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地球の箱船を求めて 第1話 そしてみんな死んでしまった・サンプル

 

プロローグ

 昭和三十年代(一九五五〜一九六四)、日本ではエネルギー源の大転換がはじまる。これまでの石炭から安価で使い勝手のよい石油への転換だ。

 日本列島の太平洋ベルト地帯には工業地帯が連なり、石油をエネルギー源とする製鉄、製油、化学工業、電力といった重厚長大工業の工場群で埋め尽くされていった。そしてコンビナート方式で集中立地した工場群は経済成長の波に乗って生産第一主義の生産活動を展開する。

 こうして昭和三十年代後半から四十年代前半にかけ、日本経済は高度成長期に突入し、急速に成長する。だが、四十年代に入ると、急激な成長にともなうさまざまな歪みが日本列島のいたるところで表面化しはじめる。

 大気や水域など自然環境が一段と悪化し、さまざまな悪影響があらわになる。ことに、太平洋ベルト工業地帯周辺での自然環境の悪化は凄まじく、大気汚染や海域・河川湖沼の水質汚濁などによる周辺住民への健康被害が顕現化する。そして四日市喘息、水俣病、イタイイタイ病、カネミ油症といった急性被害による公害病患者が大量に生み出されたのだ。

 太平洋ベルト地帯が「公害問題」で行き詰まると、高度成長に酔い痴れた企業は「公害処女地」である日本海側の裏日本へ目が向ける。調子のいいジャーナリストや経済学者らもこれからは「環日本海時代」だともて囃す。

 企業の目が日本海側に目を向けはじめられていることを知ると、いままで陽の当たることがなかった日本海に面したG県は、こんどこそ高度成長のバスに乗り遅れまいと、県唯一の大型港であるN港整備を国に働き掛ける。

 後進県として焦りのなか、四十二年、河口港であるN港から三キロ北上した地点に掘り込み港を新設し、後背地に大企業を誘致して一大臨海工業地帯を開発するという新港開発構想(N新港プロジェクト)を打ち上る。さらにその後、高度成長がそろそろ終わりを迎える時期(四十五年)に、県は同プロジェクトの当初計画規模(一万五千トン級の岸壁を三本、五千トン級を五本)を一挙に三倍に拡大する。

 翌四十六年、精練から圧延までの一貫生産の計画をもつアルミ工業(S金属)の誘致に成功する。アルミ精練には大量の電力を必要とするため、あわせて石油火力発電所(S金属とТ電力の共同出資による共同火力発電所)も誘致され、N新港プロジェクトが漸く軌道に乗りはじめる。

 そのとき、N新港プロジェクトの先行きに大きな影響をおよぼす二つの事件が相次いで国内外で起きる。

 第一の事件は、四十七年七月、係争中の四日市公害訴訟の判決がおり、四日市喘息の原因物質が火力発電所からの亜硫酸ガス(硫黄酸化物)とその周辺工場からの大気汚染物質によるものと認定されたことである。

 そのなかで、翌四十八年三月、S金属はアルミ一貫生産工場の立地に向けて本格的活動を開始するため、新会社(Sアルミニウム工業株式会社(Sアルミ))を設立する。つづいて同年四月、Sアルミに電力を供給する石油火力発電所を建設するために新会社(N共同火力発電株式会社(N共火))が設立された。

 誘致企業にとって、企業側の敗訴の判決は当然予測されていたことであった。だがそれは予想を超えたものであった。この判決を契機に、四日市喘息の元凶のひとつである火力発電所に対して、住民の極めて厳しい目が向けられることになったのである。

 つづく第二の事件は、誘致企業が新会社を設立した半年後にやってきた。全世界に衝撃を与えた第一回目のオイルショックである。

 第二次世界大戦後における東西対立の冷戦構造もとで、石油利権を巡る国際的緊張が一段と高まっているさなか、産油国に採掘権を含め石油資源の国有化の動きが現れる。そして一九七三年(昭和四十八年)十月、ついにアラブ産油国は石油禁輸の戦略を実行に移す。これにより石油価格が一挙に四倍も跳ね上がった(第1次オイルショック)。

 急激な石油価格の高騰に、日本経済は翻弄され、オイルショックのまえに為す術がなかった。大気汚染など環境への影響を軽視し、安価で使いやすい石油を大量に消費して高度成長に浮かれていた日本経済は大打撃を被る。これを機に、日本経済の高度成長期は終焉し、時代が大きく変わっていく。そして日本経済はもちろん、世界経済も大きな曲がり角を迎えることになった。

 N新港プロジェクトの前途にも暗雲が立ちこめる。

 石油価格が急騰するなか、前途の不安を抱えながらも、SアルミとN共火は立地を進め、昭和四十九年十月、工場と発電所の建設に着手する。だが地元住民の公害反対運動は予想を超えて激しいものだった。

 Sアルミは計画を見直し、大幅に縮小するも、なんとか操業をめざす。一方、N共火は計画規模通りの発電所の建設を進める。だが試運転開始を控え、送電線建設で地元住民との交渉が難航し、難渋する。

 操業開始のタイムリミットが迫る一九七六年(昭和五十一年)三月、N共火の社長田村康平が不可解な死を遂げる。

第一章

 1

 左手を皺だらけのベージュのコートのポケットに突っ込み、右手にボストンバッグをぶら下げた浅黒い顔の若い男がひとり、風が吹き抜けるようにするりと改札口を通り抜け、駅舎へ滑り込む。駅員の姿もなければ、男の前にも後にも人影はなかった。

 男は改札口を出たところで、足を止めた。一七〇センチほどだが、痩せていて細身のせいか、実際よりかなり高く見える。

 男は立ったままボストンバックを手から放す。鈍い音を立て、足下に落ちたバックの僅かに開いたファスナーの隙間から下着らしい白い衣類の一部が覗いている。

 男は浅黒い顔をゆっくり動かし、辺りを見回した。まだ学生気分が漂っている好奇心の強そうな大きな丸い目には微かに不安げな光があった。

 あらかた乗降客は改札口を通り抜けたのか、それとも日曜の朝のせいか、駅舎のホールの真ん中に棒立ちしている彼に通行を妨げられる乗降客もなく、その奥にある待合用のベンチも閑散としている。

 人気もないのに、左手の片隅にある売店には煌々と明かりが灯っていた。新聞や週刊誌など陳列してある品々が灯に照らし出されていたが、売り子の姿は見えない。回りにも人影はなかった。

 しばらく辺りを眺めていた男はおもむろに身を屈め、ボストンバックを持ち上げる。そして未開の地の入り込むような用心深い足取りで、左右に目を配りながら、ホールをゆっくり横切る。

 駅舎から一歩外に出ると、冷たい風が吹きつけた。シベリアおろしの季節風か。男は痩せぎすでほっそりとした体躯を思いきり縮める。

 彼はふたたびボストンバッグを投げ出すように歩道に落すと、両手で急いでよれよれのベージュのトレンチコートの襟を立てる。

 駅前広場はバスターミナルらしく、数台のバスが駐車していた。

 広場の縁に沿い、前面に左から右へ広い幹線道路が走っている。幹線道路からT字型に幅広い大通りが突き出すように前方へ垂直に伸び、大通りは両側に商店が連なるアーケードとなっていた。

 早朝だというのに、大通りの一角に人びとが群がっている。赤い信号灯を点滅しているパトカーが並び、救急車の警笛音が近づく。

 男は一度ひとの群れの方に足を向けたが、途中で引く返し、足早にタクシー乗り場に向かった。

「なにかあったの」

 開いた扉から振り向いた中年の運転手に声をかける。

「なんでも、そこのホテルで泊まり客が首を吊って死んでいたそうだ」

 のんびりした声が返ってきた。

「すぐ戻るから一寸待ってて」

 身体を屈めて、座席にボストンバッグを放り込むと、男はひとが群がっている大通りに向かって走リ出した。

「お客さん、お客さーん……」

 後ろから運転手の声が追いかける。男はかまわず走る。

 アーケード商店街から横に入った路地の奥に、ホテルらしい高い建物がそびえていた。ガラスの回転扉を押してエントランスホールに入ると、担架を持った救急隊員がエレベーターを待っているのが見えた。

 彼は足早に近づきながら軽く会釈を交わし、後について開いた扉からエレベーターに滑り込む。警察の関係者と間違えたのか、隊員のひとりから笑顔が返ってきた。

 エレベーターが停り、扉が開くと、男は開放のボタンを押して、救急隊員を先に通してその後につづく。止まった階のエレベーターのまえには若い警官がひとりぽつんと立っていた。彼は無言で担架について、テープを張り巡らした廊下を抜けて開放されているドアから室内に入っていく。誰も咎めるものはいなかった。

 ドアの近くに丸テーブルと二脚のアームチェアがあった。テーブルのうえにほぼ空になったウイスキーの大瓶とコップが無造作に置いてある。その横にホテル名とルームナンバーを彫り込んだ透明の人工樹脂の細長い角柱が付いている鍵が投げ出されていた。

 その奥に壁を頭にセミダブルの二つのベッドが部屋いっぱいに並べてある。遺体は窓に近いベッドに横たわっていた。

 警官一人と、ホテル関係者らしいマネージャー風の男と胸に見習いの標識をつけたキャップのボーイ風の二人が見つめるなかで、ひとりの年配の男が遺体のそばでしきりに「社長、社長」と呼び掛けていた。だが、担架を抱えた救急隊員が近づいてくるのを見て、その年配の男もベッドから離れる。

 若い隊員が素早くベッドに上り、心臓マッサージを試みる。だが懐中電灯を取りだし、瞳孔を検査していた年かさの隊員に制止されてすぐ止めてしまった。

 見習い従業員は中学を卒業したばかりか、一人だけ離れ、ドア近くで青い顔をして様子を窺っている。若い男は誰にも気付かれないように手招きして見習い従業員を廊下に誘い出すと、従業員の背を押して、そのまま廊下の奥の非常階段へと連れ出す。

 非常階段に通じるドアを閉めたとき、背後でエレベーターが停まり、なかから数人の足音がつづいた。

「きみが発見したの?」

 見習い従業員は一瞬顔を歪めた。

「きみがあの部屋の鍵を開けたの」

 若い男は見習い従業員の手に鍵が握られているのを見て、再度尋ねる。従業員は黙って頷いた。

「それで……、泊まり客が首を吊っていた……」

「はい……、カーテンボックスのところ……」

 吐き気を催したのか、急いで口を押さえた。

「自殺……か」

「…………」

 見習い従業員は黙って彼の目を見ている。

「そうじゃない……の……」

「……ドアの陰にもうひとりのひとが……」

「え? きみが入ったとき、室内に誰かいたの。きみ、はっきり見たの」

「いや、はっきりは見てません。わたしはすぐマネジャーを呼びに行きましたから……」

「どこで見たの」

「ドアの蝶番の隙間に人影が……」

「どんな風な……」

「背は低いようでしたが……」

「それで顔見なかったのかね」

「片目だけが見えましたが、全体は見えませんでした」

「それで……」

「…………」

「きみはそのままにしてマネジャーを呼びに行ったのか」

「共火の所長さんが一緒でしたから。所長さんを残して」

「キョウカ?」

 見習い従業員は一瞬不審の目をして彼を見た。

「あの……、警察の……刑事さんではないのですか」

 彼がポケットから名刺を取りだして渡そうとしたとき、見習い従業員はドアを開け、廊下に飛び出していった。彼はしばらく考えてから、非常階段を下りた。

 2

「お客さん、困りますよ。待ち時間を入れさせてもらいましたからね」

 中年の一癖ありそうな運転手は怒った口調で言う。

「亡くなった人はどこのひとなの、身元は分かったの」

「共火の社長だそうだ」

「きょうか? なんのことですか」

「N共同火力発電(N共火)のことだよ」

 G県は日本海に面したN市の臨海部にコンビナート方式の工業団地(N新港プロジェクト)を開発中だった。その目玉企業として誘致したのがSアルミニウム工業(Sアルミ)である。

 Sアルミは当初、精錬から圧延まで行い、一貫したアルミニューム製品生産工場を立地する計画だった。アルミ精錬には大量の電力を要する。そこで、Sアルミは安価な電力を大量に確保するために、この地域に電力を独占的に供給するT電力と共同出資して設立した会社がN共同火力発電株式会社(N共火)であった。

「社長が自殺ですか……」

「さあぁね……、まあ、殺されたようなもんじゃないのかね」

「え? 自殺じゃないと……」

「なにしろ肝心の送電線が出来ず、親会社とSアルミの板挟みになっていたからなあ」

「板挟み?」

「まあね。で、どこへ……」

 若い男が行き先を告げると、中年の運転手は一瞬目を光らせる。そして「お客さんはブンヤかね」と言ったきり、口を噤む。目的地に着くまで、時々バックミラー越しに陰気な目付きで若い男の様子を探るだけで、運転手は二度と口を開こうとしなかった。

 

・・・・・・・・・・・・

(続く)

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