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作成:森岡正博 
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論文

『倫理学紀要』第4輯、東京大学文学部 1987年 85〜112頁

人称的世界の数学
他者問題の構造変革

森岡正博

 他者問題はこれまで様々な角度から議論されてきた。最近では特に、先人の文献を詳細かつ慎重に読み解くことによって彼らをのり超えようとする試みが、一定の成果をあげて来たように思われる。しかし現在、他者問題に対する文献学的アプローチが、一種の袋小路に陥っているのもまた事実である。

 そこで本論文(1)では、これまで論じられてきた他者問題あるいは他我問題の問題構成それ自体をまず構造変革し、その後でこれにひとつの解答を与えたいと思う。

 本論文で私たちは、「現象主義」という単純明晰な方法を修正改良しそれを他者問題に徹底して適用した場合、どのような帰結が得られるのかを、もっぱら論理的概念操作の叙述に主眼を置くことによって明らかにする。以下で厳密に定義されるこの修正改良した現象主義のことを、本論文では暫定的に現象一元論と呼ぶことにする(2)。

 本論文では、最初に「外部問題」という概念に注意をうながし、次にヴィトゲンシュタインとフッサールの他者論の長所と欠陥に触れ、その後で現象一元論による他者問題の解明へと進むことにする。

 ここで一言だけ付け加えておきたい。他者問題は決して自己充足的な解を持つ孤立問題ではない。むしろそれは、私―他者関係をめぐる問題群と、こころ―身体関係をめぐる問題群とを包括する「人称的世界の哲学」の、一部分系である。この意味で、他者問題を追及する際の私たちの姿勢は、常に他者問題の先にある「人称的世界の【85】哲学」を指向している。

 

一 外部問題

 

 現在私が知覚・経験していないものを二つあげてみる。ひとつは「南極の氷」、もうひとつは「決して知ることのできない神の姿」。この二つは、認識論的身分が決定的に異なる。南極の氷の場合、私は将来南極に行けばそれを経験することができるが、神の姿の場合、私はことばの定義上、決してそれを経験することができない。私が神の姿と言われるものを経験した瞬間、私が経験したものは、ことばの定義上もはや「決して知ることのできない神の姿」ではなくなっているからである。

 後者のような性質を持ったものを、「外部問題」と呼びたい。外部問題という名称はカルナップが使用したものだが、私たちはカルナップの用語法を修正改変して、次のように新たに定式化する。

<外部問題の定式>

Xの存在および状態が、私たちの言語の枠組linguistic frameworkの定義によって原理的に経験不可能であるとき、「X」あるいは「Xの存在や状態についての命題」は「私たちの言語の枠組にとっての外部問題」である。(以下、これを外部問題と呼ぶ。)

 外部問題の実例としては「外部世界、物自体」「超越論的自我」などがある。外部問題には次の性質がある。

a 外部問間についての断定は、経験からの推論によっては導かれない。

b 外部問題について判断をしないとき、外部問題の形式で問われていたところのものが、経験可能なものに【86】ついての命題や問いに変質する。

 まずaの形式論理的な証明は、ステイスが外部世界の存在の論証不可能性を示した論法(4)を大幅に拡張一般化することによって得られる。この拡張ステイス論法は、一般に外部問題の存在あるいは非存在の、経験に基づく論証の不可能性を証明する。

<拡張ステイス論法>

(1)外部問題の存在・非存在を論証する方法は、経験によるか、経験からの推論によるかの二つである。

(2)外部問題の定義より、経験によっては論証できない。

(3)推論を帰納的推論の部分と演繹的推論の部分とに分割する。

(4)観察されることのない外部問題からの一般化は不可能。従って帰納的推論は成立しない。

(5)「P:経験されたものの存在」、「Q:外部問題の存在」とするとき、P→Qが一般的に成立するためには〜(P∧〜Q)が恒真でなければならない。このときP∧〜Qとは「経験されたものが存在し、かつ、(その背後に)外部問題が存在しない」ことであり、この場合どのようなケースであってもP∧〜Qが真であることは可能であり、従って〜(P∧〜Q)が偽であることは可能であり、〜(P∧〜Q)は恒真ではなく、P→Qは一般的には成立しない。

(6)Qを「Q:外部問題の非存在」としても(5)は同様に妥当する。

(7)従って演繹的推論は成立しない。

(8)以上より、外部問題の存在・非存在についての論証は成立しない。

 bについては、たとえば外部世界について判断をしないときそれへの問いは観察可能な物理的事物についての【87】問いに変質する(5)。他我については後述。

 さて、ここで「他者」という概念について考えてみる。「他者」ということばは様々な意味をこめて使用されている。ある人は「他者」ということばで<現に目の前に経験されている表情豊かな身体のふるまい>のことを意味し、ある人は「他者」ということばで<目の前に経験されている身体のふるまいの背後に存在する超越論的主観>のことを意味する(6)。後者の概念は、目の前の身体の中に存在するもうひとりの私という意味で、「他我」と呼ばれることがある。ところで、この「他我」を、私はことばの定義上、経験することができない。私が他我と言われるものを経験した瞬間、私が経験したものは、ことばの定義上もはや「もうひとりの私」ではなくなっているからである。従って「他我」は外部問題なのである。

 一般に「他者」と呼ばれている概念の中には、外部問題であるものと、外部問題ではないものとが混入していることが明らかになった。そこで、外部問題でないものを「他者」、外部問題であるものを「他我」として、あらためて規定し直すことにする。

他者……「現象」として、私が原理的に経験可能である限りにおける他者。ただしこの他者は物体とみなされた他者ではなく、はじめから生き生きとした表情を持った他者である。

他我……他者の背後にあってその存在が含意されるところの、もうひとりの超越論的主観としての私。

 私たちは経験に基づいて他我の存在あるいは非存在を証明することはできない。その形式論理的証明はすでに与えた。

 

二 ヴィトゲンシュタインとフッサール【88】

 

 以上の議論を基盤にして、ヴィトゲンシュタインとフッサールの他者論をそれぞれ検討してみたい。(その他の哲学者の立場については補論を参照していただきたい。)

 ヴィトゲンシュタインは、他我の感覚に関連して、「私はあなたの歯に痛みを感じることができない Ich kann nicht in Ihrem Zahn Schmerz fuhlen.」と「私はあなたの歯痛を感じることができない Ich kann nicht Ihren Zahnschmerz fuhlen.(7)」の二つの文を比較する。このときIhren Zahnschmerzという他我の感覚を直接指示したことばを含む後者の文は「構文法によって禁止(8)」されると言う。この場合の構文法とは、日常言語の構文法である(9)。さらに「他我の感覚」とはそもそも何かという問いに対しては『哲学研究』の中で「(他我の)感覚それ自体は<何か>ではない。しかし<無>であるわけでもない。Sie ist kein Etwas, aber auch nicht ein Nichits!」と答え、他我の感覚それ自体についての判断停止を要求する(11)。

 ヴィトゲンシュタインによれば、日常言語の言語ゲームにおいて実際に言明され問われているものは「他我の感覚それ自体」などという抽象的なものではなく、実生活において具体的に生き生きと体験されている他者の痛みや怒りなどの「他者の内的経験」である。そして公共世界で観察可能な他者の身体のふるまいをその言明の規準あるいは徴候とすることによって、私たちはこれらの他者の内的体験についての言明をすることができる(12)。

 ヴィトゲンシュタインのこのようなアプローチの限界については、拙論「日常言語の私的言語性について」において述べた。すなわち彼は、言語ゲームの公共性を過度に強調するあまり、本来そこに正当に見出されるべき私的言語性までをも無視しているのである。この点は他者論にまで波及していて、他者を認識する「私」あるいは「主観」というものの働きが特別の例外(13)を除いて全く無視され、もっぱら公共的に観察可能な他者のふるまいあるいは状況の側にのみ、考察の焦点が絞られている(14)。

 さて、『デカルト的省察』第五節におけるフッサールの意図は、「いかにして……他我 anderes egoという【89】意味が私の内で形成され、一致した他者経験という名のもとで存在するものとして確証され、それどころかその方法によってそれ自体存在するものとして確証されるか(15)」(傍点引用者)を解明することであった。

 フッサールは周知のように自己投入によってこれを解決しようとする。すなわち、まず私の一時的世界に私の身体―物体Leib-korperと類似した物体ein korperが出現する。このとき対関係Paarungが生じ、類比的統覚によってその物体は身体Leibという意味を獲得する。そしてその身体に対して「あたかも私がそこにいるかのように wie wenn ich dort ware」という様態の間接的現前が働き、その結果、他我の意味が私の固有領域の内で存在するものとして構成され、確証される(16)。

 他我構成理論の欠陥については様々に論じられてきたが、ここでは以下の二点について述べる。ひとつの問題点は、この理論において「外部問題としての他我」という意味と、それとは全く異なった、「他者に同定されるところの、私の自我の変様態Modifikation meines Selbst(17)」という意味とが、同じひとつの「他我」ということばに適用されている点である。これに関連してヘルトの批判がある。ヘルトによれば、フッサールの“wie wenn ich dort ware”は“als ob ich dort ware”という非現実接続法と、“wenn ich dort ware”という可能接続法とのどちらにでも解されるアマルガムである。この二つの接続法はひとつの経験平面上で共働することのできない全く異なった種類のものである。それにもかかわらず二つの接続法の共働を“wie wenn ich dort ware”という定式の下にインプリットに従属させたところに、フッサールの根本的誤謬がある(18)。ヘルトの言う可能接続法の重要性は、後に反事実条件法について議論する際に、明らかになるであろう。

 もうひとつの問題点は、次のものである。すなわち、さきほどのフッサールからの引用の中にも典型的にあらわれているが、いくら私の固有領域の内で他我の意味が「存在するもの」として構成されたとしても、それは決して外部問題としての他我が(存在論的に見て)実際に存在することを、導きはしないという点である。

 以上の議論によって、ヴィトゲンシュタインとフッサールの、それぞれの他者論の長所と欠陥が明らかになったと思う。ヴィトゲンシュタインは、他者の身体のふるまいを規準とすることで他者の内的経験についての言明を行なうという洞察を与えたが、その一方で「他者」というものの根源的な所与性とその公共性という側面を強調するあまり、私―他者関係の持つ私的な側面を見落してしまった。これに対してフッサールは、「あたかも私がそこにいるかのように」という間接的現前によって他我の意味が構成されるという洞察を与えたが、その一方が存立するところの公共性をついに獲得することができなかった。

 以上のスケッチを通して私たちは、ヴィトゲンシュタインとフッサールのアプローチが、それぞれ固有の欠陥をはらみつつも、互いに相補的であるという点に気付くのである。すなわちヴィトゲンシュタインは「他者問題という険しい山」に、「公共的な側面」から接近し、フッサールは「私的な側面」から接近したと考えられる。ここに、他者問題の構造変革が要請される第一の理由がある。つまり他者問題を発展させるためには、ヴィトゲンシュタインの他者論とフッサールの他者論をともに視野に入れる新しい枠組、言い換えれば、他者問題の公共的な側面と私的な側面とをともに傘下に収める枠組が必要なのである。

 以下に私たちが議論する現象一元論は、そのような枠組をめざしている。現象一元論は、ヴィトゲンシュタインからは他者の根源的な所与性とその公共性、それに他者の内的経験について判断する際の規準論の視点を受け継ぐ。一方フッサールからは、他者の内的経験を、「他者に同定されるところの、私の自我の変様態」とみなす考え方を、ある側面で受け継ぐ。

 他者問題の構造変革を遂行するためには、もうひとつ重要なポイントがある。それは「他我」という概念の取り扱い方である。というのも、従来の他者論の多くは、あえて取り扱う必要のない「他我」という概念を無理に【91】取り扱おうとして、無用の混乱に陥ったふしがあるからである。

三 現象一元論

 出発点に戻って考えてみる。私たちが言明の対象とできるものは、少なくとも次の三種類がある。(1)現在直接に経験されているもの(=目の前のコップ)、(2)現在直接に経験されていないが原理的には経験可能であるもの(=南極の氷)、(3)ことばの定義上経験不可能であるもの(=他我)。

 まず、現在直接に経験されているものについては、それをどのような形で言明しても、何ら問題は生じない。この種のものを、私たちは「現象」ということばで呼ぶことにする。

 現象≡def.現在直接に経験されているもの

 次に進む前に、ここで言明に関する用語法の整理をしておく。何かの結論を出すことを「判断をする」と呼ぶ。従って「判断をしない」とは、何の結論をも出さないことを言う。それが真(あるいは偽)であることを含意するような結論を出すことを「断定しない」と呼ぶ。従って「断定する」は「判断をする」に含まれる。また、「判断をする」にもかかわらず「断定しない」ことを「語る」と呼ぶ。「語る」の一例として、「〜が真あるいは偽であると思う」のような結論を出すことを特に「推測する」と呼ぶ。

 さて、では現在直接に経験されていないが原理的には経験可能であるものを、どのように取り扱えばよいか。ここでは、現象主義の考え方が参考になる。現象主義とは、物理的事物についてのすべての命題は基本的に「現在直接に与えられている現象あるいはセンスデータ」についての命題に論理的に還元可能である、とする立場である。この還元可能性についてはきわめて疑問が多いので、私たちは現象主義のこの側面を受け入れるわけには【92】いかない。

 ただ、現象主義は、現在直接に経験されていない「南極に氷がある」という言明を、「もし私が南極にいるとすれば、私は氷を知覚しているだろう」という類の反事実条件法 counterfactual conditionalの言明に翻訳する、という発想を提出している(19)。

 私たちはこの発想を受け継ぎ、「南極に氷がある」のような命題を「反事実問題」として次のように定義する。

<反事実問題の定式>

Xの存在および状態が原理的に経験可能であるにもかかわらず現在直接に経験されていない場合、Xについての命題がある「直接に経験された現象」についての(反事実)条件法の命題に翻訳可能であるとき、またそのときに限って、「X」あるいは「Xの存在や状態についての命題」は「反事実問題」である。

 反事実問題についての断定は経験からの推論によっては論証できない。この証明は拡張ステイス論法の「外部問題」ということばを「反事実問題」ということばに置きかえることで得られる。外部問題と反事実問題は似ているが、前者は原理的に経験不可能なのに対し、後者は時間の経過を考慮に入れれば原理的には経験可能である点が、決定的に異なっている(20)。

 以上で、「現象」「反事実問題」「外部問題」それぞれの概念規定が明らかになった。これら三つの概念を、【93】次のような取り決めに従って取り扱う立場が、現象一元論である。

<現象一元論>

すべての問題について次の三つの姿勢を貫く立場を現象一元論と呼ぶ。

(1)現象については判断をする。

(2)外部問題については判断をしない。

(3)反事実問題については断定をせず、語るあるいは推測するにとどめる。

 

四 他者問題と現象一元論

 「他我」は外部問題である。従って現象一元論は「他我」については、それが存在するとも存在しないとも判断をしない。現象一元論の視点から見るとき、従来の他者論の多くは、そもそも取り扱う必要のないものを取り扱おうと苦しんでいたことになる。

 現象一元論では、他者問題は「他我問題」としてはそもそも措定されない。その上で、現象一元論は、他者問題の「私的な側面」と「公共的な側面」とをともに視野に入れることができるように理論構築をする。これがすなわち他者問題の構造変革の意味であった。

 私たちは(1)現象一元論の定式、(2)現象としての他者の存在、(3)私の内的経験の存在、の三つの前提を立てる。(2)について言えば、私たちは、私の内的経験の存在と全く同じ存在論的権利を持った、生き生きとした表情を持つ現象としての他者の存在を、最初から前提する。従って現象一元論は「他者」をさらに原初的な概念によって説明しようとはしない。他者は最初から他者としてそこに与えられているのである。私たちはまず、この三つ【94】の前提をもとにして「他者のこころ」という概念を構成する。この構成によって、他者問題についての現象一元論の基礎的な言語の枠組も同時に構成される。

 その作業はまず他者のこころについての「判断表」と「判断過程」を作製することから始まる。この判断表は、「私の反事実的な内的体験」と「他者のふるまい」という二つの要素から、具体的な「他者のこころ」が導き出せるようになっている。

 最初の要素から説明する。まず、「私の反事実的な内的経験」という概念を導入する。

私の反事実的な内的経験≡def.原理的に経験可能であるにもかかわらず現在直接に経験されていない「私の内的経験」

 さらに「他者のふるまいに同定された私の反事実的な内的体験」を次のように規定する。

他者のふるまいに同定された私の反事実的な内的体験≡もし私が、あるふるまいを持つ他者と全く同じ状態に置かれたとするならば、私が経験したであろうところの内的体験。この場合、「状態」には身体の回りの状態だけではなく、身体内部の状態、さらには脳状態をも含める。

 私の反事実的な内的体験は、明らかに「反事実問題」である。以上より、次の措定をする。

T 現象一元論の言語の枠組は、他者のこころについて判断をするときに、他者のふるまいに同定された私の反事実的な内的経験についての判断を、ひとつの要素として含む。

 次に、たとえば他者の痛みについての判断は、他者のふるまいの観察抜きにはありえない。他者のふるまいについての判断は、他者のこころについての判断の必須要素である。

U 現象一元論の言語の枠組は、他者のこころについて判断をするときに、他者のふるまいについての判断を、もうひとつの要素として含む。【95】

注1:「他者のふるまい」には、他者の身体のふるまいのほか、他者のことばによる発声をも含める。「腹が痛い」という他者の言明はそれ自体ひとつの「他者のふるまい」である。

注2:「他者のふるまい」には、現に生じているふるまいだけではなく、ライルが言うところの「傾向性」としての他者のふるまいをも含める。

 さてここで、他者問題に関する「他我実在論」と「非実在論的ビヘィヴィアリズム」の構造を振り返ってみる。(補論参照)。

 他我実在論は他我の存在を断定する。従って「痛み」を例にとれば、実在論は、他我の痛みとふるまいに表出された痛みとを区別する。それゆえ、痛みの存在・非存在、表出の存在・非存在に対応して四通りの分類ができる。

「痛い」場合

他我の痛み

痛みのふるまい

a.痛い

b.痛みを隠している

×

c.痛いふりをしている

×

d.痛くない

×

×

○……存在 ×……非存在

 bとcの場合、つまり他我の内的経験とふるまいとが一致しないときが、「嘘をつく場合(21)」である。「痛い」場合の四つの分類のうち、「本当に痛い」のはaとbの場合、つまり他我の痛みが存在する場合のことである。従って実在論において他者のこころについて語ることは、ふるまいの如何にかかわらず他者が本当にそう感じているかどうかを語ることであり、つまり実在論では、他者のこころについて語ることはなによりもまず「他我の内的体験」について語ることである。【96】

 これに対して非実在論的ビヘィヴィリアリズムは、他我については全く判断をせず、これら四つの分類はすべてふるまいにあらわれているとみなす。従って他者のこころについて語ることはすなわち「他者のふるまい」について語ることである。

 以上のことを考慮して、私たちは、「痛い」という他者のこころを例にとって次の判断表と判断過程を作製する。「痛い」という他者のこころをあらわすことばは、「他者のふるまいに同定された私の反事実的な痛み」という要素と「痛みのふるまい」という要素によって説明される。

<判断表>

「痛い」場合

他者のふるまいに

同定された私の

反事実的な痛み

痛みのふるまい

a.痛い

b.痛みを隠している

×

c.痛くないふりをしている

×

d.痛くない

×

×

<判断過程>

ある他者が「痛い」のかどうかを判断するとき、まず二つの要素についての判断を行なう。ひとつは、他者の身体のふるまいに同定された私の反事実的な内的経験についての判断。もうひとつは、他者の(痛みの)ふるまいについての判断。この二つの判断を行なったのち、私は二つの判断の結果の組み合わせによって、a〜dのいずれかの言明を、他者の痛みについての判断として選択する。実際に判断をする際には、(1)他者を具体的に経験してから他者のこころについてあれこれ考え、そののちに判断をする場合と、(2)他者を経験した瞬間に【97】他者のこころについて判断をする場合(つまり他者がはじめから、そのようなこころを持ったものとして出現した場合)とがある。

 この「判断表」と「判断過程」を見ればすぐ分かるように、私たちの枠組では、他者のこころは、私の反事実的な内的経験あるいは他者のふるまいのどちらか一方に排他的に同定されるのではない。他者のこころはこれら二つの要素の両方から成るものとして定式化される。

 とは言え、すべての他者のこころについてのことばに前記の判断表が適用できるとは限らない。「痛み」などのことばは二つの要素の両方によって成立しているが、しかし片方の要素のみに基づいて成立していることばもある。たとえばビヘィヴィアリズムでしばしば問題となる「頭の中でつぶやく」ということばは、(要素としては)私の反事実的な内的経験にのみ基づいて判断され、「こころが広い」ということばは他者の(傾向的な)ふるまいにのみ基づいて判断される。というのも、「頭の中でつぶやく」という身体のふるまいとか、私の反事実的な内的経験としての「こころの広さ」などは、それらに特別の意味が付与されている場合を除き、私たちの枠組では意味を持たないからである。従ってこれらのことばの判断表を作ると

「頭の中でつぶやく」場合

私の反事実的な「頭の中でのつぶやき」

a.頭の中でつぶやく

b.頭の中でつぶやかない

×

「こころが広い」場合

「こころが広い」ふるまい

a.こころが広い

b.こころが広くない

×

【98】

 この二つは「痛い」場合の判断表の特殊例とみなされる。従って他者のこころについてのことばは、「痛い」という通常例(ABタイプ)とその特殊例である「頭の中でつぶやく」(Aタイプ)、「こころが広い」(Bタイプ)という三タイプのことばによって構成されていることになる。

 ところでAタイプとBタイプではb「隠している」場合とc「ふりをしている」場合が欠けているが、これはただちに「頭の中でつぶやいていることを隠している」や「こころの広いふりをしている」などのことばが使用禁止であることを示しているのではない。これらのことば、たとえば後者を例にとれば、そのことばは新しい「こころの広いふりをしている」という独立した他者のこころについてのことばとして用いられることは可能であり、具体的に「こころの広いふりをしている」という身体のふるまいと、私の反事実的な内的経験としての「こころの広いふり」の二つの要素がどの程度有意味であるとされているかに応じて、AあるいはBあるいはABタイプのことばとして用いられることになる。

 さて、以上用いられてきた「他者のふるまいに同定された私の反事実的な内的経験」のことを、現象一元論では、「他者の内的経験」と呼ぶことにしたい。

他者の内的経験≡def.他者のふるまいに同定された私の反事実的な内的経験

 たとえば痛みを例にとれば、「他者の内的経験」である彼の痛みの内的経験についての判断内容は、具体的には(1)私の仮想的な内的経験(想像された痛み)(2)私の事実的な内的経験(感じられているこの痛み)を適用することによって、決定される。

 他者の内的経験も、明らかに「反事実問題」である。従って現象一元論においては、他者の内的経験について断定をすることはできない。私は他者の内的経験について推測することができるのみであり、その推測結果もせいぜい確からしいものでしかありえない。しかし外部問題としての他我の内的経験を設定してもそれは原理的に【99】経験不可能なのに対し、反事実問題としての他者の内的経験は(実際問題としてはともかくも)原理的には経験可能であるという点が、決定的に異なっている。

 また、「他者のこころ」は他者のふるまいと他者の内的経験によって基本的には説明される概念であることになる。ただし、一枚の判断表で示されるのは他者のこころの総体ではなく、他者のこころの総体は、可能な限りの判断表の総和として間接的にとらえることしかできない点に注意してほしい。

 以上が、他者問題に関する現象一元論の基礎的な言語の枠組の骨子である。ここで答えなければならない問題が三つある。(1)他我を導入しないとき、行為主体としての他者の存在論的身分はどのようになるか。(2)現象一元論における他者理解とは何を意味するか。(3)これは独我論ではないか。

 ここでは最後の問題のみを扱い、他の問題は別の機会に譲ることにする。

 論としての独我論は、他我の非存在を断定するか、あるいは特定の一個人名の唯一存在を主張する。現象一元論は他我の存在・非存在について、そもそも全く判断をしないので、明らかに独我論ではない。しかし現象一元論の言語が特定の一個人によってしか使用されないとすれば、それは独我論の言語ではないにしても、準独我論的な言語と言わざるを得ない。言い換えれば、ある言語に複数他者間での公共的な使用の可能性がなければ、それは「言語」という名に値しない。従って現象一元論の言語についても、私と複数他者間での言語の公共化可能性が示されねばならない。(公共言語としての現象一元論の言語という視点から見るとき、「私」は特定の一個人名を含意しないことに以下注意せよ。)

 現象一元論の基礎的な言語の枠組について言えば、その公共可能性は、他者のこころだけではなく私のこころも含めた「こころ」についての対話が、私―他者間においてどのような形で成立可能かを解明することによって、示される。そのためにはまず「私のこころ」が構成されねばならない。その準備として、私のふるまいを【100】次のように規定する。

反事実的な他者のふるまい≡def.原理的に経験可能にもかかわらず現在直接に経験されていない「他者のふるまい」

他者としての私のふるまい≡def.私の内的経験に同定された、反事実的な他者のふるまい≡もしある内的経験を持ったときの私の身体のふるまいとされるものが、完全な他者の身体のふるまいとして経験されるならば、私が経験したであろうところのふるまい。

 「反事実的な他者のふるまい」「他者としての私のふるまい」はともに「反事実問題」である。「他者としての私のふるまい」についての判断内容は、具体的には(1)仮想的な他者のふるまい(想像されたふるまい)(2)事実的な他者のふるまい(鏡に映った私の姿とされるもののふるまい)を適用することによって、決定される。

 ここで「こころ」をあらわすことばをAB、A、Bの三タイプに分け、それぞれについて「他者のこころ」の場合と「私のこころ」の場合の判断表を作製する。

ABタイプ

(T)他者のこころの場合

他者のこころ

他者の内的経験

他者のふるまい

a.AB

b.ABを隠している

×

c.ABのふりをしている

×

d.ABではない

×

×

【101】

(U)私のこころの場合

私のこころ

私の内的経験

他者としての私のふるまい

a.AB

b.ABを隠している

×

c.ABのふりをしている

×

d.ABではない

×

×

 

Aタイプ

(T)他者のこころの場合

他者のこころ

他者の内的経験

a.A

b.Aではない

×

(U)私のこころの場合

私のこころ

私の内的経験

a.A

b.Aではない

×

 

Bタイプ

(T)他者のこころの場合【102】

他者のこころ

他者のふるまい

a.B

b.Bではない

×

(U)私のこころの場合

私のこころ

他者としての私のふるまい

a.B

b.Bではない

×

 

 以上が、一般に「こころ」についての判断表であり、これに基づいて現象一元論の基礎的な言語の枠組が成立する。

 ここで「現象一元論の言語共同体」というものを想定する。この共同体は「私」と複数の「他者」より成立し、私も他者もすべてが現象一元論の言語の枠組のもとで言語生活を営むものとする。前記の判断表は、この言語共同体の成員が、他者あるいは私のこころについて判断をするための表である。私は判断表に基づいて私のこころと他者のこころについて判断をしなければならない。また、他者は、他者自身のこころについて判断をするときには「私のこころの場合」を用い、他者自身以外の他者および私のこころについて判断をするときには「他者のこころの場合」を用いることが要請されている。この場合次の二点、つまり(1)その要請が本当に満たされているかどうかを私は完全には知ることができない(反事実問題の性質より)(2)他者が他者自身のこころについて判断をするという事態は、判断する主体としての他我を想定しなくても説明可能である、ということに注意する必要がある。【103】

 また、この言語共同体では、判断をするため表の共有は要請されているが、発話のためルールは特に設定されていない。そして判断表が束縛を与えるのは判断の形式に対してのみであり、具体的な判断内容にまでは及ばない。そのかわり、発話行為についての大まかな「慣習」は共有されているものとする。また、他者あるいは私のこころに関する発話をする場合、嘘をつくことも許されている。

 さて、現象一元論の言語共同体において「こころ」についての対話が基本的に成立可能であることを、以下に示す。まず私と他者との一対一の対話を想定する。

 最初に、他者が発話し私が判断をする過程を考える。

(1)他者が「私は痛い」と言う場合

他者は嘘をついているかもしれないので、他者のこころについて判断をするときAB(U)表をそのまま利用することはできない。「私は痛い」という他者の言明は、普通の場合、他者の痛みのふるまいの一種である。従って何かのゲームをしている場合を除けば、他者のこころはAB(T)表のaかcである。そして私は他者の痛みの内的経験について判断を行ない、その結果aあるいはcのどちらかを選び取る。従ってこの過程は成立する。

(2)他者が「お前は痛い」と言う場合

その言明を「私は痛い」に読みかえ、AB(U)表と照らし合わせてその言明の妥当性を判断する。従ってこの過程は成立する。

 次に、私が発話し他者が判断をする過程を考える。現象一元論では、他者の判断過程とは他者に同定された私の反事実的な内的経験としての判断過程であり、すなわち「反事実問題」である。従って私は他者の行なった判【104】断過程について断定的に知ることはできず、せいぜい確からしい推測ができるのみである。もし他者が判断結果なるものを発話したとしても、うそをついている可能性がどこまでも残る。

(3)私が「私は痛い」と言う場合

私はAB(U)表を用いて「私は痛い」という判断をし、それに基づいて「私は痛い」と発話する。このとき他者はそれを聞いた上で、私の発話を痛みのふるまいとして受けとり、AB(T)表を用いて二つの要素についての判断を行ない、aあるいはcの判断をする―という論理的可能性が常に開かれている。従ってこの過程は成立可能である。他者が本当に判断を行なったかどうかについては、他者のその後の言明などから推測するしかない。

(4)私が「お前は痛い」と言う場合

私はAB(T)表を用いて「お前は痛い」という判断をし、発話する。このとき、他者はその言明を「私は痛い」に読みかえ、AB(U)表と照らし合わせてその言明の妥当性を判断する―という論理的可能性が常に開かれている。従ってこの過程は成立可能である。

 以上より、他者あるいは私のこころを話題にした私―他者間の一方的な発話→判断過程の成立可能性が明らかにされた。私と他者が、この四つの場合を有機的に組み合わせて交互に発話をくり返すとき、こころについての一対一の対話が成立する。従って私と他者との、こころについての一対一の対話は、他者が私の発話について全く判断をしないで勝手に発話する可能性も残されているとは言え、基本的には成立可能である。現象一元論の言語共同体の成員が三人以上の場合でも、同様の手順を踏むことによって、こころについての相互の対話が成立可能であることが示される。(もちろん高度のコミュニケーション行為が成立するためには様々な条件がさらに加【105】味されなければならない。)このような対話の成立可能性が示されたことによって、現象一元論の基礎的な言語の枠組の公共化可能性が明示された。

 ここで次のような疑問が生じるかもしれない。現象一元論における他者概念は、定義より、現象として経験可能である限りにおける他者なので、そこでは<徹頭徹尾私にとって他である>という他者概念の本質が見失われることになるのではないか。しかしこの疑いは、「経験可能」ということと「理解可能」ということの違いに気付いていない。経験可能である他者が、まさに理解不能な、全く異質の「他」者として私の前に立ち現れることを、現象一元論は排除しない。

 そしてこの問題、すなわち現象一元論における他者理解の問題こそ、私たちが次に立ち向かうべき課題なのである。

 

〔補論〕

 諸家の他者論・他我論を、「他我の存在」をどう判断するかという視点から、分類・整理してみたい。主に英米系の哲学者を中心に整理するが、他者問題についての立場の分類のひとつの試みとして、読んでいただければ幸いである。他我の存在に注目するとき、諸家の立場は、a「他我の存在・非存在について断定をする立場」。b「他我の存在・非存在について断定をしない立場」、c「他我の存在・非存在についてそもそも判断をしない立場」の三種類の立場に分類することができる。

a 断定する立場【106】

【a1 他我実在論】実在論は他我の存在を断定する。直観によって断定がなされる場合と、論証によって断定がなされる場合とがある。後者における論証はほとんどの場合、類推論法によってなされる。類推論法とは、私の身体と意識との関係を他者に適用して他者の意識の存在を類推するもので、その典型はJ・S・ミルに見られる(22)。類推論法の難点についてはさまざまに論じられてきたが(23)、その最も深刻な難点は、「私自身の場合からの類推によって確認されるのは、そもそも他我の内的経験についてではなく、条件を異にした私自身の内的経験についてであるにすぎない」というものである(24)。

【a2 実在論的ビヘイヴィアリズム】この立場は他我の存在を断定した上で、他我の内的経験について語ることはすなわち他者のふるまいbehaviorについて語ることであると主張する。この立場の例としては、一部の髄半現象説epiphenomenalism、アームストロング、若干の留保をつけた上でのストローソンなどがある(25)。

【a3 決定論的不可知論】不可知論は、「他我は存在する」と断定するか、あるいは「他我は存在するかしないかのどちらにすでに決定されている。」と断定する。しかし同時に私はそれを知ることができないとする(26)。

【a4 独我論】独我論は他我の非存在を断定するか、あるいは特定の一個人名の唯一存在を主張する(27)。

b 断定しない立場

【b1 仮設論】仮設論は他我の存在について断定しない。そのかわり、作業仮説としての他我について語る。エイアーによれば、他者のふるまいは他我の存在について私たちが持つことのできる最良の証拠を与える。しかしその証拠が最良にとどまり、決して決定的でないこともまた事実である(28)。

c 判断をしない立場

 実在論では他我の存在を断定したため、「どのようにして他我について知るのか」という問題設定が主になされた。これに対【107】し、判断をしない立場では、他我の存在について判断をしないため問題は変質し、「他者のこころあるいは内的経験とは何か」「他者のこころあるいは内的経験について語るとはどういうことか」という形式をとるようになる。

【c1 非実在論的ビヘィヴィアリズム】このビヘィヴィアリズムは他我の存在については判断をしない。その上で、他者のこころや内的経験はあるふるまいと同一であると主張するか、あるいは、他者のこころや内的経験について語ることはすなわち他者のふるまいについて語ることである、と主張する。前者は形而上学的ビヘィヴィアリズムと呼ばれ、後者は分析的ビヘィヴィアリズムと呼ばれる(29)。洗練されたビヘィヴィアリズムは「脳のプロセス」あるいは「傾向性」を導入する。脳のプロセスを導入する例としては心脳同一説がある。心脳同一説によれば、意識は脳のプロセスと同一である。「同一」の解釈によって、心脳同一説は形而上学的/分析的ビヘィヴィアリズムどちらにもなり得る。私たちは実際問題としては、他者の脳のプロセス・ふるまいを十分に観察することはできず、それらの同一を確認することはできない(30)。ライルは「傾向性」の概念を導入する。ライルによれば、「煙草好き」という他者のこころの性質とは、常に煙草を吸い続けていることではなく、しかじかの条件が満たされたならば彼は煙草に火をつけるだろう、ということを指す。このように、他者のこころについて語ることは他者のふるまいの傾向性について語ることである(31)。

【c2 構成主義的現象主義】この立場は、他者を、センスデータのような基本的現象から論理的に構成できると主張する。初期のカルナップは、方法論的独我論に立ち、私の意識経験からなる基本的経験Elementarerlebnisseから他者を論理的に構成する(32)。しかし論理的構成の完全性については難点が残る(33)。なお、私たちの立場である現象一元論は、この構成主義的現象主義とは完全に異なる。

【c3 現象一元論】本文参照。【108】

 

(1)本論文は、未発表原稿「他者問題と現象一元論」(一九八五)に若干の修正を加えたものである。拙論「日常言語の私的言語性について」日本哲学会編『哲学』第36号、一九八六、の註で予告していたものが、それである。

(2)「現象一元論」という名称は、なぜそれが「一元論」と銘打たれているかを理解できなければ、本質的には了解不可能であろう。本論文ではそれを示すことができなかった。従って本論文を読む限りでは、その名称は単なるレッテルであるとみなしていただきたい。しかし、本論文を基盤として現在作成中の論稿「人称的世界の哲学」においては、その説明を試みる予定である。ただしそこでは、別の理由から、「現象」一元論の「現象」ということばが、他のことばで置き換えられるはずである。

(3)Crnap,(2), 206, 214, 217.

(4)Stace, 364.

(5)Cf.Russerl, (2), 101-126/Carnap, (1), 35/Ayer, (3), 232, 239, etc.

(6)Vgl.Husserl, 123./Theunissen, 103, 111.「超越論的主観」という語は、別途考察する余地がある。

(7)Wittgenstein, (1), 49, (2), §63.

(8)Wittgenstein, (1), 49.

(9)Cf. Wittgenstein, (3), 307-310,(4), 66.

(10)Wittgenstein, (5), §304.

(11)Cf. Cook, 145.

(12)Cf.Wittgenstein, (4), 24-25, (5), §354, (6), §492.

(13)Wittgenstein, (5), Uiv.

(14)Cf.Wittgenstein, (5), §293

(15)Husserl, 122.

(16)Husserl, 137, 140, 141, 147, 148, 153.

(17)Husserl, 144.【109】

(18)Held, 35, 36.

(19)Mill, 181, 183/Russell, (3), 148-149/Ayer, (3), 232/Hospers, 542-543.

(20)反事実問題については、森岡(2)でさらに詳しく論じた。

(21)「嘘をつく場合」については、森岡(1)、二〇八頁以降を参照。

(22)Mill, 191-192

(23)Malcolm, 152/Wisdom, 78, etc.

(24)Cf.Wittgenstein (5), §302/Wisdom, 234/Ayer (2), 202.

(25)Shaffer, 37-40/Armstrong, 72, 75/Strawson, 106.

(26)Cf.Parfit, 231-243.

(27)Cf. 永井、第一部。

(28)Ayer, (4), 221-222/Russell, (2), 96, (1), 27.

(29)Borst, 15.

(30)Place, 101/Feigl, 38/Smart, 163/Ziff, 148.

(31)Ryle, 43, 190.

(32)Carnap, (1), 86, 91-92, 182-183, 192-194.

(33)Ayer, (3), 239, (1), 132-142, (5), 89-111.

 

文献

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 (3) The Foundation of Empirical Knowledge, 1953.

 (4) The Problem of Knowledge, 1956, Penguin Books.

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 (3)Wittgenstein’s Lectures in 1930-33, in G. E.Moore, Philosophical Papers, 1959.

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永井 均 『<私>のメタフィジックス』一九八六、勁草書房。

森岡正博(1)「日常言語の私的言語性について」日本哲学会編『哲学』第36号 一九八六。

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