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作成:森岡正博 
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論文

 

『哲学論叢』第41号 京都大学 2014年 pp.13-23
生命の哲学から見た脳死概念の一考察

――大統領レポートと「息」の復権――
森岡正博

 

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1. はじめに

脳死についての世界的な議論は一見収束したかのように見える。日本においても、臓器移植法改正が行なわれて以降、脳死についての議論は決着が付いたかのような様相を見せている。私は日本の臓器移植法改正に学者として深く関与し、脳死の子どもからの臓器摘出を可能にするような改正に反対する論陣を張ったが、それが大きな政治的な流れを変えることはなく、日本の臓器移植法は脳死の子どもからの臓器摘出を可能にする方向へと改正された。私は、2000年以降にはっきりと姿を現わしてきたいわゆる「長期脳死」の現象を重く捉え、脳死の状態にあっても成長を続ける子どもの身体を死体とみなすべきではなく、そこから臓器を摘出することは控えなければならないと主張した。そして人間には「まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利」が存在するという提言を行なった。

本論文は、そのような視点から米国の二つの大統領レポートを再読することによって、何が見えてくるのかを考察するものである。脳死問題は医事法や生命倫理学の視点から議論されることが多かった。それと比較してみれば、脳死問題についての哲学的議論は非常に少ない。特に脳死問題を先導した米国において、脳死の哲学はハンス・ヨーナスによる論文「流れに抗して」以外にさほど見るべきものがない。米国の脳死問題は、主に実務的な法制の次元の問題として議論されてきた。それを牽引したのが、二つの大統領レポートである。第一は、医療および生命医学行動科学研究における倫理的諸問題を検討するための大統領委員会レポート『死を定義する:死の定義における医学的・法的・倫理的諸問題』(1981年 President's Commission (1981)、以降「第1次レポート」と略する)であり、第二は、大統領生命倫理評議会レポート『死の定義における諸論争』(2008年 President's Council (2008)、以降「第2次レポート」と略する)である。

この二つのレポートは、1960年代末から2000年代に至るまでの米国の様々な議論を広範にサーヴェイしたうえで政策提言を行なうものである。その議論の中で、著者たちは脳死の概念について積極的な考察を行なっており、哲学的な領域へと踏み込んでいる箇所もある。本論文では、私がかねてより提唱している「生命の哲学」の視点から、彼らのレポートの議論を捉えなおし、そこにどのような哲学的インプリケーションが含まれているの【13】かを明らかにしたいと思う。

2. 第1次レポートにおける脳死概念

ここで、第1次レポートが刊行された背景について簡単に述べておきたい。1967年に南アフリカで世界初の心臓移植が行なわれた。しかしこの時点では、脳の機能を失った人間から心臓を取り出してよいという社会的コンセンサスは存在せず、世界中で大きな問題となった。これを受けて、1968年に米国のハーバード・メディカルスクールにおいていわゆる「ハーバード基準」が作成された。これが世界最初の脳死判定基準であるとされるが、厳密に言えば、その基準が掲載された論文のタイトル「不可逆的昏睡の定義」に見られるように、ここでは「脳死brain death」のかわりに「不可逆的昏睡irreversible coma」という言葉が使われている。これは、ある人間が昏睡状態にあって、もう二度と元通りには戻らないということを確かめるための基準である。「ハーバード基準」は、「脳死」という言葉を使用することを避け、またそれが人間の死であると明言することも避けたのである。

「ハーバード基準」を受け、米国の各州が続々と脳死法を成立させた。最初の脳死法はカンザス州において1970年に成立した。カンザス州の脳死法は、大枠として次のような構成を取っていた。

人間は、自発呼吸および心臓機能を失ったときに、医学的および法的に死ぬとみなされる。

 あるいは、

人間は、自発的な脳機能を失ったときに、医学的および法的に死ぬとみなされる。死は、呼吸循環機能をサポートする人工的手段が停止される前に、そして移植のために生きた臓器が摘出される前に、宣告されなければならない(森岡による要約。President's Commission, 1981, 62)。

すなわち、脳死を経ずに死亡する場合と、脳死を経て死亡する場合に分けて、人間の死を定義したのである。しかしながら、その二つを「あるいはor」で結ぶカンザス法の形式は、人間の死には2種類あるというメッセージを発することとなった。これは大きな混乱を引き起こしかねないものだったのである。

これに対して、たとえば1974年に成立したカリフォルニア州の脳死法は、カンザス法とは異なり、脳機能の停止によって人間の死を定義した。ただし、従来の手法による死の決定を排除はしないとした。【14】

人間は、脳機能が完全かつ不可逆的に停止したときに死を宣告される(森岡による要約。President's Commission, 1981, 121)。

この他にも、脳幹の機能停止を文言に含ませる州法など、1970年代の米国の各州は、きわめて多様な脳死法を成立させていった。これでは州によって人間の死の法制が異なることになる。この問題を解消するために、連邦政府は「死の定義」を統一する作業を開始し、大統領委員会を立ち上げて死の定義の再検討を指示したのである。

委員会は、人間の死の定義に関する「全脳論the whole brain formulations」「高次脳論the higher brain formulations」「非脳論the non-brain formulations」三つの立場を検討する。

まず「全脳論」であるが、これは今日で言う「全脳死whole brain death」に当たる。すなわち、脳幹をも含む全脳のすべての機能が停止したときに人間は死ぬとするのである。ここで注意すべきは、全脳のすべての「機能functions」が停止することで事足りるのであり、すべての脳細胞の「死滅」が要請されているわけではないという点である。

レポートは以下のように説明する。そもそも生きている生物は、身体に自分自身を組織し調節する能力がある。死んだ生物にはそれがない。人間においては、それらの調節は脳内で行なわれる。人間の生にとって脳は決定的なのである。人間の生と人間の脳の関係は、次のような二側面から捉えられなければならない。第一は、身体の主要な臓器の機能が統合的に編み上げられていることをもって人間の生だとするような見方であるthe integrated functioning of the body's major organ system。第二は、その統合的な編み上げを調節しているものこそが脳であるから、その調節を可能にしている全脳の機能を人間の生の徴表hallmarkとみなすという見方である。この「全身の統合性」と「全脳の機能」の二つは、全脳死の概念を成立させている相補的な二要素であり、互いにミラーイメージであるとレポートは書いている(President's Commission, 1981, 32)。すなわち、全身の統合性があるということは、そこに全脳の機能があるということであり、もし全脳の機能が失われれば、それに伴って全身の統合性もまた失われるということなのである。「全身の統合性」「全脳の機能」という二つの概念、およびそのあいだの相即性という考え方が、第1次レポートの大きな特徴である。

レポートはこの点をさらに敷衍して考察する。まず全身の統合性について言えば、もちろん心臓・肺・脳はそれぞれがかけがえのない臓器であることに違いはないが、しかしながら、「息をすること、鼓動を打つことは、生命それ自体ではないbreathing and heartbeat are not life itself」。呼吸と鼓動は、「脳をその頂点とする互いに関連し合ったシステムの三角形【15】a triangle of interrelated systems with the brain at its apex」を形成しており、より深く複雑なそのリアリティを覗き込むための窓として呼吸と鼓動が用いられるにすぎないのである。伝統的に死の判定に用いられてきた呼吸と鼓動の停止の確認という作業は、実は、この全身の統合性を編み上げる機能が不可逆的に停止してしまったことを確認しているにすぎなかったのである。したがって、「死とは、身体の生理学的システムが統合的な全体性を構築するのを止めるに至ったときのことであるdeath is that moment at which the body's physiological system ceases to constitute an integrated whole」。この考え方によれば、呼吸と鼓動は、死の判定における重要性を減少させることになる。呼吸と鼓動は、人間が生きているための必要条件ではあるが十分条件ではないnecessary but not sufficient。呼吸と鼓動が神経系の統合性neurologic integrationを失ったときに、その人間は死ぬのである(President's Commission, 1981, 33)。レポートはこのように考察するのだが、この最後の2行はいささか曖昧さを残している。全身の統合性の基盤には神経系の統合性すなわち全脳の機能の統合性があるように読める。全身の統合性と全脳の機能のどちらがより基盤的なのか曖昧である。この点の明確化は後の第2次レポートへと引き継がれることになる。ここで注目しておくべきは、第1次レポートにおいて、とくに呼吸が比較的軽いものとして扱われている点である。それは全身の統合性を確認するための徴表にすぎないのであり、それ自身が生命であるわけではないとされている。これが1981年時点における大統領委員会の認識であった。

次に「全脳の機能」の視点からすれば、呼吸と鼓動の停止にはまったく別の意味が付与されることになる。すなわち、呼吸と鼓動の不可逆的停止は全身の統合性が失われた徴表なのではない。そうではなくて、呼吸と鼓動の不可逆的停止は、まさに脳の機能が停止したことの徴表なのである。他のサイン、たとえば外部刺激に反応しないことや瞳孔反射の消失もまた全脳の機能の消失の徴表なのである。すなわち、脳は意識を司っているだけではなく、全身の機能の複雑なオーガナイザーであり調節者なのである。「脳だけが有機体の全体を指揮監督するdirectすることができる。心臓と肺の人工的なサポートは――それは脳がそれらをコントロールできないときにのみ必要とされるのだが――通常脳によって達成されている身体の同時に響き合うような統合化作用the usual synchronized integration of the bodyを、維持することができない」。このような見方からすれば、脳機能の完全な停止を確かめるテストによって人間の死を決定すべきであることになる(President's Commission, 1981, 34)。レポートはこのように言うが、ここでもまた、全脳の機能と身体の統合性のどちらがより基盤的なのかについては曖昧さが残る。

以上の考え方に対する批判もあるとレポートは言う。たとえば、人体にとって脳は他の臓器よりも特別だと言うが、たとえば皮膚がなくなれば人間は生きていけないし、肝臓も【16】同様である。なぜ脳だけを特別視するのか、と。しかしながら、脳が人体を調節するその中核性において、そして脳が機能停止したときの影響の甚大さにおいて、やはり脳は特別な存在であると言わざるを得ないのだとレポートは結論する(President's Commission, 1981, 34, 35)。

さらに重要な批判としては次のものがあるとレポートは言う。いくつかの脳死の大人のケースにおいては、たとえ脳死になったとしても、体温や代謝や排泄や血圧などの生徴候は持続され続けるのであり、死んだ人間だとは考えられない。もちろん医療技術を駆使してそれらを維持しようとしても無限に維持されるわけではなく、「せいぜい数日間にすぎないのであるがno longer than several days」、それでもこのことはその人間が死んでいるdeadことを示しているのではなく、いまだ死の途中にあるdyingことを示しているのみである、との批判である。しかしながら、とレポートは続ける。この批判は、脳死状態を維持するための人工的な手段と、人間に備わった脳幹の機能を同一視するという誤りを犯しているのである。それはいわゆる植物状態の人間を見れば分かる。植物状態においては脳幹の機能は維持されている。脳幹を含めて全脳の機能が停止した脳死状態においては、瞳孔は固定され、「人工呼吸器によって作り出される胸の動き以外の動きは見られないmotionless except for the chest movements produced by their respirators」。これに対して、植物状態では、自分の力で呼吸でき、代謝でき、血圧を維持でき、目は光を追い、痛みへの反射もある。このように、人工呼吸器などの医療技術は、脳のいくつかの機能を代替することは可能ではあるものの、脳幹あるいは全脳の無数の機能を代替するまでには至らないのであるthey cannot replace the myriad functions of the brainstem or of the rest of the brain(President's Commission, 1981, 35)。もちろん、だからと言って脳死状態は死の途中であるとの批判を完璧に退けることができるわけではないが、この点について、度を超した哲学的洗練を行なうことは必要ではないだろうphilosophical refinement beyond a certain point may not be necessaryとレポートは結論する(President's Commission, 1981, 36)。

さて、次にレポートは、「高次脳」論を検討する。意識や思考や感情などの心理学的な機能は主に大脳、とくに新皮質に位置している。大脳機能が失われれば、これらの心理学的な機能もまた失われる。幾人かの哲学者たちは、思考、理性、感覚、人間関係などによって特徴付けられる「人格personhood」こそが人間を人間たらしめているものであると考えてきた。また他の哲学者たちは、「人格の同一性personal identity」こそが本質であると考えてきた。しかしながら、とレポートは言う。そもそも人格にとって何が本質的なのかについて哲学者たちは合意できていない。さらにいったんこの考え方を認めてしまうと、重度の認知症の患者や重度の知的障害者や植物状態の患者もまた人格ではないことになってし【17】まいかねない。これは委員会の取る立場ではないとレポートは断ずる(President's Commission, 1981, 38-40)。第3に「非脳論」である。これは伝統的な宗教などの生命観に見られるもので、息や血液などを含む体液の流れの停止をもって死とみなすような考え方である。これについても現代医療の裏付けがないとしてレポートは退ける(President's Commission, 1981, 41-42)。

以上の考察の結果として、レポートは次のような死の定義を提唱するのである。

【死の決定Determination of Death】以下のいずれかの状態に至った個人は死んでいる。(1)循環および呼吸の諸機能が不可逆的に停止している、あるいは(2)脳幹を含む全脳のすべての諸機能が不可逆的に停止している。死の決定は、標準的に受け入れられた医学的見解accepted medical standardsと整合するものでなくてはならない。(President's Commission, 1981, 73)

このようにレポートは、人工呼吸器につながれないような普通の死については従来の心臓死をもって死を決定し、人工呼吸器につながれた新しい死については脳死をもって死を決定するとした。そしてこれを米国の各州の標準的な法制とすることを求めたのである。このレポートの提言は、その後、日本の脳死論議にも大きな影響を与えることになる。米国および世界の脳死論は、これによって決着を見るかに思われた。

3. 第2次レポートにおける脳死概念

第1次レポートの刊行後、それまでは広く知られていなかった脳死の医学的知見が少しずつ専門家のあいだに知られるようになった。まず、第1次レポートで脳死患者には「人工呼吸器によって作り出される胸の動き以外の動きは見られない」とされていたが、ロッパーによる「ラザロ兆候」の発見によって覆されることになる(1984年)。脳死患者は、人工呼吸器につながれたまま、自分で手足を大きく動かし、ときには手で祈るような動作をすることが世界中で確認されたのである。また脳死状態が維持されるのは「せいぜい数日間にすぎない」とする常識も、シューモンによる「長期脳死」の発見によって覆された(1998年)。子ども時代に脳死になった患者は、何十日にも渡って脳死状態を維持することがあり、ときには数年間以上も心臓の鼓動が続くことすらある。そのあいだ、脳死状態の子どもの身体は身長が伸び、体重も増え、文字通り成長するのである。また、脳死状態においても、下垂体からは成長ホルモンなど様々なホルモンが分泌されていることがあり、脳死判定後も全脳の機能は必ずしも停止していないと推測されることとなった。これらを【18】受けて、第1次レポートで提唱された「全脳死」の考え方は崩壊したとする専門家たちが出てきたのである。「全脳死」の概念は危機に瀕することとなる(以上の詳細については、森岡正博(2001)参照)。

このような状況を受けて、大統領評議会は2008年に、脳死に関する第2次レポートを刊行することとなった。第2次レポートは、第1次レポートで提唱された「全脳死」の立場を堅持しながらも、その後の医学的知見を受け入れることによって、いくつかの大幅な軌道修正を行なっている。その詳細を見てみよう。

まず、「脳死brain death」という言葉の中に「死」という単語が入っているのは論点先取であるとの批判を受けて、レポートは「脳死」にかえて「全脳不全total brain failure」という言葉を採用する(President's Council, 2008, 19)。すなわち、ある人間が医学的に「全脳不全」になるということと、その人間が人として死ぬということを、概念上完全に切り分けたのである。これは概念をめぐる無用の混乱を防ぐために是非とも必要なことであった。

そのうえで、レポートはシューモンらによって展開されてきた、脳死の身体は統合性を失っておらずある程度のホメオスタシスを保っているという主張を受け入れるのである。レポートの56頁には、シューモンによる、脳死の身体が所持している統合性の一覧表(傷が癒えること、感染症との戦いがあること、感染に対する発熱反応、脳死妊婦の妊娠継続能力、脳死の子どもの成長と性成熟など)が示されている。このようにして、第2次レポートは、第1次レポートで提唱された脳死の身体における統合性の不在という主張を、あっさりと撤回してしまうのである。

では、全脳不全に陥った人間は死んでいるとは言えないのだろうか。第2次レポートは、そうは考えない。やはり全脳不全の人間は、死んでいるとみなすのである。その理由を、詳しく見ていこう。レポートによれば、すべての有機体は欠乏の状態にある。有機体はみずからを保つために、環境世界とやりとりをしなければならないし現にそうしている。有機体はみずからを保つために、「酸素の入った空気と栄養物oxygenated air and nutrients」を外界から獲得しなければならない(President's Council, 2008, 60)。これが有機体のなすべき決定的な仕事であり、死せる物体から生ける有機体を分かつところのものである。

この仕事を支えているのは以下の三つの能力であるとレポートは言う。

(1)環境世界からの刺激やシグナルを敏感に受け取る能力、すなわち世界に対する開放性

(2)世界に積極的に働きかけてみずからが欲するものを選択的に獲得することのできる能力【19】

(3)有機体の有機体として必要な働きを駆動させるような基本的な身体的欲求the basic felt need[論文刊行後の註:「感覚次元の欲求」のほうがよいと思われる]。それがあるおかげで、有機体はみずからが欲するものを獲得したり、世界への開放性によって獲得可能だと気づいたところのものを獲得したりすることができる。(President's Council, 2008, 61)

有機体を有機体たらしめているのは、その基盤に、有機体を「駆動drive」させているベイシック・フェルト・ニード(基本的な身体的[論文刊行後の註:感覚次元の]欲求と訳しておいたが、肉感的な欲求と言い換えてもいいかもしれない)があるからだ、とするのである。そして、このような考え方をすることによって、全脳不全の人間がなぜ死んでいるとされるのかを説明することができるとレポートは言うのである。

有機体が環境世界とやりとりして自己保存するためには、食料や水を取り入れることが必要であり、さらに根本的には息をすることが必要である。人間のような高等動物が代謝を維持するためには、「自発呼吸spontaneous breathing」が不可欠なのである。

酸素がほしい(そして二酸化炭素を排出したい)という内的な身体的欲求を経験し、環境に酸素が存在するのを知覚することによって、生ける身体は世界に向けて働きかけるように促されるのである(横隔膜を収縮させ空気を肺に入れることによって)。自発呼吸をする有機体はけっして死んではいない。(President's Council, 2008, 62)

酸素がほしいというこの内的な欲求経験こそが、自発呼吸運動を起こさせるもとになるものであり、「呼吸したいという駆動the drive to breathe」の本質なのである。この「呼吸したいという駆動」は、有機体自身によって意識されている必要はない。たとえ意識されていなくても、有機体に自発呼吸さえあれば、それはその有機体が「生きたいという持続的な衝動continued impulse to live」を持っていることのエビデンスとなるのである。「この駆動は、有機体自身の衝動なのである」(President's Council, 2008, 62)。

この「呼吸したいという駆動」を有機体の生の基盤に置くことによって、第2次レポートは、第1次レポートの「息をすること、鼓動を打つことは、生命それ自体ではない」とする生命観からの決定的な転換を行なったのである。

ところで、いくら呼吸しているとはいえ、人工呼吸器によって息をしている状態は、機械の力によって受動的に息をさせられているだけのことであり、それは「身体的な[論文刊行後の註:感覚次元の]欲求felt need」によって駆動されているわけではない(President's Council, 2008, 63)。人工呼吸器は自発呼吸をまねているmimicだけであり、生きていることのサインvital signではないのであ【20】る。

しかしながら、自発呼吸の能力を失ったからといって、ただちにその有機体が死んだとは言えないとレポートは強調する。たとえ自発呼吸の能力が失われたとしても、他の生命能力はいまだ存在しているかもしれないからである。たとえば、脊髄損傷の患者は人工呼吸器の助けがなければ呼吸することができない場合があるが、しかしそれでも彼らは意識を持っているのである。したがって、呼吸能力と同じ程度に、「意識があるというサインは、患者という有機体が生きていることの疑いようのない証拠となるのである」(President's Council, 2008, 64)。

以上をまとめると、次のようになる。

もし意識を示すサインがなく、自発呼吸がなく、この神経生理学的な事実が不可逆であるという確実な医療的判断がなされたとすれば、神経学的な基準によって、かつては生きていた患者はいまや死んだと結論づけることができる。このようにして、全脳不全を人間の死の基準として使用し続けることが可能になるのである。――それは全脳不全が身体の統合機能の完全な喪失を意味するからではない。そうではなくて、生きていくために必須の仕事を有機体がもはやできなくなったことを、全脳不全が示しているからなのである。(President's Council, 2008, 64-65)

これが第2次レポートの結論である。要するに、意識がなく、自発呼吸がなく、それが不可逆であれば、〈たとえ全脳の機能の一部が残存していたとしても、たとえ全身の統合作用が残存していたとしても〉、人間は死んだとみなしてよいということなのである。言い換えれば、人間が生きているためには、意識があることあるいは自発呼吸があることがその十分条件であり、全脳のすべての機能が残存していることは必要条件でも十分条件でもない、というのがレポートの主張である。この主張の吟味は後回しにして、レポートの記述をもう少し先まで見ておこう。

第2次レポートによる呼吸と意識の重視という考え方は、英国の脳死基準に接近するものである。英国では、脳幹死が採用されている。脳幹が機能停止すれば、自発呼吸は停止し、意識もやがて消失すると考えられる。であるから、英国基準は、脳幹が機能停止することをもって人間の死とみなせばよいとするのである。しかしながら、レポートは、英国の脳幹死の考え方には疑問を呈する。英国では脳死判定のときに脳波の測定をしない。したがって、脳幹の機能停止に至ってもまだ意識が残っている危険性があるとレポートは結論づけている(President's Council, 2008, 65-67)。

また、レポートは、英国基準に影響を与えた神経科学者クリストファー・パリスの興味【21】深い文章を検討している。パリスは、呼吸と意識をもって人間の死を判断するのはユダヤ=キリスト教文化であるとする。意識の消失とは肉体から魂が抜け出すことであり、呼吸能力の消失とは「生命の息breath of life」の消失であるというのである。生命の息とは、旧約聖書において、神が人間に息を吹き込んで生命を与えたことを指している。レポートは、そのうえで、パリスの考え方には文化を越えた普遍的な説得力がないとしてそれを退けている(President's Council, 2008, 65-67)。

ここで非常に興味深いのは、そうは言いつつも、客観的に第1次レポートと第2次レポートを比較したときに露わになるのは、まさに第2次レポートにおいて人間の生命における「息の復権」が正面からなされているという点である。第2次レポートが、全脳不全の概念を救うために導入した「呼吸したいという駆動the drive to breathe」という概念は、パリスが示唆するところの「生命の息breath of life」の現代版でなくて何であろうか。

これは非常に感慨深い展開である。人工呼吸器の登場に至るまで、人類は息の消失によって人間の死を判断してきた。日本語の「息を引き取る」はまさにそのことを明瞭に伝えている。ところが心臓移植の登場によって人間の死を再考せざるを得なくなり、身体は生きていても脳は死んでいる人間を、死体として再定義する必要が出てきたのである。その際に、脳幹を含む全脳の機能が消失しているかどうかが最大のポイントとされ、自発呼吸は脳幹の機能があるかないかをチェックするための補助サインへと格下げされた。しかしながら、脳死の身体にも統合作用があり、全脳の機能の一部が残存していることが分かった結果、ここにふたたび息の存在が前面に躍り出たのである。思想史的には、これを現代医学における気息pneumaの復権の問題として設定することができる。この興味深い作業は他の場所に譲るとして、最後に、残された誌面で、第2次レポートの陥穽について考察しておきたい。

第2次レポートの結論は、意識がなく、自発呼吸がなく、それが不可逆であれば、〈たとえ全脳の機能の一部が残存していたとしても、たとえ全身の統合作用が残存していたとしても〉、人間は死んだとみなしてよいというものであった。そして自発呼吸というのは、有機体の最基底部に組み込まれた「呼吸したいという駆動」がみずからの姿を現わしたものであり、それは有機体が「生きたいという持続的な衝動」を持っていることの証明になるというのである。しかしこの論法は、レポートが想定しなかった理屈を招き寄せることになると私は考える。

まず確認しておくべきは、レポートで論じられたことは、自発呼吸があれば有機体は生きていると言わなければならないこと、そして意識があれば有機体は生きていると言わなければならないことの二つ(の十分条件)であった。しかしこのことからは、「自発呼吸と【22】意識が不可逆的に失われた有機体は生きていない」という結論は論理的に導かれない。なぜなら、自発呼吸や意識とは別の、有機体が生きていると言えるための何か他の十分条件が存在する可能性を、けっして否定することはできないからである。

子どもの長期脳死を例にとって考えてみよう。全脳の機能が停止しているので、意識もなく、自発呼吸もない。しかしながら、下垂体からコンスタントに分泌される成長ホルモンのおかげで身体は脳死状態のまま成長することができる。全身の統合機能も存在するので、何年にもわたって身長が伸び、体重が増え、性成熟にまで至ることがある。手足を自発的に動かすこともある。このような長期脳死の身体においては、下垂体から成長ホルモンが自発的に分泌されるのであるから、そこには「成長したいという駆動the drive to grow」があると言ってよいことになるだろう。そして成長ホルモンの分泌があるのだから、この有機体には「成長したいという持続的な衝動continued impulse to grow」があるとみなしてよいはずである。成長したいという持続的な衝動とは、生きたいという持続的な衝動以外の何ものでもないだろう。すなわち、〈自発呼吸のある有機体は「呼吸したいという駆動」があるから生きている〉という言い方をいったん認めてしまうと、同じ思考方法によって、〈成長ホルモンの自発的分泌のある有機体は「成長したいという駆動」があるから生きている〉という言い方を認めざるを得なくなるのである。すなわち、意識、自発呼吸に続く、生の第3の十分条件として、成長ホルモンの自発的分泌をあげることが可能になるのである。意識、自発呼吸は生の十分条件であるけれども、自発的成長は十分条件ではないとするのは、恣意的すぎるであろう。

このようにして、大統領第2次レポートは、意外な形で、「長期脳死の子どもは生きている」という主張を擁護するものとなり得るのである。それは全脳不全が人間の死であるという最後の砦をみずからの力によって打ち砕くものとなるだろう。脳死における息の復権は、このような結末をもたらすことになるのである。

 

文献

President's Commission for the Study of Ethical Problems in Medicine and Biomedical and Behavioral Research (1981). Defining Death: A Report on the Medical, Legal and Ethical Issues in the Determination of Death. US Government Printing Office, Washington, D.C.

President's Council on Bioethics (2008). Controversy in the Determination of Death. www.bioethics.gov, Washington D.C.

会田薫子 (2003). 社会的構成概念としての脳死―合理的な臓器移植大国アメリカにおける脳死の今日的理解. 『生命倫理』, 13(1):122-129.

児玉聡 (2008). 近年の米国における死の定義をめぐる論争. 『生命倫理』, 18(1):39-46.

森岡正博 (2001). 『生命学に何ができるか:脳死・フェミニズム・優生思想』, 勁草書房.【23】

 

*刊行後コメント:本文註にも書き入れたが、細部の表現において微修正が必要な点がいくつかあるので、今後どこかに再発表するときに修正したいと考えている。