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石角容子

羅紗商とその活動の軌跡
―近代都市大阪の社会・まち・ファッションにみる諸相

  

大正から昭和戦前期までの羅紗商の活動から見えてくるファッションと社会の近現代。PDFファイルを無料でダウンロードできます!
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石角容子
羅紗商とその活動の軌跡
―近代都市大阪の社会・まち・ファッションにみる諸相
(2009年刊行)

 ポルトガル語に由来する「羅紗(らしゃ)」とは、「(厚手の)毛織物」の総称で、紳士用洋服に使用され、羅紗商とはその羅紗を主として洋服商に服地として供給する専門業者であった。
  1972(明治5)年、「爾後日本の式服は洋服とする」旨の太政官布告がなされ、一般でも逐次紳士服の着用が始まった。それとともに羅紗を扱う羅紗商は都市部で広くみられるようになったが、とりわけ大阪は「羅紗の本場」といわれ、その商圏は大阪を拠点にアジアや遠く南アメリカにまでおよんでいた。当初はほとんどを輸入に依存していた羅紗も、洋服化の浸透とともに国産品が重用されるようになった。
  このような背景のもと、近代都市への発展過程における大阪羅紗商の活動の歴史を掘り起こし、羅紗商と時代、社会、地域、文化的役割などを浮かびあがらせたいと考えた。そこで、@羅紗商の成立と展開、A羅紗商の業態と機能、Bその商業活動と紳士服の流行、C社会集団としての羅紗商、Dまちと羅紗商、を切り口に検討を行った。
  そして以下の3点を、羅紗商の活動の所産として示した。すなわち、
 @商品開発や販売手法に独特の商業活動がみられた羅紗商は、生産販売のエージェントとしてのみでなく、紳士服ファッションを方向づける、いわばトレンドセッターであったといえること。当時の紳士服は服地(羅紗)の色柄・風合いが流行の決め手であり、それは紳士服飾全般の流行にも大きな影響をおよぼしたからである。
 A羅紗商の属する地域社会では、商家同族組織と一体をなす伝統的な丁稚〜別家制度が戦時にいたるまで保持された。新旧の価値観が共存する羅紗商の社会であったが、丁稚〜別家制度は羅紗の専門的な知識の涵養、 大阪商人の育成や心性の継承、独立支援という点では有意義で、なおかつ大阪を起業機会に富んだ都市として、有為の人材を集めることができたと考えられること。
 B「羅紗は船場」「洋服は谷町」という言説を戦前の羅紗商の集積から検討したところ、大手通周辺、谷町筋で羅紗商の類集が際立った。また羅紗商の同業者町としての観点から、船場を加えた三地区で商店の移動状況を検討し、慣習や風習が独特の空間の文化としてそれぞれの地区に蓄積している可能性が示唆され、今後大阪のまちの見せ方に羅紗のまちのイメージづけが考えられるとした。
  これらを集約し、総じて大阪の羅紗商は、その活動を通じて紳士服の定着を支援するとともに、「近代都市大阪」のあゆみを地方や海外にまで発信し、大阪の求心力を高める役割の一端を果たしていたところに、その存在意義があるのではないかと考えた。

全109頁  −

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