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作成:森岡正博 
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論文

『人間科学:大阪府立大学紀要』3 2008年3月 3〜68頁
生命の哲学の構築に向けて(1)
: 基本概念、ベルクソン、ヨーナス
森岡正博 居永正宏 吉本陵

 

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全体目次

第1章 生命の哲学とは何か         森岡正博*a

第2章 アンリ・ベルクソンの生命の哲学   居永正宏*b

第3章 ハンス・ヨーナスの生命の哲学    吉本陵*c

*a 大阪府立大学人間社会学部人間科学科教授

*b 大阪府立大学大学院人間社会学研究科人間科学専攻博士後期課程

*c 大阪府立大学大学院人間文化学研究科比較文化専攻博士後期課程


第1章 生命の哲学とは何か 執筆:森岡正博

目次:

1 なぜ「生命の哲学」なのか

2 思想史に見る「生命の哲学」

3 「生命」の概念

4 「生命の哲学」の具体的なテーマ

5 「生命の哲学」に関する先行研究

6 「生命の哲学」研究プログラム

1 なぜ「生命の哲学」なのか

 我々はこの論文と、それに引き続いて将来発表される予定の一連の論文で、現代における「生命の哲学」を構築するための、基礎的な作業を行なう。これらの論文は、大阪府立大学大学院人間社会学研究科の教員と院生・元院生が組織する「「生命の哲学」研究会」における成果をもとに執筆される。今回の論文が第1号となるが、今後も適宜、続編を執筆していく予定である。

 我々が「生命の哲学」の必要性を痛感したひとつのきっかけは、現代の生命倫理の諸問題を検討しているときであった。脳死臓器移植問題や、ヒトクローン問題などの生命倫理の問題を考えていくと、その議論はどうしても、「そもそも生命とは何なのか」「人間が生きること死ぬことの意味は何なのか」という根本問題にぶつかってしまう。しかしそれらの問題は、米国で発展した「生命倫理学bioethics」の枠組みではほとんど答えられないようになっているのである。生命倫理学は、むしろ、それらの泥沼のような問題から距離を取って、現実の諸問題をプラグマティックに解決していくことを目指して構築されてきたという経緯がある。「そもそも生命とは何なのか」という問題を生命倫理学に求めるのは、お門違いだというわけである。(ただし最近の展開については後述する)。

 あるいは社会福祉学の世界でも同じである。高齢者介護の問題や、障害者福祉の問題などが、人々の日常生活の現場で大きな課題となってきた。それに対処するために社会福祉学の領域でも様々な理論的・実践的な試みがなされているが、現場の人々の声をすくい上げて問題解決を探ろうとするときに、やはり同じような根本問題、すなわち「老いていくとはどういうことか」「病んでいくこと、障害をもつことの意味はなにか」といった哲学的問題にぶつかってしまうのである。社会福祉学もまた、現実の社会問題を解決するための専門家を養成しなくてはならないし、その意味でプラグマティックな思考を必要とされるから、ここでもまた生命をめぐる哲学的問題が深められる余裕はないのである。

 あるいは議論喧しい環境問題についても似たような状況にある。地球温暖化問題への取り組みはまさに急を要する課題であるが、その裏には、なぜそもそも我々は環境を守らなければならないのかという環境哲学の根本問題が横たわっている。これは長年にわたって専門家たちによって議論され続けてきたテーマであるが、いまだに確たる答えは導かれていない。環境哲学・環境倫理学の分野では、「人間もまた生物種のひとつであり、人間を取り巻く大きな生態系のネットワークによって生かされている」という視野から、何かの答えが導けるのではないかと考えられてきた。このような思索を進めていけば、それは必然的に、人間の生命と人間以外の生命との関わりのあり方を考える哲学の営みに行き着くことになるはずである。

 これらのことからも分かるように、現代世界の様々な問題を突き詰めて考えていくと、その先には、「生命とは何か」という根本問題が見えてくるという構造になっているのだ。(なお、これから本章で「我々」という表現をしばしば使うが、これは必ずしも上記の研究会のメンバーが本章での森岡の考え方のすべてに同意しているということを意味しない。「生命の哲学」についての大枠の了解は見られるものの、メンバーの立場や思想はきわめて多様である。このことに留意してお読みいただければ幸いである)。

2 思想史に見る「生命の哲学」

 ところで「生命の哲学」と言えば、すでに哲学の専門領域の内部で、かなりの研究の蓄積があるのではないかと思われるかもしれないが、実はそうではない。哲学の専門領域には、たとえば「言語の哲学」「心の哲学」「宗教の哲学」など様々な研究分野があるが、しかしながら「生命の哲学」という〈研究分野〉は存在していない。たとえば、『岩波哲学思想事典』に、「生命の哲学」という項目はない。(ただし、「生命」「生の哲学」の項目はある。後述)。英語では、『ブリタニカ百科事典』にも「philosophy of life」の項目はない。インターネット上の哲学事典であるStanford Encyclopedia of Philosophy およびInternet Encyclopedia of Philosophyにもエントリーはない。カテゴリー型ディレクトリである英語Googleおよび英語Yahoo!にもエントリーはない。英語で「philosophy of life」と言うと、個人的な人生観を指すことが多いがゆえに、学術的な哲学の一分野を表わす言葉としては成立しにくいのであろう。

 ドイツ語では、「Lebensphilosophie」という概念があるが、それは近現代ヨーロッパにおけるある一群の哲学者たちを総称するときの呼び名として、もっぱら使用されている。主に言及されるのは、ディルタイ、ベルクソン、ドリューシュ、クラーゲス、ジンメルらの19〜20世紀の哲学者たちであり、さらにはそこから広がって、ショーペンハウアー、ニーチェ、ボルノウ、オルテガ、シュヴァイツァーらの名前があげられることも多い。彼らに共通するのは、人間の知性よりも、それを底辺から規定する生の自己超越の力を重視して、人間存在や文化現象を理解しようとする姿勢である。丸山高司の的確な要約によれば、「彼らはそれぞれ独自の思想を展開しているが、「創造力の連続性」(ディルタイ)、「超人」(ニーチェ)、「生の超越」(ジンメル)、「生の飛躍」(ベルクソン)といった概念から明らかなように、〈生のたえざる自己超越の運動〉という考えが、彼らのひとつの中心思想になっている」[1]のである。これらの流派は、フランス語では「philosophie de la vie」と呼ばれ、日本語では「生の哲学」と呼ばれることが多い。フランスでは、アンリ、ビランらが含まれる。この流れは、ハイデガー、メルロ=ポンティ、サルトル、レヴィナスらの実存主義的な哲学へと発展し、さらにはドゥルーズ、フーコーらに影響を与えていると見ることができるだろう。近現代のこれらヨーロッパの哲学者たちの思索が、我々の「生命の哲学」に大きな寄与をなすであろうことは明らかである。彼らの思索は、現代の我々にとっても、豊かな発想の源泉である。だが、「生命の哲学」というものを、これらの哲学者たちの思想のみに限定するのは、いささか見当違いというものであろう。なぜなら、人間や人間を取り巻くものの生命について深い哲学的思索をしてきたのは、けっして彼らだけではないからである。彼らのほかにも、興味深い思索を試みてきた人々がたくさん存在する。生命の哲学=生の哲学=ヨーロッパ近現代哲学の一潮流、というふうに捉えるのは浅い見解であると言わざるを得ない。

 ところで、英語圏では、「生物学の哲学(生物の哲学)philosophy of biology」という研究領域が隆盛している。ヨーロッパ哲学では、古代から、生物(生き物)を物質から分かつような、生物特有の力を仮定することがあった。デカルトは生物を機械論的に捉えたが、同時に動物精気の存在を認めていた。20世紀に入って、ドリューシュが、その生物特有の力に「エンテレヒー Entelechie」という概念を与え、生気論の哲学を開始した。しかし20世紀の生物学はその後、機械論へと発展し、二重螺旋の発見で機械論は頂点を迎える。生物の発生・形態形成・進化などが、遺伝子レベルの影響下にあることが分かってきた。その結果、生命現象がどこまで遺伝子に還元されるのかという哲学的な問題群が登場した。また、生物体の生き物としての特徴に関しては、ベルタランフィの有機体論から一般システム論への展開があり、エンテレヒーとされていたものを、自己組織化システムの性質として解き明かす試みが始まった。この路線は、プリゴジンの散逸構造を経て、ヴァレラとマトゥラーナのオートポイエーシス概念に至る。また、ダーウィンの進化論は、20世紀に遺伝学と結合してネオ・ダーウィニズムとして展開した。そして、生物の形態形成や進化だけではなく、生物種と生物個体の相互関連を説明し、人間の心理・行動・文化についても説明する「進化学」として展開している。これらの生物学の知見をもとにして、人間がどこまで広い意味での生物学によって説明できるのかを解明する言説が、学術と啓蒙書の世界で開花している。これらのテーマもまた、我々の「生命の哲学」の一部分を形成するものであろう。英語圏の生物学の哲学は、おもに科学哲学・科学史の領域で議論されており、ヨーロッパの生の哲学や、他の地域の生命の哲学とは断絶されている。これらをつなぎ合わせることも、我々の「生命の哲学」の主要目標のひとつとなる。

 ヨーロッパの生の哲学は、人間の知性よりも、それをより下部で規定する生の力のようなものを重視する。この流れは、フロイトによる「無意識」の発見を経て、精神分析学派という思想潮流を生み出すことになる。フロイトは、人間を、知性によってはコントロールできない無意識、性欲、死への欲動などによって突き動かされる存在として把握した。ユンクの集合的無意識や、ライヒのオルゴンエネルギーの概念は、生の哲学の、心理学分野での発展形態と見ることもできる。さらに、社会心理学のフロムは、死への欲動に対置される生の愛好biophiliaの考えを打ち出し、フランクルはいかなるときでも人生は肯定し得るという哲学を提唱した。フランクル学派は「生命(人生)の意味meaning of life」をキーワードに心理学と哲学の接点を探求している。また、フロイト学派の影響を受けたキュブラー=ロスは、死にゆく人間の心理変容の研究を行ない、現代の死学(サナトロジー thanatology)の創始者のひとりとなった。これらの心理学派による生命へのアプローチもまた、「生命の哲学」の一分野となるであろう。

 冒頭で、現代の生命倫理学について言及したが、実は、現代の生命倫理学や環境倫理学も、ごくわずかながら、生命の哲学として捉えるべき重要な思索を生み出している。まず環境倫理学では、ノルウェーの哲学者であるネスが、独自の「ディープエコロジー deep ecology」の概念を提出してエコロジーに一石を投じた。その祖型は、レオポルドやソローらの米国の環境思想や、ノルウェーの環境思想にある。また、環境倫理学と生命倫理学の双方で大きな足跡を残したヨーナスによる生命の哲学(『有機体と自由』『責任という原理』)は、生物進化と人間の尊厳を結合させ、現在世代と将来世代を結合させようとするものであり、近年のもっとも注目すべき生命の哲学であると言える(ヨナスとも表記される。第3章参照)。ヨーナスの影響を受けたキャスは、米国の大統領生命倫理評議会の委員長として『治療を超えて』[2]を2003年にまとめ、生命倫理の議論を、生命技術と人間の幸福という人文学・哲学の問題として再設定し、英語圏の生命倫理学に多大な影響を与えつつある[3]。

 また、フェミニズムにおいても「生命の哲学」は発見されるはずだ。たとえば、「子産み」というものが女性にとってどのような経験であるかを語る言説は数多く見られる。そこにおいてどのような「生命の哲学」が展開されているのか注目に値する。エコロジカル・フェミニズムにおいても、産みと自然との関わりがテーマとなっていた。フェミニズムにおいて「産み」の問題は錯綜しているので、政治的背景に留意しながらその声を聴いていく必要がある。また、産みの中断としての中絶をめぐるフェミニズムの考察を読み解いて展開していくことも「生命の哲学」の大きなテーマのひとつだろう。また、女性の身体へのテクノロジーの介入を批判的に考察する、ジェンダーとテクノロジー研究もまた注目すべきである。

 以上、哲学とその周辺領域における「生命の哲学」的な思索の潮流を、駆け足で概観した。もちろん、以上の見取り図からこぼれているものはたくさんあるし、これから研究が進んでいくにつれて、様々なものが「生命の哲学」として見えてくるようになるだろう。とりあえずここで再確認しておきたいのは、これらの思索が積み重ねられてきているにもかかわらず、依然として「生命の哲学」という〈研究領域〉は、明瞭には成立していないということである。もっとも近いのは、「生の哲学」と「生物学の哲学」であるが、ともに我々の視野からすれば狭すぎると言わざるをえない。

 ここまでは、近現代のヨーロッパ・米国の哲学思想史を見てきたが、そもそも「生命の哲学」を発展させてきたのは、この地域・時代ばかりではないだろう。「生命」というものを、人間の人生のあり方、生と死、人間と自然をつなぐものというふうに捉えるとするならば、実に、世界中のあらゆる哲学思想がそれに取り組んできたと言える。20世紀の「生命の哲学」が、生物学、科学技術、戦争、物質文明などとの関連で深められたとすれば、それ以前の「生命の哲学」もまた、その時代の技術文明、社会体制、戦争、宗教などとの関連で深められていたと推察される。古代文明においてアニミズムやシャーマニズムが興隆したときからその問いは中心的な課題としてあったであろうし、後に世界宗教となる宗教の開祖たちが説いた教えの多くは、「生命の哲学」に関わるものであった。そして、地中海、インド大陸、中国大陸などで開花した古代哲学や宗教哲学の中心のひとつも、我々の言う「生命の哲学」であったと考えられる。ギリシア哲学に見られる生命の思索は豊穣であるし、インド哲学や中国哲学はむしろ生命の哲学を中核として形成されたとも考えられる。かくして、古代から始まる東西の哲学思想のほとんどすべてを、「生命の哲学」の視点から読み解き、統一的に眺め取ることが可能だということになる。我々にまだなじみの薄い、アラビア・イスラム哲学や、ラテンアメリカ、アフリカの哲学もまた、この視点から研究されるべきであろう。日本思想にも、生命の哲学が多く見出されるはずだ。密教を展開した空海、最澄、あるいは鎌倉新仏教の親鸞、道元、日蓮らの思想は、救済や悟りを軸にした壮大な生命の哲学として捉えることができる。江戸期には、三浦梅園、安藤昌益、貝原益軒らの生命と自然の哲学思想がある。近年、大正生命主義の思潮への関心も高まっており、西田幾多郎の生命の哲学も注目を集めている。フェミニズムの平塚らいてう、高群逸枝、そしてウーマン・リブの田中美津らも注目に値する。

 このアプローチは世界哲学史・世界比較思想研究という研究分野となるのかもしれないが、我々はその研究分野自体を目指すものではない。我々の世界哲学史・世界比較思想研究は、もっぱら「生命の哲学」という切り口から行なわれるのであり、「生命の哲学」という切り口の上で、意味のある世界哲学史を構想するのである。何かの切り口を設定しないかぎり、意味のある世界哲学史は不可能であろう。また、我々は、その思想史研究の成果が現代の生命をめぐる諸問題の考究にどのように寄与するのかという点を絶えず念頭に置きながら研究を進めるのである。「生命の哲学」を、個別の思想を比較するだけの比較思想史研究に矮小化させることは避けなければならない。

 また、このように考えてみると、「生命の哲学」が調査研究しなくてはならない資料としては、哲学思想・宗教にとどまらず、さらに種々の文献があるということが分かる。たとえば、文学・詩・芸術などの作品に見られる「生命の哲学」もまた考察していく必要があるだろう。もちろんそこには学術的な哲学は存在しないであろうが、しかしながら、学術の枠を超えるような思想や世界観がそこで表現されていることは多いと思われる。ゲーテの『ファウスト』に、ある種の注目すべき「生命の哲学」的なものが見られるということに異論のある人は少ないはずだ。これに関して、2007年に鈴木貞美が、『生命観の研究』という学際的な大部の研究書を刊行している。これは、日本の明治期から現代に至るまでの日本の学術・文芸・芸術などの領域で、どのような生命観が表現され、語られてきたかを網羅的に研究したものである。これについては後述する。

 このように考えると、「生命観の研究」というのは、「生命の哲学」にとって重要な貢献をなすものだということが分かる。なぜなら、生命についての哲学的思索は、過去の思想から影響を受けるばかりではなく、同時代の人々の抱いている様々な生命観からの影響をもまた強く受けるはずだからである。同時代において、ある地域の人々がどのような観念を抱いているかというテーマは、文化人類学の研究対象である。日本や諸外国における同時代の「生命観」を調査する、生命観の文化人類学もまた、広い意味での「生命の哲学」であると言えるだろう。そしてそれらの生命観のなかに、どのような世界観や、宇宙観や、自然観や、人間観が潜んでいるのかを解明することは、現代における「生命の哲学」を構築していく際に、非常に役立つことだろう。私はそのような作業を、「日本人のいのち観」の調査として行なったことがある。その最終的なレポートはまだ完成していないが、その一部については、論文 “The Concept of Inochi” として刊行した[4]。この研究から、たとえば、我々は「いのち」というものを、死によって終わりが来るものであると同時に、それを超えて何かのかたちでどこかにつながっていくものとして捉えているようだということが明らかになっている。ここに見られるものは、まさに「生命の哲学」のひとつの実質的内容を指し示すものではないかと考えられる。日本以外の地域で、これがどのような形式において見られるのかについて、今後の研究が必要である。

 また、「生命の哲学」は、人間が生まれること、病気になること、障害をもつこと、老いていくこと、死んでいくことを、社会がどのように扱っている(きた)のか、そして我々が納得して生老病死していくためには社会はどのようなものでなければならないのか、という社会哲学の問いとも、密接に関連することになる。老いていく人々、障害をもつ人々への関わり方、資源配分のあり方を考えていくためには、そもそも人が老いるとはどのようなことなのか、障害をもつ生とはどのような生なのかについての哲学的考察が必須である。それはまた、どのような人ならば生まれてきてよいのか、どのような人ならば死ぬにまかせてもよいのかという問題に関する哲学的考察とも関連するだろう。このようにして、「生命の哲学」は、現代の社会福祉学、経済学、障害学などの社会科学系、福祉系の学問や、実践活動に深く関与することになるはずである。

 このように、「生命の哲学」は、人間、生命、自然などをめぐる様々な学問と交流せざるを得ない。この意味で、「生命の哲学」は初発から学際的であることを宿命づけられていると言える。さきほど言及したのは、いまの時点で連想できる一部の学問についてのみである。今後研究が進むにつれて、さらに多くの関連する学問が見えてくるはずだ。

 以上をまとめると、「生命の哲学」は、「生命をめぐる現代の諸問題の哲学的解明」「生命の世界哲学史研究」「生命の文化人類学」「生命の社会哲学」を、互いに連結させながら進めていくところに、その特徴があるということになる。「生命の哲学」とは、これらが相互に関わり合いながら深化していく営みである。多人数で、これらの研究のいろいろな側面を分担していくことになると思われるが、その場合でも、つねに他の領域との関連性に自覚的であることが求められる。単に、あるひとりかふたりの思想家の生命哲学の研究だけに没頭することを指して、我々は「生命の哲学」とは呼ばない。また、現代社会のひとつのトピックにだけ専門的に詳しくなることをもって、「生命の哲学」とは呼ばない。それらの営みが、相互に絡まり合っていくプロセスこそが「生命の哲学」の存在意義である。ここでは4つの領域のみを挙げたが、それはいまの時点でそれらが念頭に浮かんでいるだけであって、今後研究が進んでいけばさらに変わってくることになるはずだ。

3 「生命」の概念

 ところで、「生命の哲学」において、「生命」という概念は、いったいどのようなものとして捉えられるのだろうか。「生命」という言葉は、多くの文献に見出されるが、それが意味するものはきわめて多様である。人間の生き死にを指す場合もあるし、生物の存在様式を指す場合もあるし、超越的なものと人間との関係をあらわすこともあるし、ものが生成してくる現象や原理をあらわす場合もある。だが、一見多様でばらばらのように見えるが、それらがすべて「生命」という言葉で表現されてきたわけであるから、そこには何か通底するものがあるはずだ。

 ここで、「生命」という言葉の意味についての、私自身の暫定的な考え方を述べておきたい。これは、「生命」という言葉が実際にどのように使われているかを参考にしつつ、また哲学者たちが「生命」という言葉をどのように使ってきたかを考慮に入れたうえで、これからの「生命の哲学」において押さえておくべき「生命」の概念を整理したものである。今後の研究が進むにつれて、これは何度も改訂されていくことになるであろう。

 まず最初に前提しておかなければならないことは、我々の「生命の哲学」が「生命」と言うときには、人間の生命だけではなく、人間以外の生物やものごとの生命をも含めて考えるということである。もちろん、人間の生命だけを考える立場や、生物の生命だけを考える立場もあり得るが、「生命の哲学」という学問領域自体はその両方を含むし、その両方の関わりについての考察を大事な論点として含むのである。人間をも含めたすべての生命体に特徴的な生命と、人間を人間たらしめている生命とを、車の両輪として考察するのが「生命の哲学」である。そのことを確認したうえで、「生命」の概念について述べていきたい。

(1)ものごとが「生成」してくる勢い、流れ、あるいはその原理

 この世界には、それまで存在していなかったものや出来事が、次々と生まれ出てくる。このことを「生成」と言うが、その次々と生まれ出てくる勢いや、流れや、原理のことを指して「生命」と呼ぶことがある。その生命の流れは、どこまでも連続して続いていくとされる。たとえば、生物が繁殖して次々と子どもを生み出してくるときの、その繁殖の勢いや、流れや、繁殖の原理を指して「生命」と呼んだりする。これは生物だけにとどまらず、人間の心的発達や、文化現象や、社会現象や、文明の誕生や、宇宙に満ちる生命の流れに至るまで、あらゆる生成の出来事に当てはめることができるだろう。たとえば、性教育やフェミニズムやセクシュアリティの領域で「生命」という言葉が使われるときに、この生殖・繁殖・子孫への受け渡しへの関与という場面が想起されていると考えられる。

 日本語の「いのち」という言葉には、息の勢いという意味があるとされるが、それは「生成」の勢いのことを指していると解釈することもできる。旧約聖書では、人間の生命は、神から息を吹き込まれることでもたらされたとされる。「生成」の力は、また、自分を自分自身によって自己変容させていく力としても理解される。内側に潜在する力によって、たえず自己を劇的に変容させ、発展させていく姿のことを、生の哲学者たちは「生命」と呼んだ。「生の超越」や「生の飛躍」という概念がそれにあたる。また、古代ギリシアでは「ピュシス」の語が「生成」に充てられており、おのずから生成する「自然(ピュシス)」と、「生命」は重なる概念であった。

(2)生命体を「生き生き」とさせているエネルギーや原理

 生命体は、生命をもたない物体にはないところの「生き生き」としたあり方をしている。生命体をそのように「生き生き」とさせているところのエネルギーや原理のことを「生命」と呼ぶことがある。これは、生命体を「物質」や「機械」とは異なったものにしているところの原理のことである。これが何であるかというのは、哲学が始まって以来の大問題であった。生命体を「生き生き」させる何かの物質やエネルギーを想定する考え方が主流を占めていたが、20世紀以降の生物学の領域では、遺伝子や有機体システムの仕組みにその原因を求める考え方が主流となっている。

 ただし、生命体を「生き生き」させるものは何かという問題は、生物学の外部でも独自に問われ続けている。とくに、人間の精神状態を「生き生き」させるものとして、臨床心理学や教育の分野で「生命」という言葉が使われることがある。また、衰退と死滅へと向かう生命体が、何かのきっかけで力強く再生するときに、そこに「生命」の発露を見るという考え方がある。また、ひとつの生命体が死ぬことを通して、新たな生命体が誕生するという現象のなかに、「再生」を見て取ることもある。このような「死と再生」のテーマもこの項目と関連しているであろう。

(3)生命体がもつところの「生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいく」という存在様態

 人間を含めた、あらゆる生命体は、生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくというかたちで存在する。ただ単に存在しているのではなく、このような相を転々としながら、変容していく存在様態こそが「生命」の名に値すると考えられる。再生産に関与しない個体や、老いずに死んでいく個体もあるが、その場合であってもこの存在様態をショートカットして通り過ぎたと見ることができる。仏教には「生死」という言葉があるが、それもこの存在様態のことを指していると考えられる。人間や、生命体を眺めるときに、それが生まれるということ、成長するということ、再生産・生殖に関与するということ、老いるということ、死ぬということを、ひとつながりの出来事として捉え、そのような存在様態に特段に注目してそれらを把握しようとするとき、我々はそこに「生命」を見ていると言うことができる。これは、みずからが永続することを理念とする「存在」の概念と、シャープな対比をなすものであろう。このような意味での「生命」の存在様態を持つもののことを、「生命体」「いのちあるもの」という言葉で呼ぶことも多い。

 これを、人間をも含めた生物個体の側から見てみれば、個体は生まれ、成長し、再生産に関与し、老いて、死んでいく。生物個体にとっては、誕生から死までの生存期間が「生命」である。ここでは「生命」は「生存」に等しい。他方、これを、それらの生物個体を生み出す流れの側から見てみれば、その大いなる流れは、生物個体を次々と生み出すことによって、生物個体の死を次々と乗り越え、未来に向かって果てしなく流れていく「生命の流れ」として捉えることができる。この流れは、生物種として想定することもできるし、全生物圏として捉えることもできる。それを具体的な生物進化として捉えることもできるし、精神的・抽象的な次元で捉えることもできる。

 このように、死において途絶してしまう生物個体の「生命」と、死を乗り越えて綿々と続いていく流れとしての「生命」の、両面を兼ね備えたもののことを、我々は「生命」として把握してきたのだと考えられる。これは次項とも深く関連する。

(4)限界としての「死」に面したときに立ちあがってくる問題系

 上で述べたことを、人間に特化して考えてみよう。人間の生について考えるときに、人間は遅かれ早かれ死ぬということがある。「死」とは何かというのが、まず最初の「生命の哲学」の大問題である。人間の生は「死」によって終わりを迎えるのであるが、多くの人々は、たとえこの世で自分の生は終わりを迎えたとしても、それと同時に、何かの形でこの世での終着点を超えることができるのではないかと考えてきた。不可避的な「死」とそれを何かの形で超えるものという観点から人間の生と死を眺めるときに立ち現われてくるものが、「生命」である。これは、おもに宗教の領域で問われてきた問いである。死によって永遠の生命を得るという考え方や、死によって魂が輪廻するという考え方や、死によって来世に往生するという考え方や、生も死もないという意味で「死」を超えるという考え方などがある。また、我々の限界ある生は、我々を超えた「永遠の生命」や「超越者」によって与えられたものだという考え方もある。「宇宙の生命」という捉え方もしばしば見られる。宗教の立場に立たなくても、「死」とそれを何かの形で超えるものというテーマは、「生命」の問題系として立ちあがってくることに注意しておきたい。

 また、人間に終着点としての「死」が訪れるということは、誕生から死までの「人生」をどのように生きればよいのかという問いを生み出す。この意味では、「生命」の問いは、「人生」の問いでもある。限界ある生をどのように生きればよいのか、死をどのように死ねばよいのか、生きることの意味はどこにあるのか、人生の目的は何か、人生は生きるに値するのかという問いが、様々な分野で問われ続けてきた。宗教においても、宗教に関わらない次元においても、これらの問いは人間にとって重要なテーマであった。

 人間は、それぞれの「死」に向かって人生を生きる、かけがえのない存在である。この、一度かぎりの「かけがえのない」生を生きている存在者のことを、「生命」と呼ぶことがある。そのときに意味されているものは、けっして他の人間によっては代替され得ない個人の尊厳であり、ひとりの人間の生死の重さである。ひとりの人間がこの世を一度きりで駆け抜けていくその厳粛さを強調するときに「生命」と言うことがある(「ひとつの生命が失われることの厳粛さ」など)。「生命」という概念は、「個」を流れや全体へと溶かしていくニュアンスを持つが、それと同時に、かけがえのない「個」の厳粛さを際だたせるニュアンスも持つという点を忘れてはならない。

(5)人間は生物であると同時に実存でもあるということ

 上でも述べたが、人間の生命に関して言えば、人間が「かけがえのない個」として実存的に屹立しているということと、人間が生物学的な存在として人類や他の生物や自然環境と繋がり合っているということの、その両側面が同時成立していることが大きな特徴であると言えるだろう。すなわち、人間の生命とは、「気づいたら生み出されており、やがて死んでいく、このかけがえのない個」という側面と、「この身体は生物でしかなく、他の人間や生命体や自然物と多くを共有しており、それらとの交流なしには生きられない」という側面とが、必然的に合体した何ものかであるということになる。いわばゾーエーとビオスが不可分のものとして交差するその交点が人間の生命である。私はそれを「かけがえのなさ」と「かかわりあい」の形而上学と呼んだ[5]。人間は一方において単なる生物としての生を生きていると同時に、他方において、そのような生物性には還元できないいまここでの実存を生きているのである。生物であり、かつ実存であるというこのふたつを結ぶものが「生命」という存在様態であると考えられる。

*    *    *

 以上が、私がいま考えているところの「生命」の概念である。「生命」という言葉の辞書的な意味については、すでに様々な考察があるが、私が述べたことはそれらの辞書的な意味とも、だいたい重なるように思われる[6]。ひとつ注意しておきたいのは、「生命」と「生命体」とは異なるということである。「生命体」あるいは「いのちあるもの」というのは、「生命」という存在様態を取って生きているもののことであり、「生命」という存在様態それ自体ではない。犬を指して、「これは生命である」というふうに日常語では使うことがあるが、哲学的に考察するときには、犬という「生命体」と、犬を生命体たらしめている「生命」という存在様態とを、分けて考える必要がある。

 このような意味での「生命」について考えるという営みは、古代より存在している。ギリシアやインドの哲学や宗教において、すでにその思索が見られるからである。現代においては、それに加えて、人間を生物とみなして発展した生物学と医学からのインパクトを無視することはできない。たとえばベルクソン、ヨーナス、それに日本の大正生命主義の思潮は、生物学からのインパクトに対して、それを伝統的な生命観とどのように調和させるかという苦闘として捉えることもできるのである。したがって、我々がいま提唱しようとしている今日的な「生命の哲学」という学問領域は、この意味ではきわめて現代的な(あえて言えば20世紀以降の)視線に支えられたものであると言ってよい。それは古代から続いてきた営みを単に現代に再生させるということにとどまらず、現代の生物学と医学からのインパクトを正面から受け止めながら、伝統的な生命の思索を、いまここで再構築しようとする試みだと言えるのである。

 これとの関連において、我々の研究の歴史性についても自覚しておくほうがよいだろう。そもそも19世紀から20世紀にかけて生の哲学が提唱された大きな理由のひとつは、西洋の近代合理主義の思想が人間の精神のあり方と行動パターンを底辺において規定してきたことに対する、アンチテーゼを打ち立てることであった。ニーチェからベルクソンを経てフランクフルト学派に至る思想の流れは、たしかにそのようなものであったと言える。身体に対する理性の優位や、合理的主体が外界を操作するという道具的理性が、はたして人間に真の尊厳をもたらしたのかどうか、という問いがその根底にはある。今日の生命倫理の諸問題や、環境倫理の諸問題に取り組むときの我々のスタンスも、彼らの思想水脈から大きな影響を受けていると言ってよい。ただし、我々は、道具的理性の優位を批判するときに、単に「身体」や「生命」の復権を提唱するだけで終わりたくはない。いやむしろ、「身体」や「生命」の優位を声高に主張することは、危険な意味での非合理主義に加担してしまうことになりかねないと我々は考える。近代の合理性をどのように継承し、かつどのようにそこから距離を取るのかという問題を、我々は常に念頭に置きながら、「生命の哲学」を考えていきたいと願っている。

4 「生命の哲学」の具体的なテーマ

 最初にも述べたように、我々が「生命の哲学」の必要性を痛感したのは、現代における生命の諸問題を哲学的に深く考察する学問の場がきちんとした形では形成されていないことを知ったからであった。我々が、「生命の哲学」についての思想史の研究を行なうのも、ひいてはそれによって、現代の生命をめぐる諸問題の哲学的な解明に貢献することができると思われるからであった。では、生命をめぐる現代の哲学的諸問題とは、いったいどのようなものなのだろうか。それがどのような問題群であるのかを言語化することそれ自体が、実は「生命の哲学」の一部分なのであるが、いま私の念頭に浮かんでいるものを順不同に挙げてみたい。これらの問題群は、今後の研究によって、さらに整序化されていくはずである。

 たとえば、生命は尊いと言われるが、人間はいろいろな生物を殺して食べている。このことをどう考えればよいのだろうか。ただ食べるだけではなくて、家畜の場合は、いちばんおいしくなるまで不自然に栄養を与えて育ててから、食べるためだけに強制的に殺戮する。このようなことをして生きている人間の生命の価値とは、いったい何なのかという問いがある。これはインド哲学においてもすでに問われていた問題である。近年の日本の教育論においても「いのちの授業」として問われてきた。

 われわれ人間はこの世で限りある生を生きて、死んでいかなくてはならないが、そのような限りある生を生きることにどのような意味があるのか。これは古来より多くの人々を悩ましてきた問題である。死ななければならない生を、どうして生きなければならないのか、という問題でもある。さらには、それに先行する問いとして、死ななければならない生を生きるとは、そもそもどういうことかという哲学的な問いがある。宗教の多元的共存が言われ、また無宗教の人間が生と死について大きな関心を払っている現在、この問題にふたたび強い光が投げかけられなくてはならないはずだ。

 また、このような有限な生、つらいことの多い生をいかにして自己肯定できるのかという問題もある。人間はみずからの意志によって生まれてきたのではない。気がついたら生まれていたのである。この初発から与えられてしまっている生存を、いかにすれば肯定できるのかという大問題がある。自殺の問題もこれと関連しているだろう。ほとんどの自殺は自己肯定なき自死である。自殺とは何をすることなのか、自殺で終わる生には意味がないのかなどの哲学的問題がある。また、人生の途中で耐えがたい苦難や苦しみを受けたときに、それでもなおその後の人生を肯定的に生きていくことができるのかという問題がある。破断された人生を自己肯定して生きるとはどういうことかについての哲学的思索もまた「生命の哲学」の課題であろう。[7]

 地球上には南北格差があり、先進国の人々は、途上国の人々を犠牲にしながら生き延びていると言うこともできる。そのような格差は国内にもある。ある人々が生き延びるために、他の人々の生を犠牲にするという行為をどのように考えればよいのかという哲学的問いがある。「生命」の問いを、この犠牲の問題から切り離すことはできない。そして、そもそも犠牲とは何かという問題が根底にはある。また、人類にとってグローバリゼーションとは何を意味しているのかという問題もここに含まれてくるだろう。生存のあり方や老死のあり方に関してどうしようもない格差が存在するときに、生きることの価値と意味の視点から社会を再構築するための哲学が必要である。これもまた「生命の哲学」の課題のひとつである。

 現代文明とは、苦しみを避け、快楽と快適さを追い求める仕組みが張りめぐらされた文明である。私はそれを「無痛文明」と呼んで、批判的考察の対象としてきた。この世に生まれ出ることは、苦しみの中に生まれることでもある。その苦しみを削除することが人間に何をもたらすのかについて哲学的に考える必要がある。苦しむことの意味については、これまで宗教が思索を蓄積してきた。それを現代的な視野から再度考え直すことが必要である。また、暴力や戦争の被害によって生きる意味を喪失させられるまでに追い込まれた人間にとって、この限られた人生のなかでいかにして救済が可能なのかというテーマも、「生命の哲学」の課題であろう。

 生あるものを死に至らしめることの意味を考えるのは、「生命の哲学」の大きなテーマである。人間にとって、暴力、殺戮、戦争が何を意味するのかについて哲学的に考察する必要がある。それらは人類に多大な悲劇をもたらしてきた。だが同時に、人類の技術は戦争によって爆発的に進歩してきたという事実もある。20世紀では原子力やコンピュータがその例である。敵と戦い、殺し、覇権を獲得しようとする行為が、生命をもった人間にとっていったい何を意味するのかを考えなくてはならない。またフェミニズムの視点からすれば、これこそが男によって作り上げられた家父長的文明の姿であるということになるだろう。このようなジェンダー的視点も「生命の哲学」には欠かせない。また人類は互いに殺し合ってばかりいたわけではない。病んだ者、弱い者、貧しい者、老いた者に対して利他的なケアを行ない、それらの人たちの幸せを願う行為を社会の至るところで積み重ねてきた歴史がある。このようなケア的な関わりとは何なのかを考えることもテーマのひとつである。

 また、人間は男女の性愛の結果としてこの世に生まれてくるわけだから、性愛とは何なのかというセクシュアリティの問題についての哲学的考察もまた「生命の哲学」の主要なテーマとなる。「生殖することの哲学」という未開拓の分野が切り開かれなくてはならない。同時に、生殖から切り離された性愛の意味や、異性愛にとらわれない性愛の意味についても考察の対象になる。さらには、愛情とは何か、性暴力とは何かという問題も深く関連している。性愛、再生産、愛情、暴力という問題系は、この有限な人生を他の人間と関わりながら生きて死んでいく人間の人生の意味と喜びと救済の問題として「生命の哲学」に組み込まれるように思われる。

 プロザックの開発をきっかけに、薬物による脳操作の倫理について議論がおき、大統領委員会の『治療を超えて』でも大きく取り上げられた。その後、脳神経倫理学というジャンルが提唱されている。これらの、人間の脳を操作することによって人間は幸福になるのかという問題もまた、「生命の哲学」の守備範囲だと思われる。これは、トランスヒューマニズムや新優生学の領域とも重なるだろう。脳改造や身体改造と「生命の哲学」というテーマは今後ますます重要になるだろう。

 遺伝子操作から、受精卵や脳神経系の操作に至るまで、現代のテクノロジーは人間の細胞や遺伝子や脳神経系に直接介入するようになってきた。また、生まれてくる子どもの選択的中絶や、死にゆく人の安楽死など、人間の生と死にどこまで介入してよいのかについても議論が続いている。これらの議論が起きるときに、つねに問題となるのが、そもそも人間の技術が介入してはならない神聖な生命の領域というものが果たしてあるのかどうかという問いである。いまだ解決の与えられていないこの問いに対して、哲学的にさらに迫っていくこともまた「生命の哲学」のテーマである。

 人間と自然世界との関係に目を転じてみれば、食だけにとどまらず、環境破壊、自然保護、自然再生など、自然の中の人間をどう考えるかという巨大な「生命の哲学」の問題が横たわっていることが分かる。これらについては、これまで環境哲学・自然哲学・環境倫理学などの領域が成立している。それらの議論と、人間の生と死、人間の幸福、生きる意味などとの接続を考えていくことは、「生命の哲学」の大きな課題となるように思われる。人間の生命の内部に、自然のはたらきを見出していくという哲学は、自然の哲学であると同時に生命の哲学であろう。

 また、オートポイエーシスや進化学や生態学らの知見が、生命というかたちで生き死にする人間にとって何を意味しているのかを解明するのも、「生命の哲学」の課題である。人間はどこまで生物的なものに支配されているのか、生物的なものによっては捉えられない人間の意義とは何なのかという問題も考察対象になる。これらは生物学の哲学で考えられてきたが、それをさらに幅広い生命の哲学の文脈に置き直して考えることが必要である。「生き物を生き物たらしめているものは何か」というアリストテレス以来の問いを、現代の生物学の知見と照らし合わせながら、「生命の哲学」の文脈で考察していくのである。

 これらのほかにも、現代における生命の哲学の課題はたくさんあるだろう。「生命の哲学」の外延を確定することはできない。これらの問いに対して、哲学的に考察を深めていくこと、そこから何かの貴重な知を立ち上げていくことが、「生命の哲学」に課せられた重要な使命である。過去の偉大な哲学はすべて、同時代の哲学的課題に哲学者たちが正面から挑むことによって創造されてきた。その事情は現代においても同様である。思想史的研究や、学際的研究は、この意味での同時代の哲学の創造に寄与するものとして遂行される必要がある。と同時に、現代における生命の哲学の諸問題の解明が、生命をめぐる思想史の解明に新たな光を投げかけ、また他の学問分野に新たな刺激を与えていくということも、研究成果として期待されるところである。これが我々の「生命の哲学」のスタンスである。

5 「生命の哲学」に関する先行研究

 以上に述べたような視野を持った「生命の哲学」の包括的な研究は、いまだ現われていないと考えられる。しかし、その先駆的な研究は、すでに多数刊行されている。ここで、それらのうちからいくつかを選び、その要点を紹介することにしたい。今後、研究が進むにつれて、さらに多くの関連研究文献を入手していくことができると思われる。

 まず、日本語で書かれた研究書として、竹田純郎の『生命の哲学』[8]がある。この本は、我々のパースペクティブときわめて似かよった問題意識によって書かれた学術書であり、学ぶところはたいへん大きい。竹田は、クローン技術や環境破壊などの現代の問題によって、生命の問いがふたたび鋭く問われはじめているという状況からスタートする。そこから、倫理的な問いが出現するのであるが、竹田は、それとは若干異なった問いとして、「生命の哲学」を構想しようとする。竹田は言う。「生命とはなんなのか、という問いに答えようとするのが〈生命の哲学(Biophilosophie)〉であるといっておきたい」[9]。そして竹田は、ヨーロッパの伝統的な哲学思想と、現代の生物学の接点で、この問いを探ろうとする。竹田は述べる。「生命のはかなさ、たくましさ、自らの再生についての知は、私たちが暗々裏にもっているものであるし、あたりまえのことだとみなしているものである」[10]。彼はこれを、M・ポランニーにならって、「生命の暗黙知」を呼ぶ。「生命の暗黙知。それは、なにも神秘的なものでも幻想的なものでもなくて、私たちが個々の生命体に親しく接しているなかからえた知なのであり、生命の哲学はこの暗黙知に光をあてようとするわけである」[11]。竹田は、個々のさまざまな生命体を「もの」としての生命と呼び、それらの生命体を生む営みのことを「こと」としての生命と呼ぶ[12]。そして、「こと」としての生命が、たえず「もの」としての生命を生みなしてゆく消息を考察することをもって、「生命の哲学」の基本作業とするのである[13]。このような視座から、ニーチェ、ハイデガー、有機体システム論、ダーウィン、ユクスキュルらの思想を次々と読み解いていこうとする。本書は、まだこれらの思想に見られる生命論を、散発的に解読していく段階にあると言わざるを得ないが、このような作業が蓄積されていくことによって、「生命の哲学」の輪郭が少しずつ見えてくるはずである。(なお、阿部浩が「書評:竹田純郎『生命の哲学』」[14]において、竹田の本には死の問題が欠けているという指摘を行なっている)。

 浅野遼二の「生命の哲学(1)」[15]は、ヨーロッパの生の哲学を概観した後に、独自の視点から、ショーペンハウアー、シュヴァイツアー、フロムの生命の哲学をまとめたものである。これらの思想家を生の哲学に接続することによって、今世紀半ばに終焉したかに思われた生の哲学が、もう一度再生する可能性があると浅野は述べる[16]。浅野もまた、今世紀後半のバイオエシックスの潮流を視野に入れたうえで、生命の哲学の再構築を目指している。この論文も、いまのところは思想史の紹介にとどまっているが、有用な参考文献と言えるだろう。

 西田幾多郎を生命の哲学の文脈で読み解こうとする流れがある。そのなかでもっともまとまったものとしては、檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』がある[17]。西田が大正生命主義に属する哲学者であることは鈴木貞美の指摘があるが、檜垣は、「西田は、その議論の核心において、生命の哲学者なのである」[18]としたうえで、内在的に考察を加えている。檜垣は「生命」の概念について次のように述べる。「生命は自らを展開させる力をもっている。生命は自己増殖し、自己展開し、進化する。生命は、「要素還元主義」的な単純な物質法則によってはとり押さえられないような、繁殖の力、多様性の力、自己組織化の力を露呈していく」[19]。そして前期西田における「純粋経験」が「このような有機体的な生命の議論の、思想的ヴァリエーションと見なしうるものである」[20]と述べる。そして、西田哲学が「自覚」「無の場所」「行為的直観」というふうに後期に向かって深化していくときにおいても、それは一貫して「生命の哲学」であったと言うのである。すなわち、「形」から「形」へと無限に「動揺」していく場面が「絶対矛盾的自己同一」なのであるが、そこにおいて働いているものは「破断を含みながら自らを組み替える潜在的な力」であり、西田はそこに「生命」を見るというのである[21]。檜垣はこのように西田を読解したうえで、そこに同時代の哲学者であるベルクソンとの類似性を認め、また後の哲学者であるドゥルーズとの共通点を見出す。西田哲学が、今日の生命の問題に対して、どのような哲学的寄与をなし得るのかを探るというのはたいへん興味深い試みである。檜垣のこの仕事は、我々の言う「生命の哲学」の思想史研究のよいモデルになると思われる。[22]

 英語文献には、さほど多くの「生命の哲学」関連書籍は見られない。以前に述べたように、このこと自体が驚きである。このうち、タイトルに『The Philosophy of Life』と銘打ったものがある(Sri Swami Krishnananda, The Philosophy of Life. The Divine Life Society, 1969, 2003)。これは、インドのヴェーダンタ哲学の系譜を引くスワミ・シヴァナンダ(1887〜1963)の宗教哲学を、スワミ・クリシュナナンダが解説したものである。それによると、人間の死後も魂は他の身体に入り込んで存在を続けるのであり、この意味で、魂は不死である。そのように輪廻転生を続ける魂は、みずからの欲望を去ったときに、転生を終え、ブラフマンと合一する。転生を続けているあいだは、前世での行ないが次生での人格を決定する[23]。第1部でこのように述べられたあと、第2部では、欧米の哲学者に見られる生命の哲学を概観する。そこでは、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェ、ジェームズ、ベルクソン、アレクサンダー、ホワイトヘッドらが取り上げられる。これらの哲学者はヴェーダンタの知恵になにひとつ付け加えはしないが、ヴェーダンタを補強するには役立つだろうとされる[24]。現代インドにおける「生命の哲学」のあり方について、貴重な示唆を与えてくれる書籍であろう。

 本論文の執筆者のひとりである森岡正博は、「生命学とは何か」[25]において、生命学の視点から、生命の哲学の諸問題について考察を加えている。森岡は、みずからの生命学を次のように定義する。「生命学とは、何かの生きづらさをかかえた人が、限りある人生を、他者とともに、悔いなく生き切るために何をすればよいのかを、自分をけっして棚上げにすることなく探求しながら生きていく営みのことである」[26]。そのうえで、「限りある人生を、悔いなく生き切るとはどういうことか」について哲学的に考察する。そしてその解釈として、「人生まるごとの肯定」「誕生肯定」「欲望でもなく絶望でもなく」という三つの路線を提出している[27]。そのうえで、「人間の尊厳」と「自由」という根本概念を、「悔いなく生き切る」ことに即して、再定義している。ここに見られる一連の考察もまた、現代における「生命の哲学」のひとつの形であろう。この論文で提起された生命の哲学の諸問題を、さらに深めて検討していくことが今後の課題である。

 社会学の領域から、「生命の哲学」の領域に踏み込んで問題提起しているものに、加藤秀一の『〈個〉からはじめる生命論』[28]がある。加藤は、障害者本人が自分の出生に関して医師を訴える「不当な出生(ロングフル・ライフ)訴訟」を例に取り上げ、そこに見られる「生まれないほうがよかった」という思想について、多様な角度から検討を加えている。そこにあるのは、「この自分の存在だけではなく、この自分が存在したという一切の痕跡もまた、この世から完璧に消え失せてほしい」という願いである[29]。加藤は、「生まれなかったほうが幸せ」という考え方を否定したあとで、次のように述べる。「自分が「生まれたこと」自体をよいとか悪いとか価値づけることはできない。「生まれないほうがよかった」と陰鬱につぶやくことも、「生まれてきてよかった」と明るく歌うことも、どちらも無意味である」[30]。加藤は、「さまざまな生き物たちを「生命」という概念で通約するような知が成立したのは、18世紀から19世紀にかけての西洋社会においてのことであった」[31]としたうえで、「生命」という観念ですべての事象を説明しようという営みを拒絶する。なぜなら、大事なのは「生命」よりも、私やあなたのような「人称」で呼びかけられる存在者だからである。加藤は言う。「倫理にとって重要なのは「生命」でも「いのち」でもない。そうではなくて、私たちが互いに呼びかけあうとき、あるいは呼びかけようとするときに、その呼びかけが差し向けられるべき点としての〈誰か〉であり、そのような〈誰かが生きている〉という事実こそが、守るに値する唯一のものなのだ」[32]。加藤はこのようにして、我々の「生命の哲学」のような営みからあえて距離を取って、生命に関する問題を考えようとしている。だが、私から見れば加藤の仕事もまた「生命の哲学」の範疇に入るものであるし、加藤の「生命」の捉え方には異論もある。これについては、今後議論をしていくことにしたい。

 鈴木貞美は、『生命観の研究』というタイトルの百科全書的な研究書を出版して、日本の学術・文芸・芸術・武道などに現われた、明治期から現代に至る生命観を詳細に分析している[33]。鈴木は、「生命観を中心にして、あらゆる世界観や思想を総点検してみることが必要なのではないか」[34]と述べており、本章で言う「生命の世界哲学史研究」の、近現代日本バージョンを遂行している。そこで明らかにされるのは、近現代日本の生命主義思潮が、同時代のヨーロッパからの圧倒的な影響のもとに形成されるということ、そして生命主義思潮には「宇宙の大生命」というような観念が色濃く見られること、などである。鈴木の研究によって、たとえば西田幾多郎の生命の哲学が、当時の日本の様々な分野で開花した生命主義思潮の哲学版であるということが明らかになった。哲学者の形而上学的思索もまた、同時代の思潮流行によって深い影響を受けるのである。鈴木は、みずからが生命の哲学を遂行するということは禁欲し、多様な生命観を比較検討することに徹するという方法をとっている。いずれにせよこの本は、近現代日本の生命観を語るうえでの基本図書となるであろう。

 関連する先行研究については、これからさらに調査の手を伸ばしていきたいと考えている。

6 「生命の哲学」研究プログラム

 本章の最後として、これからの「生命の哲学」の研究プログラムについて述べておきたい。2007年より、大阪府立大学大学院人間社会学研究科に「「生命の哲学」研究会」というグループを形成し、教員、院生、元院生らによって定期的な研究を行なっている。今後は様子を見ながら、学会発表などを行ない、大学の枠を超えた研究グループへと拡大していくことも考えている。その過程において、同様の研究を行なっている他グループとの連携も生じてくることだろう。「生命の哲学」という分野を、現時点でそのまま一般に開放すると、学術とは関連の深くないオーディエンスを招き入れる可能性がある。研究の初発段階においては、研究者を中心に研究グループを形成していくのがよいと思われる。

 具体的な研究プログラムとしては、以下のものを考えている。

(1)世界思想史や隣接分野から「生命の哲学」を洗い出す作業

 これは、上で述べたような哲学者、思想家、宗教者、作家らの文献から、彼らの「生命の哲学」のエッセンスを取り出す作業である。世界の各地の思想にバランス良く手を広げる必要がある。この作業は、それぞれの地域・時代の専門家からの協力をあおぐ共同作業となるだろう。それら取り出された思想が、現代の我々にどのようなインパクトを与えるのかを常に念頭に置くことが大事である。我々の「生命の哲学」研究では、過去の思想が現代の諸問題にどのようなインパクトを与えるのかについて考えながら文献と対決することを、文献研究の必須事項とみなす。その作業を通して、各自が自らの「生命の哲学」を構築していくこともできるはずだ。この研究成果は、学術誌やウェブなどに蓄積して、研究者のあいだの基礎資料として共有するのが望ましい。

(2)「生命の哲学」で検討すべき哲学的問題を洗い出す作業

 これは、現代社会の諸問題を念頭に置いたうえで、いま問いなおすべき「生命の哲学」の具体的問題や普遍的問題として、どのようなものがあるのかをリスト化し、それらについて各自が独自の哲学的考察をしていく作業である。考察の際には、過去の哲学者たちが残した「生命の哲学」の思索の遺産が大きな手助けとなることだろう。具体的問題としては、上で述べたような、「人間の遺伝子操作や脳操作によって、われわれはみずからに対して何をしようとしているのか」を哲学的に考察するという問題などがあるだろうし、普遍的問題としては「他の生物を食べながら生き延びるしかない人間とはどういう存在か」を哲学的に考察するという問題などがあるだろう。第4節で述べたテーマについての研究が、それにあたる。

(3)隣接諸分野と共同で「生命の哲学」を深める作業

 これは、社会哲学や、社会福祉学や、宗教学や、文化人類学や、社会学などの隣接諸分野の研究者と一緒に、「生命の哲学」の可能性を探っていく作業である。「生命の哲学」の研究が、それら隣接諸分野にもたらすインパクトというものがあるはずである。また隣接諸分野からの問題提起によって「生命の哲学」が豊かになっていくこともあるはずである。「生命の哲学」の研究は、狭い意味での「哲学」領域を超えなければならない。研究手法としても、インタビュー調査、アンケート調査、参与観察、エスノメソドロジーなど様々なものを活用することができるだろう。

(4)「生命の哲学」は何をする営みか、についてのメタ研究

 これは、「生命の哲学」とは何なのか、「生命の哲学」研究とは何をする営みなのか、についてメタ的に考察することである。本章では、私の考える「生命の哲学」の概要を示したが、この作業はここで言うメタ研究にあたる。私が本章で述べたことは「生命の哲学」のひとつの可能性にすぎないだろうから、他の可能性についても共同で議論していく必要がある。また、各人の持っている個人的な「生命観」「死生観」が、そのまま「生命の哲学」となるわけではない。それが「生命の哲学」になるためには、それが「哲学的な問い」として深められる必要がある。「生命観」が「生命の哲学」として深められるとはそもそもどういうことかについてのメタ研究が必要である。また、「生命の哲学」のディシプリンの提唱がなぜいま出てきたのかについての、歴史的・思想史的なメタ研究も必要である。

(5)海外との共同研究の模索

 これは、海外における同種の研究グループと接触し、国際共同研究の可能性を探る試みである。日本では、明治以降現代に至るまで、哲学の新潮流は「欧米」より来るものという暗黙の前提があった。それは現在の学界や哲学ジャーナリズムでも継続している。だが、「生命の哲学」の研究プログラムは、我々が世界に向けて提案していくことのできるものである。生命倫理学の国際的影響を受けて、本章で述べたような問題意識がいま世界同時に生成している可能性は非常に高い。それを受け止める受け皿がないだけであるとも考えられる。国際的な場所にこの研究プログラムを提起して、「生命の哲学」という潮流を哲学領域に生み出すことを目指したい。そのためには、この研究プログラム自体が、英語をはじめとする多言語で対応できるような態勢を整えておかねばならない。

 このような問題意識のもとで、我々は「生命の哲学」の研究プロジェクトを開始したいと考えている。以上に述べたことは、「生命の哲学」についての、現時点での非常に荒削りなスケッチにすぎない。読者からのご批判を受け止めながら、さらに良いものにしていきたいと考えている。また本研究プロジェクトに主体的に参加したい研究者がおられたら、ぜひコンタクトしていただきたい。本章はこれで終わるが、ここで述べきれなかったことや、今後の研究によって明らかになったことは、今後の連載の中で適宜補い、修正していくことにしたい。

 以下、第2章と第3章では、ヨーロッパの「生命の哲学」として欠くことができないアンリ・ベルクソンとハンス・ヨーナスの思想について、居永正宏と吉本陵が考察を加える。本章の学問論を補う形でお読みいただきたい。第2章と第3章は、「世界思想史から生命の哲学を洗い出す作業」の実践例となるはずである。


 

第2章 アンリ・ベルクソンの生命の哲学 執筆:居永正宏

目次:

1 はじめに

2 ベルクソンの生命の哲学

2−1 「持続」と「人格」、そして「純粋記憶」

――『時間と自由』と『物質と記憶』

2−2 生命進化の背後に流れる「生命の飛躍」

――『創造的進化』

2−3 「閉じたもの」から「開いたもの」へ

――『道徳と宗教の二源泉』

2−4 ベルクソンの生命の哲学のまとめ

3 ベルクソンの生命の哲学の現代的意義

3−1 生命倫理学に「よき生」はあるか

3−2 ベルクソンの生命の哲学が示す「人格」

3−3 ベルクソンの生命の哲学が示す「身体」

1 はじめに

 ベルクソンは、哲学史において「生の哲学」と呼ばれる一群の思想を代表する哲学者の一人である。本章は、そのベルクソンの哲学を、前章で森岡がアウトラインを描いた生命の哲学の営みの一つとして読み直す一つの試みである。具体的には、彼自身の著作の中に現れる「生命の哲学la philosophie de la vie」という言葉を手掛かりに、彼がその言葉で一体何を言おうとしていたのかを明らかにする。そしてその後に、彼の生命の哲学が現代における生命を取り巻く問題に対していかなる貢献をなしうるのかという視点から、幾つかの論点を提出したい。そこでは、彼の生命の哲学を、人格や身体といった(生命)倫理学における基本的な概念に独自の光を当てるものとして取り上げる。

2 ベルクソンの生命の哲学

 「生の絶えざる自己超克の運動」を基本モチーフとするのが「生の哲学」の思想家たちの共通点であることは前章で森岡が確認したとおりだが、少なくともベルクソンが自身で「生命の哲学」というときには[35]、単に生の自己超克の運動としての「生命の飛躍」を自身の哲学の根底に据えるということを意味しているのではない。つまり、ベルクソンの生命の哲学とは、単に原理としての静的な「存在」の代わりに、新しい原理として動的な「生命」を置き換えることを意味しているのではない。

 彼は、自らの生命の哲学は「生命の進化の過程における知性以外のものを人間に取り戻す営み」、言い換えれば、「人間による本能の再獲得」であるという。ベルクソンがそのことを直接述べているのは『創造的進化』においてである。しかし、ベルクソンが言わんとするその意味を理解するためには、その言葉をベルクソニスムの総体的な流れの中において捉える必要がある[36]。したがって、遠回りではあるが、本章ではベルクソンの四主著、『時間と自由』(以下『時間』)、『物質と記憶』(同『物質』)、『創造的進化』、(同『進化』)『道徳と宗教の二源泉』(同『二源泉』)を辿ることで、ベルクソン自らがいう「生命の哲学」とはどういうものなのか、つまり、「人間が本能を再獲得する」ということがどういう意味で言われているのかを明らかにすることを目指す。

 彼が『時間』における心理学の研究において私たちの意識の根底にある「持続」を発見することでその独自の哲学を出発させたことはよく知られているが、その後の彼の思索の進展の中で、意識の中に発見された流れる時間としての持続は、意識を超える生命の流れへと拡大し、さらに、最終的には、衝突に明け暮れる私たちの「閉じた社会」を「開いた社会」へと変容させ得るものにまで発展していく。先走って言えば、その軌跡を追うことで、彼の生命の哲学は『進化』に局在するものではなく、彼の哲学が発展してきた総体がすなわち彼の生命の哲学の営みであったということを理解することができるだろう。

2−1 「持続」と「人格」、そして「純粋記憶」

――『時間と自由』と『物質と記憶』

 まず、『進化』において明示的に述べられる彼の生命の哲学を理解する準備作業として、それに至る前の二著作――『時間』と『物質』――の基本的な内容を確認しておきたい。

 『時間』の中で最も重要な主張であり、ベルクソン哲学の中でも最も基本的な区別でもあるのが、「時間」と「空間」の区別である[37]。空間とは、私たちの「空間化する能力」によって捉えられるもので、そこでは事物がそれぞれ個別のものに切り分けられ、測定可能、即ち比較可能なものとして捉えられる。反対に、ベルクソンにとっての時間とは何よりも「流れる」ものであり、その意味で「持続」と呼ばれる。そして、その持続の認識は空間化ではなく直観によってのみ得ることが出来る。そこでは全てが質的に相互浸透しており、事物は分割不可能、測定不可能なものである。

 この二つの認識は、単に思弁的に対象に関わるあり方としてではなく、私たちの具体的な生のあり方の二相としていわれている。したがって、この二つの認識に伴って、私たちの生の二つの様相があることになる[38]。ベルクソンは両者を区別して次のように述べている。

私たちの知覚、感覚、情動、観念は二重の相のもとに現れる。一つは、明瞭で、精密だが非人格的であり、もう一つは、混然としており、無限に動的であり、その上、言表不可能である。[39]

 そして、この生の二つの様相が、『時間』のもう一つの主題である「自由」の問題への回答を準備している。ベルクソンが自由を問題にするとき、その自由はただ思弁的な自由ではなく「行為の自由」であるが、それはまた所謂社会的自由ではなく意志の自由としての行為の自由である。さらに、それは後から振り返って「あのときそれ以外の行為を行うこともできた」というような、過去の行為を自由であったとみなすような意味での自由でもない。つまり、彼にとっての自由の問題とは、「いま自由である」ということ、つまり「今まさに行われる行為としての自由」である。そして、そのような自由の問題は、「真に創造的な行為はいかにして可能か」と言い換えることができる。創造的な行為とは、他の何ものにも一義的に規定されることなく、逆に偶然の産物でもないような行為、つまり自由な行為のことだからである。

 そこで、上の二つの自我の区別が効いてくる。相互に外在的な事物が相互に規定し合うことで「必然」が形作られているのは空間化された世界においてに過ぎない。そこでは厳密な因果法則が前提として据えられており、いかなる自由の入る余地もない。そして、その空間化の中で必然から逃れるものがあったとしても、それは自由ではなく単に「偶然」的なものとしてしか捉えることができない。他方、持続の観点に身を置けば、そこは相互浸透する質的多様性の世界であり、厳密な因果的法則は立てられない。むしろ、その質的多様性が常に創造的に進行する持続そのものなのであるから、それに一体化することがすなわち自由行為の実現である。

要するに、私たちの行為が私たちの人格全体から出てくるとき、行為が全人格を表現するとき、行為が作品と芸術家の間に時折見られるような定義しがたい類似性を全人格との間に持つとき、私たちは自由である。[40]

 しかしここではっきりしないのは、その「人格」とは何かということである。私たちは自らの意識の中へと沈潜することで自分の中に「持続」を見いだすということは認めよう。そして、それと一体化することが、空間化され社会的な記号にまみれた不自由から自由へと向かう道だということも認めよう。しかし、それがなぜ私たちの個性的な人格を保証するのだろうか。ここで言われている人格は、「常に目的として扱われるべき」であるような人格ではなく、私たち一人一人の個性の発露としての人格である。つまり、普遍的抽象的な人格ではなく個別具体的な人格である。しかし、そのような人格と持続の内的な関係は『時間』では全く論じられていないのである。そして、その問いに答えるのが『物質』における「純粋記憶」の理論である。

 『物質』の主題は所謂心身問題である。そして、彼の立場ははっきりと二元論的である[41]。しかしそれは、物質、身体、精神など、心身問題を考える上での主要な概念の変容を経た上での二元論であるから、彼の二元論を理解することは即ちそれらの概念が如何に変容されたのかを理解することである。

 まず二元論の一極として出されるのが「イマージュ」の概念である。これは常識的な意味での物質と考えてよい。それは「物自体」などではなく、私たちの目の前にあり、私たちが認識するか否かに関係なく存在する諸事物のことである。そして、そのイマージュの世界の中に独特の存在としてあるのが私の身体である。それはイマージュの世界の中にあって、行動の中心として存在している[42]。そして、知覚という現象はそのイマージュと身体を用いて説明することができる。

 素朴な唯物論的観点からは、知覚は外界からの刺激が脳に達した時に生じる幻影のようなものとして考えられている。しかし、知覚は実際にはそのような無意味なものではない。ベルクソン哲学には、「私たちの認識は思弁のためにあるのではなく、行動のためにある」という考え方が思想の根底に常に流れているが、ここでも、知覚は専ら行動のためのものとして捉えられる。つまり、身体の周りに知覚が配置されるのは、それが身体において可能となっている行動を指し示す働きを担っているからであり、その意味で、私たちの知覚はイマージュと質的に異なる物ではない。イマージュ(=物質)が身体というフィルターを通して選別されたものが知覚として現れるのである。つまり、知覚は本性的にイマージュそのものなのであり、制限されたイマージュなのである。

 さて、この身体はそれぞれ全てが異なっており、その意味で個性を持っているといえるだろう。しかし、私たちの個性は身体の異なりだけから由来しているのではない。それは「物質的基礎」に過ぎない[43]。イマージュの世界とその一部としての身体しか存在しない世界には、二元論のもう一翼を担う精神がまだ欠けている。そして、それこそが私たちにその人格を真にもたらすものなのである。

 ベルクソンがその精神の探求の場所として定めるのが、記憶の領域である。私たちの現実の知覚は、いま身体の周りにあるものだけを指し示しているわけではなく、私たちがこれまで経験してきた過去の事物からもその影響を受けている。したがって、知覚においてイマージュ(=物質)に由来するものを除いたときに残るものが記憶であり、それは非物質的なもの、つまり精神に由来するものと考えられる。その記憶の分析においても、知覚と同じように記憶は脳の一部が貯蔵したり作り出したりするものではないということが論証される。その詳細をここで追うことはできないが、詰まるところ記憶の分析の結論として導かれるのは、記憶がそれ自体で存在する(イマージュから分離した限界概念として、「純粋記憶」とも呼ばれる)ということであり、さらに私たちの生を前に押し進めているのは、その記憶が自らのうちに宿している推力だということである[44]。この純粋記憶と先のイマージュが彼の二元論を構成している[45]。

 そして、私たち一人ひとりが辿る生の軌跡は同じものではありえないから、この純粋記憶こそが私たちの自由行為に個別的な人格をもたらすものである[46]。その意味では、記憶の推力を得た私たちの行為はすべて人格的なものであるといえるであろう。しかし、彼は『時間』において「自由にはさまざまな程度がある」と述べていたのであるから、単にすべての行為が同じように人格的であるとはいえない。言い換えれば、人格には程度がある。そして、『物質』の議論を踏まえることで、その程度の差違を純粋記憶の凝縮の程度の差違として理解することが出来る。自らの過去の多くを背負うことの出来る行為であればあるほど、人格的な行為なのであり、逆説的ではあるが、それが即ち自由な行為なのである。

 しかし、『物質』においてもまた残された問題がある。それは、彼が「生への注意」と呼ぶものである。私たちの身体は行動の中心であり、生きるために知覚―行動している。それは、極めて危ういバランスの上に成り立つものだ。そもそも、私たちの生を成り立たしめ、その未来を保証する絶対的な法則があるわけではない。その生を可能にし、生きた身体を可能ならしめているのが「生への注意」であるとベルクソンはいうのだが[47]、いったいそれは何に由来し、どういう存在なのだろうか。『物質』では単に経験的に見出される身体から議論が出発しており、その身体の背後にあって身体を可能にしているものは「生への注意」として仄めかされているに過ぎない。ベルクソンは、次の『進化』における「生命の飛躍」の思想においてそれを主題化することになる。

2−2 生命進化の背後に流れる「生命の飛躍」

――『創造的進化』

 『進化』は、生物進化論の批判を通して認識論と生命論を論じたものである。しかし、その中にはこれまでの『時間』と『物質』における議論の繰り返しが多分に含まれているので、それらを取り払った上で『進化』が独自に主張していることを選り分けると残るのが、「生命の飛躍(l’elan vital)」の思想である。一言で言えば、ベルクソンは本書において生物の進化を機械論や目的論とは異なる生命の創造的プロセスとして捉え直すことで、個々の生命=身体の背後を流れそれらを可能ならしめている「生命の飛躍」を見いだした、ということができるだろう。ここではその主な論証の過程を追った上で、彼がこの『進化』の中で「生命の哲学」として位置付けた営みの意味を理解したい。

 彼はまず従来の機械論的および目的論的な進化論の批判を行うが、その批判は、要するに、『時間』においていわれていたような空間化された認識では生命の進化そのものを捉えることはできない、ということに尽きる(ベルクソンは『進化』において、空間化された認識に「知性」という言葉をはっきりと当てている)。機械論的な法則に従った物質の相互作用や、目的論的に予め定められた終局に向かう運動は、生命の進化を事後的に再構成したものに過ぎず、生命が進化しようとするその現場を押さえたものではない。

 では、知性が進化を捉えられないのであれば、他の道はあるのだろうか。ベルクソンはいう。知性はそもそも生命の進化の結果として私たち人間に与えられた特殊な認識の方法なのであるから、生命の進化の歴史を辿りなおすことで知性を相対化し超克し、より優れた認識へと至ることができるはずである、そして、それこそが私の生命の哲学、「生命の進化の過程における知性以外のものを人間に取り戻す営み」である、と。そして、彼は生物学が示す諸々の証拠を検討したうえで、それらの生物の進化の背後に「生命の根源の飛躍」を見出し[48]、今度は逆にそれに基づいて生命の進化を捉え直していく。

 彼は、一つの細胞から始まった生命の進化は主として三つの方向へ分かれてきたという。それは、植物において現れている「麻痺」、昆虫に現れている「本能」、そして人間に現れている「知性」である。植物は生命の飛躍の一部を占めてはいるが、行動の可能性を放棄して一定の場所に固着することを選んだために、ほとんど意識を得ることなくわれわれ動物にエネルギーを供給する役目に留まっている。そこで、考察の対象は特に本能と知性に絞られることになる。ただ、知性はすなわち『時間』のところで述べた空間的認識のことであるから、ここで改めてその議論は追わない。

 では、本能とは何なのだろうか。例えば、ある蜂が獲物を仕留めるときに必ず急所を刺すとき、それは本能によるといわれる[49]。その蜂は、外科医のように獲物の神経組織の構造を知性的に熟知した上で計画を練ったのではなく、ただ刺したのである。これはいかに説明し得るのだろうか。機械的に蜂と獲物の構造がそのように作られているということでは説明にならない。確かに両者の身体構造を解剖して分析すれば急所を刺しうるように形作られていることは予想される。しかしそれは、そもそもなぜそのような構造が形作られ得たのかという問いへと問題の所在を一歩後退させたに過ぎない。

 そこで、ベルクソンは端的にこう述べる。「本能は共感である」[50]。蜂が獲物の急所を非知性的に熟知しているのは獲物に共感しているからなのだ。そしてそれがなぜ可能なのかといえば、蜂も獲物も同じ生命の根源の飛躍に与っているからに他ならない。しかし残念ながら、生命の形式そのものに合わせてかたどられている共感としての本能は、知性のように自らを振り返る能力を持たないので、生命が何かを「知らない」。「知性にしか探す能力がなく、しかし知性だけでは決して見いだし得ない事物がある。それを見いだすのは本能だけであるとして、本能はそれを決して探しはしない」[51]。

 まとめておこう。生物進化には三つの方向があり、植物的麻痺を除いて特に認識に関わるものとしては、私たちが有している空間的な認識としての「知性」と、昆虫に代表される生命への共感としての「本能」がある。知性は物事を分離、量化、相対化して把握し、さらに自らを振り返って自らを分析の対象とすることもできる。他方、本能は対象と直接交わることができる一方で、自らを振り返ることはない。とすれば、知性を有する私たちが、生命に直接触れることができる共感としての本能を改めて優れた形で再獲得することで、生命の進化そのものを捉えることができるのではないだろうか。そしてそれが先に示した彼の生命の哲学の意味である。ベルクソンはそのような認識を「直観」と呼ぶ。

 そのような、生命の根源の飛躍と一体化するものとしての直観は、純粋記憶と可能な限り一体化することで全人格の発露としての自由な行為が可能であるという『時間』から『物質』にかけて示されたテーゼと極めて類比的である。つまり端的に言えば、本書においては純粋記憶が個体を超えて生命全体へと拡張されており、その意味で生命の飛躍は「生命記憶」とでも名付け得るような存在として考えられているのである。

(生命の進化は、)一切の経過から見たところは、あたかも意識のある大きな流れが意識の常として桁外れに多様な潜在力を相互浸透の状態に担いながら物質に進入してきたかのようである。[52]

 つまり、『物質』において示されていた、身体において記憶とイマージュを接合する原動力となる「生への注意」は、ここで生命の飛躍の突端が物質としての身体に進入して現れたものとして理解されている。というよりもむしろ、生命の飛躍が物質に進入して物質と融合したものがすなわち身体に他ならない。そして、人格の最大の「外皮」として限界付けられていた純粋記憶も、ここに至って個体の経験を超越し、生命全体を包含するものとなる。さらに加えて、その生命の飛躍そのものへと向かう「直観」の可能性が示されたのであるから、私たちはそこに個別意識を超えた超人間的生の可能性を見ることができる。そこがまさに彼の生命の哲学の目的地である。しかし、その可能性はともかく、そのような生の具体的なあり方は本書においては示されることはない。知性を超えて生命の飛躍そのものへと向かう彼の生命の哲学は、『進化』から二十五年の時を経てようやく書き上げられることになる最後の著作『二源泉』において、その帰結を示すことになる。

2−3 「閉じたもの」から「開いたもの」へ

――『道徳と宗教の二源泉』

 「本能の再獲得としての直観」を目指すベルクソンの生命の哲学は、この『二源泉』においてようやくそのような直観に基づいた生の具体的なあり方を主題とすることになる。本書の主題は道徳と宗教であるが、これまでの著作と同じようにベルクソンは基本的な発想としてそれらを本性的に異なる二つの源泉から現れたものとして捉える。道徳の源泉は、一つは社会を構成し維持するために社会から私たちに向けられる圧力であり、もう一つは「道徳的英雄」への憧憬である[53]。一方、宗教の源泉は、一つが知性によってもたらされる反社会的傾向および死や無秩序といった生きる意志を意気消沈させかねないものの抑止であり、もう一つが生命の飛躍への回帰としての神秘主義である。道徳、宗教ともに、前者が「静的」で「閉じたもの」、後者が「動的」で「開いたもの」と形容される。社会からの圧力や知性の暴走を止める機能が「静的」で「閉じたもの」と呼ばれるのは、それらが新しい創造的な飛躍をもたらすものではなく、現存の社会をそのまま維持していく役目を担っているからである。反対に、「動的」で「開いたもの」は、社会や人間をより高い段階へと創造的な力をもって導いていくものとして位置付けられる。

 本書の中でベルクソンは道徳と宗教におけるこの「閉じたもの」と「開いたもの」を個別に詳細に論じているが、これまでの著作と同じくその基本的なアイデアはシンプルなもので、要するに、道徳と宗教において本質的な区別は「道徳と宗教」や「個人と社会」の間にあるのではなく、「閉じたものと開いたもの」の間にあるというのがそれである。そして、私たち人間の向かうべき方向は「閉じたもの」から「開いたもの」に向かってであり、それは神秘主義によってなされうる、というテーゼが本書の核心である。彼のいう神秘主義の定義は次のようなものである。

われわれの見るところでは、神秘主義の帰着点は、生命の顕示する創造的努力との接触の獲得であり、したがって、そうした努力との部分的合一である。‥‥偉大な神秘家とは種にその物質性によってあてがわれている限界を飛び越え、この神的活動を継続し発展させるような個性のことであろう。これがわれわれの(神秘主義および神秘家の)定義である。[54]

 この定義は、『進化』において生物学を通して示された生命の飛躍の思想と本書における道徳と宗教の研究とが整合的に一致していることを示すものである。『進化』で示されたことは、生命の根源の飛躍が本能と知性という能力を生物にもたらし、その中で私たち人間は専ら知性によって生きているということであった。しかし、その知性は行き詰っている。そこで彼は進化の別の線である本能を人間が再獲得することにその困難を乗り越える可能性を見たのであった。それが彼の生命の哲学の目的であり、彼はその新しい生のかたちを「生命の飛躍の直観」によってもたらされる超人間的な生として描いていたのだが、それはこの『二源泉』において、「開いたものとしての神秘主義」として具体化されているのである。しかし、それはこれまでのベルクソンの思索を全て凝縮しているものとしての神秘主義であり、単なる神秘体験の称揚や追求ではない。そしてその神秘主義が指し示すのが、「閉じた社会」に対する、私たちの目指すべき理想社会としての「開いた社会」である。神秘主義を通したこの「開いた社会」の構築こそが、『進化』で唱えられたベルクソンの生命の哲学の実践的帰結である。

 まず、開いた社会に対する閉じた社会とは、閉じた道徳と宗教をその原理とするもので、「他の人々に対しては無関心なその成員たちが、常に攻撃または防衛に備えて、つまり戦闘態勢をとらざるを得ないようになって互いに支えあっているような社会」[55]のことである。この閉じた社会に本性として内在する諸要素――ベルクソンはそれらをまとめて端的に「戦争本能」と呼ぶ――は、私たちの社会を現実的に構想するときには必ず考量されるべきであると彼は主張する。その意味で、彼は単なるユートピア主義者ではない。しかし、もちろん閉じた社会の持つ戦争本能を飼いならすことだけが私たちの社会のあり方ではない。私たちには神秘家の示す開いた社会の可能性がまさに開かれている。そして、その具体的なかたちを彼は理想的なデモクラシーとして構想している。

実際、デモクラシーは、あらゆる政治構想のうちで自然から最もかけ離れたものであり、「閉じた社会」の諸条件を少なくとも志向的に超越する唯一の構想である。‥‥(デモクラシーは)自由を宣言し平等を要求する、そして、この敵対した二人の姉妹を、彼女たちに姉妹であることを想起させ、同胞愛を全ての上に置くことによって、和解させる。[56]

 開いた社会のデモクラシーとは、もはや他の社会と敵対するような一つの社会を構成するものではなく、自由と平等を目指しながら人類全体を同胞愛で包むものである。同胞愛がなければ真のデモクラシーは成り立たない。デモクラシーの要素は自由、平等、同胞愛であるが、単に自由だけがある社会や平等なだけの社会は閉じたものに過ぎず、また、自由で且つ平等な社会は同胞愛なしには不可能である。そして、そのような開かれた同胞愛によるデモクラシー社会は、閉じたものから「開きつつ」ある私たち人間が目指すべき理想社会として位置付けられる。ベルクソンは、そのような社会を目指す運動――それはつまり彼の生命の哲学だが――を「生命の飛躍」と類比的に「愛の飛躍(l’elan d’amour)」と呼ぶ。真のデモクラシーによって成り立つ社会を作り上げるには、同胞愛、つまり愛の飛躍がなければならないのであり、私たちはそれを神秘家の示す神秘体験への憧憬によって目指すことができるのである。

2−4 ベルクソンの生命の哲学のまとめ

 駆け足で四主著を辿り終わったいま、改めてベルクソンの生命の哲学の発展を振り返り、彼の生命の哲学の全体的な見取り図を素描しておきたい。

 『二源泉』における「開いたもの」は、「閉じたもの」が社会からの圧力や知性の自己抑圧によって駆動されているのとは異なり、英雄や神秘家といった人格が発する呼び声に答えるものとして発現するものであった。つまり「開いたもの」は偉大な人格とそれへの憧憬を原動力とする。この「人格」は、『時間』において「私たちは持続と一体化すればするほど完全な人格となる」といわれていたときの人格である。したがって、神秘家の偉大な人格とは限りなく自由な人格である。さらに、持続と一体化したそのような偉大な人格とは、すなわち自らを背後から推し進める「純粋記憶」と可能な限り一体化し、全過去を現在の行動へと集中させることができるような人格のことである。それは『物質』の議論が示していた通りである。そしてその過去との一体化は、純粋な精神の中で記憶の夢想へと向かうことではなく、いま生きて行動へと向かっている具体的な身体においてなされるものである。さらに、『進化』において、その「純粋記憶」は私たち個々の生命体全てを背後から推し進める「生命の飛躍」の個別的な様相に過ぎないことが示されていた。したがって、自らの全過去と一体化するということは、自分自身の個別的記憶を超え、生命全体の記憶と一体化することを意味する。それは、すなわち進化の途上で知性を得た人間が打ち捨ててきた知性以外のものを改めて再獲得することであり、彼の生命の哲学はそれを目指すものであった。そして、『進化』において生物学的考察に基づいて述べられていたその生命の哲学は、その生物学的考察がもたらした生の飛躍の思想を受け継ぎながら、『二源泉』において神秘体験という神秘家の具体的な経験へと場所を移すことになる。その神秘体験は、これまでのベルクソニスムの進展の中で見出されてきた、持続、純粋記憶、そして生命の飛躍に基づくものとして、それ自体「開いたもの」であると同時に、「開いた社会」という超人間的生を指し示すものとして、彼の生命の哲学の到達点となった。

 この生命の哲学の発展を鍵概念の羅列で示すなら、「持続―人格―純粋記憶―生への注意―生命の飛躍―神秘主義―開いた社会」ということになろう。ただし、これらの各概念はまさに相互に浸透しながら意味付けあっている。言い換えれば、「持続」から「開いた社会」への発展は、単線的で次々に別の概念に移り変わっていくというような発展ではなく、円環を描き、前の概念を含みながら新たな様相が「雪だるま式」に付け加わっていくような意味での発展として捉えられるべきである。したがって、最後の『二源泉』における「開いたもの」は、既に最初の『時間』において言われていた「持続と一体化することとしての自由」の中にその萌芽を見ることができる。そして同じように、『物質』における「過去を自由に凝縮している行動する人」も、『進化』における「人間は一度捨てた本能を再獲得して超人間的生に向かうべきだ」という主張も、全て同じ理想的な生のあり方を指し示しているものとして理解することができる。つまり、『進化』の中で「生命の哲学」として彼が提唱した営みは、『二源泉』においてその帰結が示されていると同時に、彼の哲学の発展の全ての段階において目指されていた理想的な生のあり方の探求として理解できる。つまり、倫理学としての生命の哲学こそが、ベルクソンの哲学がその初めから一貫して根底に抱いていたものなのである。

3 ベルクソンの生命の哲学の現代的意義

 ここからはベルクソンの読解を超え、ここまで見てきた彼の生命の哲学が現代の生命を取り巻く諸問題に対していかなる価値を持つのかを考える。私がここで取り上げたいのは、次の三つの論点である。1、生命倫理学には「よき生」があるか。2、(生命)倫理学の重要な概念のひとつである「人格」は、単に意識の有無もしくは理性的能力の有無として位置付けられてよいのか。3、「身体」は生命の諸問題のまさに現場であるが、それは素朴に物質的なものとして考えられてよいのか。1は倫理学としてのベルクソンの生命の哲学全体からの問いかけであり、2はその一部をなす人格論からの問いかけである。そして、3は同じくその一部としての身体論からの問題提起である。

3−1 生命倫理学に「よき生」はあるか

 森岡が前章の初めで指摘していたように、従来の「生命倫理学」は専ら実践的な場面で生じる問題に対して具体的な処方箋を与えることを目的として発展してきた。そこでは「そもそも倫理とは何か」という問いが生じる余地はほとんどなく、「いかに行動すべきか」という問いに対して具体的な行動を指し示すことや、実際に行われていることに対してその根拠の正当さや不当さを何らかの原理に基づいて判断するということに重点が置かれてきた。その意味で、従来の生命倫理学は「規範論」的側面に偏って発展させられてきたといえる。それは、何をすべきか否か、何が許されて何が許されないのかということを、合理的に議論し、決定する。しかし、「何をすべきか」という問いは、倫理学の二番目の問いではないだろうか。倫理学が、ソクラテスが言ったように「ただ生きるのではなくよく生きる」ことを問題とすべきものであるなら、倫理学の一番目にある問いは、「よき生とは何か」という問いであろう。

 例えば、中絶が許されるか否かという問題があって、様々な立場があり、様々な反論がある。フェミニストは女性の自己決定権として許されるべきであるといい、カトリックは生命は神聖不可侵だから許されないという。また、シンガーなどは、所謂パーソン論の立場から、理性的で自己意識を持つ存在となるまではそれ自体として道徳的配慮の対象とはならないから中絶は許されるという。これらの議論は、全体として、中絶をすべきか否か、許されるか否かをそれぞれの立場から合理的に論じようとしており、そのレベルではもちろんそれぞれに見るべきところはある。しかし、これらの議論は専ら「二番目の問い」に関わるものである。それらの合理的な議論の背後にある、彼らの立論の根拠となっているもの、つまり、「何をすべきか」ということを論じる前に彼らが意識的にせよ無意識的にせよ答えているはずの問いがあるはずであり、それが「よき生とは何か」という第一の問いである。自律した人格として自分の人生を自分で決定していくことがよき生なのか、キリスト教の教義に則って救済を待つのがよき生なのか、理性的な自己意識を持つ存在者の最大幸福をもたらす社会を目指すのがよき生なのか、それは確かではないが、何をすべきかを論じる前に、その論者は何らかのよき生の観念を心に抱いているはずである。

 このよき生のレベルでの議論が必要であることを指摘している哲学者は、「生命学」を唱える森岡を含め少なからず存在するが、それが改めていま必要であるということを最も包括的な視点から示しているのが、徳倫理の復権としてのコミュニタリアニズムを提唱している倫理学者、マッキンタイアの『美徳なき時代』である。彼はその中で、啓蒙主義以降の倫理学には徳の概念がない、より正確には、徳の概念が「規則」に従属するものとして位置付けられている、と指摘している。つまり、マッキンタイアによれば、勇気や寛容さや忍耐といった徳目は、近代以降、それらがよい結果を引き起こしたり義務を履行したりするから肯定されるのであって、それら自体がよき生のあり方だから肯定されるのではもはやない[57]。つまり、いかに徳を積むかという問いではなく、私たちの採用すべきは功利主義か義務論かといった問いが、倫理学の主題となっているのである。その状況を指して、彼は「美徳なき時代」――言い換えれば、「それ自体としてのよき生のない時代」――といい、それを取り戻すためにコミュニタリアニズムを提唱している。なぜなら、徳を涵養するには分断してしまっているコミュニティを再建しなければならないと彼は考えるからである。孤立した個人は功利主義者や義務論者ではありえても有徳な人ではありえない。そしてこの議論は、当然、生命倫理学にも当てはまる。

 コミュニタリアニズムという彼の立場はともかく、倫理学の現状についての彼の洞察と論証は説得力に富んでいる。そして私は、ベルクソンの生命の哲学はコミュニタリアニズムではない形での一種の徳倫理の再興として位置付けられると考える[58]。前節で見たように、真の自由としての持続から愛の飛躍へと繋がるその道筋は、閉じた客観的な規範を目指すものではなく、一種の徳としての「よき生」を示す神秘家への憧憬によって駆動され、「開いた社会」を目指すものであった。それを、個人の幸福だけではなく、あるべき社会の構想までを含んだものとしての徳倫理と捉えることは可能であろう。そして、彼の哲学の主題はまさに生命だったのであるから、当然、その理論的なインパクトは他の領域よりも生命の領域において大きい。

3−2 ベルクソンの生命の哲学が示す「人格」

 次に、ベルクソンの生命の哲学が生命倫理学に対して提起する具体的な論点として、二つの概念を取り上げたい。それは、「人格」と「身体」である。

 生命倫理学における人格概念といえば、パーソン論による定義が代表的である。ここでもパーソン論を取り上げる。パーソン論は、人格を「理性的で自己意識のある存在」と定義し[59]、その人格概念を手掛かりに中絶や脳死の問題を捌いていくものである。ベルクソンの視点から問題になるのは、そのような人格概念から具体的な倫理的判断が本当に合理的に導き出せているのかどうかということではなく、そのような人格概念そのものが「人格」に値するのかどうかということである。

 ベルクソンの生命の哲学において人格という概念はどのようなものであったかを思い出しておこう。まず、それは個々の生物の身体全てに宿るものである。なぜなら、人格は単に物質としての身体に宿るのではなく、純粋記憶としての生命の飛躍が物質に貫入したものとしての身体に宿るからである。その意味で人格を担っているのは記憶である。そして、その人格は程度を許す。私たちの行為が機械的・物質的な方向に近づけば近づくほどそれは非人格的になっていき、逆に持続=純粋記憶=生命の飛躍と一体化すればするほどそれは人格的で自由な行為となる。そして、その人格性の究極の姿が神秘家である。その人格は私たちの憧憬を誘い、よりよき生へと向かうエネルギーを私たちに供給する

 このような人格概念はパーソン論における人格概念と全く違うものだが、特に指摘しておくべき違いが二つある。ひとつは、ベルクソン的人格は全ての身体に見出されるのに対して、パーソン論的人格はそれぞれの身体の間に人格の有無によって線を引くということである。そこで、パーソン論によれば、人格の欠如を根拠として中絶や安楽死が「演繹的」に正当化されることが可能になる。その場合、例えば非人格的存在を中絶することは、予め許されたものとして私たちに現れる。他方、ベルクソン的人格は、記憶と身体が合わせて担っている。そして、その記憶は生命の飛躍として私たちの身体の根源に共通して存在している。そのとき、パーソン論的には非人格的存在である胎児や脳死者も、すべて根源の記憶を担った人格として現れる。したがって、ベルクソンの生命の哲学は、私たちの行為を予め許したり禁止したりするために「人格」を用いることは一切ない。それが示すのは、例えば中絶するにせよしないにせよ、胎児という人格に対して私たちも全人格から発する自由な行為を持ってそれに向かうべきである、ということである。その意味で、予め与えられる具体的な行動規則をベルクソンの生命の哲学から引き出すことはできない。

 しかし、よき生とは予め与えられるものではなく作り上げていくものである。そして、ベルクソン的人格は成長し変容する存在であるのに対して、パーソン論的人格は一種の資格要件に過ぎない。その意味で、「ベルクソン的人格は全ての身体に見出される」というよりも、「全ての身体はベルクソン的人格である」というのが正しい。この違いは、両者の志向するものの違い、つまり、よき生を求めるものと規範的法則をもとめるものの違いに由来する。これが両者の第二の違いである。パーソン論は、人間や動物を切り分け、区分し、この範囲にはこれが許され、あの範囲にはこれが許されないということの根拠として人格概念を用いているに過ぎない。端的にいえば、「理性的で自己意識を持つ存在者」といったものはどこにも存在しない。存在するのは個々の具体的な人間であり、動物であり、植物である。そしてまさにベルクソン的人格はそれらの個々の存在者であり、それらが変容し成長することを含意し、神秘家の人格として、ベルクソン的人格は私たちに呼びかけてくるものでもある。このように見たとき、よき生を問うものとしての生命倫理における人格概念は、パーソン論的人格ではなく、ベルクソン的人格を手掛かりにして再構築されなければならないであろう。

3−3 ベルクソンの生命の哲学が示す「身体」

 最後に「身体」について述べておきたい。身体は、物質であると同時に生命の宿るものとして、アンビバレントな存在である。生命こそが身体を成り立たしめているのであり、逆に身体がなければ生命はない。言い換えれば、生命は単に存在するのではなく、身体において存在する。したがって、身体論は生命論の欠くことのできない一部である。

 しかし、現代の生命科学はいまだ素朴な唯物論的・機械論的身体観から根本的に脱却し得ていない。それは、現実に身体の物質的振る舞いが完全に記述できたり予測できたりするということを信じているというのではないが、究極的に私たちの具体的な存在としての身体は物質に還元しうるということを未だに前提している。つまり、生命科学者が生命の動き――つまり身体――が予見不可能だというのは、往々にして、それが想像を絶する超々複雑な機械であると言っているに過ぎない[60]。そして、その機械はやはり物質だけからできているのである。

 ベルクソンの身体論は主に『物質』に見ることができるが、簡単に言えば、それはイマージュと記憶の二元論の狭間で「生への注意」に支えられて行動へと向かう存在であった。そこでベルクソンは物質から独立した精神の存在を肯定していたのだが、忘れてはならないのは、そのことによって彼は物質としての身体の解明を否定したわけではないということである。つまり、科学的に身体を解明することは、それが(純粋)記憶=生命の飛躍の存在を閑却しているものであったとしても、それを自覚している限り、ベルクソンの生命の哲学から批判すべき点はないのである。ベルクソンからの批判が立ち上がってくるのは、それが身体における精神的なものの領域に関わろうとするときである[61]。なぜなら、そのとき科学は自らの領分としての空間的認識を越えることになるからである。したがって、身体論としてのベルクソンの生命の哲学が現代の生命科学と切り結ぶ点があるとすれば、それは特に意識を問題にする脳科学ということになる。

 ベルクソンは、『物質』の中で脳を中央電話局になぞらえていた。マラブーが言うように[62]、コネクショニズムや「可塑性」の概念以降、この比喩自体はもはや有効性を欠いているということは認められなければならない。しかし、それは彼の身体論における脳の位置付けに根本的な変更を迫るものではない。脳が心を「生み出し」たり、心は脳の「随伴現象」に過ぎないといった素朴な前提に対するベルクソンの批判はいまだ有効である[63]。その内容を詳しく論じる余裕はないが、一つだけ示唆しておきたいのは、脳科学が脳と心の関係を真剣に考え始め、その中でベルクソンの身体論を参照したとき、「精神とは何か」を問うことが同時に「物質とは何か」を問うことであるということが最も重要な点として立ち現れて来るであろうということである。身体論としての『物質』は、イマージュとしての物質からその議論が始められていたのであり、その意味でそれは精神=記憶論であると同時に、物質=知覚論でもあった。「脳という物質が精神を生み出している」と主張されるとき、その「物質」はある種の存在として暗黙のうちに前提され、精神のみが疑わしい存在として問いに付されなければならないという構図が延々と繰り返されている。しかし、心身問題を根本的に捉え直すには、むしろ自明で既に与えられている意識の事実から出発し、そこから物質も精神も問い直すというベルクソンの試みを改めて理解することが必要になるだろう。

文献

【ベルクソン】

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――(平山高次訳)、『道徳と宗教の二源泉』、岩波文庫、1977

――(真方敬道訳)、『創造的進化』、岩波文庫、1979

――(中村文郎訳)、『時間と自由』、岩波文庫、2001

――(合田正人、松本力訳)、『物質と記憶』、ちくま学芸文庫、2007

【その他】

篠原資明、『ベルクソン――〈あいだ〉の哲学の視点から』、岩波新書、2006

Singer, Peter, Practical Ethics, Cambridge University Press, 2nd ed., 1993

(=シンガー、ピーター(山内友三郎他訳)、『実践の倫理[新版]』、昭和堂、1999)

福岡伸一、『生物と無生物のあいだ』、講談社現代新書、2007

MacIntyre, Alasdair, After Virtue, University of Notre Dame Press, 2nd ed., 1984

(=マッキンタイア、アラスデア(笹崎榮訳)、『美徳なき時代』、みすず書房、1993)

マラブー、カトリーヌ(桑田光平、増田文一朗訳)、『わたしたちの脳をどうするか――ニューロサイエンスとグローバル資本主義』、春秋社、2005

守永直幹、『未知なるものへの生成――ベルクソン生命哲学』、春秋社、2006


 

第3章 ハンス・ヨーナスの生命の哲学 執筆:吉本陵

目次:

1 人間と自然の連続性

1−1 原初の有機体の段階(植物的段階)

1−2 動物的段階

1−3 人間的段階

2 自由の冒険としての生命

2−1 原初の有機体の段階(植物的段階)

2−2 動物的段階

2−3 人間的段階

3 擬人論の再検討と倫理学の基礎づけ

3−1 擬人論の再検討について

3−2 倫理学の基礎づけについて

 本稿ではハンス・ヨーナス[64]の生命の哲学を考察するにあたって、彼の「哲学的生命論(philosophische Biologie)」を参考にしつつ、ヨーナスが生命をどのようにとらえたのかを主題として論じる。ヨーナスが描き出す生命、あるいはその具体的な姿としての有機体は、次の二つの特徴をもつものとして論じられている。すなわち、1)有機的なものはすべて精神的なものである(本稿では連続性テーゼと名づける)、2)生命は「自由の冒険(Wagnis der Freiheit)」である(本稿では冒険テーゼと名づける)、という二点である。以下でそれぞれの特徴をまとめることによって、ヨーナスの生命の哲学の全体像をとらえるための堡塁としたい。

1 人間と自然の連続性

 ヨーナスの生命の哲学を考察するに当たって取り上げるべき著作は、「哲学的生命論への端緒」という副題の付された『有機体と自由』[65]であり、とりわけその緒論「生命の哲学という主題について」[66]である。緒論の冒頭で、ヨーナスは『有機体と自由』全体を貫く核心的なテーゼを提示している。

生命の哲学はその対象として有機体の哲学と精神の哲学とを含んでいる。これはそれ自体すでに生命の哲学の第一命題であり、実際にはその仮説〔Hypothese根本テーゼ〕である。・・・この仮説がさしあたり主張していることの内実は、有機的なものはそのもっとも低い形態においてもすでに精神的なものを前もって形成しており、精神はそのもっとも高い到達点においてもなお有機的なものの一部分を成しているということに他ならない[67]。

 ここでは二つの主張が一つの命題の中に含まれている。つまり、もっとも低次の有機体もすでにして精神的なものであるという主張――ヨーナスによればこれは古代的な発想である――と、もっとも高次に発展した精神もなお有機的なものであるという主張――ヨーナスによればこれは現代的な発想である――の二つは、生命の哲学の名の下に統一的にとらえられなければならないというのである。それゆえヨーナスは次のように言う。「これらの主張はともに適切であり両者を切り離すことはできない。これが古代と現代の闘争を越えて自らの立場を手にしようとする哲学の根本テーゼなのである」[68]、と。

 ところで、もっとも高次に発展した精神としての人間が一個の有機体でもあるという主張については、私たちはヨーナスとともに同意をすることができるだろう。むしろ問題となるのはもっとも低次の有機体――究極的には生命誕生時の原初の有機体――がすでに精神的なもの(の萌芽)であったという主張の側である。これは、科学的生物学とは異なる仕方で人間ないし精神と自然ないし人間以外の有機体との連続性を主張するものである[69]。以下ではこちらに焦点を当てて考察を進めていく。

 ヨーナスは生命、あるいはその「客観的形式」[70]としての有機体の誕生した瞬間に、地球上における精神の最初の閃きを見いだす。ではなぜ生命の誕生の瞬間に精神の閃きを見いだしうるのであろうか。それはその瞬間に「自由」の最初の萌芽を見て取ることができるからである。ヨーナスは「自由」という概念を導きの糸として有機体(生命の客観的形式)の存在を理解しようと試みる[71]。

 もちろんここでいわれている自由は、通常私たちが理解しているそれ――意志の自由や決断の自由といわれるときのようなそれ――が含意しているような人間の主観的・主体的営みの中で語られる自由からは差し当たり遠ざけられた上で理解されなければならない。ヨーナスによれば、自由は「客観的に識別可能な存在様相」[72]を示すものなのである。ヨーナスは、自由という概念を手がかりに、原初の有機体の段階(植物的段階)・動物的段階・人間的段階という生命ないし有機体の展開を統一的な視座のもとでとらえることによって、人間に固有のものとみなされてきた自由に新たな光を当てようとするのである。

1−1 原初の有機体の段階(植物的段階)

 やや話を急ぎすぎてしまったが、議論を元に戻そう。問題は、有機体の誕生の瞬間に見いだされる精神の最初の閃き、あるいは自由の最初の萌芽とは何かということであった。つまり原初の有機体レベルで語りうる自由とは何かということであった。[73]

 「有機体における自由」を考える際に、ヨーナスが着目するのが有機体の新陳代謝Metabolismusという営みである。有機体は生きている限り新陳代謝を継続し、自身を構成する物質を絶えず交換しており、また交換しなければならない。このようなあり方はたんなる物質のそれとは異なっている。たんなる物質である石は時間を経ても変わらず同じ質料からなる石であり続けるが、有機体は新陳代謝によって自身の外部である「世界」から物質を取り入れ排出するという仕方で存在しているがゆえに、ある瞬間の有機体とその次の瞬間の有機体を構成している質料は変化しており同一ではありえない。それにもかかわらず、その有機体が同一の有機体であるのは、その同一性が――有機体を構成する質料の同一性ではなく――形相の同一性によって確保されているからである。つまり有機体の存在は物質を仲立ちとして新陳代謝を通じて間接的に維持されており、その意味で直接的な質料的同一性から解放されている。この意味での「質料的同一性からの解放」に、ヨーナスは原初の有機体における最初の自由の萌芽を見いだすのである。有機体の自由は、新陳代謝(外界との物質の交換)という営みの中に見られる。したがって、有機体の誕生は世界の誕生でもある。世界は有機体から切り離されているのだが、その成り立ちからして根本的に有機体と関係づけられたかたちで切り離されているのである。この点については2で改めてふれる。

1−2 動物的段階

 このような原初の有機体の段階(植物的段階)を土台にして、有機体は動物的段階へと展開し、それとともに自由もまた新たな姿を取って世界に現われる[74]。植物的段階においては、新陳代謝をするための物質は有機体と直接的に物理的に接触していたのに対し、動物的段階においては新陳代謝をするための物質(対象)は遠く隔たったところに存在している。したがって動物は生命を維持するために、対象との隔たりを埋めるべく、その対象を「知覚」し、それを捕らえたいという「情動」を抱き、それにめがけて「運動」し、「獲物」を捕らえるという仕方で世界と関わりをもたなければならない。このとき生命の維持は「知覚」「情動」「運動」を媒介として間接的に実現される。このような意味で、物理的な隔たりを超えて自身の固有の能力(知覚・情動・運動)を通じて世界と関わる動物は、植物的段階における物理的な直接性からは解放されている。ヨーナスはこの解放性のうちに新しい自由の発展段階を見ている。

 原初の有機体の段階における最初の自由の萌芽とともに、有機体と世界の間には(根本的に関係づけられた仕方で)隔たりが生じた。この隔たりは、動物的段階においてさらに拡大したのである。これがそれぞれの段階において見られる「直接性からの解放」すなわち、生命を理解するための導きの糸としての自由の意味なのである。この自由は、人間的段階に入ってさらに新しい姿を見せる。

1−3 人間的段階

 人間的段階を以前の段階と画す人間に固有の能力としてヨーナスが指摘するのが図像化の能力、すなわち何かに似せた像Bildを扱う能力である。なぜなら、この能力を通して人間と世界との関わりのうちに自由の新しい段階(直接性からの解放)が見られるからである。[75]

 具体的な例を用いて考えてみよう。ヨーナスが挙げているのは、ぼろきれと木の棒と麦の藁を使って人間に似せて作られた案山子(人間の像)の例である[76]。鳥が案山子を見るとき、鳥にとってそれは人間であるか(このとき鳥は騙されている)、ぼろきれと木の棒と麦の藁であるか(このとき鳥は騙されていない)という二つの可能性しかない。それに対し人間は案山子を人間に似せて作られた像であるとみなすことができる(それゆえ逆にぼろきれと木の棒と麦の藁を人間に似せた像として作り出すこともできる)。このとき人間は、現前しているもの(ぼろきれと木の棒と麦の藁)を案山子(人間の像)とみなすことによって、今ここには現前していないもの(人間)を対象としているのである。

 これは人間の比類のない能力であり、ここにヨーナスは新しい自由の姿を見いだす。なぜなら、動物はあくまで実際に現前しているものを直接に対象とするのに対し、像を用いる人間は今ここに現前していないものを(像を介して)間接的に対象としているからである。このとき人間は動物が直面している直接性から解放され、像を媒介として直接現前していない対象を間接的に扱うことができるようになる。これは人間独自の世界との関わり方である。こうして人間と世界との隔たりは、動物的段階からさらに拡大されるのである。

 人間が操作的に世界へと介入することができるのは、まさに像を用いる能力によっている。人間の心の中で思い描かれた像は人間の想像力Einbildungskraftにゆだねられ、その中で「自由に」、つまりその対象の現前とは関わりなく、したがって対象の現前から解放されて、変形させることができ、自身が思い描いた像を世界の中で実現することもできるからである。技術ないしテクノロジーはこの延長線上に存在している。

 自由はさらに次の段階へと展開する。これまでの議論が念頭においていたのは像を介した人間の対象認識であったが、そこから客体を認識している主体自身が認識の対象となる段階が生じる。それは「反省の段階」である。このとき人間は自己自身を世界の一部としてとらえることとなる。ヨーナスが記している次の文章はアルタミラの洞窟の壁画のようなものを念頭におきながら読むことができるだろう。

雄牛を描き、またそれを狩る者をも描いた者が、自分自身の振舞いと心の状態という描かれることのない像に目を向けるときに、人間は十全な意味で姿を現わすのである。驚き、探求し、比較するこのような眼差しの〔対象との〕隔たりを乗り超えて、「自我」の新たな本質は構成される[77]。

 自分自身に反省の目を向けることによって、「自我」の像が形成される。このとき人間は自分自身の直接性から解放され、自分自身から「距離」をとり、自身の像を媒介として間接的に自身を認識の対象としている。この点にヨーナスは自由の新しい展開を見ているのである。そしてまさにこのような自己媒介的な関係(反省する自己と世界の一部である自己との関係)において初めて「人間とは何か」「事物の計画図Planの中での私の場所はどこか」[78]という問いが発せられる。この問いは人間が自身の振舞いと自身が置かれた状態に眼差しを向けることによって生じる問いである。そしてこの問いが発せられた瞬間が、人間の自己がコントロールの対象となる瞬間であり、ここから一方では倫理学の可能性は開かれ、他方では人間自身を対象とする現代テクノロジーの問題も生じているのである。

*    *    *

 以上駆け足で「自由」という概念を手がかりとして生命ないし有機体を理解しようと試みるヨーナスの生命論を追ってきたが、それは人間的な自由という私たちにとってもっとも近しい自由の基礎を掘り下げ、あるいは自由の範囲の裾野を広げることによって、原初の有機体の段階・動物的段階という発展段階の道筋を確認するものであった。つまり、この試みはダーウィニズムを含む科学的生物学が示す(人間機械論!)のとは別の仕方で、人間と人間以外の自然との溝を架橋する試みなのである。ヨーナスの生命論によれば、もはや自由は人間の形而上学的孤立を証示するものではなく、それぞれの段階に応じた自由の名がそれぞれの段階に認められるのであり、自由という概念によって人間と自然は一連なりのものとしてとらえられるのである。

2 自由の冒険としての生命

 ヨーナスの生命論のもう一つの特徴は、生命の営みを「自由の冒険」としてとらえるという点にある。これは生命の原理としての「自由」の裏面にある論点である。前節で生命の具体的な姿である有機体の発展を自由の発展として描き出したが、これはたんなるサクセス・ストーリーではない[79]。なぜなら自由の発展は、リスクの積み上げを伴うかたちでのみ実現するものだからである。

2−1 原初の有機体の段階(植物的段階)

 自由の最初の萌芽は、原初の有機体の新陳代謝の営みの中に見いだされていた。有機体は外界と物質を交換することによって自己を維持しており、物質のたんなる質料的な同一性から解放されていた。この意味で一方で新陳代謝は有機体の「なしうる」という能力ではあるのだが、他方で有機体は存在し続けるためには新陳代謝を「しなければならない」という側面を必然的に抱え込んでしまう。新陳代謝をやめるときは、その有機体が死を迎えるときである。有機体は物質から解放されるという意味での自由を手にした瞬間、同時に代謝していく物質を必要とする、という性質をも自身のうちに抱え込まざるを得ない。新陳代謝は有機体の自由ではあるが、それは「してもしなくてもよい」自由ではなく、同時に必然性でもあるのである。[80]

 したがって有機体は新陳代謝というかたちで質料的な同一性から解放されつつ、つまり自由を獲得しつつ、同時に代謝すべき物質を外界に求めるというかたちで、自身がそこから切り離されているところの外界と能動的に関係を取り結ばなければならない。この意味で、有機体は本質的に外界と関係づけられて存在するものなのである。新陳代謝というかたちで外界と関係を取り結ぼうとする有機体の試みは、外界の状況いかんによって、時に成功を収め、時に失敗に帰する。成功を収めたときにのみ、その有機体は存在し続けることができる。有機体は死、すなわち非存在の可能性というリスクに曝されながら、自身の存在を維持するべく活動する。このリスクは、有機体の新陳代謝という能力とともに誕生した。有機体の存在は、自由の最初の萌芽なのであるが、それはただ非存在になりうるというリスクに対する否としてのみ実現しうるものなのであり、自由という利得は非存在への可能性という代償を支払ってのみ得られるのである。

2−2 動物的段階

 植物的段階においては新陳代謝すべき物質は物理的に接触していたのに対し、動物的段階はそのような直接性からは解放されている。動物的段階における自由はこの点にあった。植物的段階の直接性から解放された動物は知覚・情動・運動という能力を通じて、間接的に外界と関係を取り結んでいるのである。この動物的自由は植物的段階にはない固有のリスクを伴う。なぜなら動物が世界との「隔たり」を埋めるべく、外界に向けて働きかける営みは、失敗に帰する可能性を常にもっているからである。[81]

 さらにこのような動物的有機体の自己保存(自己の個体の維持)に関するリスクに加えて、動物的段階における自由は別種のリスクをも生み出す。それは動物の情動の能力に関わる[82]。動物は外界との「(空間的)隔たり」のゆえに外界を知覚し運動する(獲物に向かうか、外敵から身を避ける)必要があるのだが、知覚と運動は情動の能力によって媒介される。つまり、知覚し運動する際の時間的な「隔たり」は情動(欲望・怖れ)によって橋渡しされるのである。動物の知覚と運動は、時に成功し、時に失敗に終わる。成功のときには「充足」という報酬が得られ、失敗の時には「失望」という代償が支払われる。これは動物的自由がはじめて作り出した状況である。動物的自由は、「充足」という利得とその裏面である「失望」というリスクを新しく生み出すのである。

2−3 人間的段階

 人間的段階においても、前二段階の自由とリスクを共有しつつ、新たな自由とリスクが生み出されている[83]。人間的段階における自由は、像を用いる人間の能力の中に見いだされていた。像を用いることによって、人間は対象の現前と関わりなく、つまりそれから解放された仕方で世界と関わることができるからである。対象の現前を必要とすることなく対象を対象としうる能力が、人間の反省能力を可能にする。人間の反省の営みにおいて、人間は自身の望みと現実の隔たりに気づく。ヨーナスは次のように言う。

自分がなにであり、自分がどのように生きており、自分が何からできているかについてもっとも気にかけ、遠く離れた望みや目標設定や是認〔された姿〕から自分自身を眺めることによって、人間は、そして人間のみが絶望Verzweiflungに対して開かれている[84]。

 人間は自己自身と直面することよって生まれる裂目を何らかのかたちで架橋しようと試みるのだが、そこで人間は「もっとも高い昂揚ともっとも深い失望とを体験する」[85]のである。それは人間のみに許された経験であり、成功の際には「昂揚」という利得が得られるのだが、その裏面として失敗の際には「失望」――そのもっとも極端な姿が絶望である――というリスクを人間は背負っているのである。

 このようなかたちでヨーナスは有機体の発展を、自由の発展であるとともに、「つり上がっていく賭金とリスクとを伴う実験」[86]でもあるとみなしている。生命の歴史はより高次の自由を実現する歴史であると同時に、その自由に付随するリスクを新たに抱え込む歴史でもあるからである。有機体をその客観的な形式とする生命の原理である自由は、それ自身リスクを伴うものであり、またその展開の中でもたらされる「果実」の裏面としてのリスクを、その果実とともに積み上げていく。果実の享受は約束されているわけではない――生命の発展の歴史はサクセス・ストーリーではない、とはこの謂いである。それにもかかわらず生命の自由は現実に展開されてきた。このことを踏まえて、ヨーナスは生命を「自由の冒険Wagnis der Freiheit」[87]と呼ぶのである。

3 擬人論の再検討と倫理学の基礎づけ

 ここまでの議論ではヨーナスの生命論を二つの特徴からまとめることを試みた。

 本稿で一つ目の特徴として挙げた「連続性テーゼ」は、人間を唯一の精神的存在者とする人間中心主義的な発想と精神を物質の機能に解消する科学的生物学的発想とをともに批判しつつ、前者が強調する人間と自然の差異と後者が強調する人間と自然の連続性とを独自の仕方でとらえ返そうとするものであった。この論点は、とりわけ近代科学の成立以降、一貫して貶められ続けてきた擬人論――人間と自然を連続的にとらえるものの見方――の正当性をもう一度吟味する必要があるということを示唆している(これは目的論を吟味し直すことと合わせて行われる)。

 もう一つの特徴として挙げた「冒険テーゼ」は、生命それ自体が、そして生命の発展の歴史(それは同時に自由の発展の歴史でもある)が、逆説性に満ちたものであるにもかかわらず、生命は現実に存在し、また現実に発展してきたという事実を確認するものであった。このことは生命の存在の意味に対する省察を要求する。実際、ヨーナスはこの事実のうちに倫理学の基礎を見いだしている。

 以下では、1と2で論じたヨーナスの生命論の帰結として導かれる上記二つの論点について考察していく。

3−1 擬人論の再検討について

 ヨーナスが擬人論について積極的に議論しているのは『有機体と自由』の第二章「知覚、因果性、目的論」の中の第二節「擬人論と目的論」においてである[88]。ヨーナスの議論を参考にしながら、擬人論の再検討の必要性について考察しよう。

 近代における擬人論と目的論に対する批判はベーコンの『ノヴム・オルガヌム』の中に見ることができるが、そこで語られていることは宇宙ないし世界の本性と人間の本性とは異なるものであり、アナロジーを見ることは許されないというものであった[89]。この見方を形而上学的に根拠づけたのがデカルトの二元論である。そこでは延長するものと思惟するものとの間には厳密な境界線が引かれ、前者(外的経験)を解釈するために後者(内的経験)を用いることは厳格に禁止された。しかしながら実は、その結果として「力」という概念が理解不能なものとなってしまったとヨーナスはいう。ヒュームによれば「力」という観念は事物の証言からは決して得られないものであるし、ロックによれば「力」の観念は「感覚の印象」に加えて「反省の印象」も含んでいる。つまり「力」は主観的な内的な経験によって知られるものなのである[90]。それゆえ外界を理解するために力の観念を用いることは許されない。実際に物理学は「力」を検証不可能なものとみなし、自身の役割を時間と空間の内部での物体の運動を記述し、その規則を法則化するという点に見いだすこととなった。こうして近代における目的因の捨象(これは実体形相の捨象を伴っており、したがって形相因の捨象を意味している)は作用因への一元化をもたらしたが、最終的には作用因さえも近代科学からは追放されざるをえなかった。それは同時に、世界を知るということは世界を記述するということに限定され、世界を「理解する」という知の理念の不可能性に行き着いているということを意味している。

  しかしながら以上の一連の帰結が「正当」なものでありうるのは、あくまでデカルトの二元論の枠内においてのみだ、ということにヨーナスは注意を促す[91]。擬人論及び目的論を徹底的に排除した近代科学は世界の理解の不可能性に行き着いてしまった。自然科学の対象を厳密に「延長するもの」に限定したとしても近代科学は袋小路に陥ってしまっている。擬人論と目的論の排除を「正当化」してきた近代科学の「成功」自体がもはや疑わしいものとなっている。そして有機体の存在ははっきりとデカルト的な心身二元論に否を告げている。それゆえ、ヨーナスは擬人論及び目的論の可能性――かつての素朴なそれとは違うにしても――を吟味する地点からあらためて出発しなければならないと結論するのである。

3−2 倫理学の基礎づけについて

 「冒険テーゼ」は、生命は逆説的な存在であるということを示唆するものであった。生命の逆説性はもっとも直截的には、物質の質料的同一性がもつ安定性を脱して、動的で不安定な同一性へと移行した原初の有機体においてすでに見ることができる。1−1で見たように、有機体の存在は新陳代謝の営みによって維持されている。有機体は存在し続けるためには新陳代謝をし続けなければならず、それを止めるときは死を迎えるとき、すなわち(生命の存在と対である)非存在となるときである。ヨーナスは次のように言う。

有機体は存在と非存在の間を漂いながら、ただ条件つきでのみ、そして自身が取り消される可能性込みでのみ、自身の存在を所有しているのである。物質交代の二重性――能力と困窮――によって、非存在が存在自身のうちに含まれた選択肢として世界の中に入った。このことによって初めて「存在すること」は強調された意味を手に入れる[92]。

 つまり原初の有機体の誕生とともに、存在(有機体の存在)は一つの遂行となり、一つの主張、一つの然りJaとなったのである。ヨーナスはこの点に倫理学の基礎を据えようとする。なぜなら、有機体の姿を取った生命がその営みの中で自身の存在に対して然りを、そして自身の非存在に対して否を主張しているという事実は、自然の関心、すなわち「無よりも存在を!」という自然の関心を告げているからである。ヨーナスは自然の「客観的な」関心を、人間の主観的な関心よりも優位においている。ここには人間を生命の歴史の一つの局面として相対化する視点が織り込まれている。

 ヨーナスは生命の存在に、「強調された意味」を、換言すれば生命の存在に肯定的な価値を見いだそうとするのだが、その主張の根幹は、「存在」の安定性という点から見れば生命は物質(非生命)よりも劣っているにもかかわらず、自然は生命を生み出した(「わざわざ」生み出した)という逆説的な事実から、私たちは自然は生命の存在を価値あるものであり、それ自体としてよきものである(だからこそ生命は生み出された)と告げていることを理解しうる、とする点にある。『責任という原理』の中では、ヨーナスは「存在が無よりも優位である」のは明証的な直観であり、その具体的な現われとして「生命の自己肯定」を挙げている[93]。

 ただし、とやはり付け加えておかなければならないだろう、このようなヨーナスの主張がよく考え抜かれたものだということを十分に認めるとしても、なお次のような反論が可能である。つまり、生命がそのような逆説に満ち、もっと言えば不条理に満ちた存在であるならば、そのような存在には価値などない、という反論である。このような生命理解は、ヨーナス自身がその思想的生涯を通じて闘いを挑んだニヒリズム的な――しかもグノーシス的な――生命理解であるといえるだろう[94]。両者のどちらに最終的に軍配を挙げるべきかについてはここでは判定できない。ヨーナスは究極的には「創世の神話」を物語ることによって自説の支えとしているのだが[95]、そのこと自体の評価も含めて、この点については今後の課題としたい。

 本稿ではヨーナスの生命の哲学の特徴を二つ指摘し、それぞれから帰結する論点について考察した。議論の結びとして、ヨーナスの哲学的生命論ないし生命の哲学のもつ意義についてふれておきたい。

 ヨーナスの提案する擬人論の再評価は、近代的な科学に対する批判的な視座から出てきたものである。近代的な科学は、デカルトの二元論の延長線上で、人間(ないし精神)と自然(ないし物質)を別の原理によって統べられているとみなし、両者をデジタル的にとらえようとしたが、最終的には世界を理解不可能なものにしてしまった。それに対して、擬人論はむしろ人間(ないし精神)と自然(ないし物質)を同種のものとみなし、両者を類比(アナロジー)によってとらえる。擬人論のアナロジーはまずもって精神と物質の統合の範例である有機体の内面性に適用される。科学は、あるいは科学的生物学は有機体をただ外面的なものとしてのみ取り扱い、その内面性について言及することを自らに禁じている――内面性についての理解が有機体についての、すなわち生命についての理解に必須であるにもかかわらず。有機体の内面性は、人間の内面性、換言すれば人間の意識とのアナロジーによって理解される。生命についての知はアナログ的な知という姿を取るのである。生命についての知は、人間のもっとも近しいものからもっとも遠いものへとグラデーション的に薄まっていくということになるだろう。このような仕方で擬人論は、もしそれが適切に理解されるならば、近代科学がとらえ損なった、人間もその一部であるところの生命ないし有機体を全体として理解するための有効な視座を与えてくれるだろう。近代科学からの論難にもかかわらず、そしてアナクロニズムであるとの謗りを恐れることなく擬人論を擁護したヨーナスの試みは、近代以前においてはむしろ正統的な立場であった類比に基づくアナログ的な知の再検討を、近代科学の遺産の上で行う必要性を示唆するものである[96]。

 さらに議論を進めよう。有機体の内面性は外界とは区別されるのだが、それはたんなる外的な区別とは異なる。有機体に認められる内面性は、外界から切り離されるという仕方で区別されながら、同時に外界の物質を欲求し、あるいはその前提として困窮し、あるいは飢えに苦しみ、欲求の充足を享受するという仕方で外界と関係をもつ内面性なのである。このような意味で外界から区別された内面性すなわち自己は、自身の維持を(少なくとも基礎的な)目的とする――そしてその裏面として自身の維持の失敗というリスクを抱え込む(自由の冒険!)。この意味で有機体は目的というものの座なのであり、したがってその有機体を生み出した自然は「目的」と異質的なものではない。こうしてヨーナスの哲学的生命論は倫理学の基礎づけへと移行する。

 自然のうちに目的を見いだすことは可能である。少なくとも有機体としての生命の存在はその一つである。この目的の内容を究明する役割は――それは究極的には形而上学に行き着くことになるだろうが――自然哲学に課されるのであるが、このような目的概念を倫理学の基礎とすることによって、自然のうちに根ざした倫理学を構想することができる――「倫理学は自然哲学の一部分となる」[97]。それは人間の意志や社会の欲求に基礎を置く倫理学とはまったく異なる姿をとることになるだろう[98]。そこでは人間は自然における自由の展開の頂点として、自然における生命の歴史が残した遺産の「後見人(Vollstrecker einer Pflegschaft)」[99]としての役割を果たす――ただ人間のみがその役割を果たすことができる。これはたんなる人間中心主義ではない。なぜなら自然の遺産の管財人であるという責任を担うことは人間の誇りであるとともに、人間に慎ましさをも要求するからである。この倫理学は、テクノロジー文明のもたらす繁栄を謳歌する私たちに「断念」を要求するものになるだろう[100]。

 ヨーナスの哲学的生命論(生命の哲学)の特徴は、それが同時に自由論でもあるという点にある。ヨーナスは原初の有機体においてさえ、その営みの中に自由の発露を見いだす。ところで、自由は物理的な因果性によっては説明されえない。したがって、ヨーナスの哲学的生命論によれば、生命はその本来の姿としては、自然科学には取り扱うことができない[101]。私たちは生命をその本来の姿でとらえるためには、私たちにとってもっとも近しい私たち自身の自由を導きの糸として生命を理解しようと試みなければならないのである。これは近代の自然科学の母体であった自然哲学に遡って自然をとらえ返すことであり、その意味で自然哲学の復権を宣するものである[102]。自然科学の成果を引き継いだ上で仕立て直された自然哲学は、近代の自然科学によって歪められた自然理解・生命理解を、そしてそれとともに人間理解を是正するのに役立つだろう[103]。同時にそれは自然と人間の関係に変容を迫ることになるだろうし、自然と人間の関係を規定する倫理学の基礎ともなるだろう。しかしながらその全貌は未だ明らかではない。ヨーナスの哲学的生命論が点した灯りを頼りに、おぼろげなその姿にかたちを与えるべく、私たちはなお歩みを進めなければならない。

文献

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全体註

[1] 「生の哲学」『岩波哲学思想事典』926頁。

[2] Leon R. Kass (ed.), Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness. Harper Collins, 2003. (邦訳『治療を超えて』青木書店、2005年)。

[3] 森岡正博「生延長(life extension)の哲学と生命倫理学:主要文献の論点整理および検討」『人間科学:大阪府立大学紀要』2、2007年、65-95頁(www.lifestudies.org/jp/lifeextension01.htm)など参照。

[4] Masahiro Morioka, The Concept of Inochi: A Philosophical Perspective on the Study of Life, Japan Review vol.2 (1991):83-115. <www.lifestudies.org/inochi.html>

[5] 拙論 “The Concept of Inochi”参照。

[6] “The Concept of Inochi”、鈴木貞美『生命観の研究』、など参照。

[7] これについては、森岡正博「生命学とは何か」『現代文明学研究』(第8号、2007年、447-486頁)にて初歩的な考察をした。

[8] 竹田純郎『生命の哲学』ナカニシヤ出版、2000年。

[9] 7頁。

[10] 12頁。

[11] 12頁。傍点原著者。

[12] 13頁。

[13] 16頁。

[14] 『現象学年報』16号、2000年、253-259頁。

[15] 浅野遼二「生命の哲学(1)」『大阪大学文学部紀要』37号、1997年、1-27頁。

[16] 3頁。

[17] 檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』講談社現代新書、2005年。

[18] 31頁。

[19] 73頁。

[20] 74頁。

[21] 209, 217頁。

[22] 同趣旨の論文として、張政遠の「生命現象をめぐって―西田幾多郎における生命の哲学」(『東北哲学会年報』21号、2005年、31-43頁)、黒田昭信「生成する生命の哲学―フランス現象学の鏡に映された西田哲学」(『環』16号、2004年、252-268頁)がある。

[23] 312-318頁。

[24] 420頁。

[25] 『現代文明学研究』第8号、2007年、447-486頁。<www.kinokopress.com/civil/0802.htm>

[26] 457頁。

[27] 465-466頁。

[28] 加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』NHKブックス、2007年。

[29] 168-170頁の要約。

[30] 20頁。

[31] 26頁。

[32] 28頁。

[33] 鈴木貞美『生命観の研究』作品社、2007年。

[34] 29頁。

[35] 「生命の哲学」という言葉がその特有の意味を持って言及されるのは『創造的進化』の76頁。その前数頁でそのベルクソン的意味が端的に述べられている。以下、ベルクソンの著作の引用頁数は参考文献に挙げた邦訳の頁数を示す。ただし原文に照らして適宜訳を改めた。引用文中の( )は引用者の挿入。傍点は断りがない限り原文のイタリック体を示す。

[36]ドゥルーズがベルクソニスムを「差異の哲学」として読み解き、ベルクソニスムの基底にある「差異」、「潜在性」の概念を明るみに出したことはベルクソニスムの一つの正当な発展として受け取らなければならない。しかし、それは『物質と記憶』を特権的な地位に位置付けるものであり、ベルクソニスムの総体的な見取り図を示すものではない。

[37]「言っておかなければならないのは、私たちは次元の異なる二つの現実を認識するということである、一方は異質的で、それは感覚的質という現実であり、他方は等質的で、これが空間である(『時間』、119頁)」。

[38] ただ、ベルクソンは両者に特に定まった術語を当てておらず、一方に「因襲的自我moi conventionnel(『時間』、160頁)」、「幻影的自我moi fantome(同書、198頁)」、「寄生的自我moi parasite(同書、199頁)」、他方に「実在的自我moi reel(同書、167頁)」、「具体的自我moi concret(同書、同頁)」、「根底的自我moi fondamental(同書、199頁)」、といった言葉をその場その場で使用している。しかし、ベルクソンとしては、この二つの自我を別々の実体ではなく、同じ一つの自我がとる様相の二つの極として考えていたのであるから、そのグラデーションを表現しようとして選ばれた多様な形容詞はそれぞれを厳密に区別するのではなく、それが示す「傾向」を捉えることができれば十分であろう。

[39] 『時間』、154頁。

[40] 同書、206頁、傍点引用者。また、「実際、自由な決断は心全体から出てくる。だから、行為はそれが結びつく動的系列が根底的自我(持続)と同化する傾向を増せばますほど、それだけいっそう自由なものとなるであろう(『時間』、200頁)」。

[41] 『物質』「第七版への序文」の冒頭を参照。

[42] 「しばらくの間、われわれは、物質の諸理論と精神の諸理論について、外界の実在性もしくは観念性を巡る議論について、何も知らないふりをしてみよう。そうすると私は、数々のイマージュと直面することになるのだが、ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、最も漠然とした意味でのイマージュのことである。これらのイマージュはその要素的部分全てにおいても、私が自然の諸法則と呼ぶところの一定の諸法則にしたがって、互いに作用と反作用を及ぼしあっており、これらの法則が知悉されるなら、おそらく、各々のイマージュの中で何が生じるかを計算し、予見することができるだろう。したがって、イマージュの未来はその現在のうちに含まれているはずだし、現在に何も新たな物を付け加えないはずである。しかしながら、他の全てのイマージュと際だった対比を成すようなイマージュが一つある。私はそれを単に外部から諸知覚によって知るだけでなく、内部から諸感情によっても知る。そのイマージュとは私の身体である(『物質』、8頁)」。

[43] 「私の宇宙の中心として、私の人格性の物質的基礎として私が採用するのが、この特殊なイマージュなのである(『物質』、75頁、傍点引用者)」。

[44] 「この記憶そのものは、われわれの過去の全体とともに、記憶それ自身のできるだけ大きな部分を現在の行動に差し入れるために、前方への推力を行使している(『物質』、240頁)」。

[45] しかし、現実の生の中では身体において両者は接合していて切り離すことができないのだから、存在論的には記憶とイマージュの二元論であるにもかかわらず、生命論的には「身体の一元論」である、というのが正確であろう。

[46] 「正確に位置づけられた数々の個人的で人格的な記憶は、その連鎖が過去のわれわれの生存の流れを描いているのだが、それらの記憶はまとめられることで、われわれの記憶の最後の、そして最も大きな外皮(enveloppe)を構成しているのだ(同書、141頁)」。

[47] 同書、246頁〜参照。

[48] 「こうして遠い回り道(機械論的および目的論的進化論の批判的検討)をしたあげく、私は出発点の考えに戻ってくる。私は生命の根源の飛躍が胚の一つの世代から続く世代へと移ってゆき、生体となった有機体は胚から胚への媒介を務める連結符だと考えている。この飛躍こそは進化の諸線に分かたれながらもとの力を保って、変異の根深い原因となるものである(『進化』、117頁)」。また、「飛躍は一つしかなく、それが世代を貫いて個体を個体に種を種に結びつけながら生物の全継列を茫漠たる大河として物質上を流れさせているのに、そんなことは私たちの目に入らない(同書、296頁)」。

[49] 『進化』、208頁〜。

[50] 同書、213頁。

[51] 同書、185頁。

[52] 同書、218頁。

[53] 「前者(閉じた道徳)は非個人的定式に還元されればされるだけ、ますます純粋完全であるのに対して、後者(開いた道徳)は十分にその本領を発揮するためには、手本となるような特権的な人格のうちに体現されなければならない(『二源泉』、42頁、傍点引用者)」。「(道徳の一般的公式は)二つのものを含んでいる。非個人的な社会的要求によって発せられた命令の体系と、人類の中にあった最良のものを代表している人物たちによってわれわれ各自の良心に向かって発せられた呼びかけの総体である(同書、103頁」)。

[54] 『二源泉』、269頁。ベルクソンは、この定義の前後でギリシャ的神秘主義、東洋的神秘主義、キリスト教神秘主義をそれぞれ検討し、キリスト教に真の神秘主義の軍配を上げている。ここではその判定の妥当性は問わない。ただ、彼のこの判定の妥当性は彼の神秘主義そのものの捉え方とは切り離して論じられるものであるから、この判定が妥当でなかったとしても彼の神秘主義観の妥当性には直接影響しない。

[55] 『二源泉』、327頁。

[56] 同書、346頁。

[57] マッキンタイア、『美徳なき時代』、146~147頁(原著pp. 118〜119)。

[58] 実は、マッキンタイア自身も『美徳なき時代』の最後の一文で、「今私たちはゴドーをではなく、もう一人の――疑いもなく極めて異なった――聖ベネディクトゥスを待望している」と述べている。これをベルクソンの生命の哲学の文脈に引き付けて、マッキンタイアは聖ベネディクトゥスを新しい「開いた生」のあり方を指し示し人々に憧憬を引き起こすような神秘家として待望した、と読むことは十分可能だと思う。その意味で、彼のいうコミュニタリアニズムとベルクソンの「開いた社会」はそれほど異なったものではないのかもしれない。

 また、守永直幹が「通常、倫理学は人と人との関係ないしは人と神との関係を説くが、それら一切を持続の内在性に組み込もうとする点にベルクソン倫理学の新しさがある(『未知なるものへの生成』、341頁)」と述べ、それを「共鳴としての徳」と呼んでいるが、それはまさに新しい徳倫理としてのベルクソニスムの表現として適切であろう。

[59] シンガー、『実践の倫理[新版]』、106頁(原著p. 87)。

[60] 例えば、福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』では、ある種の遺伝子やタンパク質がある種の機能を一意的に担っているという前提が成り立たないということが、そのまま「生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性(272頁)」へと繋げられている。しかし、無数の物質が無数の機能を相互補完的かつ非一意的に担っているその構造を機械的に解明してそれを操作することは原理的には可能であろう。つまり、福岡の主張の背後にあるのは、現在の生命科学の「機械的操作」の不十分さに過ぎず、生命の非機械性への根本的な反省ではない。

[61] ベルクソンの科学批判が未だに十分な妥当性を持っているということについては、篠原資明も『ベルクソン――あいだの哲学の視点から』の最後(194頁)で述べている。

[62] 『私たちの脳をどうするか』、58頁~。

[63] 守永直幹も、「ベルクソンが提起した心身平行論の新しい見方は古びてもいなければ乗り越えられてもいない。逆に、脳科学の最新の成果とやらには未だデカルト的な旧弊の心身二元論に留まるものが多々見うけられる(『未知なるものへの生成』、393頁)」と指摘している。

[64] 「ヨナス」と表記されこともあるが、あくまでドイツ語での発音に忠実に、ここでは「ヨーナス」とした。

[65] Hans Jonas, Organismus und Freiheit. Ansatze zu einer philosophische Biologie, Vandenhoeck & Ruprecht, Gottingen, 1973.(後に、Hans Jonas, Das Prinzip Leben. Ansatze zu einer philosophische Biologie, suhrkamp taschenbuch, 1997.として再版された。本稿ではsuhrkamp taschenbuch版から引用する。略記号としてPLを用いる。)

[66] Uber die Thematik einer Philosophie des Lebens; in PL, S.13-22.

[67] ibid. S.15. (〔 〕内は引用者の補足。)

[68] ibid. S.15.(強調は原文。)

[69] ヨーナスが提示する二つの主張のうち現代的な発想と親和的なもの、つまり「精神はそのもっとも高い到達点においてもなお有機的なものの一部分を成している」という主張のみに限定した立場が科学的生物学のそれである。

[70] ibid. S.21.

[71] Vgl. ibid. S.18.

[72] ibid. S.18.

[73] Vgl. Ist Gott ein Mathematiker? Vom Sinn des Stoffwechsels; in PL, S.127-171.

[74] Vgl. Bewegung und Gefuhl. Uber die Tierseele; in PL, S.179-194.

[75] Vgl. Homo pictor:Von der Freheit des Bildens; in PL, S.265-291. Von der Philosophie des Organismus zur Philosophie des Menschen; in PL, S.303-310.

[76] Vgl. PL, S.278f.

[77] ibid. S.307-308.(〔〕内は引用者の補足。)

[78] ibid. S.307.

[79] この点でヨーナスは自らの立場を、テイヤール・ド・シャルダン、及びホワイトヘッドのそれから区別している。Vgl. ibid. S.10.

[80] Vgl. ibid. S.127-171.

[81] Vgl. ibid. S.179-194.

[82] ここで付言しておくならば、この情動の能力が動物をたんなる機械から分かつものである。サイバネティクスの動物理解においてはこの情動の能力が等閑視されている、というのが『有機体と自由』に収められた論文「サイバネティクスと目的:一つの批判」でヨーナスが展開したサイバネティクス批判の骨子である。Vgl. Kybernetik und Zweck. Eine Kritik; in PL, S.195-231.

[83] Vgl. PL, S.265-291及びS.303-310。

[84] ibid. S.309.

[85] ibid. S.309.

[86] ibid. S.10.

[87] ibid. S.21.

[88] Vgl. Wahrnemung, Kausalitat und Teleologie; in PL, S.51-71. 特にS.65-71。

[89] Vgl. ibid. S.67.

[90] Vgl. ibid. S.68f.

[91] Vgl. ibid. S.70f.

[92] ibid. S.19.

[93] Hans Jonas, Das Prinzip Verantwortung. Versuch einer Ethik fur die technologische Zivilisation, Insel, Frankfurt am Main, 1979.(1989年にSuhrkamp Verlagから再版された。本稿ではSuhrkamp Verlag版から引用する。略記号としてPVを用いる。)Vgl. PV, S.154f.

[94] グノーシス主義とニヒリズムとの関わりについては『有機体と自由』に収められた論文「グノーシス、実存主義、ニヒリズム」を参照のこと。(Gnosis, Existentialismus und Nihilismus; in PL, S.343-372.)

[95] PL, S.390f.

[96] ヨーナスは『有機体と自由』において、あるいは『責任という原理』において擬人論を念頭に置いた議論を――しかも両著作の核心的な部分において――展開しながら、擬人論をとりあつかうべき方法論的な基礎については、明確な言及をしていない。おそらくヨーナスはそれを直観的に明らかだと考えていたのだろう。私自身もそれは直観的に明らかだと考えるが、それがたんなる恣意に陥ることのないよう、やはり近代の揺籃期においてデカルトが近代科学を形而上学的に基礎づけたのと同様の意味で、擬人論ないし目的論は存在論的・形而上学的に基礎づけられなければならないし、少なくともそれを試みなければならない。これは今後の哲学の最重要課題である。

[97] ibid. S.401.

[98] ibid. S.402.

[99] ibid. S.402.

[100] Vgl. PV, S.287.

[101] もちろんこのことは自然科学のもたらす知が、その限界内において、有効であり有益であることを否定するものではまったくない。

[102] この試みがたんなるアナクロニズムに堕すことのないよう、ヨーナスは近代(現代)科学の成果である進化論やサイバネティクスや一般システム理論などを批判的に摂取した上で、哲学的生命論を展開している。 Vgl. Philosophische Aspekte des Darwinismus; in PL, S.73-101. Kybernetik und Zweck. Eine Kritik; in PL, S.195-231. Harmonie, Gleichgewicht und Werden; in PL, S.109-125.

[103] Vgl. PL, S.10.