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町野案への疑問
てるてる著 2000年4月24日
 

町野朔さんの
「『小児臓器移植』に向けての法改正――二つの方向――」では、
死者の自己決定権について、次のように述べています。

「しかし我々が、およそ人間は連帯的存在であることを前提にするなら、
  次のようにいうことになろう。
  ――たとえ死後に臓器を提供する意思を現実に表示していなくとも、
  我々はそのように行動する本性を有している存在である。
  いいかえるならば、我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。
  もちろん、反対の意思を表示することによって、自分はそのようなものではない
  ことを示していたときには、その意思は尊重されなければならない。
  しかしそうでない以上、臓器を摘出することは本人の自己決定に沿うものである。」
(http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/machino01.htm)

それに対して、元脳死臨調参与の光石忠敬さんが、
「およそ人間は連帯的な存在である」というのは、
「である」を「であるべき」と混同しており、
「我々は死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである」
というのは、
「何人の何の意志決定もないのに自己決定とは自己決定の語の濫用で、
  単に言葉のプラスイメージにただ乗りしているだけだ」
と批判しています。
(「市民と衆参両議院の共催にるシンポジウム・臓器移植法成立から3年・
   いま改めて脳死と臓器移植を問う」レポート
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4728/hantai.html)

光石さんの町野さんに対する批判は、まったく当を得たものだと私は思います。

さらに、私は、以下に述べる医療行為そのものへの考え方に基づき、町野案における
死者の自己決定権のとらえかたに異議を唱えます。

まず、基本的に、
医療は、人の生命を救済し、身体の苦痛を軽減することによって、
人の生命身体の自由を保障する手段の一つである。
生体間の移植は、臓器を提供する人の生命身体の自由を侵害しないときにのみ、
許される。
医療には、終末期医療も含まれる。
終末期医療は、人の死ぬ権利を保障するための手段の一つである。
生体間でない、脳死後、および、心臓停止後の臓器の摘出は、臓器を提供する人の
死ぬ権利を侵害しない限りにおいてのみ、許される。
と考えます。

さらに、医療行為については、麻酔科医の弓削孟文氏や移植医の太田和夫氏の
著書に基づいて、次のように理解しています。
(http://www.interq.or.jp/earth/elephant/transplantbook.html)

まず、弓削孟文著『手術室の中へ 麻酔科医からのレポート』(集英社新書、2000年)
によると、

  手術、薬物治療、麻酔、輸血などは、すべて、患者のからだに加えられる「侵襲」
  としてとらえる、というのが、近年の医療の姿勢になってきている。たとえば、
  輸血は臓器移植の一つであり、感染やアレルギーなどのデメリットがある。また、
  全身麻酔は、痛みを感じる意識とともに、呼吸や反射的な動きなどを司る中枢神経
  (脳)の機能など、生きていくのに必要な機能を抑制する。
  このような侵襲としての医療行為を行うときには、患者に、その医療行為によって
  患者自身に加えられるダメージの内容や、それによって起こる最悪の事態、そして、
  なぜその医療行為が必要なのかを、患者や患者の家族(または家族相当の人)に
  説明し、理解してもらわなければならない。その際に、全国平均の治癒率や延命
  効果を伝えるだけでなく、当の病院、当の医師による治癒率や延命効果などを
  伝えなければならない。これらのインフォームド・コンセントが必要である。

次に、太田和夫著『臓器移植はなぜ必要か』(講談社、1989年)によると、

  生体腎の移植では、腎臓の摘出は、健康なドナーにとっては、なんら治療としての
  意味がない。しかし、摘出行為に、移植に役立てるという高度な文化的・倫理的
  目的があり、社会的な了解を得られているので、ドナーが成人に達しており、
  肉体的・精神的に健全であれば、問題はないとされている。

以上の著書による理解に基づき、私は次のように考えます。

医療行為というものは、もともと、ひとのからだを傷つけるものであるが、その
行為によって患者が享受する利益のほうが、患者が被る損失よりも大きいときには、
許される。
そして、移植は、臓器を移植される患者にとっては、移植によって享受する利益が、
移植によって被る、拒絶反応などの損失よりも大きいことが条件である。しかし、
臓器を提供する人にとっては、なんの利益にもならない、一方的な侵襲である。
生体間の移植では、臓器を提供する側は、少なくとも、臓器を提供する前よりも、
健康状態が悪化せず、さらに、移植を受ける患者の利益を望んでおり、そのために
協力するという、明確な意思を表示している場合に限って許されている。
ただし、それは、自由な自発的な選択でなければならない。

そして、脳死は、人が全身麻酔によって陥る深昏睡状態に似ているが、脳死と全身
麻酔との違いは、前者は不可逆的だが、後者は可逆的である、ということである。
脳死は、回復不能の最悪の状態である、という意味で、これ以上健康状態が悪化
することはない状態である。
脳死の人からの臓器の摘出は、生体への侵襲ではない、と考えられるかもしれない。
しかし、摘出される臓器は、生体である。脳死の人のからだは、脳は死んでいるが、
脳以外のからだの部分はまだ死んでいない。
移植医は、脳死の人の生命に対しては、なんら救済措置としての医療行為を
行わないが、摘出する臓器に対しては、生体としての活動を維持させるべく、
脳死の人のからだの状態を調整する。
そうであれば、移植医が脳死の人に対して行う臓器の摘出手術は、やはり、
生体への侵襲として扱うべきである。

このような移植のための臓器摘出は、臓器提供者の終末期医療を侵害する
おそれがある。
臓器摘出のための手術その他の措置は、臓器提供者の死のプロセスそのものに
介入することになる。死は、不可逆のプロセスであり、その過程への介入は、
人の死ぬ権利や、葬送の自由を保障するための行為の一環として行われる場合に
のみ、許される。そして、死ぬ権利や葬送の自由を侵害しないとみなされるのは、
臓器提供者が生前に、臓器提供の意思を、自由な自発的な選択に基づいて、
明確に表示している場合だけである。

同じ理由で、心臓停止後の臓器提供の場合においても、臓器の提供は、医療行為を
受ける当人の、生前の、自由な自発的な選択に基づいて、明確に表示されている
場合にのみ、許される。

ただし、自分が享受する医療行為に対して、自分の意思を表示できない乳幼児の
場合、移植を受ける側も、臓器を提供する側も、親または相当の保護者が、代理
で、意思を決定しなければならない。この場合、移植を受ける側の意思決定は、
当人の受益を目的としているので、大きな問題はない。しかし、臓器を提供する
側の意思決定は、当人の受益ではなく、他人への授益を目的としており、当人に
とっては、一方的な侵襲という、損失しかもたらさない。それにもかかわらず、
代理による意思決定が許されるのは、その代理の者が、当人の生命の誕生や
生育に、絶大な責任を負っており、当人の生命の終焉に対しても、同様の
絶大な責任を負うことを全面的に引き受けうる場合にのみ、例外的に許される。
 
いずれにしろ、人が、生まれながらにして、臓器を提供するべく、自己決定して
いるなどと期待することは、医療の本質と、矛盾すると思われる。
なんとなれば、臓器を提供するというのは、提供する側にとってなんの利益も
ない、一方的な侵襲としての摘出手術を受けるということであり、
すべての人が、そのような損失を自己決定しているなどと期待することは、
生命を救済することによって生命身体の自由を保障し、終末期医療によって死ぬ
権利を保障するという、医療の使命を放棄するものである。

仮に、ひとが、町野案で述べられている前提どおりに、
「連帯的存在」であり、
「たとえ死後に臓器を提供する意思を現実に表示していなくとも、我々は
  そのように行動する本性を有している存在」であったとしても、
「死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。」
などと言うことはできない。
そのような前提に基づくなら、すなわち、
「連帯的存在であることを前提にするなら」、
死後の臓器提供に限らず、ありとあらゆる献身的行動をとる本性を有している
とも言えよう。
しかし、どのような場合でも、自己決定とは、個々人が自由に自発的に、決定に
必要なあらゆる情報を得た上で、主体的に行うことを前提としている。本性を
有しているということと、自己決定するということとは、まったく別の次元の
事柄である。両者を混同することは許されない。むしろ、自己決定の尊重とは、
ひとの本性とはなにかという問題とはなんの関わりもないと考えるべきである。

以上