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母から受け継いだもの、受け渡していくもの
自己肯定から全肯定に至る道標


青柳澄


kinokopress.com にて、縦書きで快適に読めて、美しく印刷できるPDFファイル(頁数付き)を公開中。ぜひご覧ください。

はじめに

  このエッセイは既出の「オーガズム不全だった私からのメッセージ」の続きとして書かれたものです。
  そこでは「受動性」「深くうけいれられること」「母性」などで表現されるものを獲得して自己肯定が促され、私が新しい境地に入ったことを書きました。
  今回はその後で起きた更なる自己肯定の体験を皆さんに聞いていただきたくて、事例にまとめてみました。
  舞台は発症から他界まで軽重あった母(70才)の闘病の約三年間の介護現場です。ただ、過酷といわれる介護体験がなかったわけではありませんが、テーマの関係上、直接的な介護体験にはあまり触れてはいません。精神的な面のみを抽出したかたちになっています。実際、私の最大の苦労はそこにあったと思っていますが、重い介護度の期間が短かったせいもあるのでしょう。
  介護など出来ればしたくないし、されたくないものですが、するしかない、されるしかないとなったら、とことんそれを生きてみるのも悪くないかもしれません。私の体験談はそんなケースを話してみたいという思いも少なからずあったかもしれません。
  或いは、前出「心理的には孤児のようだった」と回想した私が、最後にやっとの思いで母に会えたお話しをしたかったのかもしれません。
  いろいろなことが含まれていると思いますが、最後まで読んでいただければ嬉しい限りです。
  尚、固有名詞などは匿名を使用することにしました。予めご了承ください。

1 在宅介護でわかった母の自己否定感

 母の介護に割く時間は徐々に多くなっていったが、物心両面で介護がきつくなったのは他界するまでの半年間だけであった。それまでの二年半というのはどちらかといえば精神的ストレスの方が大きかった気がする。私たちは自分でやれていたことを人に頼らざるを得なくなると、その質と量の変化によって受ける困難も変化する。それは頼られる側も同じであろう。介護者が娘といえども、元看護師といえどもやはり大変ではあった。
  介護の始まりの最初の一年間は、母はパートを辞め、小旅行などの婦人会の付き合いができなくなり、生活の場が家の中だけとなって、かなり活動範囲が狭まってきていた。しかし、身の周りのことは出来ていたし、台所にも少しは立てていたので好きなものを作って食べる楽しみは残っていた。遊びに出たいと言わなければ、言葉でお願いをしなと困るのは買い物と通院、美容院ぐらいであった。
  その後の二年間は、歩行能力が徐々に低下していくに従って、依存度が高くなっていった。トイレ以外は座っているという生活が続いた後、やがてトイレに行くのがやっとという状態になり、最後の3ヶ月はベッド上生活となった。二年間に入院を4回、延べにして3ヶ月間ほどしている。一回は心臓の手術のための入院であった。訪問診療、訪問看護、訪問リハビリは入退院を繰り返したこともあって、延べ1ヶ月間ぐらいであった。
  この間、幸いにも人格的な変化はあまりなく、会話で苦労することはなかった。だが、母のあまりの消極的な姿に私はとても戸惑った。やがて私が「自己否定感」と見立て、対応をすることになった母の特徴的な性格傾向である。
  辛うじて介助で歩行外出が可能な時、私は母を散歩に誘ったものである。しかしおおかたは断られていた。花が好きで、食べることを楽しむ母のことを思い、事前にあの手この手を考えて誘いをトライするが、めったに応じてはくれなかった。確かに利尿剤を内服していたので午前は頻尿になり大変だったであろう。またそういう時は電解質のバランスが微妙にくずれるなどして、だるさがあったかもしれない。だがそうしたこと以上に母が気にしていたのは他人と会いたくない、他人から見られたくないということだった。
  それは、生活行動レベルが下がるに従って対象の範囲が広がっていった。近所、親戚は元より、今まで仲良く付き合ってきた婦人会の人たちの見舞いも避けがちになった。医療関係者とのコンタクトもぎこちなさがあって、私の目からは不利益が生じているように見えた。母と人々との間には、緊張感の漂う距離のようなものがあるようだった。そんな母を見ていて、私は母がひきこもりたがっているのだとわかった。いわゆる「ひきこもり」という言い方がぴったりくると思った。
  私は母が「自分はみじめだ。自分を分かってくれる者はいない」と思っているのではないかと思えてならなかった。母からみれば世界は無理解で不寛容で危険なものに映っていたのではないだろうか。病気になることそのこと自体が駄目で惨めなこととしてみる世間の目を母は感じていた。障害が惨めだという世間の目を母は感じていた。個より世間を優先せざるを得ない背景に生きてきた母が、自身の価値基準ではなく世間の価値を自身に同一化していたとしても無理からぬことであろう。世間が母にとっては世界。だから母は病気と障害をもった自分を否定する世界から自分を守るために家にひきこもる必要があったのではないだろうか。
  この様な状況の中で私は介護の目標というものを立てた。母に何かをしてあげられるのはこれが最後だろうと意識していた。だから後悔したくなかった。そのためには母が望んでいることを見極めなくてはならなかった。母が一番望んでいることを叶えるために、私が心に留めておくべき目印、それが「介護目標」である。
  「自己否定感」というキーワードから、母が一番望んでいることは安心感を得ることであると私は判断(アセスメント)した。私は介護計画の目標を「母を受け入れていくこと、私が母のお母さんになろう」にした。こんな高い目標を掲げてしまい不安もあったが、それが母の望みと判断した以上はやるしかなかった。
  具体的には、訪問看護や訪問診療、在宅リハビリなど他人との関わりは、本人が仕方ないかなと思う事態が生じるギリギリまで入れないようにした。導入時には安心のためにかなり丁寧な説明を私がした(私は在宅看護5年の経験がある)。本人が納得できないことはどんなに良いことでもこちらの判断だけで実行しないようにした。どうしても必要な事柄は出来るだけ母が自ら了解を出せるように段取りを工夫した。
  例えば、清潔援助などを億劫がってやらせない時は、「そうだね、疲れているから嫌だよね。」と母の言い分を受け入れた。状況をみてこれ以上の留保は問題だなと判断したら、母が了解を出し易い状況のセッティングをした。トイレなどに立った機会を狙って、準備万端にしておいて、ベッドに戻ったところで「そのまま座っていてね。すぐ終わるから」と言いながら了解のサインを確認して、手際よくやってしまうなど工夫した。出来るだけ理屈で説得しないことが肝要だった。
  このやり方は介護者のペースでやるのに比べるとひどく効率が悪い。結果的には清潔のレベルが下がる。清潔に限らず全てにおいての一貫した対応であるから、必然的に医学的看護学的水準が下がってしまうことになる。具体的実践は想像以上に骨が折れた。
  一つには、社会が一般的に認めている価値に逆行しているからである。見舞いや診察、訪問ケアーなどで母の一瞬だけに関わる人からみれば、長生きを願わないで、身の回りの世話を怠る愛情の薄い家族にみえないこともないからである。だから、自分の考え方(アセスメント)に確信がないとやっていられなくなる。「さすがはもと看護婦。よくやっている」と世間から評価されたいもう一人の私が、すぐそばで常に隙を狙っていたのである。
  それだけではない。介護目標への歩みの足を引っ張るものは他にもいろいろあった。だが結果的には、それらとの苦闘が私の新たな境地へ誘ったことになった。

2 母のお母さんになれた

 私は40歳近辺でいろいろな事情があって仕事をやめた。その時に母の老後を見てあげたいという思いが強くなり、家族で実家の近くに転居を決断した。大都市から地方への転居はそれなりに大がかりとなり、様々な混乱もあった。だが、それを待っていたかのように母が要介護状態になったので、決断してよかったと思うことができた。
  ところが予想していた以上に事はうまく運ばなかった。介護制度や医療機関の一般的問題、私自身の資源的問題などもあったが、最大の困難が親の夫婦関係にあったからである。これにはずいぶんと涙を流してきた。泣きながら受け入れていくしかない困難だったようにも思う。
  つかまりながらやっとの思いでトイレに歩いていく以外は、一日中座っているか横になっている生活になっていた時のことである。
  母は花がとても好きだった。庭の手入れも楽しみながらよくやっていた。だから部屋の中に花が絶えないように、実家に行くときに鉢植えなどを買っていくのが私の楽しみでもあった。
  ある日、母が言った「もう買ってこなくてもいいよ」と。私はびっくりしてなぜなのか尋ねてみた。父に花の水やりをお願いするのがとても苦だからというのだ。頼めばやってくれるのだが、いい返事をしたことがない。だんだんと頼みづらくなってきたという。
  こういう話もあった。母がテレビに関心が無くなってきている気がして「テレビ面白くなくなってきた?」と尋ねてみたことがある。母曰く「観ていても、(夫が)勝手にチャンネルをかえてしまうからつまらなくなった。文句を言ったけど、その時いいだけで、後はまたその繰り返しだから」
これらは母と父の関係を語るための十分条件となりうるエピソードのように私は思う。こうした話がザクザクと出てきそうなくらい、この夫婦にとってはあまりにも日常的なことなのである。
  父は母に対して実に無理解で不寛容であった。そして私たち子どもにも同様であった。母と私たちはそのことを分かち合うように知っていた。狭い社会で暮らしてきた母にとって、もしかしたら世界が夫婦の関係によって基礎づけられ、夫婦の関係が世界を基礎づけるという関連があったとしても不思議ではない気がした。
  母があまりに気の毒なことと、父の身勝手さに我慢しきれず、最初は父と口論になることもしばしばだった。そんな時の帰途は、母への哀れみと父への怒りと自分への失望感の入り交ざった後悔で、ぐったり消耗していた。そしてよく泣いた。母を思い泣いた。それを何度も繰り返すうちに、私の努力が方向違いであることに気がついた。それがかえって母を追い詰めることになっているとわかった時に、転機が訪れた。
  その前後位から、私は母の人生というものについてよく考えるようになった。嫁いでからの母は誰かに大切にされたことがあったのだろうか。誰かに認めてもらったことがあったのだろうか。誰かに誉めてもらったことがあったのだろうか。母は独りで困難と苦闘し、子供のために生きてきたのではないだろうか。紛れもなく一生懸命に生きてきた。だけれども自己否定感は超えることができなかった、そういうことだったのではないか。
  そのころに聞いた母の回想から、印象的だったものを二つ紹介したい。
  予後があまり良くないことを誰よりも悟っていた私は、早くから母に昔の話をしてもらうようにしていた。興味深かったのは、やりたいことがあったけど夫に反対されて出来なかったという、悔恨の混じった夫批判の数々であった。特に生活が安定してきた時に、車の免許をとりたかったけど夫に反対されて諦めたという話は示唆的だった。反対の理由は「運動神経が鈍いから危ないのでやめろ」だったそうだ。確かに運動神経を自慢している父からみれば母の運動神経は鈍くみえたであろう。しかし運転は運動神経だけでするものではないし、母は普通の運動能力はあったのだから、父の言い分に対する反論の余地はあったはずである。母もその位は考えていたらしかった。しかし、もしも事故を起こした場合の、夫の否定的な反応「やっぱりだめだ」を予想するとそれ以上進めなかったという。
  それ以外にもことごとく自分の可能性を否定してきた夫をなじりながら話しているうちに、母が何かに気づいていくような表情を私は察知した。
  父の無理解だけではなく自分自身の弱さがあったことに母は気づいたのだ。
  それから後に、このような意外な話もしてくれた。
  母が高校2年の時に一番下の妹が生まれた。兄弟が多かったため経済的な理由で父親は母の退学を考えていて、たまたま母がそれを耳にした。勉強が面白くなっていた時だったので、母はどうしても高校を中途退学したくなかった。その一心で、自分でも意外だったが、母親に口添えを懇願した。結果、もっと驚いたことに父親がそれを聞き入れてくれて、勉強を続けることができたのだという。
  話し終わってから沈黙があった。母が何かを感じているらしかった。私はそれを読み取ろうとした。
  自分のやりたいことがあって、そのために親を説得までして、やりたいことに挑戦した自分があったことを母は思い出したのだ。恐れを前にしながら勇気をだして立ち向かった、誇りにしたいような過去があったことを思い出したのだ。
  私は母に感動していた。こんな状況にあっても自己を見つめることができる素直な母に誇りを感じていた。母を尊いと思った。
  同時に、母の話をただひたすら聴けるようになった私を確認して、私は嬉しかった。少し前の私なら母と一緒になって父をなじっていたかもしれない。或いは、母の弱さを指摘してしまったかもしれない。何かを言いたい気持ちを抑えながらであったとしても、話しを聴けるようになった自分を誉めてあげたかった。
  母の自己否定的態度や回想を聞くうちに、私は今まで抱いていた母の人間像を変えざるをえなくなっていった。
  母の立場になってみると、結婚してからこの方、父の「無理解と不寛容」に真っ向から戦うことは状況的にみてかなり厳しいものがあっただろう。少なくとも子供が経済的に自立するまではリスクが大きすぎると思われた。ここまでは私が生きてきた時代との違いを見せつけられる思いがする。女性の経済的不利な状況とジェンダーによる価値観の拘束は、個人の問題以上に女性の生き方に制約を与えていたと思えた。だから私が母に問うてみたいのは、自身がパートタイムで収入が得られるようになり、子供たちがそれなりに経済的自立をした頃、50歳近辺の母が何を思っていたかということである。
  離婚するかどうかは別として、父の「無理解と不寛容」と対決しようとは思わなかったのだろうか。心に何か空洞のようなものを感じなかったのだろうか。感じたとしたら、それとどの様に取り組んだのだろうか。この父とこの先まで夫婦でいることの理由を意識していたのだろうか。
  この頃には、母にも人生の選択の自由がある程度は許されていたと思えた。ジェンダーからの束縛も父や親戚からの束縛も、自分の力で解(ほど)くことが可能な時代になっていたのではないかと思えるからである。だから、もしも父の「無理解と不寛容」が不快で嫌だと思ったなら、父と対決するという選択もあり得たのではないだろうか。そうしなかったのは、それと等価交換的に得られるものがあったのではないか。例えば、経済的安定や世間体や寂しさからの回避、波風立たない生活などは実際に母が得られたことである。それらは全てにおいて母が悲劇的であったのではないということを意味する。今の夫婦関係はその時の母(と父)の選択の結果であるといえまいか。選択の迷いなどなく当たり前のようにきたという可能性もあるが、何も思わなかったとは想像できない。実際のところは本人に聞かないとわからないが、良いことも悪いことも含めて、そこで母の先の人生が枝分かれしていったことだけは、しっかりと見定めておきたいと思った。
  母と父の歴史を見定めた時に、私は夫婦関係から生じてしまう苦しみに対して、距離をおくことができるようになった。距離をおけた時に、わたしは母の娘ではなく、ただの一人の人間になれた。母の娘という関係性から離脱して、まるで母との過去がないかのようになった。すると、今まで私が慣れ親しんだ「優しくて子ども思いの悲劇の主人公」という懐かしい母が消えていった。代わりに、自己否定感で消極的なり、現実とかけ離れた認知ばかりする不安に怯える気弱な女性が私をみつめていた。
  この時から私は母のお母さんになれた。この夫婦の因果の全てを受け入れ、側にいて伴に泣き伴に喜びながら、ありのままを受け入れる母になった。
  何とか間に合った。私の介護目標はなんとか達成することができた。何もかもちゃんとできないことばっかりだったけど、一番してあげたいことだけはできたかもしれないと思えた。
  亡くなる数日前のことだった。私は病室で母の昼食介助をしていた。体力が落ちてしまい食事は全面介助になっていた。母はボケ症状こそなかったが、判断力が変化しているという意味ですっかり子供のようになっていた。その時はおうどんがおいしいといって嬉しそうだった。こぼれおちた小さなうどんの切れ端を手で拾おうとしていたので、「食べたいの?」ときくと、うんと頷いた。私は少し笑みを浮かべながら、拾って母の口の中に入れてあげた。二人で顔をみ合わせてニコッとした。その時、私は確かに母と繋がった気がした。

3 私の胸のなかの暖かい存在

 よくある話だが、母親を身近に見てきた子供は、母親の苦労の歴史を自分のことのように生き方の中に取り込む。私も母の介護をするまでは、そういう境地を生きていた。
  母親と娘の関係について、ある心理学者が4タイプに分けて説明しているのを読んだことがある。そういう分類に当てはめて書く方法もあると思うが、そうした概念を頭に入れながら、わたしは具体的な私の出来事について書いてみたいと思う。
  私は母について「暖かさ」というイメージを一貫して持っていたように思う。
  幼い頃、私は祖母に対して口答えばかりをしていた。今思えば、私は自尊心を傷つける祖母の過干渉と日々戦っていたのである。肝が煎れた祖母は、母に「おまえの躾が悪いからだ」と非難をする。母は私に「お前のせいで又嫌味を言われた」と、時には半泣きしながら私を叩いた。泣き声を祖母に聞かれると、又何を言われるか分からないので、寝布団の中に私を押し込めて泣き声が漏れないようにして、上から叩くのであった。痛さより、息ができない苦しさの方が辛かったことをよく覚えている。子供ながらに「私が祖母に口答えするから母が辛いめにあうのだ、ごめんなさい」と、少し母を恨めしく思いつつも反省をする。そういう時以外の母は優しかったから、どうしても自己反省的になってしまう。どこかで自分は悪くないと確信しながらも、口答えしてしまう自分を責めていたのである。
  こういう一面を持つ母だったが私はとても好きだった。実際、母は口数が少なかったがユーモアがあり子供のことを考えてくれていた。母にとって野良仕事に出るのは、姑から解放される目的にもなっていたようだが、そういう時は必ず店でお菓子を買ってくれて、それを野良に持参していくのだ。アイスクリームが10円だった時代というは、農家の嫁がまとまった現金を持たせてもらえなかったらしい。そのお金はたぶん実家の親からこっそり貰ったものであろう。私は畑でお菓子を食べたことを絶対秘密にしなければならないことを知っていた。それは母と子供の秘密の楽しみだったのだ。
  そんな母をすごく好きな自分を私は知っていたが、母に甘えたことがなかった。学校で困ったことがあっても、友人関係で悩んでいても、私は誰かに相談するということを知らない子供になっていた。小学校5年の時、一度だけどうしても困ってしまい、勇気をだして母に相談したことがあった。陰部のトラブルだったのでぎりぎりまで自然治癒を期待して、独りで心配していたのだ。それぐらい独りで頑張って生きていた子だった。
  学校では私は典型的にいい子だった。先生から可愛がられる優しくて従順な子供だった。その私が高校に入ってから、自分に反旗を翻し始めた。先生や社会や全てに反抗的、懐疑的になった。そして母にも反抗した。母の弱点を言いたい放題に攻撃するという、屈折した甘えを背景にした反抗だった。
  進路選択の時、私が最も重視していたのは経済的に自立できることと知的になることだった。今思えば、それは母に対する反抗と密接に関連した動機だった。
  私は都市部の看護学校に進学した。進学のために家を出てからは、実家に帰っても親と喧嘩をすることはなくなっていた。その後結婚してからは、出産の時には母に協力してもらうなどで母との関わりもあったが、離れて暮らしていたこともあって、普段は盆暮れに帰省した時ぐらいであった。
  時代背景があまりにも違うから、家庭生活のありようも母のそれとは比較できないものになっていたが、私が二人の子の母親になり親業の困難さにぶつかった時に、再び母の存在を意識するようになった。
  あれほど批判していた母だったが、一貫して抱いていた母の「暖かさ」のイメージが、私に何かを伝えるために詰め寄ってきたようであった。それはまるで「お前には何か大切なものが足りないぞ」と言いよってくるような切実な感覚があった。30歳を少し過ぎた頃であった。
  母の介護をすることになった時に、30才頃から始まった「なにか足りないもの」を得るための長い旅が、母の介護によって締めくくられる予感が私にはあった。「母のお母さんになれた」ではそれができたことを語れたと思う。ところがこれは予想していなかったのだが、母が亡くなって後に、30代から始まった長い旅の終着地点があったのだ。新たな次元に入ったと感じるものだった。
  介護については思い残すことがなかったのだが、母が亡くなって半年も過ぎた頃だろうか、捨て置けない気がかりが残っているのがわかった。時々脳裏をよこ切るあの日の情景。あれはあれで仕方がなかったと思いながらも、心残りで仕方がないと言っているもう一人の私。
  危篤の知らせをうけて母の病室に入ったあの日。酸素マスクをかけて朦朧とした意識の中で、私の声かけに「光子かい、わからなかった、わからなかった」と混迷している母。予後については誰よりも把握していた私だから、驚くことは何もなかった。でも、今までずっと言い出せないでいたことを言えるのは、今しかないのだと悟った時、私は混乱した。「言ってもいいのだろうか・・・。」
  私が意を決して、「お母さん、ありが」と言いはじめたそのとき時、それを遮るように母が何か言いながら怒り出した(ようにみえた)。
  そこで全てはおわった。意を決して言おうとしたことは砕け散っていた。
  そして私は心の中で母に詫びていた。今までもそしてこの時にすら母は「明日は元気になる」と信じている人だった。それがたとえ逃避であったとしても、それが母の希望だったのだから、最後まで受け入れてあげるのが私の役割のはずだった。分かっていたけど、最後に心から感謝して、自己否定的だった母の存在を全肯定してあげたかったのだ。でもそれはいけなかったね。ごめんね、お母さん。
  母とは二度と言葉を交わすことはなく、二日後に別れることになった。
  ある日、私はまたあの日に戻ってしまっていた。そして、ついにあの日に本当に言いたかったことを知ったのだ。私は二度と話すことができなくなる母に向かって、一度でいいから子供に戻って「お母さん大好き」と言ってみたかったのだ。母に甘えることができなかった子供の私の切実な最後の願いだったのだ。とたんに、ぼろぼろと涙がこぼれおちてきた。
  とその時、私は何か暖かい存在を胸の中に感じた。それは敢えて言葉にするなら「優しさ」という感じのものだった。そして情景が浮かんできた。私の記憶には残っていないはずの1〜2歳頃の幼い私を、若い頃の母が抱っこしている。それは優しさという感触があふれている情景だった。その直後に一枚の写真を思い出した。母が小さな私を抱いている写真が鮮明に浮かんできた。
  胸の中に感じた暖かい存在は、母がそこにいるような感じを与えるものだった。私はいつでもその存在に甘えることができるような感じがした。
私は母からとても大切なものを引き継いだように思った。りっぱでも何でもなかった母かもしれないが、一番大切なものを持っていた。それを母から受け継げたことが嬉しかった。
  これが私の今後の人生にどのように影響していくのかは、その時はよくはわからなかった。受け継いで嬉しかったものは、受け渡していかなければならないだろうと、ぼんやりと考えていた。

 この日以来、あの日の病室を思い出すことはなくなった。心残りはこんな内的経験を通って消えていったようだ。
 
  余談だが、この体験を書いていたら、急にミケランジェロやラファエロなどの聖母子像の名画が浮かんできた。引き続いて、何かで見かけたことのあるピカソの母子像画が浮かんできた。以前からピカソに興味があったせいか、私はピカソの母子像の方が好きだと思った。というか、もしも私が画家だったなら、民族や貧富、容姿の具象を消し去った母子像を描くように思った。するとピカソみたいになってしまうだろうと思ったのである。
美人画を否定してはいないが、私は美人女を表現に使ったものには魅了されなくなった。
  勿論、美形の男にも興味がなくなった。

4 知らなかった!母の秘密

 母が逝ってから三年が経過していた時の話しである。
幸いに「親孝行したい時に親はなし」という後悔めいたものは残らずに済んだようだが、「親と語らいたい時に親はなし」になってしまった事態が生じてしまった。
  実は母についての思わぬ事実が発覚したのである。私と弟がいつもの様に父の世間話のお相手をしていた時のことである。「あいつは(母のこと)可哀想だった。親の決めた結婚をしてみたら、相手に始めから好きな人がいて、相手にされず1年で出戻ってきた。俺のところに嫁いでからは病気ばかりしていたから・・・」と父が唐突に話し出した。私たちは突然に母の秘密らしきことを、しかもあまりに淡々とした流れで聞かされてしまったので「えっ、それって誰のこと?」と聞き返したかったのに、口篭ってしまわざるを得なかった。
  後で父に慎重に確認をしたら、母が最初の嫁ぎ先から出戻った時に、母の兄が父と高校時代の友人だったのが縁で、父が出戻った母を気の毒に思い結婚したということだったようだ。戸籍は母方の親戚が何らかの方法で離婚の痕跡を消したのだそうだ(当事はそういうことが可能だったようだ)。
  父と母の夫婦の歴史が、私たち姉弟と母の歴史と違っていることに驚かざるをえなかった。母との距離を少し感じてしまった。「そうだったんだ!母のことだったんだ。」
  父は男兄弟の中では末っ子だったが、長男が戦死をしていたので農家の後継ぎという立場にあった。7人の兄弟姉妹達は既に家を出ていたので小姑たちはいなかったことになるが、跡継ぎの嫁ということでは、その結婚に対する父の母親や(父親は病死)兄弟の関心が小さかったとは思えなかった。母が再婚であることは知らされていたというから、母自身に問題がなかったとしても、時代背景的にみれば母が「傷物」というニュアンスを持たれたとしても不思議はなかった。
  私の中に不安がよぎった。それで父にその辺のことを、例えば親族はあまり快く思わなかったのではないなどと穏やかに尋ねてみた。いかにも父らしく「特別なことはなかった」という返答しかもらえなかった。だが私は父のこの軽い調子に、かえって当時の重苦しい事態を慮った。父は母の立場をほとんど理解していなかったのではないか。むしろ不幸な境遇の女性をもらってあげた自分や親族に母は感謝して余りあると思って、歪んだ優越観を持っていたのではないかという危惧すら感じた。表向きは何もなかったのかもしれないが、水面下ではそれぞれの立場の人の無意識のざわつきがあって、それが時間と伴に澱み、やがてはスケープゴートのターゲットを作り上げていったのかもしれないなどと、寒々しい思いつきがよぎった。
  私がそのような推測をするのには理由がある。母は近所でも知られていたくらい厳しいお姑さんに苦労をしてきたからである。そして私がそれなりに大人たちの関係を見抜ける年頃には母と親戚の間に確執が見え隠れしていた。三歳下の弟を出産した時は、母は全く母乳が出なくなっていたという。三人目を死産して後に重い病気で入院して以来、後々まで慢性疾患での通院が続いた。病気のダメージは50才後半で総義歯になったことや早い閉経(40歳前半)からもその過酷さが伺える。それらは大きなストレスが誘引となって発症した可能性が十分ありえる。
  一度だけ母が言った究極の断片が全てを物語っていると私は思っている。「子どもがいたから死ねないと思った」と母は他人ごとのように言った。母が亡くなる1年ぐらい前であった。
  当時の嫁姑関係という困難は、周りの皆も似たり寄ったりだったであろう。それ故に共通の悩みとして社会認知されていて、例えば農村に組織されていた「婦人会」などの交流を通して、ストレス対処の工夫がされていた可能性がある。しかし、もしも母自身が「傷物」という――「自己否定感」そのものの表現だと思うが――自己像を持っていたとすれば、それは共有できない悩みとして、独りで抱え込んだまま生きざるを得なかったかもしれない。
  介護で知った母の「自己否定感」が、嫁ぎ先の人間関係だけにあったのではないという推測は、私の中では自然な感じがした。むしろその方が、嫁いでからの苦難と要介護時の母の状況の説明がつくと思えるくらいである。
  具体的な理由がわからなくても、母の苦労を直接間接に感じ取ってきた私と弟は、子どもの頃から必然的に母の味方だった。そして母を悲劇の主人公にみたてた。
  個別的な母子関係の歴史を背負ったまま、客観性とは程遠い立場から、大人になった私は「母と父」「母と親戚」の関係の歪さの原因を自分なりに探りだそうとした。最大の不運は祖母の「過干渉性格」を軸にした父の家風と母の育った家風の違いだと考えた。加えて一方的に嫁が忍従する慣習の時代的不運もあっただろう。少なくとも母に問題はないのだというところに帰結していた点では、子どもの頃と大きくは変ってはいなかった。
  確かにそれらは的外れではなかったと今でも思っている。しかし、父の告白は人の関係の歴史がもっと複雑であることを私に示していた。結婚の最初から色々なことが捩れていて、歴史がそれを更に捻じ曲げる役目を担ってきたようにみえた。それは問題の原因を判断することなど、困難極まりないことを示唆していた。
  だから、もう一度母と語ってみたかった。どんな思いで離婚をしたのか。再婚話があった時はどう思ったのか。父や嫁ぎ先の人たちに対してどういう思いがあったのか。嫁ぎ先の人たちがどの様に母を見ていると感じていたかを聞いてみたかった。そして今はどんな風に思っているのかも知りたかった。
  私は明も暗もある在りのままの母の人生を聞いておきたかったのである。母の本当の姿を知りたかったのである。その上で、どんな姿であったとしても私が母を好きなことに変りはないと言ってあげたかったのである。

 思い出すことがある。母が亡くなって、父しかいない実家に行く時の心の重石が苦痛に感じ始めた頃、私は考えあぐねていた。
  父や親戚の人たちとの関わりは出来ることなら避けたいが、この地に住む限り逃れることはできないだろう。だからといって転居することも並の苦労ではない。どっちをとっても楽な世界は待っていないように思われた。結局、苦痛を最小限にする方法を模索しながらこの地で暮らすという、当然といえば当然の選択をした。
  その時に私を誘導してくれた考え方があった。「母の人生の責任は私にはない。父の人生の責任も私にはない。あるのは、今そこに生きている父や親戚の人たちと、娘でも姪でもない、一人の人間として私がどのように関わりたいかという、願いと決意だけである。」
  関わりを避けるのではなく、或いは逃げるのではなく、私が彼らに向かって微笑みかければ何かが変っていくような気がした。恨むべき悪人などそこには一人もいないと頭ではわかっていたからある。それが簡単ではないことは知っていたが、私は恨みがましさの重石を抱えながら、その人たちと関わっていくことが苦痛でたまらなかったのだ。 
  父の告白は、それでよかったと言ってくれた気がした。私が他者について知っていることはほんの一部なのだ。人間関係の因果関係を推測することは構わないが、人の善悪の判断はしてはいけないのだ。

あとがき

 今回のエッセイは実は私のブログに載せた4回分の記事をまとめたものです。ブログの記事は、時の経過と伴に古い記事は誰にも読まれなくなるものですが、そのようにして消えてしまうには忍びないと思う記事が、一部ですが私のブログにありました。どうしたものかと思案した結果、ここにそれを投稿させていただくことに至りました。
  産業革命以来、科学技術は常に功罪の二面性の顔を持っていたと言われています。インターネットも同じような流れにあると私は思っていますが、その技術によって私のような全くの素人が書いたエッセイが多くの方に読んでいただけることは、果たして功罪のどちらなのでしょうか。何れであったとしても、私は時代の不思議の風を真正面から受けているような感覚でこの場にいます。
  この様な場で、私の体験談を皆さんに聞いていただけたことを本当に有難く思っています。聞いてくださった全ての方に心から感謝いたします。
また、このような場を創ってくださった「電子出版kinokopress.com」と森岡正博編集長にも御礼を述べさせていただきます。ありがとうございました。 

 

青柳澄「母から受け継いだもの、受け渡していくもの」
『生と死のエッセイ集』五〇〜六〇頁 kinokopress.com
二〇〇六年八月二〇日刊行