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サクラとの出会いと別れ
 「姥捨山構造」の当事者になって感じたこと・考えたこと
沼岡 理央


kinokopress.com にて、縦書きで快適に読めて、美しく印刷できるPDFファイル(頁数付き)を公開中。ぜひご覧ください。

 こんにちは、森岡先生。いつも、先生のHPを楽しく拝見させていただいてます。
 じつは先日、単調な学生生活の合間に、「生命学」を実感するような、ささやかな、でも私にとっては重大な出来事が起こりました。それは、生まれてはじめて身近に感じた「死」、一人暮らしを始めて以来の相棒として私を元気づけてくれていたハムスターの死に向き合った数日間のことです。「たかだかペットの死が?」とお思いのことでしょう。なによりも私自身、この歳になるまで身近に「死」を感じないで生きてきた自分に呆れ、またそんな自分が森岡先生の著書を訳知り顔で読んだつもりになっていた事実に呆れていますから・・・。

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 三年次へと進級する際のキャンパス変更のために、去年四月から、生まれて初めての一人暮らしを始めた私は、将来への見通しもない心細く不安な日々を送っていました。そんなおり、ある秋の夕暮れに、たまたま大学の近くのペットショップを覗くと、通常三五〇〇円ほどするジャンガリアン・ハムスターが、一五〇〇円の値をつけられ、小さなケージ(檻)に入って売られていました。「このハムスター、このまま売れ残ったらどうなるんですか?」 いつものように、世間話程度の何気ない私の質問に、店員さんは笑って答えてくれました。「蛇やトカゲの餌ですかねぇ。」・・・私とサクラの出会いは、こんな偶然の「成り行き」でした。

 動物が「ペット」という商品として流通している以上、「売れる時期」が限定されてしまうのは仕方のないことです。ハムスターの場合、生後三週間〜一ヶ月がこの時期に当たります。それ以上に成長してしまうと、「カワイクない」ので買い手が見つからず、ショップにとってはお金(エサ代)と手間と場所ばかりをとってしまうため、「処分」する必要があるのです。当たり前のことですが、商品化された命には値段がつき、儲けのある・なしが基準となって扱われます。
 サクラと暮らし始めてから、さまざまなペットの飼育書を読み漁って知ったことなのですが、一例として、古くから愛玩動物として飼われてきた金魚には、こんな話があります。あらゆる金魚の元は「フナ」という魚なのですが、たとえば鑑賞用に開発された「らんちゅう」という金魚は、自力(?)で繁殖することはできません。(そもそも自然界には存在しえない「異形」のフナなのですから。) そこで、商品化するために人工配合させるわけですが、その際に「フナでもない・らんちゅうでもないモノ」が一定の割合で孵化することになります。それを選別して、稚魚の餌にするなりなんなりします。ちょうど、自然界において弱い個体が淘汰されるように、「経済界のルール」に則って人工的な淘汰がなされるのです。ペットとして開発された以上、「当たり前の」処置であるのは、成長し過ぎたハムスターの行く末と同じです。誉めることではないけれど、責められることでもありません。

 こんなことを考えさせてくれたサクラですが、お世辞にも「良いコ」とは言えない性格で、「人に馴れるかわいいハムスター」というキャッチフレーズをことごとく裏切るほど、我が家に来たときから一貫して臆病で・狂暴で・ワガママでした。ペットショップで売れ残っていた時期が長かったため、無邪気な子どもにイタズラをされすぎたのでしょうか。餌をやり・掃除をする私の「手」を極度に怖がり、噛み付くこともしばしばでした。とはいうものの、私が世話をしなければ、どうしようもない。自分が風邪でダウンしているときも、サクラの食事の用意を怠るわけにはいきません。最初の頃は、思い通りに馴つかず、ひたすら恩を仇で返される状況に、「だれが命を救ってやったと思ってるんだ!」とサクラとの出会いを後悔することもしばしばでしたが、少しずつ考えを改めました。私は、無理に「飼い主に都合の良いペット」「カワイイ手乗りハムスター」にさせようと目指すことを止めました。そして少しずつ、一人暮らしで殺伐としかけた私の生活の中にサクラが「ただ、そこにいてくれるだけでいい」と思えるようになりました。じつに、サクラと暮らし始めて三週間以上が経ってからのことでした。
 サクラに無視されながらも(?)、私の親バカぶりが板についてくるようになったのも、この頃からでしょうか。電気代もなんのその、外出時の部屋をサクラのために、冬にはタイマーを設定して暖房が入るようにし、夏には一日中クーラーをつけたままにしておきました。帰宅の道すがら、自分の夕食よりも先に、サクラの献立を考えるのが日課となりました。(おかげで、我が家の冷蔵庫は生野菜を欠かしたことがありませんでしたし、半径3kmの近所のタンポポの分布は常に頭に入っていました。) 友人たちと外食をするときですら、サラダや付け合わせの茹で野菜をサクラのお土産に持って帰れるよう考えてオーダーしたものです。生活の中で、もうひとつの命を感じながら一緒に暮らせることが嬉しく、マイペースでひたすら「食う・寝る・(回し車で)走る」を続けるサクラのふとした姿に和み、優しく温かな気持ちを抱いて、飽きることなく見入ったものです。夜行性のサクラの回し車の音も、私には心地よい子守歌となりました。

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 異変に気がついたのは、今年七月のことでした。ある夜、サクラが「コツコツ」と歯を鳴らすような音を立てているのを耳にしました。しかし、食欲も旺盛で、見た目には何ら変わりありません。私は、ゼミ発表目前の慌ただしさのなか、「何か噛んでいるのかな?」と、あまり気にすることもなく文献を読み耽っていました。翌日は朝から大学の講義のために外出し、サークルの友人たちとお喋りをしながら夕食をとり、深夜おそくに帰ってきました。帰宅後、まだサクラが「コツコツ」と歯を鳴らし続けていることに気づき、急にえもいわれぬ不安を覚えました。というのも、ハムスターのような小動物は、外敵に狙われやすいため、体調の異変を隠す習性があるからです。にもかかわらず、昨夜から一日中、音を出し続けているのは尋常ではありません。手持ちの飼育書を引っ張り出してきて、該当する症状はないか読み漁りました。「歯を鳴らすような音だから、もしかしたら歯が欠けたのか・伸びすぎたのかもしれない。」 そう判断して、明日は動物病院に電話してみようと決めると、すこし落ち着きました。

 二日目の朝、動物病院に電話をしてみると「つかまえて口内を確かめおくように」と言われました。我が家に来た最初の一ヵ月を除いて、サクラに触れようとして手を入れたことがなかった私には躊躇われました。が、とにかく原因を調べなくては始まりません。追い回すこと三〇分。さんざん逃げ惑うサクラの首根っこをつかまえてみましたが、口を開こうとしません。仕方なく、ハムスター用のお菓子で釣ってみたのですが、やはり口内をはっきりと見ることは出来ませんでした。とはいうものの、目を凝らしてみると、前歯もしっかりあり、口内に特に異常があるという様子ではなかったので、安心して飼育書を何気なくめくっていました。
 ふと、「肺炎」の項目で、手が止まりました。「症状が進むと『クックッ』と鳴く」と書いてあります。「『コツコツ』じゃなくて『クックッ』?そう聞こえなくもない・・・」と考えて、愕然としました。先ほど私のしたことは、「重症の肺炎」を患っているかもしれないサクラを、さんざん追い回したのですから。見ると、サクラはケージの隅にうずくまって、呼吸に合わせて「コツコツ」という音を立てながら、全身で息をしています。今まで決して見せたことのない苦しそうな表情で・・・。
 動物病院に再度電話し、肺炎の可能性があると告げると、「ウチはもともと犬猫専門だから、内臓疾患のハムスターは治療できない。そもそも麻酔に耐えられない個体もあるから」と治療を断られました。半泣きになりながら、飼育書やタウンページを隈なく読み漁ると、日本に数少ない、ハムスターなどの小動物を専門に扱う獣医のいる動物病院が、幸運なことに隣の市にあることが分かりました。なんとかサクラをタクシーで連れて行ける距離です。さっそく電話をすると、「その先生は今日はお休みですし、ウチは完全予約制です」と言われました。先生の予約は、明日の午後三時を逃すと、週末をはさんで数日後まで埋まっているとのこと。私はといえば、明日はゼミ発表の当日で、大学を休むわけにはいきません。一度電話を切り、BFに連絡をとって、私の代わりに明日サクラを病院につれていってくれるよう頼み、なんとか予約を取りつけることができました。

 けれども、ゼミ発表の準備をする傍ら、午後から夕方にかけてますますサクラの容態が目にみえて悪化していきます。気づけば、餌箱を物色した跡はあるものの、なにも食べた様子はないのです。水すら口にしていません。サクラの顔の前に、好物のレーズンを置いてみても、もう何の反応もありません。ぐったりと目を閉じ、荒い呼吸で全身を震わせているばかりです。夜になると事態はますます深刻になってきました。毛繕いをしようとして上げた足を、身体に届くことなく途中で下ろしてしまうほど、サクラの体力がなくなってきているのです。午前中には元気に動いていたのに、こんなに急激に衰弱するなんて・・・。頭に浮かぶのは、後悔ばかりです。
 「どうして午前中にサクラを追い回すようなマネをしてしまったのだろう」「どうしてサクラをきちんと手乗りにさせるよう訓練しておかなかったのだろう(聞き分けの良い飼い主のフリなんかしなければ、今ごろ無理させることなく口内に異常がないことが分かったのに)」「どうして肺炎の可能性にもっと早く気づかなかったのだろう(勝手に歯の異常だと決め付けるなんて)」「どうして一昨日の夜に見過ごしてしまったのだろう」「どうして昨夜、サクラを気にせず外食してしまったのだろう」「どうして・どうして・・・」  泣いてばかりいても仕方ないと思いつつも、自分を責めるばかりで何も手につきません。きれい好きのサクラが、ボサボサの毛並みをして、もう閉じる力もないまま半開きになった目で、苦しそうに音を立てて呼吸しているなんて。「とにかく今、サクラできることをしよう」と自分に言い聞かせ、BFが代わりに動物病院へ届けてくれるようにと、ここ数日間のサクラの症状の経緯をパソコンでまとめながら、明け方を迎えました。

 三日目、大学でのゼミ発表を終えて、ふと携帯電話を見ると、BFから留守電が入っていました。「すぐに入院の手続きをしなくちゃいけないんだけど、金額が金額なだけに判断がつかないから、動物病院に電話を入れて!」 至急電話を返すと、忙しい診断の合間を割いてくれた獣医の先生から、直接説明を聞くことができました。「コツコツ」という鳴き声の正体はウィルス性の鼻炎を悪化させて口で息をしているために生じているということ、本来ハムスターは口では呼吸しない構造になっているので飲み込んだ空気が溜まって胃腸が膨張していること、(安楽死させるしかないのですか?という私の質問に)ウィルスは肺までは到達していないので充分に治療できる病気であること、等。そして最後に、さて、では、あなたはハムスターを入院させますか・させないのですか?と・・・。
 次に、多忙な獣医の先生に代わって、受け付け担当者が診察費・入院費について詳細に教えてくれました。「今日の分、検査その他で二万円近くかかります。また、入院させると一日あたり一万五千円です。」  動物病院の対応はバッチリです。病状の説明も完璧・会計も明朗。でも、説明を受ければ受けるほど、私は追い込まれるような気持ちになっていきました。治療できる病気なんだから、命は値段で計れない尊いものなのだから、まして、まだ寿命の半分しか生きていない・若いサクラを病気にさせたのは私のせいなのだから、できる限りのことをすることは飼い主の責任なのだから、なにより、あんな辛そうな姿のサクラは見るに堪えないから・・・。インフォームド・コンセントは万全。・・・なのに、「入院の手続きをお願いします」と言う以外、私には選択肢がないように感じたのは、何故だったのでしょうか。電話を切って、動物病院に任せられた安心感・緊張からの開放感と、新たに湧きあがってきた苛立たしさ・言いようのない違和感を抱えて、私はしばらく放心していました。

 入院を頼んだ翌日には、ここしばらくの寝不足と緊張緩和からか、動物病院に電話をしてサクラの様子を聞く以外は、食事もロクに取らずに布団にもぐっていました。そしてサクラのいない空っぽの大きなケージを見ては、飼い主として失格だったと自分を責めて泣いていました。病院の説明では、点滴と抗生剤の注射と酸素吸入器の使用で、容態は安定しているとのこと。受け付け担当者の「予約を入れれば面会が出来ますよ」という言葉に、これまでの治療費・入院費の支払いを兼ねて、明日の夕方にサクラに会いに行くことにしました。預けたままのサクラの姿を、電話での説明ではなく、この目で早く確認したい。最新設備で治療を受けているのだから、きっと良くなっているだろう、と祈るように自分に言い聞かせていました。その一方で、サクラの健康管理が出来なかった自分を責めて泣くことで、どこかで飼い主としての「免罪符」としている・自己陶酔する自分がいることも意識していました。このままサクラが死んでくれれば、予定調和的に「愛情深い飼い主」という美しい自分が手に入るというような、そんないやらしい気持ちが拭いようもなく存在することを。「愛するサクラが死ぬことが怖い」から、そこから目を反らすためにも「早くサクラに死んでもらいたい」という、この矛盾を。

 五日目、夕方とはいえ蒸し暑く重い日差しのなか、電車を乗り継いで動物病院へ行きました。診察が終わるのを待ち、獣医の先生に会いました。先生はレントゲン写真を見せながら、胃腸の膨張がどれほどひどい状態なのかを説明してくれました。鼻炎が治り、鼻から呼吸ができるようになれば、自然とガスは抜けるが、それまで少しでもサクラの負担を減らすために、酸素吸入器のなかに入れておかなくては体力の消耗が激しい、と。白黒反転したレントゲン写真には、素人目にもそれと分かるほど、膨れ上がり肋骨からはみ出て胃下垂となった姿が露骨に写し出されています。その後、サクラに会うため、助手の人に連れられて地下の治療室へと向かいました。あちこちのケージに眠る、病気でぐったりとしたウサギやインコなどをやり過ごし、一番奥のガラスで仕切られた小部屋に通されると、仰々しい酸素吸入装置の中、小さなケージに閉じ込められて動かず丸まっているサクラがいました。その姿はまるで、「商品」としてペットショップで並ぶサクラに初めて出会ったときのようでもありました。入院させる前よりも、ずっと毛並みは悪くなり、汗でジットリと湿り気を帯びています。そして、「コツコツ」という鳴き声も依然として続いていました。遠くで助手の人たちが動物の世話をする気配を感じながら、私は小一時間ほどサクラに見入っていました。・・・それは、自分でも意外な感情でした。サクラの体調は相変わらず悪そうなのですが、装置の中のサクラを不憫と思う以上に、いま私の目前にサクラがいることが嬉しくて仕方なかったのです。サクラへの申し訳ない気持ちはあっても、一人部屋で泣きじゃくって許しを乞うという気持ちとは明らかに違います。病気のサクラに見入る、私自身の意外なまでの穏やかさ。入院させて以来ずっと抱いていた違和感は、サクラを取り上げられたまま・対象を喪失したまま心配し続けなくてはならないこと・不安を煽られていたことへの苛立ちだったのか、なんてぼんやりと思いながら・・・。

 そんな感情も、受け付けへ戻ってきて、吹っ飛びました。この三日間の治療費・入院費を支払い、帰り支度を始めた途端、涙が止まらなくなってしまったのです。サクラへの同情でもなく、免罪符でもない涙。それは「現実問題として、これ以上、治療を受けさせるお金が続かない」という事実に対する不甲斐なさでした。そしてまた、お金で動揺する自分自身の弱さに対する口惜しさでした。三日間で、六万四千五七〇円という領収書。事前に聞いてはいたけれども、一日の入院費一万五千円という重さ。一人暮らしを始めたばかりの私にとっては、いつまでも払い続けられる金額ではありません。泣き出しそうになる気持ちを押さえて、震える声で受け付けの人に事情を説明しました。すると、「明日また電話してもらえますか? 担当の獣医に、対処法を再検討してもらいましょう」との答えをもらいました。

 こうして六日目には、動物病院に電話して獣医の先生と話をし、レンタルの酸素吸入器を自宅で利用し様子を見よう、ということになりました。ウィルス性の鼻炎は、慢性化しやすい病気で、いつ完治できると断言できるものではないこと、サクラの病状を見ると、早くても一ヶ月・場合によっては数ヶ月間は治療を続けなくてはいけないこと、などを聞きました。紹介してもらったレンタル店と連絡をとり、翌日の午前中にレンタル店の業者に来てもらい、サクラを迎え入れる準備を整えました。とはいうものの、酸素吸入器のレンタルにも、二日間で五〇〇〇円(税別)かかります。一ヶ月分で、七万五千円以上・・・。自分の家賃より高い金額を払い続けられるだろうか?と不安は募る一方でしたが、まさに「これ以外、選択肢がない」状況でした。動物病院へ行き、さらに二日分の入院費と一週間分の薬代を払い(合計三万二千八六〇円)、タクシーで自宅へと連れ戻りました。
 自宅では、指示された通り、ほとんど動くこともなくなり水にもエサにも手をつけないサクラに、一日二・三回、抗生物質をヨーグルトに溶かしたものをスポイトで与えました。スプーン小匙半分にも満たない量のヨーグルトを食べるのにも、数回にわけ、三〇分近くもかけてようやく食べてくれるほどの衰弱ぶりです。免疫力が低下し(抗生物質のせいかもしれません)、ゲリ気味のサクラの下腹部を、固く絞った温かいおしぼりで拭いてやりました。それでも、「自分がサクラの世話をしている」という目的のある充足感で、なんとか自分を支えていました。あんなに敏捷に動き回り人の手を嫌ったサクラが、私の手の中で介護されるがままになっているのを見ると、動物病院の先生の言葉「治る病気ですよ」とは裏腹に、死期が近いのかもしれない、と妙に冷静に考えてしまいます。コポコポという酸素吸入器の音と、コツコツというサクラの呼吸音を確認しながら、まんじりともせず朝を迎えました。

 翌八日目には、バイトのために予備校に行かねばならず、早めに起きてサクラの世話をすると、予備校へと向かいました。授業終了後、立ち寄った予備校の講師控え室で、同僚の先生にここ数日間の一部始終を話しました。彼は、「沼岡先生の言うように、ペットを飼うのも・看取るのも人間のエゴなら、エゴを肯定して安楽死させたって良いんじゃないかな?」と慰めるように私に言いました。確かに、サクラを介護し続けるのも、所詮は私のエゴであって、サクラ自身にとってはつらいだけなのかもしれない。・・・そう思う一方で、これ以上、生活の面でも(私の心身ともに)、また金銭の面でも、サクラの介護を続けられない自分自身を「正当化」するために、安易に「安楽死がサクラのため」と言い訳して逃げたがっている気持ちを自分の中に感じて、ますますいたたまれない思いで一杯になりました。早く帰宅してサクラの症状を確認し、世話をしなくてはならないのに、サクラと対面するのが恐く、わざわざ外食して帰る自分の弱さに吐き気を覚えながら・・・。

 九日目、大学の講義があったのですが、サクラのことが気がかりで、結局欠席を決め込むことにしました。二日前の夜に自宅に戻ってきて以来、昨日の朝と夜、今日の朝・昼と目にみえて衰弱が進んでいます。サクラの負担にならない程度にケージ(檻)を定期的に掃除してみても、サクラと一緒に暮らし始めてから一度としてみられなかった「動物臭」がケージから消えず、私の部屋全体に充満しています。まるで、死にゆく者の匂いであるかのように・・・。そんなサクラをかわいそうに思う反面、言いようのない苛立たしさ・悪意にも似た重苦しさが私の胸の奥底でくすぶっていることに気づき、「これ以上、この部屋の中でサクラと真向かいに向き合っていてはダメだ」と近所の喫茶店へと逃げ込むように出掛けました。けれど、サクラと離れてみても、つねに頭の中では苦しそうなサクラの姿がチラつき、不安と緊張が身体から抜けません。そんな不安と緊張から目を背けるかのように、ふと死を冒涜するような挑戦的な気持ちになって、喫茶店で何時間も青年漫画雑誌のくだらないストーリーを貪るように読んで過ごしました。すぐ近くの自宅では、サクラが苦しそうに酸素吸入器の中なんとか生き続けているというのに、目前の漫画には、あられもない性描写が踊っている・・・。「まるでオヤジみたい」と自嘲しながらも、喫茶店におかれた数冊の漫画雑誌すべてを読み終えるまで、止めることができませんでした。死と向き合うことの怖さから目をそらして、自分の生=性へ固執したいという気持ちが、そうさせたのかもしれません。

 その九日目の夜、サクラに抗生物質入りのヨーグルトを食べさせようと、スポイトで口元に運ぶも、もはやサクラには自分で口内にある食べ物を飲み込む力すらなくなっていたようです。それに気づかず私は、サクラが口を開けたすきに、スポイトでヨーグルトを押し込んでしまったのです。突然、サクラが激しく痙攣を始めました。私は慌てて口元をおしぼりでぬぐい、大急ぎで酸素吸入器の中へとサクラを戻しました。サクラは置かれたままの状態で、立つ力もなくただそこに横たわり身じろぎもしません。窒息して息をしていないのかもしれない!と焦った私は、泣きじゃくりながら、はやる気持ちを押さえてサクラをそっと起こしてみました。すると、しばらくして、帰宅してから全く動くことのなかったサクラが、自らの足でゆっくり歩きはじめ、ケージ(檻)の隅にある巣材(ティッシュペーパーをちぎったもの)の中に顔を埋めました。見ると、一転して呼吸は穏やかで、これまでのように全身で苦しそうに息をすることなく、意識もしっかりしているようです。ほんの先刻まで、パニックで泣きながらサクラを見守っていた私ですが、これで治るのかもしれないという根拠のない期待を抱き、投薬の途中ではあったのですが、とりあえず明日までサクラに触れないでおこうと決めました。
 そして、ここから先の奇妙な心理状態を何と説明すれば良いのでしょうか。サクラの死をあまりに身近に感じたことで、私の緊張の糸がふっと途切れてしまったのです。それは、サクラが発病して以来、主観的な混乱とは裏腹に、過剰に身なりに気を使い、化粧し着飾っていた自分自身の無意識とも共振する感情でした。あろうことか私は、瀕死の状態だったサクラがなんとか持ち直したのを見届けた後、涙を拭うと、深夜だったにも関わらずBFに電話して、テレフォン・セックスを始めたのです。死と向き合い・死に引き込まれていきそうになる「生身の自分自身」を確認するかのように、酸素吸入器のおかげでなんとか生き長らえているサクラと同じ部屋の中で、私は自分の性欲に没頭していきました。それが、慎むべき時期の不道徳な行為だと十分に理解しつつ・・・。

 翌一〇日目は、夏休み前の最後の予備校授業の日でした。そのため、前日は午前五時頃寝入ったのですが、午前七時には起床しました。この、ほんの二時間の間に、サクラは息を引き取っていたのです・・・。呼吸をせず、全く動かないサクラを見て、最初はまるで事態が理解できませんでした。ゆっくりとサクラをケージ(檻)から取り出すと、薄っすらと目を閉じ、穏やかな表情(?)をしています。けれども、それはもうサクラではなく、ぬいぐるみのような「物」と化していたのです。ぼんやりと、帰宅したら昨夜のようにまた元気になっているのかもしれないと考え、生きているときのまま、水を替え・エサを置き、酸素を多めに流し、部屋の冷房を入れて、外出しました。「ここで泣いたら顔が腫れて、授業が出来なくなる」と自分に言い聞かせ、あらゆる思考・あらゆる感情を停止させて予備校へと向かいました。
 放心状態のまま一日を終えて帰宅すると、死後硬直により、ちょうどパソコンのマウスのような姿に固まったサクラがいました。私はそんなサクラに触れることができず、吐き気をおさえながらコンビニへと、軍手と大量の氷を買いに走りました。それは、もう私の知っているサクラではありません。夏の夜の熱気に、まさにこれから腐敗しはじめようとする肉の塊であり、なにか得体の知れない恐怖を私に抱かせる、よそよそしい存在としか感じられないのです。私は、生まれて初めて目前にする本物の「死体」となったサクラに対して、哀惜の感情ではなく、嫌悪と拒絶しか感じられないことに、身震いしました。そして、どうしようもない自分の身勝手さと醜さとを抱えたまま、水割り用の氷を、買ってきたビニール袋の上からタオルで包み、ケージ(檻)の中に置いて、軍手をした震える指先で恐る恐るそこにサクラを安置しました。数時間ごとに氷を取り替えながら、痩せて発砲スチロールのように軽くなったサクラを軍手ごしに感じ、じかに「死」に触れる恐怖から、あわてて何度も何度も手を洗う・・・。そんなことが、翌朝早くに、タンポポを摘みにいった公園にサクラを埋葬するまで続きました。

 その後の丸二日間、私は人相が変わるほど泣きじゃくりました。自分を責め、サクラに懺悔し、取り得た他の選択肢を思い並べては、自分の弱さを分析し・暴き立て・呪いました。サクラが亡くなる直前にした行為、そしてサクラが亡くなってからの自分の感情の変化を思い返すと、我が身の汚さを直視することができませんでした。食べ物を吐き、熱が上がり、身の回りのことが何もできず、ひたすら自暴自棄になりました。何かにすがろうとしても、それが「逃げ」で「正当化」に過ぎないのだと、何より自分自身が分かってしまうのですから・・・。サクラの死(についての自分自身の解釈)は、私を糾弾し、圧迫し、破壊し尽くさんばかりに重くのしかかってきました。道端のタンポポを見ては、八百屋のブロッコリーを見ては、サクラを思い出し、自分を責める日々が続きました。サクラをめぐる一連の出来事を、思い出として語ることすら、自分に許容することができません。自分の分析に、自分が追い詰められていく感覚、閉塞感、そして恐怖・・・。

 こうして、結局、私が頼ったのは「神さまの思し召し」という言説でした。サクラは、もしかしたら、ずっと前にペットショップで爬虫類の餌になっていたのかもしれない。そんなサクラに出会えたのも、サクラと過ごした日々の思い出も、最後にサクラが私を死と対面させてくれたことも、人知の及ばない「何か(=神さま)」の思し召しだったのかもしれない。私のエゴでサクラを飼ったとしても、サクラは(餌になることなく)少しでも生命を延ばすことができたじゃないか。そして何より、私が安楽死だなんて人工的な処置をするまでもなく、サクラは自らの意志・本能で「尊厳ある死(あんなに消耗していたのに、自ら歩いて死に場所を探し安らかに死んでいった姿)」を見せてくれたじゃないか。短いながらもサクラは、私と関わりながら、でも私と関わりなく、自分の生命を全うしたじゃないか。・・・この言説が、「姥捨て山構造」となんら変わりがないことも自覚しています。そして言説に頼ること自体、私の自己満足・エゴであり正当化であるということも。けれども、この言説に頼ることで、ようやく私はサクラの死を、距離を置いて確認することができるようになったのです。とはいうものの、「確認」であって、自分の感情・気持ちの変容などを改めて「分析」するだけの余裕はまだありませんが・・・。

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 ここから先は、森岡先生のHPのサブ掲示板にも書き込んだ内容です。
 サクラの死をめぐって痛感したこと、それは、ある事象を分析するツールをもってしまうと(例えば「姥捨て山構造」の原理など)、当事者としてその事象に参加せざるを得ない場合、なまじ知識がある分だけ、自分自身をひたすら「追い詰めてしまう」ことになってしまうということです。私の場合、サクラを介護し、死を看取り・受容する過程で、つねに「(姥捨て山のごとく)見捨てようとしている自分」を過剰に自覚してしまうことで、介護のための肉体的疲労も重なって、当時は心身ともに、文字どおり「壊れそう」な状態になってしまいました。結局(無宗教者でありながら)「神に召された」と自分を納得させることでこころの平安を維持できた・維持してしまった、という結果になりましたが、この経験を通じて、必ずしも「分析すること(=理性による解決)」が日常生活を豊かにはしないかもしれない、と思い至るようになりました。

 森岡先生の分析視点、いわば理性への信頼(?)のようなものに触れるにつけ、この経験を踏まえた私には、強い違和感を覚えてしまいます。とくに、「僕は僕で頑張るから、心ある読者諸君も頑張ってほしい」というような締めくくり方には、今回の経験の中、理性に振り回され・それを放棄してしまった私自身の「当事者の弱さ」に対して、あまりにも突き放した姿勢かもしれない、とすら感じてしまいました。つまり、「頑張れなかった」「心ない読者」という烙印を押されたような・・・。なにか、森岡先生と同じ思想・同じレベルの強度をもつことが出来る者のみが、「心ある読者」として選別されるような、そんな強制力すら感じるのです。もちろん、私が過剰なまでに自己分析をして、その結果、自家中毒(?)になってしまったことには、私自身の性格も起因しているのですが、他方で、森岡先生の文章に「煽られた」ところがあったのも事実でしたから・・・。

 とはいうものの、森岡先生の文章(と求心力)に違和感を覚えただけで、改めて強調しておくと、森岡先生ご自身・森岡先生の研究に対しては、私は相変わらず大いに共感することしきり、です。ただ、自らの実感に誠実になり、「当事者としての弱さ」を内包する・許容するという視点をもった卒論を書くことが、これからの私にとって新たな目標になるだろう、と気づきました。

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 ここから先は、サクラの死を経験してから、久しく経ってからの私の考察です。死にゆくサクラと向き合った数日間の出来事は、まぎれもなく「生命学」の体験だったと思います。それまでの私は、福祉を学びながらも、私自身の身近な生命について、本当の意味では何ひとつ分かっていなかったように思います。自分の弱さも・汚さも・醜さも、いわば生と死をめぐる喜怒哀楽の感情すべてを含む、そんな「生命学」が大切なんだと痛感しました。

 その一方で、(福祉領域を含む)生命学という学問の研究が進めば進むほど、もしかしたら当事者を過度に追いつめてしまう、ある意味で不毛な試みなのかもしれない、とも感じています。これは、本当にもう、どう対応していったらいいのか、私自身、大いに困惑しています。現実を科学的に分析することが、ますます日常生活を生きにくくしてしまうとしたら、いったい何のための学問なのか、と・・・。
 際限のない自己批判は、ニヒリズムを気取ることすら許さない無限の自己破壊へと、その誠実さ・真摯さゆえに収斂させるという、不条理な罠をもっているようです。当の私も、「神さまの思し召し」という非学問的な言説を受け入れなければ、拒食症のダイエッターよろしく、倦むことを知らずに自己否定し続け、「精一杯に看取った」と感じることは決してなかったでしょうから。
 それでも、ようやく今になってサクラの死の受容の過程を振り返って、当時の自分自身に対して距離を置いて回顧できるようになり(この小論をまとめることができ)、またそのための手法としての生命学を知っていて良かったと思う(=信じたい?)気持ちも多々ありますから・・・。マックス・ウェーバーではありませんが、「dennoch(それでもやはり)」と自らに宣言できなければ、学問を続けられないのかもしれません。(おっと、これは『職業としての政治』の方でしたっけ? でも、そういう「現実に向き合い・変容させていく覚悟」がないと、生命学は続けられないと改めて思いました。)
 そのためには、自分や他人の弱さ・汚さ・醜さを抱え込める視点が大切ではあるのですが、それらを現状からの帰結として内包させてしまうと、単なる現状維持で保守的な説明に成り果ててしまう危険性が生じます。そういう意味では、啓蒙的・社会運動的な意図があると、隠蔽された構造の暴露というかたちで、ときに読者を追い詰めるような内容になってしまうのは仕方ないことなのかな、とも思いつつ、でも、追随でも煽りでもない、第三の道を模索したいという野心(?)は忘れないで、これから卒論に取り組みたいと思っております。(文字通り「言うは易し・行うは難し」な探究ですが。)

 それから、当時は書き切れなかった私の感情の変遷について、もう少し加えておきたいと思います。ひとつは、サクラがまだ寿命の半分も生きていなかったということについて。それは、病気の悪化していくサクラに対して「老い」「自然の摂理」という救いを得られないつらさでもありました。サクラの「将来」という、輝かしく・可能な未来を、この私が摘み取ってしまった負い目。そしてまた、ここで治療を断念することで、今まさに摘み取ろうとしているという負い目。そのために、私自身の生活・経済状況を省みずに、あらゆる治療の可能性にしがみつきたくなるのです。諦めない・最善をつくすということは、もちろん人として美しい在り様なのかもしれませんが、その背後には私自身でも認めたくなかった、他者の眼差しへの見栄が隠れていたように思います。端的には、初めて動物病院へ電話したときに、真っ先に「(ハムスターは)いくつですか?」と質問されたときに感じた恥ずかしさが思い出されます。飼い主として失格であることを宣言されることへの羞恥とサクラへの罪悪感・・・。もしも、サクラが十分に年をとっていて、ハムスターの平均寿命を越える年齢であったなら、私も・動物病院も果たしてあのような治療を選択していただろうか?・・・残念ながら私には、この問いに即答できるほど、自分の「人としての美しさ」に自信はありません。
 後日、私の話を聞いた友人の中には「一五〇〇円のハムスターの治療費に、じゅ、一一万五千円? 代わりが八〇匹も買えたのに、沼岡さんはよく頑張ったよねぇ」と冗談を言って励ましてくれた人がいました。ある意味それも、第三者から聞けば、素直で率直な感想なんだと思います。サクラがあのまま生き長らえていたら・・・。金額か・日数か、いずれにせよ、私の都合でサクラの治療に「期限」を設けざるをえなかったでしょうから。それとも、サクラが寿命を全うするまで、私の生活費と時間の大半を費やし心労を注ぎ込んで、人工的な装置の中で生かし続けることが「人としての美しさ」だったのでしょうか?・・・このように考えてしまう私にはまだ、胸の痛みなしには相変わらず当時を振り返られないでいるようです。

 また、上述のことと関連して、サクラの死と対面した私は自己憐憫の情に浸りながらも、ハムスター専門医のいる動物病院なんて見つからなければ、もっと言えれば、いっそサクラを救う医療技術なんて開発されていなければ、もう少し心穏やかにサクラの死と対面できたのに、と逆恨みの気持ちを抱えて苦悩していたことも、書き加えねばなりません。たしかに、現代医療はこれまで「治療できない」とされてきた領域を、「治療できる」ものへと劇的に変えて、多くの生命を救ってきました。その一方で、以前なら「治療できない」「お医者さまでもどうしようもない」との理由で受容せざるをえなかった・受容することができたものを、「治療できる」「それなのに治療しないでどうするの?」と煽り続ける存在として、患者の家族に重くのしかかってくる側面をも、持ち合わせているように思います。もちろん、医療技術の進歩に異論を唱えるつもりはありません。ただ、それは技術の問題だけにとどまらず、患者本人にとても・家族にとっても、死を迎え入れる状況を明らかに変容させる社会的な問題を含んでいるんだということを、サクラとの別れの中であらためて実感させられたのです。

 もうひとつは、サクラに死の兆候を感じてとった私のセクシュアルな行為についてです。これは、私自身も思い返すたびに自分のしたことに唖然となるような出来事でした。それゆえ、まさにこういうところにこそ、死と向き合うことから逃げようとする自分の姿が顕著に出ていたのだな、とも思います。ただ、あえて強調しておきたいのは、当時の私の心境・死を前にして性(=生)へと逃げようとする強烈な感情は、ありがちな生物学還元主義や本質主義のいうところの「遺伝子を残したい」という衝動とは異なって、むしろ他人と肉体的に結びつくことによって、今ここに生きる自分自身の存在価値を確認したいという衝動に近かったのではないか、ということです。長期にわたって、ますます強まるサクラの「死」の気配とともに生活することは、そのまま一緒に私も死の淵へと引きずり込まれていくような不安を感じさせます。赤裸々なこの小論を読み通して、「結局、沼岡さんにとってサクラはただの『ペット』に過ぎなかったから、こんな行為をとったり、亡くなった後に拒絶反応を感じたのでは?」という反論を抱くかもしれません。けれども、私にとってサクラは「ペット」ではなく、「一人暮らしの相棒」「家族の一員」と感じられる存在でした。逆に、サクラとの距離が近すぎたからこそ、ここまで過剰に対応してしまったように思います。(「たかがペット」として割り切れていたら、どんなにラクだったか・・・。) だからこそ、死にゆくサクラから離れて、生へと固執したい・他者と結びつきたいという欲望が止められなかったのではないでしょうか。

 最後に、サクラの死後の私の苦しみは、(親バカ話はさんざん聞かせていましたが)サクラ自身をこれまで誰にも会わせていなかったことに大きく起因しているように感じました。死にゆくサクラの姿はもちろん、亡くなってしまったサクラの「死」を、私と同じレベルで分かち合ってくれる相手が身近にいなかったのです。そのため私は、いつまでたっても自分のなかで「弔い」を終えることができず、現在進行形の罪悪感を背負い続けていました。
 ずいぶんと後になって、サクラの話を打ち明けた友人が、親族が亡くなったときの葬儀の話をしてくれました。親類縁者が集まって、感謝であったり・悪口であったりと、故人の思い出話を互いに語り合いながら酒を飲み交わす葬儀は、子どもの頃はなんだかひどく不謹慎に感じられたけれど、今思えば、それはそれで良いものなんだよなぁ、と。・・・同じように、ひとり泣き続けた当時の私に決定的に欠如していたのは、悲しみと喪失の物語を共有してくれる「生者」の存在であり、サクラという「死者」に焦がれていたのではなかったように思います。生の側に残った私は、どこまでもエゴイスティックな存在でした。
 けれども、今はそれをほんの少し肯定的に思い返すことができます。そうやって、現在を生きている者は、過去の故人たちを踏み越え、やがて死ぬことによって自らも同じように未来へと継承されていくのだろうから。私たちの生命も、文化や社会も、そして遥かな地球誕生以来の時間の流れも、きっとそうやって積み重ねられ・継承されてきたのだろうから・・・。

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 小論といいながらも、かなりの長文になってしまい、大変失礼いたしました。
 最後まで付き合って読んでくださり、本当にありがとうございます。
 この小論をHP上で公表することにより、この先、私が福祉の勉強を続けるなかで、立ち止まり・迷い・諦めそうになったときに、自らの立脚点として振り返るための指標を書き残しておくことができました。
 このような幸運を与えてくださった森岡先生に、心からの感謝を捧げつつ・・・。



 沼岡理央「サクラとの出会いと別れ」
『生と死のエッセイ集』kinokopress.com 一〜一二頁
 二〇〇一年五月一七日刊行