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作成:森岡正博 
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論文

『人間科学:大阪府立大学紀要』4 2009年2月 57〜106頁
将来世代を産出する義務はあるか?

生命の哲学の構築に向けて(2)
森岡 正博* 吉本 陵**

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全体目次:

はじめに                          森岡正博
第1章 ハンス・ヨーナスの将来世代論について  吉本陵
第2章 将来世代を産出する義務はあるか?    森岡正博

 

はじめに 執筆:森岡正博

 本論文は、ハンス・ヨーナスの「将来世代への責任論」が内包しているところの、「われわれに将来世代を産出する義務はあるのか?」という問いに対して、哲学的な考察を行なうものである。もしわれわれが将来世代に対して責任を負うのであれば、その前提として将来世代は将来に存在しなくてはならない。将来世代が将来に存在するためには、われわれ現在世代が将来世代を産出しなければならない。ということは、われわれには将来世代を産出する義務がある、ということになるのだろうか。
 この問いは、ハンス・ヨーナスの「将来世代への責任論」に論理的に含まれているが、ヨーナス自身は、この問いを独立した考察の対象とはしていないように見える。吉本はこの点に関するヨーナスの思索を摘出し、その意味するところのものを考察する。その際に、ヨーナスに応答したカール=オットー・アーペルの議論、およびこの論点をいちはやく指摘した品川哲彦の議論をも考察する。森岡は、「将来世代を産出する義務はあるか?」という問いを正面から受け止め、それに「産む産まないは女が決める」というフェミニズムの主張を対比させることによって、この問いに対してどのような答えを与えることができるのかを考察する。
 本論文は、連載「生命の哲学の構築に向けて」の第2回にあたる。本論文で論点とした「産出」の問題系は、「生命の哲学」の中心的なテーマのひとつであると考えられる。本論文は、「産出」の問題系について哲学的に取り組むための序説的な試みである。問題の大きさゆえに、とくに第2章において荒削りな議論が散見されることは承知しているが、今後、多方面の読者からの批判を仰ぎながら、議論を深めていきたいと考えている
 なお、第1章の文責は吉本、「はじめに」および第2章の文責は森岡が、それぞれ排他的に負うことを明記しておきたい。

 

第1章 ハンス・ヨーナスの将来世代論について
執筆:吉本陵


目次:

1 義務と責任
2 ヨーナスの未来倫理としての責任倫理学
2−1 『責任という原理』における「生殖への義務」の位置づけ
2−2 将来の人類に対する責任の根拠づけ
2−2−1 「人間という理念」に基づく存在論的根拠づけ
2−2−2 自然哲学に基づく根拠づけ
3 討議倫理学による批判とそこから見えてくるもの
3−1 討議倫理学による批判
3−2 討議倫理学による批判から見えてくるもの
3−2−1 『正義と境を接するもの』の検討
3−2−2 ヨーナスとアーペルの対立の背景について





 本稿は「われわれに将来世代を産出する義務はあるのか?」という問いに対して、ハンス・ヨーナス(Hans Jonas, 1903-1993)が『責任という原理[1]』において提示した責任倫理学に定位して解答を試みるものであり、それと同時にその背景にある未来倫理としての責任倫理学の根拠づけをめぐる諸問題について考察することを主題とする。
 ヨーナスは『責任という原理』において、現代テクノロジー文明における人間の営為は、その影響力が及ぼす射程を飛躍的に拡大させた結果、従来の人間の営為とは質的に異なるものとなったというテーゼを議論の出発点として設定する。現代テクノロジーの能力は、深刻な自然破壊をもたらすことによって地上における人類の存続をも脅かすものとなったからである。このような状況認識の下で、ヨーナスは現代テクノロジーの及ぼす影響力の射程が遠い未来にまで延びたことに対応して、倫理学は未来倫理Zukunftsethikという姿をとらなければならず、「(人間の)未来に対する責任」が現在に生きる私たちに課せられているのだと主張した。
 冒頭の問いは、『責任という原理』の中心的な主題では必ずしもないにせよ、その枠内に収まる問題である。したがってヨーナスの責任倫理学ないし未来倫理(学)の立場からこの問題を考察することによって、私たちは一定の解答への示唆を期待することができるだろう。

1 義務と責任

 「われわれに将来世代を産出する義務はあるのか?」という問いは、「生殖への義務は存在するか、存在するとしたらそれはどのような仕方で根拠づけられるか」という問いとして理解することができる。以下ではまず、この問題を扱うのに先立って「義務」と「責任」という用語の意味について整理しておきたい。
ヨーナスの言う「責任」は「力の義務Pflicht der Macht[2]」と言い換えることができる。ヨーナスは次のように言う。

「責任の対象」は私の外部にあるが、私の力の影響範囲にあり、私の力を頼りにしているか、あるいは私の力によって脅かされている。責任の対象は自身が現に存在することDaseinへの権利によって私の力に対抗する。この権利は責任の対象が何であり、あるいは何でありうるかによって生じる。責任の対象は道徳的な意志を通じて力を力の義務の中へと引き入れるのである。・・・固有の権利をもつ依存するものが命じるものとなり、原因となる力をもつものが義務を課せられるものとなるのである[3]。

 ここで言われているのは、「力をもつもの」が「力に委ねられ脅かされているもの」に対して課せられる義務が責任と呼ばれるということである。ヨーナスは「義務」については定義めいたものを記しているわけではないが、それは「何らかの命法Imperativによって倫理的な主体に課せられる当為Sollen」であると理解してよいだろう。したがって責任は様々な義務の中の一つのタイプとして、「力をもつもの」の義務、より細かく言えば「力をもつもの」と「力に依存するもの」という非相互的な関係において前者に課せられる義務であると言い換えることができるだろう。以下の論述ではこのような意味合いで「義務」「責任」という術語を用いていくことにする。

2 ヨーナスの未来倫理としての責任倫理学

2−1 『責任という原理』における「生殖への義務」の位置づけ

 問題を確認しておこう。本稿の冒頭の問いは、「生殖への義務は存在するか、存在するとしたらそれはどのような仕方で根拠づけられるか」という問いとして理解されていた。ヨーナスはこの「義務」について何を語っているのだろうか。ヨーナスは『責任という原理』のある一節において次のようなかたちで「生殖への義務(Pflicht zur Fortpflanzung)」に言及している。

・・・将来の人類に対する責任とは、私たちは第一に、将来の人類が<現に存在することDasein>に対して義務を負っており――これは人類の子孫のうちに自分の直接の子孫がいるかどうかとは無関係に妥当する――、第二に、将来の人類が<存在するあり方Sosein>に対しても義務を負っているというものである。第一の義務には生殖への義務が含まれている(個々人にとっての義務でなければならないというわけではないが)。そして第一の義務は、生殖への義務も同様だが、子どもを生み出した者〔親〕がその者が原因となって引き起こされた者〔子ども〕に対してもつ義務を拡張させるだけでは導き出せない。私たちはそのような義務が存在すると考えたいのだが、それはまだ根拠づけられてはいない[4]。

 ここでは「生殖への義務」は「将来の人類に対する責任」に包摂されるものとして――厳密には「将来の人類が<現に存在すること>」に対する義務に包摂されるものとして位置づけられている。
 ところで「将来の人類が<現に存在すること>」に対する義務は、ヨーナスが『責任という原理』の中で「人類は存在しなければならない(Eine Menschheit sei:人類よ、存在せよ)」を責任倫理学の「第一の命法[5]」と記したときに、彼の念頭にあった義務である。それゆえ、以下のように推論することができる。「人類は存在しなければならない」がゆえに、「将来の人類が<現に存在すること>」が義務として現在の人類に課される。その結果、「将来の人類が<現に存在すること>」に対する義務に包摂されるものとして位置づけられる「生殖への義務」もまた現在の人類に課されることになる、と。したがって、「生殖への義務は存在するか」という問いに対しては、ヨーナスの責任倫理学の立場からは「然り」と解答されることになる。

2−2 将来の人類に対する責任の根拠づけ

 次に問題となるのは、「生殖への義務」はいかにして根拠づけられるかという問いである。ヨーナスは「生殖への義務」を包摂する義務としての「将来の人類に対する責任」について二つの仕方で根拠づけを提示している。一つは存在論的な根拠づけであり、もう一つは自然哲学的な根拠づけである。

2−2−1 「人間という理念」に基づく存在論的根拠づけ

 まず前者から見ていこう。「将来の人類に対する責任」の根拠となる責任倫理学の第一命法「人類は存在しなければならない」は、人間という理念(Idee des Menschen)から下される命令である、とされる。「人間という理念に対する存在論的責任」というタイトルの付せられた節において、ヨーナスは次のように言う。

人間という理念は、自身が具体的な姿を取って世界の中に現前することAnwesenheitを要求するものである。言い換えればそれは存在論的な理念である。しかしそれは、神概念が存在論的証明において言われているのとは違って、理念の対象が実在することExistenzが本質によってすでに保証されているわけではない。それとは大違いである。人間という理念は次のように言う。すなわち人間という理念が具体的な姿を取って世界の中に現前するそうした現前が存在すべし、したがって保護されるべし、と。それゆえ人間という理念は自身の現前を私たちの義務とする。私たちはその現前を脅かしうるからである[6]。

 人間という理念が、自身の具体的な姿が世界の中に現前すること、つまり地上における人間の存在を要求するのは、地上における人間の存在が善きものだからである[7]。ヨーナスによれば、善という概念には自身の実現への要求がすでに含まれている[8]。したがって善きものとしての地上における人間の存在は、その実現を阻み得る意志に対して、「人間は存在しなければならない」という当為を発するということになるのであり、これはまさしく人間という理念から下される命令の内実に他ならない。それゆえ「生殖への義務」はいかにして根拠づけられるのかという問いに対しては、「人間という理念」が人類の地上に現前を要求するがゆえに、すなわち「人類は存在しなければならない」がゆえに、その義務に包摂されるものとしての「生殖への義務」もまた(存在論的に)根拠づけられるのだ、と解答されることになる。
 人間という理念が地上における人間の存在を要求するのは、地上における人間の存在が善きものだからなのだが、では地上における人間の存在が善であるとされるのは何故なのだろうか。あるいは地上における人間の存在が善であるとすることによってヨーナスは何を語ろうとしているのだろうか。
 この問題をより深く理解するために、ヨーナスが晩年に発表した「未来倫理の存在論的基礎づけのために」という論考を参照しよう[9]。この論考のなかで同種の議論が別の角度から扱われているからである。
 ヨーナスは「なぜ人類は存在しなければならないか」という問いに対して、「未来倫理の存在論的基礎づけのために」においては次のような議論によって応じようとする[10]。人間は責任をもつことのできる唯一私たちに知られた存在者Wesenである。責任をもつという能力は人間の本質的特徴Wesensmerkmalをなしている。私たちはこの能力を価値あるものとして直観的に認識する。この価値が世界に現われることによって世界は、それが現われる以前に比して質的に異なる段階に到達する。この段階においては責任の能力それ自体が護られるべき対象、すなわち責任の対象となる。私たちは責任の能力をもつことによって、責任が地上に存続し続けるように義務づけられる。責任の能力は責任の能力をもつ唯一の存在者である人間に結びついているがゆえに、世界から責任が消えてしまわないように将来にわたって人間が存在すべしという義務がそのつどの人間(人類)に課せられることになる。すなわち責任は、当面は個々の行為の対象に対する責任であるが、それと同時に責任それ自体に対する存在論的な責任でもあるのである。
 ここでは世界における人間の現前の善さは、世界における責任の現前の善さとしてとらえ返され、人間の存在に対する存在論的な責任は、責任それ自体に対する存在論的な責任として語り直されている。すなわち、世界における人間の現前が善であるのと同様に、世界における責任の現前が善であり、そのことが人間ないし責任の現前に対する責任の存在論的な根拠となっている、ということである。
 しかしながら、「未来倫理の存在論的基礎づけのために」における議論、すなわち責任の現前に対する存在論的な責任についての議論は「証明Beweis」ではないことをヨーナスは進んで認めている[11]。なぜならそこでは二つの前提――責任の能力それ自体が一つの善であること、すなわち責任の能力が世界に現前することが現前しないことよりも優れているということと、存在のうちに根づいたものとしての価値それ自体というものが存在すること、すなわち存在は客観的に価値を備えているということという二つの前提――が証明されることなく公理として設定されているから、というのがその理由である。それゆえ結局、ヨーナスは次のように述べる。「最終的には私の議論は、内的な説得力によって思慮深い人Nachdenklicherが選び出す一つの選択肢Optionを理性的に基礎づける以上のことはできない。残念ながら、私はこれ以上のことを提示することはできない。将来の形而上学がそれをなしうるかもしれない[12]」。
 ヨーナスは、責任の能力の世界における現前が一つの善であることは直観的に認識される、と述べていたが、このことはヨーナスの根源的な洞察であるとともに、ヨーナスの思考を大きく規定するものでもある。人間を取り囲む世界に蔑視の眼差しを向けるグノーシス主義的な、あるいはニヒリズム的な世界理解に抗して、「世界における善」について、あるいは「世界という善」についてヨーナスは一貫して肯定的な態度をとる[13]。このようなヨーナスの直観的な洞察は、自然についての省察から引き出されている。

2−2−2 自然哲学に基づく根拠づけ

 ここで問題を再確認しておこう。「生殖への義務」を包摂する「将来の人類に対する責任」は、「人類は存在しなければならない」という命法によって現在の人類に課されるのだが、それは地上における人類の現前が善きものだからである。地上における人間の現前が善きものであることは、それ自体は証明されていない公理であり、「思慮深い人に選んでもらうべき一つの選択肢」であるとともに、ヨーナスの直観的な洞察でもある。そしてこの洞察を支えているのがヨーナスの自然哲学なのである。
 「地上における人間の現前の善さ」の洞察を支えているのが自然哲学であるというのは一見奇異に思えるかもしれないが、それは次のような事情に依っている。
 ヨーナスは古めかしくも映る仕方で次のように指摘する。すなわち、「人間の善を引き出すのは、人間の本質Wesenからでなければなら」ず、その役割を果たすのはまずもって形而上学であり、そしてただ形而上学のみがなぜ人間が存在しなければならないかを語るのだ、と[14]。つまり「人間とは何か」を問う形而上学のみが倫理学の根拠としての(人間の)「善」についても語りうるのだ、というのである。もちろんこのような仕方で形而上学を持ち出すことにはくりかえし批判が寄せられている[15]。大急ぎでつけ加えなければならないのは、ヨーナス自身も形而上学を独断的に提示しているわけではないということである――「形而上学を必要としているということは、まだそれをもっているということではない[16]」。しかしながら、ヨーナスが一つの選択肢を提示するにとどまるという留保をつけつつも、形而上学的な議論を展開していることを想起するならば、「形而上学をもっていないということは、もはやそれを必要としないということでもない」とつけ加えることもできるだろう。実際それがヨーナスの立場なのである。
 「人間とは何か」という問いは人間の自己理解への問いである。ヨーナスはこの問いを広い意味での自然哲学との連関の下に置く。ヨーナスによれば私たちの人間理解は「観念論および実存主義の哲学の人間中心主義的な制約」と「自然科学の物質主義的〔唯物論的〕な制約[17]」という二つの極によって、自然理解ともども歪められている。この二つの制約をともに打破することによって、人間と自然の統一的な関係を快復させること――あるいは少なくとも人間と自然の断絶の経験に対する批判を行うこと――それがヨーナスの自然哲学ないし「哲学的生命論」の主題であった。私見によれば、まさにこのことがヨーナスが自身の哲学の中心的な課題として引き受けたものであったとさえいえるのである。
 人間と自然の断絶は、歴史上さまざまなかたちで現われた二元論――ヨーナスが議論の俎上に載せるのは、グノーシス主義的な地上の世界(劣悪な神デミウルゴスが創造した世界)と超越的な世界(知られざる神agnostos theosの世界)の二元論、キリスト教的な霊肉二元論、そしてデカルト的な心身二元論――において表現される。ヨーナスがこれらの二元論的な世界理解を問題として取り上げるのは、それらが人間と自然の断絶の経験を表現するものだからであり、その表現はニヒリズム的な経験と表裏一体をなすものだからである[18]。この論点はヨーナスが自身の研究生活の出発点であったグノーシス主義研究から見いだしたものであり、同時に後の自然哲学研究および倫理学研究の端緒を示してもいる。したがってヨーナスの自然哲学研究は、二元論がはらむアポリアと、二元論を克服したと称する物質主義的(唯物論的)一元論がはらむアポリアとを繰り返し指摘し、両者に対する批判を踏まえて「新たな統合的な一元論、すなわち哲学的な一元論[19]」を、少なくともその可能性を、提示するものである。人間と自然の統一的な関係の快復は、この一元論の下で目指されるのである。
 ヨーナスは人間を自然物である有機体の歴史的な発展の最後の局面として位置づける。詳細は別稿に譲ることにし[20]、ここでは概略を述べるにとどめる。ヨーナスは生命の客観的な形式である有機体の発展の歴史を自由の発展の歴史として理解しようと試みる――自由という概念は生命を解釈する際の「アリアドネの糸[21]」である。自由の発展は有機体の発展と歩みを合わせて進んでいく。原初の有機体の段階(植物的段階)における新陳代謝の能力から、動物的段階における知覚・移動・情動の能力へ、そして人間的段階における図像能力へ、と。新陳代謝の能力は、(非有機体である物質がそうであるような)質料的な同一性から解放されたあり方(形相の同一性)を示しており、この解放性のうちに自由の原初の閃きが見いだされる。この解放性は有機体と世界との間に隔たりが生じたことを意味している。有機体は新陳代謝を介して隔たった世界と関係を結びなおすのである。知覚・移動・情動の能力は、獲物を知覚しそれを捕らえたいという情動を抱き獲物を捕らえるべく運動することを可能にする。このような仕方で営まれる動物的生活においては有機体と世界との隔たりはいっそう増している(植物的段階における「獲物」は最初から物理的に接触している)。この新たな隔たりのうちに動物的段階の解放性が、すなわち自由が現われている。ある対象に似せたものをその対象の「像」として把握する「図像能力」は、人間に固有の能力であるが、像を媒介させることによって人間は直接に現前していないものを対象として間接的に扱うことができるようになる。このとき世界と有機体(の人間的段階)との隔たりはいっそう増しており、人間は像を用いることによって対象の直接的な現前から解放される。ここに自由の最後の発展が見いだされるのである。
 このような仕方で、ヨーナスは人間を自然物としての有機体との連続性の中に置きいれ、人間を含む有機体の発展の歴史を統一的にとらえようとするのである。その上で、ヨーナスは有機体をその客観的な形式とする生命について次のように言う。

生命を生み出すことによって少なくとも自然は一つのはっきりとした目的を告げている。それはまさに生命それ自体である。このことは、「目的」一般が主観的にさえ追求され享受される限定的な目的へと解放されることをまさしく意味しているのだろう。生命が自然の目的にほかならないと語ることは慎もう。あるいは自然の主要な目的に過ぎないのだと語ることであっても慎もう。そのようなことについては私たちはいかなる推測もできないのだから。一つの目的だと語ることで十分なのである[22]。

 自然は生命を生み出すことによって、生命の存在そのものが自然の目的(の一つ)であることを告げている、とヨーナスは言うのである[23]。それゆえ、生命の発展の結果として姿を現わした人間(人類)もまた自然の目的の一つである、ということになる。自然の目的は人間を含む全体的なものとして、その一部である人間の主観的な目的よりも優位に置かれる[24]。人間の主観的な目的が自然の目的に常に従属させられなければならないというわけではもちろんないが、「〔人間と自然の〕一元論的な条件の下では、合法的に自然に対して反対することは、個別例においてのみ可能なのであって、全体としては不可能であろう[25]」。本稿の主題をなしている「将来にわたる人類の存続とそれに対する責任」という問題は、まさしく「全体的な」問題であり、その意味で自然の目的、すなわち人類の存在に対して、その部分を成すある世代の人類が反対の意志表明をすることは許されない、ということになる。こうして冒頭の問いに対しては、自然がその目的の一つとして人類の地上における現前を告げているということによって、「将来の人類に対する責任」が現在の人類の義務として根拠づけられることになり、それに包摂される「生殖への義務」もまた根拠づけられるのだ、と解答されることになる。

3 討議倫理学による批判とそこから見えてくるもの

 2で見た「将来の人類に対する責任」の根拠づけに対しては、とりわけその形而上学的な性格に関して批判が寄せられてきた。ここでは特にカール=オットー・アーペルによる討議倫理学の立場からの批判を取り上げたい。アーペルからの批判が重要なのは、それが「未来に対する責任」という問題をヨーナスと共有しヨーナスの問題提起の意義を汲み取った上でなされたものだからである。

3−1 討議倫理学による批判

 ヨーナスが責任倫理学を提示した際の問題意識については本稿の序において簡単にまとめておいたが、アーペルもまたそれに賛意を表わし、「こんにち不可欠なものとなっている責任倫理学の問題状況とその使命についてハンス・ヨーナスが下している判断は、私見によれば、もっともなものであり、生態学的な危機という背景の前では実際に納得のいくもの[26]」だと言う。
 アーペルは現代テクノロジーという新しい能力がもたらした危機的な状況に相応した、「未来への責任倫理学Zukunftsverantwortungsethik[27]」が緊急のものとして必要とされており、その合理的な根拠づけが焦眉の課題であると主張するという点では、ヨーナスと立場をともにしている。しかしヨーナスが『責任という原理』で提示したその他の論点に関しては異議を唱える。アーペルのヨーナス批判は@ヨーナスはマルクス主義的なユートピア思想と重ねるかたちで近代の「進歩Fortschritt」の理念を批判するが、カント的な意味での「進歩」、すなわち統制的理念としての「進歩」概念を考慮に入れていないという批判[28]、Aヨーナスの倫理学の形而上学的−目的論的な根拠づけは不要であるという批判[29]、Bヨーナスの責任概念は、親−赤子関係という非相互的な関係をモデルにすることによって、倫理学に不可欠な(それ自体は相互的な関係を前提とする)「正義」の概念が抜け落ちてしまっているという批判[30]、そしてCヨーナスは未来倫理としての責任倫理(学)は非相互性をモデルとする新たな倫理(学)でなければならないとしたが、相互性をモデルとするカントの倫理学の延長線上で未来倫理としての責任倫理(学)は合理的に根拠づけることができるとする批判[31]の四点にまとめることができる。
 本稿の論点にとって重要なのは二番目の批判、すなわちカント以前に退行するかのような「擬似−アリストテレス主義Quasi-Aristotelismus[32]」的な根拠づけを倫理学に用いることに対する批判である。とはいえアーペルの批判の眼目は、ヨーナスの形而上学的な議論の瑕疵を内在的に批判するというよりも、むしろ別の根拠づけを――カント以降にあってはおそらくはいっそう受け入れられやすいであろう根拠づけを――提示することにあった。
 アーペルによれば、私たちは真面目に論証する者として、何事かを発話するときにすでにコミュニケーション共同体を――潜在的には無制限の理想的なコミュニケーション共同体を――前提としている[33]。これはそれ以上遡りえない前提である。なぜならその前提を反駁しようとする営みがすでにコミュニケーション共同体を前提としているからであり、その意味で遂行論的矛盾を犯してしまっているからである。ところで私たちは真面目に論証する者として、問題を設定した時点ですでに、原則として問題解決に対して連帯責任を負うことを承認しており、さらには無制限の理想的なコミュニケーション共同体の一員でもあることによって、倫理的な問題解決も含めてあらゆる問題解決の妥当性は原則として、無制限の理想的なコミュニケーション共同体の全成員にとって同意しうるものでなければならないということも承認している。アーペルはここから倫理学的な含意を引き出す。

問題に関する論証が真剣なものであるかどうかは、その問題解決の妥当性が〔無制限の理想的なコミュニケーション共同体において〕一貫しており、同意を獲得しうるものであるということに依存しているのだから、私見によれば、このことはまたすでに次のことを含意している。すなわち、現在存在している人類のコミュニケーション共同体は、〔無制限の理想的なコミュニケーション共同体において〕現在と未来が同等の権利を有する限りは、自身が未来においても途切れることなく継続していることを見いださなければならない。それゆえ私見によれば、討議倫理学の究極の根拠づけには、未来においても人類は存在しなければならないというハンス・ヨーナスの根本的な要請の合理的な根拠づけが含まれているのである[34]。

 真面目に論証を行い問題解決を図る者は、無制限の理想的なコミュニケーション共同体においても妥当するような仕方でその論証と問題解決とを遂行しなければならないが、現在のコミュニケーション共同体の成員と未来のコミュニケーション共同体の成員とは互いに等権利的なものとして、前者は後者を未来において見いだしうるようにしなければならないというのである。このような仕方でアーペルは、ヨーナスの提示した「責任倫理学」の第一命法である「人類は存在しなければならない」を形而上学的な議論に依拠することなく「合理的に」根拠づけることができるのだと主張した。
 本稿ではこのようなアーペルの議論の妥当性を細かく吟味することとはできないので、この問題については別稿に期したい。いずれにしても、アーペルの試みは次のようなかたちで理解することができるだろう。すなわちそれは「カント的な原理を新たな仕方で根拠づける[35]」ために、討議倫理学において問題となるコミュニケーション共同体の可能性の条件を反省することを通じて(カントの超越論的反省の継承)、コミュニケーション共同体自身の存在(存続)を当為として究極的に根拠づけようと試みるものであった、と。
 したがってアーペルによれば、未来倫理としての責任倫理(学)の根拠づけにはヨーナスが用いるようなカント以前の存在論は「不適格で不要unberechtigt und unoetig[36]」なのであり、倫理学の根拠づけはカントの超越論哲学の系譜を適切な仕方で継承することによって遂行することができるのである。

3−2 討議倫理学による批判から見えてくるもの

 前節ではアーペルの議論をヨーナスの議論と対照させながら論じた。ここでアーペルとヨーナスの両者の微妙な重なりと差異について論じている品川哲彦の著作『正義と境を接するもの[37]』を参照することで、両者の関係についての理解を深めたい。

3−2−1 『正義と境を接するもの』の検討

 『正義と境を接するもの』の第一部「責任という原理」の主題は、アーペルの討議倫理学を相互的な関係に基づく正義の原理を表現するものとして、ヨーナスの責任倫理学を非相互的な関係に基づく責任の原理を表現するものとして、両者を互いに「合わせ鏡[38]」として用いることによって、それぞれの立場から見えてくるもの、あるいは見落とされてしまうものを見定め、その作業を通じて両者の射程を明らかにすることであった。本稿ではこの著作の第一部の多様な論点の中から、ヨーナスの責任倫理学の根拠づけに対するアーペルの批判とそれに対する著者からの応答の箇所に焦点を絞って考察したい。
 『正義と境を接するもの』においては、ヨーナスの責任倫理学の命法「人類は存在しなければならない」の基礎づけとして、@直観主義的基礎づけA自然哲学的基礎づけB存在論的形而上学的基礎づけC存在論的神学的基礎づけの四種がヨーナスの著作から取り出されている[39]。しかしながら品川自身はヨーナスの提示する形而上学的な議論に疑義を示し[40]、それに代わるものとして遂行論的基礎づけを自身の解釈として提示している[41]。品川は次のように述べる。

ヨナスの立てた問いは、人類が存続できるかという事実問題ではなく、存続すべきかという倫理の問題だった。人類がこの倫理的問いを問うことにみずから関与しているかぎり、つまり倫理的態度をとっているかぎり、「存続すべきではない」という答えを選ぶならば、自分自身が今問うている倫理的な問いそのものを否定してしまうことになる。「存続すべきではない」という主張と現にしている「べき」を問う態度とのあいだには自己矛盾――人類全体をひとりの判断主体として考えるならば、人類は遂行論的矛盾を犯していることになろう。したがって、人類は存続すべきだという答えしかない。だからこそ、責任が存在することが第一の責任として不可避に導き出されるのである。何よりもまず、責任が存在する可能性を維持する責任が先行するから人類は存続しなくてはならないというヨナスの主張は、このように、人類の存続なしには倫理的問いを問う基盤そのものが成立しえないという意味で理解することができる。ただし、以上はヨナスが表明している見解ではない。本書の解釈として提示しておく[42]。

 この箇所で行われている論証の要は、「『存続すべきではない』という主張と現にしている『べき』を問う態度とのあいだには自己矛盾――人類全体をひとりの判断主体として考えるならば、人類は遂行論的矛盾を犯していることになろう」という一文であると思われる。つまり「人類は存続すべきか」と人類自身が問われたとき、「存続すべきでない」と現に存続しているところの人類が答えるのは端的に言行不一致であり、自己矛盾に陥っており、したがって残る回答の選択肢は、論理の経済によって「存続すべきである」しかない、ということである。
 ただし品川はこのような仕方で、つまり存在論的基礎づけなしで責任倫理学を基礎づけることができたとしても、それだけではアーペルから寄せられる批判[43]には完全に答えられるわけではないということも認めている。なぜならヨーナスの議論からは正義論が導出できないために、たとえ人類の存続を基礎づけることができたとしても、それ以降の具体的な問題に関してはそれを補うかたちで正義論が別に必要とされるからである[44]。とはいえこのようなかたちで、多くの論者によって受け入れがたいとされるヨーナスの形而上学を捨象し、アーペルの討議倫理学と同種の仕方で、すなわち遂行論的矛盾に訴えるという仕方でヨーナスの責任倫理学を基礎づけようとする試みは、ヨーナスが提起した責任という概念の意義をより幅広い層に受け入れやすくさせるだろうと評価することができる[45]。
 『正義と境を接するもの』は、ヨーナスの「責任原理」とアーペルの「正義原理」のいずれに軍配を上げるべきかを問題としていたのではなく、「責任」を「正義と境を接するもの」として、すなわち正義に対して両義的な関係にあるものとして描き出すことが意図されていた[46]。つまり正義に照らして責任を考察し、あるいは反対に責任に照らして正義を考察することによって、どちらか片方だけからでは見えないものに光を当てることを試みるものであった。以下、本稿でもアーペルによるヨーナス批判から浮かび上がってくると思われる論点を論者自身の視点から論じておきたい。

3−2−2 ヨーナスとアーペルの対立の背景について

 アーペルのヨーナス批判、すなわちヨーナスの(自然哲学を含む)形而上学的な議論に対する批判は、ヨーナスの責任倫理学の基礎づけの成否にはとどまらない奥行きをもっている。両者の対立は端的にはモデルネ(近代)に対する評価の差異に基づいている。この差異はカントに対する両者の評価の違いのうちに現われている。アーペルは近代哲学を「方法的独我論[47]」として批判しながらも、カント的な仕方で、すなわち「超越論的反省」によって、コミュニケーション共同体の可能性の条件を問い(討議)倫理学の究極的な合理的基礎づけを目指したという意味では、現代におけるカントの正当な継承者であったと言える。他方でヨーナスはカント倫理学に対しては、それが形式的であって具体的な実質をもたないという点に関して、また同時的な存在者(現在の人間)のみを対象としているがゆえに未来倫理ではあり得ないという点に関して繰り返し批判を加える[48]。その批判が妥当であるか否か慎重に検討しなければならないにせよ、少なくともヨーナスは自身の責任倫理学をカント倫理学との批判的な対決を通して鍛え上げようとしたということはできるだろう。
 さらにアーペルは近代哲学を批判しつつカント哲学を継承する際、オースティンの言語行為論を摂取しながら、二十世紀のいわゆる「言語論的転回」を経由して(討議)倫理学の「超越論的−遂行論的」基礎づけを構想した。つまり言語の間主観性を梃子にして「方法的独我論」の桎梏を脱しようと試みたのである。ところで言語が間主観的なものであるならば、言語を介した関係性は(特定の誰かが言語に対して特権的な関係をもつわけではないのだから)必然的に相互的な関係性であることになる。アーペルが倫理学の基礎に理性的存在者の相互性を置くことを強く主張し、(ヨーナスとは異なり)責任のモデルもまた相互的な関係の中で想定した[49]のにはこのような背景があったと考えることができる。ヨーナスもまたアーペルと同様に近代哲学の問題(の一つ)を観念論のもつ人間中心主義的な含みのうちに見て取っていた[50]。しかしながらヨーナスは、アーペルとは時代的に見ると逆向きに、すなわち近代以前の自然哲学に遡り、自然哲学の復権を通して近代哲学を批判する視座を確保しようとした。その流れの中で人間と自然の共同性を構想し、責任倫理学を展開したのである。ところで、人間は自然の一部でありながら同時に自然から切り離され自然を対象化しうるものでもある。その意味で自然と人間とは非相互的な関係のうちにある。ヨーナスの(責任)倫理学が、アーペルの(討議)倫理学とは異なり、非相互性を根底に据えたものとなっているのは、それが近代以前の自然哲学に立ち返ることによって生み出されたものであったという背景があるからだと言えるだろう。
 このように見ると、ヨーナスとアーペルの対立は、私たちがモデルネ(近代)をどのようなかたちで受けとめるかを考える際の対極的なモデルを与えるものとして理解することができる。モデルネ(近代)を「未完[51]」のものとして捉えるべきか、あるいはモデルネ(近代)の理想とそれが人間と自然に対して示しはじめた巨大な破壊性とはコインの裏表の関係にあるとみなすべきか――もちろんここでは解答は留保せざるを得ない。しかしながら少なくとも私たちは両者の対立からモデルネ(近代)の問題を考える際の貴重な参照軸を見いだすことができるだろう。



 本稿の主題は「生殖への義務」は存在するか、存在するとしたらそれはどのような仕方で根拠づけられるかという問いに、ハンス・ヨーナスの責任倫理学の立場から一定の解答を試みることであった。そしてそれを踏まえてヨーナスの根拠づけに対するアーペルからの批判、アーペルからのヨーナス批判に対する品川のヨーナスへの(部分的な)擁護を見たうえで、アーペルとヨーナスの対立から私たちが汲み取るべきと考えられる点を指摘した。
 本稿では「生殖への義務」はあくまで人類という一つの種のレベルで考察するものであって、個々人のレベルで考察するものではなかった。おそらく両者にはそれぞれ別の議論が必要であろうが、後者については本稿ではふれることができなかった。この点については今後の課題としたい。また「生殖への義務」に関しては、「生殖への義務はそもそも必要なのか」という問いも想定することができる。この問いは「生殖への義務が必要であるような状況はいかなる状況か」という問いとしてとらえることもできる。この点についても本稿では取り扱うことができなかった。今後の課題として挙げておきたい。

文献

・ Apel, Karl-Otto, Verantwortung heute -nur noch Prinzip der Bewahrung und Selbstbeschraenkung oder immer noch der Befreiung und Verwirklichung von Humanitaet?, Zukunftsethik und Industriegesellschaft, Hersg. Thomas Meyer/Susanne Miller, J. Schweitzer Verlag KG, Muenchen, 1986, S.15-40
・ Jonas, Hans, Das Prinzip Verantwortung--Versuch einer Ethik fuer die technologische Zivilisation, Suhrkamp Verlag, Frankfurt am Main, 1984(加藤尚武監訳、『責任という原理』、東信堂、2000年)略記号PV
・ ―――, Zur ontologischen Grundlegung einer Zukunftsethik, Philosophische Untersuchungen und Metaphysische Vermutungen, Insel Verlag, Frankfurt am Main und Leipzig, 1992, S.128-146 略記号PUMV
・ ―――, Das Prinzip Leben. Ansaetze zu einer philosophischen Biologie, Suhrkamp Taschenbuch Verlag, Frankfurt am Main, 1997(細見和之、吉本陵訳、『生命の哲学』、法政大学出版局、2008年)略記号PL
・ アーペル、カール=オットー、「科学時代における責任倫理の合理的基礎づけ」(丸山高司、北尾宏之訳)、『思想』、1986年、739号、46-73頁
・ ―――、「責任倫理(学)としての討議倫理(学)――カント倫理学のポスト形而上学的変換」(舟場保之訳)、『カント・現代の論争に生きる 下』、理想社、2000年、127-164頁
・ 品川哲彦、『正義と境を接するもの』、ナカニシヤ出版、2007年
・ ハーバーマス、ユルゲン、「近代 未完のプロジェクト」、『近代 未完のプロジェクト』、岩波現代文庫、2000年(三島憲一編訳)、3-45頁
・ 吉本陵、「ハンス・ヨナスの責任倫理学について――『責任という原理』とその背景」、『人間文化学研究集録』、2004年、91-110頁
・ ―――、「ハンス・ヨーナスの生命の哲学」(「生命の哲学の構築に向けて(1)基本概念、ベルクソン、ヨーナス」の第三章)、『人間科学』(大阪府立大学紀要)、2008年、52-68頁

 

第2章 将来世代を産出する義務はあるか? 
執筆:森岡正博


目次:
1 すべての女性が産まない決断をしたら
2 人類の穏やかな自己消去を認める
3 人類は持続的に維持されるべき
4 産みたい女性がいる場合
5 二つの立場の融和は可能か
6 おわりに

1 すべての女性が産まない決断をしたら

 第1章で明らかにされたように、ヨーナスは、「人類には将来世代を産出する義務がある」と考えていた。ただし、その根拠づけをどのように行なえばよいのかという点で、苦慮していたのである。品川は、遂行論的矛盾の観点から、その義務を根拠づけることができるのではないかと提案した。
 だが、品川が指摘するところの遂行論的矛盾による論証が成功しているとは私には思えない。なぜなら、品川は「「存続すべきではない」という主張と現にしている「べき」を問う態度のあいだには自己矛盾――人類全体をひとりの判断主体として考えるならば、人類は遂行論的矛盾を犯していることになろう。したがって、人類は存続すべきだという答えしかない」[52]として、ヨーナスを擁護するが、そこに必ずしも矛盾が生じるかどうかは分からないと私は考えるからである。たとえば、もし人類が以下のように考えたとすればどうか。すなわち「われわれの世代はすでに存在しているから、それらに対してはお互いに倫理的態度を取らねばならないが、次世代の産出を徐々に縮減し、近い将来に産出をゼロにするように注意深く産出をコントロールしていきたい」と人類が考えたとしたら、そこには遂行論的矛盾は生じないように思われるからである。人類が、このようないわば「人類の穏やかな自己消去」という態度を取ることは、倫理的に見て許されないことなのだろうか。「人類の穏やかな自己消去」を論理的に否定し、人類には「将来世代を産出する義務がある」と主張することは果たしてできるのだろうか。
 このような問題設定は、たしかにヨーナス自身が立てたものではない。だがそれは、ヨーナスの論法を延長していけば必然的に出現してしまう根本問題である。私はここでヨーナスをひとまず離れ、「人類には将来世代を産出する義務があるか」という問題を正面から考えていくことにしたい。もちろんこの問題は、現時点において、リアリティのあるものとは言えない。地球上で人類は大いなる勢いと情熱でもって将来世代を産出しているし、これからもきっとそうであろう。だがその一方で、先進産業国では少子化現象が起きている。地球環境汚染が今後も継続して進むならば、その圧力によって実際に地球レベルでの少子化が進み、その結果として、将来世代の産出の問題が地球環境問題のひとつとして話題に上る可能性がないとは言えない。そのような事態が生じたときに、問題の本質を押さえておくためにも、以下の思考実験には何かの意義があるだろう。
 この議論を進めるときに念頭に置くべきもうひとつの思想として、「産む産まないは女が決める」というリプロダクティヴ・ライツの主張がある[53]。これはフェミニズム運動の中から出てきた考え方で、再生産にかかわる意志決定は、最終的には女性個人の判断にのみ委ねられなくてはならないという主張である。男性よりも女性のほうに最終決定権を認めるという意味でジェンダー非対称的であり、女性の個人的な決定は社会・家族等からの圧力によって覆されてはならないという意味で個人主義的である。
 このフェミニズムの主張が出されてきたコンテクストを無視してはならない。これまで、多くの時代と社会において、子産みの権利と自由は女性に与えられてこなかった。あるときは家父長や家や共同体や国家によって女性に子産みが強制され、あるときには男の勝手な都合や人口調節の名のもとに女性に堕胎が強制されてきた歴史があるのである。自明のものとされてきたそれらの権力行使に対して、子産みの自由と権利を女性の手に取り戻すという文脈の中で、「産む産まないは女が決める」という主張が生まれてきた。もちろん、この主張に反対する意見もいまだ根強いのであるが、今日の個人主義思想を代表する考え方のひとつとして無視できない影響力を勝ち取ってきたことは間違いないであろう。
 ところで、この「産む産まないは女が決める」という主張は、さきほどの「人類には将来世代を産出する義務がある」という主張と相容れないように見える。なぜなら、もし仮に、地球上のすべての女性が「産まない」という決断をしたならば、将来世代を産出することはできなくなるからである。もし「将来世代を産出する義務がある」とする立場を取るのならば、地球上すべての女性が「産まない」という決断をしたときには、それを否定し、女性たちに子産みの義務を「強制」しなくてはならないことになる。それは許されることなのだろうか。
 もちろん、さきほどコンテクストの話をしたように、「産む産まないは女が決める」という主張は、いま述べたような設定のもとで問われてきたわけではない。むしろ逆に、女性が「産まない」という決断をしたときにおいても、それが暴力的に否定され、「産むこと」が強制されてきたという現実があるのであって、そのなかでいかにして女性の生殖に関する権利を「獲得するか」という戦いの中で主張されてきた命題なのである。そしてその戦いがいまだ途中でしかない現実を無視して、いきなり将来のSFの話をされても困るという批判がなされるかもしれない。この点の重要性については、ここで再度認識しておきたい。
 そのうえで、私は、「産む産まないは女が決める」という主張内容が、それ自体として、どこまでの射程を持ち得るのかを探ってみたいと思っている。従って、以下の議論は、「産む産まないは女が決める」という主張が立ち上がってきたときのコンテクストから離れ、人類の存続が問題となるような場面において、その主張内容がどのような意義を持ち得るのかを吟味をする作業になる。そのような作業をすること自体が、フェミニズムの主張を脱文脈化し、それを無力化しようとする男性学者のバックラッシュの試みに他ならないとする考え方もあり得るだろうが、しかし以下のような思考実験をすることそれ自体は学問的な営為として許されてもよいだろうと私は考える。
 以下で行ないたいのは、一方に「人類には将来世代を産出する義務がある」という主張を置き、他方に「産む産まないは女が決める」というような個人の決断を最重要視する個人主義の主張を置いたうえで、その両者の関係性を吟味することである。
 この論点を議論する仕方は様々あると思われる。私は、以下の議論において、「個人よりも上位の価値を持つ実体」を置くことのないような個人主義の立場に仮に立脚し、その立場から「将来世代の産出の義務」に対して何が言えるのかを考えていきたい。「個人よりも上位の価値を持つ実体」を置くような立場とは、たとえば、家、血統・血脈、共同体、人種・民族、人類などは、人間個人よりも上位の価値を持つ実体であり、それらと人間個人とか天秤にかけられたときには、問答無用にそれらの実体のほうが優先され、人間個人はその犠牲にならなければならないとする立場のことである。この考え方は、女性は、血統・血脈や、人種・民族のために、子産みをする義務があるということをあからさまに主張するものである。そしてそれは、これまでの伝統社会や近代社会において公然と支持されてきただけでなく、現在の日本においてもいまだ人々のあいだに根強く残っている考え方である。この立場に立てば、問いはあっけなく解決される。すなわち、われわれに将来世代産出の義務はあり、女性個人はその義務のために個人的権利を制限されなければならないという結論である。あとに残される重要課題としては、その場合に、男性個人が女性個人や社会に対してどのような義務を負うことになるのかという論点があるのみだろう。その他、細かな論点もあるだろうが、基本的にこの立場に立てば、将来世代の産出についての、個人と人類の対立の問題は論理上は解決されているとみなしてよい。したがって、本論文では、この立場の吟味にはこれ以上立ち入らないことにする。
 ここで問題点をクリアーに析出するために、「すべての女性が産まない決断をする」という極端な仮定を立てることにする。そして、そのようなケースにおいて、「産む産まないは女が決める」という考え方と、「将来世代を産出する義務」とのあいだにどのような緊張関係があるのかを考察していくことにする。
 まず、このような極端なケースにおいて、われわれが取り得る立場としては、以下の二つがあるだろう。

(1)「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じたとしても、それは仕方のないものとして引き受ける」という考え方。このとき、女性の産まない選択は無傷で守られる。女性個人は「将来世代を産出する義務」を負わない。
(2)「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じた場合、将来世代の消滅は回避すべきであるので、女性の産まないという選択にはある程度の規制が課せられなければならない」という考え方。このとき、女性の産まない選択は制限される。女性個人は「将来世代を産出する義務」の一部を負う。男性個人もまたその義務の一部を負う。

の二つである。(のちの議論でこれらは修正されていく)。
 (1)の立場はとりあえず明瞭であろう。(2)の立場は、先に述べた「個人よりも上位の価値を持つ実体」を置くような立場と似ているが、根本的なところが異なっている。(2)の立場は、「人類は人間個人よりも上位の価値を持つ実体であるから、女性個人はその上位価値の存続のために、みずからの自由選択に制限をかけなければならない」というものではない。そうではなくて、(2)の立場は、単に、「もしわれわれの総意として、人類絶滅を回避したいのであれば、たとえ人類絶滅の危機が女性たちの産まない選択によってもたらされたものであったとしても、女性たちはみずからの判断を再考して、「産まない」というみずからの自由選択にある程度の制限をかけなければならない」と言っているにすぎない。そこには、人類と人間個人のどちらが上位の価値を持つか、という判断は含まれていない。
 一般的に言えば、上位の価値実体を持ち出さなくても、人間が個人主義に立ちつつみずからの行動を自己制限することができるというのは、当然のことである。問題となるのは、将来世代の産出、すなわち「将来の個人主体の産出」という場面においても、はたしてこの個人主義の論理が成り立つのかどうかという点である。
 
2 人類の穏やかな自己消去を認める
 
 ではまず最初に、「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じたとしても、それは仕方のないものとして引き受ける」という(1)の立場について検討していきたい。
 これは女性の産む産まないの権利を、もっとも厳格に守ろうとする立場である。ある時点でいっせいに女性が産まない決断をして、女性たちがそれを最後まで持続させるとしたら、人類は現在世代が消滅すると同時に、類として消滅することになる。そしてこの立場は、女性の産む産まないの権利は女性個人のみにあるのであり、他の誰もけっしてそこに介入することはできないと考えるのであるから、そこから生じた人類絶滅という帰結もまた全員が主体的に引き受けなければならないということになるであろう。(この場合の、「すべての女性」のなかには、女子児童や女の子の赤ちゃんも含まれる。彼女たちもまた、将来、性成熟しても子産みを選択しないのである)。これまで長く続いてきた人類の歴史がここで途絶えるのは悲しいかもしれないし、人類の生み出した文化や文明が途絶えるのも惜しいかもしれないが、それよりも女性の産む産まないの権利のほうがずっと重要であるのだから、人類の絶滅という帰結は勇気をもって引き受けなければならないというのである。
 再度繰り返しておくが、「産む産まないは女が決める」というフェミニズムの主張がなされたときに、その声を発した女性たちは、けっしてこのようなシチュエーションを想定してはいなかった。なぜならその主張は、彼女たちから奪われていた生殖に関する権利を取り戻そうとする運動のなかで言われたことだったからである。私はこの論文において、その主張を、当初想定されていなかったような状況にまで延長して適用し、そこで何が生じるのかを確かめたいのである。
 ところで、この立場に立ったときには、女性は「将来世代を産出するいかなる義務も負うことはない」という結論が導かれるように見える。ところが、さらに考察をしてみれば、この立場においてもまた、女性に対して、「将来世代を産出するいくばくかの義務」が課せられるかもしれないということが分かってくるのである。
 仮に、いまこの時点で、すべての女性が子産みを拒否したとしよう。すると何が起きるであろうか。新しい子どもが生まれないのであるから、年を経るごとにいちばん若い世代が高齢化していく。15年後には、人類の最低年齢は15歳となり、14歳以下の人間はもはやこの地上には存在しない。人類の多くは、極度に複雑化した都市において生活をしているのだが、都市を中核とした社会システムは、食料や物資の生産、流通、システムのメンテナンス、建造と解体などを担当する人々が次々と労働の場へと供給されてくるという前提で稼働している。この社会システムは、10代と20代の人間が消滅する30年後には、完全に崩壊するであろう。電力、ガス、水道、通信、交通などのライフラインを維持することはできなくなり、社会は分断され、未曾有な風景が繰り広げられることになるだろう。航空機、船舶などの国際輸送を維持することは人手不足によって不可能となり、食料生産、発電のシステムもダウンするであろう。巨大で複雑なシステムから順番に崩壊していき、ネットワークは分断され、人々は強制的に自給自足生活へと追いやられていく。さらに30年後には、人類の最低年齢は60歳となる。人々は、最低限の文化的生活を送ることすらできず、食糧不足、疫病の発生、交通と通信の遮断などによって、悲惨な最後を向かえることになるだろう。
 女性がいまいっせいに産まないことを選択すれば、このような帰結がもたらされる。これは、単に人類が将来にわたって存続しないという帰結とは、また質の異なった災厄であると言わざるを得ない。すなわち、単に将来の人類が存在しなくなるというだけのことであれば、そこで具体的に生命の危機に陥る人間が大量発生するということはない。将来の人類は端的に「生まれない」だけのことであり、生まれない人間に対して危害が加えられるということはない。それは悲しいことかもしれないし、惜しいことかもしれないが、それによって人間の生命に重大な危害が加えられるわけではない。
 ところが、上で描写したような社会状況が生み出されるとするならば、それは、現に生きている多数の人間たちを、具体的な生命の危機に陥れることになる。いくら残された人間たちが一致協力して社会システムを組み替えようとしても、たかだか数十年の期間で、それも最低年齢人口が年を追って高齢化する状況のなかで、その組み替えが可能になるとは考えられない。このような状況が高い確度で予測されるときであっても、女性たちによる「いまいっせいに産まない」選択は正当化されなければならないのであろうか。
 ここにおいて問われているのは、「女性がいっせいに産まないことを選択する権利」の行使が、社会システムの崩壊によって多数の現存する人々に生命の危機をもたらすと予測されるときに、その権利行使は認められるべきかどうかという問いである。問題をこのように設定するとするならば、自由主義社会の原則のひとつである「他者危害の原則」にもとづいて、この権利行使には何かの制限が加えられなければならないという結論が導かれることになるはずだ。そしてその制限は、女性が「いまいっせいに」産まないということをしてはならないという形で、女性に課せられることになる。すなわち、「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の子産みを女性たちに義務づけなくてはならないということが、「他者危害の原則」から導かれることになるのである。
 すなわち、基本的精神としては、「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じたとしても、それは仕方のないものとして引き受ける」のであるが、しかしながら、すべての女性がいまいっせいに産まない決断をすることは禁止されなければならないし、女性たちは「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の子産みをする義務を負う、ということになるのである。
 いそいで付け加えておくが、これは女性たちだけに対してその義務が課せられるということではない。男性[54]たちに対してもまた、同等のきびしい義務が課せられるのである。本来ならば産まない決断をするはずであったが、社会の要請によって子産みをしなければならない女性たちに対して、その子産みを制度的、物質的、精神的にサポートし、子産みを担当する女性の義務を苦痛と感じさせないようにする義務が、男性たちには課せられることになるのである。男性は子産みをすることができないのであるから、男性は子産み以外の面において女性の子産みを支える義務がある。したがって、「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の子産みをする義務というのは、その子産みをサポートする義務を含むのであり、これらの義務は、すべての人間たちが、それぞれの存在様態に応じて公平に負わなければならない義務なのである。(ここでの「社会システム」を、ただちに一国家システムに適用して、短絡的な国家少子化回避義務の主張に結びつけてはならない。後述)。
 さて、話はまだ終わらない。さきほど、「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の将来世代は産出されなくてはならないと言ったが、その人数は必ずしも現在世代の人数と同じである必要はない。理論的に考えれば、生まれてくる人数を少しずつ減らしながら社会システムを維持し、次いで、減少した人口に見合うくらいにまで社会システムの側を縮小し、次いで、それを運営できる最低限の人数にまで出生数を減らし、というふうに出生人口と社会システムを平行して徐々に縮小していくということが可能である。もし女性たちがなるべく「産まない」という方向性を指向しているのであれば、社会システムの根本的な崩壊を回避しながら、女性の産む産まないの権利を最大限に保障する方策としては、このような出生人口と社会システムの平行縮小の道がもっとも望ましいであろう。地球人口を徐々に減らしていき、生活スタイルも地域に密着した自給自足型のものに変えていき、航空機や原発などの巨大システムを解体し、現代文明を解体し、そうやって地球人類は集落間のかすかな通信網によって互いの消息を交換しながら、将来世代ゼロを目指して自己縮小していくのである。そして地球のあちこちに散らばった小集落において、最後の子産みが終了し、最後に残った人間が高齢者を順番に看取りながら、最後は自分ひとりとなって死んでいく。地球上のすべての小集落においてこのプロセスが完了したとき、人類は滅亡することになる。これが、「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じたとしても、それは仕方のないものとして引き受ける」という道筋が示唆する、人類のひとつの将来像である。ここにおいては、多数の現存する人々に生命の危機をもたらすことなしに、女性の産まない決断を尊重して、人類をいわば「穏やかな自己消去」に導く筋道が示されている。
 以上をまとめると、次のようになる。
 「産む産まないは女が決める」というような女性個人の決断を重視する個人主義に立つとするならば、もし仮にすべての女性が「産まない」という決断をした場合には、われわれはその決断をできるかぎり尊重しなくてはならない。だが、すべての女性の「産まない」決断をいまここですべて承認することはできない。なぜなら、それを承認するならば、社会システムが根本的に崩壊してしまうからである。したがって、女性たちは、「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の子産みをする義務を負い、男性たちはそれを全力でサポートする義務を負う。そのうえで、「産まない」という女性の決断をできるかぎり尊重するために、出生数を徐々に減らしていき、最終的には将来世代が誰ひとりとして生まれないという人類の「穏やかな自己消去」を目指さなくてはならない。
 これは次のことを意味する。
 まず、これはヨーナスの主張の延長線上に想定されるような、「人類は将来世代を産出する義務がある」という考え方に対する、正面からの反論となるということである。女性たち個人の決断、そしてそれをサポートしようとするわれわれすべての決断、そしてそれを実現できる知恵があれば、われわれは人類を「穏やかな自己消去」に導くことが可能である。
次に、「産む産まないは女が決める」という個人主義の論理的な帰結のひとつとして、ここで述べたような人類の「穏やかな自己消去」の可能性はあり得るということである。多種多様な思想のひとつの帰結として人類の「穏やかな自己消去」の可能性があり得るのと同様に(たとえばラディカルエコロジズムは人類の消滅を肯定する)、「産む産まないは女が決める」という個人主義もまた、そのひとつの帰結としてこの可能性をはらんでいる。
 すなわち、「産む産まないは女が決める」という主張を、生殖に関する権利の獲得というその当初の文脈から切り離して、地球人類の存続という新たな文脈に置いて考察してみれば、その主張の内部には、人類の「穏やかな自己消去」を肯定する論理的契機が含まれていたということになるのである。これをどう考えればよいのだろうか。
 ひとつの立場は、正面からそれを肯定するものである。その主張には論理的にその帰結が内包されていたのであるから、そこに何も問題点はないとするのである。この考え方は、これまで女性学において正面からは指摘されてこなかったと思われるので、ひとつの発見ということになるだろう。
 第2の立場は、「産む産まないは女が決める」という主張を、その当初の生殖に関する権利の獲得という文脈から切り離すことそれ自体が不当であるとするものである。すなわちその主張は、当初の文脈においてのみ言われるべきことであり、それを離れて主張されてはならないとするのである。これはこれで納得できる立場である。だがそのときには、当初の文脈を離れるような状況が問題になったとき、たとえば、地球人口減や、人類の「穏やかな自己消去」という状況において、生殖の個人主義に立つ女性学は何を主張すべきなのかを明確にしなくてはならないだろう。
 一般的に女性学は、「女性が産むこと」の自明性を、徹底的に批判してきた。その自明性なるものは家父長制的なジェンダー体制によって構築されたものであり、なんら女性の本質でもなく、本能でもないとしてきた。だとすれば、その自明視が解体されたあとで、女性たちすべてが「産まない」選択を希望し、それによって人類が「穏やかな自己消去」していく道筋は、やはりひとつのリアルな可能性として考えられるのではないだろうか。その可能性を肯定するのであれば、第一の立場と同じになる。もし、その可能性を避けたい、否定したいということであれば、ではなぜその可能性が避けられなければならないのか、ということに対する答えが必要となってくるはずである。本質や本能ではないわけだから、なにか別の理由があるはずだ。個人主義に立ったままで、かつ上位の価値実体を導入せずに、その理由を明確にする必要がある。
 これまでの考察によって、(1)の立場は次のように修正される。

(1)「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じたとしても、それは仕方のないものとして引き受ける」という考え方。このとき、個々の女性の産まない選択は可能な限り尊重されるが、いますぐにすべての女性が産まないということは許されない。女性は「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の子産みをする義務を負い、男性はそれを全力でサポートする義務を負う。そのうえで、出生数を減らしていき、その帰結として人類が「穏やかな自己消去」を迎えるべきである。人類の「穏やかな自己消去」に関しては、それを肯定する。

3 人類は持続的に維持されるべき

 (1)の立場は、将来世代が産出されない可能性、そしてその結果として人類が「穏やかに自己消去」する可能性を、肯定する立場であった。しかしながら、「産む産まないは女が決める」という個人主義に立ちつつも、この帰結だけはどうしても避けたいとする考え方もあるはずだ。それが以前に述べた(2)の立場であった。すなわち、「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じたとする。その場合、将来世代の消滅は回避すべきであるので、女性個人の自由選択にはある程度の規制が課せられなければならない」という考え方である。前節での議論を参照すれば、(2)の立場にも若干の修正が加えられなければならないことが分かる。
 この立場をひとことで言えば、産む産まないに関する女性の権利を可能な限り守りながらも、その結果として将来世代が産出されないという帰結が訪れることだけは避けなければならないから、産む産まないに関する女性の権利を、合意のもとにある程度制限し、それによって一定の出生数を持続的に確保していくことを目指す、ということになる。産む産まないに関する権利が制限されるのであるから、それは、子産みに関するある程度の義務が女性に課せられることを意味する。そして女性の子産みをサポートする義務が男性に課せられる。
この場合の「ある程度」の義務とはどのくらいだろうか。(1)においては、人口減少社会において「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の子産みをする義務が求められていた。それと比較するならば、(2)においては、「将来世代の人口が持続的に維持され続けていく程度の人数」の子産みをする義務が女性と男性に求められる、ということになるだろう。すなわち、(1)においても(2)においても、女性と男性にはある程度の産出の義務が課せられるのであり、(2)のほうがその義務の程度が大きいということになる。(2)は人口の持続的な維持を目指しているのだから、義務の程度が大きくなることは当然である。
 (2)は次のように書き換えられることになる。

(2)「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じた場合、将来世代の消滅は回避すべきであるので、女性の産まないという選択にはある程度の規制が課せられなければならない」という考え方。このとき、個々の女性の産まない選択は可能な限り尊重されるが、いますぐにすべての女性が産まないということは許されない。女性は「人類を持続的に維持できる程度の人数」の子産みをする義務を負い、男性はそれを全力でサポートする義務を負う。人類は持続的に維持されるべきであり、人類の「穏やかな自己消去」は否定される。

 (1)と(2)を比べてみれば、そこにある差異は、義務に関する程度の違いだけではなく、その背後に根本的な思想の違いがあることが分かる。
 (1)は、すべての女性の産まないという選択をできるかぎり尊重するために、ある程度の産出の義務を甘受しながらも、産まない選択肢を可能な範囲内で最大限に追求しようとする。であるから、それは将来において、将来世代の産出がゼロになることを最大の目標として目指さなくてはならないのである。すべての女性の産まないという選択は最大限に尊重されるべきであるがゆえに、人類は「穏やかな自己消去」を迎えなくてはならないのである。これが(1)の核心部分にある思想だと言える。
 これに対して(2)は、すべての女性の産まないという選択を尊重しようとすれば、それは必然的に人類の持続的な維持を妨げることになるので、ある割合の女性たちは、意に反して産むことを持続的に強制されなくてはならないと考えるのである。その持続的な強制によって、将来世代の産出が持続的に維持されていくことを最大の目標として目指すのである。個々の女性の産まないという選択は可能な限り尊重されるが、すべての女性の産まないという選択は尊重されてはならない。人類は持続的に維持されなければならず、人類は「穏やかな自己消去」を迎えてはならない。
 この二つの立場は、人類の「穏やかな自己消去」をめぐって、正反対の考え方を取る。(1)は、すべての女性の産まないという選択を尊重するために、人類は「穏やかな自己消去」を迎えなくてはならないとし、(2)は人類は持続的に維持されなければならず、人類は「穏やかな自己消去」を迎えてはならないとする。この点において、この二つは調停不可能である。
以上、すべての女性が「産まない」という選択をするという、極端なケースを想定して思考実験を行なった。その結果として、「将来世代を産出する義務はあるか」という当初の問いに関して、次のことが明らかになった。

(A)われわれには将来世代を産出する最低限の義務がある。それは、「「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の子産みをする義務」である。
(B)「われわれには将来世代を産出し続ける絶対的な義務がある」という考え方は、必ずしも成立しない。
(C)女性の産まない選択を尊重して人類を「穏やかな自己消去」に導く立場も、人類の持続的な維持を最優先して女性の産まない選択により大きな制限をかける立場も、理論的には成立し得る。しかしこの二つの立場は、調停不可能である。

 (A)と(B)は、ここでの極端な思考実験を離れて、一般的に言えることである。(C)は少なくともここでの極端な思考実験のケースにおいて言えることである。
 ところで、(A)によれば、一般的に、われわれには「「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の子産みをする義務」があるのであった。女性には直接的にその義務が課せられ、男性には全力でそれをサポートする義務が課せられる。では、仮にその義務が達成されない状況が訪れたとしたとき、すなわち社会システムの根本的な崩壊に導きかねないような極端な出生人口減が生じたときに、われわれは社会の成員に対して、子どもを産む方向に向けての、何かの強制力を行使しないといけないのだろうか。(ここでは地球人類レベルで考えている。この問題は、現在、国レベルで議論されているものに似ているが、いまは国レベルの議論はとりあえず想定されていない)。
 概括的に述べれば、強制力を行使する前に、女性と男性に対して、子産みの説得をし、インセンティブを与え、子産みを疎外している要因を取り除き、子産みへの刺激を与えるといった、様々な働きかけがなされなくてはならない。これによって危機が回避されていくケースも多いであろう。しかしながら、もし仮に、これらの働きかけをいくら継続的に行なったとしても、出生数がまったく基準に達しないときには、最後の手段としての強制力の行使ということがあり得るかもしれない。しかしその場合の強制力とは、いったい何を指すのだろうか? 子産みに賛同しない女性や、子産みへのサポートを行なわない男性に、なにかのサンクション(経済的なもの、強制労働、禁固など)を与えて、そのつらさに耐えるくらいならば子産みをしたほうがましだと思わせるというのはひとつの強制力の行使の方法だろう。サンクションを設定すれば、ある人数の女性と男性は子産みのほうに歩み寄り、出生数は回復するかもしれない。しかしそれでもなお人々が子産みを選択しようとしないとしたら、残された道は、強制着床、強制妊娠、強制出産、強制育児ということになるだろう。強制着床と強制育児は女性と男性ともに課せられ、強制妊娠と強制出産は女性にのみ課せられることになる。この道を選ぶならば、その過程においておびただしい量の人権侵害と苦痛が発生することになる。そこで発生する害悪と、出生数が激減することによって起きる社会システムの根本的な崩壊によろ害悪を比較したときに、どちらがより望ましいのかは、ただちに判断できないように私には思われる。
 このようなグロテスクな仮定をしてみることで、将来世代の産出の話が、単なる「人類や社会などの全体のために、個人の自由がどのくらい制限されなければならないのか」という分かりやすい社会倫理の話題とは、質的に異なったものを含んでいることが垣間見える。それはすなわち、「個人の自由を制限することによって、その個人を制限してくる人類や社会というものをこれから構成することになる人間主体が産出されていくことになるのだが、そのことをどう考えればいいのか」という問題である。
 ここで、将来世代の産出の義務を、たとえば納税の義務と比較してみよう。納税の義務があることによって、われわれは、自分でかせいだお金をすべて自分の好きなように使ってしまうという自由を制限されることになる。われわれの自由を制限することによって徴収された税金は、社会の中に現存する様々な境遇の人々のために支出され、現行の社会基盤を維持改善するために支出され、また将来生まれてくるであろう人々を迎え入れるための社会基盤を用意するために支出される。ここでは、われわれが支出する税金を使うであろう人々が現在一定数存在しているということ、そして将来も一定数存在し続けるということが前提されている。その前提の上で、それらの人々のために個人の自由がどこまで制限されるべきか、ということが議論されるのである。
 ところが、将来世代の産出の義務というのは、いま述べた前提の後半部分、すなわちわれわれの税金を受け取って享受する主体である人間たちそれ自体を産出する義務なのである。言い換えれば、現存する誰かのために、われわれの自由が制限されるのではない。また、将来に存在することが確定している人々の福利のためにわれわれの自由が制限されるのでもない。そうではなくて、われわれの自由を制限することになる存在を〈生み出す〉ために、われわれの自由が制限されるのである。そしてその存在の産出を実際に行なうかどうかを、われわれが自由意志で決定することができるという点に、独自の難しさが潜んでいるのである。
 産出の義務という義務の形式は、納税の義務という義務の形式とは根本的に異なる面を持っている。ここにおいて、われわれは、「そもそも個人にとって、他の個人という存在の産出とはいったい何なのか」という根本問題に直面する。またこの産出によって、産む者と生まれる者とのあいだの類的同一性が保持されていることが前提であるとするならば、そこにおいては「個人を超えるものの自己産出」という事態が生じているのではないかという視点も成り立つ。これらの根本問題を本論文で正面から扱うことはできないが、この地点から「産出の哲学」が始まらなければならないことをここで指摘し、それを近い将来の検討課題とすることをここで確認しておきたい。

4 産みたい女性がいる場合

 ここまでの思考実験は、すべての女性が産まない選択をするという極端な前提のうえでなされてきた。では、その前提を緩めたとしたらどうなるのかを考えてみたい。
 新たな前提は、「女性たちは個人的な選択として、産む選択をすることもあるし、産まない選択をすることもあるが、産む選択をする女性と産まない選択をする女性の割合にはあらゆる可能性がある」というものである。あらゆる可能性というのは、産む選択をする女性と産まない選択をする女性の割合が半々になることもあるし、地球上の1人の女性のみが産む選択をして、残りすべての女性が産まない選択をすることもある、ということである。それらの選択は、最終的には選択する女性の個人的な決断によってなされるものと仮定する。
 このとき、(1)と(2)は、それぞれ、どのような考え方を取ることになるだろうか。(1)は、産むにせよ産まないにせよ、女性の選択を最大限に尊重しようというものであった。そしてそのためならば、たとえ人類が「穏やかな自己消去」を迎えようともそれを引き受けるのであった。この立場に立てば、すでに述べたように、すべての女性が産まない選択をしたときであっても、それを最大限に尊重しながら、人類を徐々に「穏やかな自己消去」に向かわせるという道筋を取ることができるのであるから、基本的には何も問題点はないのである。実際問題としては、すべての女性が産まない選択をする可能性はかぎりなく低いし、産まない選択をする女性が全女性の90%を超えるということもほぼないと思われる。ほとんどのケースにおいては、産む選択をする女性をサポートしていくだけで、社会システムを根本的に崩壊させない程度の出生数は見込めるであろうから、(1)の立場の人々は、産みたい女性をきちんとサポートしていけば、人類の持続的な維持か、あるいは人類の「穏やかな自己消去」を導くことができるということになるだろう。(1)の立場というのは、産みたい女性たちを抑圧してまでも人類を「穏やかに自己消去」させたいという考え方ではないのだから、人類がたまたま結果的に持続的に維持されたとしても、それはそれでなんの問題もないのである。(もし産みたい女性を抑圧してまでも人類を「穏やかに自己消去」させたいという考え方を取るのならば、それはまた別種の立場・思想だということになる)。
 これに対して、(2)の立場においては、人類が持続的に維持されることが最大の目標として設定される。産まない選択をする女性と、産む選択をする女性がいるとすれば、産む選択をする女性をサポートすることによって、将来世代の出生数を、人類の持続的な維持が可能な水準にたえず保っておかなくてはならない。これは、(1)の立場よりも、大きな努力が必要とされるということである。将来、地球人口の減少期に入れば、この努力は現実的な政策課題となるだろう。先に述べたような様々なインセンティブ等が必要となるだろうし、産みたくない女性やカップルに対して産みたい欲望を植え付けるような大がかりな洗脳がなされるであろうし、その先には、強制力の行使すらあり得るかもしれない。
 ただそこまで考えなくても、人類が持続的に維持されるための人口の規模を現状よりもかなり少なく設定することによって、いくつかの問題は解決されるであろう。人口のピークがゆるやかに減っていき、社会システムの規模も削減され、たとえば現在の100分の1、すなわち数千万人のレベルで地球人口が定常化するということも考えられる。そうなれば、産まない女性が多く現われたり、一人しか産まない女性が多く現われたりしたとしても、産みたい女性や、多くの子どもを産みたい女性とそれをサポートする男性によって形成されたグループが出現すれば(たとえば宗教的な理由によって)、彼らの貢献によって出生数の減少は簡単に補われる可能性がある。すなわち、将来世代をたくさん産みたいという強い意志をもったグループが現われさえすれば、地球人口の減少はそのグループの集団人数のレベルにまで減少した時点でストップすることになる。そして地球人口はその集団の成員によって置き換えられていくのである。であるから、将来世代をたくさん産みたいという強い意志をもったグループが今後も途絶えることなく現われ続けるだろうという予測ができるのならば、(2)の立場は、人類の持続的な維持に関しては、若干楽観的な将来像をもつことができるのである。
 しかしそれでもなお、人類を持続的に維持していくためには、人口の推移予測に基づいたうえでの「将来世代産出義務」の適正な配分を考えておかなければならないはずだ。将来世代を産出する義務は、単に妊娠・出産の義務だけではない。将来世代が継続的に産出されていくためには、社会全体に将来世代育成力が備わっていなくてはならない。すなわち、将来世代を産出する義務としては、精子の提供義務、妊娠・出産の義務、育児の義務に加えて、生まれた子どもが再生産可能な年齢にまで無事育つために必要となる教育・医療・家庭・文化環境・安全な社会環境などを提供し続けていく義務が含まれるのである。将来世代を産出する義務とは、これらが複合したものである。したがって、その義務を果たすためには、多種多様な人々がそれらの義務のいずれかにきちんとコミットすればいい、ということになる。男性は妊娠・出産に直接関わることはできないから、それ以外のコミットメントをするしかないし、子産みに直接関わることをしない女性は、子育てを支援する社会環境の維持にコミットすることになるだろう[55]。したがって、将来世代を産出する義務を果たすとは、これらの複合的な義務に、すべての人々がバランス良くコミットする義務であるということになる。このようなバランスの良い義務の配分を、強制力を持った持続的な政策として行なうことが求められる。
 と同時に、これらの義務のなかで、やはり決定的な重さを持つのは、女性が妊娠・出産する義務である。精子を提供したい男性が確保され、子どもを育てるための社会的基盤が豊かに確保されたとしても、女性が妊娠・出産に積極的にならなければ、将来世代は再生産されていかないからである。これは、社会基盤が整備され、物質的に豊かになった社会において、かならずしも出生率が上昇しないということからも推察されることである。決定的な鍵は、やはり、女性の産む産まないの選択にあるということができる。
 であるから、(2)の立場の場合、もし産まない選択をする女性の数が多くなりすぎて、人類の持続的な維持のために必要な出生数を確保できない状況になったとしたならば、女性たちに強力なインセンティブを与えて産む方向に刺激するか、それでも効果がないときには、女性の産まない選択に強制的な制限をかけて、医学的に産むことが可能な女性たちの一定割合に対して産む義務を割り当てるということを行なわざるを得ないということになるだろう。そのためには、産むことを選択する女性たちと、後方支援する女性および男性とのあいだで、義務の再配分を行なうことが必要になる。そのような可能性が社会的にあらかじめ承認されているときにはじめて、「産む産まないは女が決める」という個人主義は、(2)の立場においても、初発の権利として尊重されることになるはずだ。
 すなわち、「産む産まないは女が決める」という女性の権利は、初発の権利として尊重されるが、それは同時に「産む産まないに関するわれわれの個人的な選択の集積が、人類の持続的な維持を満たすに足りるか」という検定に絶えずさらされる必要があり、もしその要求を満たさないようであれば、その初発の権利は棄却され、われわれは産む産まないに関する義務の再配分を社会の中で設定し直さなくてはならない、ということなのである。もし人類の持続的な維持ということを最重要課題として設定するならば、このような帰結が導かれざるを得ないように私には思われる。
 ところで、このような方式は、一般的に家系・血脈の保持を最重要課題と考える人々のあいだで、伝統的に行なわれてきたものに似ている。伝統的には、家系・血脈を持続的に維持するためであれば、女性は子産みのための道具として扱われても仕方がないのであった。女性が男性と対等な人権を持たなかった時代状況があるという点は異なるが、家系・血脈の持続的な維持のために女性の産まない選択に制限がかけられるという点は、共通していると言える。ここで議論した(2)の立場は、この伝統的な家系・血脈の保持の方式を、近代化した上で地球人類レベルに適用したものだと見ることもできるだろう。人類は持続的に維持されなければならないとする考え方は、ここにおいて、家系・血脈保持の伝統主義と接続するのである。
 と同時に、次のことをもまた指摘しておかなくてはならない。ここで行なった(2)の議論をそのまま国家・民族などの枠に直接適用して、国家・民族の持続的な維持のためには、女性の産まないという選択に制限がかけられなくてはならないと主張することは可能である。日本社会の少子化を憂う論者ならば、そのように主張したい気持ちになるだろう。しかしながら、本論文で行なった(2)の立場は、そのような国家・民族の持続的な維持を目標とするようなものではないということに注意を払う必要がある。本論文で行なった(2)の立場に立つならば、たとえば日本という「国家」や日本人という「民族」が段階的に縮小され、やがて滅亡していったとしても、そのかわりに他の「国家」や「民族」に属する(あるいはどこにも属さない)人々の人口が増えて、全体として地球人類が持続的に維持されるのであれば、そこには何の問題もないということになるのである。従って、(2)の立場は、ナショナリズムやエスノセントリズムからは、まったく袂を別つのである。(2)の立場はまさに人類中心主義であり、人類サバイバル至上主義なのであり、それを達成するためであれば、特定の国家や民族や血脈が絶たれようが、いっさい意に関しないのである。したがって、(2)の主張が、ナショナリズムやエスノセントリズムの立場を支持するものとして解釈されるようなことがあったり、あるいはナショナリストたちが(2)の立場をあたかも自分たちを支持するセオリーであるかのように言うことがあったときには、(2)の立場に立つ人はそれを断固として批判しなければならないのである。

5 二つの立場の融和は可能か

 ここまで見たように、(1)の立場と(2)の立場のあいだには、人類の持続的な維持をめぐって、根本的な価値観の相違がある。この溝を埋め、この二つの立場を融和していくことは可能なのだろうか。それを探るために、それぞれに対する根本的な問いを投げかけ、それにどのように応じることができるのかを考えてみたい。
 まず(1)に対してであるが、(1)は、女性の産む産まないの選択を尊重するためならば、たとえ人類が滅亡しても仕方がないという立場である。ここで女性が焦点化されているのは、妊娠・出産が女性にしかできないからである。したがって(1)に対しては、産む産まないに関する女性個人の選択のほうが、なぜ人類のサバイバルよりも大きな価値を持つと言えるのか、という問いを投げかけてみる必要がある。
 それに対しては、妊娠・出産という出来事は、女性個人の身体の内部で生じることであり、女性の身体内部で生じることに関しては、当の女性個人がすべてのコントロール権を保持しているべきであるという答え方があり得る。そしてたとえそのコントロール権の行使の集積が人類の滅亡を導くとしても、女性の自己身体のコントロール権は否定されるべきではないのである。ではなぜ、滅亡というような過酷な状況が到来するにもかかわらず、そのコントロール権は否定されてはならないのであろうか。
 その問いに対しては、「女性は、自己支配権が及ぶべき範囲のことについて、他者からの介入を受けずにコントロールを完遂することによってはじめて、自分の人生の主催者となって生きることができるのであり、そして自己の身体というのは、まさに自己支配権によって統帥されるべきものであるからだ」、と答えることになるのである。
 では、たとえそれによって人類が滅亡することになってもよいのか、という問いに対しては、そもそも人間にとっては、個人の幸福追求がもっとも大事なことであり、人類という抽象的な存在者の持続にそこまでの価値はないと答えることになるだろう。喜びや、悲しみや、達成感、幸福感などを現に味わいながら生きている主体は人間個人であって、けっして人類などという抽象物ではない。人間個人の人生こそが、すべての初発点であり、帰結点である。いまここで様々な経験を行ないながら生きている人間個人がもっとも大切な存在者であり、それに比べれば、人類は二次的な存在にしかすぎないのであり、個人の幸福追求を完遂することによって人類が滅亡するのであれば、それは引き受けるべきである。
 もちろん個人の幸福追求には様々な形があり、産むことの選択による幸福追求もあり得る。多くの女性がそのような幸福追求を行なうのであれば、人類は持続的に維持されていくわけであるから、そこに何の問題も生じない。もしほとんどの女性が産まない選択による幸福追求を行なうのであれば、人類は滅亡の危機に瀕するが、人類よりも個人の人生のほうが大切であるのだからそれは仕方がないことである、というわけである。非常にストレートな個人主義の思想であると言える。
 このような個人主義の立場からすれば、(2)の立場に対しては、「そもそもどうして人類は持続的に維持されなくてはならないのか」という問いが発せられることになるだろう。これに対して、(2)はどのように答えるのであろうか。
 第1は、性生殖する生物としての本質を持ち出してきて答えるやり方である。人間などの高等生物は、生物個体は死滅するかわりに、性生殖によって将来世代を産出し、種をサバイバルさせるという生存方法を選び取ってきた。人間もまたこのような生物としての本質によって規定されており、将来世代の再生産によって種が生き延びていくことを前提として、人間個体は設計されている。人間存在は、このような生物学的な仕組みにどうしようもなく縛られてしまっている。そのような仕組みに縛られた存在からは、「人類は持続的に維持されなくてはならない」という答え以外のものは出てこない。「個体は死んでも、再生産によって種は生き延びていく」という生物の本質を離れたところでは、いかなる個人の幸福追求も空しいのである、と。
 第2は、人類という類的な存在のほうが、それを単に構成するところの人間個体よりも上位の価値を持つという答え方である。人間個体は有限な存在であって、いずれは死ななくてはならない。しかしながら、その有限な存在が再生産を繰り返していくことによって、その有限性は未来に向かって克服され、開かれていく。その克服の運動によって、人類という類的な存在が成立する。自己意識を持つとか、理性を持つというのは、人類が類として持っている属性である。個々の人間個体はそれらを分有して、ある有限な期間この世に存在するだけであって、真に本質的な存在は人類という類的存在のほうである。であるから、人類が持続的に維持されることこそが、もっとも大事なことだと言える、と。これは第一で述べた生物学的な説明を、哲学的な言葉で語り直したものだとも言える。
 第3は、これまで何十万年以上も連綿と続いてきた人類の生命の連鎖には、何によっても代え難い尊い価値があるから、それをいまここで断ち切ることは許されるべきではないとする答え方である。ちょうど、何千年以上も維持されてきた屋久島の原生林には、何によっても代え難い価値があるから、それを破壊してはならないということが自然保護の場面で言われるが、それと同じような尊さを人類の生命の連鎖に見ようとするのである。どんな苦難があろうと、いくらきびしい困難に直面しようと、はるか昔からいままで人間の生命は代々受け継がれてきたのだから、それをいまここで個人のエゴによって断ち切るというのはわれわれの祖先たちに対する冒涜ではないか、というのである。
 第4は、これまで長い時間をかけて先人たちが作り上げてきた文化遺産や、言語情報や、都市環境などを、次の世代に受け渡していくことこそが人間の使命ではないかという答え方である。人類がいま滅亡してしまえば、長い時間をかけて積み上げられてきたそれらの貴重な遺産は、すべて失われてしまう。現代人の都合によってそれらを消滅させてしまうのは、これまでそれらを受け渡してきてくれた先人に対する冒涜ではないか、というのである。
 第5は、はるか昔から連綿と続いてきて、これからも連綿と続いていく人類の生命の流れのなかに組み込まれることによってはじめて、人間個体は生きる意味を見出すことができるからだ、という答え方である。子どもを産むことによってその連鎖に組み込まれるということもあるだろうし、子どもの成育をサポートすることによってその連鎖に組み込まれることもあるだろうし、人間の社会や文化や歴史の中に何かを刻み込むことによってその連鎖に組み込まれることもあるだろう。人間個体が、この世で生きた証を得るためには、連綿と続いていく人類の生命の流れの中にみずからを何かの形で刻み込むことが必要である。それを可能にするためにも、人類はこれからも連綿と続いていかなければならないのである、と。
 これらのうち、第2の説明は、人間個人を超えた価値を持つ実体を持ち出してくるものであり、第3と第4は、人間個人を超えているかどうかは分からないが、それに匹敵する価値を持つ何ものかが導入されていると言える。ヨーナスの立場は第2の説明の一種である。第1章で触れたアーペルの立場は、このいずれにも属さない独自のもののように思われる。
 これら5つの答えに対して、(1)の立場からはそれぞれについて反論があるだろう。まず、上位の価値実体を立てる考え方や、生物学的な決定論の考え方は、(1)を説得することはできないと思われる。また、「これまで連綿と受け継がれてきたものを、これからも連綿と受け継いでいくことこそが、いまを生きる人間個体に課せられた義務である」という考え方や、「人類の連綿たる流れに組み込まれることによって、人間個体は自己充足し、幸福追求でき、生きる意味を見出すことができる」という考え方もまた、(1)を説得するには不十分であるように思われる。なぜなら、人間は、人類の連綿たる流れとは無関係に、いまここでの自分自身の人生目標を達成することによって自己充足し、幸福追求し、生きる意味を見出すこともできるはずであるし、これまで連綿と受け継がれてきたものを、いまここで丁重に埋葬することによってそれらに幸福なピリオドを付与することもできるはずだからである。
 しかし逆に、(2)の立場の人々もまた、(1)の個人主義に対しては反論があるだろう。(1)は、人間個人の人生こそが、すべての初発点であり、帰結点であると言うが、人間はロビンソン・クルーソーのように、孤島で存在しているわけではない。人間が個人の人生で充足感を得たり、幸福追求を行なうためには、それはこれまでの人類が営々と積み重ねてきた歴史や、文化や、社会環境や、周囲の親しい人々などとの関連においてしかあり得ないのであり、また、自分がこの世に生きた証が何かの形で将来の人間たちに向かって開かれていく予感がないかぎり、この世での個人の人生の幸福などあり得ないのであると反論するだろう。それに対して(1)は、個人の幸福追求が人類のこれまでの営為や周囲の人々との関係性と無関係にあり得ないのはその通りであると認めたうえで、しかし、自分が生きた証が将来の世代の人間たちに伝わっていくことが幸福の条件となるという考え方には同意しないであろう。人類の先祖たちが作り上げてきたものや、自分たちが生きてきた証を、ぜんぶまとめてゆっくりと丁重に埋葬することによって、それらに最後の安らぎの場を与えるという結末があり得るはずだ、と言うだろう。さらに言えば、これまでの進化の歴史を見てみるに、いままで存在していたほとんどすべての生物種は、絶滅している。その歴史を重く見るとするならば、今後数億年のうちに、現生人類は絶滅すると予想するのが理にかなっている。だとしたら、人類を持続的に維持していくことを最大目標とする思想は、いつの日か決定的に敗北するしかないことになる。もし人類がいつの日か絶滅するのならば、その絶滅を敗北とするのではないような、人類終結のあり方がなくてはならないはずである。そのあり方は、(2)の立場からはけっして出てこない。
 このように、議論は錯綜していくことになる。しかしながら、全体として見たときには、(2)の根本にあるところの、「人類は持続的に維持されなくてはならない」という考え方には決定的な根拠がないと私には思われる。また、すでに述べたが、「われわれには将来世代を産出し続ける絶対的な義務がある」という考え方にも決定的な根拠がないと思われる。
 おそらく、(2)の立場を(1)の立場の人々にも受け入れられるように言い直すとするならば、「人類が持続的に維持されてほしいという願いが、われわれには存在する」ということになるのではないだろうか。そのような希望や願望や欲望が人々のあいだに存在するということであれば、(1)の立場の人々も、それを否定したりはしないはずだ。そして(2)の立場をもう一歩踏み込んで表現するとすれば、それは、「人類が持続的に維持されてほしいという願いを実現するために、われわれは行動をしたほうがいいのではないか」ということになる。これに対して、(1)の立場からは、「その行動が、産む産まないに関する女性の選択を侵害しないかぎりにおいて」賛同する、という答えが返ってくることになると思われる。すでに述べたが、(1)の人々は、人類の「穏やかな自己消去」と丁重な埋葬を積極的に求めるような「死に憑かれた人々」ではない。個人の権利を侵害しないかぎりにおいて、人類が持続的に維持されることや、そのために人々が行動することを(1)の立場は否定しないし、むしろそれを支持するであろう。
 であるから、プラグマティックな次元においては、その線で(1)と(2)の融合・妥協が成立することは、充分にあり得る話である。ただし、理論的な次元においては、これまで述べたところの対立は、まったくもって解消されていない。

6 おわりに

 では本章の執筆者である森岡の個人的な立場はどうかと言うと、私自身は(1)の立場に近い。人類は持続的に維持されるべきであるという説得的な根拠を、私は見出すことができないからである。しかし同時に、人類は持続的に維持されるべきであるという(2)の立場に論理的矛盾があるとは考えないし、その立場を取ることが決定的に間違っているとも考えない。(1)と(2)は形而上学の違いであって、それらを基礎づける根拠はないとするヨーナスの考え方を、私も共有していることになる。そのうえでヨーナスは(2)の立場を取り、私は(1)の立場を取るということである。
 もちろん私も、人類は持続的に維持されていってほしいという希望を持っているし、そのためにできることがあればしたいと考えている。長い歴史の中で人類が培ってきたものは、将来世代に受け渡していきたいと願っている。しかしながら、それを受け取る将来世代を持続的に産出していくべきであるという根拠は、どこにも見出せないのである。したがって、私は「産む産まないは女が決める」というフェミニズムの主張を、その当初の文脈を離れて拡張しても良いと考えているのである。そして、人類の穏やかな自己消去についても、まじめに検討しておいたほうがよいと考えているのである。
 この考え方は、「生命の哲学」という言葉によってイメージされるものからは、かけ離れているかもしれない。生命が次々と生命を生み出すことを称揚する生命主義を読者がイメージしていたとすれば、読者は上記を読んで驚きに襲われるだろう。だが、「生命の哲学」というのは思索や言説の枠組みのことであり、何かひとつの固定した立場を示すものではない。「生命の哲学」は様々な思索や立場を許容しなければならない。違和感を持つ読者は、ぜひ、上記とは異なった立場から「生命の哲学」を展開していってほしい。
 ここで第1章の吉本の記述を参照しながら、将来世代を産出すべきであるとするヨーナスの議論と、アーペルの議論を振り返り、それらが私の立場である(1)の主張を覆すことができるかどうかについて考えてみたい。
 ヨーナスは、将来世代産出義務について、存在論的根拠づけと、自然哲学に基づく根拠づけを行なった。
まず存在論的根拠づけは、世界における人間の現前の善さを前提したうえで、それを世界における責任の現前の善さとしてとらえ返し、人間は、責任それ自体に対する存在論的な責任があるので、将来にわたって存在し続けなくてはならないとするものである。だがこれはヨーナス自身が述べているように、ひとつの公理の提案以上でも以下でもなく、その公理を採用しない立場を論駁するものではない。
 次に自然哲学に基づく根拠づけはどうだろうか。
 ヨーナスによれば、人類が地上に出現したことそれ自体が、自然の目的のひとつである。人類は自然によって、ある目的をもって生み出されたものである。であるから、自然の目的、すなわち人類の存在に対して、その部分を成すある世代の人類が反対の意志表明をすることは許されない。しかしながら、ヨーナスが依拠しているところの生物進化の歴史によれば、生物の進化の流れの中で、ある段階の最先端を形成していた生物種(それはそれ以前の生物種にはなかった特徴を生命にもたらしたのであるが)のほとんどすべては、その後の歴史において絶滅したか、衰退した形の種へと変異していった。それらの多くは、今日では化石としてのみ残されている。ヨーナス的に考えるならば、もし人間が絶滅するとしたら、それは人間が必死で将来世代を産出しようとがんばっていたにもかかわらず、人間の力を超えるような環境の大変動などが起きたために、それに負けてやむなく滅んでしまった、という形しかあってはならないのだ、ということになるだろう。
 しかしながら、生物進化の途上で生み出された新たな特徴は、それを担う生物種とともに存在し続けなくてはならないという命法が、単なるひとつの公理の提唱を超えて、およそすべての議論に適用されるべき普遍妥当性を持っているということが果たして言えるのだろうか。人類が、みずからに与えられた自由意志でもって、みずからの死に時を決断して実行していく、ということをしてはならないという普遍妥当的な根拠をヨーナスが提出できているとは、私には考えられない。ヨーナスの自然哲学の枠組み全体を共有しない者にとっては、その命法の絶対性は感受できないのである。
 アーペルは、人間は、何事かを発話するときにすでにコミュニケーション共同体を前提としているとする。そのコミュニケーション共同体は、現在に存在する共同体のみならず、将来に存在するであろう共同体をも含意しているのである。したがって、われわれが発話を行なうと同時に、将来のコミュニケーション共同体の存在を否定するということをしたとすれば、それは遂行論的矛盾を含んでしまうことになる。したがって、われわれは将来のコミュニケーション共同体の存在を肯定し、それを産出する義務を負っているというのである。
 しかしながら、アーペルの議論が成功しているとは考えられない。なぜなら、われわれが発話をするときに、将来のコミュニケーション共同体の存在を前提しているからといって、その共同体が将来に実際に存在しなければならないということには必ずしもならないからである。この方式の証明は、神の存在証明と同型の難点を含んでいる。神の存在証明のひとつの形は、神はその本質として存在を含んでいるから、現に存在しなくてはならないというものであるが、これに対しては、存在を本質として含んでいるものがなぜ「現に存在」しなければならないのか、という反問が成立してしまうのである。アーペルの議論はこれと同型である。われわれが将来のコミュニケーション共同体の存在を「発話上」前提しているとしても、なぜそこから将来のコミュニケーション共同体が将来「実際に存在」しなければならないということが導かれるのかが、証明できないのである。
 将来のコミュニケーション共同体の存在を「発話上」前提している者たちが、互いに討議倫理的コミュニケーションを取り合いながら、その発話上の前提となるものを、まさに共同で自己消去していくという営みがあったとして、そこには何の遂行論的矛盾もない。「将来世代はないほうがいいよね」とお互いに絶えず確認し合いながら、全員で子どもを作らず、互いにケアし合いながらみんなで死んでいくという営みのどこに遂行論的矛盾があるのだろうか。アーペルによる議論もまた、(1)の立場を突き崩すことはできない。
 さて、ここまでの思考実験において、いくつかのことが明らかになったが、まだ未解決の論点がたくさん残されたままである。本文中で示唆された論点や、そこから派生する論点については、これから研究を進めなくてはならない。今回は、「将来世代を産出すべきか」という問いがもたらすところの、哲学的問題の輪郭を一気に切り取ろうとしたため、非常に荒削りの論考になってしまったことを私は自覚している。これはこの問題に取り組む第一稿であるから、今後読者からの批判を受け止めながら、再度全体を考え直していきたいと思っている。また、この問題を解明するときに必要な、社会的・経済的・政治的条件の側面からの考察を含めることができなかった点も自覚している。また、この問題についての女性学からの研究の蓄積を吟味することもできなかった。これらについては、本論文を再考していくときに、取り込んでいく予定である。本論文において私が執拗に追い求めたのは、「産出」という次元において、人間個人と人類とがどのように関係するのかという論点である。それを「生命の哲学」のひとつの課題として浮かび上がらせるにはどうしたらいいのかというのが、ここでの私の最大の問題関心であった。そのための序説的な作業を行なうことはできたと思うが、今後に残された課題の大きさに茫然とするばかりである[56]。

 

*大阪府立大学人間社会学部人間科学科 morioka[at]hs.osakafu-u.ac.jp
**大阪府立大学大学院人間文化学研究科博士後期課程(比較文化専攻)zuschauer[at]live.jp

[1] Hans Jonas, Das Prinzip Verantwortung--Versuch einer Ethik fuer die technologische Zivilisation, Suhrkamp Verlag, Frankfurt am Main, 1984(初版1979年).
加藤尚武監訳、『責任という原理』、東新堂、2000年。以下PVと略記し、原文のページ数を「S.」邦訳のページ数を「頁」で併記する。
[2] PV, S.174, 164頁。
[3] Ibid. S.175, 165頁。
[4] Ibid. S.86、邦訳71頁(〔 〕内は引用者による補足)。
[5] Ibid. S.91, 76頁。なお原文では「人間だけが問題となっているかぎり」という限定が付せられている。
[6] Ibid. S.91、邦訳pp.76-77(下線部は原文ではイタリック体)。
[7] 同様の理屈によって、ヨーナスは世界は存在しなければならないか否かという問題は、世界の創造者についての主張から完全に切り離すことができる、と言う。なぜなら、世界の存在が善であることが神が世界を創造した理由であると仮定すれば、世界の存在が善であるがゆえに世界は存在しなければならないというかたちで、神の存在とは独立の問題として世界の存在について考察することができるからである。さらにヨーナスは踏み込んで次のようにも言う。世界が存在するに値すると認めることが、神というものを推論する一つの動機となるのだ、と。このような議論は明らかにグノーシス主義との批判的な対決から出てきたものである。Vgl. ibid. S.98-99, 84頁。
[8] Vgl. ibid. S.153, 141頁。
[9] Hans Jonas, Zur ontologischen Grundlegung einer Zukunftsethik,
Philosophische Untersuchungen und Metaphysische Vermutungen, Insel Verlag,
Frankfurt am Main und Leipzig, 1992. 以下PUMVと略記する。
[10] この段落の記述については、Vgl. PUMV, S.127-128.
[11] Vgl. Ibid. S.129.
[12] Ibid. S.140(下線部は原文ではイタリック体).
[13] Vgl. PV, S.160, 151頁。
[14] Vgl. PUMV, S.135-136.
[15] この点については次節でふれる。
[16] Ibid. S.137(下線部は原文ではイタリック体).
[17] Hans Jonas, Das Prinzip Leben. Ansaetze zu einer philosophischen Biologie, Suhrkamp Taschenbuch Verlag, Frankfurt am Main, 1997(初版はOrganismus und Freiheit. Ansaetze zu einer philosophischen Biologie, Vandenhoeck & Ruprecht, Goettingen,
1973). 細見和之、吉本陵訳、『生命の哲学』、法政大学出版局、2008年。
以下PLと略記し、原文のページ数を「S.」邦訳のページ数を「頁」で併記する。PL, S.9, C頁。
[18] Vgl. ibid. S.23-49, 12-42頁、S.343-372, 377-411頁。
[19] Ibid. S.36, 27頁。
[20] 拙稿「ハンス・ヨーナスの生命の哲学」(「生命の哲学の構築に向けて(1)基本概念、ベルクソン、ヨーナス」の第三章)、『人間科学』(大阪府立大学紀要)、2008年、52-68頁。
[21] PL, S.18, 6頁。
[22] PV, S.142-143, 129頁(下線部は原文ではイタリック体)。
[23] ここには自然は――近代の通念に反して――目的概念とは異質ではないという自然理解が表現されている。この点については拙稿「ハンス・ヨナスの責任倫理学について――『責任という原理』とその背景」、『人間文科学研究集録』、2004年、91-110頁で論じた。とりわけ105-109頁参照。
[24] Vgl. PV, S.147, 133頁参照。
[25] Ibid. S.149, 134頁(〔 〕内は引用者による補足)。
[26] Karl-Otto Apel, Verantwortung heute -nur noch Prinzip der Bewahrung und Selbstbeschraenkung oder immer noch der Befreiung und Verwirklichung von Humanitaet?, Zukunftsethik und Industriegesellschaft, J. Schweitzer Verlag KG, Muenchen, 1986, S.16.
[27] Ibid. S.26.
ただしアーペルはヨーナスとは異なり、責任のモデルは非相互的な関係から生じるものではないと考えており、この点で両者の責任概念は大きく異なっている。両者の対立については次節で考察する。
[28] Vgl. ibid. S.16-17.
[29] Vgl. ibid. S.23-24.
[30] Vgl. ibid. S.25.
[31] Vgl. ibid. S.25.
[32] Ibid. S.20.
[33] この段落の以下の記述については、Vgl. ibid. S.26ff.
また、討議倫理学の超越論的遂行論的(transzendental-pragmatisch)な基礎づけをより詳細に論じたものとしては、舟場保之訳、「責任倫理(学)としての討議倫理(学)――カント倫理学のポスト形而上学的変換」、『カント・現代の論争に生きる 下』、理想社、2000年、pp.127-164を挙げることができる。
[34] Apel, Verantwortung heute, S.29 (下線部は原文ではイタリック体。〔〕内は引用者による補足).
[35] Ibid. S.25.
[36] Ibid. S.26
[37] 品川哲彦、『正義と境を接するもの』、ナカニシヤ出版、2007年。第一部においてヨーナスの責任倫理学が主題として取り上げられているので、本稿では第一部の議論について言及する。なおこの著作では「ヨナス」という表記が用いられている。
[38] 同書、280頁。
[39] 同書、98‐102頁参照。これらのうち@については、品川自身も正当にも述べているように、ヨーナスの基礎づけは「直観主義的基礎づけ」に依拠しているわけではない。ヨーナスが挙げる「赤子に対する責任」は責任の範例を挙げているのであって、責任を基礎づけているというよりは、責任の感情Verantwortungsgefuehl(責任感)の存在を教えてくれるものだと理解すべきだろう。Aは本稿の2−2−2での議論に該当し、Bは本稿の2−2−1の議論に該当する。本稿では『責任という原理』を含む「哲学的探求philosophische Untersuchungen」の議論に限定したので、「形而上学的推測Metaphysische Vermutungen」の議論を取り扱うことはできなかったが、Cは「形而上学的推測」の議論に該当する。
[40] 同書、111頁-112頁参照。
[41] 同書、43頁および100頁参照。
[42] 同書、43頁(下線部は原文では傍点がふられている)。
[43] 本稿3−1でふれたBの論点を指す。
[44] 同書、134-135頁参照。
[45] ここで品川の提示する遂行論的基礎づけに対する論者自身の見解を二点記しておきたい。
まず「人類全体をひとりの判断主体として考える」ということは何を意味しているのかということが問題になると考えられる。というのも、ヨーナスの責任倫理学が提示されたそもそもの出発点は、現在世代が未来世代に対して行使しうる力が圧倒的なものとなってしまい、その結果現在世代と未来世代との間にある力の格差が目に余る仕方で露わになったということにあったからである。その意味では責任倫理学は、まさしく「人類全体をひとりの判断主体」としては設定できないような状況において構想されたものだといえる。もちろんアーペル的な討議倫理学においては人類全体をひとりの理性的存在者としての判断主体として想定することは可能であろうが、ヨーナスの責任倫理学はそのような想定をすることによって見落とされるもの、すなわち現在と未来の非相互性をこそ問題として捉えようとするものだったのではないだろうか。もしそうだとするならば、ヨーナスの問題系においては「人類をひとりの判断主体として考える」ということは不可能だということになるのではないだろうか。
次に指摘しておきたいのは「動機づけ」の問題である。ヨーナスは倫理学の理論は、客観的な側面すなわち理性に関わる部分と、主観的な側面すなわち感情に関わる部分の両者を備えている(べきな)のだが、多くの場合前者の側面が中心的な主題となっていると指摘し、後者の側面の重要性を特に強調している。「いずれにせよ、抽象的な裁可と具体的な動機づけとの間の溝は感情の弓によって橋渡しされなければならない」(PV, S.164, 154頁)。ヨーナスの存在論的な基礎づけは、対象の善さを認めることによって、対象の善さから責任の感情(責任感)が触発され、倫理的主体が行為へと動機づけられることを可能にする−−もちろんその代償として悪評の高い形而上学に依拠することになるのではあるが。しかしながらこの基礎づけを廃し、発話と行為の論理的な自己矛盾に訴える遂行論的基礎づけに代えたとき、「動機づけ」の問題の重要性が見えにくくなるきらいがないであろうか。アーペルの基礎づけは「合理的な」基礎づけであるとされるが、それはまさしく倫理理論の客観的な側面、すなわち理性に関わる部分を重視した表現であり、主観的な側面、すなわち感情に関わる部分については等閑視されているとは言えないだろうか。そして同様のことが品川の遂行論的基礎づけに対しても言いうるのではないだろうか。
[46] 本稿ではこの点については詳論できないが、簡単に素描すると以下のようになる。一方では責任は「非相互的な関係(未来世代や自然との関係)」を基礎において倫理を構想しているのに対し、正義は「自律した個人の相互的で対等な関係」を基礎において倫理を構想しているという点で、両者は互いに異質な原理を根底に据えている。しかしながら他方では「未来世代」に対しては「人間」、自然に対しては「生き物」をキーワードとしてそれらとの「非相互的な関係」はある種の共通性の土台におかれ、その上で「責任」はその共通性に基づく「共感」へと変換され「正義論」の中に回収される傾向をも併せもっている、というのである。このような両義性ないし両面性に対して「境を接する」という表現が与えられていたのである。
[47] 「倫理の<超越論的>基礎づけというこうした発想は、<方法的独我論>という前提の下では不可能であった。つまりその発想は、<思惟アプリオリ>の有する、言語に関係づけられた<コミュニケーション構造>ないし<討議構造>が知られていないかぎり、不可能だったわけである。」カール=オットー・アーペル、「科学時代における責任倫理の合理的基礎づけ」(丸山高司、北尾宏之訳)、『思想』、1986年、739号所収、58頁。
[48] ただし「人格をたんに手段としてだけでなく、同時に目的でもあるように扱え」という格律には実質的なものが含まれていることはヨーナスも認める。ただしこの格律は定言命法からは導き出されず事後的につけ加えられたものだとヨーナスは言うのである。Vgl.
PV, S.169, 160頁。ヨーナスのカント批判は『責任という原理』においては、S.35-38, 21-24頁、S.167-170,
158-160頁、S.230-231, 218-220頁などで見られる。
[49] Vgl. Apel, Verantwortung heute, S.25.
[50] Vgl. PL, S.9, C頁。
[51] アーペルの盟友ハーバーマスの論文「近代Moderne 未完のプロジェクト」(ユルゲン・ハーバーマス、三島憲一編訳、『近代 未完のプロジェクト』、岩波現代文庫、2000年所収)の表現。ハーバーマスはこの論文の中でヨーナスを「老年保守派」として挙げている(同書、41頁)。なおハーバーマスは、徳性(アレテー)や判断力(フロネーシス)を重視し、個人の契約関係を核とする近代市民社会に共同体主義的な社会を対置させるネオ・アリストテリズムも「老年保守派」に数えいれているが、アーペルはヨーナスの哲学とネオ・アリストテリズムとは、後者が「形而上学抜きのプラグマティックなアリストテレス主義」であるがゆえに、別ものであるとしている。Vgl. Apel, Verantwortung heute, S.19-20.
[52]品川哲彦、『正義と境を接するもの』、ナカニシヤ出版、2007年、43頁。
[53] 「産む産まないは女が決める」という考え方については、森岡正博『生命学に何ができるか』(勁草書房、2001年)第3章に詳細な分析がある。日本では1970年代初頭にウーマン・リブによって主張されたものであり、様々な言い方で展開された。英語ではリプロダクティブライツの一部としてそれが提唱されているが、その解釈や、リプロダクティブヘルスとの関連をめぐって錯綜がある。
[54] 正確には、男性たちのほかに、他の性的アイデンティティの人間たちも含めて考えなければならない。であるならば非女性としたほうがよいかもしれないが、しかしそれではマジョリティ権力である男性を不可視化することになりかねない。このような困難があることを自覚しているという点を付記しておきたい。
[55] 原ひろ子は、「種としてのヒトが各社会単位ないしは、種全体として次世代を育てていく能力をどのように確保していくか」という観点から、「次世代育成力」という概念を提唱している。将来世代を産出する義務があるとすれば、それは原の言うような「次世代育成力」と深く関連することになるだろう。原ひろ子「次世代育成力―類としての課題」原ひろ子・舘かおる『母性から次世代育成力へ―産み育てる社会のために』新曜社、1991年、305〜330頁(引用箇所は324頁)。
[56] 本論文に盛り込む予定であったが果たせなかった論点として、「人工子宮が完成した宇宙船状況においてはどのようになるか」「産みたいという欲望の内実はそもそも何なのか」「欲望・願望と義務の違い」「「できちゃった婚」に象徴されるような産出力とは」「個人の存在は持続を内包するのではないか」というものがある。これらについては別の機会に展開することとしたい。