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作成:森岡正博 
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エッセイ

『読売新聞』 2004年1月5日(東京版夕刊)1月7日(大阪版夕刊)
「無痛文明」の時代
森岡正博

 

 つらかったり、苦しかったりするのは、誰だっていやだ。だから私たちは、人生のなかで、つらいことや苦しいことに、なるべく出会わないように願っている。
 そもそも、文明の進歩とは、苦しいことやつらいことになるべくあわないで済むような社会を、作り上げていくことだった。日本も、戦後、そのような社会をめざして進んできた。いまや私たちは、あふれんばかりの食料や、モノや、商品に囲まれて暮らしている。
 では、その結果、私たちは幸福になったのだろうか。
 この問いに対して、自信をもって「イエス」と答えられる人が、どのくらいいるのか。大都市の雑踏を歩いている人たちの顔を見てみるがよい。幸せそうな表 情をうかべている人は、ほんの一握りだ。あとは、しかめ面をしたり、眉をひそめたりしながら、足早に過ぎていく人々ばかりだ。
 モノに囲まれ、苦しみから遠ざかり、安定した生活を手に入れ、気持ちのよいことをたくさん経験できるようになったのに、心の底にはぽっかりと空洞があいている。気持ちいいのだけれども、「よろこび」がない。これこそが、現代を生きる私たちの心象風景なのだと、私は思う。
 誰もが、心のどこかで、このことに薄々気づいている。仕事で成功したサラリーマンや、安定した家庭を手に入れた主婦や、何不自由なく育った若者が、ある 日ふと、この心の空洞に気づく。しかし、そのことを考えはじめると、なにか怖くなる。足元が崩れていってしまうような気がして、不安になる。だから、人々 はそこから目をそらそうとする。
 さいわい、この社会には、目をそらすためのツールがたくさん用意されている。手元にあるテレビのスイッチをつけて、お笑い番組に没頭してもいいし、パチ ンコ、グルメ、カラオケ、恋愛遊戯など、様々な娯楽にひたって自分を忘れることができる。それでも不安が去らないのなら、カウンセリングすら準備されてい る。
 そうやって、苦しいこと、つらいことからどこまでも逃げ続けていく仕組みが、社会の津々浦々にまで張りめぐらされている文明のことを、私は「無痛文明」と呼んでいる。日本は、アメリカ合衆国と並んで、この「無痛化」のための仕組みが、世界で一番発達した国なのだ。
 「無痛文明」は、私たちを眠らせて、大事な問題を考えさせないようにする。それとひきかえに、目の前の苦しみを取り除き、快楽と快適さを与え、いったん手に入れた気持ちよさをもう二度と手放せないようにさせるのである。
 しかし、その結果どうなるのか。人々は、いま生きているという実感を少しずつ失っていき、「深いよろこび」を感じる力を決定的に奪われてしまうのである。気持ちいいのだけれども、「よろこび」がないという状態になるのである。
 もし仮に、私が苦しみから逃げ続けるのをやめ、自分で納得しながら苦しみを引き受けたとしよう。それによっていままでの自分が根本から崩壊するのだが、 そのあとに、思いもかけぬやり方で、「新しい自分」が生まれ出てくることがある。このときに訪れる深い回生のよろこびの大切さを、気持ちよさや快適さばか り追い求める私たちはすっかり忘れてしまっているのだ。
 私は近著『無痛文明論』(トランスビュー)で、その様子を、具体例をあげながら検証した。苦しみの大切さを再評価しようという掛け声だけでは、もはやビクともしないくらい、私たちは無痛化されている。まずは、その事実を自覚するところから始めるしかない。
   「無痛文明」は、私たちが一度は感じたことのある、「ああ、私はいま生きている」という経験を、消そうとしてくる。自分が人生でほんとうは何を一番したかったのかを、思い出してみること。そこにのみ無痛文明脱出の鍵がある。