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作成:森岡正博 
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論文

 

戸田山和久・出口康夫 (編) 『応用哲学を学ぶ人のために』世界思想社、2011年、198-208頁
生命の哲学

森岡正博

 


 私が哲学者となったのは、私が存在しているのはなぜか、私が死んだらどうなるのか、宇宙はなぜあるのかといった問いに小学生のころに取り憑かれたからであった。私にとって哲学とは勉強するものではなかった。どうしようもなく襲ってくるこの問いを正面から受け止めてもがくこと、それが私にとっての哲学の営みに他ならなかった。私にとって哲学とは、私を苛むこの問いを実際に解決しようとすること以外ではあり得ない。私が過去の哲学者の遺産を学ぶのは、私自身のかかえる問題に取り組むためであって、彼らの哲学思想をそれ自体として学ぶためではない。私は彼らの遺産から大いなる知恵と勇気を得る。それらを推進力としながら、私は私自身の哲学の問いに向かって邁進していくのである。私にとって哲学とは、過去との対話、私自身との対話、そして現実世界との対話である。
  若い頃、それらの哲学的問いは自然科学によって解決できると考えていた。そこで大学は物理学のコースに入学したのだが、自然科学の方法によって哲学の問いは解決できないことが分かり、哲学・倫理学に進路を変更した。しかしそこでも私の問いに答えてくれるものを見出すことはできなかった。哲学・倫理学教室で行なわれていたものは、過去の哲学者の思想を文献に即して明らかにする文献学であった。彼らは誰それの専門家となるために業績を積み上げていくのであり、それをもって哲学と称しているのであった。私はその状況に失望した。(その詳細は、[森岡 一九九九]に書いた)。
  私は、そのころ世間の注目を集め始めていた生命倫理に関心を抱いた。脳死、臓器移植、体外受精、安楽死など、人間の生と死に介入するテクノロジーをどのように考えればいいのかという問題は、生と死について哲学的に考えたいと思っていた私の心をとらえた。私自身の哲学的な問題関心と、現実世界で起き始めていた生と死の倫理の問題が重なったのである。私は、一九八〇年代の英語圏のバイオエシックスの議論を研究した。当時、英語圏のバイオエシックスは制度化が進められており、よくまとまった百科事典や論文集が刊行されていた。それらの成果を日本語で紹介していくうちに、バイオエシックスという学問に対して違和感を感じ始めたのだった。結局のところ、このバイオエシックスという生と死の倫理学もまた、私の抱える問題に答えを与えてはくれないのではないか。そして日本の研究者たちは、海外のバイオエシックスの議論を翻訳紹介することに熱中し、それを新たな文献学として定着させていってしまうのではないか。
  私は、文献学ではない方法で現実社会の生と死の問題を哲学的・倫理学的に考えていくやり方を模索するようになった。そのためには、まず、現場で何が起きているのかを実際に知ることが必要だった。文献から哲学するのではなく、現場から哲学することを大切にするようになった。私は当時活発に議論されていた脳死・臓器移植問題の現場に足を運んで、そこでどのような問題が生じているのかを自分自身の目で確認し、自分自身の頭で考えようとした。脳死問題の現場で発見したことのひとつは、脳死になった患者の家族の立場に立って考えてみることの大切さであった。そうすることによって、脳死になった患者と、それを見守る家族のあいだに成立している「関係性の場」というものの重要性が見えてきた。「脳死は人と人との関わり方である」という発見は、当時の英語圏のバイオエシックスにおいても指摘されることがほとんどなかった。私はこのとき、今日言うところの「応用哲学」を開始していたと言える。私はその後、中絶をめぐる日本の女性運動と障害者運動の資料をたんねんに読み、彼らと実際に対話することによって、それまで考えもしなかったような哲学的な発想を得ることができた。彼ら当事者たちから学んだものとして、「根源的な安心感」の概念、「男たちの生命倫理」という発想などがある。(それらについては[森岡 二〇〇一]で詳述した)。
  これまでの経験を振り返ってみて思うのは、単に文献を読んで得たものよりも、現場で実際に起きていることを通して学んだことや、当事者との対話のなかから発想したことのほうが、より重要でインパクトのある思想へと結実するということである。このような、現場から立ち上がってくる思索こそが、私の求める哲学の姿にもっとも近いのである。私自身が若いときから取り憑かれていた生と死の問題と、これらの現場で起きている生と死の問題がじかに響き合うことによって、大切な思索が立ち現われてきたのであろう。そしてその思索に明瞭な言葉を与え、肉付けをし、我々の共同的な知に組み込もうとするときに、過去の哲学者たちの遺産との対話が重要となるのである。
  私にとって「応用哲学」とはこのようなものだ。応用哲学とは、一般に、次のような二つの営みから成り立つと考えられる。ひとつは、抽象的な思索によって形成された「理論」を、現場で生じている諸問題に「応用」するという営みである。たとえば功利主義や義務論などの理論を、現実問題に応用して何かの解決を導こうとする作業がこれに当たる。もうひとつは、それとはまったく反対に、現場で生じている諸問題と素手で格闘するなかから、何かの論点や発想や概念を探り出し、それを哲学的に研ぎ澄ますことによって新たな理論的な論点を取り出すという営みである。私の行なったことを例に取れば、さきほど述べたような「関係性としての脳死」や「根源的な安心感」という概念を現場から取り出してきて、それをさらに理論化していく作業がこれに当たる。応用哲学は、この二つの営みが車の両輪となって互いに循環することによって、動き始める。応用哲学はこの意味で、現場哲学でなくてはならない。社会の現場、人々の生という現場、そして私の人生という現場、それらとの対話のうえに応用哲学は開花するのである。

 私は応用哲学的な試みを、様々な領域で行なってきた。そして現在、「生命の哲学」というジャンルを構築しようと試みている。「生命の哲学」とは、人間の生命のあり方や、人間と人間以外の生命との関わりについて、哲学的に考察する営みのことである。それならば、生命倫理学や環境倫理学があるではないかと言われるかもしれない。しかしながら、生命の哲学は、従来の生命倫理学や環境倫理学では深められることの乏しかった哲学的問題について、正面から思索していくことを目指すのである。
  たとえば、脳死・臓器移植問題について、生命倫理学では様々な議論がなされてきた。しかしながら、脳死・臓器移植問題について考えていると必ずぶつかってしまう問題、たとえば、「他人の臓器をもらってまでも生き延びたいという人間の欲望とはいったい何なのか?」、あるいは「脳死になった人間はいったいどういう種類の存在なのか?」というような問題は、生命倫理学において議論されることがほとんどない。不思議なことであるが、これらの根源的な問題は、現実的解決を志向する生命倫理学においては、考えてもムダなものとみなされて議論の対象にならなかったのである。しかしながら、移植を受けて生き延びたいという人間の欲望とは何かを考えることや、生体と死体の中間にあるように見える脳死の人の存在論的地位について考えることは、まさに生と死の哲学の中心的問題ではないだろうか。これらの哲学的問題を、正面から思索していくのが「生命の哲学」なのである。
  環境倫理学の領域で言えば、人間以外の動物を殺して食べ、植物を刈り取って食べなければ生きていけない人間とはどういう存在者かについて考えることは、「生命の哲学」の中心的課題だと言える。家畜やクジラなどを殺して食べることの倫理性の問い以前に、そのような殺戮と食をみずからの生の一部分として取り込まなくては生き続けられない生とはいったい何なのかについて思索を深める必要がある。それは人間が身体を持ち、その身体が他の生命との関わりのなかでしか存在を続けられないということであるが、その関わりがなぜ殺戮と食という形式を取ることになるのか、というあたりを考えなければならない。このような問いは、環境哲学のなかで問われることがあったが、それをさらに正面から問おうとするのが「生命の哲学」なのである。
  ところで、「生命の哲学philosophy of life」は、世界的に見ても哲学の一ジャンルとして成立していない。主要な百科事典や哲学事典を見てもそのような項目は存在しないし、たとえあったとしてもそれは「生の哲学Lebensphilosophie, philosophie de la vie」という一九世紀〜二〇世紀のヨーロッパにおける一哲学潮流のことを指すにとどまっている。現代哲学には、「言語哲学」「宗教哲学」「心の哲学」「科学哲学」などのジャンルが成立しているが、なぜ「生命の哲学」がこれまで存在していなかったのか、まことに不思議である。英語圏では「生物学の哲学philosophy of biology」というジャンルがあるが、それは生物学的な意味での「生物」に関する哲学に限定されている。
  「生命の哲学」は、ジャンルとしては成立していないが、それを目指していた哲学者は存在する。現代におけるその代表者は、ドイツ生まれのユダヤ系哲学者ハンス・ヨーナス(ヨナスとも表記)である。ヨーナスは、ブルトマン、ハイデガーの教えを受けたのちドイツから亡命し、米国に渡って活動を続けた。米国ではバイオエシックスの最初の研究所であるヘイスティングス・センターの創設に関与した。しかしヨーナスの哲学は、米国のバイオエシックスの主流になることはなく、現在に至るまで異端の位置を占めている。ヨーナスは、生物進化の長い歴史の果てに人類が登場したことを哲学的に考察し、人類の特徴であると思われている「自由」というものが、すでに原始細胞の発生の時点で生物に備わっていたとする生命哲学を提唱した。人類はたしかに他の生物とは異なった段階に至ってはいるけれども、人類と他の生物のあいだには緊密な精神的共通項があるというこの指摘は、生物界における人類の位置づけに新たな考察を迫るものである。またヨーナスは、テクノロジーをもった人類がいまや地球環境を破壊できるまでになったことを重くとらえ、人類には「将来世代への責任」があるという環境倫理学の根本命題を提出した。これは現世代が、まだ登場していない将来世代に対して一方向的に負うべき責任であり、同時代的な応答に基礎づけられる従来の責任概念を拡張することが必要だとした。さらに生命倫理学の領域では、脳死の人の身体には温もりがあるだけではなく、生きていたときの人格の残滓のようなものがあり、脳死は人の死とは言えないとする立論を行なった。このように、人間と生物進化の関係、現世代と将来世代の関係、人間の生命へのテクノロジーの侵入について、同じひとつの土俵で哲学を試みたヨーナスの仕事は、まさに「生命の哲学」と呼ばれるにふさわしい。
  米国のバイオエシックスにおいて、ヨーナスの影響下にある哲学者として、レオン・キャス(カスとも表記)がいる。キャスは、ブッシュ政権下の大統領生命倫理評議会の委員長として、二〇〇三年に報告書『治療を超えて』を刊行し、大きな議論を巻き起こした。キャスはいわゆるキリスト教保守派の知識人であり、このレポートは邁進するバイオテクノロジーに警鐘を打ち鳴らすものとなった。キャスらは、出生前診断による人間の生命の選択、能力増強、老化遅延と生延長、薬物による精神のコントロールなどの問題に対して、慎重あるいは反対の結論を導いた。キャスらの結論をどう考えるかは別として、このレポートの最大の魅力は、バイオエシックスの議論に「生きる意味」という論点を導入した点にある。これまで問われることの少なかった、「人間にとって幸福な生とはいったい何か」という問いを中心にして、バイオエシックスを内側から再構築しようとしたキャスらの試みは、まさに「生命の哲学」と呼ぶにふさわしいものを含んでいる。
  私は二〇〇九年に、大阪府立大学に現代生命哲学研究所を創設した。関西大学や東京大学と連携しながら、研究のネットワークを拡大しているところである。我々は「生命の哲学」の具体的な研究として、次の二本の柱を立てている。
ひとつは、生命の哲学に関する人類の過去の遺産を幅広く研究することである。生命についての哲学的思索は、古今東西の哲学思想に色濃く見られる。古代地中海世界、古代インド、古代中国などの地域で深まった哲学宗教思想にそれらは見出せるし、その後の各大陸の哲学の発展においても、それらの思索は重要な位置を占めている。現代の状況を背景にして、それらの遺産を地球的な規模で研究することが必要である。そしてそれらの研究を通じて、現代の生命の諸問題を思索するときの手がかりを探っていくのである。
もうひとつは、現代の生命をめぐる諸問題から立ち上がってくる哲学的な問いを正面から受け止め、自分の頭でその問いに対する答えを模索していくことである。その際には、現場の当事者たちとの対話によって大切なものが浮かび上がってくるだろうし、過去の哲学の遺産からいろいろなものを学びながら前進していくことになるだろう。具体的なテーマとしては、先に述べたものの他にも、たとえば「技術介入してはならない生命の領域というものがあるのか」「人間の内なる自然と外なる自然はどのように関係しているのか」「限りある生を悔いなく生きるとは何をすることか」「ケア的な関わりとは何をすることなのか」などがある。それらの問いは、これまでも個別に問われてきたが、それらを統一的な視座によって問いなおすところに、「生命の哲学」というジャンルの独自性がある。この第二の柱について、次節でさらに考えてみたい。

 「生命の哲学」が取り組むべき問いは、数え切れないくらいたくさんある。その中から、いくつかの問いを取りだして、簡単な考察をしてみよう。

【1 生延長】
  これはヨーナスやキャスが取り組んだ難問である。生命操作技術によって、人間の老化が抑制され、果てしなく寿命が延びるようになる可能性があるが、そのような技術を我々は開発すべきであろうか。現代の我々の常識では、老いずに寿命が延びることのどこに問題があるのか理解しにくいだろう。だが、人間の寿命をどこまでも延ばすことができるようになったとき、我々はそれによって幸福になるのだろうか。多くの生命倫理学者たちが、寿命は長ければ長いほど人間の可能性は増大し人間は幸福になると主張するのに対して、ヨーナスやキャスはそのようには考えない。ヨーナスは、寿命が延長されることによって人間は生への執着から逃れられなくなると考え、キャスは与えられた寿命を全うすることの大切さを人間が忘れていくことになると警鐘を鳴らした。現代医学の究極の目標は、老化遅延と不死のように見える。人間にとって、老化遅延、生延長、不死を目指して邁進することの意味は何だろうか。「生命の哲学」の根本問題のひとつである。(森岡 二〇〇七 参照)

【2 脳死の人とはどのような存在者か】
  脳死の人とは、現代医学が生み出した新しい種類の存在者である。脳は機能していないと考えられるが、その身体は温かく、排泄し、手足をよく動かす。最近の研究によれば、脳死判定後数ヶ月や数年も心臓の鼓動が続く長期脳死と呼ばれるケースが多数あることが判明している。また、脳死の子どもは、脳死状態のままで身長が伸び、体重が増え、乳歯が永久歯に生え替わる。脳死の人は、文字通り成長するのである。家族が脳死になったとき、その脳死の人をまだ生きているとしか思えないというケースも多い。
  このような脳死の人は、いったいどのような存在者なのだろうか。脳死の人は脳が機能していないのだから、本当は死んでいるのだが、家族から見たときには情が働くから、あたかも生きているかのように錯覚するのだ、という説明がある。それに対して、たとえ脳が機能していなくても、そこに生々しい身体があり、脳死の人と家族とのあいだに培われた関係性の歴史があれば、その関係性のなかに一種の「いのち」が立ち現われることがあるのだ、という説明も可能である。私は後者のように考えているが、だとすれば、関係性のなかに立ち現われる「いのち」とはいったい何なのかを、さらに明瞭に言語化する必要がある。これは「生命の哲学」の課題であろう。(森岡 二〇一〇 参照)

【3 生命観と「生命の哲学」の違い】
  人々は、それぞれの「生命観」を持っている。いのちあるとはどういうことか、死んだらどこに行くのかなどについて、自分自身の世界観を持っているのである。だが、それらの生命観を表明しただけでは、「生命の哲学」の営みにはならない。それでは、生命観の表明とは異なるところの、「生命の哲学」の営みとはいったい何なのだろうか。
  そのためには、「生命について考える」ということと、「生命について哲学的に考える」ということの差はどこにあるのかを考察しなければならない。「生命の哲学」とはそもそもどのような営為なのかについての、メタ的考察を行なわなければならない。「生命の哲学」の基礎づけの作業は必須である。

【4 人間の生死の哲学と生物学の哲学の融合】
  「生命の哲学」という言葉は、一般的には、人間の生死について哲学的に考えるという意味と、生物を生物たらしめているものについて哲学的に考えるという意味の二通りに解釈できる。前者は実存主義的な哲学において、後者は生物学の哲学において、別々に考察されてきた。「生命の哲学」は、この二者を同じ土俵で統一的に考察する。なぜなら、人間は実存的な存在であると同時に、生物的な存在でもあるからだ。一度限りの生を生き、死を前にしておののく実存的な存在としての人間のありようと、生物的な仕組みによって規定され、誕生、成長、再生産、老化、死を繰り返していく生物としての人間のありようを、結合させて把握する枠組みを作り出すことが、「生命の哲学」の課題のひとつである。ヨーナスは独自の思索でこれを試みてきた。オートポイエーシスの哲学もまた参考となるだろう。

【5 「やがて死んでしまうのになぜ生きなければならないのか」の考察】
  「やがて死んでしまうのになぜ生きなければならないのか」という問いは、多くの人間が思春期に抱いてしまう哲学的な問いである。実はこの問いは「生命の哲学」の中心部分にある問いである。「生命の哲学」は、この問いに何かの答えを与えるものでなくてはならない。ただし性急に答えを出すのではなく、そもそもこの問いは厳密に何を問おうとしている問いなのかを確定することが必要である。すなわち、いったいどのような答えを出せばこの問いに答えたことになるのかについて、考察しなくてはならないのだ。ある個人的な生命観にもとづいてこの問いに答えることはたやすいが、「生命の哲学」を遂行するためには、この問いの哲学的な本質をまずは究明するところからはじめなければならない。ここを入り口として「生命の哲学」に入っていく道筋があるように思える。
  以上駆け足で「生命の哲学」について考えてきた。私にとっては、これは私自身の抱える哲学的問いとぴったりと重なっている。と同時に、それは共同で考察すべき応用哲学の課題でもある。関心ある研究者とともに、将来の展開を目指していきたいと考えている。

 

和文献

森岡正博 一九九九 「現代において哲学するとはどのようなことなのか」日本哲学会『哲学』五〇号、一〜一二。<http://www.lifestudies.org/jp/tetsugaku01.htm>
森岡正博 二〇〇一 『生命学に何ができるか』勁草書房。
森岡正博 二〇〇七 「生延長(life extension)の哲学と生命倫理学」『人間科学:大阪府立大学紀要』二、六五〜九五頁。<http://www.lifestudies.org/jp/lifeextension01.htm>
森岡正博・居永正宏・吉本陵 二〇〇八 「生命の哲学の構築に向けて(1)」『人間科学:大阪府立大学紀要』三、三〜六八。<http://www.lifestudies.org/jp/philosophylife01.htm>
森岡正博・吉本陵 二〇〇九 「将来世代を産出する義務はあるか? 生命の哲学の構築に向けて(2)」『人間科学:大阪府立大学紀要』四、五七〜一〇六。<http://www.lifestudies.org/jp/philosophylife02.htm>
森岡正博 二〇一〇 「パーソンとペルソナ:パーソン論再考」『人間科学:大阪府立大学紀要』五、九一〜一二一。<http://www.lifestudies.org/jp/persona01.htm>