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作成:森岡正博 
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論文

『人間科学:大阪府立大学紀要』2 2007年3月 65−95頁
生延長(life extension)の哲学と生命倫理学
:主要文献の論点整理および検討
森岡正博

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1 問題の所在

 英語圏の生命倫理学では、21世紀に入って、新たなトピックスが盛んに議論されるようになった。エンハンスメント(能力増強)、ニューロエシックス(脳神経倫理学)などがその代表例であるが、本論文で検討するライフエクステンション(生延長)もまたその一例である。これらの諸問題は、狭義の医療倫理学の域を超えており、また将来の技術予測を前提としたSF的倫理学の趣をもっている。これらの話題が真剣に論じられている理由としては、近年の生命科学および生命科学技術の急速な発展がある。以前ならば単なるSFとしてしか認識されなかった問題群に、大きな現実味が出てきた、というふうに感じる現場の科学者や倫理学者たちが現われてきたのである。
  これらの諸問題に本格的に取り組んできたのは、米国の生命倫理学者たちである。後に詳しく検討するが、米国の大統領生命倫理評議会報告書『治療を超えて:バイオテクノロジーと幸福の追求』(2003年、以下大統領レポートと略する)(1)がそれらの問題を本格的に扱ったことが、この領域の議論を一気に加速させることとなった。生命科学や遺伝子科学が世界でもっとも進んでいるのは米国であるから、これらの議論が米国で発展するのは当然の結果であろう。実際、米国では、生延長を目指す団体や、生延長研究に財政的支援をする団体が活動している。たとえば、「不死協会Immortality Institute」「メトセラ財団Methuselah Foundation」「生延長財団Life Extension Foundation」などが存在する。古くよりある「クリオニクス協会Cryonics Institute」もその一例とも言えるかもしれない。この分野の実践と議論における米国の突出ぶりは顕著である。しかし、日本も生命科学の分野では米国のすぐあとを追走しているのであるから、上記の諸問題に対しても正面から検討しておかねばならないのは明白である。
  本論文は、「生延長life extension」の哲学と倫理について、英語圏の生命倫理学の領域でなされてきた代表的な議論を検討し、今後の議論の方向についての見通しを与えることを目指したい。「生延長の倫理」についての日本語の本格的な論文は、いまのところ見当たらない(2)。したがって本論文の主眼は、この分野の代表的な議論を文献学的に整理して紹介することとなるが、それに加えて筆者自身の視座をも最後に付加することにしたい。
  本論に入る前に術語について簡単に整理しておきたい。ライフエクステンションという言葉には、「生延長」という日本語を充てることにする。まだ定訳はない(大統領レポートの翻訳では「生の延長」という言葉を使っている)ので、暫定的な訳語として受け止めてほしい。「生延長」とは、遺伝子操作、摂取カロリー制限、薬理学的介入などの諸方法によって、個人の生存期間を伸張させること、あるいは人間集団の生存期間の平均値を伸張させることを意味する。生延長の方法には、現時点で効果の判明しているもの(摂取カロリー制限)と、将来可能になるであろうと予測されているもの(遺伝子操作など)がある。詳細な定義は論者によって異なるので、各論文を検討するときに個別に触れることにしたい。また、「生延長」とよく似た概念として、「延命」がある。「延命」は、医療倫理学におけるprolonging lifeの翻訳として定着したもので、終末期において安楽死や尊厳死を施すことなく、できるかぎり患者を生かし続けておくことを意味する。本論文で取り扱う「生延長」は、従来の医療倫理学における「延命」とはまったく文脈を異にしている。生延長は、人間が終末期に至るはるか以前から開始される。できるだけ長生きしたいという人間の欲望をかなえるために、中年期、青年期、あるいは子どもや受精卵の時期から技術的介入を行なうのが、生延長なのである。この意味で、生延長は、生命倫理学にとってきわめて新しい問題であると言えるだろう。

2 ハンス・ヨナスの問題提起

 生延長は、生命倫理学にとってきわめて新しい問題であると述べたが、人類にとってはけっしてそのようなことはない。各地の神話では、有限な生を宿命付けられた人間と、無限に生きることのできる神々との葛藤が描かれてきた。そして長寿や永遠の生命を得ようと試みる人間の姿も描かれてきた。生延長と不老不死は、人類にとっての大テーマだったのである。20世紀においては、SF小説の中でそれらのテーマは様々に考察された。たとえば、オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(1932年)(3)では、クローン技術などの生命科学技術によって人間の寿命が延び、人間たちは死ぬ直前まで若さを保つことができ、死ぬときは突然死するという世界が描かれている。またジョン・ブアマンの映画『ザルドス』(1974年)(4)では、人間に無限の生が与えられた世界が登場するが、そこでは、人間は永遠の若さを与えられ、たとえ死んだとしても医療技術によって何度でも強制的に蘇生させられるのである。ハックスリーの『すばらしい新世界』は、生命倫理学において常に参照され続けてきた。生延長とあくなき若さの追求は、必ずしも人間社会を幸福にしないというその小説のトーンは、現代の議論に大きな影響を与えている。
  20世紀の生命倫理学において、生延長について正面から取り組んだ代表的な論文として、1992年に発表されたハンス・ヨナス(Hans Jonas)の「死すべき運命の重荷と恩恵」(1992年)(5)がある。ヨナスは1903年ドイツ生まれで、20世紀を代表する哲学者のひとりである(ハイデガーとブルトマンに師事した)。彼は1993年に89歳でこの世を去っている。したがって死の一年前に発表されたこの論文は、ヨナスが自分自身の死に面しながら書き上げた、文字通り白鳥の歌であったと言えるだろう。そのテーマが人間の死すべき運命と不死性であったというのは感動的である。ヨナスは、グノーシス研究と同時に、環境倫理学、生命倫理学についても重要な著作を残している。この論文は、米国の代表的な生命倫理学の学術誌である『Hastings Center Report』に英語で発表されたものである。この論文は、彼の死後に展開される生延長の議論に多大な影響を与えてはいるものの、彼の議論それ自体は高度に思弁的かつ形而上学的であり、英語圏の生命倫理学の文脈においては孤高かつ特異である。以下、彼の思索の筋道を追ってみたい。
  ヨナスは、死すべき存在mortalという言葉には二つの意味が混ざっていると述べる。ひとつは、生物(被造物)はいついかなるときでも死をまぬがれてはいないということ、すなわち「死に得るcan die」という意味である。もうひとつは、生物は死を宿命付けられているということ、すなわち「死ななければならないmust die」という意味である。前者は「重荷burden」であり、後者は「恩恵blessing」であるとヨナスは言う。この二つを論証することが彼の論文のメインテーマとなる。
  ヨナスはまず前者について検討する。この部分は、彼の主著である『有機体と自由』(1973年)(6)の要約という感がある。ヨナスによれば、有機体すなわち生命体の基本はメタボリズムである。すなわち有機体は、外界から物質を取り入れ、それを代謝して排泄することによって、生命を維持している。この意味で、有機体はメタボリズムという「行為」によって自分自身の「存在」を獲得したと言える。有機体の存在を支えているものは、有機体の行為である。この点で、「有機体」は、何もしなくてもただ存在しているだけで自分自身の存在が確定する「物体」とは、まったく異なった存在様式をしているのである(7)。
  生命体は、みずからの行為によって、みずからの存在を、物質界から立ち上げたのだから、「生命は自分自身に対してイエスと言っている」のである(8)。しかし、生命それ自体の存在は、いつこの世から奪われても仕方がないようなものである。したがって、「生命存在は、いつ起きてもおかしくない非在=死に抗することによってのみ、みずからの存在を味わい、みずからを肯定し、みずからを自己目的となすことができるのである」(9)。
  生命体は死という重荷を背負わされているのだが、生命体はその代償として、感覚の能力というもの、そして主観的内面性の次元というものを手に入れた。その最初期の痕跡は、自己維持し自己複製する細胞の誕生の時点にまでさかのぼることができるとヨナスは推測している。その内面性は、進化によって、さらに意識的で主観的な生命へと高まる(10)。
  ところで、われわれ人間がそのような内面性を持ったことは、ほんとうによいことだったのか、とヨナスは問う。たとえば、もし人生の楽しみの総量よりも苦しみの総量のほうが多かったなら、人生は生きるに値するのだろうか(11)。この問いに対してヨナスは、そのような快楽主義的な推論を拒絶する何ものかがわれわれの中にはあると言う。そして、われわれの存在価値は、われわれの存在と引き替えに生み出されてしまったいかなる苦しみをも凌駕するのだと述べる。いくら苦しみがあるとは言っても、死によって、苦しみを存在させる条件それ自体が消滅するわけであるし、また世界に意味が生み出される形式としてはこのような存在様式しかないのだから、「われわれすべてに負わされる死すべき運命の重荷は、ずっしりと重たいものheavyであると同時に、意義深いことmeaningfulでもあるのである」(12)。
  ここからヨナスは、なぜ死が意義深いこと、すなわち恩恵であると言えるのかという第二の問題に移っていく。自然界には老いない動物も存在する。だとしたら、人間もまた老いないで無限の寿命をもつように改造できるかもしれない。しかし人間の寿命を無限に延ばすことは、はたして医療の正当な目標となるのか、とヨナスは問いかける。ヨナスは、この問題を、社会のレベルと、個人のレベルに分けて考察する(13)。
  まず社会のレベルでは、人類の絶えざる世代交代について考えなければならない。古い世代が死んで、新しい世代がそのあとを引き継いでいくというのは、人類にとって決定的に重要である。ヨナスはここで、友人ハンナ・アレントの造語である「ネイタリティnatality」という概念を引き合いに出す。ネイタリティは和訳しにくいが、この文脈では「人がこの世に生まれ落ちること」というような意味で理解してよいであろう。(ハンナ・アレントは、主著『人間の条件』第5章において、人間が出生すること、そしてそこから新しいものごとが開始されていくことの重要性を述べている(14))。ヨナスは言う。ネイタリティは以下のようなことを示している。すなわち、

 われわれはみなこの世に生まれてきたのであり、すなわちそれは人々が長い間住んできたこの世界に新たな始まりを持ち込んだのであり、これから将来にわたっても、そのような新たな人々が現われてくるのであり、それらの人々はこの世界をはじめて見て、ものごとを新しい目で観察するのであり、年老いた人たちが習慣に飽き飽きしているその同じ場所で驚異の目を見開き、年老いた人々が到達したその地点からすべてを新たに開始しようとするのである。・・・(中略)・・・絶えず更新されていくこの開始の運動は、絶えず繰り返される個人の生の終末という代償を払ってのみ成り立つものであり、そしてそれは人類が退屈とルーティーンに落ち込んでしまわないためのセーフガードとして働くのであり、人類が生命の自発性を失わないための格好の機会となるのである。(15)

 このように、人間に死が宿命付けられているということは、同時に、その死を埋め合わせるようにして新たな人間がこの世に生まれてきて、そこから新たな可能性が開始されるということをも意味しているのである。ところが、個人の寿命をどんどん人工的に伸ばしていくと、それと引き替えに、若い人々が生まれてきて活躍する場がどんどん縮小されることになる。社会の共通善を考慮したときに、このような状態にはノーと言うべきであるとヨナスは述べる。年老いた人が退場していくことによって、人類には創造性がもたらされる。「したがって、歳を重ねることから生まれてくる多様な文化的な収穫を賞味したいと思い、またそれなしには人生つまらないと思うすべての人は、さらに言えば進歩の擁護者・崇拝者ならばなおさらのこと、人間の死すべき運命を呪いとしてではなく、恩恵として捉えるべきである」(16)。
では、次に個人のレベルではどうだろうか。社会全体にとっては、人間の死すべき運命は大きな意義があるのだとしても、それを個々人の生の延長にまで当てはめることはできないのではないかという反論がありそうに思える。たとえば、自分自身の生を無限に延長して、人生の果実を際限なく味わい続けたいと思う個人がいたら、どうすればいいのか。それに対しては、まずはガリバー旅行記の不死の国の逸話を思い起こしてみればよいとヨナスは言う。不死の運命をもって生まれてきた人たちは、実際には憐れまれ、軽蔑され、悲惨な運命をたどるのである。不死の人生は、やがて彼ら自身にとって重荷となり、まわりの普通の人々にとっても重荷となり、不死人のあいだでもお互い耐えがたい存在になるのである(17)。
  ただ、ガリバー旅行記の設定では、不死人は死はまぬがれていても、老衰はまぬがれていない。では将来の技術によって、老衰せずに生延長をすることができるようになったら、どうなのだろうか。そのような状況で、際限なく生延長することは、はたして本人にとって望ましいことなのだろうか。
  この問いに対して、ヨナスは次のような思考実験を行なう。仮にそのような技術ができたとしよう。しかしたとえわれわれの身体の主要な働きにガタがこなくても、われわれの脳が貯蔵したり追加したりできるリミットというものがあるはずだ。われわれの精神は、みずからのこれまでの長い経歴を、自分のアイデンティティの基盤として、現在という時制にはめこんでいる。はめこまれたわれわれの過去は、知識や感情や習慣などとともにわれわれの内部で絶えず成長していく。そのような作業によって、われわれの精神的なアイデンティティは維持される。ところが、もし生が限りなく延長されたとしたら、その増分に見合うだけの内面の作業をするスペースは脳の中にはないのだから、脳の中に新しい内容物を入れるためには、古いものを定期的にデリートしなければならなくなる。だから結局のところ、われわれは「過去を失い、それとともに真のアイデンティティを失うという犠牲をはらうか、さもなくば過去にのみ生き、したがって真の現在なしに生きるという犠牲をはらうことによってのみ」、際限のない人生を享受することができるのである(18)。
  ヨナスは言う。たとえ個人の生が限りなく延長されたとしても、その人の感性や理解力は、時代の激しい変化についていけなくなるであろう。ヨナス自身、今日の芸術は理解できなくなっていると述べる。「あらゆる点において、また未来にわたってずっとよそ者strangerになり続けることを想像すると、とても恐ろしい。そしてそれを回避することのできる確実性(=死[森岡註])は人を安堵させる」(19)。
  ヨナスは結論する。「肉体的な老化を迂回するために、いつの日かバイオテクノロジーが提供することになるであろうところの若さの泉をもってしても、われわれの種に本来的に許されている寿命の長さを超えてまでmore than its original allowance to our species for the length of our days、自然から長寿を盗み取ろうとするようなことは、けっして正当化されないのである」(20)。
  このようにヨナスは、社会的なレベルにおいても、個人的なレベルにおいても、際限なく生を延長しようとする試みに対して、否定的な結論を下すのである。ヨナスの最初の命題に戻ろう。死すべき運命が人間にとって恩恵なのはなぜだろうか。それが恩恵なのは、生が限りなく延長されることによってもたらされるであろう泥沼のような地獄に陥ることを、死が食い止めてくれるからである。もし死を回避する技術があれば、われわれは、自分自身の欲望に突き動かされて、その技術で生を無限に延長しようとするだろうが、その結果として待ちかまえているのはけっして幸福な人生ではなく、ストレンジャーとして社会からも文化からも自分自身の記憶からも取り残される悲惨な人生なのである。そのような悲惨を一方的に食い止めてくれるものこそが、あの忌まわしい死なのであり、その意味において、死の到来は人間にとって恩恵として働くのである。これが、ヨナスがこの論文においてもっとも言いたかったことであろう。そしてこのような思索が、みずからの死に直面した89歳の頭脳明晰な哲学者に、ひとときの救済と安堵をもたらしたであろうことは想像に難くない。

3 レオン・キャスと大統領生命倫理評議会の見解

 2003年に刊行された、大統領生命倫理評議会レポート『治療を超えて』は、21世紀の米国の生命倫理界に衝撃を与えた重要文献である。このレポートの性格については、別論文で詳述したのでここでは述べない(21)。一言だけ述べておけば、この評議会の委員長に任命されたレオン・キャス(日本ではカスとも表記する)は米国の保守派の生命倫理学者の代表的人物であり、彼を任命したのが、かのジョージ・W・ブッシュ大統領であったということである。キャスは、かねてより、中絶、同性愛、尊厳死などに対して否定的な見解を表明してきており、神から与えられた寿命を人間の都合で延ばそうとする生延長の技術に関しても、慎重な立場をとってきた。大統領レポートは、生命倫理評議会によって書かれたという体裁をとっているが、事実上キャスが執筆したか、あるいはキャスの強い影響下で作成されたと推測される。このレポートは、米国では、キリスト教保守派による新・生命倫理宣言として受け止められている。1980年代の生命倫理学を作り上げてきたリベラル派の生命倫理学者たちは、これらキリスト教保守派による生命倫理に対して、強い警戒心を抱いている。英語圏の生命倫理は、いまや、キリスト教保守派・対・リベラル派の代理戦争の状況を見せ始めているのである。後に見るように、この状況は、生延長についての議論にも大きな影を落とすこととなった。
  話を戻せば、この大統領レポートは、今日の生延長の議論にもっとも大きな影響を与えた文献である。大統領レポートは、その第4章をすべて生延長の議論に充てている。2003年以降に学術誌に発表された生延長に関する様々な論文は、多かれ少なかれすべてこのレポートを念頭に置いて書かれたものであると言ってよい。
  では、大統領レポートの内容を見ていきたい。前節で検討したヨナスの議論が、このレポートに大きな影を落としていることが見て取れるはずである。
  レポートの第4章は「不老の身体ageless bodies」と題されている。そこで議論されているのは、不老不死を追求することは倫理的に見てどうなのか、という問題である。この問題が浮上してきた背景には、遺伝子操作技術の急速な発展がある。たとえば線虫(C.エレガンス)の単一遺伝子を変異させることによって、寿命を2倍から3倍に延ばせることが分かってきた。ほ乳類のマウスでも、25%から50%まで寿命が延びたとの報告もある。これらの研究成果が人間に応用されるのも間近であろうと言うのである(22)。
  レポートは、「生延長」と「老化遅延age-retardation」を区別する。生延長とは、人間が生きている期間を長くすることである。生延長には、若いまま長生きすることも含まれるし、老いた状態で長生きすることも含まれる。これに対して老化遅延とは、老いをできるだけ先延ばしすることである。それによって生延長も結果的に達成されると考えられる(23)。
  生延長には3つの方法がある。それは(1)青年と中年の死亡数を減らすことによって、多くの人々が老年まで生きられるようにすること、(2)老年期にかかる病気や障害を減らすこと、(3)老化のプロセスに介入して、最長寿命を延長すること、の3つである。これらのうち、いまもっとも活発に議論されているのは、第3番目の直接的な老化遅延である(24)。そこには、筋肉の強化、記憶の強化、摂取カロリー制限、遺伝子操作、酸化防止、成人病治療などが含まれる(25)。
  これらを念頭に置きながら、レポートは生延長と老化遅延の倫理的問題の議論に入っていく。レポートは二つのことを指摘する。ひとつは、幸福な生延長は、「健康と若々しさが長期間続いたあとに、肉体の老化が非常に早くやってきて、引き続いて死が突然に訪れる」というかたちを取るにちがいないということである(26)。これはまさにハックスリーが『すばらしい新世界』で描いた世界そのものだ。もうひとつは、生延長と老化遅延を押し進める衝動というのは、「不死への欲望desire for immortality」に似たものであるということである(27)。生延長、老化遅延は、不死の追求へと一直線に結びついている。そう指摘したうえで、レポートは述べる。「死すべき生の良いところは、単にそれが死を導くというところにあるというよりも、むしろその本性上、われわれはいずれ死ぬということ、そしてわれわれは死すべき現実を心に刻み込みながらみずからの人生を生きる必要があるということを、われわれに絶えず教えるところにあるのである」(28)。
  これらのことを確認したうえで、レポートは、もし最高の健康状態が20年、ひょっとしたら200年も延長されるようになったときに、どのような事態が生じるのかを、個人のレベルと社会のレベルに分けて考察していく。
  まず個人レベルでは、6つの論点をあげている。第1は、寿命が長くなることによって人生の可能性が広がる。死の恐怖も薄まるかもしれない(29)。第2は、寿命が延びることによって、自分の人生へのコミットメントが薄くなる危険性があるということである。われわれは、残された時間に限りがあるということ、そして最後の段階では残された幾年間のうちの一部分しか使い切れないということを知っている。そしてこのことを鋭敏に気づけば気づくほど、われわれは自分にとってもっとも重要で大切なことに命を費やしたいと望むようになる。レポートは次のように述べる。

 まさに命を費やすというその経験spending a life、そしてそれによって自分の命が費やされていくbecoming spentという経験、それはすなわちまさに老いるという経験でもあるのだが、それがあるからこそ、人生の達成と人生へのコミットメントの感覚が生まれてくるのであり、時間が過ぎゆくことに意味があるという感覚が生まれてくるのであり、時間の中をわれわれが通り過ぎてゆくことに意味があるという感覚が生まれてくるのである。自分自身の活動によって命が使い尽くされていくことが、この世を十全に生きるという感覚を作り上げているのである。(30)

 そのような感覚を奪われた人生は、「みずから没頭することも、コミットすることも少ない人生になってしまうだろうし、それはわれわれが充分に人間的だとこれまで考えてきたような人生とは、まったく異なったものとなることだろう」(31)とレポートは述べている。この直後にレポートは、そのような人生を悪いと言っているわけではないと弁明しているが、しかしそれまでの叙述のニュアンスは明らかに否定的なものであると言わざるを得ない。
  さて第3点は、生延長によって死の予感が遠ざかることで、人生に切迫感がなくなることである。第4点は、生延長によって、子どもに対する感覚が激変するということである。老化遅延技術は、生殖能力を減少させるという動物実験の結果もある。第5点は、生延長によって逆に死への不安が高まるかもしれないという点である。これは重要なので詳しく見てみたい。生延長に積極的な人というのは、なるべくなら死を避けたいと思っている人であろう。レポートは次のように述べる。

 もしこれらのテクノロジーが、実際のところ不死を達成するのではなくて、せいぜい生をいくぶん延長するだけのことであるならば、それは死をより絶えがたいものにし、死をより恐ろしいものにし、死のことが頭から離れないようにしてしまうかもしれないのである。・・・(中略)・・・老化遅延の時代においては、われわれは実際にはよりいっそう強く死のことを考えながら生きなければならなくなるのかもしれない。それは人生へのコミットメント、人生への没頭、切迫感、世代交代へとわれわれを導くのではなく、逆に、不安、自己中心的態度へとわれわれを導き、ちょっとした肉体的不調やあらゆる新しいアンチエイジング法のことでいつも頭がいっぱいになっているという状態へと、われわれを導くことになるのである。(32)

 それに加えて、もし生延長にともなって、老衰の期間もまた大幅に延びるようなことにでもなれば、「死が恩恵blessingとみなされるようになるかもしれない」し、「もしこの悲惨を終わらせる致死的な病気がないのであれば、安楽死や幇助型自殺への圧力が増すかもしれない」とレポートは書いている(33)。
 第6点は、歳を取ることの意味が、人生の中で失われていくことである。

 老いというのは、結局のところ、人生行路を調停してゆくプロセスなのであり、時が過ぎ去っていく感覚や、自分自身の成熟や、他者との関係性というものに形を与えてゆくプロセスである。老化遅延のテクノロジーは、老化というものを人間のプランのうちにはっきりと位置づけて、それをより操作可能で制御可能なものにする。そして、老化というものを、自然・時間・成熟という拠り所から部分的に切り離すのである。それによって老化はわれわれの手中に収められるのであるが、それと同時に老化は、われわれの十全な人間的生を構成するところの、容易には理解しがたい構成要素となってしまうのである。(34)

 その結果として、われわれの生は、「これまでわれわれが真に人間的であると理解してきたものからは、根本的にかけ離れたもの、おそらくはそれより深くもなく豊かでもないものless serious or richになるかもしれない」と、レポートは結論する(35)。以上を総括するに、個人レベルの生延長と老化遅延に対して、レポートは非常に冷ややかな態度を取っていると見てよいであろう。とくにこの最後の言葉には、キャスらのキリスト教保守派の生命倫理学者たちの本音が現われているように思われる。
  次に社会レベルであるが、レポートは3つの論点を指摘している。第1は、健全な世代交代が妨げられてしまうという点である。年上の世代がいつまでも元気だから、年下の世代はいつまでも押さえつけられたままとなる。第2に、長く生きると世界を新鮮な目で見ることができにくくなるから、社会から新鮮さや大胆さがなくなっていく。第3に、そのことによって社会全体が老化していくだろうsociety as a whole would age (36)。そして現状維持ばかり気にするような世界になる(37)。
  以上の考察をもとに、レポートは、以下のように結論する。
  現在の約80年のライフスパンは、祖父母、親、子の三世代が同時に存在して、経験を若い世代へと受け渡していけるようになっている。「ここでは、世代と養育、依存と相互の寛容が、調和のとれた均衡をなしていて、そこには人生行路の一定の歩調があり、誕生・壮年期・老化という繰り返しのサイクルの中に、調和的に統一された歩みを刻み込んでいくのである。それは、愛と再生のバランスと美を示しているのであり、またそれは、いくらつらいことであるとしても人間の経験に意味と卓越の可能性をもたらすところの「死」、に対する(良き)回答となっているのである」(38)。しかしこのような調和の状態が、われわれの欲望に駆り立てられたテクノロジーによって、「投げ捨てられ、忘れ去られ」るかもしれないのである(39)。
このように指摘したうえで、レポートは次のように書くのである。

 誕生と成長、老化と死という生命の移りゆきを肯定することによって、われわれは何か永遠なもの、何かこの「時間のドラマ」を超越したもの、地上の諸プロセスを超越しかつそのプロセスに目的を与えるもの、への通路を発見できるのではないだろうか、そしてわれわれを、すべての無秩序・堕落・死を超えた尊厳なるものへと引き上げることができるのではないだろうか。(40)

 レポートのこの箇所では、「神」という言葉がもうほとんど出かかっている。生と死のプロセスは現状肯定すべきだし、生延長は控えたほうがよいというレポートの基本姿勢の背景に、キリスト教保守主義のイデオロギーを嗅ぎ取る者は多い。もう一文紹介しよう。

 老化と死のみが、われわれに、時間というものの本質を気づかせてくれる。老化と死によって、われわれは、地上の生命の進化が永遠なる存在を希求する魂を生み出したということを知る。そして、もしこのような言い方を許してもらえるならば、最終的には時間それ自体を超越することができるところの永続的で有意味なものごとへとわれわれを参与させるチャンスを希求するような魂を生み出したということを、知るのである。(41)

 この箇所もまた、「キリスト教的な永遠」のことを指していると考えられる。
  以上のように、大統領レポートは、生延長と老化遅延について、それを禁止せよとは言ってないにしても、きわめて否定的な見解を打ち出したのである。そうすることによって、われわれの欲望によって限りなく押し進められていくテクノロジーに対して、最大限の警鐘を打ち鳴らしたのである。

4 2003年以降に現われた論調

 大統領レポートは、米国の生命倫理評議会という政府機関から発行されたこともあって、生命倫理の世界に激震を与えた。ブッシュ政権は、ES細胞研究や治療用ヒロクローン研究に対して消極的だったこともあり、リベラル派の生命倫理学者だけではなく、現場の生命科学者からも異論が沸き起こった。と同時に、政府の報告書として、このような思想文書がふさわしいのかという疑問の声も起きた。
  2003年以降の生命倫理関連の学術誌には、大統領レポートに反論する形で生延長について議論する論文が立て続けに発表されることになる。以下に、そのいくつかの実例を紹介することにしたい。
  デイヴィッド・ジェムズ(David Gems)の「より多く生きることは常によりよいことなのか?」(42)は、大統領レポートと同じ年に発表されたものである。(ジェムズが大統領レポートを参照できたかどうかは定かではないが、レオン・キャスのそれ以前の論文は参照されている)。この論文でジェムズは、生延長の問題点とされるものを検討する。
  まず、生延長が実現したらとてつもない人口増が起きるのではないか、という声がある。これに対してジェムズは、先進国では人口減が始まっているし、その傾向はやがて地球全体に広がっていくだろうから、人口増はたいした問題ではないと反論する。それに、栄養状態の改善などによって20世紀に乳幼児死亡数が減り、かなりの人口増が起きたのだが、このことを「良くなかった」と言う人はいないであろうと述べる(43)。
  次に、ジェムズは配分的正義の問題を指摘する。すなわち、金持ちだけが生延長のテクノロジーを利用できるのは問題ではないかというのである。であるから、将来は、生延長技術へのアクセスが、ちょうど教育へのアクセスと同じように、基本的人権とみなされるようになるかもしれないと指摘する。
  しかしこの問題はきわめてやっかいだとジェムズは言う。たとえば、もし生延長技術が20世紀に完成していたならば、毛沢東やスターリンがまだ生きているということになるかもしれない。歴史的に見て、老化の大きな効用は、それが圧制からの解放をもたらすところにある。他に抵抗手段がないとしても、民衆は専政者が老いていくのを待てばよかったのである。だが、生延長技術はこの前提を突き崩してしまう。これは人類に対する重大な脅威である。たとえば、老いない大統領や、老いない大社長を想像してみれば分かるであろう。だがおそらくそのような事態が起きないような立法がなされることになるだろうとジェムズは付記する(44)。
  次にジェムズは、長生きすると人生は退屈なものになるという論点について検討する。彼は自分の両親の例をあげて、もし健康が保障されるなら、セイリングやガーデニングを何度でも繰り返し楽しめる人間はいくらでもいると述べる。さらに言えば、世の中にはまったく同じことを無限に繰り返して楽しむことができる人々もいるという事実に注意をうながす(45)。
  とは言え、延長された人生を楽しむためには、若者のように新しいことに興味を示したり、自分自身を変えていったりする能力が必要だと思われるが、高齢になるとその能力が失われがちになるかもしれない。それを解決するためには、人間の内面の年齢段階をコントロールする生命科学技術を開発して、いつでも好きなときに、少年のような心、中年のような心を自由に選べるようにすればよいとジェムズは提案する。その可能性を示唆するような生命科学の知見がある。そうすれば、肉体が高齢になっても、青年のような心がほしいときには、そういう心を技術によって獲得することができるというわけである(46)。そのようなことが可能になれば、延長された生は退屈なものになるという批判は退けられるというのである。
  ジェムズは、生延長技術が少数者の手に握られること、とくに専政者の手に握られることがもっとも恐ろしいと重ねて強調する。そのうえでジェムズは次のように結論する。「人生を延長することは、単に同じような生がずっと続いていくということではないであろう。むしろ人生を延長することによって、より大きな視野と可能性と達成が可能な人生の基盤が整うと考えたほうがよいかもしれない」(47)。このようにジェムズは、人生に退屈しないような技術が開発され、自由に人生プランを選べるようになるとしたら、生の延長は人間により多くのものをもたらすはずだと言うのである。
ジェムズのような考え方は、他の論者たちによってさらに押し進められる。
  2004年に発表されたジョン・ハリス(John Harris)の「不死倫理」(48)は、大統領レポートの論調を正面から否定する論文である。ジョン・ハリスは、サバイバル・ロッタリーなどの思考実験によって著名な英国の倫理学者である。ハリスは、生延長に賛成の立場から、生延長に対する疑問の声に反論していく。
  まず、生延長は人間にとって良いことをもたらさないという悲観主義があるが、ハリスは、実際には多くの人は少々苦しみや生命の質の低下があったとしても、自分の生きている時間が長くなる方を取るだろうと述べる(49)。
  生延長の問題として、生延長の技術を享受できる人々と、享受できない人々のあいだの不平等があげられるが、ハリスはそれに対しても反論する。たしかに地球上には貧富の差があるから、生延長技術を使って長生きできる人々と、そうでない人々が出てくるだろう。だとすると、地上に、「死すべき人々mortals」と「不死の人々immortals」が同居するということにもなりかねない。たしかにそれはアンフェアだと言えるかもしれないが、しかしながら全員にある技術を提供できないのならば誰ひとりに対してもそれを与えてはならない、というのも変な話だとハリスは言う(50)。たとえば、移植腎臓がすべての待機患者に行き渡らないから、腎臓移植は禁止すべきである、とはわれわれは考えないだろう。われわれは、何か公平な分配原理にもとづいて、腎臓を分配すべきだと考えるだろう。国際的にも同じことで、欧米では移植はたくさんなされているが、低所得の国々ではほとんどなされていないという事実があったとしても、それは、国際間での公平な分配が可能になるまでは移植を禁止すべきだという結論には直結しないはずだ。もちろん国際的な正義は大事なテーマだが、それは生延長治療の臨床応用に反対するための理由とはなり得ない、とハリスは結論するのである(51)。
ハリスはまた、心臓病や癌などの病気を治療していくと、その「副作用」として寿命が伸びていくが、そのような生延長も否定すべきなのかと問う。治療の副作用としての生延長というアイデアは面白い(52)。
  生が延長されると、人間は退屈に耐えなければならなくなるという意見に対しても、ハリスは反論する。永遠の人生に退屈するような人々は、いつでも自由に人生をやめればよい。「しかしイマジネーションが次々と湧き出てくるわれわれのような人間には、いつまでも生き続けて、人生の新しい楽しみ方とよりよく生きる仕方を開発させるのがよい」(53)。またレオン・キャスは、人間が不死を達成してしまったら、それはわれわれがいま知っているのとは別のタイプの存在者になってしまうだろうと言うが、ハリスはそれのどこが悪いのかと反論する。たとえば、先天性の視覚障害者が、もし中年期になって治療に成功して目が見えるようになったなら、その人間は以前とはまったく別のタイプの存在者になると言ってよいだろうが、そのことが悪いとはけっして言えないであろうとハリスは反論するのである(54)。
  人々の生が延長されると健全な世代交代が阻害されるというヨナスやキャスらの議論に対しては、ハリスはたしかにそうであろうと賛同する。そのうえで、世代交代がうまく行なわれない場合にとられるべきもっとも公平で倫理的なやり方というのは、一種の「世代絶滅generational cleansing」(55)を計画することかもしれないとハリスは述べるのである。そのためには、それぞれの世代の人々があとどのくらい生きるのがリーズナブルなのかをみんなで決めて、残された生をできるだけ健康に生きることができるように保証し、そして決められた長さの人生を充分に生きたなら、適切な時点で死んで、将来世代に道を譲ることを保証しなければならなくなるだろうとハリスは言う。このようなことを実行するのはむずかしいだろうが、自殺や安楽死に対する人々の態度も、時間をかければ変わっていくかもしれないとハリスは付加する(56)。
  ハリスはさらに、生が延長されると社会全体として医療費が安くあがると述べる。たとえば、人生の最後の10年間に高額の医療費がかかるとすると、70歳で人々が死ぬ社会よりも、1000歳で人々が死ぬような社会のほうが、終末期に必要な社会全体の費用は激減する。また、生延長された社会では、人々は長引く持病で死ぬよりも、アクシデントで死ぬほうが多くなるだろう。その点でも安くあがると述べる。ハリスは以上のように述べて、生延長によって人類は真に開かれた未来を獲得するのだと結論する(57)。
  このようなハリスの個人主義と楽観主義は、2003年以降の英語圏の議論のひとつの潮流を形成している。次に紹介するド・グレイ(A D N J de Grey)は、さらに強い調子で、キャスらの議論を糾弾する。ド・グレイが2005年に発表した論文「生延長、人権、そして嫌悪感の合理的洗練」(58)を見てみよう。
  ド・グレイは述べる。われわれの社会には、適度な健康状態の延長modest health extensionは歓迎するが、極端な健康状態の延長extreme health extensionは拒否するというアンビヴァレンツがある。ところが今日の生物学は、後者を技術的に可能にするようなステージにすでに入っているのである。そのような時代において、極端な生延長を否定するような考え方は、いつまでも通用するとは思われない。そのような否定的な考え方は、人間にとって老いは仕方がないものだという先入観によって支えられているにすぎない。そのような非合理性irrationalityのおかげで、われわれの生延長の可能性はすでに今日においてすら妨げられているのである。この非合理性に加担している者たち、とくに倫理学者たちは、この非合理性の実態を世の中に知らしめて、非合理性に終止符を打つ義務があるとド・グレイは主張する(59))。
  ド・グレイはレオン・キャスを批判する。キャスは論文の中で、ヒトクローンに対する「嫌悪感は深い知恵の感情的表現なのであるrepugnance is the emotional expression of deep wisdom」と述べ、似たものとして父娘近親姦や食人などへの嫌悪感を例にあげているが、それはそもそも議論の体をなしていない。たとえば、かつては嫌悪の対象であったが、今日ではそのように考えられないようになってきている同性愛のようなものもあるからである(60)。女性の参政権などもそうであろう(61)。したがって、嫌悪感などを理由にして、老化遅延や生延長に反対するのは間違っている、とド・グレイは言う。
  ド・グレイが生延長を肯定する理由は、次のようなものである。今日では、健康な人間が生き続ける権利は大きく認められている。たとえばヨーロッパでは死刑は廃止されているし、戦争による人命の大量の損失もそう簡単には正当化されない。だとしたら、同じ理由で高齢者の生を延長することもまた承認すべきである。ところが、「命を救うことsaving」と「生を延長することextending」のあいだには大きな差があると言って反論する人たちがいる。だがその反論は成立しない。たとえば白血病にかかった若者の命を救うことと、高齢者の老化を遅延させることのあいだに有意味な違いはない。なぜなら、いずれの場合でも、治療の受益者には「より多くの健康余命greater remaining healthy lifespan」(62)が与えられるわけであり、われわれが「命を救う」とか「生を延長する」というときに意味しているものは、まさにこの同一のことだからである。この二つのあいだに有意味な違いがない以上、そしてわれわれが人の命を救うことを承認する以上、われわれは、生延長をもまた承認しなくてはならないのである(63)。
ド・グレイは言う。われわれは、老化しない人生のほうが老化する人生よりもよりも望ましいと内々では思っているくせに、口に出して言うときには、老化遅延や生延長には何か問題があるなどと語るのである。なぜこのような自己欺瞞が生じるのかといえば、老化は必然で避けられないとわれわれが信じているがゆえに、老いる自分を受け入れるための適応戦略として、われわれがそのような考え方を採用しているからである。しかしながら、生物学の進展によって老化はもはや必然ではなくなろうとしているのだから、老化は必然などというような「集合的催眠collective hypnosis」はもはや解決にはならず、むしろそれ自身が足枷となるのである。したがって、「この道徳的な自己欺瞞(不整合)と対決することによってはじめて、〈老化というのは本当は良いことなのだ〉というわれわれの見解を守るためにわれわれの多くが執着しているところの、本来けっして擁護不可能な諸議論を、追放することができるのである」(64)。ド・グレイはこのように述べて、ヨナスやキャスが主張したところの「老化は実はよいことなのだ」という謬見から、われわれが解放されることを促すのである。そしてド・グレイは、「老化治療は、科学が成立して以来もっとも偉大な科学の達成となるだろう」と述べる(65)。
2006年に発表された次の二つの論文は、以上の論調をさらに後押しするものである。まず、ジョン・シュレンドルン(John Schloendorn)の「人間の生延長を肯定する:個人レベルの視点から」(66)を見てみよう。
  シュレンドルンもまた、近年の動物実験の成果を人間に応用すれば、人間の老化を遅延することができるようになるのは明らかだと考える。そのうえで、個人レベルの生延長に限って言えば、いかなる生延長であれ望ましいと言う。もちろん生延長にともなって生じるだろう社会的レベルの諸問題については慎重な検討が必要であるとしたうえで、この論文ではまず個人レベルの問題について考察する、と述べる(67)。
  シュレンドルンは、89歳で死ぬよりも、23歳で死ぬほうがなぜ望ましくないのかは明瞭であるとする(ちなみに89歳とは、ハンス・ヨナスが死んだ歳である)。それは、23年間しか続かない生は、幸福happinessを経験するより少ない機会しかその人間に与えないからである。長く生きれば生きるほど、われわれには多くの幸福を経験するチャンスが与えられる。この議論は、永遠に生きたいという願望を擁護するだけでなく、幸福になりたいと望む人間が永遠の生を望むのは合理的であるということをも示すものである(68)。
  では89歳で死ぬことは望ましいかというと、そうではない。そもそも、なぜ個人が人生で享受する良い経験にリミットがなければならないのか、まったくもって不明である。どんな瞬間であれ、その次の瞬間にまで生を延長することによって、さらなる良い経験が与えられる可能性がある。これは、どのくらいの人生をわれわれがすでに過ごしたかという事実とは、完全に無関係である。
  もちろんこの議論は、人生の幸福が悲惨を上回っている人々にしか通用しないだろうが、しかし実際のほとんどの人の人生はそのようなものであろうとシュレンドルンは言う。だからこの議論はほとんどの人に当てはまるだろう、というわけである。それだけではない。もし自分の人生に悲観している人がいたとしても、無限に生きることができれば、その人の人生を良い方向へと変えていくチャンスも無限にある。いままでの歴史を見てみれば、文化的・技術的進歩は、健康、富、教育、レクリエーション、通信などの領域において、幸福を生み出す多くの新しい可能性を切り開いてきた。もしこのトレンドが続くならば、将来、幸福追求のためのさらに喜ばしい様式が生み出されることだろう。したがって生延長は合理的なものとなり得るのである(69)。
  シュレンドルンの次の文章に注目してほしい。

 人生の悲惨があまりにも根深くて根本的なので、たとえ無限の時間や進歩や努力が与えられたとしてもその状態を変えることができないような人々がいるかもしれない。それらの人々の存在を改善するような論理的な議論はないであろう。私の議論は、平均してみれば生きるに値する人生を送るであろうと予想される数多くの人々のみを、念頭に置いているのである。生命科学がいま約束しようとしている人生の期間の延長は、それらの人々にとって、個人レベルでは望ましいのだpersonally desirableということを、私は議論しているのである。(70)

 彼の議論は、生きるに値する生を送っている人のことだけを考えている。そのうえで、そのような人々が生延長することは望ましいとか言いようがない、と主張しているのである。彼の議論をさらに見てみよう。
  バーナード・ウィリアムズは、人々は精神的に歳を取るにつれて、人生を楽しむことができにくくなると指摘して、生延長に反対しているが、シュレンドルンはこの考え方を退ける。もし仮に、技術によって肉体的な若さが保たれたとしても、それでもなお人生が退屈ならば、次にはわれわれの精神の視野を技術によって拡大すればよいのである。シュレンドルンは次のようにも言う。

 生延長によってわれわれは得るものはあっても失うものはなにもない。たとえ生延長後かなりの年月がたてば人生は耐えがたいものになるということが証明可能であったとしても、それでもなお、その時点まで生を延長してから老衰あるいは自殺によって死ぬことは合理的であると言えるのである。(71)

 有限な生延長は有限な望ましさをもつにすぎないが、老化を完全に駆逐することは無限の生延長を可能にするわけであるから、それは際限なく望ましいのであるindefinitely desirable。(72)

 シュレンドルンは、生延長における「人格の同一性」の問題を検討する。これは、もし限りなく生き続けることができるようになったら、過去の記憶がどんどん入れ替わり、それにともなって自分の性格なども変わっていくだろうから、昔の自分と今の自分のあいだの同一性が失われるのではないかという問題である。これは分析哲学の伝統的な難問であるが、生延長の時代に、新たな意味をもって再浮上してきた。ヨナスもまたこの問題を指摘していた。
  シュレンドルンは、デレク・パーフィット流の心的経験還元主義を採用したうえで、今の自分と遠い将来の自分とのあいだの心理的連続性については、親友同士のあいだに存在する心理的連続性と同程度のものが確保されればそれで問題ないのではないかと述べる。こうした「親密で、本当の、成長する友情close, true and evolving friendship」こそが、遠い将来の自分と、いまの自分とのあいだの、健康な関係性だと言うのである(73)。
  記憶の衰えについては、高齢者は最近のできごとよりも若い日々のできごとのほうをひんぱんに思い出すという事実がある。しかし、マウスを使った最近の実験では、遺伝子操作によって記憶を増強させることが可能になっているから、将来は高齢者の記憶を直接にコントロールして、最近の記憶にアクセスしやすいようにすればよいとシュレンドルンは述べる。脳内の記憶配分のバランスは個々人用にカスタマイズすればよい。それに加えて、外部記憶装置を脳に直結すれば、記憶容量は何世紀分も長いものとなるだろう(74)。
  シュレンドルンは結論する。「もし人々の内的経験が連続的なものであり、かつその経験が良いものであるならば、その人の主観的な観点から見たときに、彼らは可能なかぎり永遠に生きるべきなのである」(75)。そして今後の議論は、生延長の社会的なレベルの問題へと移る必要がある。もし社会的な問題も解決することができたなら、生の延長は、非常に濃密で友好的な新しい社会関係を生み出し得るであろう。人格は徐々に移り変わっていくものだという還元主義に立つならば、永遠の生を望む者が持ちがちな人格の同一性に対する絶望的な執着と恐怖から解放され、われわれの心はもっとリラックスした、永遠に楽しいものとなるであろうとシュレンドルンは締めくくる(76)。
  2006年に発表されたもう一つの論文、スティーブン・ホロビン(Steven Horrobin)の「不死性、人間の本性、生命の価値、および生延長の価値」(77)を見てみたい。ホロビンは、まずレオン・キャスらの保守派による生延長批判を吟味する。保守派はプロライフと呼ばれ、人間の生命を守ることを信条としているのに、なぜ人間の生命を延長することを否定しようとするのかと問う。その理由は、生物的な自然は神から与えられたものだから、その点において尊重されなければならないというところにある。したがって、彼らが否定しているのは人間がより多くの生を楽しむことではない。そうではなくて、彼らが否定しているのは、人間の影響力の範囲を拡張しようとすること、すなわち「人間に与えられた特権prerogative」を本来の枠を超えて拡張しようとすることなのである(78)。(キャスと同様の見解はリベラル派にも見られる)。保守派はこの二つを混同しているが、彼らが本当に否定しようとしているのは人間の特権の拡張であって、生延長そのものではないということを、彼らは認めなければならない。もし彼らが本当に生延長それ自体を否定したいのなら、なぜそれがダメなのかをもっと明確に説明するべきであるとホロビンは指摘する。
  ホロビンは、保守派とリベラル派を調停するために、人格personhoodの概念を拡張し、そこに欲望や経験や感情や記憶を含めたうえで、それらが時間軸上で未来に向けて相互作用することが人格の本質であり、そこに生の価値があるとする(79)。であるから、もしわれわれがこの将来投企的要素を失ってしまったならば、われわれはもはや人格ではないのであり、生は無価値なものとなってしまうだろう。すなわち、未来に向かって人格が継続していくという点こそが、人格の本質なのである。そして、これ以上人格が継続したら人生は無価値になるという上限は存在しない。したがって、一般的に言って、生延長に上限はあり得ないのである。では、個人が、自分自身の生延長に自己意志でもって上限を付けることはどうであろうか。この点についてホロビンは、次のように述べる。生延長に上限を付けることは、すなわち、私はこれ以上欲望を持たないということを欲望することであるが、欲望を消したいという欲望はそれ自体将来投機的な欲望であるから、ここに自己矛盾が生じてしまう。したがって「われわれは自分自身が人格でなくなるように意志することは事実上できない。なぜなら、そうしようとする意志それ自体が、われわれに人格であり続けることを要求するからである」(80)。その日を越えたらすべての欲望から解放されるという日付を設定しようとしている人間を想定してみたら、その試みがいかにバカげたことであるかが分かるだろう。したがって、われわれが人格である以上、われわれは自分自身の将来の生延長に上限を付けることはできないように思われる、とホロビンは結論するのである。

5 結び−−議論すべきいくつかの論点

 生延長と老化遅延についての英語圏の論文を概観してきた。この分野の議論はまだ日本ではなじみが薄いので、論者たちの論点を紹介するために多くの頁を割くこととなった。以下、残されたスペースで、今後議論すべきテーマを整理しておきたい。
  最初にも述べたが、この議論が大きく盛り上がったのは、保守派の生命倫理学者であるレオン・キャスが2003年の大統領レポートで、「生延長と老化遅延によって人間はかならずしも幸福にならないのではないか」と問いかけたからである(大統領レポートの基本思想はレオン・キャスのものであり、とくに第4章の執筆者はほぼ間違いなくキャスであるから、以下、キャスを大統領レポートの執筆者とみなすことにしたい)。キャスは、欲望に駆られて生を延長するよりも、与えられた命を十全に生き尽くすことのほうが人間にとって大事であるという見解を、大統領レポートのなかで繰り広げた。ところが、大統領レポートという性格上、キャスの物言いは、「国家」は生延長と老化遅延を規制すべきである、というメッセージとして専門家たちに受け取られたのである。それに反発するようにして、国家による規制は正当化できないという声が、続々と上がりはじめたのである。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、そもそも先端生命医療技術に対して否定的であり、2006年7月には、ヒトES細胞研究の規制緩和を求める法案に対して拒否権を行使している。大統領レポートは、このブッシュ大統領に対して提出されたものであるから、その影響力の大きさに推進派が敏感になるのも無理はない。生延長や老化遅延の研究に規制がかけられるようなことにでもなれば、たいへんだからである。もちろん、大統領レポートを慎重に読めば、研究規制については一言も触れられていないことが分かる。ただ、レポートのトーンは、あきらかに、研究推進の方向ではない。
  以上のような事情も相俟って、生延長と老化遅延についての現在の議論はかなり錯綜している。大きな枠組みとしては、推進派と慎重派が対立しているのだが、そもそも何を論点にするのかという次元で、両派のあいだにかなりの議論のすれ違いが見られるのである。また、生延長というときに、いったいどのくらいの長さの生延長を想定しているのかによっても話は異なってくる。大統領レポートでは、20年から200年の延長を想定しているが、推進派の論文には、過去の自分と未来の自分のあいだに自己同一性が保てないくらい長期間の延長を想定しているものもある。生延長の期間が、10年単位なのか、100年単位なのか、それとも数世紀以上にわたる単位なのか、あるいは事故が起きないかぎり死なない不死の状態なのかによって、議論の中身も変わってこざるを得ない。
  今後の議論に向けて論点を整理するためにも、以下の4つのカテゴリのもとで問題点を再整理してみたい。

 (1)生延長や老化遅延は規制(禁止)すべきか

 これまで紹介した論者たちと同様に、ひとまず社会レベルと個人レベルのいずれかに分類して規制の根拠を考えてみよう。
  慎重派も賛成派も、社会レベルの「正義」や「公正」の観点から見たときには、それらの技術の臨床応用に何かの規制をかけなければならないと考えている。もっとも楽観的なハリスですら、健全な世代間の公正を守るためには「世代絶滅」を考案しなければならなくなるだろうと想定している。ジェムズもまた、この技術が専制者や大金持ちに独占されないような社会規制が必要であると考えている。持てる者と持たざる者のあいだの生延長技術の分配に関しても、ハリスは最低限の公平な分配が必要だと示唆している。ジェムズは、生延長技術を、すべての人々に保障すべき基本的人権だとみなすことの妥当性について議論している。もちろん、具体的に何が正義なのかについては、論者のあいだに大きな意見の食い違いがあるだろう。しかしながら、社会レベルの「正義」や「公正」の観点から見たときに、生延長や老化遅延の臨床応用に何かの規制をかけなければならないという点に関しては、すべての論者が同意していると考えられるのである。
  では次に、個人レベルで考えたときに、それらの技術を規制する根拠は出てくるのだろうか。この点に関しては、慎重派と賛成派は鋭く対立する。慎重派は、生延長や老化遅延を貪欲に追い求めることによって、個人は生きる意味を見失い、人生に退屈し、老いから何も学ばず、悲惨な生を送ることになるだろうと主張する。これに対して賛成派は、そんなことは必ずしも起こらないし、それを予防する技術はいくらでも開発できるし、生延長と老化遅延によってわれわれの生はさらに豊かなものになるのだと反論する。それぞれの主張にそれなりの説得力はあるものの、まだ起きていない将来の状況を想像して議論するわけだから、どちらの見解により妥当性があるのかを判断するのはきわめてむずかしい。もし仮に、個人レベルの観点から、それらの技術を規制できる可能性があるとすれば、それは個人の人生の破滅を防ぐためのパターナリズムを論拠にする場合だけであろうと私は考える。具体的には、極端な生延長や老化遅延のような、本人にとって破滅的な「愚行」を幇助する医療行為を禁止する、という形を取るのではないかと思う。ただし、輸血拒否をめぐる難問を見ても分かるように、この規制もそれほど簡単には成立しないであろう。
  「社会」か「個人」かに分類できないものとして、子どもの遺伝子に介入して生延長を行なってよいのかという問題がある。これはエンハンスメントの議論のときに焦点となるテーマであるが、生延長の議論ではさほど注目されていない。だが、遺伝子操作で生延長を試みるときには、受精卵あるいは精子・卵子の時点で介入することが必要になるわけだから、子どもへの介入という問題は避けては通れないはずである。論点とすべきは、そのような介入が、子どもの将来にとってメリットになると確定できるかという点であろう。親子関係のひずみ、子どもの人権、逆差別などの難しい問題があるので、簡単には答は出ないはずである。(生延長と老化遅延の問題は、ある意味でエンハンスメントの下位問題であると見ることもできる)。

 (2)望ましい社会観・人生観についての闘争

 根本に立ち返ってみれば、そもそも、何が望ましい社会なのか、何が望ましい人生なのかという観念について、慎重派と推進派は鋭く対立しているのである。両者はこれらの観念をめぐって闘争をしている。なぜこの闘争が重要なのかと言えば、この闘争でヘゲモニーを勝ち得た「社会観・人生観」をもとに、まずは(1)で述べた社会的な規制に関して、より具体的に踏み込んだ介入が可能になるからであり、それに加えてさらに、人々への「教育的介入」が可能になるからである。教育的介入とは、そもそも社会にはこういう秩序がふさわしいとか、人間たるものこういうふうに生きるべきだという思想を、子どもを含めたあらゆる人々の内面に行き渡らせる営みである。
  まず望ましい社会観についてであるが、たとえば推進派のハリスは、臓器移植を例にとって、「移植腎臓がすべての待機患者に行き渡らないならば、腎臓移植は禁止すべきである」というような社会は望ましくない、という立場に立っている。とりあえず公平な分配原理があれば、移植を受けられる者と、受けられない者が出てきたとしてもそれは仕方がないのだというのである。生延長や老化遅延についても同様に、同時代の人々のあいだで、その技術を享受できる者とできない者、あるいは享受できる国とできない国が出てきたとしても、それはそれで仕方がないとするのである。
  もしこのような新自由主義的な社会が望ましいとすると、豊かな国に住む金持ちの人々は、ますます長く健康な生をエンジョイできることになり、貧しくて戦争や飢餓のある国の人々とのあいだの生存期間の差は拡大するばかりとなるであろう。富める人々はますます健康で長生きし、その継続する生産力でもってさらにその国の富が増えていくという地球社会の構造ができあがるかもしれない。また、単に個人の財産や所有物が増えることと、その個人の人生の長さが増えることを同じように考えてもよいのかという問題も出てくる。個人の健康な人生の長さというのは、財産や所有物によっては置き換えることのできないような、より基盤的な何ものかであるとも言えそうである。だとしたら、現状ですら国際的には平均寿命に大きな差があるのに、さらにそれを拡大するような技術を臨床応用してしまって本当によいのかという疑問も出てくることになるだろう。このような立場に立つとするならば、たとえ財産や所得については機会均等のうえでの格差が許されるとしても、寿命に関してはグループ間の格差が開かないような社会こそが望ましいという思想を打ち出すこともできる。慎重派の論者たちは、このような社会観に賛同することと思われる。
  第一項で、社会レベルの規制についてはすべての論者が賛同していると述べた。その具体的な規制について考えるときには、どのような社会が望ましいかについての思想が必要となる。ここにおいて、望ましい社会観をめぐっての闘争が開始される。結果的に生じる寿命の格差は仕方がないのか、それとも寿命の格差は許さないのか。これは望ましい社会についての他の要因とも密接に関わる問題であり、すべての論者が納得する答えは簡単には見つからないだろう。
  第二に、望ましい人生観についてであるが、慎重派の論者たちは、老いのプロセスがあって、適度な長さで終了していく人生こそが望ましいと主張する。人々は老いのプロセスから大事なことを学び取ることができるし、終わりのある人生からは、いま生きる切迫感が生まれるし、若い人たちにスムーズにバトンタッチしていける。ヨナスのネイタリティの強調もその一例である。キャスは、祖父母、親、子の三世代が同時存在できる人生80年というのが、望ましい人生の長さであると言う。慎重派の考え方の基本には、生物には死へと向かっていく「自然なプロセス」がある、という思想が存在するように思われる。その枠を踏み越えることによって、かえって生物体としての人間が不幸せになっていくような、「自然なプロセス」があるはずだというわけである。この場合の「自然」とは何かということを、慎重派は明言しない。ただ彼らはあきらかにそういうものの存在を念頭に置いて、発言しているように私には感じられる。
  推進派の論者たちは、まさにこの点に異議を唱えるのである。ド・グレイ、シュレンドルン、ホロビンらは、人間が従わなければならないような「自然」な死のプロセスなどはそもそも存在しないと強調する。そもそも「医療」を発明した時点で、人類は「自然」の改変を始めてしまっている。遺伝子操作の登場で、それは決定的となった。であるから、長生きしたい人は、好きなだけ長生きすればよいのであり、誰もそれを妨害してはならないと言う。また、生延長によって人間は不幸せになるという意見には、何の根拠もないし、逆に長生きすることによってこれまで以上の幸福が人間には与えられるであろうと主張するのである。推進派の意見は、社会秩序に大混乱をもたらさないかぎり、人間は好きなだけ自分の生を延長してもよいという点で一致している。そして、この考え方に対する疑問を、「非合理性」「集団催眠」(ド・グレイ)だとして退けるのである。
  望ましい人生観をめぐるこの対立もまた、容易には合意点を見いだせない難問であると言えるだろう。これもまたヘゲモニー闘争の様相を見せるのであるが、それは、望ましい社会観をめぐる闘争と一緒になって、教育的介入の次元へとなだれ込むことになると思われる。法規制や行政的規制についての合意が得られないのならば、各人が自分で正しい意見を持てるように、人々に教育的に介入していくしかないというわけである。したがって、義務教育や高等教育の現場、および若者たちが視聴するマスメディアが、これらの闘争が繰り広げられる戦場となっていくだろう。生延長にかぎらず、今後の生命観をめぐる生命倫理の難問の焦点のひとつは、「教育」をどうしていくのかということになるはずだ。

 (3)現代文明への警鐘として

 これまでの議論を俯瞰すれば、慎重派は現代文明と科学技術の進みかたに対して警鐘を打ち鳴らし、推進派は個人主義に立った楽観論を繰り広げているように見える。ただし、われわれが医療による病気と障害の治療と予防をこれからも押し進めていくのであれば、まさにその「副作用」(ハリス)によって、結果的に生延長と老化遅延が少しずつ達成されていくことに間違いはないと私には思われる。また、生延長と老化遅延を個人的に望む人々の行動を、すぐに規制することはきわめて難しいと考えられる。したがって、現状のような社会が今後も続いていくならば、アメリカ合衆国や日本のような社会では、生延長や老化遅延は、なしくずしに進められていくことになると予想される。それが大きな産業として開花する可能性も充分にある。
  であるとするならば、慎重派の主張は無意味なものとして葬り去られるのかと言えば、それはまったく逆なのである。社会が生延長と老化遅延に向けて進んでいくとすれば、ヨナスやキャスらが強調した現代文明と科学技術への警鐘は、ますます重みをもって、人々に受け止められていくに違いないのである。ヨナスが指摘したような、時代の変化についていけなくなることの悲惨、キャスが指摘したような、人生が退屈になること、切迫感がなくなること、死への不安が逆に高まること、老いの意味が失われてしまうこと、これらの箴言は、生延長と老化遅延へと欲望を向けていくであろう人々に、いつまでも棘のように刺さり続けることであろう。さらに言えば、私はいつまでも生きていたい、私は老いたくないという我執の気持ちに振り回されて、死すべき者が本来持っていたはずの品性までもが失われていく危険性もあると私は思う。
  もちろん、それらの警鐘だけでは、生延長や老化遅延を禁止する理由とはならない。この点は、推進派の論者の言うとおりである。ただし私がここで強調したいのは、もし推進の流れにわれわれが乗っていくのならば、われわれは慎重派の論者たちが打ち鳴らしてきた警鐘を、「本気で自分自身の肩に背負いながら」これからの社会を作っていかなければならなくなるということである。慎重派の主張にまったく根拠がないわけではない。彼らの憂慮の内には、これまで文学や宗教の形をとって積み上げられてきた人間への洞察が、深く反映されている。それらをけっして甘く見てはならない。この点において、私は推進派の単純な楽観主義を否定したいと思う。われわれがいまの社会を維持しようとするかぎり、われわれは否応なく生延長と老化遅延へと進んでいくであろうが、その道はけっして楽観的なものではないと私には思われるのである。
  私は、『無痛文明論』(2003年)において、現代社会が否応なく無痛化へと突き進んでいることを指摘したが、それはけっしてわれわれを幸福な生へと導くのではなく、逆に、苦しみは少ないけれども同時によろこびもまた少ないような生へとわれわれを導くことになるのだと主張した。生延長や老化遅延もまさにこれと同じであって、一見バラ色の道に見えるが、実際に進んでみれば棘の多い苦難の道にほかならなかった、ということになるであろうと私は予想するのである。

 (4)結局、死は訪れるということ

 将来、生延長と老化遅延が大きな成功を収めたとしても、われわれに不死が保障されるわけではない。われわれは長期間の生存ののちにかならず死ぬのである。不慮の事故や自殺によって、われわれは死ぬのである。そのときに、われわれはみずからの死を肯定することができるであろうか。生延長と老化遅延の時代において、人々は、それでもなお襲ってくるみずからの死に対して、どのように向き合えばよいのだろうか。
  不思議なことに、推進派の論者たちは、この問題をほとんどまったく語らない。この点を正面から論じるのは、ヨナスやキャスらの慎重派である。
  キャスは、生延長と不死を追求することによって、われわれは逆に死のことで頭がいっぱいになり、死がより耐えがたいものになるのではないかと指摘する。そして、そのようなはめに陥りたくないのならば、老化と死を受け入れたうえで、地上の時間を超越するものへと参与する道を探すべきではないかと示唆するのである。キャスのこの言葉は、神を信じれば救われるというふうにも聞こえるし、実際そのように理解する論者もいる(ホロビン)。しかし私はあえて、神を信じたり、宗教の道を通ることをしなくても、この世の時間の流れと和解する可能性は開けているのではないかと考えてみたい。
  そのひとつの可能性を追求しようとしたのは、やはりヨナスではないだろうか。ヨナスは、人間にとって死は恩恵であると言った。なぜ恩恵であるかといえば、すでに述べたように、生が限りなく延長されることによってもたらされるであろう泥沼のような地獄に陥ることを、死が一方的に食い止めてくれるからである。もっと長く生きていたい、もっと若々しく生きていたいという欲望を、みずからの手ではコントロールできないのが人間である。たとえその欲望が、われわれを地獄のような悲惨に連れていくのだとしても、その欲望をかなえるかもしれない技術が目の前にぶら下がっていたとしたら、その果実をつかまない人間はどのくらいいるだろうか。ヨナスの思索は、おそらく人間のこの意味での欲深さ、あるいは弱さを充分に認識するところからスタートしている。人間がみずからの欲深さと弱さによってがんじがらめになっているときに、それを外部から一撃のもとに打ち砕いて、われわれを地獄行きから一方的に救済するものとしてヨナスは「死」を捉えようとしている。その一方向的にはたらく、無慈悲な力こそが、欲深く弱いわれわれにとっては、逆説的に「恩恵」となるのだとヨナスは言っているように私には見える。これは私の行き過ぎた解釈なのかもしれないが、ヨナスの論文を読むかぎり、彼の思索はこの方角に向かっていたと考えざるを得ない。
  このヨナスの考え方は、この世の時間の流れと和解するひとつの道なのかもしれないと私は思う。もちろんその死生観によってヨナスがみずからの死と和解したかどうかは、分からない。しかし、死の直前につむいだこの思索によって、ヨナスがみずからの生に何かの決着を付けたことだけは確かなように、私には感じられるのである。
  以上見てきたように、保守派の論者たちは、生延長と老化遅延を社会的に食い止めるだけの論理構築をなし得ていない。しかしながら、推進派がそろって口を噤もうとしている「時間との和解」「みずからの死との和解」というテーマを、彼らが生延長と老化遅延の問題の中心に据えていることだけは確かである。生命倫理の最先端に、古来からの哲学のスタートラインが現われたのである。
  以上をもって、生延長・老化遅延・死について今後本格的に考察するための準備論考となし、私もまた、この地点から出発することにしたい。

(1) Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness. Harper Collins, 2003. 著者・編者名は書籍の書誌事項には記されていない。
(2) 翻訳書籍として、上記の大統領レポートがある。参考論文として拙著「人間の生命操作に対する批判的見解に関する予備的考察(1):大統領評議会報告書の場合」『疑似法的な倫理からプロセスの倫理へ−「生命倫理」の臨床哲学的変換の試み』(大阪大学文学部2006年3月、63〜75頁)がある。
(3) Aldous Huxley, Brave New World. 1932.
(4) John Boorman, Zardoz. Twentieth Century Fox, 1974.
(5) Hans Jonas, "The Burden and Blessing of Mortality," Hastings Center Report, vol.22, no.1, 1992, pp.34-40.
(6) Hans Jonas, Organismus und Freiheit. Ansatze zu einer philosophischen Biologie, Vandenhoeck & Ruprecht (1973)
(7) "The Burden and Blessing of Mortality,"pp.34-35.
(8) ibid., p.36.
(9) ibid., p.36.
(10) ibid., pp.36-37.
(11) ibid., p.37.
(12) ibid., p.38.
(13) ibid., p.39.
(14) 邦訳(ちくま学芸文庫、1994年)385〜386頁。
(15) "The Burden and Blessing of Mortality," p.39.
(16) ibid., p.39.
(17) ibid., p.39.
(18) ibid., p.40.
(19) ibid., p.40.
(20) ibid., p.40. 訳文中の「老化」は、原文では「不死への欲望に対する肉体的刑罰」。ヨナスの英文はきわめてレトリカルなので、直訳では意味が伝わらないケースがある。
(21) 註2参照。
(22) Beyond Therapy, pp.175-176.
(23) ibid., p.164.
(24) ibid., p.165-167.
(25) ibid., p.168-180.
(26) ibid., p.182.
(27) ibid., p.186.
(28) ibid., p.186.
(29) ibid., p.187.
(30) ibid., p.187. 訳書のこの部分の翻訳には疑問点が多い。訳書、レオン・R・カス編著『治療を超えて』青木書店、2005年、217頁参照。
(31) ibid., p.188.
(32) ibid., p.190.
(33) ibid., p.191.
(34) ibid., p.191. 訳書における最後の文章の翻訳もまた若干の疑問を感じさせる(訳書222頁参照)。もっとも私の翻訳もさほどよいものとは言えないが。
(35) ibid., p.192.
(36) ibid., p.196.
(37) ibid., p.192-197.
(38) ibid., p.199.
(39) ibid., p.199.
(40) ibid., p.200.
(41) ibid., p.200.
(42) David Gems, "Is More Life Always Better?: The New Biology of Aging and the Meaning of Life," Hastings Center Report, vol.33, no.4, (2003). pp.31-39.
(43) ibid., pp.33-34.
(44) ibid., p.34.
(45) ibid., p.35.
(46) ibid., p.36-37.
(47) ibid., p.38.
(48) John Harris, "Immortal Ethics," Ann.N.Y.Acad.Sci.1019, (2004), pp.527-534.
(49) ibid., p.528.
(50) ibid., p.529.
(51) ibid., p.530.
(52) ibid., p.530.
(53) ibid., p.531.
(54) ibid., p.531. 実際には、先天的な視覚障害者が中年期に手術を受けて脳に視覚情報が届くようになったとしても、脳の視覚野が充分に形成されていないから、リハビリしてもさほど見えるようにはならない。
(55) ibid., p.532.
(56) ibid., p.532.
(57) ibid., p.533.
(58) A D N J de Grey, "Life Extension, Human Rights, and the Rational Refinement of Repugnance," Journal of Medical Ethics 31, (2005), pp.659-663.
(59) ibid., p.659.
(60) ibid., p.660.
(61) ibid., p.661.
(62) ibid., p.662.
(63) ibid., pp.661-662.
(64) ibid., pp.662-663.
(65) ibid., p.663.
(66) John Schloendorn, "Making the Case for Human Life Extension: Personal Arguments," Bioethics, vol.20. no.4 (2006), pp.191-202.
(67) ibid., p.192.
(68) ibid., p.193.
(69) ibid., p.194.
(70) ibid., pp.194-195.
(71) ibid., p.195.
(72) ibid., p.195.
(73) ibid., p.200.
(74) ibid., p.200.
(75) ibid., p.201.
(76) ibid., pp.201-202.
(77) Steven Horrobin, "Immortality, Human Nature, the Value of Life and the Value of Life Extension," Bioethics, vol.20, no.6, (2006), pp.279-292.
(78) ibid., p.282.
(79) ibid., p.290.
(80) ibid., p.291.
(81) 森岡正博『無痛文明論』トランスビュー、2003年。

Philosophy and Bioethics of Life Extension: An Analysis of Topics Found in Major Publications

Masahiro Morioka

In this paper, the current discussion on life extension is reviewed and analyzed from the viewpoint of philosophy and bioethics. After the publication of Leon Kass’s Beyond Therapy (2003), the issue of life extension and age retardation has come to the forefront of current bioethical discussions. I take a closer look at the discussions by such philosophers as Hans Jonas, Leon Kass, David Gems, John Harris, A. D. N. J. de Grey, John Schloendorn and Steven Horrobin, and criticize some of their arguments. My conclusion is as follows. While the conservatives' argument does not provide a sufficient ground for prohibiting the development of life extension technologies, it successfully shows us the anxiety and suffering we might have to bear in the coming long-life society. Moreover, no matter how long our lifespan may be extended, all of us must die sooner or later, hence, the question of how to die without regret would continue to remain as a central issue even in such a society. The liberals seem to avoid this philosophical question. Finally, I want to stress that further discussion about the philosophy of life should be needed in the field of life extension and age retardation.