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「現代の落とし穴」 森岡正博

浄土真宗本願寺派(西本願寺)第12期第2回中央実習講義より

[平成11年3月11日  木曜日]


 

  大阪府立大学の森岡です。お早うございます。今日中は午前中よろしくお願いいたします。
 これ聞こえてるのかな、大丈夫ですね。今日は皆さん朝早くから、朝は非常に気持ちいいもんでして、私も久々に早く起きましたので清々しい気分でおります。いつも結構、夜遅くまで起きていて、朝ずっと寝てる人なので、こういう機会でもないと朝早く起きるということがあんまりないんです。感謝しております。学生の頃は、私は夜と昼が逆転した生活をしていまして、だから学生の頃は、朝日が登るの見てから寝てたんです。それすごく良いもんでしてね、私、大学の時に大学行ってませんから、ほとんど留年ばっかりしてました。だからなんていうかな、大学行かないから全然することないでしょ。だから東京に住んでたんだけれども、大体夜の5時くらいの夕方に起きるんですね。夕方起きて、みんなが晩飯を食べに、私は同じ店に朝飯を食べに行く。それから夜中ずっと深夜放送聞きながら、なんか一人でやってて、朝ですね、窓から外を見るんですね。窓から外を見たら、私が住んでいたアパートの前が中学校で、中学の校庭があって、そこに朝日が段々あたりはじめるんですよ。だから真っ暗の時から朝日があたり始めて、朝日があたり始める前は鳥が鳴き始めるんです。だから鳥が鳴き始めると少しづつ明るくなってくるんです。それで朝ですね、朝の光っていうのは移ろいが早いんですよ。だからほんとに数分、2分とか3分かな。要するに見てる間に光が段々強くなってきて、見てるだけですごく感動します。
 光が少しづつ明るくなってきて、それで校庭に陽があたっていくでしょ。空の色が変わっていって、鳥の音が変わっていって、それで見てるうちに光が変わっていく、そのあたりすごく好きでした。だから朝起きるっていうか、朝日っていうのは、私は寝る前にいつも見ていました。それで陽が登ってきたあたりに寝ようかな、と思っていると中学生がわいわい言いたがら登校してきて、それを聞きながらうるさいなと思いながら寝ていました。
 朝は結構好きです。今日も朝起きまして、やっぱり宗教は朝かなっていう感じがするんです。私は実は今日なんの話しをしようかな、と思ってるんだけれども、ひとつはですね、脳死についてちょっとだけしゃべろうと思ってます。あとは文明の話しかな、人間っていうかな、人間について時間がある限り、現在考えてることを色々しゃべってみたいと思ってます。
  それで、こういうところに招いて頂いているわけですけれども、私自身は宗教、宗教者ではないんです。私は、だから信心というのもないですし、信仰というものもしていないわけです。宗教に興味がないかと言うと、そこが全然違うのであって、私は非常に宗教というか、宗教的なこととか、宗教っていうのにずっと興味を持っていて…、興味を持っているっていうことともちょっと違うかな。自分の本にも書いたことがあるけれども、私はむしろ十代の時って結構宗教的な人間だったと思います。それはたぶん今もそうだと思うんですよ。宗教的ってどういうことかって言うと、自分の存在が何故あるのかとか、何故ないといえるのか、私は何故いるのであって、いないのではない、とかどういうのかな、私いなくたって良かったのにこの世界にいるでしょ。すごい不思議なんですよね。私がいなくてもかまわないのに、なんで今いるのかっていうことの不思議さとか、世界とか宇宙がそういう風にできていることの不思議さっていうのを、ずっと感じて生きてきてます心そういうことが気になって仕方がないんです。
  だから私思うんだけど、そういうことっていうのは非常に宗教的なものの感じ方だと私は思ってるんです。私もう一つは、なんて言うかな、若い時って救いっていうのをすごく欲しくて、なんで私は世界で一人だけ放り出されてるように存在してなきゃいけないんだろう、っていう思いを持っていて、このままだったらあまりにも悲惨なんじゃないかってみたいなね、そんな感じにずっととらわれていて、それを救いとってくれるものってあるはずだ、みたいな感覚をずっと持ち続けていましたね。
  私は10代後半から20代にかけて、宗教っていうものにかなり異常接近しました。ところが宗教に入る入らないというのは、表現が良いのかどうかわからないけど、私は入らなかったんですね。何故かというと、私の場合は疑いっていうのかな。疑ったり吟味したりするという考え方が非常に強いので、宗教の方々と話しをしたりしましたけれども、どうしても議論しちゃうんですよ。議論すると、たいがい私が勝ってしまうんですね。議論のレベルで勝つってどういうことかっていうと、「だからどうして?」って聞くわけですね。こうです(と言われると)「どうして?、理由を聞かせて」っていうと、理由を聞かしてくれる。けど、私からみたら理由になってないんです。そうかもしれないけれども違うかもしれないんじゃないかって思ってしまって、「なんで100%そうなのか教えて」って言うと、こうだって言われる。けど私からみればやっぱり百パーセントでなくて、こうも考えられるのに、なんでそうやないの、とやっていくと、結局私自身を説得できないんですよ。
  だからそうやっているうちに、最後のところでよくあるパターンは、「まず信じなさい」って言われるんです。そこで二者択一になるわけですよ。ずっと議論していて私は「なんで、なんで、どうして、どうして」って聞いてたら、最後は「わかった、まず信じないとわからない」と、そういう話になるわけです。まあよくあるパターン。すると私はそこで、「ああ二者択一だね、信じるか信じないかじゃあ私は信じない」ということになるわけですよ。
  もっと厳密に言うとね、信じないじゃない、信じるということはできないっていうことなんで、結局よくわかんないわけ。信じないっていうのも否定でしょ、全否定でしょう。
 嘘だとも思わないけど、ほんとだとも思えない。だからそうなるわけですよ。そうすると決裂するわけだ。だけど多分そこで「信じなさい」「いやだ」と言って、「じゃあ縁がなかったんですね」って分かれていったことはいっぱいあるけど、その時相手は私のことを「ああこいつは信心がない、信仰がないんだ」、「この人は宗教を否定したんだ、科学主義なんだ」とかいうふうに思っていると思うけれども、だけど実はそうでもないんだね。
 そうでもないっていうのは、私は別に宗教を信じないとか、宗教は嘘だって信じてるわけでもない。つまり信仰するという立場をとらない。
  私は皆さんがどういうふうにお考えかということと、私みたいな人間に出会った時にどうしてるか、どうするかっていうのを聞きたいんだけど、どういうのかな、信仰とかするでしょう。信心でもいいです。こんなことがあったとして、だから信仰するのかといって、イエスって言ってしないのか、ノーって言ってさあどっちか、みたいなことを宗教者の側から結局突きつけてくることって、まあ割とあるんですけどね。これ気をつけておかなきゃいけないのは、どっちでもないという立場があるわけ。どっちでもない、これは論理学の問題でもあるんですが。
  たとえばキリスト教の本なんかでも、よく神様はいるのかいないのか、で何千年も議論してるわけでね。神様いるのかって言われて、こうだからいるということ私は言えないですよ。それもかなり色々考えたり議論したことあるけど、でも神様いるというふうに私は言えない。いるっということはちょっといえんな。そら根拠わかんないもんっと言った時に、それはじゃあ私は神様いないと断言してるのかっていうとそうでもないわけ。いないかもしれないけど、いるかもしれないけど、私はわからないと私は思ってるわけね。だから「神様はいると断言できない」ということは、「いない」ということでもない。からこういうのってあるわけ。どっちでもないとか、どっちかわからないとか、どっちとも言えない、という立場は結局あるわけですよ。
  だから宗教について、私は、厳密に言うと、宗教とか信仰とかということについては、要するに「自分からはどうにもできない」というのが一番近い気持ちです。けれどもそれは、宗教とか信仰がないと嘘である、ということとはまた違うわけです。だから正確に言えば、「私はよくわからない」ということです。よくわからないっていうのは、私は敗北っていうことではないと思うんだよね。だって皆さんわからないこといっぱいあるでしょう。
 私もわからないこといっぱいあるわけ。それはそれでいいんじゃないかと思うし、もうひとつは、最初も言いましたけれども、生命のこととかずっと考え続けてきてるし、これからも考え続けていくつもりだけれども、それを宗教という立場に立たずに、私はずっとこれからやっていきます。
  けれども、それをやっている私自身の興味・関心とか、存在のあり方というのは、非常に宗教的な人間だと私は思ってるんですよ。だからね、ここでもね、私自身はこう区別してる。つまり宗教っていうことと、宗教性ってこととは、ちょっと次元が違うんではないかと思うんです。次元が違うっていうか、こういうふうに分けた場合に、私は宗教の人じゃないし、宗教者でもないから、この次元では何も言うこともない。わからない。だけども、私はこれにはすごい興味があるわけです。興味があるだけでなく、私は結構このことを探求しようとしている気がします。
  宗教性ってなんでしょう。ひとつは私さっき言ったでしょう。なんで私がここにいるのっていうようなことやね。これ不思議で仕方がない。あるいは世界の中で、なんで不思議なことがあるのかっていうような不思議さとか、私が今いるってことは奇跡的だよね。だから奇跡的なことがなぜ今あるのか。またその逆から言えば、じゃあ私が死んだらどうなるのかという話しですね。あるいは、私が世界からいなくなった時に、世界はどんなふうになってるかとか。それって私はすごく宗教的なことで、宗教性の問いだと思うんですよ。
だけどね、私が思うのは宗教性の問いっていうのは、私みたいな人でも問うていけるわけ。
 だから宗教性の問いっていうのかな、この疑問というかこの大きな問いかけっていうのは、宗教からも当然問うていけるし、解明していけると思うけれども、宗教以外の立場からでも色々な立場から問うていけると思うんです。
  私は自分の学問っていうのは、生命学だってここ10年ぐらいずっと言ってますけれども、生命学的な考え方っていうのは、宗教とは多分違うと思うけれども、解明しようとしてるものはひとつなので、宗教に関してこういうようなことをいつも感じる。私みたいにその宗教という集団、サークル、教団の外にいると、逆に宗教性の問題っていうのは、宗教が解明したのと同じくらいの深さで解明できると思ってます。だから私はその道を切り開きたいし、今まで切り開いてきた人達がたくさんいると思うんだよね。だから今度逆に、宗教の中で宗教性のことを考える時には、一体どのようなすばらしいことがあるのかっていうの、私は逆に聞きたくなる。つまり宗教の中にいるからこそわかってくることとは一体なんなんだろう。宗教の中にいるからこそ行動できることとは一体何なのだろう。そういうことを私はむしろ知りたく思う。私は宗教の外にいるから、外ではこういうことができるってこと、私なりに突き詰めることをずっとやっていくつもりなんで、だからこうやって皆さんの前にいるのもその活動のひとつなんだけど、いつもそういうこと思います。
  それでそうだな、今日の私も見せて頂いたパンフレット(レジュメ)みたいな、それちょっと読まして頂いて、冒頭に非常に良いこと書いてあるんですね。どなたでしょう。私は存知あげませんが、非常に良い文章が載っております。それを読んで、ああそうか、やっぱし宗教の中でもこういうこと考え、提言していくんだなあというのは、まあ今日知ったわけだけれども、その中で読んでてね、ひとつこのあたりを皆さんがどう考えるのか知りたいなと思ったことがあります。そのひとつは、その文章の中で今ちょっと正確に繰り返せませんけれども、教えを伝えていくっていうような言葉がありますね。だからそういうような様々な現代の問題に自らを開きつつ、その教えを伝えていく、広めていく必要がある。
 ここで教えを広めていくっていうのは、一体どういうことかっていうのが、私のような宗教の中にいない人にとっては、ひっかかるとこなんですね。ひっかかるっていうのは、別に否定してるわけではな一くって、教えを広めるっていうのはどういうことなんだろう。たとえば浄土真宗の方とも話しする機会たくさんあるんですけれども、たとえばこういうことがあるんだよね。「一言で言ってなんですか」って問うた時に、生かされてることの自覚ですって答えられること結構ある。ただその時にね、私はそのことは確かにそうだと思うし、思うんだけれども、他にもまだ色々言い方があって縁起とかね、よって生じている、縁起。他にも無常とかね、色々ある。それはやっぱり確かにそうだね。それが教えで、それを広めていく時にね、これ私だけかもわかんないとけども、あんまりインパクトないんだよね。なんでインパクトないんかなっと思ったら、私だって今ここでリピートできるじゃん。簡単に繰り返せるし、あんまり仏教を知らない人の前で、私は真宗の教えを実は説けるかもしれない。口だけでね。口先だけではさ、そんないつも聞いてたら覚えちゃうじゃないかね。だから私も生かされていくという自覚だとか、縁起だとか、空だとか色々言えるわけですよ。煩悩の中から何か光を見るだとか、色々言えるわけで、するとさ、言いながらわかるんですよ。あんまりインパクトないなあと思う。なんでだろう。私なんかでも言えることってなんだろうってみたいなことがあるんだよね。
  ただ私そういう言葉っていうのは、確かに深い智恵だと私も思うんですよね。深い智恵なんだけども、伝えるっていうのは、そういう言葉を伝えることかなあっていう疑問が若干ある。これはだから私も答え持ってたいかち、皆さんどう思うのかな。私みたいにひねくれ者に対して、皆さん一体どういう言葉を投げ返してくるんだろうって思うけれども、伝えるっていうことは、たとえば経典とかね、お釈迦さんの言ったことだけを繰り返すことだろうかっていう問題があるわけです。だから難しい問題だと思うんですよ。皆さんどう考えますかね。お釈迦様は誰かの言葉を伝えたのかっていう大きな問題がある。お釈迦様は自分で悟ったことになってるわけですよね。まあ解釈は色々あって、お釈迦様におおいなる命があったりするかもしれないから、その辺の解釈は色々あると思うけど、だから伝えるっていうことは一体どういうことなんだろう。伝える時に、じゃああなた達は拡声器ですかっていうことになるわけですよ。
  そこは皆さんどう思う?その法みたいなのがあってさ、そこに皆さんのような宗教者みたいな人がいて、あなたスピーカー、ステレオで言うとスピーカー。つまりここに法の言葉かなんかあって、あなた達の口を通って誰かの人に届くっていう、単にこの電気信号を音に変えてるスピーカーなのかな、どうなんでしょう。そうだっていう立場あると思うんだよ。私よくわかりません。真宗はそうだって言うのかもしれたい。ここって結構私わかんない。教えて下さい。皆さんどう考えてるんですか、ここ。あなた達はこのスピーカー、スピーカーって何か電気信号を音の空気の信号に変えてるだけなんで、つまりあなた達生まれてきて、人生を通ってきて、かけがえのたい一人一人でしょう。かけがえのない一人一人がさ、同じスピーカーになって同じ言葉しゃべるっていうのは、オウム真理教みたいじゃん。だってさ、変な気がするわけよ。つまりあなた達もかけがえのない個性が全部あって、それぞれの煩悩が通ってるわけでしょ。違う?そうしたら、その人達が法の言葉を伝える時に、全部違った音波に成るはずなんだね。それぞれがもっとかけがえなく違うんだからさ、全部違う音波になって聞こえてくるはずだと思うんだね。だからもし全部違う音波になってくるんだったらさ、あなた達スピーカーじゃなくて、ここで電気信号をそれぞれの個性に応じて変換してるはずだから、完全に受動的なはずでない。この辺どう皆さん思ってるのかな。でも完全受動的でないよねって言って、うんっていっちゃったらさ、今度は一体他力って何、法の方から悟らされてきてるみたいな話しは、一体どうなるんだっていう話しになるわけよ。そこは一体どうなってんだ、だからどうなんですか。宗教のことを伝えるっていうことは、こっち側(本尊側)が主体であって、あなたが主体じゃないわけでしょ。真宗ではこっちが主体、主体は真理はひとつでさ、それを正確にカラーコピーで正確にコピーするように、ばっとコピーしていったら、出ることはみんな同じだっていうのが理想状態なわけ?そうだとして、あなた達が、それぞれの個性とか悩みとか歴史を引きずってきて、違った煩悩を持ちつつ生まれてきているっていうことに意味がなくなっちゃうよ。だからそこはどうなってんのっていうのが私の疑問、疑問じゃない、いつも気にかかるところ。
  このあたりってすごく大きいことだと思うんですよ。だから伝えるってどういうことかって、さっき言ったけど、もう一回言いましょうか。ひとつは学校のスピーカーみたいに伝える。ここにある真理をそのまま、オーディオで言えばひずみとかね、そこを全然ゼロにして伝える、それってそれでいいのかどうかっていうことやね。オウム真理教ってありましたよね。あれ見た時に、ある種の不気味さっていうのはね、彼らはそれを言っていたんだ。つまりオウム真理教の、特に非常に信仰の厚かった人達は何かって、私は麻原のコピーになりたいって言ったわけよ。彼は何を言ってたかって言うと、修行すること、修行って何かって自分の頭を全部真っ白けにする。ヘッドギアみたいなつけてさ、麻原からの脳波なんか受け取って、麻原の脳波と同じものを自分の中に作るんだと。それでこういう布教をしていく。これがオウム真理教だといってたわけ。それができるようになることで、位が上がっていく、オウム真理教の中でね。あの不気味さって、あったわけだよね。つまり麻原のコピーになればいい、私がコピー人間を増やしていってと、みんな同じこと言うわけ。だから必死で勉強するんでしょう。麻原の言ったことが大きな経本になってる。必死で朝から晩まで覚えて暗記するわけよね。だからその不気味さってあるんだけど、でやっぱりそれってね、多分宗教の中にいない人が、宗教っていうものに感じる不気味さのひとつだと私は思ってるんですよ。
  これはオウムだけじゃなくって、多分仏教でもキリスト教でもなんでもそうだと思うけども、外から見た時、宗教のひとつの不気味さとして、多分人々が感じてるかもしれないのは、そういう面かな。司令塔があって、それのコピーをばらまいていて、真理はひとつだ、みたいなそれが押し広げられてきて、誰に聞いても同じ答えがきます、みたいなね。
 それって直感的な不気味さがあって、そんなんだったら別に世界に人間がいる必要ないじゃん、と思うわけよ。全部ロボットだったら一番いいわけでしょう。釈迦がひとりいてさ、後は釈迦のコピーばっかり世界中に何十億かいたら、全世界平和なわけよ。そしたら、別に人間が生きてる必要ないんだよね。だから、難しい仏教学とか、キリスト教理論とか無関係にして、普通に感じる何かの違和感っていうかな、もちろんその違和感は間違った情報に基づいた違和感かもしれないけども、あるんだよ。
  たとえばこういうことがある。ホスピスっていうのありますね。今皆さんの中でも、病院とかで介護されてる方もいらっしゃるかもしれませんけれども、ホスピスというのは死の看取りですね。今、日本で死んでいく人っていうのは、いわゆる癌ですね。癌で死んでいく人が死因の1番目です。これから益々そうなっていきますよ。癌で死ななくでも、癌の治療中に他の病気で死ぬとかね。そんな感じになっていく時代。すると大体これからの人は、病院の中で、あるいは自宅で、自分がもう死ぬってわかりながら死ぬわけだよ。今、日本の場合、癌の告知率は非常に低いけど、やっぱりわかるわけですよね。実際にお医者さんから直接言われなくても、回りの反応とかで「もう死ぬのかな」とその時に、今の医療はかなり色々進んでるので、ちゃんとした医療やってるとこ行けばその痛みとかいうのは、かなりコントロールしてくるんだけども、体の痛みはコントロールできても、残るのは心の問題ですね、心の問題。やり残したこととか、人間関係の問題もあるし、プラスもうひとつは、やっぱり宗教性の問題にぶちあたる人が多い。自分が生きてきたのは、なんなんだ。結局、死んだらどうなるのかみたいな、だからまさにここですね。その宗教って発したところの、根源の問題なわけですね。それにぶつかりながら死ぬ人が、これから日本では出てきます。その時に医療の方からは、医者では太刀打ちできないっていう声が出てるわけですよ。つまり医者っていうのは、医学部行って、体の構造は必死で勉強するんだけど、心の構造なんか全然学ばないわけ。だから心のことは、ようわからん。特に宗教になると、その宗教やってるお医者さんはわかるかもしれないけど、宗教者でないお医者さんって、ほんとにどうLていいかわからない状態になってきてて、いつもベッドサイドにいてケアしてるわけじゃない。看護婦さんなんかすごい困ってる。だって、もう死ぬってわかってるような人が、体拭いたりいろんなことしてる時に、死んだらどうなんだろうとか聞かれても、看護婦さんは20代だったりするわけでしょう。そんなの無理だよね。六十年七十年生きてる人から、20代の女の子に、死んだらどうなるだろうねとか、私の人生なんだったんだろうと言われたって、すごい困るんです。実際に看護に携わっている人達の話し聞くとすごく困ってます。だからひとつの声として、やはり宗教者にどうしても関わってほしい声は、実際あるんです。そこで大きい問題なのは、そういう声はあるんだけれども、お坊さんには来てほしくないっていう。私これは差別だと思いますけれども、袈裟を着て入ってきてほしくない。だから皆さん今着てる服ですか、要するにお坊さんの格好して病院に入ってこられると縁起が悪い、というふうに病室の人達が言うんだね。誰か死ぬんだ、みたいな。だからほんとはそういう状況こそが問題なんでしょう。だから縁起、袈裟みたら縁起が悪いっていうこと自体、実はほんとは問題なんです。そういう声もあるらしくて、なにより医者自身がそういうふうにも思っているところがあってさ。だからその宗教性の看取りっていうかな、宗教性の看取りっていうことは必要だと思うし、医者も看護婦も手が出ないと思ってるけれども、お坊さんに入ってきてほしくもない、ような思いがどうもあるんです。色々話しを聞いてみるとね。
  そしたら牧師さんならいいかっていうと、キリスト教のまた別の問題があって、牧師さんて日本の風土にピンとこない。もちろん事実上は日本のホスピスっていうのは、キリスト教の人達によって開拓されてきているので、日本の現存するホスピスはキリスト教の牧師さんがちゃんといるよね。だからそれはそうなんだけど、一般の病院の、一般病棟っていうか、中に入ってくるっていうのに、牧師さんっていうのもなんか…。
  その時にいろんな議論、今まで私達もしてきたんだけれども、私が思うのね。自分の場合どうだろうって思うんだよね。私が死ぬ時はじゃあどうなんだろう。さっき言いましたように、私は宗教者じゃない、信心もしてない。それで色々仮定して、考えてみよう。私死ぬ時に身よりも一切いない、友達もいない、とそういう状態で死ぬ、と考えてみた時に、うーん1人で死にたいかな?と思うよね。でもやっぱり死ぬのは1人だし、それもしゃあない、それも私は開き直ってますけど、まあ実際死ぬのは一人。その時やっぱり私大きな問題抱えるだろうし、恐怖も抱えるし、不安も抱える、絶望も抱えると思うんですよ。その時にお坊さんに来てほしいかって考えた時に、私はふと思ったのは、その問いにイエスともノーとも言えない。たとえば私が身よりもなく友達もなく、どっか病院に行って「癌です。あなた後命が一ケ月です」と言われて、そうかしゃあないと思っても、やっぱり一人で死んでいくのはよくわからないし、いやだし、不安も大きい、絶望も大きい。さあどうしようと思った時に、ベッドサイドにお寺のチラシなんかあって、そういう時にここに電話しなさいと書いてあって、それを見て「ちょっとすいません、私もう死ぬんです。怖いから来てくれませんか」って電話するでしょう。そしたら、誰が来るかわからないじゃない。もちろん資格、認定書かなんかついたお坊さんが来るんと思うけど、講習何時間受けました、研修も受けました、本願寺で勉強しましたとか、そんなお坊さんくるんと思うけど、でもそこで初めて宗教者の方に会って、なんの話しをするんだろうと思うんだ。だってそこで始めて会うわけでしょ。もうひとつは、そこで話しをしたりする時間で、癒されるとか、私が救われるとか、安心するとかいうことが起きるのかというと、その人が仏教の信心があって、信仰があって、宗教者であるから私が安心を得られるのかというと、なんかそうでもないような気がするのよね。あるいはそこで私が仏の教えを聞いて、仏の教えによって安心を得るのかというと、そうでもない気がする。ここは微妙ですけど、今私は自分の場合で考えてますよね。だからそしたら無意味かっていうと無意味でもないような気がする。
  じゃあ一体ポイントは何かと言うと、今のところ思ってる結論というのは、その時に私が出会う宗教者の人格によるんだと思う。一言で言えば、その人の人格によって、ある種、絶望することなく死んでいけることがあり得る。つまりこれどういう意味かって言うと、宗教の教義で私が安心していくっていうことではなくて、目の前にいる一人の人間と出会うことによって安心するということがあると思うんですよ。例えば、私がベッドに寝てる、死にそうになっている、もうすぐ死んじゃうんだけど寝てるでしょ。ここで宗教者の人が来ますよね。でこの時に、宗教者の人が、その人格とか、人間的でない深みとか、光とかよくわかんないけど、この人も人間だ、で、この人がなんかそういうものを持ってるとしたら、多分この人の背後には、その教えみたいなものがあるんだと思うね。教えかなんかわからんけど、そういうものとこの人との関係、長い時間の、長い長いこの人の苦しみとか、いろんな関係の中でこの人の人格ってできてくるわけでしょ。何十年かの関係でこの人の人格が出来てくるでしょう。私は多分教えを聞いて安心するんじゃなくって、この人の人格と触れ合うことによって、私にも何かが起きるってことがあると思う。
  だからその意味では、教えっていうのは、信心のない人に働くかもしれない時には、どういうふうにして働いてくるのかっていうと、多分教えとこの人との相互関係と歴史性があってさ、その中で形つくられたその人格と、私っていう存在との間で何かの交流が起きる時かなっていう気がする。だからワンクッションあると思うね。そこにワンクッションがあってさ、やっぱこの人の人格みたいなものとの触れ合いで私に何かが起きていくことは十分ある。でもこの人の人格ができるためには、この人は宗教的な何かとの長い長い苦闘の歴史があるわけ。もちろん同じ信仰持ってる人は、直接なんか触れ合っていくことがあると思うね。
 でも、信仰のない人の場合は、むしろ人間なんじゃないかな。だからホスピスみたいなとこで、私が自分のこととして考えた時に思うのは、私がそこで何か感銘を受けるような人間に出会った時に、まあ死んでもいいかなと思うかもしれない。その人間の背後に何があろうと私はかまわない。私の方から見れば知ったことではないかもしれない。たまたまその人の背後に浄土真宗があったって別にかまわないし、キリスト教もあるかもしれない。
 あるいは宗教がないかもしれない。だから逆に言うとさ、この人格に会う時、この人というのも私と同じように宗教的にあんまり関係ない人かもしれない。でもその人はじゃあなぜ宗教と関係ないのにこういう人格を持てるかっていうと、多分その人も社会の中とかいろんな人間の中で、のたうち回ってきてるからだと思うんだ。その中で何かを発見してきているから、何かわかってるわけでしょう。その人の人格の中で、私が交流する時に私が何かを受容できていくっていうかな、自分の信みたいなものそういうことってあると思う。
私のように宗教の信心とかない人が、ホスピス的なものに求めるものってこういうことかなあって思ってたりするんです。だからその最後で神を信じたり、最後でなんか仏に出会ったりっていうことがあるかもしれないけど、それよりもやっぱり人との出会いっていうのかなあ、これは皆さんどう考えるか是非お聞きしたいですね。私は宗教的なケアっていうのかな、心のケア、あるいは魂のケアっていうのはひとつの形はこれかなっていう気がします。
  だからひとつ思うのは、結構重要な話だと思うんで、全然脳死の話にいかないけど、その前から結構繰り返してるけど、私は宗教ありませんって断言してるんです。でも宗教の否定はしてない。だけど非常におもしろいのは、私の親しい友人っていうのは、宗教の人がむしろ多い、宗教やってる人が、やってるって変な言い方だけど、不思議でしょ。なんでなのかな私友達百人もいないからね、少ないんだけど、また会ってみたいな、と思う人っていうのは、どういう言い方がいいのかわからないけど、宗教の人って結構目立つ。じゃあその人と会って宗教論議をしてるかといっても、全然してなくて、宗教の話はほとんどしたい。たいがいの場合、ただ話したり、ご飯食べたりしてるだけだけど、なんでかというとね、これもよくわからないけども、その人は宗教の人だから私はもう1回会いたいと思うわけじゃ全然ないわけで、そうでなくてもやっぱりその人に会いたいわけでしょ。その人とまた話したいなと思う私がいるわけ。話してる時、別に宗教の話はしてないわけだ。
 例えばその人が同業者だったら、当然同じ学問の「最近こんなこと話題になっているよ」みたいな話をしてるし、同業者じゃなければ、最近どんな映画見たとかそんな話してる。
 でも、そういう話を逆に言えば、学問の最近の動向はどうかとか、どんな映画見たとか、どんな歌が流行ってるという話だけだったら、誰とだってできるわけですよ。そこの道を歩いている人でもできるし、皆さんでもできる。だけど、そこの道を歩いている人つかまえてきて、最近どんな映画が面白かったっていう話は、したくないよね。そんなことに時間裂きたくないよね。だから問題は、その人に会いたいということだから、これってよく似てるわけですよ。"この人と交流して死にたい"みたいな人がいたとしたらすごいホスピスだろうと思んだよね。
  あと、宗教ということで考えると、現代における宗教の意義みたいなものは、あるのかないのかってこと、皆さん考えて欲しいと私は思うんだけれども.、あるってさっきのパンフレットの序文(※教書のこと)のとこに書いてあるわけですよね。それはその通りだろうと思う。で、序文にも書いてあったと思いますけれども、全然結論のない話だとは思うけれども、現代のことを考える。と、ひとつポイントとなるのは欲望だと私は思ってます。
 これをどう考えるのかっていうのが、現代を考えるひとつの急所ですね。一言で言うと、現代の我々が住んでいる文明っていうのは、欲望肯定ですね。欲望を追求していくっていうことはOKだっていう文明ですよね。もっと言うと、欲望追求はOK、但し他人に迷惑をかけないぐらいにしましょう。これが現代文明の基本だということになっていると思います。欲望追求を受けただ他人に迷惑をかけることはなるべくやめましょう。そして差別とかね、そんなこともなるべくない方がいいですよね。ただしその自由な競争は大歓迎だし、それぞれが自分の能力を開花することは、むしろ逆にどんどん広めましょう、みたいな考え方で現代の文明は動いてます。
  今、私が言ったことを違うって反論するのは言いにくいですね。憲法にも書いてあるように、個人はみんな幸福の追求権があるわけで、幸福の中に欲望追求があってもかまわない。但し他人に危害を加えるのは、公共の福祉によってやめましょう、みたいな憲法になっているわけ、日本の憲法はね。だから現代の社会ってそういうふうに動いでますね。「いやそれはおかしい」ってなかなか言いにくいですよ。今の杜会の中で適応して生きてたら。
  ただ言いにくいけど、心の底では「えー、なんかちょっとそれでええんかなあ」みたいな感じを、実は多くの人が持っているというのが、現代の状況ですね。つまり現代の状況っていうのは、欲望追求を肯定するような形にシステムが出来上がっていて、これのどこがおかしいんだ、とかこれより他に良い考え方があるなら言ってみろ、共産主義なんかもうつぶれるだろう、社会主義もだめだろう、これしかないじゃないかって言われた時に、そうだよね、それしかないよねって言われたら頷くしかないけども、心の底ではなんか、なんか変な、ふーんみたいな心を抱えているのが、我々の今の精神状態ではないでしょうか。
  その時に色々思うことがあるんだよね。思うことがあるというのは、どういうことかというと、結局これにどう、言論っていうことやってると言論とかさ、あるいはなんでもいいけど、やっぱこの話の中心は、皆流されていくんだよね。他にじゃあどんなのがあるんだ、どんな思想があるんだ。と言われると、答は「ない」。じゃあこれじゃないか。と言われると「はい」と答えるしかない。
  京都に梅原猛という人がいて、これ私の前いた職場の前のボスなんだけども、あの人ですね、偉いなあ、と思ったのは、脳死・臓器移植やりましたよね、今週かな先週かな?皆さんもご存知だと思うし、新聞やテレビで見られたと思うけど、「脳死は人の死じゃない」って、ここにまで来てきて言い続けてる人って、梅原さんだけじゃないの?。だから"偉いなあ"と思うんだよね。いろんな人の識者のコメントとか載ってて、もちろん反対運動してる人は言いますよ、現場でね。それは運動としてのポリシーを言い続けてる人だけど、文化人思想家みたいな、言論人みたいな人でさ、実際もう脳死者からの臓器移植をやった後で、今に至って、まだ「脳死は人の死でない」と言ってる梅原さん偉いよね。私はそこは変に尊敬しちゃうのね。どういうことかと言うと、彼というのは、最後までこのクェスチョンマークの感覚を代弁しようとしてるんですよ。阪大の腎臓移植された人は、健康を取り戻しつつあるわけだし、それを見て誰も「お前は人の命、腎臓を奪ってきた悪魔だ」と言えないじゃない。実際、移植を受けた人の立場に立ってみれば、祝福すべきだと思うんだよね。思うんだよねと言ってると、やっぱりこれでイエスということになってきて、現状肯定になっちゃうでしょ。欲望追求は良いことだっていう潮流がきた時に、それでも尚、この死体のクェスチョンマークにこだわってきて、「脳死は人の死でない」って言い続けているっていうことの偉さが、私は今回も梅原さんにあると思うんだよね。
  今までは脳死は人の死っていうことに疑問を差し挟んでいた人も、今回考え直している人がいます。私が梅原さんと対立してたのは、私が脳死に賛成かということではなくて、なんで脳死とか臓器移植に問題点があるか、ということに対する考え方が違うんだね、私と梅原さんで。それについてはいろんな本があるので、それを読んで頂くとわかるんですけれども、まあそこが違うんです。私自身っていうのは、結構梅原さんと近いんだよね。
 私もこのクェスチョンマークをすごく大事にすべきだと思うんです。その点では、よく似てる、私と梅原さん。
  ただ私は、欲望のことも考えなきゃいけない、と思う。我々は欲望捨てろって言われても、捨てられないでしょう。捨てれないけれども、捨てれない人間がクェスチョンマークも抱えているっていう、この矛盾っていうか、この緊張関係全体をどう考えればいいかっていうのが、私の発想なんですよ。だけど時代の流れっていうのは、勝手にいってるよね。
勝手に行くようにできてる。この時にそのふと思うのね。そのクェスチョンマークを忘れないっていうことを、社会の中で担っていけるものひとつは、宗教かなと思うことがあるよね。
  これはほんとに皆さんどう考えるか。だから皆さん脳死臓器移植どう思いますって言われてたじろぐでしょう。だけども、たじろいた方がいいですよ。私は個人的に思います。
脳死臓器移植をどう思いますかって言われた時に、浄土真宗全員が一致して「それはこうです」みたいな同じ答えを返してぎたら、怖いなあって思う。ほとんどオウム真理教化してるなって感じする。たじろぐ、わかんないでしょ皆さん。別に親鸞聖人も言ってないでしょ、脳死はこうだとかさ、わからない。たじろいで、よくわかんないし、悩んだりするし。でもね、そこで悩んだり、たじろいだりしながら自分はこう思うとかね、「いやこの間までこう思ってたけど、今はこう思う」という姿を、社会の中に晒していくというのが、実は一番大事之ことでないかな。我々はその姿を見てない。だから宗教って何してるかよくわかんないわけ。脳死・臓器移植って日本で15年ぐらいみんなわからなくて悩みまくっているわけじゃない。その時、同じくらい宗教の中にいる人も悩みまくってます、ということがあるんだったら、もっと見せてほしい。もちろん、見せてるけど我々がちゃんと読んでないだけかもしれないけれど…。
  話しを戻すと、そこで悩んでいる人間が見たい。生と死の問題、命の問題わかんないでしょう、全然。その時に宗教やってる人は悟りすましてて、「私達はわかっている」みたいなふうになっているんだと思っているんだね。そうしたら他人事になって、私たちにしたら「ああ、あんたたち偉いんでしょ、私には関係ないな」という感じになるわけ。だから宗教やっていくって言っている人達も"実は悩んでいる"とかね、"よくわかんない"とかいうことがあったら、"あるいは分かってんだけどわかんない"とかね、色々なことがよくあるでしょ。その辺のことが見えた時に、はじめて「ああそうか宗教やってる人も人間なんだ」ということが見えるかもしれない。それこそ「ああそうか宗教も人間がやってんだ」みたいなさ。それってひとつの扉かもしれないですよ。だから宗教が社会に閉じるんじゃなくて、開いていくことが大事だって書いてあったけど、開いていくってことは多分そういうようなところで交流することじゃないんですかね。既にやられてる方もいらっしゃると思うんですが。
  ただ、それは社会全体にまで広まっているかというと、私はよくわかんないね。私の回りの人に聞いてきても、普通の人に聞いてもね、普通っていうかな、まあそこらの、私も含めたそこらの人に聞いてみてみると、やっぱりお坊さんとかお寺の人っていうのはよくわからないっていうのが一番多いわけ。何考えてるのかよくわからない。葬式の時きて、わけわかんない日本語しゃべって、あれ日本語じゃないのか、サンスクリットかよく知りませんけれども、まあそういうふうに思ってるわけ。だから話しを戻すと、その宗教の役割っていうのは、ひとつはやっぱりこれにこだわる、こだわり続けていくみたいな、最後のひとりになってもこれにこだわるみたいなとこって、結構そういう機能ってあるんじゃないかなあって思うんだ。多分梅原さんは、あの人ひとりで宗教やってるんだよね。だから、最後の1人になってもこれにこだわりながら死んでいくってかっこいいじゃん。そういうかっこよさがやっぱ宗教にあってほしいよね。勝手に思うんだけど。
  だからもう1回その話をするとね、たとえば脳死臓器移植の時に、仏教界からの発言はありました。いろんな仏教の、いろんな宗派からの発言もある、レポートもあったし、提言もあったし、いろんな宣言もあった。論説もあった。私も色々読みました。ただそれ全体を通していまいち響いてこないのは、やっぱり人間がみえなかった。もうひとつはね、こういうのが1番多かったかな。特に80年代後半から90年代始めにかけて多かったのは、たとえば、これおもしろいよ。仏教の立場に立つ人は臓器移植はどうかっていうとね、賛成する人と反対する人がいるんだよ。面白い。仏教って一つやなかったのか、と感動するんだけども、それぞれ根拠をひっぱってくる。根拠はどこにあるか。経典にあるんだよね。
 面白いと思うんですよね。脳死臓器移植に反対する根拠も、経典から引っ張ってこれる。
 だって、臓器移植って執着じゃない。生への執着でしょ。移植までして、この世で生きながらえたい。それこそが仏教が克服しようとした、克服っていうか、そこから解脱したかったでしょ、仏教は。だからそういう部分を経典から引っ張ってくれば、臓器移植慎重派になるわけ。ところが、別のところを引っ張ってくれば、これ梅原さんがよく言ってたけども、釈迦の前世でトラに身を与えた話があって、菩薩行の話になって、そこを引っ張ってきたら、今度は臓器移植賛成になってしまう。私両方の論説をいろんな住職さんが、色々書いてるの読んでて、"へえ"と思ったのは、結局、経典とか聖典とか、昔の人が言ったことを根拠にしてしゃべろうと思ったら、何でも言えるってこと。だってさ大蔵経とか、あのぐらいたくさんあるじゃない。あれ見てたら、何でも書いてある。だから自分が言いたいことがあった時、根拠はいくらだって探せるわけ。
  だからすごく不思議だというか、面白かったというか、多くの人はそう思ってるみたい。
多くの人じゃない、脳死臓器移植という問題について研究してる人が皆思ってるのは、経典だって違う文を引っ張ってくれば、違うこと言えるよ。それでいて、我々はこう思うという文章を読んでも、なんか迫ってくるものがない、書いたあんたはどう思うのかってわかんない。あなたは移植を受けたいのか、受けたくないのか。そこをどう思うかとかね。
 だから、執着だから慎重にならないといけたい、と経典に書いてあると言ってる人が、もし心臓病にかかった時どうするの?あんたどうやって死ぬんだみたいなこと聞きたくなるわけよ。この辺の問題はすごく大きいですよ。だから実はそういうところを虎視眈々見てるんだと思う。普通の人達っていうのはばかにしちゃいけないんで、そういうとこ見てるんだよ。だから移植の時でもこういう話があったのは、移植は人類を救うとか言ってるんだから、角膜とか腎臓っていうのは日本でもずっと前から合法的にできるわけですよ。だから死んだ後からでも、角膜なんか大丈夫。
  脳死と別に、生命の尊厳で言うんだったら、一言だけ言っておくと、もうひとつ脳死の人の生命の尊厳ってあるよね。脳死になった人生の命、尊厳の命ということが忘れ去られがちな点に問題がある。脳死になっている人も、その人の歴史性を生ききってそこにいるわけじゃないですか。いろんな人と関係を持ちながら、そこにいるわけでしょ。それはその人の命が尊厳を持ってるんだね、脳死になってても。だからやっぱり移植を受けたいっていう人は、人生を生きたいという、命の、何か燃えてるわけでしょう。ここにも尊厳がある。これもちろん矛盾する面があるわけだけど、そのことを最後まで忘れないっていうことがとても大事なことだと思うんだ。
  というのは、こっちの方が生命の尊厳を忘れていくのは何故かっていうと、今の移植医療は、特にアメリカなんかどういうふうに言ってるかというと、脳死になってる人は、資源だと言ってるわけ。資源、英語で言うとリッソウシーズです。だから資源なんだよ、もう先進国では。先進国、日本以外でね。脳死になった人は、もう移植の為の資源なので、後はいかにその資源を多く獲得するかっていうことと、資源をいかに有効利用するかっていうことに、みんな必死で頑張ろうとしてるわけね。日本も脳死移植が定着していけば、これと同じになっていくでしょうね。後は資源を運用するために、いかにコストを低く押さえるかっていう話になってきてるわけ。ほとんど流通の話になってるわけ。コンビニと同じで、いかに流通コストを下げるかという話になっている。いかに迅速に届けるかとか、臓器を多くの移植を待ってる患者に、少ない脳死の人の臓器をばらして届けるわけ。だからそこで見失われていくものがひとつはこれですよ、脳死になった人の生命の尊厳。だから尊厳のあるものに対する呼び名じゃないよ、資源っていうのはさ。石炭とか石油と一緒だよ、資源っていうの。だからその資源化していくっていうかな、そう動いていくのは、現代にいる我々の文明のひとつの必然性ですね。この文明にのってる限り、そこのところを皆さん1人1人がどう思うのか、どうしていくのか、どう考えていくのかということが問われてる。
  もうひとつは、面白かったのは、レジュメを見てたら、ここに研修に来る時、"健康保険証持ってくること"と書いてあったので、私笑っちゃったんだけども「ああそうか、皆さん国民健康保険とか、いろんな健康保険の制度の中でちゃんと検診受けてる。皆さんだって同じ穴のむじななんだよ、はっきり言って。でしょ。だからそのあたりに目を閉ざさずに、皆さんだって同じなんで、あなた達1人1人が現代文明の恩恵を被って生きてるわけでしょ。健康保険や国家的な健康保険の資源配分を受けてるわけ、再配分をね。
  そういう中にいながらも"資源だと見なしていっていい"という割り切り方に対しては、ずっと疑問を提し続けるというような人がいると思うんだよね。かつ、疑問を提し続けるだけではなく、行動として現す、何かの行動としてね。「私は、資源として考えること自体に問題があるんだ」と思うんだったら、"そういうシステムの中で生きながら、そこに開き直ることはやっぱりおかしいんじゃないか"ということを考え、しゃべり、行動していくべきだと私は思う。私もそういうことをしようと、ずっと努力し続けてます。
  私が一番腹立つのは、脳死の議論とか読んでると「これでいいじゃないか」と言ってる人がいる。資源でいいじゃないか、死んでるんだし。こういう人達どうだろう?脳死になったらその人はもう死んだんだし、もう物体と同じだし、物と同じなんだから有効利用する人の方が倫理的だ、というような言い方する人がいるんだよね。それはちょっと待てよって言いたくなる。そういう考え方は、やっぱり命の尊厳という見方が消えていく。
  これはよく言われてることでもあるけれども、臓器移植、脳死者からの臓器移植の大きな問題は、他人の死を前提とするというとこだよね。心臓、肝臓、心臓移植の場合は、人は死なないと移植できないわけだから、結局待機してる患者さんっていうのは、後何ヶ月の内に貰わないと死んでしまう、ということがあると思う。けれど、待ってるうちに"早く表れないかな"という気持ちになるらしい。"順番が早く回ってこないかな"という気持ちからアメリカとか行ってさ。するとやっぱり、"早く誰か死なないかな"という心になってくることがあるらしい。だからその問題というのは、"誰か死なないかな。心臓だけ無事で死なないかな"そういうふうになっていく人間の本性があるんだね。それにのっかっている医療ではあると思うのです。それは臓器移植の陰の部分だよね、闇の部分。私ははっきりそう思います。
  ただ逆の面もあって、自分の死んだ脳、死んじゃってもう生き返らないのだったら、他の元気な部分をいろんな人に役立ててもらいたいと思ってる人もいるわけでね。その人達の思いをサポートしていくという面が移植にあるわけ。それは移植の持ってる光の面です。
だから移植医療ってほんとに複雑ですよ。どう評価するかっていうのは、その複雑なところを我々は全部というか、一面的でなく見ていく必要があるわけで、私もそうしてきたけども皆さんもそうしてほしい。
  さっき言った自分の脳が死んでも、他の生きてる臓器は役立ててほしいっていう面に一応注目していけば、さっきのトラの話でないけど、私のものをあげることはいいことだ、それが釈迦の教えだ、というところに結びついていく考え方ではあるんですね。だけどもう一つの面というのもあって、あまり大きな声で語られてないけれども、臓器をもらってまでも生き延びたいという欲望をどう考えるか、というのもあると思うんだよね。例えば、重い心臓病の方とかあるいは腎臓病の場合もそうだけれども、全員が移植を望んでるかというと、そんなことはないんですよ。古い統計だけれども、腎臓の透析してる人にアンケートしたのがあって、それ見ると半々ぐらいなんだよね。腎臓の場合、透析なんかより移植して成功した方が体の感じはずっと良くなるんだよ。けれどもわかっていても、将来、脳死が仮に移植できるようになったとして、移植を受けたいと希望する人は半分ぐらいだったかな。後の半分は、今のままの方がいいと思ってる。だからみんなが望んでいるわけでもない。ということは、移植を望む人はやっぱりもらってまでも、いい状態になりたいと思ってるわけ。
  これ私らも欲望だと思うよね。はっきり言って健康でありたい欲望、なるべく長生きしたい欲望、そういうものは一体どう考えていけばいいかっていう時に、さっきの欲望追求肯定の文明の中にいるとね、それに疑問を挟めないわけ。この文明の中でみんなそういうことやってる、あなたもやってるのだから文句言うなよ、ということがあるわけでしょ。
 だけどほんとにそうなのかな。そっちばっかり進んでいったらどうなるのか、という疑問は当然あるわけです。ここはほんとに難しいですよ。私、前からずっと悩んでるけど、もっと人間が、というか人類がまだまだ時間をたくさんかけて、悩まないといけないと思うし、悩み続けなければいけない。
  最近ひとつ思ってるのは、欲望追求ということから我々は逃れられないと思うけれども、逆に言うと、欲望追求していくことに走ったらどうなるか分かってるわけですね。私自身自分の経験でわかったよね。欲望追求するっていうことは、拡大拡張していくわけだよ。
もっともっと生きたい、もっとこうしたいとかね。それで、欲望追求をサポートするように、自分の回りを整理していくと、何が起きるかというと、持ってるもの使わなくなるんだよね。私この辺結構ポイントかなと思います。これはすごく簡単なことだけど、私音楽好きだよね。好きなんですよ。CDとかよく買うでしょ。"ああこれ聞きたい。最近出た新しい曲聞きたい"と思ってCD買うじゃない。すると、何が起きるかというと、前買って気に入ってたCDを聞かなくなるんだよね。ばかみたいなこと言ってるような気がするかもしれないけども、でもこれは実は大きなポイントで、前に聞いたすごい好きな曲があるんだよね。好きなアルバムとか何回聞いてもいいなあと思ってる。実際に何回聞いてもいいんだけど、一方でいろんな曲を聞きたいと思ってる。いろんな曲を聞いて、いっぱいCDを買ってると、棚があふれてきたりして困ってるんだけど、前に聞いた何回でも聞きたいと思っていたCDを、聞かなんくなってることに気がついた。持ってるCDを聞かなくなるというのは、何だろうと思う。私ここを踏ん張って考えたいと思うけども、持ってるもの使わなくなるんだよね。よく考えると持ってたCDを百回でも、毎日寝る前に必ず聞いてもいい、とまで思っていた曲を聞いてない。飽ぎたからじゃないんだよ。たまに聞くとやっぱり感動するよね。つまり欲望追求の文明にのっかっていくということは、我々の"もっともっと"という欲望を満足させるけれども、逆に持ってるものを使わなくなるっていうか、どう言えばいいのかな。持ってるものを使わないと、逆にどういうことかと言うと、今度は増えていくからCDケース置き場を非常に困るわけね。狭い部屋で持ち続けて。
 使わないものを持ち続けていくことに精力割かなきゃいけなくなるね。精力というか、エネルギーと労力ね。皆さんお寺だから広いからいいかもしれないけど…。持ち続けていくことって大変ですよ。ローン抱えてる人を見てると、ローンを払うためだけに仕事やってる人いるでしょ。結構空しいだろうね。払い終わった後の空しさはすごいだろうと思う。
 でもここがポイントだと私は思う。つまり、与えられたものを開花しなくなっちゃう。この可能性をつみ取ってしまうんじゃないかなあ。私はこれを今考えてるところなので上手く言えないけれど、欲望追求を肯定していくと今あるものを開花できなくなっていくような気がする。今、自分に与えられてるものでね。この辺って皆さんどう思いますか。
  また、つまんない話しますけど、例えばどういう例がいいかな。CDの例がわかりやすいから、そうしますね。CD200枚持ってます。1月に2〜3枚ずつ買ってます。例えば、私が半年くらいどこか転勤とか出張に行かなくてはいけなくなって、持っていきたいですよね。CD聞きたいからって、200枚持っていけませんね。それなら10枚選んで持っていこうとする。音楽ないのは寂しいから。実はそれやってみると、その10枚って、やっぱり好きなもの選びますよね。それを聞くと、他に聞くものないからそればっかり10枚くらい聞くと、"ああーこのCDやっぱり良かった"と思う。その中に5年ぶりに聞くCDがあったとして、繰り返して聞いていると、5年の内に私も色々人生体験しています。そうすると違ったふうに聞けることがあるわけよ。「ああこんなそうか、この人こんな思いを込めてたのか」とかさ。そこで結構感動したりするよね。でも多分それは、私がどこか強制的に出張や留学しなくてはいけなくなって、200〜300枚持ってるCDの内から10枚しか選べないっていうことでないと、多分わからなかった世界なんです。何故かというと、多分その曲は段々聞かないようになって、また新しいもの買って聞いてるわけ。どんどん増やして。すると既に持ってるものを、もっと味わい深く聞くという可能性は、自分で消してるんだよね。だから私は逆に物を捨てることによって、最後に残ったものを深く味わえることがある思う。そういう可能性を人間から奪っていくのが、欲望追求の文明じゃないかと私は今思っているのです。まだ上手く言えませんけどね。
  ここのクェスチョンマークみたいなところ、これがその辺に向かって開いていくような何かじゃないかという気がするんだ。いまもっているもの。だから私、臓器移植止めなさいなんて言いませんよ。そういうこと言ってるのではなく、移植に問題がないから移植が進めば良いと言ってると、今言ってるような人間のそもそも持ってる可能性を益々摘み取っていくんじゃないかという気がする。たとえばね移植を受けてもやっぱ死ぬんだよ、だからさこの辺のことがやっぱあるわけよ。移植を受けてどうなったかというと、死ぬのが5年延びたという話しだね。もちろん臓器によりますよ。30年ぐらい延びる人もいるしね。
 でもやっぱり死ぬんだよね。そのあたりは、視野を広げた時にどういうことになるんだろう。多分宗教っていうのは、そういうことについて、実は考えてきたはずだと思うんだよね。多分近代化が始まる前までは。ところが近代化、産業化が始まって、特にここ100年か150年ぐらいどんどん新しい物ができてきて、どんどん人間の所有物が増えてくる中に宗教も飲み込まれてきてるんじゃないかな。実は宗教はその辺よく考えてきてたはずなんだよね。さっき言ったけれども、トラの話しを持ち出すと、いまいちピンとこないけど、もっと別の、宗教の智恵の語り方ってあると私は思います。だからそれは皆さんが考えていくべきだ、自分の人生の中から。経典から考えるのでなく、教えみたいなやつと交流したり格闘したりしてるのでしょ、私わかんないけど。するんですか?してほしいよね。その中から皆さんが掴み取っていくのじゃないのかな。この時代を、同時代生きてるわけだから、我々と、私と同時代生きてるわけでしょ。健康保険証持ってんだしさ。だからその中で自分の言葉を語り出していくっていうことかな。そういうことじゃないのかな。その時始めて宗教っていうものが開けるんじゃないですか。過去から遺産を維持するだけのことが宗教じゃなくって。
  関連した話をもう一つだけしましょうか。手塚治虫という人がいてですね。皆さんも本で読んでるよね。この間NHKで手塚治虫の番組があって、私もコメンテーターとして出たんだけど、なんかひどいよね、ひどい。東京のホテルの一室で、昼から夜まで缶詰になって、いっぱいしゃべったあげく、実際番組に使ったのは3分くらい。かなりめげたよね。
 まあテレビってそういうもんですけど。それも、何時間もしゃべって、冒頭の部分だけで、一番話が面白くなってきたとこは、全部カットしてんだもんね。最初の誰でも言えるようなとこだけ使ってさ、と思うけど、これオフレコね。NHKの人に言わないように。それでですね、手塚治虫って私好きなの。読んでみたんだけど、読み返してみたんだけど、とても又新しい発見があって、手塚治虫って生命とか、命にすごくこだわってた人だということがよくわかる。手塚治虫の生命観って面白いなあって思ったのが、結論だけいうと、2種類の人達が漫画によく現れる。2種類の人がいるわけだ。両方の種類の人も、自分の命が有限だってことにえらいこだわってるんだよ。永遠とか、命がほしいとか、死ぬのはいやだとか、そんな問いに取り愚かれて、もがいてる人がいるんだけど、その中に2種類の人がいて、手塚はよく書いてる。
  1種類の人はどういうのかって言うと、生命の秘密を分かろうと頑張るような人。あるいは生命を、いろんな人の命の上に立とう、支配者になろう、権力者になろうという方向性で考えていく人達を描いていますね。まず1種類の人がそれです。要するに自分の命は有限だけれども、いろんな人達の上に立てば、それらを全部支配するということで、自分の有限性が克服されていくんじゃないかという考えとか、あるいは生命の秘密を解き聞かすといって、情報をいっぱい仕入れて研究し、解明することで、宇宙の神みたいになるとか、そういう方向って何かというと、自分を拡大する方向だね。自分を拡大して、知識とか物とか権力とか人とか、全部自分のこの手によって拡大して、自分の内側に入れていってさ、そういうことによって神に近づくみたいなね、私が絶対者に近づくみたいな方向で、そのなんとかしよう解決しよう救いをえよう、というふうに考えるような人達、あるいはその所有物を増やそういう人達が描かれてる。
  ところがもう1種類の人達が描かれていてですね、これはどういう人達かっていうと、自分が神になろうとか、所有物を増やそうとか、他人を従えようとか、自分を拡大したり物を増やしたりするんでなく、今あるここをいかに生き抜くかっていう所に集中していく人達って現れるね。これがもう1種類の人達。だから私の命は有限だけれども、有限な今ここに私がいるわけで、物持ってないかもしれない、権力ないかもしれないけど、その瞬間を今与えられたものをどういうふうに生ききるかっていうとこで、がんばっちゃう人達っていうのがもう1種類現れる。
  手塚の解決っていうのは、その2つの種類の人間が闘うんだけど、闘ってやっぱ後者が勝つんだよ、最後の最後は。つまり自分が神になろうとしていた人は、自分の力によって滅んでいくんだよね。神になろうとしていた自分のパワーによって自滅していく。今ここだけを生ききろうとしてる人達が、勝つ、不思議だけれども。
 今ここって有限じゃないですか。今ここに生ききろうとした、その今ここの中で永遠にふれる、みたいな形になってるね。
 今回それをはっきり発見して、手塚さんってそういうふうにして生命って見ようとしてたのかな、と思って結構感動しました。
  もうひとつ思うのは、前者の、自分が神になろうとしてる人というのは、人間との関係をどういうふうにもっていくかというと、手塚の漫画では、他人を支配しようと考える。
 他人を支配しようとか、あるいは好きな女を手に入れようとかさ。権力者となって手下を増やそうとか、人の体を所有しようとかいうふうにしていく。ところが後者の人間、2種類目の人間、今ここでっていう人達は、そうじゃなくて人を求めようとして、誰かと出会おうとする。今ここを一緒に生きる、誰かと出会おうとしてる、それは所有することと違うんだよ。所有したり手下にしたりすることじゃない。人は人を所有できないけど、求めることはできるんだね。今ここで孤独でしかない私が、別のそういう人達を求め続けるっていう、そこに大きな違いがある。だからその時に彼は求め続けていた人達が結局今ここっていう有限の限定された中で何かに出会う、最後に手塚はそれは命と言ってるけどね。だから命に出会うのはね、獲得しようとか、所有しようっていう道筋の先では得られないと彼は言ってるね。そうじゃなくってむしろその求めるっていうことかな、自分の中に繰り入れるんではなく、自分の外にあるものを求めるっていうところで求め続けている時に自分の力とは関係なしにね、何かね、永遠が現れるんです、「ぱん」と、すごい逆説だよね、だけど手塚はそういうふうに考えていてそれを命と呼んでます。だから彼はかなり本質的なところのことを漫画にして描こうとしてるな、と私は思ったね。そういう話をしたんだけどさ、全然テレビで使ってくれないね、今みたいに上手くしゃべってませんよ。今あれから色々考えたから、こういうふうにしゃべれるけどね。まあいいや、それでまあ今日の話しと関係とてもあると思いますね、だからもう時間がそろそろこようとしているのかな。そうなんですか。他にも色々しゃべりたいことあったけど、まあそれ最後の所でまたちよっと時間もあるみたいだし、これから休憩があって皆さんに色々お話あって頂くわけと聞いてますので、皆さんの話とかあるいは疑問点とかあると思うけど、その場で答えるというよりも、それ色々私もお聞きしてて、又後で、そのコメントヘの質問も兼ねてもう1回またしゃべらしてもらおうと思っています。