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作成:森岡正博 
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『家族社会学研究』2002年3月号 21−29頁
生殖技術と近代家族
森岡正博

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要約

 代理母や精子バンクのような最新の生殖技術は、われわれの生命観や人間観、家族観に大きなインパクトを与えるであろう。子どもを持ちたいというわれわれの欲望は、具体的な下位欲望へと分節化されてきた。そして、近代家族規範はそれらの分節化された欲望によって揺るがされる。それら分節化した欲望とは、たとえば、(1)「どんな方法でもいいから子どもがほしい」(2)「血のつながった子どもを持ちたい」(3)「自分の身体で妊娠出産をしたい」(4)「こんな子どもならほしいが、こんな子どもならほしくない」(5)「誰かと同一の遺伝子をもった子どもがほしい」などである。これらのうちいくつかは近代家族にとって既知のものであるが、他のいくつかはまったく新しいものである。借り卵、借り子宮、クローンなどは近代家族規範を新しいものへと変容させるかもしれない。【21】


 
 

1 親子関係から見た近代家族

 代理母、精子バンクなどの生殖技術は、われわれの生命観や人間観を大きく揺さぶるインパクトをもっていると言われる。それは、親子関係を複雑にすることによって、われわれの家族観まで変容させてしまうのではないかと予想される。生殖技術の進展は、われわれの家族形態や家族観に、どのような影響を与えるのであろうか。この論文では、親子関係に焦点を当てることで、その問題に迫ってみたい。
 まず一方に現代の生殖技術がある。子どもを産みたいというわれわれの欲望に突き動かされて、この技術は従来存在しなかったような「子産み」のパターンを創出しつづけている。他方には、われわれの家族形態がある。親密な感情で結ばれた父と母のあいだに、血のつながった子どもが生まれ、同じ家の中で生活するという、いわゆる「近代家族」は、社会の変動によって多様化の危機に直面している。子産みのテクノロジーの進展と、近代家族の多様化のあいだのダイナミズムを、注意深く見ていかなければならない。
 落合恵美子は、近代家族の特徴として次の八項目をあげている。すなわち、「家内領域と公共領域との分離」「家族構成員相互の強い情緒的関係」「子供中心主義」「男は公共領域・女は家内領域という性別分業」「家族の集団性の強化」「社交の衰退とプライバシーの成立」「核家族」の八つである。このような特徴を持つ近代家族は、普遍的に存在したわけではなく、ある時期に特殊に存在したものである。落合は、第二次世界大戦後に日本で成立した近代家族を、「家族の戦後体制」と呼んでいる。われわれが「核家族」ということばによってイメージするものが、ほぼそれに合致する(1)。
 木戸功は、「家族の多様性」と言うときに、実体としての家族形態の多様性の次元と、家族はこうあるべきだという規範次元における家族イメージの多様性を慎重に区別すべきであると述べている(2)。離婚の増加や人口流動によって実際に核家族が減少するということと、「核家族でなくても立派な家族である」という考えが勢力を伸ばすということは、とりあえず別次元のこととして把握すべきであるというわけだ。なぜなら、実際に核家族が減少するにつれて、逆に、「核家族こそが理想の家族」という言説が幅を利かせるようになることもあり得るからである。私はこの論文において、この両次元に目を配りながらも、とくに規範次元における家族イメージの変容に焦点を当てていくことにしたい。
 生殖技術の観点から「近代家族」を見るときに、もっとも問題となるのは、親子関係である。精子や卵を他人から調達して子産みをすることができるわけだから、近代家族のなかで新しい親子関係がどのように処理されるのかがポイントとなる。親子関係からみた「近代家族」とは、とりあえず、「父と母の両方の遺伝子を受け継いだ子どもを、生物的な母が妊娠し、出産し、生まれてきた子どもを父と母が家庭内で育てる」というような家族を意味する。子どもは、このような仕方で誕生すべきであり、育てられるべきであるというのが、「近代家族」イデオロギーのひとつの顔であろう。ここに、生殖技術が楔を打ち込む。
 生殖技術がひんぱんに登場するのは、不妊治療の場面においてである。子産みを目的とした性関係があるのに長期間子どもが生まれないカップルは、不妊というラベリングを受ける。不妊とされたカップルが、それでも子どもをほしい場合、養子を取るという選択肢と、不妊治療を受けるという選択肢がある。日本の場合、きびしい認定制度があって、養子は簡単には成立しない。これに対して不妊治療では、まずミクロなテクニックをもちいて、カップル双方の遺伝子を受け継いだ子どもを妊娠させようと努力する。
 この点に注目して、「生殖技術は一見、血の原理のような古い価値観を破壊するもののように思われがちだが、実は、カップル双方の遺伝子を残す道を執拗に模索するという意味で、逆に血の原【22】理を補強するイデオロギーである」という見方がなされたことがあった。たしかに、AIH(夫の精子をもちいた人工授精)やIVF−ET(カップルの精子と卵の体外受精と子宮への移植)は、そのようなイデオロギーと親和的であると言える。しかしながら、現在から将来にかけて続々と可能になると思われる生殖技術を考えると、このような単純な図式のみで事態を把握するわけにはいかない。以下、それについて検討してみたい。

2 子産みの欲望の分節化

 生殖技術の進展を支えているのは、われわれの「欲望」である。どうしても子どもがほしい、できることならばかくかくしかじかの性質を持った子どもがほしい、というような欲望があるからこそ、それをかなえるべく新たな生殖技術が開発され応用されてゆく。ところが、「欲望」があるから生殖技術が進むという事態の裏側では、生殖技術が進むことによって、われわれの「欲望」が新たな形へと「分節化」されていくということが起きている。すなわち、「とにかく子どもがほしい」という欲望の塊が、生殖技術によって、「このような子どもがほしい」とか「これこれは犠牲にしても子どもがほしい」というふうに「分節化」されて意識され始めるのである。
 それら「分節化」の例をいくつか挙げてみよう。

(1)「どんな方法でもいいから子どもがほしい」
 「子どもがほしい」という親の一念は、近年の生殖技術が登場する前から存在する。しかしながら、生殖技術が多様化する現代においては、これに独特の意味が付与される。すなわち、漠然と願っているだけではなく、「手に入る生殖技術のどれを用いてもいいから、子どもがほしい」という具体的な技術の選択肢を想定した親の一念になるのである。子どもがほしいという強い思いは、まだ生まれぬ将来の子どもにのみ注がれるのではなく、目の前に具体的なメニューとして示される様々な生殖技術ひとつひとつへと注がれる。子産みの欲望は、目の前の生殖技術への欲望として分節化されるのである。技術への欲望は、ときとして患者たちを、不毛な技術ショッピングに駆り立てるだけに終わる結果となることもある。

(2)「血のつながった子どもを持ちたい」
 通常の性交では子どもができないのだが、血のつながっていない養子を取るのもいやだ。そういう場合に出てくる欲望が、これである。なんとかして、「自分自身の遺伝子・血を残したい」と思ったり、あるいは「好きな相手の遺伝子・血を受け継いだ子どもがほしい」と思ったりする。現代の生殖技術は、それを様々な方法で可能にする。
 まず、「AIH」は、夫の精子を採取して、妻の子宮内に人工的に挿入するものである。この手法で子どもが生まれた場合、その子どもは父と母の双方の遺伝子を引き継いでいることになる。「顕微受精」は、卵の内部に精子を一個だけ人工的に挿入する技術である。夫婦の精子と卵を使った場合は、同じように双方の遺伝子を引き継いでいる。「IVF−ET(体外受精)」は、妻の卵を採取して、夫の精子と受精させ、その受精卵を妻の子宮に戻すものである。この場合も、双方の遺伝子を引き継いだ子どもが生まれる。
 「代理母」は、夫の精子を、契約した第三者の女性の子宮に挿入して、妊娠させるものである。生まれた子どもは、夫の遺伝子と、第三者の女性の遺伝子を引き継いでいる。この場合、カップルにとってみれば、夫の遺伝子しか子どもには伝わらないことになるのだが、それでも、少なくとも夫の遺伝子は引き継がれているわけだから、養子よりはましだということになるのだろう。代理母には、無償のボランティア、たとえば妹の子どもを姉が代理で生むというような場合と、金銭契約を結ぶ商業的代理母の二種類がある。米国では商業的代理母が解禁されている州もあるが、世界的に見れば規制のある国のほうが多い。【23】
 「借り卵」は、第三者の女性から卵を採取して、それを夫の精子と体外受精し、その結果得られた受精卵を妻の子宮に挿入するというものである。妻は、自分の子どもを妊娠出産することができるが、生まれた子どもの遺伝子は、夫と、第三者の女性から来ている。妻は、自分の遺伝子がまったく入っていない子どもを妊娠し、お腹を痛め、出産するという体験をすることになる。ただ、夫の遺伝子は含まれているわけだから、夫の遺伝子・血は残すことができる。米国では、卵子販売ビジネスが話題となっている。インターネットでカタログショッピングすることもできる。モデルの卵も高値で販売されているが、実際には、妻に似た人種・容貌の女性の卵を購入することが多いようだ。
 「借り子宮(借り腹)」は、夫の精子と妻の卵を体外受精させてできた受精卵を、第三者の子宮に挿入して、子どもを産んでもらうことである。代理出産の一種であるが、この場合、生まれてくる子どもの遺伝子は、父母双方のものを引き継いでいる。この意味では、一〇〇%血のつながった子どもを手に入れることができる。
 「AID」は、第三者の男性の精子を採取して、妻の子宮内に挿入するものである。日本では慶應義塾大学を中心に、不妊治療に長く使われてきた。米国では、いわゆる「精子バンク」があり、カタログで購入することができる。生まれた子どもは、第三者の男性の遺伝子と、妻の遺伝子を引き継いでいることになる。
 以上の生殖技術は、何らかの意味で、夫あるいは妻の遺伝子・血を引き継いだ子どもを作る技術である。たとえこのような技術を使ったとしても、自分自身の遺伝子あるいは好きな相手の遺伝子を受け継いだ子どもがほしい、という欲望があるのである。やっぱり養子ではだめなのだ。

 (3)「自分の身体で妊娠出産をしたい」
 これは女性の側に顕著な欲望であるが、他人に産んでもらったのではダメで、どうしても自分のお腹を痛めて子どもを産みたいという欲望である。すでに述べた例で言えば、「AIH」「顕微受精」「IVF−ET」「借り卵」「AID」などは、妊娠出産が妻の身体の中で行なわれる。養子を取るよりも、これらの生殖技術を選択したいという気持ちの裏側には、自分の身体で妊娠出産したいという欲望が隠されている可能性がある。
 これがさらにラディカルに現われるのは、次のような場合である。すなわち、第三者の精子と、第三者の卵を体外受精させ、得られた受精卵を妻の子宮に挿入して妊娠出産させるというケースである。第三者の精子と第三者の卵を使うのならば、その第三者の女性に産んでもらって、生まれた子どもを養子として引き取ればいいはずだ。しかし、それではダメで、その受精卵は自分の身体を通して産みたいと思う女性(カップル)がいたとすれば、その女性(カップル)は「自分の身体で妊娠出産したい」という欲望をかなえたいと強く思っているのである。日本で現在提案されている素案は、このようなケースを実際に想定している。第三者の夫婦が不妊治療のために作成した余剰胚を、不妊の夫婦が譲り受けて子どもを産むケースも、これと同じである。
 代理母になりたいと思っている女性も、このような欲望を口にすることがある。すなわち、自分は子どもを持って育てたいわけではなく、誰かの子どもを「産んでみたい」だけだのだと言う。妊娠して出産するという、女に与えられた至福の体験を味わいたいだけなのだと。そして、自分はまだ子どもはほしくないから、妊娠出産することで、誰かの役に立てればそれでよいと言うのである。代理母には、それほど飛び抜けて高額の契約金が支払われるわけでもないから、彼女たちに金銭以外の動機があると考えてもおかしくはない。

 (4)「こんな子どもならほしいが、こんな子どもならほしくない」
 一九六〇年代後半に羊水検査が登場したことによ【24】り、生まれてくる子どもの生命の選択の時代が本格的に始まった。胎児の段階で羊水検査をすれば、ダウン症や二分脊椎のような障害があるかどうかが分かる。それらの障害がなければ産むが、障害があれば産まずに中絶するという選択肢が開けた。これは深刻な倫理問題を生みだしたが、出生前診断と選択的中絶は、その後どんどんと広まった。ヒトゲノム計画の進展により、将来は、出生前診断できる先天的な障害が格段に拡大されると予想されている。たとえば、アルツハイマーになる危険性の高い子どもは中絶するというようなことが、可能になるかもしれないのである。
 さらに、受精卵の遺伝子操作や、胎児治療も考えられている。受精卵の遺伝子をあらかじめ操作しておけば、子どもの目の色を青くしたり、頭のよい子どもを産むことができるかもしれない。あるいは胎児の段階で整形手術をしておけば、美人が生まれるかもしれない。このように、親が望むような性質を持った子どもを、選択的に産んでいく生殖技術がますます進展するだろうと予想されている。「子どもが生まれてくれればそれでいい」という時代から、子どもの性質をあらかじめ親のプランに沿って細かく指定してから産むという時代に移り変わりつつある。

 (5)「誰かと同一の遺伝子をもった子どもがほしい」
 哺乳類クローン技術が登場して、人のクローンも一気に現実味を帯びるようになった。人のクローンが話題にのぼったとき、世界中で次のような三つの声があがった。第一に、不妊治療の最後の切り札としてクローン技術を使いたいということ。つまり、どんな不妊治療を行なっても子どもを得られなかったカップルの最後の手段として、父母どちらかの体細胞を、第三者の卵を使ってクローンし、父あるいは母と遺伝的に同一な子どもを作ろうと言うのである。第二に、若くして死んでしまった子どもの体細胞から、その子と同じ遺伝子をもった受精卵をクローンによって作り、それを子宮に戻して妊娠出産したいというものである。生まれてすぐに死んでしまったような場合、クローンで生まれた子は元の子にかなり似ている可能性はある。第三に、自分自身のクローンの赤ちゃんがほしいというものがある。不慮の事故などで自分の思っていた人生を生きられない人が、自分のクローンに望みを託したいと思うことがある。
 これらの欲望、とくに第二と第三の欲望は、死んでしまった子どもや自分自身と同一の遺伝子、つまり、誰の遺伝子とも混ざっていない遺伝子をもった子どもがほしいという欲望である。これは、哺乳類のクローン技術が登場してはじめて、人間が本気で自覚した欲望であると言える。

 生殖技術のもと、以上のような五種類の欲望へと、われわれの「子産み」の欲望は、「分節化」する。もちろん、以上の個別の欲望は、従来からも存在した。たとえば、「血のつながった子どもがほしい」という欲望や、「自分で妊娠出産したい」という欲望は、それ自体としては従来より存在するものである。「血のつながった子どもを得ることができるのならば、たとえ自分で生まなくてもよい」という欲望や、「自分で妊娠出産できるのならば、たとえその子が自分の子どもにならなくてもよい」という欲望すら、従来より存在した。
 だが、婚外子のケースを見ても容易に分かるように、ごく最近までの社会においてそれらの欲望を満たすということは、われわれが前提としてきた「近代家族」規範の外部に追放されても仕方がないということを意味したのである。「近代家族」規範をそこなわずに、それらの欲望を満足させることはできにくかったはずである。
 ところが、現在進行しているのは、それらの欲望を、新たな「家族規範」の内側へと内部化し、家族規範を侵犯せずにそれらを「分節化された欲望の選択肢」として任意に選び取ることができるようにしようという流れなのである。このあたりのことを、さらに検討してみたい。【25】

 近代家族規範の動揺

   先に述べたように、親子関係からみた「近代家族」とは、「父と母の両方の遺伝子を受け継いだ子どもを、生物的な母が妊娠し、出産し、生まれてきた子どもを父と母が家庭内で育てる」というような家族のことであった。生殖技術を、この「近代家族」規範の視点から位置づけてみよう。
 第一に、「近代家族」規範の枠内で処理可能なものがある。それは「AIH」「顕微受精」「IVF−ET(体外受精)」などである。それらは、父の精子と母の卵を用い、生物的な母が妊娠出産することになる。だから、「近代家族」規範は完全に守られている。これらの生殖技術は、先に述べたように、「近代家族」規範をかえって強化するはたらきをするとも言える。これはカップルに、なんとしてでも一〇〇%血のつながった子どもを産むことを追求させるテクノロジーなのである。
 第二に、「近代家族」規範の枠からはみ出してしまうものがある。
 まずは、父母子が形成する家族の中に、第三者の遺伝子・血が混入することを許すような生殖技術である。たとえば、「代理母」「借り卵」「AID」「第三者の精子と卵による妊娠出産」などである。これらは、第三者の精子あるいは卵、あるいは両方が、父母子の形成する家族に混入してしまう。混入することは覚悟のうえで、子作りをするわけである。
 次に、生物的な母が妊娠出産することを放棄するような生殖技術がある。「代理母」「借り子宮」などがそれである。父あるいは母の遺伝子は引き継がれているものの、子どもを生むのは第三者の女性であり、母はそれに関与しない。・自分で産まなくてもいいから、子どもがほしいという願いをかなえるわけである。 さらに、父母いずれかの遺伝子のみで子どもを作るような生殖技術がある。「クローン」がそれである。クローン技術の応用には様々なバリエーションが考えられるが、父あるいは母の体細胞をクローンして受精卵を作る場合、生まれてくる子どもの遺伝子は、いずれか片方の親の遺伝子と同一になる。クローン技術は、同性愛カップルにとっても朗報となる。いずれかの体細胞をクローンして受精卵を作って第三者(女性同性愛の場合はいずれかの女性)に産んでもらえば、片方の人間の遺伝子と同一の子どもが生まれる。
 以上のバリエーションを、別の観点から、以下の三つに再整理してみたい。

(1)「近代家族」規範に沿ったもの
 「AIH」「顕微受精」「IVF−ET(体外受精)」など。

(2)「近代家族」規範がかつて切り捨てたもの
 「代理母」「AID」など。歴史を振り返って考えてみれば、これらの生殖技術と同等の行為は、かつて社会的に承認されていたり、実際に広範に行なわれていたりした。たとえば、父が母以外の女性とのあいだに婚外子を作った場合、その子どもを様々な理由で父が引き取って育てるということが存在した。妾が公認されていた時代では、妾の子どもに家を継がせるということもあった。あるいは、母が他の男性とのあいだに子どもを作り、それを父母が自分たちの子どもとして育てるということもあった。
 ただ、それらの行為は、「近代家族」規範によって、望ましくない行為へと明確にラベリングされた。婚外子を家庭の中に引き取って育てることは、「近代家族」規範から見れば、眉をひそめるべきことである。違法性はないとしても、規範レベルでは不道徳的なこととみなされる。これが、われわれの縛られているイデオロギー装置である。
 ところで、「代理母」「AID」は、「近代家族」規範から見れば、婚外子を家庭の中で育てることと同等の行ないである。それは、かつては公然と存在していたのだが、「近代家族」規範によって追放されたはずの、不道徳な行ないに他ならない。「AID」に関しては、日本では昭和二四年より実施されており、すでに一万人以上の子ど【26】もが誕生している。これについて大きな問題は生じていないとされるが、「AID」で生まれた子どもが、みずからの出自を公然と心理的負担なく公言することができるような社会状況があるとは考えられない。この公然化を抑圧しているものこそ、「近代家族」規範ではないのだろうか。

(3)「近代家族」規範にとっての新事態
 「借り卵」「借り子宮」「第三者の精子と卵による妊娠出産」「クローン」など。これらの生殖技術は、「近代家族」規範にとって、まったく新しい事態である。なぜなら、これらの技術は、卵や受精卵の移植、体外受精、クローン技術など、一九七〇年代後半以降にはじめて実現した技術体系を基盤としており、かつ、それ以前にはけっしてあり得なかったような形の「遺伝子」と「妊娠出産」の組み合わせを可能にしているからである。ふたたび解説することはしないが、それらと同等の行為が、従来は不可能であったことを確かめてみていただきたい。

 以上のように、生殖技術の進展による欲望の「分節化」は、「近代家族」規範に対して、これら三通りの事態を突きつけていると言える。「近代家族」規範は、これらに対して、どのような答えを出そうとしているのだろうか。
 ひとつの答えは、米国の一部の州で可能になっているように、これらの技術を積極的に取り入れて、「近代家族」規範そのものを脱構築しようというものである。これらの生殖技術のなかで唯一禁止されるのは、「クローン」である。これはまだリスクが高く、生まれてくる子どもへの発ガン性の危険などが指摘されており、国際的にも禁止のコンセンサスが成立している。できる限り生殖技術を認めようとするこのような方向性は、「近代家族」規範がかつて切り捨てたものを貪欲に回収し、さらに新事態に対してもまた規範の内部へと組み入れていこうとするものである。おそらく、その結果として、「近代家族」規範はその意味内容を大幅に変容させられることになるか、あるいは別の形の「家族規範」へと脱構築されることになるであろう。
 これに対して、日本では、ある種独特の解決が模索されようとしている。二〇〇〇年一二月に、旧厚生省の厚生科学審議会先端医療技術評価部会生殖補助医療技術に関する専門委員会は、「精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療のあり方についての報告書」を発表した。これは、精子や卵を提供する生殖医療についての基本的な考え方を審議したものであり、今後の法制化作業の叩き台になると目されているものである(3)。
 専門委員会は、この問題を考えるに当たっての基本的な考え方を以下のように定めた。「生まれてくる子の福祉を優先する」「人を専ら生殖の手段として扱ってはならない」「安全性に十分配慮する」「優生思想を排除する」「商業主義を排除する」「人間の尊厳を守る」。
   そのうえで、生殖技術の可否について議論し、結論を出した。それをひとことで言えば、「代理母」「借り子宮(借り腹)」は禁止するが、それ以外は条件付きで承認するというものである。「クローン」人間作成については、すでにクローン規制法で禁止されているので、これを加えた三つ、「代理母」「借り子宮」「クローン」を禁止するというのが結論である。
   その理由として、委員会は次のように述べる。「人を専ら生殖の手段として扱い、また、第三者に多大なリスクを負わせるものであり、さらには、生まれてくる子の福祉の観点からも望ましいものとは言えないものである」から、代理母と借り子宮は禁止する、と。しかし、この理由よりもさらに重大なのは次の規定であると思われる。すなわち、親子関係の確定に関して、「提供された卵子・胚による生殖補助医療により子を妊娠・出産した人を、その子の母とする」と法律に明記すべきであることを、委員会は宣言しているのである。
 妊娠出産した女性が、子どもの母親であるという断固とした姿勢がここにはある。代理母と借り子宮が禁止された真の理由は、それが、妊娠出産【27】した女性を、子どもの母親としない生殖医療だからである。ここに見られる「子どもは母親の身体を通って生まれてこなければならない」という規範意識を、どのように考えればよいのであろうか。ちなみに、米国では、卵を与えた母親が子どもの母親であり、代理母の場合はその親権が契約者の夫婦のもとに移行するわけである。
 ただし、この専門委員会の答申に対して、日本でも代理母を解禁すべきだとする産婦人科医たちが反対運動を開始しており、その中には有力者もいることから、この答申の方針がそのままの形で法制化されるとは限らない状況である。
 古くから、「産みの親」と「育ての親」という言葉がある。生殖技術の進展に伴って、いまやそれに加えて「遺伝上の親」という言葉を付け加えなくてはならなくなった。つまり、親子関係もまた「遺伝上の親」「産みの親」「育ての親」の三つへと「分節化」が進んだと見ることもできる。母子関係の確定において、妊娠出産という「産みの親」の側面に特別の地位を与えるという発想について、それを支えるものが何であるのかをさらに考察しなければならない。これは、上記委員会だけの思想ではなく、広く一般にも見られる思想だと思われるからである。

4 子どもを産まないという価値

 最後に、子産みの欲望の分節化と、近代家族規範について、ひとつだけ述べておきたいことがある。親子関係からみた「近代家族」とは、「父と母の両方の遺伝子を受け継いだ子どもを、生物的な母が妊娠し、出産し、生まれてきた子どもを父と母が家庭内で育てる」というような家族であった。この背後には、「結婚した男女は子どもを産んで育てるべきである」という「子産み」規範が存在していることに注意しなければならない。「近代家族」規範とは、父と母が子どもを産み、その子どもがまた子どもを産み、そうやって近代家族という装置それ自体が絶えず再生産され続けることを求めるイデオロギーである。だから、どのようにして子どもを産むかということ以前の問題として、そもそも男女は子どもを産むべきだという暗黙の規範命令があると考えなければならない。それこそが、歴史のある時期に形成された「近代家族」規範の根本にある思想である。
 この暗黙の規範命令が、「結婚したら子どもが生まれて当然」「女は子どもを産んで一人前」という大衆的な常識を作り上げたと言える。この大衆意識はきわめて強力である。今日でもなお、結婚式の挨拶で、あるいは会社の上司から、何度も「次は元気な赤ちゃんを」「子どもはまだか」と言われ続けなければならないのである。そのような親族・世間からの圧力に負けて、不妊治療に奔走しなければならなくなるカップルが出現する。
 この子産みに関する暗黙の規範命令が、子産みの欲望の分節化をさらに加速する。子どもを産むためには、遺伝子の連続性を犠牲にしてもいい、自分自身で産まなくてもよい、第三者の精子や卵と体外で受精させてもいいというふうに、欲望を具体的に分節化させて実現しようとする。分節化された欲望は、分節化された生殖技術を進展させる。逆に、分節化された生殖技術は、われわれの欲望を分節化する。この二つは、コインの両面である。このようにして分節化された欲望=技術は、近代家族規範を攻撃する。すなわち、近代家族規範によって排斥されてきたもの、あるいは近代家族規範が取り扱えなかったものを、新たな家族規範へと内部化して、「何ら後ろめたいことではないもの」へと変更するように要求する。それが後ろめいたものではなくなれば、さらに多くのカップルが、この分節化された欲望=技術を利用することができるようになる。そのような突き付けを受けた近代家族規範の動揺が、いま生殖補助医療に関する法整備の問題として現われているのである。
 近代家族規範が、この新たな状況を内部化してゆけば、それはふたたび、子産みに関する暗黙の規範命令を強化することにつながるだろう。そうやって、ここに「子産みへ、子産みへ」と走る自己目的的な渦が形成される。その渦の形成に【28】よって、「子どもを産まなくても立派な家族」という考え方が疎外されていく。
 したがって、近代家族規範の変容が、それとは異なった新たな「家族規範」を生み出すのか、それとも単に近代家族規範を拡大するだけに終わるのかという瀬戸際に、われわれは立たされているのかもしれない。「子どもを産まなくても立派な家族」という規範が、単に建前だけではなく、大衆の日常的な規範意識の中に根付く形で近代家族規範の変容がもたらされるのならば、その変容は、新たな家族規範の到来へと接合されていくことになるはずである。ところが、生殖技術の新展開を、近代家族規範の内部へと単に繰り込むだけに終わってしまえば、逆に、近代家族規範は強化されるだけになってしまうであろう。
 生殖技術だけではない。いま叫ばれている少子化対策や、家庭崩壊の危機が起きるという理由で夫婦別姓が成立しないという状況など、近代家族規範強化の動きは至るところに見られる。生殖技術の新展開が、それらの状況にどのように交差することになるのか、われわれは注意深く見守っていかねばならない。

(1)落合恵美子『二一世紀家族へ』(有斐閣 一九九四年)九九ページ以降。
(2)木戸功「家族社会学における「多様性」問題と構築主義」『家族社会学研究』No.12,(2000):43-54.
(3)旧厚生省HP<http://www1.mhlw.go.jp/shingi/s0012/s1228-1_18.html> に全文がある。関連論文・資料が私のHP<http://www.lifestudies.org/jp/>にある。 【29】