたことから、その二〇倍の四〇〇〇万人の避難民を沈下地域から移動させることは簡単にできることではなかったのだ。政府の無策は時間をかけてゆっくり避難民が全国へ散っていく方策を採用したということらしい。
「時間稼ぎになればいいが……」
「近くに、新首都をはじめ、いくつかの新都市を建設しはじめているんですが、思うように進んでいない。全国の市町村にも避難民受け入れの住宅団地建設を促しているが、これも遅々として進まない。これらが完成すれば自宅にへばり付いている避難民の移住をはじめるつもりなんだろうけど、何時完成するやら……」
「財政出動して公共事業を進めているわけか。全くムダなことだ」
「おかしくなった経済の建て直しのための景気浮揚策として住宅建設ということでしょうね」
「バカな。円安で資材や原料輸入もままならないだろうに、これではやがて超インフレだろう」
「そんなところなんです」
「大体、企業対策には熱心だが、そんなことをやっていては避難民の救済は間に合わない。それにこれまでの経済システムではこれから日本列島に襲い来る異変に対応できないだろう」
「すると、近々、本格的な東京沈下がはじまるということですか。そのあとにもつぎつぎと新しい異変が襲ってくるというのですか。いつですか、そしてそれは一体なんですか……」
  記者のカンから九鬼の心配を感じ取ったのだった。九鬼はしばらく無言でいた。彼がもう一度訊ねようとしたとき、受話器の奥から声がした。
「いつとは言い難いが……、本格的沈下は遠からず、必ずはじまる。前後して海が襲ってくるだろう」
  九鬼はつづけてこんなことを言った。
  いま沈下しているところにすでにその兆候が現れるはずだ。注意深く観察すれば、必ず見付かる。よく注意して兆候を探すことだ。兆候があれば、本格的な東京沈下が間近いのだ。
「兆候?」
「たとえば、一部だけが激しく沈下しているとか、あるいは沈下が連続して進んでいるところがあるとかだ。すぐ分かるだろう。周りから見て、異常なところがあれば、それがそうだ」
「異常なところを探せばいいんだな。で、それからどんなふうになっていくと考えられるんですか、東京が……」
「多分、海中深く沈んでいくことになるだろう」
「兆候が現れてから、沈没するまでどのくらい……」
「分からない。だが思ったより速いかも知れない。それは……」
  九鬼はつづける。
  東京一帯が乗っている岩盤の「破片」は太平洋プレートに支えられている状態にあるが、異常な兆候はその状態に異変が生じたことを示しているのだ。「破片」が太平洋プレートの支えを失えば、急激に沈下しはじめるだろう。さらに不等沈下が生ずれば、地滑りの恐れがある。東京一帯を乗せた表層部分に地滑りが起こると、列島首都東京は一瞬のうちに、日本海溝へ向って滑り落ちていくことになるかもしれない。
「…………」
  兆候が現れれば、一刻の猶予もないということか。彼は背筋が凍るような戦慄を覚えた。
「だが問題は……、日本列島を襲う異変は東京沈下で終わらないということだ……」
  九鬼の低い声が響く。
  地球温暖化は単に気温が上昇するだけではないのだ。地球温暖化をもたらす気候変動は気候システムの撹乱だが、これだけでは収まらない。大気システムや海洋システムの撹乱を通して、さらに、地殻やプレート、マントルの動きなど、地球内部のシステムにも影響をおよぼす。地球温暖化は気候システムといった地球表面のシステムだけでなく、地球のそのほかのシステムをも撹乱するものだった。
  気候システムといった地球表面のシステムといえども、地球全体システムの一部を構成するものである以上、個々のシステムの撹乱が全体システムを構成する他のシステムにも影響をおよぼしていく。そして個々の撹乱が全体の撹乱を呼び起こしていくことになるのだ。
「すると、これからはじまる地球システム大撹乱のなかで、日本列島にはさらなる試練が待ち構えているというのですか。地球温暖化の果てに生じた東京沈下で撹乱が終りではなかったのすか」
「終りだと思っていた。だがいくつものプレートが集中し、地殻の過敏な地震帯に位置する日本列島はそれでは済まなかった。だから、四〇〇〇万人の避難民の救済対策も将来の異変をも十分考慮して行なわなければ、かえって大きな混乱を招き、被害を大きくすることになるだろう」
「…………」
  佐藤は聞いていなかった。
  いまの東京沈下でさえ、日本という国の息の根を止めることになると思うのに、このあとになにが襲ってくるというのだ。地球温暖化の果てに、なぜつぎつぎに大異変が日本列島を襲うのか。もういい加減にしてくれ。一体、地球は日本がなにをしたというのだ。
  彼は受話器をもっていることも忘れて、呆然と立ちつくしていた。しばらくして、受話器に気付き、ふたたび耳にもっていったが、電話はすでに切れているらしく九鬼の声はなかった。
  おもむろに受話器を返すと、彼は意を決して立ち上がった。

 2

 東京沈下がはじまって以来、五年を経たいま、沈下都市部、ことに東京都心部の人口減少が著しく、首都圏の様相はすっかり変わってしまった。
  関東平野の沈下境界に生じた東西と南北のほぼ一〇〇キロにわたる亀裂が拡大して次第に姿が露になった。沈下範囲が明らかになったものの、境界周辺にも大小の新たな亀裂が幾条にも走り出していた。
  これらの亀裂の上には首都圏に進入する高速自動車道や主要国道に沿って仮設橋梁が掛けられ、沈下する首都圏への物資の陸上輸送路の確保が図られた。また、これは住民の地方への移動や物品の運送にも欠かせないものであった。
  沈下区域を流れる殆どの河川が干上がってしまった。流水は沈下境界の東西と南北の方向に生じた深い亀裂に流れ込んでいるらしく、大雨時以外は河川の川底がからからに乾いてしまい、道路代わりになった。
  住民の水がめとして建設されたダム湖も決壊の危険から放水され、いまでは底まで空っぽになり、水没した集落の残骸が顔を出している。
  都心では車が消え、人影も疎らになった。地下駅や地下鉄には浸水が溢れ、線路は殆どが水没したままだった。なかにはホームまで水が溢れているところがあった。
  郊外から都心へ入る各鉄道も高架橋や線路に高低差ができ、メンテナンスに手間がかかり、早々に運行不能に陥った。JR環状線も同様だった。
  道路の破損も酷かったが、ほかに交通手段がないため、トラックによる物流確保のために主要幹線道路の補修がつづけられた。といっても、道路には凹凸や亀裂があり、ときおり通るトラックやタクシーは用心深く速度を落として走り抜けていく。
  一時は狂乱状態に陥り、暴力や麻薬が横行し、無法地帯と化した盛り場もいつの間にか看板は破れ、ネオンも消え、ゴーストタウンとなった。盛り場周辺の街灯は投石の標的なって壊され、夜になるとビル街は真っ暗な闇に閉ざされてしまう。ときおり、痩せ細った野良猫が獲物を求めて彷徨うはか、全く人気がなかった
  山の手の住宅街では、ある日、一軒が引っ越してしばらくするとその隣が越すといった具合で、まるで歯が抜けるように住民が減っていった。時が経つにつれ、空家が目立ち、空き巣や強盗が頻発した。夜には徒党を組んだ黒ずくめの集団が横行し、商店の襲撃や強姦・殺人・放火が日常茶飯事となった。これに対抗して自警団による夜警が行なわれるようになったが、街に残っているのは老人たちばかりで黒い集団の起動力には追いつかなかった。
  ゴミの収集が滞り、悪臭が満ち、ハエや蚊が発生した。野良犬や野良猫がゴミをあさり、散らかしていく。餌となる食べものはなく、痩せ細り、死んでいった。放置されたペットは犬や猫だけではなかった。ウサギやモルモット、蛇やトカゲ、アライグマやカミツキガメなどさまざまな生き物が放置され、弱い動物は強い動物に食べられてしまった。野犬化した犬は群れをつくって人間まで襲うようになった。
  一年目はさほどでなかったが、二年経ち、三年目に入ったころから、街全体が急速に活気を失い、寂れていった。
  いくら待っても、東京沈下が収まりそうにないことが分かったのか、それとも超高層マンションの倒壊や高層ビルの外壁剥離や傾きが見られるようになったことも大きかったが、政府や東京都が地方への移住を促し、必要な資金の貸与や奨励金を出すようになって一段と加速されたのだった。
  一方、郊外での住民の動きは鈍かった。ことに戸建てに住む老齢の人びとは腰が重かった。長年住み慣れた土地を離れたがらないのだ。老い先短ければなおのことだっだし、年金生活者に移住資金はなかった。
  いままでと違い、いつ止まるか分からないライフラインの心配はあった。だが地下水位が上昇しているのか、水はどこを掘っても出てくる。送電が止まっても太陽発電があった。ただ食料品が不足がちだった。
  農家は相変らず農地を耕しつづけた。一般の住民も狭い庭を家庭菜園にして手に入りにくくなった生鮮野菜を確保し、生活を維持しようとした。
  次第に、治安や行政サービスが低下していく。スーパーやコンビニ、レストランや飲み屋、工場や事務所等の閉鎖が相次ぎ、働き場所も少なくなった。
  街は活気を失い、失業者やホームレスが増え、空き巣やかっぱらいが日常的になっていく。
  沈下区域の住民に対して、行政は地方への移住を積極的に誘導しながらも、政府も東京都も他の県も沈下現象について確定的な見通しを避けていた。というより、沈下現象が永続し、やがて海中へ没するとは決して言わず、むしろ、いずれ収束するといったニュアンスさえ匂わせていた。
  いたずらに不安を煽れば、四〇〇〇万人の暴動による社会混乱を招きかねないとの政治的な判断から取られた措置といわれていたが、これといった対策が考えつかず、ただゼロメートル地帯の二〇〇万人の避難の二の舞いになることを恐れ、もっぱら時間稼ぎをしていたに過ぎなかった。これまでの五年間が猶予期間となって、避難民の自主的な地方への移住が進み、首都圏の人口の急減を見たのだっだ。だがそれでもいまだに二〇〇〇万人を超える住民が沈下区域に残っていたのだ。

 3

 三階から階段を駆け下り、エントランスホールに出る。いつもなら引っ切りなしに人が行き交っているのに、人影はなかった。守衛がひとり、開いたままになっているガラス扉のそばに立ち、手持ちぶたさに辺りをきょろきょろ見回している。
  佐藤は広いホールを横切り、守衛の横を通り抜け、外へ出た。
「痛い……」
  四月になったばかりなのに、強烈な太陽が頭を射した。このところ天候が不順で、春のなかに夏が紛れ込むかと思えば、一変して気温が低下し、冷え込むことがあった。
  一瞬、佐藤は眩暈を感じ、足を止めた。
  道路より一段と高いところにある本社ビルのエントランスに通じる階段が前面に延び、その先に片側三車線の幹線道路が横に走っている。いつもなら、数珠繋ぎになって走る車と引きも切らない走行音に満ち、昼時ともなれば道路の両側の歩道には行き交うワイシャツ姿や制服姿のオフィス勤めの男女で溢れているのに、目の前には、車はおろか人影すらなかった。ただ間延びした空間が広がっているだけだった。
  彼は歩道の端で立ち止まり、左右を確かめて、道路を横切る。車が来ないのは分かっているが、どうしても立ち止まって左右を見てしまう。
  M新聞本社ビルは横に長い古い低層のビルで、超高層ビルの立ち並ぶ都心のオフィス街にあった。多くのオフィスビルには殆ど人影はない。大企業のオフィスは留守番を残して、いち早く移転を了えていた、
  彼は超高層ビルを見上げ、傾き加減を確かめながら、オフィス街を足早に通り過ぎ、公園のなかへ入っていく。その先に国の各省庁のビルが集まる官庁街があった。
  省庁のビルも高層化するとともに、各省庁がそれぞれビルをもつこともなくなって、いくつかの省庁が合同で使用する巨大なビルが建設されていた。だが見かけはひとつのビルでもなかがいくつにも仕切られ、訪れる者には迷路に嵌り込んだような雰囲気があった。
「ここはホントに分かりにくいところだ」
  佐藤の第一声はいつも決まっていた。
「なにもわざわざ来なくてもいい。電話してくれ。オレも忙しいんだ」
  斉木治郎は机のまえに無造作に椅子を寄せて座り込み、額の汗を拭っている佐藤を鋭い視線で一瞥すると、手元に広げている書類に目を落とす。
「新首都へいつ引越すんだ。もう建物はできているんだろ。早くしたほうがいい。東京大沈下は近いぞ。いよいよ来るぞ、凄いのが……」
  斉木が書類から顔を上げると、彼はニヤッとした。
  髪は短く切っているがぼさぼさ頭だ。目付きは鋭く、顔全体が引き締まって尖っている感じだ。鼻筋が通り、いかにも官僚らしい顔付きだ、と言いたいところだが、これは官僚の顔付きじゃない。むしろ、利に聡い顔だった。斉木と比べれば、むしろ、小柄だが、きりりとした感じの佐藤の顔付きほうが官僚タイプだった。高校と大学が同期で、斉木も新聞記者志望であった。だがどこでどう間違ったのか、いまは斉木がK省の課長で、彼はM新聞の科学部記者だった。
「どこで仕入れてきた、そのネタは……」
  斉木が見下したように言う。斉木は大男だが、佐藤は小柄で、顔も小作りだ。
「お宅の先生たちのご託宣はどうなんだ……」
  斉木の課では地震に関する評価を行なう委員会(評価委員会)の事務局を担当していた。委員会は専門家で構成され、毎月集まり、大学や各調査研究機関から集められたデータをもとに、今後発生する地震について専門的な評価を行なっているのだ。
  一瞬、斉木が嫌な顔をした。だが彼はつづける。
「……大勢の専門家が集まればいいというもんじゃないだろ。『文殊の知恵』どころが、なかなか意見が纏まらない『烏合の衆』で、そのうえ、無責任になりがちじゃないのか。まあ、結局、無難な評価しかできないだろうな。ことに、東京沈下のようなケースでは誰も責任を取りたがらない……」
「あの文章を書いたド素人先生がそう言っているのか」
  斉木は以前M紙に掲載された東京沈下に関する九鬼論文のことをいっているらしい。彼はかまわずつづける。
「……現に、進行中の東京沈下現象に対して、なぜ、曖昧な評価しかできないんだ。みんなが納得するように、莫大な金をかけて大量のデータを集めているが、事前に予測できなければムダになるんじゃないのか」
「いますぐそれができなくとも、そのうちできるようになる」
「そのうちね……。四〇〇〇万人を人質にしていい気なもんだ」
「バカ言え。二〇〇〇万だ……」
「二〇〇〇万人は政府の対策に愛想を尽かして自主的に逃げ出したくちだ。彼らもかっては人質だった」
「まだ、先生も頑張っている……」
「先生?」
「『白頭大人』だよ」
「え? どこに……」
  白頭大人はふたりが大学時代に薫陶を受けた恩師だった。といっても、別に講義を聴いていたわけではなかった。二人は暇があると、ドアをいつも開放しているサロンのような白頭研究室に入り浸っていた白頭大人を取り巻く常連だったにすぎない。中国の古事や雑学の大家で、角張った顔に人を引き付ける丸い目の白頭大人はまだ定年に間があったが、若いころから頭髪が真っ白だったので、誰が言うことなしに、いつの間にか敬意を込めて「白頭大人」と呼ぶようになった。
「奥多摩にいるという話だ」
「そんなとこでなにしているんだ」
「自給自足を実践しているらしい。一度、取材に行ってみたらどうだ」
「うん……。こんな話をするつもりではなかった。沈下の観測データを見たいんだ。大沈下の兆候が出ていないかチェックしたいのだ」
「兆候? なんの兆候だ」
「もちろん、東京大沈下に決まっているだろ」
「ふん、観測データから分かるのか……」
「もちろん、兆候があれば……」
「ふーん、じゃ、特別見せてやるか。だがタダじゃないぞ」
  斉木は隣の課長補佐に声をかけ、データを持ってこさせ、データシートの分厚い綴りを彼のまえに突きだす。
「整理してないのか」
  彼はぶつぶつ言いながら、データシートを捲りだす。
「課長、いまプリントアウトしたものですが……」
  課長補佐が一枚の図面を手渡す。沈下地域の地図のうえに沈下度合を濃淡で表示してあった。
「どれどれ……」
  彼は手を伸ばし、斉木から図面を奪う。彼はよく見ようと図面に顔を近づけたとき、斉木の手が伸びてきて図面と取り上げる。
「これじゃ、データシートと照合しなければよく分からん。それをもって、会議室へ行こう」
  斉木は図面を持って、大股でドアのほうへ歩き出した。彼は机に広げたデータシートの分厚い綴りを閉じて小脇に抱え、背の高い斉木のあとを追った。
 

(続く)

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