電子出版
kinokopress.com

  ホーム > 地球の箱船を求めて 第3話 > このページ

地球の箱船を求めて 第3話 暴走する現代科学技術文明・サンプル

 

プロローグ

 
 人類にとって悲劇的だったことは、第二次世界大戦の終結を新しい世界のはじまりとできなかったことである。歴史を単なる時間の流れとしか理解できず、なんらの教訓も学び取ることの出来ない男たちにとって、ひとつの対立の解決は単に新たな対立を生みだすひとつの契機にすぎない。
 ファシズムのムッソリーニ、ナチズムのヒットラー、軍国主義の東条が葬り去られ、平和な世界の到来を思わせた瞬間に、地下深く隠れていた芽が地面に突き出るように、新たな覇権を求めて東西の対立が芽生え、世界は冷戦構造に支配される。平和憲法を掲げた占領下の日本も否応なく冷戦構造に組み込まれ、翻弄されていった。
 覇権の確保をめざす行動の根底にあるものは異端への嫌悪感であり、手段を選ばない異端排除の思想にほかならない。
 理性は短命で、ドグマは情念の炎を燃やしつづけ、永遠に生き永らえるのだ。

 第二次世界大戦は人類にとって極めて奇異な戦争であった。この戦争よって科学技術が一段と進展し、原子力爆弾(原爆)を生み出して終結するが、大量の犠牲者を出しただけで、戦勝国にも、また敗戦国にもなにもうるところのないものであった。ただ終結間際に米国が手にした原爆は科学技術を変貌させ、これまで近代科学技術から現代科学技術へと質的転換していく。そしてこの現代科学技術文明がコンピュータを駆使して一層の巨大化高度化大量化を目指して走り出し、世界を大きく変えていくこととなった。


第一章


 1

 一九六〇年六月一五日、朝から空一面を厚い雲が覆っていた。時折、厚い雲が薄れ、雲間から薄日が漏れる。
 兼尾信二郎はインクの匂いがする刷り上りのビラを抱え、地下鉄の駅へ急いだ。
 信号が変わる前に横断しようと小走りで交差点へ近づく。右足を交差点に踏み入れようとしたとき、信号が黄色から赤に変わった。
 彼は肩で息をし、苛々しながら、信号が変わるのを待った。汗が噴き出す。坊主頭からニキビが吹き出ている額に向かって汗がしたたり落ちる。彼は反射的に、インクで黒く汚れた骨が浮き出た手の甲で額を拭った。
 十字路の斜向かいにある交番の時計が一〇時を指している。森島哲雄の面長の顔が浮かんだ。
「兼尾、明日まで五百枚刷ってくれないか。これが原稿だ」
 森島が本の間に挟んでいたビラの原稿を取りだすと、机の彼に差し出した。
「明日までですか、先生」
 彼は机から立ち上がる。長身の森島を見上げた。成長期の栄養不足か、同じ年ごろに比べ、背が低い。彼は立ち上がっても、森島と話すとき、どうしても見上げるような格好になってしまうのだ。
「先生はよせ。明日の一〇時、本郷三丁目の地下鉄改札口に頼む」
 信二郎は東北地方の養護施設で義務教育の中学を了えると、上京して小さな印刷会社に就職した。印刷会社の社長は施設の所長と同郷だった。幼年のころ苦労した社長は所長の頼みを快く引き受け、これまで何回も施設を出て働く少年たちの面倒を見ていた。
 上京して一年が過ぎ、都会の生活にも慣れると、彼は四月から定時制高校に通いはじめた。
 森島も四月から彼の通う定時制高校で臨時の社会科講師をはじめたばかりだった。同じ新人ということもあって、彼は森島になんとなく親しみを覚えた。
 一見、会う人に細め目の奥にいつもどこか暗い悲しみが漂っているような感じを与えるが、森島は講義をはじめると人が変わったように生徒相手に熱っぽく語りかける。そんな森島に魅かれ、授業がある日には彼はいつも一番前に席を取った。
 森島は学部を出たばかりで、まだ大学院に席があるうえ、いくつかアルバイトを掛け持ちしているらしく、授業に遅れることも珍しくなかった。
 その日も始業のベルが鳴り終わってから、かなりたったころ、痩せた長身をやや折り曲げてあたふたと教室に入ってきた。
 肩で大きく息を吸うと、森島は長く伸びた頭髪を無造作にかき上げる。額に汗が光っている。ひょろ長い体躯に載っている細面の眉間に些か神経質そうな縦じわが刻まれていた。
 授業では時事問題を取り上げ、その背景や問題点を説明することが多かった。
 マスコミではこのところ連日日米安保条約の改定を巡る論議で沸騰していた。そんななかで始まった新学期では、日米安保が取り上げられることが多かった。取り上げられる論点は冷戦緩和へと動き出している国際社会の動向や、そのなかで日米安保条約の改定へと進む岸政権の動きから新日米安保条約の問題点へと拡がっていく。
 彼は森島の授業に突然目の前で槍を突きつけられたような衝撃を感じた。日米安保条約改定問題についての議論もはじめて聞くものであった。だがそれよりも早口で熱っぽく語る森島が堪らなく魅力的だった。彼は薄い唇を僅かに開けた顔を森島に向け、ノートも取るのも忘れて聞きほれた。
 一九四五(昭和二〇)年八月一五日、日本が無条件降伏し、第二次世界大戦が終わった。漸く世界に平和が戻ってきたのも束の間、戦勝国の米国とソ連とが対立し、瞬く間に東側(ソ連、東欧諸国など)と西側(米国、西欧諸国など)が冷戦状態に陥る。
 終戦五年目、一九五〇(昭和二五)年六月二五日、朝鮮半島において戦争が勃発する。朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)が韓国を急襲。社会主義陣営のソ連、中国が北朝鮮を、米国中心の国連軍が韓国を支援して、戦いは三年余続いて休戦となる。
 この戦争はまさしく東西冷戦下の代理戦争であったが、その最中の一九五一年、米国・サンフランシスコで関係国による講和会議が開催され、対日平和条約が調印された。これにより第二次世界大戦が一応終結したが、ソ連のボイコットなどがあり、西側との単独講和となった。全面講和とはいかなかったことが米国一辺倒を招き、日本は内外にしこりを残すことになる。
 講和成立にともない、日米間で日米安全保障条約(日米安保条約)が新たに締結された。これによって、米軍の日本本土駐留など、米国による日本基地化が正式に認められることとなる。これに対して、日本国内では「全面講和、中立堅持、米軍駐留反対」を主張する左派勢力が激しい批判を展開した。ことに、日米安保条約に対しては米国との軍事的関係をことさら深め、冷戦下においていたずらに国際緊張を高めるものとして激しい論議が戦わされた。
 このような背景のもとで締結された日米安保条約が一〇年を経て、一九六〇年、改定期を迎えたのだ。この機に、これまでの対米従属的な日米安保体制を双務的なものに変え、対等な関係にしたいという思いを抱く岸信介が政権の座につくと、改定を巡る議論が一段と沸騰していく。
 前年の一九五九年から左右両派の対立が次第にエスカレートしていき、国内は騒然としはじめた。いたるところで反対デモや集会がもたれ、一九五九年三月には安保改定阻止国民会議が発足、左右の両者は対決の様相を強める。九月に入ると、国会で日米安保改定の論争が始まった。
 一方、国際社会は冷戦緩和へと動き出していた。スターリンの死後、一九五六年二月のソ連共産党第二〇回大会でのスターリン批判を機に、東ドイツ、ポーランド、ハンガリーで相次ぎ改革を求める声が高まった。ソ連はこれらの反ソ運動を戦車で圧殺するものの、東西の冷戦構造が雪解けへと進み出す。
 一九五八年三月、ソ連でフルシチョフ第一書記が首相を兼任、指導体制が確立すると、翌年九月には、米国を訪問し、国連総会で全面軍縮を提案する。アイゼンハワー米大統領との会談では、両国の関係改善と平和共存を呼びかけ、熾烈な冷戦から平和共存への転換を図る。その一方、米ソ間での冷戦緩和の動きにかかわらず、中ソ間は逆に悪化していく。
 その間、日米間で日米安保条約および行政協定改定の交渉が続けられ、一年三ヵ月におよぶ交渉の末ようやく妥結を見る。
 岸首相は一九六〇年一月六日反対デモに見送られて渡米し、同月一九日、ワシントンで日米新安保条約の調印を行なう。すかさずソ連が対日覚書で新日米安保条約を非難し、外国軍隊が撤退しないかぎり歯舞色丹は引き渡さないと通告する。
 国内の反対派は調印を機に、日米安保新条約の国会承認阻止へと戦術を変える。
 一九六〇年二月五日、条約が批准のために国会に提出され、これを巡る審議が始まった。国会では新安保条約における「守るべき『極東の範囲』と米軍事行使の『事前協議』条項」をめぐて与野党が激しい論戦を展開した。野党はとくに、米国が極東で他国と戦争となった場合、米軍基地を抱える日本が否応無しに戦争に巻き込まれる危険性がある点を問題にした。
 朝鮮戦争が休戦し、戦闘状態が終わったとはいえ、米ソ冷戦構造下で、日本は米国陣営に組み込まれ、ソ連のみならず中華人民共和国をも「仮想敵国」とみなしているだけに、極東での戦争は現実味を帯びていた。ソ連の人工衛星打ち上げ成功の前に、明日にも到来するミサイル時代における軍事ブロック戦略は意味がないとし、日本社会党は極力非武装中立化を主張する。
 新安保条約の是非をめぐる国論が賛成派反対派と二分され沸騰していく。賛成派は冷戦の緩和は東西間の力の均衡によるとの認識のもとに、日米安保体制をより充実させることが日本を守り世界平和に寄与すると主張する。これに対して、反対派は水爆搭載のICBM(大陸間弾道弾)などの究極兵器が開発されて世界戦争が不可能となったとの認識に立ち、日米安保条約を破棄し、中立主義への道こそ世界平和に寄与し日本の安全を保つ方法だと訴える。米軍が日本を基地化し、長期のわたり戦略的に利用しうるとする日米安保体制は日本が戦争に巻き込まれる原因となり、危険この上ないというのだ。
 議論が沸騰するなか、全学連など学生や若者たちの反対行動が次第にエスカレートした。国会請願デモや大衆集会が次第に激しさを加えていった。
 四月一五日、全学連の国会請願デモで警官と衝突。四月二六日の国会請願デモには八万人が参加する。
 この時期、隣国韓国で時の李承晩政権打倒デモが起こり、四月二七日に李承晩を辞任に追い込む出来事があった。このニュースに刺激され、反対運動が一層盛り上がる。翌五月五日にはソ連が領空侵犯の米軍U2型偵察機を撃墜した。これは米ソ対立にもとで、日本国民にいつでも戦争に巻き込まれるおそれのあることを実感させた。
 五月一四日、一〇万人国会請願デモが行なわれた。これに対して、五月一九日、衆院は会期延長を強行採決し、翌二〇日未明、警官隊五〇〇人を導入して新日米安保条約を自民単独で強行可決する。
 この強行採決は民主主義の原則を踏みにじり、戦後民主主義を否定する暴挙として国民に衝撃を与えた。「民主主義の危機」と受け取られ、全国的に大衆運動の高揚をもたらす。同日(五月二〇日午後、一〇万人の請願デモ。五月二六日、一五万人国会請願デモ。六月四日、総評系五六〇万人参加第一次実力行使。六月一一日、二〇〇万人の統一行動。
 六月一五日には第二次実力行使として第一八次統一行動が計画され、全国的な規模のストが行なわれることになっていた(後日、国民会議の発表によるとこれには主要単産一一一組合、五八一万人が参加した)。

 六月一五日の前日。その日も始業時間がかなり過ぎても森島が現れなかった。彼はそのうちいつものようにあたふたと駆け込んでくるものと思っていた。だがいくら待っても森島は現れなかった。机にうつ伏せになって眠っていた受講生も待ちくたびれて一人そしてまた一人と教室を出ていく。それでも彼は待った。とうとう彼一人になった。薄暗い照明が薄汚れた壁を一層汚く見える。次第に、彼はなにかしらみすぼらしい気分に襲われていく。そんな気分から抜け出るように彼は勢いよく立ち上がった。
 後ろを振り返り誰もいないのを確かめると、彼は戸口に向かった。教室から出ようとしたとき、森島が息を切らして入ってきた。
「ああ、みんな帰ったか。印刷屋を回ってきたので遅れてしまった」
「印刷? ガリ版ならやってあげます」
「きみが……」
 彼は教材用の印刷だと思って、自分で買って出たのだった。それがアジビラだったが、いまさら引けなかった。
 信二郎はビラを小脇に抱え、小走りで交差点を渡り、駅への路地を入っていく。待ち合わせの改札口の前のホールには人影がなかった。約束の時間を五分過ぎている。時折乗客が改札口を通り抜けていく。森島は行ってしまったのだろうか。そんなはずはない。森島はいつものように遅れているにちがいないと思い、彼は待った。
 一〇分過ぎても森島は姿を見せなかった。彼はビラを持て余し、途方に暮れて改札口の前に突っ立ていた。刷る上げたばかりのビラから立ち上るインクがいやに臭う。
 彼は改札口の脇の柵の上にビラの包みを載せた。電車が到着したときだけ集札に改札口に現れる制服を着た駅員がうさん臭そうな視線を向ける。どうすればいいのか分からなかった。ビラの包みのうえに片手をかけ、彼はひたすら森島が現れるのを待った。
「兼尾さん?」
 女の声がした。振り向くと、いつ現れたのか、お下げ髪のすらりとした高校生らしい女の子が背の低い彼を見下ろすような格好で立っていた。面長の顔に似付かわしくない大きなきらきら光る目。つんと澄ました感じの幾分上向いた鼻。そして強く自己主張しいる一文字の薄い唇。
 一度も会ったことのない顔だった。一瞬、森島の妹かと思った。だが森島とは全然別の固い雰囲気だった。
「それ、ビラでしょ。ありがとう」
 女の子はビラの包みに手を伸ばし、片手で軽々と持つと、ひらりと身をかわして改札口をすり抜けていく。彼は唖然として水色のカーディガンの後ろ姿を見送った。女の子の後ろ姿は一瞬のうちに地下ホームへの階段に消えた。
 彼は呆気に取られて、改札口のそばに立ちつくしたまま、女の子が消えた階段を見ていた。いくら待っても女の子は戻ってこなかった。
 ようやくわれに返って、彼は見ず知らずの女の子にビラを奪われたことの重大さに気付く。森島が現れたらなんと説明すればいいのか。後を追い、ビラを取り戻さなければと思った。だがここを動けば、森島が来たとき困る。ここで待ったいなければ、待ち合わせの約束を守らないことになってしまう。彼は迷った。
 彼は迷いながら、白いブラウスに水色のカーディガンの女の子を思い浮かべ、改札口の前で右往左往した。電車が到着するたびに降りてきた乗客が改札口をすり抜け、急ぎ足で彼の横を通り抜けていく。彼は森島の姿を求めて彷徨する。
 よれよれのレインコートを着た高校生らしい男の子が改札口を通り抜けた。地下ホームへの階段のところで振り向いた。彼は視線を感じて男の子に目を向ける。
 背が低くずんぐりとした体躯の彼のコンプレックスをいたく刺激するほど、男の子は細身ですらりと背が高い。整った顔立ちなのになぜか左の目が右の目に比べて心持ちひとまわり小さい。不揃いの丸い目が青白い顔のなかでなにか問いかけているような尖った光を放っている。
 その目を見たとき、彼は一瞬、まえにどこかで会ったことがあるような気がした。彼は一心に記憶を辿ったが、そんなことはある筈はなかった。
 男の子は彼の視線を感じると直ぐ踵を返し、レインコートの裾を翻させて階段の下へ消えた。彼は再び改札口を通り抜ける乗降客に視線を移す。
 突然、彼の脳裏にビラを持ち去った女の子の面影が鮮明に蘇った。これに尖った光を放つ左右大きさの違う目をもった男の子の顔が重なった。つぎの瞬間、彼は訳もわからず男の子の後を追うように改札口をすり抜けていた。

・・・・・・・・・・・・

(続く)

続きは印刷用PDFで。本書の概要はこちら

ご意見・お問い合わせ