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作成:森岡正博 
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インタビュー

1988年7月18日(月)『毎日新聞』夕刊

バイオエシックスから生命倫理へ
よき生を送り、よき死を迎えるために

森岡正博

 「いのち」という窓を通して、世の中の様々な姿が、くっきりと浮かび上がってくる。今世紀の科学技術の発展は、私たちに快適な生をもたらした。しかしその反面、私たちの「いのち」は、科学技術との接点で、いま新たな局面に立たされている。

 その最初のきざしが、エコロジーだとすれば、その第二の局面はバイオエシックスである。

 バイオエシックスは「生命倫理」という訳語で、日本でも多く使われている。このことばは一九七〇年代のアメリカで、患者の権利、インフォームド・コンセント(充分に情報を与えられた上での同意)、安楽死、人工妊娠中絶、医療資源の配分方法、脳死、臓器移植など、現代の医療現場で生じる倫理問題の議論を総称することばとしてあらわれた。

 たとえば母親のお腹の中に重い障害を持った妊娠初期の胎児がいて、母親は中絶を望んでいるとする。このときアメリカのバイオエシックスでは、だいたい次のような四つの議論が戦わされることになる。

 まずその胎児を中絶するか否かは母親の権利に属する事柄であるという「権利論」。障害者の支援にかかる将来の社会的費用を考慮して、胎児の中絶を正当化する「功利主義論・生命の質論」。胎児は生存権を有する人格ではないから中絶は許されるとする「人格論」。受精した瞬間から人間のいのちは尊重されるべきであり、中絶は許されないとする「いのちの尊厳論」。

 中でも、右にあげた「人格論」は最もラディカルである。たとえば生まれたばかりの赤ちゃんは思考能力がなく人格とはいえないから、殺してもよいとか、人間は植物状態になった時に死んだとみなしてよいなどの主張をする。彼らに言わせれば人間の死とは「大脳死」にほかならない。大脳死とは要するに、大脳皮質が死んで、思考能力がなくなった状態のことだ。そしてこの人格論は、アメリカのバイオエシックスでは決して少数意見ではない。

 この一例だけから推し量るのは無理だが、バイオエシックスの議論に広く目を通していくと、そこにはきわめて顕著なアメリカ的偏向が存在することが分かる。それは「いのち」の問題を扱うときに、合理的に割り切れるものだけを判断基準にする傾向、複雑な事態を明快な権利問題の土俵へと一元的に解消してしまう傾向、そして医療の一部の側面で生じる問題にのみ目を奪われている点である。

 最後の指摘は奇妙に思われるかもしれない。しかしたとえば、ホスピスや死の準備教育の問題、老人介護の問題などは、バイオエシックスのパラダイムの中では、ほとんど論じられていない。これはどうしてだろう?医療における「いのち」の問題は、先端医療の場面だけではなく、広い意味での看護ケアの側面からも議論してゆくべきではないのだろうか。

 さらに言えば、現代における「いのち」の問題は、なにも医療現場にのみあらわれているわけではない。冒頭に挙げたエコロジー・環境破壊などは。まさに科学技術を手にした人間と言う「いのち」が、地球上の他の「いのち」とどのように関わってゆけばよいかと言う、非常に生面倫理的な問題なのである。いやそれだけではない。たとえば教育の問題はどうか。今そこで問われているのは、知恵を伝えるという形で、いのちといのちが、どのように関わってゆけばよいかということではないのか。

 さらに視野を広げてみよう。地球規模に配備された核兵器や原子力発電所の現状を問うことは、地球上のすべての「いのち」に関わる倫理問題である。あるいは先進諸国と第三世界の間の南北問題を問うことは、とりもなおさず生命倫理の問題である。

 「いのち」の問題の本質はここまで広がる。それをきわめてみすぼらしい形で切り取ったのがアメリカのバイオエシックスであり、そのアメリカのバイオエシックスを脳死・臓器移植と体外受精の局面に限って輸入しているのが、日本の「生命倫理」である。そして日本の生命倫理は、心情・自然さの追求など、アメリカでは見られない顕著な「日本的変容」を起こしている。

 もちろんアメリカのバイオエシックスのルーツがそうであったように、日本でも、医療に関わる草の根の市民運動としてバイオエシックスが着実に根付くならば、それは大きな意義がある。

 ただ、それを思想としてとらえる場合、右に述べたバイオエシックスの限界から目を閉ざすことはできない。

 筆者は最近の拙著『生命学への招待』のなかで「生命学」というコンセプトを世に問うた。これは、生命に関わるあらゆる学問領域の縦割りの壁を取り壊し、そこからあふれ出てきた雑多で幅広い問題関心を、「生命について考える」という一点でゆるく統合した、総合的な学問の提唱である。生命学とは、すべてのいのちがよき生を送り、よき死を迎えるための学問である。

 そしてバイオエシックスも、生命学の中に一つの位置を占めることになる。

 思想問題としてみた場合、バイオエシックスの存在意義は、次の点に尽きる。バイオエシックスは「いのち」の本質と広がりを問う総合的な生命学を生みだすための、貴重なきっかけとして、我々の前にその姿をあらわしているのである。