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天翔け地這う 序の巻 超人誕生・サンプル

 

第一章

 1

 一九九三年の秋、亜木木実子は男の子を生んだ。三十八才だった。
  赤い顔をした生まれたばかり赤ん坊の股間には、ペンシルキャップの先っぽのような小さなペニスが、根元に萎んだ陰嚢を付けて、ちょこんと突き出ている。
  可愛らしいペニスを見い出して、木実子はなぜかときめきを覚えた。おそるおそる突き出た肉塊に手を伸ばす。触れた瞬間、指先から全身に電流が走った。躯中がおののき、津波のような感動が全身を襲い、胸に溢れた。
  何度見ても、見飽きることはなかった。彼女はオシメを替えるたびに「早く大きくなーれ」とペンシルキャップの先っぽを軽く引っ張った。萎んだ暗色のしわしわの陰嚢までが長く伸びる。
  六か月健康診査のとき、耀は停留精巣と診断された。
「停留精巣?」
  胎児の時期、精巣は腹腔内の腎臓のそばで形成され、成長とともに、脚の付け根のそけい部を通り、陰嚢に向かって下降する。通常は、妊娠三十五週前に陰嚢内におさまるが、出産時にまだ陰嚢に達しないことがある。これを停留精巣というのだ。
「まあ、生後数か月も経てから下りてくることも多いので、これまで様子を見ていたのですが……、まだ陰嚢に精巣が下りてこない状態であるということです。赤ちゃんの精巣はまだお腹のなかに留まっているのでしょう」
  十岐という痩せてほっそりとした若い医師は、いささか暗い感じのする面長の顔に固い表情を浮かべたまま、抑揚のない無機質の声で言った。
「精巣?」
「睾丸ともいいます」
  木実子は幾分顔を赤らめ、陰茎の根元にぶら下がっている重量感のある睾丸を包んだ陰嚢を思い浮かべた。あのなかの二個の卵形の塊のことか。わが子にはなぜこれがないのか。それにしても、今日までなぜそのことに全く気づかなかったのだろうか。彼女は顔から血が引くのを感じた。
「耀の……」
  木実子は小さなペニスの根元に付いている頼りなげな萎んだ陰嚢を思い浮かべ、言い淀む。彼女はこころのなかで「あの陰嚢は空っぽだったの?」と呟いた。
「こんなことはめずらしいことではありません。十人に一人ぐらいの割合でいます。未熟児の場合はもっと多い」
  若い医師は木実子の顔色を上目づかいに窺い、慰めるような口調で言った。
「もう少し様子を見ましょう。そのうち、陰嚢に下りてくるかもしれない」
「え? 下りてくるのですか?」
  陰嚢と精巣は精巣導帯というひものような組織でつながていて、これが胎児の成長とともに縮み、精巣を陰嚢に引っぱり込む。このような仕組みで精巣が陰嚢内に移動していくが、停留精巣の場合でも、生後三、四か月で自然に下りて正常になってしまうことが多い。なかにはずっと遅れることもある。
「もっとも個人差があるので、一歳ぐらいになって下りてくる子も結構いるのですよ」
  十岐はカルテをみて、小さな患者が六か月になっていることに気付き、急いで付け加えるように言う。
「でも一歳を過ぎても下りてこないときはどうなるのです? この子には精巣が本当にあるのですか?」
  木実子は金属性の声を一段と張り上げた。
「そのときには当然、治療が必要となります」
  若い医師はうんざりしたような声を出した。
「治療? じゃ、治るんですね、耀は正常になるんですね」
「まあ、正常というか……、手術して上がったままになっている精巣を引っ張り下ろし、陰嚢のなかに固定するのです」
「じゃ、すぐ、その手術をしてください」
「まだ、自然に下りてくる可能性が残っていますよ。なにも急いで手術することはない」
「もう直き、七か月になるわ。これまでダメだったから、十二か月まで待ってみても同じだわ。一日も早く正常にしてやりたいのです」
「一歳まで待って見て、それでも下りてこなければ、治療をはじめましょう」
「どうしてもっと早くできないのですか……」
「ホルモン剤を注射してみて、しばらく様子を見ましょう」
「それからでないと、手術はできないのですか」
「手術は全身麻酔でおこなうのです。体が小さいと麻酔が難しいし、手術自体もやりにくい。ですから、まあ、麻酔の専門医がいる大学病院などで、手術のリスクが一番少ない時期に手術するのがいいのです」
「それで、いつになったら手術ができるのですか……」
「三歳ぐらいですか。別に急ぐこともないので、以前は小学校に入学するころまで待っていたこともあったのですが、三歳を過ぎても精巣が上がったままになっていると、精子のもとになる細胞が減ることが分かってきたので……」
「三歳ぐらいでは、まだ手術のリスクがあるということですか」
「まあ、別のほうのリスクとの兼ね合いを考えると……」
「手術しないでいるとどうなるのですか……」
「精巣が腹腔やそけい部に留まっていると精子をつくることができないし、停留状態が長くつづくと、精巣自体の正常な発達が妨げられる。そのうえ、悪性腫瘍ができる確率も高まるといわれているのです」
  ようやく生んだ子が三歳になれば、危険を侵しても、手術をしなければならないとは、どういうことだ。
  木実子は頭のなかが真っ白になった。どうしてよいのか分からなかった。無理して生んだ子がこともあろうに停留精巣だったとは。
「いったい、なぜなの」
  木実子はこころのなかで何度も叫んだ。
  耀の可愛らしいペニスを見るたびに木実子は息が止まりそうなときめきを覚えたのに、いまでは激しく落ち込み、陰鬱な気持ちに襲われた。彼女は目を背け、萎んだままの陰嚢が膨らんでくるのをじっと待った。だが一年経っても、萎んだままだった。
  耀の精巣は下りてくる気配がなかった。
  三歳まで待って、十岐医師が紹介した大学病院で、耀は精巣を精嚢に移す手術を受けた。
  手術は成功したものの、精巣もペニスも発育不全であった。果たして正常の機能を取り戻すか分からないという。そのうえ、前立腺ガンのおそれがあった。
  手術の結果に期待を寄せていた木実子は、将来の望みまで無惨に打ち砕かれてしまった。なにもする気が起こらなかった。表情豊かだった大きな目は死んだように宙の一点を見たまま、彼女は一日中、耀のそばにじっと座っているだけだった。
  耀を生んだことを後悔した。
  土田に黙って堕胎を決意し、ひとりで病院に行き、手術台に横たわった。手術を終えたとき、なぜか無性に子を産みたいと思った。土田と別れたあとも、その思いを捨て去ることができなかった。
  木実子は大学院の修士過程を終え、民間のシンクタンクに移って気候モデルの開発を担当していた。地球温暖化への関心が広がるにつれ、気候変動予測が注目を浴びるようになった。彼女はやがて気候変動予測プロジェクトのリーダーとなり、かってなく研究にのめり込んでいった。だが人工流産のあと、急に、研究への興味が薄れ、ただ子を産むことを夢想することが多くなった。
「お母さん。わたし、こどもを産むわ。ここで生んでいいわね」
  木実子は大きな目をくるくると動かし、幾分上向きの鼻を突き出した。
  数年前、父が交通事故死して以来、母貴世はТ市の駅からバスで五分ほどところにある戸建ての家にひとりで住んでいる。三十才まで木実子も一緒だったが、仕事で遅くなることが多くなって都心にマンションを借りた。
  十数年前、Т市に引っ越してきた当時は、家の周囲にはまだ農地や雑木林が残っていたが、いまでは隙間なくびっしりと小さな家が軒を連ねている。それでも背後の遠くないところに、当時の名残りを止めるかのように農地が点在し、開発から取り残された雑木林が広がっている。近くに高速自動車道のインターあり、いつの間にか、付近の雑木林のなかに廃棄物焼却施設の煙突が立ち並ぶようになった。
  わがままな一人娘もようやく結婚する気になったのかと、一瞬、表情をゆるめた母も、木実子がひとりで子を産むらしいことを知ると、目を釣り上げた。
「どういう了見なの、そんなふしだらは許しません」
「じゃ、他所で産むわ。いま、産んでおかなければ、一生後悔するわ」
「駄目。子供を生んじゃ駄目、ひとりでなんて……」
「お母さんはなんでも指図するのね。まるでわたしを自分の持ちものみたいに思っているんだから。もうたくさんよ」
  娘の剣幕に恐れたのか、それともようやく戻ってきた娘がまた出て行くことを恐れたのか、あまりの突飛な申し出に呆れ顔の母はそれっきり黙ってしまった。
「お母さんにはわたしがいるからなんとも思わないかもしれないけど、わたしは一人っ子なのよ」
「お父さんが亡くなってから、もう何年もここで一人暮ししているけど、全然寂しくなんかない。せいせいして、むしろいいくらい」
「お母さんがいなくなったら、わたしだけになるによ。他に血の繋がったひとはだれもいないんだから」
「じゃ、早く結婚すれば」
「お母さん。またそれをいう。そんなに簡単にはできないの」
「じゃ、こどももできない……」
「結婚しなくてもこどもはつくれるわ。AIDもあるし……」
「AID?」
「非配偶者間人工授精のこと」
人工授精とは男性の精子と女性の卵子を人為的に結合させる生殖補助医療として認めたれている不妊治療のひとつの方法。女性の子宮内に注入する精子の提供者のちがいで、配偶者間の人工授精(AIH)と非配偶者間の人工授精(AID)がある。
  AIDで用いる精子は厳選されたボランティアの提供者のもので、事前に実施医療機関で凍結保存されている。もちろん、提供者の情報は誰も知ることができない扱いだ。
  日本には非配偶者間の人工授精で産まれたAID児はすでに累計一万人以上といわれている。これらは不妊に悩む夫婦間に産まれたもので、日本の医療機関では未婚の女性を対象にAIDをおこなっていないことになっている。
  しかし最近では、男性とは関係なく子どもを産むために、ひそかにAIDを希望する女性が増えていた。
「まあ……」
  と言ったきり、声が出ないらしい。木実子が一度言い出したら聞かないことを知っている貴世は肩を落とし、しばらくして「気の強い娘ねえ」と諦め顔で呟く。
「お母さん似ね」
  とどめを刺すように言う。
  木実子が五か月の少し目立ちはじめたお腹を抱えて転がり込んだきたとき、貴世は一度白い目を向けたが、なにも言わなかった。どこか開き直ったような感じだった。
  貴世はひたすら娘の体を気遣い、せっせと世話を焼いた。きれいなお乳が出るように、毎日新鮮な無農薬野菜ジュースを飲むといいといって、華奢な小さな手で広くもない庭の片隅に小さな菜園をつくった。昔は農地だったのか、菜園の小松菜やほうれん草は青々とした大きな葉を広げた。
  木実子は母のすすめるまま、毎日、我慢して青臭いジュースを飲み干した。
  耀が産まれると、貴世は産後の娘の面倒をそっちのけにして、孫の世話にのめり込んでいった。はじめての男の子を珍しがり、一段と可愛がった。少しでもむずかり出すと、真夜中でも飛んできて、すぐ抱っこした。
「あまり甘やかしてはダメ。癖になったらどうするの」
  木実子が強く言っても、聞かなかった。それに貴世には泣き声だけで、お乳が欲しいのか、おむつが濡れているのか、すぐ分かるらしく、眠っている木実子をわざわざ起こして授乳させることもあった。
  眠っているときに起すと、必ずひと悶着となった。
「哺乳瓶でミルクをやってよ。用意してあるでしょ」
「耀ちゃんには母乳が一番なの」
  他のことでは木実子の言いなりの貴世であったが、お乳のことになると、頑として譲らなかった。木実子が用意してあるといったプラスチックの哺乳瓶も、彼女に買っておいてといわれて貴世が近所の薬局からしぶしぶ購入してきたものであった。
  授乳が済むと、貴世は耀を木実子から奪い取り、耀を何時間も抱きかかえ、飽きなかった。小柄な体のどこにそんな力があるのか、その間、貴世は子守歌を歌ったり、耀の名を呼んでは話しかけた。

・・・・・・・・・・・・

(続く)

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