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作成:森岡正博 
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映画評

『朝日新聞』大阪版・夕刊・文化面 2005年11月19日
鋭く交わる実在と幻想 − 映画評「Jの悲劇
森岡正博

 大学教授のジョーは、付き合っている恋人のクレアと、オックスフォード郊外の草原でワインを抜いてピクニックを始めようとしていた。それは晴れた日で、一面の青空と見渡す限りの緑の大地。ゆったりとした午後のひとときになるかと思われたそのとき、真っ赤な気球が不時着してくる。気球の中には少年が閉じこめられている。ジョーとクレアは、助けようとして気球に向かって走り出す。
  異変に気づいた近くの男たちも集まって、みんなで気球を着地させようとするのだが、気球は突風にあおられて上昇し、ジョーを含む四人の男たちが空中に引きずり上げられるのである。身の危険を感じた三人はすぐさま気球から手を離して助かるが、最後まで気球にしがみついていた医師は、上空から振り落とされて死亡する。
  このとき手を離して助かったジョーと、同じく手を離したもうひとりの青年ジェッドを中心として物語は進んでいく。
  若き大学教授のジョーは、ふだんから口癖のように、人間は生物的本能によって動くものであって、愛とか道徳とかは幻想に過ぎないと言っている。どこかに本当の愛があるはずだ、というような考え方を軽蔑し、機関銃のような皮肉を浴びせかけるたぐいの人物なのである。
  なのに、その彼が、流される気球を見て本能的に思わず助けようとしてしまったこと、そして自分の身に危険が及びそうになったときに、他人を見捨てて本能的に自分のいのちを最優先して助けたことを、彼はどうしても肯定的に受け止めることができない。自説が正しいことを身をもって実証したというのに、ジョーはそれによって逆に傷つき、混乱してしまうのである。ジョーは、自分がいままで学者として言ってきたことが、単なる観念の遊びにしか過ぎなかったと気づくのだ。
  もうひとりの男、ジェッドは、気球の事件を神から与えられた天啓だと思いはじめる。そしてジョーに対して異様な愛情を抱き、彼に執拗なストーキングをするようになる。ジェッドはジョーの家を突き止め、書店で待ち伏せをし、大学の授業に潜り込み、ついには家の中まで上がり込む。ジェッドは、愛の実在を素朴に信じ込む人間である。そしてジョーに愛を告白し、クレアを殺して自分と一緒になろうと迫るのである。
  「実在」とは何か、「幻想」とは何か。この映画のテーマはここにある。大学教授のジョーにとっては、本当の愛などは実在の名に値しない。それは「幻想」の最たるものである。しかし、気球の到来によってその考えは打ち砕かれ、映画の最後では、「幻想」に過ぎなかったはずの愛をクレアとのあいだに不器用に探ろうとする。
  これに対してジェッドは愛の実在は信じているが、しかしジョーに対する愛は、すべて彼の異常な「妄想=幻想」から出てきたものだ。自分だけの論理によって繰り広げられる妄想世界のただ中で、純粋な愛の実在が高らかに歌いあげられるのである。
  最後のクライマックスにおいて、ジョーはジェッドの妄想世界に歩み寄ることによって、ジェッドを裏切り、みずからの過去と訣別しようとする。しかしその先に開けているのは、ざらざらとした日常という褪色した砂漠なのであり、冒頭に到来したような非日常で豊穣な世界ではない。これは「実在」と「幻想」をめぐる冒険において、すべての人は挫折するしかないということを、苦く描いた作品ではないかと私は思った。冒頭の原色の気球のシーンは、この「実在」と「幻想」が鋭く交わる瞬間であるがゆえに、すばらしく印象的に映るのであろう。