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作成:森岡正博 
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映画評

『朝日新聞』関西版 2005年10月21日夕刊・文化欄
愛憎渦巻く母娘の葛藤 映画「理想の女」を読む
森岡正博

 

 この映画の原作は、オスカー・ワイルドの『ウィンダミア卿夫人の扇』という戯曲である。映画では、舞台をイタリアに移して、有閑階級の人々の腐った日常の片隅に、「愛情」のかけらを見出そうとした。
  映画の主役はアーリン夫人である。彼女は、かつて上流階級に属していたのだが、訳あってそこから転落し、金持ちの男たちを渡り歩いている美貌の中年女性だ。かつて結婚生活をしていたときには、家庭という密室に閉じこめられ、閉塞感にさいなまれていた。彼女はそれに耐えきれずに、自分自身の自由な人生を求めて外へと飛び出した。悔いのない人生を生きること、これが彼女のモットーである。
  男を渡り歩くも、金策尽きた彼女は、イタリアの避暑地に目を向ける。そこには、新婚の若き社交界のスター、ロバート・ウィンダミアと、その二〇歳の妻メグがいた。アーリン夫人はイタリアに飛び、色仕掛けでロバートに接近し、彼から巨額の小切手を次々とせしめることに成功する。
  しかしここから話が急展開する。ロバートの妻メグは、自分の夫がアーリン夫人に誘惑されたと思って絶望する。だが実は、アーリン夫人は、メグの実の母親だったのである。アーリン夫人は、二〇年前、わが娘を置き去りにしたまま、家庭を飛び出した。そしてその娘の成長を近くで一目見ようと、ロバートに接近したのであった。
  ここから、母と娘の奇妙な戦いが始まるのだ。娘は、アーリン夫人が母親だとは知らずに、敵対心を抱き、パーティーではアーリン夫人と同じデザインの妖艶なドレスを着て、夫と客たちを挑発する。母親は、自分が母であることを娘に伝えるチャンスを窺いながらも、その機会はなかなか訪れない。アーリン夫人が自分の夫と関係をもったと確信した娘は、自分に好意をよせる若い男と駆け落ちしようとする。かつての自分と同じ運命をたどろうとする娘を見た母親は、それを阻止しようと試みる。
  その結果、娘は母親の説得に従って、駆け落ちを断念し、妻の身分に立ち戻る。そして母親は、次なる新たな男と手を取って色恋の旅に出かけるのである。この結末を、娘を思う母親の愛情と見るかどうかが、ポイントとなろう。母親は、自由と、悔いなき人生を求めて家を出たと常々言っていた。真に娘のことを思うのならば、なぜ母親は娘の駆け落ちを認めなかったのか。
  この映画は、母親が、娘の養育と娘の結婚の二度の場面にわたって、自分の欲望と自由のために娘を犠牲にしたドラマなのだと私は思った。娘にはたしかに小さな幸福が用意されたであろう。しかし家庭に収まった娘が、やがて母親と同じような閉塞感に苛まれるであろうことをいちばんよく知っているのは、母親自身ではないのか。結局、母親は、自分の欲望を愛情と誤認しているだけなのではないか。
  いくら歳を重ねても、いつまでも恋する「女」であり続けたいという欲望が、多くの女にはある。アーリン夫人は、その欲望を率直に生きた女である。しかし彼女はそれと引き替えに、家庭の中で一人の男に愛され続けるというもうひとつの夢を失うことになった。そして彼女は、自分の娘にこの失われた夢を託そうとする。
  しかし娘の側に立ってみればどうなのか。娘は小さいときに母親に捨てられ、結婚して幸せになったかと思えば、突然闖入してきた母親に生活をかき乱され、嫉妬心をかきたてられ、自分の中にある反家庭的な恋愛心を刺激されたあげく、最後は家庭に戻るように巧妙に誘導される。
  ラストシーンで、母親は娘が自分の手のひらの上で踊っているにすぎないことを確信し、新たな恋へと旅立つ。愛情のように見えるが、そこにあるのはけっして愛情ではない。母と娘の葛藤という永遠のテーマを考えるきっかけとなる佳品である。