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「オーガズム不全」だった私からのメッセージ
森岡正博著『感じない男』を読んで


青柳澄


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はじめに

 この書の主題となっているは、「男の不感症」の指摘、「感じない男」から生じる問題の危惧とそれを助長する社会的な仕掛け、作者の彼らへの援助的態度であろう。森岡氏が「私はこの本で、自分のことをたくさん語り、極端な仮説をたくさん提唱した」と書いているように、仮説に賛同・異論を唱えようと思えばそれなりにある。しかし、合理的な論述は、素人の私では限界がすぐそこにみえそうだ。そこは専門家にお任せすべきと判断した。それでも同病相憐れむという言い方が適切であるかは別として、心情的な面や意見・疑問などを表現しないではいられないものが私にはあるらしい。論述以外の意味を持つ表現方法をつきつめていったところ、「私の体験を話す」こと、つまり事例提供に至った。結果的には森岡氏の「自分のことをたくさん語る」の追従に近くなってしまったが、私の理由はそういうことである。意見などを持ちながらも、原則的には「意見」「価値判断」などは挟み込まないようにして、自己洞察を加えた体験をひたすら書くことにした。「感じない男」と私の事例の対照から何かが見えてくると考えたからである。何かの解釈は読んだ方に全てお任せすることにした。
 私の「オーガズム不全」(註)の因果と改善の経過を中心に語るのだが、カウンセラーやセックスセラピストの関与は私の場合はない(職能の否定を意味するものではない)。オーガズム不全にしぼった解決策や技法的なことについて書いたものでもない。視点は個人的に心理臨床系の勉強をしてきたので、それを参考にした「アイデンティティ」「セクシュアリティ」「オーガズム不全」の関連である。
 ちなみに私は男ではない。普通の個人的体験かもしれないが、何かのお役にたつならば幸いである。

〔セクシュアリティの基盤〕

 三好達治の「朝はゆめむ」という美しい詩がある。
 詩にはあまり親しまない私だが、なぜかこの詩だけは記憶していた。高校の授業で知ったものである。詩句はよく覚えていなかったが、そこから浮かんできた私だけの情景を記憶していたのだった。満開を過ぎた桜、風に花びらが散るその下を、セーラー服の高校生が二人、楽しそうに話をして歩いて行く。時々小さな笑い声がこぼれる。私は桜の木の上の方からそれを眺めている。何と美しい光景だろうと感慨にひたっている私は、同時にその女子高生の一人であった。その私は優しくさわやかで、それでいて少し憂いをかもしだしていた。それが当時の私の自己像であった。
 高校生の私はボーヴォワールの「第二の性」などを読むような子で、周囲にみる女子高生と既に目立たない一線を画していた。母親のネガティブな面が気になる時期とマスメディアからの女の不遇と愚かさの情報が合わさって、私は女の生き方に疑問を抱いていた。一方で知的で社会的な男子高生に強い憧憬の念をいだいていた。当時のボーイフレンドが太宰治の「桜桃忌」に行くような人だったことにも影響を受けたかもしれない。私は男性的な要素を憧憬だけではなく自分に取り入れて大人への道を歩みだした。
 セクシュアリティにつまずいてしまった私をそこにみてとることができる(そうなるべき伏線は乳幼児期からあるが、ここでは触れないでおく)。男性的な面が強調された私がつくられる一方で、「清らかな私」への執着のようなものがみえる。但し、これは見た目の姿ではなく精神性をイメージしたものだと思う。確かに私は高校生のときに「外見はやがては朽ちていくもの。私は女ではなく人間として素敵になろう」と決意していたことを記憶しているからだ(女と人間が分裂している)。決意を促したのは私の身体の劣等コンプレックスである。明確に意識していたことは「毛ぶかさ」だった。今思えばたいしたことはなかったと思うが、当時の私にはしんどかった。鏡に写った顔をみながら、「こまめに手入れしていれば滑らかな素肌は保てるかもしれないけど・・・ああしんどい。女らしい美しさなんてきりがない。そこまでして男にもてたくはない。何で女は外見なのだ?そんなことを気にしない男の子もいるはずだ。」とつぶやいていた。この年頃に身体的アピールするのが生物学的に自然だとすれば、私は不自然な方向にいった。現象的には身体性の無関心という形で現れた。性的な欲求と、感覚全般の感受性が低下していった。但し、性という生命の根幹的なエネルギーは押さえつけられる代物ではないから、姿を変えてうごめき長い間私を翻弄していった。
 その頃の私は、成熟した女になる前の特別な時期にあったのだろう。例えば蝶になる前の繭に護られたサナギのような。普通ならばある時どこかで何かの導きによって、そのサナギは蝶に成長するはずだった。しかし私は恋をしても、結婚をしても蝶にはなれず、四〇代まで待たなければならなかった。
 だからなのか(?)私はいわゆる普通の容姿の部類だったが、ある傾向の男性から好意・好感をよせられる一つのタイプとなった。想像の域を脱しないが、性の匂いのしない清純な印象、明るく依存的でなく理性的な私を素敵だと感じてくれたのかもしれない。しかし身体性の無関心は男を惹きつけながら突き放すような現象を生んでしまった。身体を覆う服装には気をつかい、自分をそれなりに素敵に見せる工夫をしていた。自己像を反映する服装を選んでいたと思う(ミニスカート、ホットパンツ、ジーンズ愛好)。それでいて徹底したプラトニックを結婚相手の人までは通した。「簡単に落ちない女」とされていたわけである。高慢だったわけではないが、不自然さは否めない。学生時代の一年ぐらいだが、孤独なうちに引きこもるような状態があったからだ。

 二〇代半ばに恋愛結婚をした。

 そして四〇代で離婚をした。

〔セクシュアリティの変化〕

 離婚までの経過は省略するが、簡単に言えば、高校生の頃に形成され始めたアイデンティティが崩壊する過程だった。なかなか凄かった、最後はガラガラと自分が崩れるのだからね。
 話は離婚して少し落ち着いた頃から始めたい。
 私は「オーガズム不全」について始めて考えるようになった。婚姻中からそのことは薄々気づいていたが、直接的な支障を感じなかったので放置していたように思う。オーガズムに至らない以外は問題がなかったからである。但し、夫の要求の応じ方という点からは、少しずつ問題に結実していった感がある。それを「オーガズム不全」との因果関係で考えることは当時としては困難だった。子供をかかえて共働き、とにかく忙しかったからだ。ただ、夫婦関係最悪のときに夫に一度だけ「不感症なんじゃない?」といわれてショックを感じていたので、やはり認めたくないものがあったかもしれない。客観的な知識をまだ得ていなかったので、「異常」という名の脅威を感じたのかもしれない。
 残念ながら離婚してから、大きな問題に発展する原因の一つであったと認識したのである。そしてこれは私の女性性の問題であり人間形成の課題であると解釈したので、離婚後ではあったがこの問題を考えるようになったのだ(離婚の原因は双方という前提になっている)。
 自分が「オーガズム不全」であると判断したのは、カプランの「ニュー・セックス・セラピー」からの知識を得たときである。この時は大波小波をさんざんくぐり抜けて、少したくましくなっていたので、ショックはなかった。事実を知ってほっとした感がある。「ああ、そうだったのか」と。問題は「オーガズム不全」とどのように向き合うかであった。オーガズムを体験してみたいというのが、とりあえずの人情というものだろう。その時は性的欲求というより好奇心(探究心)という原動力が大きく作用していたと思う。それで原因や改善の可能性についていろいろ考えてみた。その中のひとつ、小説家的考察というのを話してみたい。
 私がオーガズムを得られなかったのは、リラックスできなかったからかもしれない。理由は私自身にもあり相手にもあったが、相手を変えればリラックスできるのだろうかと、想像をはたらかせてみた。五才以上はなれた年下で(高校生は考えられない)、優しい感じであまり暗くはなく、それほどしっかり物ではなく知的というより感性的。一言でいうと性格の穏やかな子。「○○ちゃん、あれとってー」と甘えられる雰囲気がある。人生の経験や知識、経済力などは私が上にあり、リードできる立場をもてる。このバランスで私はリラックスすることができ、相手に性的に開放的になれる(ような気がする)と思った。
 なるほどと思った。昔から年上を異性として意識しない傾向があり、年下には抵抗感がなかった私だが、それに拍車がかかっていることがわかった。かつては対等な関係を望んでいたので±3歳ぐらいでよかったが、この頃は自分が上(支配的)にならないと安心した関係をつくれなくなっていた。いかに自信を失っているのかが映し出され、今の自分を直視するのに大いに役に立った。自信喪失のときは相手がだれであってもだめだろうと、おおよその想像がついた。だから、願望は自覚していたが具体的な行動を起こす気にはなれなかった。
 それにしても、支配―被支配の関係を望む私がいることを発見して驚いた。離婚の回復初期だったので無理もなかったかもしれない。孤独との対峙ができていなかったので、その不安感をまぎらわす何かが必要な時期だったようだ。それとオーガズム体験願望(好奇心)が結びついていたのだろう。
 支配―被支配の心理については興味深い体験もした。
 そのころ私は自宅の庭の造園を趣味にしていた。庭の中では私は思い切り自由になることにしていた。他者の価値観を考慮せず私の思うに任せた。やりたいようにやろう。切りたいと思った木は「かわいそう」などといわず切る!邪魔になった花は「かわいそう」といわず捨てる!「この世界だけは私が支配する権利が許されているのだー!」という具合。この開放感は大きかった。始めての体験だったかもしれない。それまでの私は「素敵な人間」をはき違えて解釈していた。ネガティブな感情や認識を無意識に排除していたのだ。「このクソヤロウ!」と感じてしかるべき時にも、たぶん笑っていたのだ。おかげでいい人になって好意を持たれたけど、己に対しては自虐行為になっていたのだ。この時は、ネガティブな感情を引き受けられるようになっていたので、「支配したい私」の表現を許すことができたのだろう。
 何かに対して支配的になれるのは気持ちがいいものだ。自由とか開放感として感じるからだ。人間を相手にこれと同じことをしている人々がいるが、彼らの欲求の存在を問題にするのではなく、向ける対象を問題にすべきと思った。私はそのような支配したがる人と同じレベルにいたので、その時は一方的に非難することができなかった。
 人間に対してはどんな時も支配者になりたくないと考える私は、他のもので支配的になれる場が必要だった。それをギリギリのところで(私が)許した対象が、その時は植物だった。なにか鬱積していたものが放出されていくのが実感できた。ドロドロしたエネルギーが、体を動かしながら自由に表現する作業によって何かに変質していくようだった。たぶん好奇心の満足感も得させてくれたと思う。年下に対する支配性のある恋愛願望は、こんなことの影響もうけて消えていったのかもしれない。
 面白いことに、庭の支配者だった私はやがて庭と友好的関係に変わっていった。支配による開放感を必要としなくなったということらしい。

 それからしばらくして、私はかなり年上の男に関心が向くようになった。この時は何か感動に近いものがあった。今までこんな風に男性に甘えたい感じを体験した事がなかったからである。五歳以上離れた人には異性を意識したことがなかった。
 この頃になると恋愛願望に加えて性的欲求を強く感じるようになっていた。体験したことのない欲求不満を知ることになった。「なるほど、思春期の男の子はこんな感じかな。大変だね。だからスポーツなどに熱中するのかな。」と余裕のあるところをみせていたが、ストレスには違いなかった。成人男性はその欲求を吸着する装置がいたるところにあるが(良し悪しは大きな問題)、私の場合はあらゆる角度から解消は困難にみえた。不倫でも出会い系でもと手段を選ばないなら別だが、私は選びたかった。でも、フラストレーションがつのると条件を下げて出会いの可能性をトライしてみたくなった。その間を繰り返すうちに、私の中の何かが動き出す、駆動する感じだった。「欲望にはきりがないぞ。それが得られなければお前は不幸か?そんなことはないはずだ。日頃からお前は、明日の食べ物の心配をしない幸せ、子供がいる幸せ、様々なことに感動する幸せといっているではないか。何をそんなに欲張るのだ」という声が聞こえてきた。欲求というのはあったらあったで面倒くさいものだ。若いとき体験しそびれてしまった課題を私は今やっています、そんな状況にみえた。少し葛藤して、少し抑圧して、少しごまかしながら、なんとなく運を天に任せるような気持ちで日々を送っていた。
 不思議なエピソードをひとつ紹介したい。そんな不安定を漂っていた時に遭遇した話である。
 離婚して二年ぐらいたった頃、私はある男性を思い出すようになった。学生時代のサークル仲間のT。包容力があって暖かいというのが彼の印象である。ベッドを伴にすればきっと自分は溶けてしまうだろう、そんなことを連想させる人だった。が、一方で自分の考えや生き方があいまいでひどく物足りないと感じる面もあった。成り行きでTとは何もなかったのだが、お互いに気になっていたことは確かだった。私が気になりながら踏み切れなかった理由の一つは「溶けたいけど溶けるのが怖い。私がなくなってしまいそうで怖い」からだった。その頃の私は堅い殻で身を守っていたから当然だろう。
 それから二五年もたってそのTの思い出が甦ってきた。とても会いたかった。会って伝えたいことがあった。「あなたの事が好きだったけど怖くて正直になれなかった。寂しい思いをさせてごめん。」これを伝えることが出来れば、過去に結着がつくと確信していた。でも既婚者に連絡をとるわけにもいかないから、諦めていた。ところが、ある年突然にTから年賀状が届いた。私の離婚を風の噂に聞いたからという。そこから交流が始まった。数ヵ月後、遠隔地勤務のTを訪ねた。彼は私に甘えるという体験をさせてくれた。そして「オーガズム不全」が改善したことも彼によって実感したのだった。いろいろ事情があってまもなく別れたが、運命というものの不思議を感じたのだった。
 このことがあった後、私は甘えたいという願望を強く意識しなくなった。たぶん新たな状況に入ってきたのだと思う。

 「オーガズム不全」について考えていた頃だったろうか、私は凄まじいアイデンティティの崩壊の果てに鎧のはずれた私を経験するのだった。世界が変っていた。全てが美しく愛おしかった。ちょっとしたことが嬉しかった。絵の見方や音楽の聞こえ方、味覚まで変っていた。自分の体に今までなかった実体みたいなものを感じた。このキラキラした世界に覚えがあった。子供の時の私はこんな風に世界を楽しく感じていたことを。心が軽やかだったことを。そしてその世界が小学校高学年まではあったことを。
 この頃、私は明け方に下腹部の不思議な快感を経験するようになった。やがてあの部位から来る感覚だとわかった。その後自慰の快感も確認することができた。青年期からの身体性の無関心の話は既にしたが、私は例えば自分の性器に対しても無関心であった。その証拠に私は自慰行為をあまりしていない。鏡に映った体にうっとりすることもなかった。アイデンティティの崩壊によって私の何かが変った。そのことで身体の感覚が戻り、世界が実感できるようになり輝きを感じたのだろう。そして現象(症状)として現れていた「オーガズム不全」も改善していったのだろう。年上の男に甘えたいと思うようになったのも因果的ではなく、同時に生じてきたと思われる。

 アイデンティティの崩壊によって変わった何かとは何であろう。それはどの様にして変容したのだろうか。部分的な説明にならざるを得ないが、当時を振り返って書いてみたいと思う。
 私は「私を意識していない状態」をひどく恐れていた(勿論無意識でだが)。SEXの時、リラックスして私を理性的状態から開放させることができなかった。溶けることが怖いとは、そういうことだろう。今でも覚えているのだが、小学生の頃誰にも寝顔を見せないようにしていた自分を変だなと思ったことがある。その感覚を覚えているのだが、周囲に警戒心が働いて意識のない自分を見せるのが不安だったのだ。いつの間にかそれはなくなっていたので安心していたが、たぶん形を変えて続いていたのだろう。自分のことは何でも自分で解決するしっかりした女の子というのは、誰かに頼ったり甘えたりすることを許されなかった子だ。何処かでいつも気を張って生きていた。その原因の一つは三才離れて妹が生れた時、両親の川の字のまんなかにいた私が祖母の部屋で寝かされる事になった時の認知と傷だろう。私は祖母を好きではなかった。そこに追いやられたのだからさぞかし辛い体験だったであろう。幼少頃から怖い夢をよく見ていたが誰にも話した事がなかった。けなげに一人で悪夢と立ち向かっていた。たまに父がいない時があって、その夜だけは父の布団で母と妹の三人で寝たのだが、それがどれほどの幸福感であったことか。私の「夏休み」のイメージは、小学校低学年の「両親の部屋で昼寝をする時の至福」に尽きる。友人と川で泳いで帰ってからのお昼寝。まだ青い水田からサラサラとわたってきた風を頭に感じ、北の窓に木々からこぼれ落ちる光を額に感じ、私は父と母の部屋にいる。この至福というにふさわしい感覚を今でも忘れてはいない。ひるがえれば、そこにしか安心を得るところがなかった子供時代だったのだろう。
 以来私は他者から可愛がられながらも、自我の強い子として心理的には一人で生きてきた。これは回復過程で自己洞察によって始めて認識したことだった。たかが認識かもしれないが、回復の助けになっていた。それを証明するかのような体験をこの後ですることになる。この認識が準備されていたからこそ可能な体験だったと私は思っている。
 この認識を心の深いところで実感したのは、映画「海の上のピアニスト」を観たときである。主人公である孤児のピアニストに自分が重なってしまったのだ。客船で孤児として生まれ育てられた彼は成人になった時、客船から降りて地上で暮らそうとしたが降りる事ができなかった。そのため最後は老朽化で爆破される船とともに死を選ぶという話である。私はいわゆる普通の家庭に育ったが、心理的には一人だった。彼の気持ちに共鳴し彼に涙を流した時、意識の下のほうから子ども時代の私の姿が湧きあがって現れてきた。独りで頑張ってきた私、誰ともつながれなかった私。いつも理解されたいと願っていた孤独な私。愛されたいから良い子にしていた私。そんな子どもの私が映画の中の一シーンとして現れてきた。涙は子どもの私のために流れていた。私は一人ぼっちだった子どもの私を抱きしめてあげた。私は物心ついてから始めて深い理解と情愛で抱きしめてもらったのだ。何かが氷解していくような暖かさを感じた。たとえそれが自分自身によるものであったとしても。いや、むしろ他の誰よりも自分自身が自分を理解し受け止めてあげることの方が大切なのかもしれない。私は心をこめて言ってあげた「あなたはとても素敵な子よ、いい子で頑張らなくていいよ、あなたは愛されているよ」。
 新しいアイデンティティの形成の重要な一場面だったと思う。いろいろな形容ができよう。私は「自己肯定感」の基盤ができたと表現したい。表面的ではないあるレベルの深いところの肯定感である。
 安心感が生まれた。他者に理解されたという強い思いから解放された。人とつながるという感覚がわかってきた。以前にはなかった世界だった。
 このような自己肯定の基盤ともいえる体験をもとに前述したような経過が、ダイナミックに展開され、オーガズム体験はその一つとして現れたものだろう。

〔新たなセクシュアリティ〕

 私が「女」になったのは、いつだったのだろう。現象として現れたのはキラキラした世界、身体感覚の復活、男の人に甘えたい感情とオーガズム体験、その頃であろう。それからしばらくたってから不意に込み上げてきた言葉があった。「私は女という性の元に生まれたのだ。それが私の宿命なのだ。」涙がこぼれてきた。

 誤解を恐れず端的な表現を使えば、私にとって「女」になったとは「受動性」を受け入れたことである。ここでは「受動性」に受けとめる、包み込む、許す、育むなどの意味をもたせた。甘え、甘えさせるもここに含まれるだろう。母性という表現でもかまわないかもしれない。カール・ロジャーズの愛の定義「愛とは、深く理解され、深くうけいれられることである」を引用すれば、「深くうけいれられる」に相当するものだろう。つながる感覚もここにはある。これらは非常に情緒性をおびているのも特徴だ。乳幼児、子供、生徒、学生、部下など人を育てる時に重要な要素の一つでもある。こうしてみれば「受動性」は男女に関係なく必要な性質だとわかる。ロジャーズに限らず愛の定義に男女差をつける人を私は知らない。私の場合はさまざまな理由で「受動性」が適切に発達してこなかったということだ。絶対的な問題ではなかったかもしれないが、何かに導かれてこんな経過を辿ったようだ。
 少し話がそれるが、「受動性」をもって「女」になったという言い方に疑問を感じられたかもしれない。愛に男女差がないというならなおさらである。具体的場面の話ではない、究極的には「受動性」が女の身体性に自然な性質であるという実感から、「受動性」を受け入れたことを「女」になったと表現してみた。ジェンダー問題との関連では、今はあまり関心がない。私は学者ではないから、自分の生き方に確固たるものが持てればそれでいいのではないかと思う。今までたくさんの学問的栄養を取り込ませてもらった。迷いながらの四十数年だったが、だいたいこんなところでいいかなと思えるようになった。

おわりに

 高校生の時の「知的で社会的な男子高生に強い憧憬の念をいだいていた。私はその要素を憧憬だけではなく自分に取り入れて大人への道を歩みだした。」から、私は「能動性」優位、「受動性」劣位が顕著になった。社会に出て仕事をするには都合のよい性質だった。しかし子育ての結果がみえ始めた三二才頃、私は自分の内外に「ないもの」を感じた。それは凄く大切なもの、人間として大切なものと直感した。「ないもの」だから言いようがなかったが確信があった。そして「ないもの」を得るための苦難の道を歩む覚悟をした。自分のためではなく大切な人のためにその道を選んだ。それから約十数年して私は「ないもの」を得た。得るために多くの喪失と犠牲があった(離婚と専門職を手放したことを言うだけで十分であろう)。それでも後悔がないのは、「ないもの」の方が「失ったもの」より大切であることに迷いがないからだろう。それを証明してくれるものがあるとすれば「子供たち」の証言ではないかと確信している。
 どのような「ないもの」も、それを得たときの世界は獲得してみないとわからないかもしれない。多くの「モノ」を失った私をみて気の毒に思う人もいるかもしれないが気にならない。そのかわり若い頃にはもてなかった「感謝」「幸福感」「親密感」などの精神的な安定性がえられているからだ。もちろん問題がないわけではない。人並みに悩みはつきない。かっこよく生きているわけでもない。それでも以前よりはよい。新しい私は始まったばかりだから、あと一〇年たってみないと何ともいえないとも思っている。凡人の充実した生き方というものを探っていきたいと思う。

謝辞

 桜のイメージから始まった長い話を読んでくださりありがとうございました。
私に好意をもって接してくださった全ての方々に深い感謝をしています。絶望の淵を彷徨っている時に私を救ってくれたのは「他者から受けた肯定の記憶」でした。

 私が森岡氏の存在を知ったのは、わずか二ヶ月ほど前です。「無痛文明論」はとても魅力的な本でした。今回の「感じない男」は私にとっては二冊目の本になります。好悪、是非は別にして私は何かのエネルギーを感じて今回の事例を書いてみました。そしてこのような形で他の方にも読んでいただくことになりました。
 機会を与えてくださった森岡正博氏にこころからお礼を申し上げます。
 

(註)女性については「不感症」ではなく、「オーガズム不全」の用語を使用する。下記の説明に則る。

ヘレン・S・カプラン 野末源一訳 「ニュー・セックス・セラピー」 一九九一  星和書店  
●四〇五頁
 「不感症(frigidity)」という用語の意味の曖昧さがある。「不感症」という用語は現在、性反応と性的感情が全く欠如している場合から軽度のオーガズム抑制にいたるまで、性反応抑制のあらゆる形態に用いられている。(中略)マスターズとジョンソンは「不感症」のかわりに、軽蔑的でなくより正確な「オーガズム不全」という用語の使用を主張した。さらにそれを三つの診断区分「絶対性(absolute)」「不定性(random)」「状況性(situational)」に細分類し、それらも一次性と二次性に区分した。
●四〇八頁
 (著者は)女性の性不全を四つの異なる症候群――全般的性不全(general sexual dysfunction)、オーガズム不全(orgasmic dysfunction)、ウァギニスム(膣けいれんvaginismus)、性無感覚症あるいは転換(sexual anesthesia or conversion)――に区分するのが有効だと考えている。

 

青柳澄「「オーガズム不全」だった私からのメッセージ」
『生と死のエッセイ集』四二〜四九頁 kinokopress.com
二〇〇五年四月一日刊行