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作成:森岡正博 
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正義を取るのか、戦争を取るのか

 

意訳

ジョージ・フレッチャー「われわれは、正義を取るのか、戦争を取るのかを選択しなければならない」(超訳・森岡正博)

 9月11日の事件から約一ヶ月が経ったけれども、われわれはまだ、そこで何が起きたかについて、適切なことばやイメージをつかめないでいる。それは、正義の裁きを要求するような「犯罪」だったのか? それとも、戦争宣言を誘い出すような「攻撃」だったのか? それは、オクラホマ市庁舎爆破事件にさらに輪をかけたような性質のものなのか、それともパールハーバーの再来なのか? もしこの大量殺戮が、何人かの人々による犯罪だとしたら、−−それはすなわちティモシー・マクベイ(オクラホマ事件の犯人)のイスラム原理主義バージョンといういうわけなのであるが−−、そうだとしたら、彼ら犯人たちを逮捕して「正義」の裁きにかけたほうがいいということになる。だが、もしこれが戦争だとしたならば、正義なんて無関係だ。われわれは、ただ、人々が口数多く語っている軍事行動を遂行するだけのことだ。もしわれわれが戦争状態にあるのだったら、われわれは、いろんな側面を道徳的な天秤に掛けてあれこれ悩むなんてことをせずに、ただただわれわれの国家政策を追求するべきなのだ。

 正義と戦争は両立しない概念だ。正義というのは、宇宙における道徳的な秩序を回復するものだ。だが、戦争というのは、ある国家のサバイバルを確約し、国益を達成するためのものだ。ブッシュ政権は、いま必要なのが正義なのか戦争なのかを決めかねている。ペンタゴンは最初、軍事行動のことを「無限の正義」と名付けていた。しかし同時に、ブッシュ大統領は、彼らの攻撃のことを「戦争行為」だとも言っていたのであった。

  (中略)

  われわれは、正義と戦争の違いをはっきりさせておかねばならない。もしこれが正義の問題だとしたら、われわれは個々の容疑者に注意を集中させる必要がある。だが、もしこれが戦争なのだったとしたら、個々の人間のことは論点とはならない。パールハーバーから無事に帰還した日本人パイロット個人のことなんて、誰も気にとめないであろう。彼らは犯罪者というわけではない。彼らは敵の戦力の一兵卒なのである。彼らはけっして個人的に「有罪」なのではないし、日本国の名の下に動いた彼らの上官もまた、個人的に「有罪」なわけではない。組織化されたテロ活動に関しても、同じことが言える。まあ、今回の場合、このテロ集団は、WWWみたいに世界中に分散しているわけであるが。

  (かなり中略・・・いきなり結論部分へ)

  懲罰にみられる正義とは、みんなが知っている聖書の格言、すなわち「目には目を」というやつである。もしこっちで6千人の命が失われたんだったら、やつらもそうなるべきだ!というわけだ。だが、仮に、テロ活動を支えるすべての基盤施設が突如明け渡されたと仮定してみよう。あるいは、彼らが「もう二度と攻撃しません」と正真正銘宣誓したと仮定してみよう。このとき、われわれの側に、テロリストたちに危害を加える正当な理由がはたして残されているだろうか? ここで正義を追求したいのなら、「イエス」と答えなければならないだろうし、戦争をやっていたのなら「ノー」と答えなければならないはずだ。

 (森岡註:正義の追求なら、そういう場合であっても、テロリストをつかまえて裁判にかけて「死刑」にする必要がある。だけど、戦争だったら、相手が無条件降伏してきたら、それで終わり。「死刑」なんか考える必要ない。−−−ってことを言いたいんだと思うんだけどね)

  ということは、戦争の目標のほうが、道徳的な秩序を追求せよという命令よりも、慈悲深くなり得るわけである。たとえ正義のほうを望んでいたとしても、われわれは正義を追求する立場にはない。われわれは紛争の当事者なのであり、中立的な審判ではないからだ。われわれは、戦闘員であり、かつまた同時にみずからの正しさを証明する陪審員であるわけにはいかないのだ。われわれの根元的な国益が、いま危機にさらされている。たしかに、戦争の開始は、政治の失敗を認めることと同じくらい内心忸怩たることではある。だが、テロの危機を押さえ込み、根絶するための唯一の方法が戦争しかないのならば、われわれは戦わねばならないのだ。

 

*誤訳があれば、ご一報ください(翻訳のプロじゃないので、間違いがあるはず)。

最後のところの英語

"Justice in punishment leads to the common understanding of the Biblical maxim of an eye for an eye. If we lost 6,000 people then they should, too! But suppose that the entire infra-structure of the terrorist movement suddenly surrendered. Or suppose its members credibly pledged never to attack again. Would we have any justification for harming a single soul? Yes, in the pursuit of justice. No, in waging war. This shows that the aims of war can be more merciful than the imperatives of seeking moral order. Even if we desired justice, we are not in a position to pursue it. We are a party to the dispute, not a neutral judge above the fray. We cannot be both combatant and the jury of our own rectitude. We have essential national interests at stake. Our going to war is nothing more righteous than admitting the failure of politics. We have to fight if that is the only way of subduing and controlling the dangers of terrorism."

(原文)
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A14347-2001Oct5.html